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俺とお前の為のアッパーカット⑩

 

 鼻腔の奥に感じる違和感に、俺の体が勝手に判断したとしか思えない。

 ほとんど無意識で俺は体を右に捻り、急降下して横を通過する『風の塊』を紙一重で避けた。


「……は?」


 一番驚いているのは、何を隠そう俺自身だったりする。

 一瞬だが驚愕の瞳で俺を横目で見るアトルと目があった。

 まさか避けられるとは思っていなかったのだろう。

 大きく見開かれたその目は、確実であった勝利を逃したせいだろうか。

 来るはずだったであろう追突の衝撃が無かったせいで、その軌道が本来の位置から大きくズレてしまっている。

 まるでスローモーションのように流れる俺とアトルだけの時間。お互いのアテが外れたことで、謎の共感覚を得てしまっていた。


「なっ! ぐぅっ!」


 時間が正常な流れを取り戻す。

 猛スピードでリングマットに数回バウンドしたアトルがロープに跳ね返り、もんどり打って喘いだ。

 俺はそれを呆けて見送っていた。


「……え?」


 今、何が起きた?

 何で俺はあの速度の攻撃を避けられたんだ?

 絶対に無理だと、半ばヤケクソでカウンターを狙っていたのに。


「くっ! 薫平! ボサッとすんな!」

「あ? あ、ああっ!」


 リングサイドに立つ親父の怒声に我に返る。

 フラつく体に気力を込め、倒れこむアトル目掛けて全力で駆ける。


「あ、アトル様っ!」

「殿下ぁ!?」


 カヨーネとウタイの声がリング上で木霊した。

 心配と驚きを含んだその声は、切羽詰まった物だ。


「う、ぐううっ!」


 マットに全身を(したた)かに打ち付けた筈のアトルが、うめき声を発しながらヨレヨレと立ち上がった。

 素直に凄いと思った。

 誰がどう見ても、あの落下の仕方は一種の事故だ。

 気力だけでどうこうできるダメージでは無い。

 でもアトルは立ち上がった。

 何でだ。何がお前をそこまで奮い立たせる。

 自虐的で、卑屈で、どうしようもなく後ろ向きなお前が、なぜそのダメージで立つ事が出来るんだ。


「あ、ああああああああぁぁぁあああ!」


 肺に残った空気を全て闘志に変えて、俺は雄叫びと共に拳を握り、構えた。

 気合で負ける。

 アトルの姿を見て、そんな気がしたからだ。


「ぐ、ッぐぅっ! ま、負けてたまるかあああああ!」


 負けじとアトルが吠えた。

 空気すら振動したと錯覚するぐらいのその声には、マイナスな思考は一切感じられない。

 口からは血反吐を垂れ流し、その白い翼に無残で真っ赤な染みを残しながらも、その闘志は一切折れていなかった。

 拳を構え、俺を睨み、重そうな足を精一杯動かして対峙する。


「あ、あああああぁぁぁあああっ!!」


 先に仕掛けたのは俺だった。

 振りかぶった拳が、アトルの顔面に突き刺さる。


「ぶばっ! ぐ、ぐおおおおおおおぉおおっ!」


 モロに受けたアトルの上半身が勢いよく吹き飛ぶ。だがそれを堪え、すぐに反撃の拳が俺の右頬へと直撃した。


「おごっ! が、がぁあああああああっ!」


 チカチカと点滅する白い視界。

 霞む意識をかろうじて掴み、腰と上半身にあらん限りの力を込めて、もう一度右の拳を握る。


「ああああああああああああっ!」

「うぉあああああっ!」


 ぶつかる裂帛の気迫。

 俺がその顔面を殴れば、アトルは負けじと俺の腹を貫く。

 痛みに持っていかれそうになる意識両者ともにすがりつき、倒れてはいけないという意思が肉体を凌駕していく。


「ぐがっ!」

「ふっんぐぅ!」

「ばっ! あぐっ!」

「だっ! あがぁ!」


 顔、腹、腕。

 顔面、胴体、顔面。

 俺とアトルの拳の応酬はまるでゲームのターン制バトルのように交互に繰り出されていく。

 もはやまともにフットワークを刻む事すら出来ない。

 意地と意地のみが対立し、執念と執念で殴り合う。

 パンパンに膨れ上がったその顔は見るも無残で、何でアトルが倒れないのか不思議で堪らない。

 だがおそらく向こうもそう思っているに違いない。だって俺の顔も、もう感覚がないんだから。

 お前が倒れないのなら、俺が倒れるわけにはいかない。と、リングの上で拳を振るう二匹の獣がぶつかり合う。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「ぐっ……」

