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 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 途切れた記憶がもう一度始まったのは、びしょ濡れで病室の前に立ちすくんでいた時だ。

 何十分、何時間走り回ったのかは覚えていない。

 裸足のままだったから足の裏がボロボロに痛んでいて、水ぶくれや切り傷なんかで酷く痛かった。

 なぜか扉を開けるのが怖くて、一歩が踏み出せない。

 病院の室内灯はどこもかしこも薄暗くて、そのせいで気後れしていたのもある。

 何で自分がここに立っているか、それを思い出すのに勇気が必要だった。


『薫平……母さん、待ってるぞ』


 俺と同じくびしょ濡れの親父が、背中を押した。

 さっき叩かれた頬がじんわり痛んだ。

 行きたかったデパートの立体駐車場で雨風を凌いでいたら、鬼の形相の親父が息を切らせていきなり現れ、有無を言わさずに殴られて、それから強く強く、そして優しく抱かれてここに連れて来られたのだ。

 外はもう真っ暗で、まだ雨は止んでいなかった。


『と、父ちゃん。何で病院なの? 翔平、やっぱり病気だったの?』

『……良いから、入れ。大丈夫だから。母ちゃん、怒ってないから』


 俺がわがままを言ったせいで、翔平の体調がより悪くなったのかと思っていた。

 今思えば因果関係が全く無いんだけど、幼い俺にはそうとしか思えなかったのだ。


『う、うん』


 やんわりともう一度背中を押されて、ようやく扉の取っ手を掴んだ。

 引き戸だった扉は、俺の想像より全然スムーズに開き、中の明かりが眩しいから少し目を細めた。


『……薫平?』


 母さんの声がした。

 確かに母さんの声なんだけど、こもっていて聞き取りずらかった。

 母さんはベッドに横たわっていた。

 横になりながら首だけ動かして、掛け布団から腕を出して、俺に伸ばしている。


『薫平、良かった……どこに行ってたの? お父さんが見つけてくれたんだよね? 怪我して無い? ああ、こんなに濡れて、晃平くん、バスタオルがそっちにあるの。ああ、足が怪我だらけじゃない! お医者さんに診てもらわないと。まだ受け付け終わってないよね?』

『良いから、お前は寝てろ』


 起き上がろうと体をもぞもぞと動かして、すぐに親父に止められる。

 声がこもっていたのは、酸素マスクをしているからだ。

 当時の俺にはそれが何と呼ばれているか分からなかったけれど、テレビなんかで良く見る病気の人が身に付ける物だとすぐに理解した。


『か、母さん! なんで!? どこが悪いの!? 父ちゃん!』


 すぐにベッドに駆け寄り、母さんの手を掴んだ。


『っ!? か、母さん……?』


 いつもあったかくて、優しい母さんの手。

 撫でられるとくすぐったくて、嬉しい母さんの手。

 そんな俺の大好きな手が、まるで氷のように冷たかった。


『ああ、もう。こんなに冷えて……お家に帰ったらすぐにお風呂入りーーーーーー』

『つ、冷たいのは母さんの手だろ!』


 自分の体の事より、俺の体を心配する人だった。

 全然力が入っていない手で俺の手をグニグニと握り、まるで普段と同じように小言を言うその姿に、俺は不安を覚えずにいられなかった。

 たまらずに大声でその言葉を遮ると、母さんは俺の手を離し、酸素マスクを外して人差し指を口元に当てた。


『しー。翔平が眠ってるの。ここは病院だから、少し静かにしなさいね?』

『翔平?』


 その言葉で初めて、母さんの隣で翔平が眠っている事に気づいた。

 額に冷却シートを貼られ、息を荒くして母さんの肩口を掴んで瞳を閉じている。


『……薫平。デパートごめんね?』

『い、良いよ。俺、俺もわがまま言ってごめんなさい。また今度、母さんと翔平が元気になったら行こう』


 この時になって、俺はようやく素直になれた。

 悪いのは聞き分けのなかった馬鹿な俺。

 翔平の体調が良くないのに、母さんを困らせて、俺の事を嫌いだなんて言った俺が全部悪い。


 親父に頭を撫でられる。

 いつもグシャグシャと遠慮なく掻き分けてくるその手が、その時に限って酷く頼りなかった。

 不思議に思って親父の顔を見ると、困ったように俺を見て、口をへの字に曲げていた。


『薫平……。母さんと約束しよっか』


 もう一度母さんを見る。

 心なしか青白い顔の母さんは、優しく微笑んで俺の頬を撫でた。


『約束?』

『そう。約束』


 翔平を起こさないように優しくその手を解いて、ゆっくりと体を起こし、母さんを俺の頬を両手で包む。

 冷たかったその手が次第に温度を取り戻していくのを感じて、俺は安心感に任せてその手に頬ずりをした。


『一番大事なのは、翔平を守ってあげる事。薫平はお兄ちゃんだから、弟が困ってたり危ない時は必ず助けてあげてね?』

『そんなの、言われなくても』


 可愛くて、大事で、大切な弟だから。

 守るなんて、当たり前だ。


『うん。偉い。さすがお兄ちゃん。次は、お父さんをあんまり困らせない事』

『父ちゃんが俺を馬鹿にしてくるんだよ?』


 いやらしい笑みを浮かべながら茶化してくる親父に困らされていたのは、いつだって俺の方だったから。


『あはは。そう言う時はちゃんと反撃してやって? 母さんが言ってるのは、お父さんはいつも薫平と翔平のために頑張って働いてるから、あんまりワガママを言わないで欲しいなって事。ああ、でも時々なら良いよ? もう少し大きくなるまでは、ワガママは薫平達の特権だから』

