俺とお前の為のアッパーカット⑨
「おら、構えろよ。もう銅鑼は鳴らねぇぞ?」
「クッ!」
憎々しげに俺を睨んだアトルは、慌てて両手のグローブを脱ぐ。
待ってやるよそれぐらい。正々堂々行こうぜ?
拳に直に巻いているバンテージはそのままに、俺は普段の喧嘩と同じ様に構える。
右半身を前にして、動きやすさを重視したそのスタイルは、アトルには劣るが俺の経験から身についた構えだ。
さあ、暴れるぞぉ。
「き、貴様っ」
ようやく脱げたグローブをリングの外に放り投げ、アトルは俺を睨んだまま拳を顔面の前で固めた。
ほら、構えからしてさっきまでと違う。
これがお前の本気の構えなんだろ?
俺はアトルに勝たなければならない理由を用意してやった。
俺に負ければ、コイツに逃げ道は残されてない。
この決闘の本来の目的はカヨーネとの婚約の解消だ。
周囲がそれを許さないからと、俺との決闘でみっともない敗北を喫する事で、自分の格と名誉を底辺まで下げる事で、それを成そうとした。
冗談じゃねぇ。人やその家族をダシにしてまでする事か。
分かってんだ。コイツは決してカヨーネを嫌ってなんか居ない。
むしろベタ惚れも良いところだろう。
その証拠に、アトルは日本に来ての一年間で、カヨーネを遠ざける事をしなかった。
曲がりなりにも王子なんだから、色んな理由をでっち上げてカヨーネと距離を取る事だってできたはずだ。
だから、自分から嫌われる様に振る舞った。
カヨーネが失望し、自然と離れていく様に。傍若無人に振る舞った。
卑怯者め。
そんなの、優しさでもなんでも無い。信じてくれる人達への、裏切りでしかない。
俺はそんなの、絶対に認めない。
「行くぞ?」
軽く腰を落として、俺はアトルに小声で告げた。
対するアトルも、俺に合わせて腰を落とす。
未だ困惑の渦の中に居るカヨーネと、彼女を心配そうに見つめるウタイの姿が視界に入った。
静まり返るリングの上、そしてリングの外。
無人の荒野でも無いし、ルール無用ってわけでも無いけれど、なんだか映画のワンシーンで良くある風景。
アオイも三隈も声を出して声援を送ろうとはしなかった。
見守る事を心に決めたから、きっと俺が倒れるその時まで心配を押し殺し続ける事にしたのだろう。
申し訳なさと同時に、感謝の気持ちと覚悟が湧いて来る。
大丈夫。親父も見てんだ。無様だけは晒さない。
「くっ……」
険しい顔でアトルは唸る。
目論見を看過された事で生じた動揺は、今のアトルのコンディションに大きな影響を与えているようだ。
ざまぁねぇな。
少しほくそ笑んで、気持ちを落ち着かせた。
睨みあったまま、俺達は機を窺う。
怖気付いてる訳でも、緊張で強張っている訳でも無い。
ただ一発。
最初の一発を最良の物とする為にタイミングを計っている。
俺もアトルも一撃の重みという物を知っている。
物理的な重さじゃ無い。
相手を叩きのめすと決めた最初の一発が、どれだけ『重要』なのかって事をだ。
流れを掴むという意味でも、ダメージを与えるという意味でも、一対一の戦いに於いて『最初に一発ぶちかました』っていう結果は、後々に重く響く事を知っているから。
周囲の木々の擦れる音と、遠くで鳴く鳥の声だけが木霊する。
それじゃ無い。今じゃ無い。焦るな。慌てるな。
「ア、アトルさーーーーーー」
動く。
何かに耐えきれなくなったカヨーネの声で、俺達は同時に踏み込んだ。
右足に渾身の力を込めて、最速で相手との距離を詰めるためだけの一歩。
あいつより速く、あいつより強く!
