いつかの5月の小さな北極星旅行
その日は朝から素晴らしい天気であった。
今日は本当に本当の久方振りの、完全なる休日である。仕事の濁流の中で盲滅法につかんだ藁のような、かぼそい、しかし輝かしい休日。だから、私は本来なら昼過ぎまで眠って過ごす予定であった。少なくとも、昨夜…いや、ごくごく早い今朝、そう固く堅く決意して、買ったままキッチンカウンターの上で百貨店の袋に包まれたまま薄っすらと埃を被ってしまっていた新品のリネンのパジャマを、その美しい包装紙を素手で引き裂きタグを外すのももどかしく、それこそ救命胴衣でも装着するかのように大慌てでもって着ると、グッバイこの世、とばかりにベッドに滑り込んだのだ。
それなのに、おお、なんたる迂闊。私は、早起きしてしまった。諸葛孔明の扇から発射される怪光線のような鋭い朝陽が、私の薄い瞼を易々と貫いて、深海でスケーリーフットと戯れていた私の精神を安アパートの二階にまで引き戻してしまったのだ。
ああ、寝る前に酒を呑んでおけばよかったな。なんて、パントリーの奥に大切に大切にしまってある越乃寒梅と百年の孤独の存在を思い出したのは、洗濯物を干し終えてベランダから勿忘草の青と同じ色の空をぼんやりと眺めながらだった。何処からか、甘い花の香りがする。葡萄を薄めたような香りだ。その花の正体は残念ながら、私にはわからない。私は暫しベランダの冷たいアルミ製の手摺に頬杖をついて、何もない空に一本だけ高く高く突き抜けて立つ真っ白いエレベーターの試験塔を眺めていた。
やがて私はドライブに出掛けることにした。これはとても珍しいことだ。だいたい私は外出すること自体があまり好きではない。しかし、今日はなぜか外へ、できれば遠くへ行きたいと思ったのだ。
財布とキーケースだけをポケットに突っ込んで玄関のドアを閉める。アパートの狭い狭い駐車場から、いつもと反対向きにハンドルを切って、日常に背を向けてアクセルを踏んだ。職場に繋がる道なんて走ってやるものか。そうだ。川へ行こう。河口に近い、大きな川へ。広々とした河岸で風に吹かれてみよう。もしかしたら、見慣れない鳥や虫が飛んでいるかもしれない。知らない花や実のなる草や木が揺れているかもしれない。
車の窓を全開にして髪をなびかせながら、明るい風の吹く乾いた道を私はご機嫌で走っていた。信号はずっと青が続いている。
幾つ目かの交差点を過ぎた頃、私はふと前を走る車の車種に気をとられた。白のカローラⅡである。それは私が子供の頃、母が愛車としていた懐かしい車種であった。未だに現役で走っているカロツーがあるなんて、と妙に感心してしまう。我知らず、小沢健二の件の曲を口ずさんでいる始末だ。
「…日曜日。」
そう私の唇が奏でたのとほぼ同時に、カロツーは方向指示器を軽快に明滅させて、小洒落たパン屋(最近ではブーランジェリーとかいうのかな)の小綺麗な駐車場に入った。私もつられてウインカーを浮かれた犬みたいに打ち鳴らしながらハンドルを切ってパン屋に入ってしまった。まあ、ちょうどいい。此処で何か買っていこう。よく晴れた河辺でパンを齧るのも悪くない。
カロツーから降りてきたのはアーモンド色のウサギの親子だった。浅葱色のワンピースを着たマダムと、色違いの薄桃色の小さなマドモアゼルがフワフワと店内に入っていくのを見送ってから、私は鳩尾に荷物を置くように溜息をひとつ吐いて、車のドアを開けた。入れ違いに、やんちゃそうなカワウソが運転するアルテッツァが出て行った。これまた懐かしい車だ。若い時分、私はアルテッツァとレビンのどちらを買うべきかと随分悩んだものだった。
「やれやれ。」
私は村上春樹の小説のように呟いた。一陣の風が吹き抜ける。よく茂った街路樹の梢がシャンシャンと鈴のように鳴った。ひとつ深呼吸をしてから、芳ばしい香りのするパン屋の、よく磨かれている深い色をした木製のドアをゆっくりと開けて、こじんまりとした店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。」
パリッとした白いシャツを着て黒縁眼鏡をかけた大柄なヘラジカが、カウンターの中からいやに良い声を響かせた。私は曖昧に笑いながら、会釈のようなそうでないような動きをした。はしゃいでいる仔ウサギの後ろをぶつからないようにソロソロと横歩きして、几帳面に並べられている十数種のパンを物色する。