『とっけん、って何だよ』


 さっきよりも力強く頬を挟まれて、まるで普段の母さんに戻ったようで、そこが病室だって事を忘れそうになってしまう。


『子供だけの特別な権利って事。あと、困ってる人がいても助けてあげるんだよ? 見て見ぬふりはかっこ悪い男の子のする事だから。でも殴ったり、蹴ったりはダメ。周りの大人に協力してもらったりして、怪我だけはしないようにしてね?』

『う、うん』


 この時点で、俺は母さんの態度がおかしい事に気付いた。

 言われている事はいつもと同じなのに、まるでその約束の中に母さんが含まれていないように思える。

 一度引っ込んだ不安がもう一度顔を出してきて、頬を包む母さんの手の上から自分の手を添えて強く握った。


『ご飯はちゃんと毎日食べる事。お料理は少し教えたけれど、あんまり難しい事はしないでね? 包丁と火を使う時は絶対にふざけたら駄目だからね? ああ、お風呂もちゃんと毎日入る事。今までみたいに言われないと入らないんじゃ困るんだから。寝る前にちゃんと歯を磨いて、宿題もキチンと終わらせる。ゲームもあんまりやりすぎたら駄目だよ? お菓子もいっぱい食べないで、あああとそれと』

『薫』


 なんだか焦ったように喋る母さんを、親父が止めた。

 相変わらず俺の頭に手を置きながら、濡れた体から滴る水滴を拭わずに、親父は悲しそうな目で母さんを見ている。


『……うん』


 親父と目を合わせた母さんは一度深く頷くと、もう一度俺を見た。

 瞳と瞳を付き合わせ、まっすぐ、俺の奥の奥まで見逃さないようにと。


『……風待薫平は風を待つ。覚えてる?』

『え、う、うん。ちゃんと覚えてるよ』


 小さい頃からずっと聞かされてきた、勇気の出るおまじない。

 何百回、何千回聞いたかもわからないその呪文は、ちゃんと全部覚えていた。


『風待薫平は、風を待つ。風のかおりを嗅ぎ取って、何時いつだって、何処どこだって、飛びたい時に、ビュンと飛ぶ。……ツライ事があったら、この呪文を思い出しなさい。泣きたい時に泣いたって良い。逃げたい時は逃げても良い。でも必ず一度歯を食いしばって、負けてたまるかって全力で頑張るの。薫平は……負けない子だもんね? 母さんの自慢の子だもの』


 俺の大好きな、綺麗で優しい声で母さんは俺に語りかける。


『う、うん。負けないよ?』


 何に、とか。

 誰に、とか。

 そんな細かい疑問を浮かべる事なく、俺は力強く頷いた。


『うん。良い子。本当に良い子。……私の宝物たち』


 母さんは、泣いていた。

 目の周りを真っ赤に染めて、震える声をひたすら抑え込み、でも堪えきれずに涙を浮かべていた。


 心臓が射抜かれたかのような衝撃に、言葉が詰まった。

 母さんの泣いた顔なんて初めて見たからだ。


『か、母さん? さっきの、嘘だよ? 俺、さっき言った事、ほ、本当は思ってないよ? ごめん……なさい……うあ。ご、ごめっ、えぐっ、ごめんなさい。ひっ、お家、出て行って、ごめ、うぇ、うえええええぇ』


 母さんも親父も、俺の事嫌ってるわけない。

 なのに俺があんな事言ったから、母さんを泣かせてしまった。

 そう思ってしまったら、何がなんだかわからなくなった。

 目頭の奥から止めどなく押し寄せる熱い何かが、大粒の涙となって一気に流れ出てくる。


『違う。違うの薫平。謝らないといけないのは母さんの方。薫平は悪くないの。ごめんね? 大好きよ薫平。本当に大好き。大好きだからーーーーーー』

『うぇえええええぇ、ひっぐ、えぐ、うわぁああああっ!』


 慌てて俺を抱きしめる母さんの胸の中で、俺はどう償えば良いかわからずに泣き続ける。


『薫平が大好きだから、母さんは薫平に本当の事を言わないといけないの。だから、あのね? 薫平、薫平、薫平。ああ、私の薫平』


 まるで熱に浮かされているみたいに、母さんは俺の名前を呼び続ける。

 抱きしめられた体が痛むほどの強さで、母さんは必死に俺にしがみついた。

 雨で濡れた俺のシャツを気にもとめず、強く強く抱きしめ続ける。


『……薫。辛いなら、俺から言うぞ』


 ベッドに腰掛け、寝ている翔平の髪を撫でながら親父はぼそりと呟いた。


『だめ、ダメなの。ずっと前から決めていたの。薫平には、ちゃんと言うって。翔平はまだ小さいからわからないかもしれないから、せめて薫平だけには、私が言うって。最後まで、この子には嘘を吐きたくないの』


 不意に体を突き放され、肩を掴まれる。

 その勢いに驚いた俺は息を飲み、目を見開いて母さんを見た。


 深い悲しみと、大きな優しさと、強い決意が込められたその綺麗な瞳を、俺は一生忘れる事はないだろう。


『薫平、母さんね……?』


 薄いピンクの唇をゆっくりと開き、そして母さんは俺に告げた。


『ーーーーーーもうすぐ、死んじゃうの』


 俺が小学四年。翔平が幼稚園生の春の出来事だ。


 その日を最後に、母さんが家に戻る事は無かった。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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