「がっ……」


 どれだけ殴りあっただろうか。

 もう時間の感覚も定かではない。

 両耳に入ってくるのは、か細く吐き出す俺とアトルの耐える声と、リングの外から聞こえてくるもう誰のかも定かでは無い悲鳴じみた声だけだった。

 徐々に力を失っていく俺達の拳は、勢いを完全に失くしている。

 所々意識を失っているから、まるでページを一気に飛ばしたパラパラ漫画のように場面が変わる。

 殴られてトんで、目覚めて殴って、また殴られてトんで。

 ノイズ混じりの思考が唯一導き出せるのは、ただ目の前の男を一発でも多く殴る事だけだ。


「ぐぁっ……」


 俺の右拳が、アトルの左頬を捉えた。その威力はもはや見る影も無い。


「ぬぅっ……がはっ…ぐっ」


 バランスを崩したアトルがロープにしがみつき、震える右足を押さえながら左膝をマットに付けた。


「はぁっ! はぁっ!」


 口内が血で溢れているのに、喉の渇きが止まらない。

 息がしづらくて無駄に大きく呼吸をしているから、胸に鈍い痛みが走った。

 それでも上げた拳を下げないように懸命に力を込めて、アトルを見下ろす。


「ぐほっ……があっ……はっ、はっ、お、オレだって、納得しているんだ……」


 支えきれなくなったのか、頭を下げたままのアトルが小声で呟いた。

 諦められないのに、立つことすらままならない事が悔しいのか、ロープを握る右手がプルプルと震えている。

 俺はその言葉に返事を返さず、ただ無言でアトルを見つめる。

 いや、正確には返事を返す力が残っていないってのが正しい。


「父上が、俺の王位継承権を下げたのはっ、弟のセトルの国への貢献を讃える為だ……。近代化を推し進める我がダイランが、優れた働きをしたものをないがしろにして良い訳がないからな……。父上がそれを望まなくても、周りの者が許さないだろう……。何一つ成果を上げられないオレに、それを非難する権利なんて無い……。当然だ……オレは『海龍の僕』になるために、自分の事しか見ていなかった。考えてなかったから。だから父上を憎んだ事は無い。納得しているんだ……」


 顔が見えないから、どんな表情をしているのか分からない。

 ただその声はしっかりしていて、本心から言ってる事だけはわかった。


 ちらりとアトルの頭上を見ると、いつの間にか移動してきたカヨーネが青白い顔をして心配そうに見下ろしていた。

 目尻に溜めた涙と、口元に残る噛み締めた跡が痛々しい。

 顔の前で握っているその細い褐色の手は、差し伸べたいのに出す事を躊躇してしまった心の表れだろう。

 その背中を支えるように、ウタイが手を添えている。


オレの留学先にこの町を指定したのも、この過敏すぎる肌の事をおもんばかってくれたからと知っている……。父上の事を憎んだ事も、嫌った事も一切ない……立派な王だ。尊敬する父だ。もちろん他の兄上だって、俺は心から慕っている……」