白身魚バーガーと、枝豆とチーズのベーグル、それから粉糖のたっぷりかかったイチゴのミルフィーユをトレイに乗せ、カウンターのヘラジカ氏に会計を頼むと、「こちらで召し上がりますか?」とコントラバスのような豊かな響きの声で尋ねてきた。先程のウサギ親子が店の奥の喫茶スペースでメロンパンなどを齧っているのが見える。
「いいえ。ドライブの途中でして…これから河辺にでも行って、外で食べようかと思っているんです。」
普段なら、初対面の店員にこんな話をすることなんて絶対ないのだが、何故か、このヘラジカ氏にはそれを聞いてもらいたくなる。
「それは素敵ですね。これ、オマケに入れておきますよ。」
ヘラジカ氏は静かに微笑んで、ラスクを一袋紙袋の中に追加した。
「よい旅を。」
耳触りの良い低弦のような余韻を背に、私はそそくさと店から出た。
特に広くもない駐車場で、私は自分の車を見つけられずに右往左往した。おかしいな。確かにここに停めたはずなのに…。私が車を停めた場所には、黒いサイノスベータが停まっている。これは私の車ではない。……しかし、どうしたことだろうか。私は、自分の車がなんだったのか、まるで思い出せないのだ。毎日乗っている相棒なのに。とっても気に入っているのに。何色だったかさえも全く出てこない。
私は紙袋を抱えなおした。紙袋が風にぶつかってガサガサと鳴った。ザラザラとしたクラフト紙の感触、新しい紙の匂いに包まれているパンの香り。この明瞭な感覚とは対照的に、もう私の車の存在はすりガラス越しの抽象画よりも不確かだ。
「どうしたの?」
サイノスの窓が開いて、人の良さそうなカエルが私の顔を覗き込むように尋ねてきた。
「……自分の車が見つからなくて…。」
自分でもビックリするくらいに情けない、哀れっぽい声が出た。なんだか、声に気持ちが引き摺られて泣いてしまいそうな気分だ。
「ああ。最近そういうの多いんだ。この辺りで車とかなくしちゃうって…。ほんと物騒な世の中だよね。」
多分この、白っぽい生地に水色のチェック柄の入ったシャツを着たカエル君は、たいそう優しい心の持ち主なのだろう、困惑している私に心底同情しているようだった。しかし、彼の同情心がいかに深くとも私の車が出てくるわけでもなさそうだ。
「ねえ君、今からどこか行く予定だったの?」
カエル君は迷子の子どもにでも話しかけるような口調で私に尋ねた。
「ううん、予定はないんだ。ドライブの途中なんだ。河辺でこのパンを食べようと思ってたんだけど…。」
「そうか、ここのパンはすごく美味しいから、こんな晴れた日に外で食べたらきっと最高だよね。…実は僕も今ドライブの途中なんだけど、良かったら一緒に行かないかい?」
私は、ちょっとだけ迷った。やはり知らない人のクルマには乗ってはいけないんじゃないかな、とか、でも彼はカエルだし、とか。けれど結局、自分の車もないし、歩いて帰るにはちょっと遠すぎるし、彼はとても善良そうに見えたので、私はカエル君のドライブのお供をすることにした。
天井の低いサイノスの助手席に体を捻じ込んでシートベルトを締めると、カエル君が私にアルミ製のトランク型CD収納ケースを手渡してきた。
「何かBGMを選んでよ。今日はあんまりたくさん持ってきてないけど…。」
ケースの中に10枚のCDアルバムと5本のカセットテープとFM通信機が入っていた。私はカーディアンズとサニーディサービスのアルバムのどちらにしようか少し悩んだ後、結局ピチカートファイブをかけてもらうことにした。
車が走り出す。初夏の明るい街並みと野宮真貴の歌声が同じ速度で流れていく。程なくして我々は、大きな河に到達した。
赤く塗られた鉄筋の立派な橋を渡って、対岸の河岸に車を停めた。
車を降りると、すうっと涼しい風が顔を撫でていった。少し離れたところから、凧を揚げている子どもらの歓声が聞こえてくる。カエル君が小さな折り畳み椅子を2脚出してくれて、私たちは河に正対するように並んで座ってパンを食べた。
カエル君はベーコンエピと胡桃あんぱんを紙袋から取り出して食べた。あのヘラジカ氏の店では、いつも必ずこの二つを買うのだという。私はそのベーコンエピの一切れと、枝豆とチーズのベーグル一切れを交換して貰った。
「うん。このベーグルも美味しいね。これからはこれも買うことにしようかな。」
