受験とキャラメル
3月某日、時刻は11時57分。
僕は家のパソコンの前に座っていた。画面には検索ポータルが映し出され、いつでもキーボードを打てば検索できる状態だ。マウスの横には僕の顔写真が貼ってある受験票がある。
12時になったら発表だ。1秒よりも速いスピードで心臓が鳴り響くことが伝わり、時の流れの遅さをこんなに感じたことはこの日以外にない。去年のこの日も同じような感覚に陥っていた。
いよいよ運命の時が来た。
パソコンの画面右端に「0:00」と表示されていることを確認すると、そのままマウスに打ち込む。「東都大学 合格発表」と。
検索結果の1番上に東都大学のホームページが表示されていた。クリックすると白い画面になり何も表示されない。時の流れの遅さを感じていた。去年も合格発表の時間はサーバーが重くなった。もどかしい。結果を知ることは怖いことだがもどかしい。
そんなことを考えていたらようやくページが表示された。「工学部 合格者受験番号」と書かれた文字が目に留まった。恐る恐る、そうはいっても潔く文字をクリックした。再び白い画面になる。時の流れの遅さを感じていた。すぐそこに知りたいものがあるのに中々知ることが出来ない。怖いけど知りたい。
ゆっくりと画面の上からページが表示され始めた。「工学部」という文字の下にはアルファベット1文字と数列が上から並んでいる。数列の下一桁は1から始まり、しばらく連番かと思ったら途中途中番号が1つ飛び、2つ飛びとなっていた。抜け落ちた数字の穴を見てゾッとしつつも、着々と自分の番号へとマウスをスクロールさせた。
自分の受験番号の近くまで画面を下ろして一気に見た。
番号はなかった。
僕の受験番号の下2桁の台は1つも表示されていなかった。僕より受験番号の数字が10個若い番号の下には、僕よりも13個大きい番号が続いていた。
こうして僕の1年が終わったのだ。滑り止めに合格しているとはいえ、自宅で浪人し、家族ともまともに口をきかずに送ってきた1年。ただひたすら去年と同じ苦痛を味わないことだけを願って机に向かった1年。思考がある程度まわるようになった途端に目頭が熱くなってきた。画面に映っていた無機質な番号がぼやけて見えた。
画面の電源を切って、デスクトップの電源ボタンを押す。本来ならば良くないとされるシャットダウン方法だが、そんなことを考えている余裕がなかった。椅子から立ち上がって自室のドア横の棚から家の鍵を取り出し部屋を出て、そのまま玄関に向かった。
受験当日に比べたら寒くはないが、少し肌寒いことで頭が冷えた。無心になって家を出てきたため上着を着てくることも、スマホや財布を持ってくるのも忘れていた。遊歩道から眺める川はいつも変わらないと思った。サッカー部の県大会のPK戦で僕がミスして負けてしまった時もここに来ていた。あの時と同じだ。そしてあの時と同じように、川の音を聞いていると何かを取り戻せるような気がしていた。
平日の昼下がり。赤ちゃんをベビーカーに乗せた女性、仲の良さそうな老人夫婦が歩いているくらいで僕と同じ世代は居ないようだった。
これからどうすればいいのか。親には1年だけ浪人を許されていたがどうしても納得がいかない。この1年間受けてきた模試ではA判定だった。本番だって手ごたえはあったし、予備校の解答速報と答え合わせしてみても英作文や国語のようなもの以外はおおよそ一致し満足いく結果であったはず。そう思うと踏ん切りが尚更つかない。
親に懇願しても許してもらえないだろう。
「どうすればいいんだ。」
自分の声に驚いた。いつもとは違うかすれた声。そうか、僕は泣いていたのか。
「川はいつもと変わらないか。」
声の方向を向くと灰色のパーカーとジーンズを履いた男が立っていた。黒いキャップを深くかぶっているため顔がしっかり見えず、そのうえ突然見知らぬ人に馴れ馴れしく声をかけてくる人だ。普段の僕だったら警戒するだろうが、僕はなぜだか警戒しなかった。いつから立っていたのだろう。さっきまでは居なかったはずだ。
「僕はね、悩みがある時この川に来ていたんだ。今日はそういうわけでもないんだけど。何か辛いことでもあったのかい?な~に、辛いことなら無理に言わなくても良いよ。言わなくてもわかる。なんつって。って、そこ笑うところだよ?」