「ア、アトル様ぁ……。もう、良いのです。もういいですからぁ」


 聞いてる内に耐えきれなくなったのだろう。

 ボロボロと涙を零しながら、ロープ越しのアトルの背中に縋り付くようにカヨーネが崩れ落ちた。


「か、カヨさん。しっかりして」


 ウタイの声に、いつもの覇気が無い。

 か細い声でカヨーネに語りかけるその姿がとても頼りなかった。


「だ、だからオレには、カヨーネが居れば良かったんだ……小さな頃から俺を支えてくれるカヨーネが居てくれるからこそ、オレは諦めずにやってこれた」

「ア、アトル様ぁ……アトル様ぁ」


 涙でクシャクシャに顔を歪めたカヨーネが、ロープの隙間からアトルの背中に触れた。

 まるで割れ物に触れるかのようにゆっくりと。大切そうに。


オレにとってアイツの存在は、大きすぎる……」


 知ってる。そんなのとっくに知っているんだ。

 だって教室に居る時も、居ない時も、お前はカヨーネ以外の目を見ようとしてなかったから。

 ぶっきらぼうに、興味なさそうに振舞って居ても、いつだってお前の目線はカヨーネを捉えて離さなかった。


「側にいて欲しいに決まっている……ああ、愛しているさ……愛しているとも!感謝しても感謝し足りないほどに、オレはカヨーネに支えられて生きてきたのだからっ!」

「……素直に言えるじゃねぇか。この馬鹿が」


 最初からお前がそういう態度なら、話がここまで拗れる事なんてなかったんだよ。


「でもっ……! でもなぁっ!」


 頼りない両足に全ての力を込めてアトルは立ち上がる。

 ああ、そうだよな。

 そこに何らかの理由がない限り、ここまで強い意思を持って戦う事はできないだろう。

 俺も再び、構えていた拳を握る。

 決着は、近い。


「だからっ! オレじゃダメなんだっ! オレの存在がっ! アイツの未来の邪魔をするっ! あの歳で中位の治癒魔法が使える事がどれだけ凄いかを知っているか!? あの歳でアイツが身につけた技能、技量、才覚が! どれだけの幸福をアイツにもたらすのか、知っているか!?」



 その声は、まるで自分自身を納得させるように絞り出されている。

 ああそうか。お前も不器用だもんな。

 きっとまだ、お前の中でも消化しきれてない何かがあって、そのせいで自分の事すら上手く制御できてないのか。

 そんなとこまで、俺に似てなくてもいいじゃないか。


「東京の兄上がカヨを遠ざけているのは、フランシオンの王家がアイツに婚姻を迫っているからだ!」

「……え?」


 未だ泣き続けるカヨーネの目が大きく見開かれた。


「ア、アトル様?」


 ちょっと待って、なんか新しい情報が出てきたんだけど。

 カヨーネの様子を見る限りだと、アイツも知らなかったって事か?

 フランシオンって確か、言球(スフィア)の輸出で有名な魔族の国だよな?


「この国に来る前、インテイラの長老供に説得されたのだ! 兄上の持つ外交ルートを通じて、カヨに良縁が来ているとな! カヨの為、ひいてはダイランの為に! アイツとの婚約を解消して欲しいと! 兄上が長老どもを一喝してその時は話が流れたが! 今でもしつこいぐらいに打診されていると定期的に兄上から報告が来ているっ!」


 あれー?

 なんかカヨーネの話と少し違くない?

 お爺ちゃんが嘘ついて婚約を解消させようとしてたって言ってなかった?


「フランシオンは魔族の国の中でも一番の大国! その王族に嫁ぐという事は、カヨの未来は一生約束されたようなもんだ! オレみたいな名ばかりの王族の妻なんかでは無く! 地位と名誉と由緒ある、大国の王族に名を連ねる事になる! 比べる事すら馬鹿らしくなるだろうが!」

「だって、え? だって父様と母様はそんな事一言も……」


 困惑するカヨーネがオロオロと狼狽えている。


 確かに。

 フランシオンと言えば、俺みたいな世間知らずでも名前を知ってるぐらいの国だ。

 その国の王族って事は、その名前に遜色ない地位があるのだろう。


「兄上が正式に断った話だからな! インテイラ家も話を広めたくないと、長老会と一部の者にしか伝えなかったのだ! 当人のカヨーネにもな!」


 あ、もうわかっちゃった。

 全部繋がっちゃった。

 コイツ、拗らせたな?

 拗らせすぎて、捻れてしまったんだな?

 カヨーネと一緒じゃねぇか。

 相手を思いすぎて、自分を置き去りにしたんだ。

 カヨーネは自分の口の悪さを、そうする事でアトルが元気になるからと止められなかったように。

 コイツは自分の立場とフランシオンの王族を比べて、カヨーネの未来を取った。

 うわぁ。お似合いカップル。

 自己犠牲半端ねぇ!


「ば、ばばばっ! 馬鹿じゃねーのお前!! バーカバーカ!」

「なっ! 貴様ぁ!」


 ダメだ! もうコイツ本当にダメ! 

 俺と一緒すぎてほんとダメ!