カエル君はニコニコ笑ってそう言った。
パンを食べてしまうと、カエル君は煙草を吸った。セブンスターだ。私も1本貰って火を点けた。口腔から咽喉を経由して胸にまで懐かしい苦味が広がっていく。そういえばおよそ10年間の禁煙を破ってしまったな、なんて気がついてはみたけど、別にどうでもいいことだ。
セブンスターの包装紙の金銀の星々をぼんやりと見ていると、風にたなびく七夕飾りのイメージが煙りのように浮かんできた。ああ、そうか。昔、父親がいつもセブンスターを吸っていたから、七夕の季節になると頼んでこの星柄の包装紙を取っておいて貰ったんだったっけ。これで小さな折り鶴を沢山作って繋げると、なかなか見栄えのする笹飾りが出来たのだ。なんてことを煙に混ぜ込んでポツポツ話すと、カエル君の家ではタバコ屋をやっていたお婆ちゃんが、色々な煙草の包装紙で傘や鶴なんかをよく作っていたなんて話が返ってきた。
それぞれ2本のセブンスターを灰にしてしまった頃、カエル君が少し考えるように首を傾げてこう提案した。
「これから山に星を見に行きたいと思うんだけど、一緒にどうかな。」
私は二つ返事で応じた。もう今日中に帰ることなんて完全に諦めていたからだ。
サイノスが再び走り出す。相変わらず道は空いていた。
なんとなく眺めていた車窓の景色に、輝く白い新幹線なんかが飛び出してきたものだから、私はつい嬉しくなって、「新幹線だ、新幹線。ほら、いま新幹線!」だなんて情報量ほぼゼロの報告を大きな声でしてしまった。カエル君は、あははと快活に笑った。声の高さはセカンドテナーといったところか。
その直後、新幹線とは逆側の窓に、不可解なものが見えた。黒曜石のように黒く輝いている、途轍もなく巨大な建造物だ。
「ソーラーアークだよ。」
ぽかんと口を開けてそれを見つめている私の耳に、カエル君の声が控えめに潜り込んだ。
「ソーラーアーク…」
殆ど何の思考もなく反射のように復唱したが、何のことやらさっぱりわからなかった。アークと言われても、インディジョーンズしか浮かばない。頭の中で洞窟の奥の聖櫃がクルクル廻っている。それに菅原文太の「朝日ソーラーじゃけん」という渋い声が被さるのだ。
そんな私の心象風景など歯牙にもかけぬ様子で、両翼を大きく広げた怪鳥のような建物は静かに遠ざかっていった。これまでのあらゆる景色と同じように。
「実はさ。」
不意に、カエル君が澄んだ声を発した。それから、独楽が完全に静止したような沈黙の後、レコードに針を落とすような調子で、ゆっくりと言葉が続いた。
「昨日ね、なんていうか…ショックなことが、あったんだ。……って言っても、全然たいしたことじゃないんだけど…、多分、他の人からしたら、なんにも起こってないって思うんじゃないかってくらい、全然たいしたことじゃなかったんだけどね…。」
躊躇の色が濃い。私に否定されることを、ひどく恐れているのかもしれない。
「でも、カエル君にとっては大きな出来事だったんだろう?」
カエル君は黙って首肯した。そして再び語りだす。
「ええとね、あの、僕はね。なんていうのかな…、その、生きることって、すごく、辛くて苦しくて、悲しいことの連続で、でもみんな、死にたいのを我慢して、なんとかかんとか生きてるんだろうって、そういうふうに思ってたんだ。」
彼が苦しげに、やっとの思いで吐き出した言葉を、私は黙って反芻する。
いきることはつらくくるしい。
「でもさ。全然そうじゃない人もいるって、知っちゃったんだ。」
「そうなんだ。」
私は自分の声の冷たさに肩を竦めた。窓の外を温泉の看板が流れていく。
でんでんむしの殻には、かなしみがいっぱいに詰まっている。と言ったのは誰だったか。
私は堪らなく煙草が吸いたくなった。
「ゴメン、1本、吸ってもいいかな。」
私より呼吸半分くらい早く、カエル君が言った。私はもちろんと言って、序でに1本ご相伴にあずかった。細く開けた窓から煙が滑り落ちていく。まるで白い糸巻きを落としたみたいに。
車窓の色彩は、いつのまにか深いビリジアンが基調になっていた。小さいが背の高い陰樹林が、道に沿ってモールス信号のように切れ切れにあらわれる。大きめの切れ目から、ジオラマのように可憐な駅が見えた。オレンジと深緑のツートンカラーの電車が停まっているのが見える。そういえば、最近この列車を見掛けなくなったような気がする。流石にもうこんな国鉄みたいな車輌はみんな引退してしまったのだろうか。