男は1人で陽気にしゃべっていて忘れていたが、僕は周りから見たらあからさまに泣いていたみたいだ。少し恥ずかしい。それにしても僕だったら泣いている女性ならまだしも、泣いている男性、しかも子供じゃない他人に話しかけるだろうか。理解が出来なかった。
「君だったら知らない人に話しかけたりしない?たとえその人が泣いていたとしても?まあそうだろうね。僕だって普段だったらしないよ。じゃあ今回は特別かって言うと、う~んってところ。とにかくね、僕は怪しい人物じゃないよ。ただ君のような人にちょうど上げたいものを持っていただけだ。キャラメルだよ。しかしね、ただのキャラメルじゃない。不思議なキャラメルだ。食べた翌日に自分が1番戻りたいと思った日に戻ることが出来る。信じてもらえないだろうけど本当さ。もちろん戻りたい日が明確でなければ効果はないよ。」
薄気味悪いことに僕の心の中は見透かされているようだった。男は再びペラペラと喋りながら、パーカーのポケットに突っ込んだ手を目の前に広げた。ただのキャラメルが男の手のひらにおいてある。お菓子をくれるだけでなく発言内容からして僕を子ども扱いしているのかとも思った。
「はやく取りなよ。別に毒なんか入ってないよ。」
僕が固まっていると、男は僕の腕をつかみ無理やり僕の手にキャラメルを握らせた。普段だったら抵抗するが、なぜか手を振りほどくことが出来なかった。僕は手を広げてキャラメルを見つめた。なぜ受け取ってしまったのか。
「別にキャラメル代を高額な利子付きで請求なんてしないから安心して。」
いつの間に男は僕の隣からかなり離れていた。
家に帰ると母が帰ってきていた。どうやら僕は午後のほとんどを遊歩道で過ごしていたらしい。
「あんた、どうだったの結果は。」
僕が台所を通りかかると母から声を掛けられる。別に敢えて無視しようとしていたわけではないが、本能的に母を避けて自室に戻ろうとしていた。母が僕の帰宅を玄関のドアの音で気づいていたことは、母のいる台所を通りかかろうとしたジャストタイミングで話しかけてきたことが裏付けている。
「え、いや。」
「どうせ遅かれ早かれ言うんだから何を戸惑ってるの!って聞いた私も少し意地悪だったかもね。あんたが家にいない時点で結果はわかっていた。」
「あ、うん。」
「何年あんたの母親やってきたと思ってるの。あんたが嬉しい時、悲しい時、怒っている時にどんな態度を取るかくらいわかるに決まってるじゃない。とりあえずお疲れ様。」
母からの「お疲れ様」という言葉に目頭が熱くなった。
「ごめんなさい。」
再び声がかすれ始めていた。遊歩道の時より確実に自分が泣いていることがわかる。
「なんで謝るのよ。あんたはよくやった。結果は残念だったけど、あんたが一生懸命勉強していることは同じ屋根の下に住んでる私とお父さんがよく知ってる。誰もあんたを責めたりしないよ。」
母の言葉にもう耐えれなくなり、自室に駆け込んだ。
自室のベッドに寝っ転がっていたら寝てしまっていたらしい。お腹がすいた。こんな悲しい時にもお腹がすいてしまう。なんだか複雑な気持ちになった。真っ暗な部屋には月明かりと街灯の光が差し込んでいた。スマホの電源をつけると21時をまわっていた。
自室を出ると廊下は真っ暗だった。台所もリビングも明かりがついていなかった。母は部屋で仕事でもしているのだろうか。台所に入ると、テーブルの上にはご飯が父と僕の分が置かれていて、どの皿にも丁寧にラップがしてあった。父もまだ帰ってこないということは、どこかで飲んでいるのだろうか。少しはいつものような思考が回るようになったことに気づいた。とりあえず母に夕飯を食べるとだけ伝えに行こう。そう思い、台所から暗い廊下に出て母の部屋に向かった。母の部屋のドアから光が少し漏れていた。
「母さん、夕飯もらうよ。」
部屋のドアを半分ほど開けると、机の上で仕事をしている母の背中がビクンと震えたかのように見えた。
「わかった、自分でレンジで温めて食べて。」
「了解。」
そして僕は母の部屋のドアを閉めてから、改めて泣きたくなった。間違いなく母は泣いていた。振り返ってこちらを見もせずに受け答えする母も珍しかったが、何より僕以上に母の声は泣いている声だと感じた。なんてことをしてしまったんだ。これは僕一人の受験じゃなかったんだ。周りの支えがあってからこそ成立していたものであって、普段は僕にあまり関心がなさそうに装っている母だが、母だって僕の合格を何より願ってくれていたんだ。それなのに僕は。受験に落ちて悲しいというよりも罪悪感というものが大きくなってきた。