「良いか!?  経験者だから語ってやるよ! 耳をかっぽじってありがたく聴きやがれ!」


 そう、それは春先の出来事。

 ジャジャとナナが生まれて、アオイと一緒に住みだしたあの頃。


 ユールが襲来したあの時。俺は、俺達は全く同じ失敗をしているんだ。


「お前ら二人の事なんだからっ! 話し合えよっ!」


 アオイだけに考えさせるな。

 俺だけで考えるな。


 馬鹿な俺と、世間を知らないアオイ。 

 そんな二人が別々に答えを探そうとしても、見つかる筈なんて無かったんだ。


「話し合って! 全部素直に思いを告げて! そっから悩むんだろうが! そこからがスタートラインだろうが! なぁ! アオイ!」


 勢いよくリングの外のアオイを見る。


「は、ハイ! 困難は! 二人で乗り越えるモノです!」


 首が取れそうなぐらいコクコクと勢い良く頷くアオイは、どこと無く嬉しそうだ。


「な、何を偉そうに!」

「んじゃあ! お前はカヨーネの気持ち、聞いたのかよ!」


 そう、そこがまず間違ってるんだ。


「カヨーネ! お前はコイツと顔も知らないフランシオンのヤツ! どっち取んの!?」

「そんなの! アトル様に決まってるじゃないですか! 馬鹿にしないでください!」


 いや、何で俺怒られたんだろう。


「カヨ! だがーーーーーー」

わたくしは! アトル様に添い遂げると幼い頃から決めております!」


 王子の怒声に被せ気味で、カヨーネは座ったままアトルの目をまっすぐに見つめた。


「愛しております! お慕いしております! わたくしが治癒魔法を身につけたのも全てアトル様のお肌の為です! 他の方の事など知った事ではありません!」


 どストレートの告白でした。

 何だかいつのまにか空気がピンクです!

 さっきまでのシリアスが行方不明です!


「アトル様が何を思い! 何をしようとも! 私はお側を離れたりしません! 絶対に!」

「お、おまっーーーーーー」


 はい負けー。

 もうアトルの完全敗北です。

 これ以上ない見事な負けっぷりです! 惚れ惚れするぐらいに!


「さーて! アトル! 幕引きしようぜ! この最後まで下らなかった、愛すべき茶番のよぉ!」


 何だか、ちょっと力が戻ってきたぞ。

 諸々のややこしい謎が解決してスッキリしたからだなきっと!

 だけど最後に、やっぱり言わせて欲しい事があるんだ。


「ま、待て! ちょっと待ってくれ!」

「良いか? 今回の事はお前とカヨーネが変に空回りして起こった、とっても無駄でお茶目な事件だ。だからこの一発で全てをチャラにしてやろう」


 アタフタとみっともなく慌てるアトルに向かって、一歩を踏み出す。


「ただまぁ、俺やアオイや俺の娘達を巻き込んだのは、やっぱり許せないんだわ」


 力強く一歩を踏み出し、不敵な笑みを演出しながら右拳と左の手のひらを打ち合わせた。


「だから、言わせてもらう」


 全身の筋肉を脈動させて、右拳を大きく引く。

 一連の流れで体の力が抜けてしまったアトルは、ヨロヨロと後退していく。


「俺達はな、俺達の普通の生活の為に、ジャジャとナナの幸せのために、一生懸命頑張るって決めたんだよ。その思いは、その覚悟は、生半可なもんじゃない!」


 限界まで引かれた拳が、まるで引き絞った弓のようにギチギチと音を立てた。

 この拳に込められたモノは、俺とアオイと、俺達家族全員の分だ。

 そこにはルージュも、三隈も、ドギー巡査やユリーさんの思いも含まれている。

 だから、この一発は超重い。


「だから今後っ!」

「待っーーーーーー!」


 右足を大きく踏み込み、解放する。


「俺とっ! アオイのっ!」


 下から全力で天に向かって、拳を振るう。


「俺達の覚悟の邪魔をするなぁあああああ!」

「ってぶはぁっ!」


 どうだ? 効くだろ?

 俺と、アトル。

 馬鹿で不器用でどうしようも無い俺達の。

 何だかちょっと憎めない、そんな微笑ましいお馬鹿を戒めるための、そんな全力のアッパーカットだぜ?


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