お買い物狂想曲⑦
多分、誰かの息を飲む音が重なったのだろう。
俺の耳には、波が引いて行くような音に聞こえた。
吹き抜けの多目的ホールの周りは、一瞬の静寂に包まれている。
「はぁっ!はあっ、ジャジャ、動くなっ……頼むから、動くなよ……」
俺の左手にジャジャがいる。
詳しく言えば、ジャジャの着ている翔平のシャツを、俺が掴んでいる。
「さ、サイズがデカイから、抜けそうなんだっ……ジャジャ、苦しいだろうが、もう少し我慢してくれっ」
まだ、着替えさせなくて良かった。
布が大きい分、ギリギリで手が届いた。
右手に激痛が走る。
跳ぶと同時に引っ張ってきた垂れ幕。
もともと風に煽られないよう複数箇所が固定されてるから、こっちも限界ギリギリまで伸ばされていて、気を緩めたら弾かれる。
俺の利き手は右だが、昨日怪我をしたばかりだ。
本当なら左手を使うべきだが、そんな事を考えてる余裕が無かった。
何が冷静だよ。
今の俺は右手で垂れ幕を掴み、左手でジャジャのシャツを掴み、それ以外は完全に空中にいる。
垂れ幕のサイズがデカイから、足を絡ませられないし。体が上下に伸びきった姿勢だから、そもそも器用に動けない。
下手に動けば、シャツが脱げてジャジャがずれ落ちる。
「ふぇ、ふえええええ」
「ジャジャっ……大丈夫だ……パパが掴んでるっ!っから!」
右手が更に悲鳴を上げ始めた。
手のひらの皮の殆どが剥げているから中の肉が剥き出しで、その上からガーゼと包帯を当てている。
中指と人差し指の爪も剥がれているから、握るだけで悶絶しそうだ。
だけど、今の高さからジャジャを落とす訳にはいかない。
「風待君! 準備出来たから、ゆっくり赤ちゃんを離して!」
突然の声に、驚いた。
どこかで聞いた事のある声だ。
キョロキョロと周りを見るが、首の動かせる範囲にはいなかった。
「下!下ろしても大丈夫だから!」
それは真下に居た。
見覚えのある顔だ。
分厚い眼鏡に、肩に一本に纏めた大きな三つ編み。
「た、助かる……っ!いいか……ゆっくり……離すぞ」
大丈夫。アイツなら信用できる。
それに今の位置は一階と二階の間。
階ごとの天井が高いからそれなりの落差はあるが、人が待ち構えてくれるならなんとかなりそうだ。
「うん!」
「いち、にの」
「さん!」
タイミングを見計らって、俺は三隈の元にジャジャを落とした。
「ふやっ!」
ジャジャから驚きの声が上がるが、体はちゃんと三隈が受け止めてくれた。倒れこむ三隈の後ろには、沢山の布団と大きなクッションとこれまた大きなカラーボール。
さらに大勢の人間と獣人。そして佐伯の姿がある。
小学生から一緒の学校で、中学からは数えるほどしか会話の無い二人だ。
俺は三隈が起き上がるのを待つ。
カラーボールが散らばらないよう、周りの人達が支えてくれている。
上体を起こした三隈は、相変わらず気持ちの良い笑顔でジャジャを見て笑った。
「風待君も!早く!」
「ああ! 離れててくれ!」
待ち構えていてくれた人達が、少し引いた。
俺はゆっくりと右手を離す。
重ねてある布団の上に落ちた。
少しだけ足に響いたが、こんなのなんて事は無い。
赤ん坊にとっては高すぎただけだ。
「ジャジャは!? 怪我とか無いか!?」
「ふえええええっ!ああああっ!」
振り向くと、三隈の腕の中でジャジャが泣いている。
一生懸命腕を伸ばして俺を呼ぶから、殆ど無意識で抱き上げた。
「よーしよし、怖かったなー。ゴメン、俺が悪いな? 怪我は無いみたいだ。良かったなー」
「びっくりしたよ。風待君が怒鳴ってると思ったら、赤ちゃんが飛んでるんだもん」
「夕乃がそこのキッズコートに走って、カラーボールとクッションを運ぶよう呼び掛けたんだよ。いや、本当に速くてアタシびっくり」
「い、いちかちゃん。あの、私は咄嗟に動いただけだから」
ああ、この大量のカラーボールとクッションはキッズコートのヤツか。
猫族の佐伯が、ショートカットの髪を揺らして笑っている。
多目的ホールの一角に、子供を遊ばせる為のスペースがある。
怪我しないように柔らかいカラーパネルが敷かれたそこには、乗って遊ぶ為の布製クッションとカラーボールが複数常備してあったらしい。
「すまん助かった。ありがとうな三隈、佐伯」
「う、ううん!私は周りの人にお願いしただけだから!間に合って本当に良かった!」
「本当に、どこにいても騒ぎを起こしてるわね。風待は」
顔を真っ赤にして手と首を振る三隈と、楽しそうに笑う佐伯。
その勢いだと、眼鏡吹き飛ばないか?
ジャジャが泣き止むのを少しだけ待って、俺は周囲の人にも頭を下げた。
よく見たら制服姿の店員までいる。
「いやー!あの女の子が大声で助けてって言うから、びっくりしたよ!ウチの子と同じぐらいの女の子が、まさか飛んでるとは」
「良かったわ助かって! 駄目よ! このぐらいの歳の子って、思いがけない事いっぱいするんだから! ちゃんと見てないと本当駄目!」
「本当に良かったです!あ、この布団は展示品なんで、気にしないでください」
キッズコートにいたのは子供連れの人達ばかりで、みんな親身になって心配してくれたようだ。
一通り礼をすると、カラーボールとクッションまで回収してくれた。
本当、最近会う人達が優しくて優しくて。
泣きそうになるなぁ。
「ジャジャ! 薫平さん!」
「兄ちゃん!」
少し遅れてマットレスを持って来た警備員に謝罪をしている時、二階の手すりの上から、アオイと翔平の声がした。
「大丈夫ですか!? ジャジャは、怪我してませんか!?」
「おう! 平気だ!」
「今降りるからね!待ってて!」
手すりから心配そうな顔を出して、すぐに引っ込んだ。
「んで風待。その子、親戚の子?」
佐伯がまだ少しぐずっているジャジャの頬を軽く突いた。
「あ、ああ。そんなモンだ」
「可愛いね。本当に良かった」
三隈もジャジャの頭を撫でる。
「あー」
俺にもたれかかっていたジャジャが顔を上げて、俺の顔をジッと見る。
「にへぇ」
ようやく安心したジャジャは、涙を浮かべたまま柔らかい顔で笑った。
階上からは、沢山のスマホが向けられている。