「うらぁああああああっ!」
「うぉおおおおおおおっ!」
リングの上にいるのは、二匹の野蛮な獣だった。
目をギラつかせ、全身の筋肉を膨れ上がらせ、ただこの一発を相手に見舞うだけ。
それだけを目的とした、雄叫びをあげるただ凶暴なケダモノ達が、リングの上を怒涛の勢いで駆けた。
「ぶぅっ!」
「ふぐっ!」
俺の渾身の右拳がアトルの顔面に突き刺さる。
だがアトルの右拳も俺の左頬を撃ち貫いていた。
結果は相打ち。お手本みたいなクロス。さながら漫画のようだった。
「んなぁっ、ろぉおっ!」
グラつく視界、ヨタつく体。でもそんなの御構い無しに、俺は左拳を固く握って大きく振り抜く。
「なっ!?」
互いに尋常じゃ無いダメージを負っている事を知っているアトルが、そんな俺の姿を横目で見て驚愕する。
動けないはずだ。そう思ったんだろ?
「ーーーーーーこちとらっ! 丈夫なのが自慢なんだよっ!」
そして、背負っている期待と気合いが違う!
「うらぁあああっ!」
下から掬いあげるように、体勢を崩したままのアトルの顎目掛けて拳を振り上げる。
咄嗟にガードしようとした白い翼は、懐に入っている俺の体に遮られて折りたためない。
たとえその大きな翼がどんなにぶ厚かろうと、インファイトなら条件は同じだ!
「んごぁっ!」
俺の頭の中に、乾いた快音が鳴り響く。
手応えは充分! 畳み掛ける!
「まだまだぁ!」
振り抜いた反動で捻れた腰に、ありったけの力を込める。
脇を開き、腰を落とし、爆発するんじゃ無いかと思うぐらいに、ふくらはぎ腰の筋肉がギチギチと悲鳴をあげた。
返す刀で右拳を大きく振りかぶる。
「ふぅんんんっ!」
遠心力に乗った拳が空気の層にぶち当たった。
そんな刹那、頭の中の冷静な部分で思い出した。
今の俺の拳にはガサラ達が用意してくれたバンテージがキツく巻かれていて、打ち所によっては人を充分に殴り殺せるほどの硬度がある。
だが、もう賽は投げられている。
止まれない。
俺の為に。
止まれない。
カヨーネの為に。
止まれないんだ!
目の前にいるアホ王子自身の為にも!
「なっ……めるな馬鹿がぁっ!」
「うぉっ! がはぁっ!」
口から血を流すアトル王子が、俺の腹部に膝を打ち込んだ。
その勢いに殺された右拳が虚しく空を切った。
そりゃそうか! もうボクシングじゃ無いんだったね! 足もオッケーだったわ!
「己がっ! 今更この程度で怯むとでも思ったかぁっ!」
腹部に走る鈍い痛みにくの字に体を折り曲げ、下がった頭がアトルの両手に掴まれる。
「寝てろぉっ!」
「あがぁっ!?」
頭突き。
立派な角を持つアトルの額が、俺の後頭部に直撃した。
「痛ぇっ!」
さ、刺さったぁ!
痛いどころじゃ無い。熱い!
切っ先の尖ったアトルの一本角が、頭皮に勢いよく刺さった!
チカチカと明滅する視界。
衝撃と鋭い痛みが火が着いたように一瞬で広がる。
あまりにも痛いもんだから倒れこみそうになるが、グッと堪えて左足を大きく踏み込む。
「んにゃ、ろぉ!」
そのまま右足を蹴り、アトルの腹めがけて突っ込む。
「ぐっ!」
予想外な行動に出た俺に面食らい、アトルは後ろに二歩退がった。
「あぁ痛ぇ! んだよそれ凶器だろ!」
体を勢い良く起き上がらせて、両手で後頭部をさする。
ああ、ちょっと凹んでる!
「ぬかせ! これも俺の体の一部だ人間! 悔しかったら角の一本や二本生やしてみせるんだな!」
「くぅー! 減らず口をペラペラとぉ!」
良く回る口だこと!
でも悔しい! 言い返せない!
「俺に飛ぶ事を許可した事を後悔するんだな!」
ああっ! しまった!