透明度が高すぎる水の流れのような、目に見えない時間の動きに、心臓と背骨の間の辺りに微かな軋みに似た痛みを感じた。
やがて太陽が静かに傾きかけ、仄かな赤みを帯びてきた頃、一際高い山の麓に私たちは辿り着いた。白茶けた料金所にお金を払い、その代わりにパンフレットと絵葉書を受け取った。絵葉書は白い二輪草の可憐な写真だった。
ドライブウェイを登り始めるとすぐに、赤いスープラとすれ違った。アスファルトを伝って腹まで震えるようなエンジン音が遠ざかって行く、その奇妙な懐かしさに私は暫し目を閉じた。まだポツポツと白い花が残っている桜の木を何本も追い越して、風を切って私たちは走った。
山頂は意外な程、寒かった。煌々と照らす太陽と不釣り合いな冷たい風に戸惑いながら、私は展望台に登った。いつのまにか忍び寄っていた夕映えの中、紺色になった山々と、てらてらと光る鏡のような湖を、私は流れていく雲と一緒になって風に吹かれながら、茫と眺めていた。
夕陽は、こけつまろびつ、あっという間に真っ赤に燃えて沈んでしまった。呆気のないものだ。
カエル君が、トランクから毛布を出してきてくれた。ありがたく毛布に包まって残照も急速に消えていく西の空を見上げる。
深くなっていく群青色のなか、ポツンと針で刺したような一点が白く浮かび上がる。
「ほら、あれはシリウスだよ。」
そうか、あれがシリウスなのか。私はただ名前だけを知っているその星を、自分の瞳孔でもってピンホール写真でも撮るかのように、誠実に切実に見つめた。
気がつくと、空はすっかり黒色に変わっていた。シリウス以外にも星が、それこそ塩でも撒いたかのように我々の頭上いっぱいに広がっていた。
こんなに沢山の星がハッキリと見えるというのは、生まれて初めてのことだった。なんの説明も無く、自力で北斗七星を見つけることが簡単に出来た。その柄杓の柄を延長したところにある、明るいオレンジ色のアルクトゥルスと青白い清楚なスピカを結んで「春の大曲線」というのだと、寡聞にして私は初めて知った。
展望台から少し離れた所で、おそらく天文愛好家なのであろうペンギンの集団が、(まるで星を撃ち落とす為の砲台かと錯覚するほど)立派な望遠鏡をたくさん構えて談笑していた。そこにカエル君はニコニコと近付いていったかと思うと、忽ちに溶け込み、数分後には私も一緒になって北斗七星の二重星だの、蟹座の星団だのをその巨大なレンズ越しに見せてもらっていた。
それから我々はまたペンギン達から離れ、二人で星空の匂いをかぐように、冷たい展望台のてっぺんから顔を突き出していた。手摺りを握る指が悴んで痛む。
カエル君が北極星を指差して言った。
「僕の乗ってる、サイノスってね、「北極星」の「cynosure」から命名されたんだって。だから、とっても気に入っているんだ。」
「そうなんだ。なんだか素敵だね。」
カエル君は何故か、ちょっと照れたように笑った。そして、ポケットからまたセブンスターを取り出した。包装紙の星々が、昼間よりも輝いているように思えた。並んで煙草に火を点けると、我々は即席の二重星のようだった。
宮沢賢治の星めぐりの歌が喉元まで出掛かったけれど、上手く思い出し切れなかった。その代わりに出てきた「樹皮を覆う苔は闇夜に浮かぶ北極星」とはエマソンの詩だったろうか。ふと頭を掠めたフレーズの出典が見つからない。私はアメリカ文学に全く明るくないのだ。
鼻から吸い込む冷たい夜の空気が、喉を駆け下りていく。肺が透明な夜空と繋がる感覚が、なんとなく嬉しい。私は両手を大きく広げて胸を開き、深呼吸をする。
このまま、私というものも限りなく澄んでいって、この星空に溶け込んでしまいたいなと思う。星の光はささやかで優しい。ゆったりと廻転する天球の渦に、やわらかく引き込まれてしまいそうだ。
鋭い風が、ザッと髪を搔き上げるように駆け抜けていった。私は、冴え渡る北極星の領域に足を踏み入れてしまった。
満天の星空のなか、私たちは逆さまに立っていた。頭上に湖岸の街の灯りが瞬いている。
私は、生まれてきてから一番やさしい笑顔を浮かべていると思う。
一番きれいな心で、地上に手を振った。
北極星が、果てしなく白く青くかがやいていた。