次男さんの穏やかな朝
僕の朝は早い。
5時に目覚ましが鳴り、眠たい目を擦りながら2分ぐらいかけてベッドから出る。
夏だともう少し目覚めが良いのに、まだ寒いからお布団が離してくれない。
新しい家の僕の部屋は、一階の突き当たりだ。
前のマンションでは兄ちゃんと一緒だったから、まだ一人部屋に慣れてない。時々誰もいないのに、兄ちゃんを呼ぼうと振り向く事があって、なんだかとっても恥ずかしい。
一階の部屋を選んだのは僕だ。最初は二階の部屋で、父さんの部屋がここになるはずだった。
こっちの方が狭いから父さんが二階を譲ってくれたんだと思うけど、僕としてはキッチンとトイレに近いこの部屋が良かったから、父さんにお願いして移って貰った。
部屋から出たら洗面台に向かい、顔を洗う。
鏡にはボサボサ頭の僕がいて、まだ眠そうな顔をしていた。
歯を磨きながら、少し視線を上に向ける。
洗面台に備えつけられた小物入れ。
僕の手の届かない場所に、色違いの髭剃りが二つ。
なんかゴテゴテした、丁字の髭剃り。オレンジが兄ちゃんで、黒が父さん。なんでわざわざ二つ買ったのか聞いてみたら、それぞれ合う合わないがあって、合わないとヒリヒリして痛いそうだ。
めんどくさそう。僕もじきに使う事になるのだろうか。
父さんも兄ちゃんも、背が高い。いつも見上げてるから、首が痛くなる程だ。
前のマンションも、この家も、僕の手の届かない場所がいっぱいある。
キッチン周りは僕が整理してるから、大抵の物は手の届くところに配置してるけど、例えば替えのシャンプーとか、電球とかお風呂洗剤とかは、登り台を使わないと取れない場所にある。
物によっては登り台を使っても取れない物もあるんだ。
早く大きくなりたい。
口をゆすいで、顔を拭く。
眠気はまだ取れないけど、時間もないし急ごう。
ダイニングに到着。
電気をつけて、部屋を一通り眺める。
広くて嬉しい。
新しいキッチン。早く慣れなきゃ。
対面式って凄い。なんか、お金持ちになった気分。
炊飯器を開ける。去年のクリスマスに買って貰った、遠赤外線がなんか凄いってヤツ。僕のお気に入り。
父さんは、炊飯器は家族で使う物だから、もう一個欲しい物を買ってくれるって言ったけど、あんまり欲しいものが無い。
なので欲しいものができたら、買って貰う事にした。
父さんは苦笑いしながら、『お前達兄弟は本当に欲がないな』って。
そうかな?炊飯器、本当に欲しかったんだけどな。
ちなみに兄ちゃんはカッコつけて、『もうガキじゃないんだから、クリスマスプレゼントなんか要らねえ』ってさ。
そしたら父さんが、『ガキじゃねぇヤツがクリスマスを家族で過ごすなよ』って指を指して爆笑した。
クリスマスは、家族で過ごしてもいいのに。てゆうか、本場だと家族で過ごす日なんだけどな。
よし、ご飯はちゃんと炊けてる。
食欲をそそる匂いが、キッチンに充満する。この匂い、僕は大好きだ。
シンクの下からフライパンを取り出して、コンロに置いた。
父さんが僕用に作ってくれた、横に長い踏み台をコンロの下に置く。
前の家と違って、微妙に高いんだよね。このキッチン。
フライパンを火にかけて、ダイニングのカーテンを開けに行く。
まだ外は薄暗い。
壁にかけてあるエアコンの電源ボタンを押した。
ダイニングの入り口にかけてある、僕のエプロンを取りながらキッチンに戻ってきて、換気扇を回す。
黄色いエプロンは去年新しくした、コレも僕のお気に入り。
冷蔵庫を開けてお皿を取りだした。
昨日の夜に仕込んでいたアスパラのベーコン巻き。ラップを剥がしてキッチンに置く。
ボトルに入れてあるサラダ油を手に取り、フライパンに回し入れる。
これから父さんのお弁当を作らなきゃ。
前の家から結構遠い所に引っ越したのに、父さんの職場は変わってない。
今日から片道一時間の、大変な出勤生活が始まる。
まあ、引っ越しを言い出したのは父さんだから、頑張って貰うしかない。
せめてお昼ぐらいは、美味しい物を食べて欲しいな。
小三の時から、父さんの弁当を作るのは僕の役目だ。