真っ白で大きな翼を羽ばたかせて、アトルはふわりと浮き上がる。
ちくしょう! 飛ばさせない為に距離を詰めてたのに、自分から突き放しちまった!
「は、ははっ! 別に大した事じゃ無いね! おらかかって来い!」
負け惜しみだけは言わせて貰うぞ!
俺のそんな姿と言葉にほくそ笑んで、アトルはさらに高く浮かび上がる。
「薫平! 集中しろ! 遠距離からの攻撃が無いって事は、カウンターが狙えるはずだ!」
親父の的確な指示に、焦り始めていた思考が一瞬で落ち着いた。
そうだよ。俺はカヨーネから聞いている。
アトルが魔法を使えない事を。
ならあいつは俺を倒す為に、どうしたってここまで降りてこないといけないはずだ!
「行くぞ!」
気合の言葉と共に力強く翼を一度はためかせたアトルの姿が、『一瞬ブレた』。
「は?」
その不可思議な光景に呆けた次の瞬間ーーーーーー。
「おごっ!」
腹部に尋常じゃ無い痛みが走り、景色が流れた。
猛スピードで移り変わるその光景は、俺の頭では処理しきれない速度だ。
「ふはっ! あぐぅっ!」
何かに強かに打ち付けられて、肺の中の空気が口から全部漏れた。
な、なんだ? 何が起こった?
「薫平っ!」
「薫平さんっ!」
「薫平くん!」
親父やアオイや三隈の声が、やけに近く聞こえる、
「はっ、がはっ! ヒュー、ごほっ!」
喉から迫り上がる胃液の苦味で吐き気を催す。数瞬遅れて、重い激痛が腹の周辺を苛む。
「な、なに……が?」
見失ったアトルの姿を探そうと首を振ると、顔のすぐ横に黒いバーのようなものがある。
あ、これ。
リングロープ……?
「お、おいおい」
引きつった笑いしか出てこない。
つまり俺は、ほとんどリングの中央に居たのに、一瞬でロープまで吹き飛ばされたって事か?
「ま、まじか……? 見えなかったんですけど?」
思わず口に出た言葉に、自分でも驚く。
考えられるのは、空中からの急降下攻撃。
猛スピードで落ちてくる勢いそのままに、アトルは俺の腹を攻撃したって事か?
「ど、どこだ? あ、ああ……マジかよ」
ようやく見つけたアトルは、リングのはるか上で腕を組んで仁王立ちしている。
さっきよりも高度が高い。
俺を見下ろし、つまんなさそうな顔をしている。
「こ、今度はあそこから……?」
あれ、俺、もしかして死ぬんじゃね?
さっきの高さでもこの威力なのに、さらにスピードに乗った一撃なんかどう考えてもオーバーキルだろ。
「薫平! しっかりしろ薫平!」
「あ、ああ」
親父の慌てた声が聞こえてくる。
大丈夫だ。
派手に吹き飛んだけど、意識はしっかりしている。
ちょっとどうしていいか分からないだけだ。
さっきまでは降下のタイミングに合わせてぶん殴ってやろうかと思って居たんだが、アトルの飛ぶスピードがちょっと想像の数倍ぐらい速くて、目視できる自信が無い。
俺の知覚限界。そして動体視力を置いてけぼりにしやがった。
どうしよう。どうしようか。
「お、親父。何か策、あるか?」
救いを求めて、アトルから目を離さずに親父に問う。
こんな近くにいるんだから、少しだけ。
ちょっとだけカンニングしてやろう。
「……いや、思いつかない」
「そ、そうだよなぁ」
いかんいかん。絶望的すぎて少しナイーブになりかけた。
これは俺とアトルの喧嘩だ。
子供の喧嘩に親を出すとかダサすぎる。
負けるにしても、精一杯あがいてやろう。
「……俺に言えるのは、頑張れって事ぐらいだ。すまん」
ロープを隔てた背後から、親父は気落ちした声色でぼそりと呟いた。
いやいや、謝るなって。別に親父は悪く無いんだから。
「あ、いや。俺の方こそごめん。なんとかしてみせるよ。ほら、まだ俺には母さんの呪文が残ってるから」
そうそう、最も大切で、最も心強い物を忘れてた。
母さんが教えてくれた、俺を奮い立たせる呪文。
母さんが遺してくれた大切な言葉。
あれを出さずに、俺は全力を語れない。
「……そうか」
「ん。さあて、どうしよっかあれ」
俺が起き上がるのを待ってるのか、アトルは腕組みの姿勢から動かない。
あんまり時間稼ぐのもカッコ悪いから、とりあえず立とう。
震える膝に鞭を打ちながら、ヨレヨレと立ち上がる。
まだ仕切り直して五分も経ってない。
こんなあっさり負ける訳にはいかない。
種族的なハンデがある事なんてわかりきってたじゃ無いか。
なら、足掻くだけ足掻いてみせよう。
俺の無駄にポジティブな性格のジャッジでは、生き汚く足掻くことはみっともないとは認定されないんでね。
「凄いな。母さんは」
「は?」
普段とは違う弱々しい口調で、親父が溢す。
どうしたの急に。
そんな悲壮感たっぷりな空気、似合わない上にまだ全然早いんですけど?