そのとき、ふと思い出す。昼間の出来事を。怪しい男にキャラメルをもらったことを。ズボンのポケットを触るとキャラメルの感触があった。
「これを食べると翌日はあら不思議、自分が1番戻りたいと思った日に戻ることが出来る。」
男の言葉が脳内再生される。藁にも縋る思いだった僕はキャラメルの小包を開け、口の中に放り込んだ。
その日は昼寝をしてしまったこともあって寝付けなかった。男の言葉を信じていたわけではないが、もし入試の日に戻れるとしたらと願って、問題用紙と予備校の解答速報を見ていた。男に茶化されていただけならばこの作業は無駄になる。それでも、どうせ受験が終わって手持無沙汰なことも事実だ。
スマホのアラームが鳴り響いた。眠い目を開けると枕元にスマホが置いてある。おかしい。普段はスマホは枕元に置いて寝ないし、そもそもアラームなんてかけるのは・・・。そこで気づいた。僕がアラームを浪人してからかけたときは、模試の日、受験本番の日だけだったことに。まさかと思って天井から壁を見回す。
僕の部屋じゃない。これは僕が入試の日に泊まったホテルだ。
信じられなかった。スマホを改めてつけると、日にちが2月25日になっている。
「マジかよ。」
独り言が静かな部屋の中に漏れた。そしてのんびりしていたら遅刻することに気づき、慌てて身支度を進める。
入試会場も席も、斜め前に座っていたのが休み時間にスマホゲームをひたすらやっている受験生だったことも、入試問題もすべて一緒だった。テンションマックスだった。おそらく他の受験生からしたらかなり変な奴に思われていただろう。
その日の夜。ふと気になった。僕の受験する大学は2日にわたって試験が行われる。もし今日だけしかやり直せなかったらどうなるのか。考えたところで、キャラメルを渡してきた男には連絡が取れない。とりあえず寝るしかなかった。
スマホのアラームが鳴り響いた。普段だったら無理やり目を覚ますのだが、一瞬で目が覚めた。スマホの画面を確認したら2月26日。これはキタ!
2日目も一度経験したものと全く変わらなかった。お昼休みに可愛い女子高生がお茶をこぼしてしまった些細な事故から2日目の問題内容まで。
2日目の夜。ふと気になった。これはこのまま元の時間には戻れず、発表の日まで同じ時間を過ごさなければいけないのかもしれない。
そして僕の予想は的中した。翌日目を覚ましたら2月27日だった。しかし以前とは違う。今回は間違いなく受かった自信がある。こんなハイな状態で発表の日まで過ごしてもいいのだろうか。
3月某日。
時刻は正午を過ぎ、12時半を回ろうとしてからようやく僕はパソコンの前に座った。こんなにも気分が良いものはない。どうせ受かっている。だからわざわざ12時直後のサーバーが混むときにアクセスする必要はない。そして以前と同じ手順で合格者の受験番号が書いてあるページまでたどり着いた。特に緊張することなく一気に自分の番号のところまでマウスをスクロールした。
おかしい。番号がない。おかしい。
動揺した。自分の前後の番号は連番になっているのに、自分の番号だけポッカリ抜けていた。意味が分からなかった。どうなっている。こんなはずはない。その時、自室のドアが開いた。
「あんた、どうだった?」
あの泣いていた母とは思えない声が聞こえる。
おかしい。母はこの日は夕方に仕事から帰ってくるはずだ。
「え、、、、仕事は?」
結果を報告する前にその言葉しか出なかった。
「何言ってるの?今日は休みで朝からいたじゃない。それよりどうだったのよ?」
「え、、、、いや、、、、、ダメ。ダメだったみたい。」
「え、うそっ!!あんたが去年と違ってウキウキしてたもんだからてっきり受かったと思ったのにねえ。残念だったわねえ。お疲れ。」
母は驚いていたが、それ以上何も言わず部屋の入り口から立ち去った。多分、母はこの後泣くのだろう。そう思うと急に胸が苦しくなってきた。自分が落ちたことよりも再び母が泣くと思うと耐えられなかった。
僕は走った。仮に前の発表日と同じならば、今日もあの男に会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