それまではコンビニでパンとかを食べてたらしい。幾ら何でも味気ない。
お母さんが死んだ時、僕はまだ幼稚園の年長さん。
父さんも兄ちゃんも不器用だけど、幼い僕から見ても二人はとても頑張って家の事をしてくれた。
僕は小さくて何もできなかったけど、できる事を少しづつ手伝って、ようやく今の僕がいる。
初めは部屋の掃除、と言っても出されたものを仕舞う程度から。
次に洗濯。洗濯機に入れて回すぐらい。
兄ちゃんが作る夕ご飯の用意の手伝い。ピーラーぐらいしか触らせて貰えなかった。
悔しかったなぁ。
毎日、一生懸命だった。お母さんが居なくなってとても寂しかったけど、考えてる暇が無いぐらいに毎日が慌ただしかった。
僕も父さんも兄ちゃんも、考えてみたらお母さんにベッタリ甘えてたから、失って初めてわかる大事なモノって、きっといっぱいあるんだ。
「おはよう」
父さんが起きてきた。
ワイシャツの襟を開けっ放しなのは正直みっともなくて嫌いだけど、仕事をしてる父さんはかっこいい。
「おはよう。ご飯すぐできるよ」
お味噌汁もサラダも、昨日の内に作ってある。お魚は焼くだけだし。
「ありがとうな」
父さんが目を細めて頭を撫でてくる。
「いいから、早く準備しなよ」
髭も剃らなきゃいけないし、髪だって整えなきゃ。朝の時間はとても少ないんだから。
「いやあ、結局薫平は部屋で眠ったみたいだな」
そういえば、兄ちゃんの部屋は龍のお姉ちゃんと赤ちゃん達が使うから、ダイニングのソファで寝るって言ってたのに。
「なんで?」
「夜泣きだよ」
父さんは眼鏡を直しながら笑った。
「赤ん坊の夜泣きは凄いからなぁ。龍の子でも変わらないみたいだ」
全然気づかなかった。
「アオイノウンちゃん一人じゃ、双子の夜泣きはあやせないだろうさ。一人でも大変だからな」
それで、兄ちゃんがなんで部屋にいるの?
「意外な事に、ウチの長男は良いパパになれそうだって話だ」
よくわからない。
「まあ、まだ学校も休みだし。寝かせてやってくれ。同じ階の俺の部屋にも聞こえるぐらいだったし、一時間ごとに泣いてたみたいだからな」
「それじゃ、父さんも寝れなかったんじゃない?」
部屋、やっぱり変えた方が良いのかも。
「いやぁ、父さんはお前らで慣れてるし、部屋一つ離れてるから全然マシだったよ。薫平はとても疲れてるだろうなぁ」
父さんが言うなら大丈夫なのかな。
なんだかんだ言っても、ウチで子育て経験があるのは父さんだけだし。
なんかモヤモヤするけど、今はお弁当と朝ごはんだ。父さんが家を出るまで、あと一時間もないんだし。
「翔。カード置いとくから、薫平に渡しといてくれ」
「カード?」
なんでだろう。
父さんがテーブルの上に何かを置いた。
ん?あれ、クレジットカード?
「赤ん坊に必要な物は沢山あるんだ。おしめは昨日の帰りに買ってあるけど、消耗品だし、あればあるほど良い。あと洋服もな。ベビー用品は高いんだコレが」
へー。知らなかった。
「こう言うのをケチったら後々に困るからな。薫平には良い物なら高くても構わないって伝えてくれ。アイツはカードの使い方を知ってるはずだから」
「わかった。言っとく」
父さんは頷いて、洗面室に向かっていった。
アスパラのベーコン巻きは、我ながら上手に焼きあがった。塩加減もいいぐらいかな。
少しだけ冷ましてから、お弁当箱に詰めよう。
お味噌汁の鍋を火にかけて、冷蔵庫からお魚を取り出す。
フライパンを洗って、布巾で拭いたら、また火をつける。
父さんが戻る頃には、できてるかな。
冷蔵庫のチルド室から、ラップしたサラダボウルを取り出す。
ウチのドレッシングはシソ味が人気。父さんも兄ちゃんも大好きだ。
「それにしても」
兄ちゃんが、パパねぇ?
全然イメージができない。
「大丈夫なのかな?」
二階に向かって顔を上げる。
といっても、キッチンの天井しか見えないんだけど。
静かな朝、静かな二階。
そこにいつもと違う人達と、いつもと違う兄ちゃんがいるなんて、僕には思えなかった。