少しだけ振り向いて、親父の顔を見る。
自嘲気味の笑うその顔は、いつも俺を茶化す時の親父の笑みでは無い。
「……お前も翔平も、大切な事は全部母さんが用意してくれていた。なっさけねぇよなぁ。俺が親父としてお前らにできる事、実はあんまり残ってねぇんだわ」
あー、これは。初めて見る顔だけど、駄目な奴だわ。
「……アホか」
「あ?」
きっぱりと否定してやろう。
こんな親父、翔平に見せらんねぇだろうが。
だから、今から俺はかなり恥ずかしい事を言う。
きっと今日の夜あたり、枕に顔を埋めて『わーっ!』ってジタバタするぐらいの、多分一生トラウマレベルの恥ずかしい事だ。
親父からできる限り顔を逸らして、一回深く息を吸う。顔が熱い。これは痛みとか興奮とかじゃなく、恥ずかしさから来る紅潮の熱だ。
でも、本当の事で、素直な俺の。俺達の気持ちだから。翔平、巻き込んでスマン。
「いっ、言っとくけどな! 俺もっ! 翔平もっ! 親父の事かなり尊敬してんだからなっ!」
「は?」
間の抜けた返事が返ってきた。
やめて。そんなリアルっぽい返し方! 卑怯だと思う!
「母さんが居なくなってからこっち! 親父が頑張ってんの! ちゃんと知ってるし! そ、そのっ! カッコいいって、お、おおお思ってるからっ!」
あー! もう駄目! 恥ずか死ぬ!
「だ、だから! ちゃんと『父ちゃんの背中』っ! しっかり見てんだよ! 俺も翔平も!」
我慢できなくなって、ロープから遠ざかろうと足を進めた。
多分今、俺の顔は耳まで真っ赤なんだと思う。
アトルから受けたダメージとは別の要因で、意識が吹っ飛びそうだ。
くそう、あの野郎! 俺に余計な事言わせやがって!
絶対に許さんからな!
「おらぁ! 待たせたなアホ王子! さっさと掛かってこいやぁ!」
八つ当たりしてやる! 全部お前のせいだ!
「風待薫平はぁっ! 風を待つっ!」
恥ずかしさを紛らわすように、大声で叫ぶ。
遥か上空ではアトルが気持ち良さそうにクルリと一回転をして、頭を下にして構えた。
「風の薫りを嗅ぎ取って!」
オープンスタンスに足を広げ、両手を固く握って腰の前に構える。
「何時だって! 何処だって!」
吠えれば吠えるほど、体に力が漲って来る。錯覚かもしれない。
気持ちが昂ぶってるせいなのかも知れない。
「飛びたい時にっ!」
この言葉を唱える事で、自己暗示がかかるように習慣づけられてるのかもしれない。
でも、この言葉に嘘は無い。
「ビュンと飛ぶっ!」
最後の言葉を唱えたのと、王子の姿がブレたのは、ほとんど同時だった。