遊歩道についたときには息が上がっていた。口の中が3月の少し冷たい空気によって冷やされている。人影一つ見えなかった。と同時に、色々な意味で終わったと感じた。悪い夢でも見ていたのかもしれない。
「ここに来れば僕に会えるんじゃないか。そう思ったのかい?」
気づいたら以前と同じ服装の男が少し離れたところに立っていた。
「おい、どうなってるんだ。過去をやり直したのに変わらなかったぞ。それになんでお前には僕の記憶がある?」
「落ち着きなよ。一気に問いただされても困るのは僕だ。」
男は少しずつ僕に近づいてくる。
「簡単な話だよ。君は戻った日から今日までの間、何一つ同じ日々を過ごしたかい?そんなことないだろう?君が過去へ戻った時点で歪んでしまったんだ。世界が。そして分岐した。誰も知らない世界へ。それだけのことだ。」
「分岐した?でも僕は予備校の解答速報に即して答案を書いたし、前回より点数は良いはずだ。分岐しようが受かるに違いない!」
僕には男の言っていることは理解しがたかったが、キャラメルの力は本当だったし、何よりあそこまで完璧に仕上げた答案で不合格になったことが納得いかなかった。
「そうだねえ。どう説明すれば納得するかな。まずは客観的に一言。解答速報が模範解答という保証はない。それは受験生ならば知っていることだろう?それに君が解答速報を暗記して答案を仕上げれば不正を疑われると思い、微妙に自分なりに答案を仕上げたことは予想がつく。これで納得してもらえればいいんだけど、僕個人としての理由はやっぱり分岐ということ。君が以前過ごしていた世界とは違う。つまり君を含めてすべての生命が違う行動を取りうるということだよ。だから直前に他の受験生が見返した参考書から同じものが出てしまった、試験中に他の受験生が解法を思い出したり閃いてしまった。そういう可能性によって君は過去を変えられなかったんじゃないのかな?」
客観的な理由だけでなく、分岐の理由についても何だか納得してしまった。そうだ。入試の日以降同じではなかった。テンションが高かったからカラオケにも行ったし、何より母が今日は仕事が休みだった。
「じゃあ、どうすれば僕は過去をやり直せる?」
食って掛かるように質問して、顔はキャップを深くかぶっているから見えないが笑ったように見えた。
「そうだね。入試問題が作成される前まで戻って正々堂々勝負すればいい。君は時間に余裕もあるから勉強もできるし、何よりまた浪人せずにチャレンジできる。過去をやり直すとはそういうことだよ。」
男はそう言うと、僕に近づき手を差し出した。手の上には依然と同じキャラメルが置かれていた。
目を覚ますといつもと変わらない光景だった。僕の部屋だ。一瞬過去に戻れなかったと思ったが、日付を見れば合格発表の日だった。もちろん去年の。男の言う通りに入試問題が作成される前まで戻ろうとしたが、いつまで戻ればいいかわからなかったし、戻る日が明確じゃないという言葉を思い出したため面倒だけどこの日まで戻ってきた。また1年の浪人生活が始まるし、その前に去年の不合格をもう一度味わなければいけないというのも嫌だった。なんなら去年の合格発表の翌日に戻っておけばよかったとも思った。
1年後の3月某日。
入試問題は想定通り変わっていたし、再び1年勉強してきたため手ごたえはあった。
少し緊張するが12時になった瞬間、合格者の受験番号が書いてあるページを開こうとした。やはり12時直後はサーバーが重かった。そして同様に自分の受験番号まで一気にスクロールした。
番号はなかった。
なんだか涙も出てこなかった。ダメならばもう一度やり直さなければ。そう思い家を飛び出した。あの男に再び会うために。
「まるで僕に会えると確信していた様子だね。」
遊歩道で男は同じ格好で立っている。彼だけが僕の分岐した世界で唯一揺るがないと言ってもいいのではないか。そんなことも思っていた。
「キャラメルを、キャラメルをください。」
「・・・ふふ。仕方ないなあ。」
まるで僕に要求されることが目に見えていたかのように男は再び僕にキャラメルを差し出した。
何度1年をやり直しただろうか。何度あの受験の空気を感じただろうか。何度パソコンの画面に無機質な数列を表示させただろうか。何度あの男と遊歩道で会っただろうか。そう思い始めていた。何度やり直したか思い出せない。そんな時だった。
「一体君は何浪だい?」
普段なら特に何も言わずにキャラメルを渡す男だったが、珍しく質問をしてきた。
「わからない。」
「まだやるのかい?」
男は質問しながら僕にキャラメルを差し出した。僕はそれを受け取りつつも僕は返す言葉がなかった。正直疲れた。肉体そのものは10代だが、気持ち的にはもう10代なんて遥か昔のようだった。
「君は東都大学を受験していたくらいだ。少しは小難しい話をしよう。世界とは線だ。線の軌跡同士はお互いに並行世界と呼び合える。そして世界は分岐して無限に生まれることが出来るし、こうしている今も無限に生まれ続けている。世界が分岐しても、世界を包容する空間も無限だ。並行世界は交差することもないけど、それでも世界を包容する空間は無限だ。。電場ベクトルみたいだと思ってくれて構わない。それはさておき、世界という線は進む領域が決まっている。いくら空間が無限にあるとはいえ、ランダムに方向を変えてしまっていては並行世界にいつかぶつかってしまう可能性が考えられるからね。そこがポイントだ。君のいる世界はたどり着けない領域がある。たとえ空間が無限でも、いいや無限だからこそ辿り着けず分岐し続けてもいいのかもしれない。極限を取るとある定数に収束する2次元のグラフを想像してほしい。それと同じだ。どんなに時間というパラメータが大きくなっても、君の世界はある領域に辿り着けない。そして、そこが君が東都大学に受かる世界が通る領域だとしたら・・・。」
男の相変わらずのよく喋る話に何とかついていく。
「ちょっと待ってくれ、つまりどんなに分岐しても、僕の世界は僕が合格している未来の領域に辿り着けない。そう言いたいのか。」
「そうだね。分岐することを考えると腑に落ちないだろう。僕も分岐と大きな摂動さえ世界に起こせればたどり着けるかもしれないのではないか?という仮説も一応持っている。まだ証明できていないけどね。現時点では分岐しても君の生きる世界はやり直す前の世界と同じような軌道を辿ると思ってくれ。」
絶望とはこういうものか。どうしようもならないのか。ただそれだけだった。
「君はとりあえず大学に進学したまえ。滑り止めには何度やり直しても合格しているわけだ。そして大学に行き数学と物理を学べ。それしかない。」
男はその言葉を最後に背を向け歩き出した。追いかけてまだ聞きたいことがあったが、既にそんな気力はなかった。
ここまでパソコンに打ち込んで伸びをしたあと、パソコンの電源を落とす。自室の部屋のマウスの横にはキャラメルがたくさん入った瓶と、1つだけ瓶の外にキャラメルが置いてある。
パソコンの画面の横には力学、電磁気学、量子力学といった物理の学術書、解析学、位相幾何学といった数学の学術書が立てかけられている。
やれやれ、あの男の言うとおりに物理と数学を勉強し、大学4年の時にようやくキャラメルを作るまでになれたが、どうやら少し失敗だったらしい。あの男がくれたキャラメルのように過去の日に戻れるわけではなく、僕は今の僕のまま過去に行かねばならない。そして翌日には元に戻ってきている。歴史は何も変わっていない。日付もキャラメルを食べた日の翌日に戻って来るだけ。過去に戻った日も、今の僕の1人暮らしの家に僕が住んでいないはずだが、朝起きると僕の今の家である。今の僕の家が変わらないのは不思議だが、なぜ今の日付に戻ってくるのはなんとなく予想がついている。
1つ瓶からキャラメルを取って口の中に放り込むと、部屋の電気を消し眠りにつく。
朝目が覚める。デジタル時計の日付を確認する。3月某日。
パソコンの画面の横には学術書もあるし、マウスの横にはキャラメルの入った瓶、1つだけ外に置いてあるキャラメルもある。僕は外に置いてある方のキャラメルを手に取り灰色のパーカーに突っ込み、クローゼットから黒いキャップを取り出し深くかぶる。どうせ明日になれば瓶の外のキャラメルも同じ位置にあるだろう。置いてある物1つ変わらない無意味な過去改変。そう思うと本当は世界なんて分岐しているのだろうかとさえ思う。ふと笑ってしまった。
「そろそろあいつも限界か。僕の役目も今日で終わりかな。」
カレンダーだけは未来の時間。日にちにバツ印がひたすらつけられている。
「こう見ると今の僕の方が大変だ。」
朝起きると案の定何も変わっていなかった。そう思ってふと机を見ると1つだけ変化があることに気づいた。瓶の外に1つ置いてあったはずのキャラメルがなくなっていた。