ただいま、おかえり②
※書籍化が決まりました。詳細は決まり次第、順次報告いたします。
「暑っちーんだよ!うがぁ!」
七月の蒸し暑さにやられてしまった。
Tシャツの袖を肩口まで捲り上げ、短パンの裾も全力で足の付け根まで上げている。
いくらここいらが標高の高い地域だからって、室内で一時間も全身運動をしてたら体に熱も篭るってもんだ。
こびり付いた水垢をデッキブラシでゴシゴシと、浴槽の中や壁は手持ちのたわしでゴシゴシと。
ゴシゴシ、ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ。
落ちないんだこれ。
嫌んなっちゃうなぁもお!
「兄ちゃん、何一人で騒いでんのさ」
浴室の扉が開く音がして、静かな声が聞こえて来た。
「翔平」
声に振り返ると、右手に俺が今最も欲している物を持つ我が愛しの弟の姿が。
ああ、命の水!
「はい、冷やしたお茶。さっきはあんな事言ってたけど、自分でお昼の買い物行ったんだよ父さん。お昼ももうすぐできるから、お風呂場だけでも終わらせてね」
「ありがてぇありがてぇ!こんだけ水被ってんのに喉カラッカラだったんだ。んっ」
手渡されたグラスを受け取り、一気にあおった。
「アオイ姉ちゃんの方ももう終わりそうなんだ。一番遅いの兄ちゃんだよ」
「んんっぷはっ!かぁっー生き返るぅ!」
「聞いてんの?」
ちょっと待って、本当に今お茶を楽しんでる最中なんだから。
おっと、これは静岡産の高級茶葉を使ってますね?
手摘みかな?
いや、まぁ飲み慣れた烏龍茶なんだけどさ。
「聞いてるよ。しょうがないだろ。ベッドマットの虫干しと洗面台とその床。トイレと風呂場まで掃除してんだぞ?むしろ風呂場が終わりかけてるこの現状を褒めてもらいたいんだけど?」
幾ら何でも仕事多すぎなんだよ。
頑張って巻きで終わらせたんだからな!
飲み干したグラスがまだ冷たくて気持ちいいから、額に当てて頭を冷ます。
あー労働って辛い。
「へー早いじゃん。んじゃあもう終わるの?」
「ん。大体済んでて、気になるところをやってただけだからな。水で流せば終わりでいいだろ」
ちょっと俺の職人気質な部分が出ちゃいましてね?
細けえ所までキチンとやらねぇと気が済まないんでさぁ。
「わかった。お昼用意しておくから、終わったら来てね。簡単で申し訳ないけど、そうめん作ったから」
「へい!」
ようし!チャッチャッと終わらせますかねぇ?
翔平が浴室を去ってから、洗面台から繋げてあるホースを取る。
こっちの方がシャワーノズルより使い勝手がいいからな。
ホースの先をつまんで、勢い良く水流を壁に当てた。
上から下。
上から右、そして左。
側面の壁。
反対側と窓。
そしてタイルの床。
この家の浴室は結構古い。
設備自体は新しい物に変えてあるけど、作りが古いのだ。
というか、浴室のみならず家が古い。
家そのものは世界衝突前からあるらしいから、築50年ぐらいだろうか。
何度か手直しや補強はされているから、頑丈なのは間違いない。
親父の仕事仲間がキチンと見てくれたらしいからな。
親父の稼ぎでこんなデカい家が買えた秘密がそこにある。
リフォーム済みなのを折り込んでもそこそこ安い家なのだここは。
まぁローンなんですけどね?しかも二世代。
そんな古い家の浴室も最近のユニットバスなんて洒落た物じゃなく、タイルとモルタル製の昔の奴だ。
浴槽は俺たちが引っ越す時に交換した物で、その前は銀色のバランス釜とかいう古めかしい物だった。
ガスで追い焚きできるタイプのバランス釜はウンともスンとも言わなくなっていたので、泣く泣く取っ替えたのである。
ホームセンターに売ってあるバスタブって高いんだね。
知らなかった。
「こんなもんか」
蛇口を捻って水を止める。
ポンっとホースを抜いて巻き巻きと丸める。
庭にある納戸に戻さなきゃな。
巻いたホースに腕を通して、足の裏をバスマットで拭いて廊下を出る。
階段横の勝手口に向かう。
俺の外履きスリッパをはいて勝手口を出て、庭へと歩いた。
「あー!」
「ん。チョウチョ。綺麗だね」
ん?
ジャジャとルージュの声か?
「だぁ!」
「ん。ひらひら」
リビングの窓のサッシに腰掛けて、ジャジャを膝に座らせていた。
ルージュの後ろではナナがお腹にベビータオルをかけて寝ていた。
ジャジャが先に起きちゃったのかな?
「あ、ジャジャ。薫平が来たよ」
俺の姿を捉えたルージュが、ジャジャの手を取ってフリフリと動かした。
「おう。パパもお掃除終わったぞー」
「ん。お疲れ」
「あぅ?」
ジャジャの顔がようやく俺を向く。
蝶々に夢中だったようだな。邪魔しちゃったかな?
「あー!」
俺を見つけたジャジャは目をキラキラさせて喜ぶ。
この顔はずるい。とてもズルイ。
疲れも暑さも吹き飛んでしまう。下手な栄養剤より即効性のある危険な物だ。
「ん。やっぱりパパに勝てない。悔しい」
ワタワタと頑張って俺に手をに伸ばすジャジャを見て、ルージュがうなだれる。
でもやっぱり無表情。
悲しみの色は全然見えない。
「ちょっと待ってなー」
急いで納戸に向かい、扉を開けて棚にホースを置いた。
扉を閉めて、ねじ式のカギで施錠する。
「おし。ジャジャ!お待たせ!」
「あー!」
勢いよく振り返って、両手を広げた。
その姿を見てジャジャの顔がより明るく輝いた。
「ん。行ってらっしゃい」
「だぁい!」
ルージュがジャジャの体から手を離すと、ジャジャが素早く翼を広げて飛び立った。
小さな翼をパタパタと動かして、短くて太い尻尾を左右にブンブンと振りながらジャジャは俺に向かって飛んでくる。
短い距離だから許せる飛行だ。
最近双子たちの飛行時間はかなり伸びているが、いくらなんでも外で飛ばすのはまだ早い。
鼠の賢者が言う、ジャジャ達に蓄積する精霊の事も心配だからな。
週一で精霊を除去する作業をしてはいるが、いつそれが溢れてくるかわからないからな。
気をつけるに越したことは無い。
「だ、あぅ、だ」
ゆっくりフヨフヨと、上下左右に揺れながらジャジャは飛ぶ。
「うんぅううう」
俺の目の前まで来ると、ジャジャは顔を真っ赤にしていきむ。
最近覚えた技だ。
どのような感覚かは俺にはわからないけど、りきめばりきむ程に高度を上げるのだ。
ちなみにこの技、ナナはまだできない。
この間なんか、自分より高い場所を飛んでいるジャジャを見て、『ナナも!ナナも!』と悔しそうに泣いていた。可哀想だが、こればっかりはナナが自分で頑張るしかない。
ファイト!
「ほら、こっちこっち」
微々たる速度で上昇して来るジャジャを待ち構える。
「だぅ」
「はい、お上手」
ポスンと俺の胸に飛び込んで来たジャジャを受け止める。
「にへぇ」
ふにゃりと笑うジャジャ。
お、この顔。
ナナにそっくりだ。
やっぱり双子だな。
「はい、よくできました。うりうり」
「だぁー!きゃっきゃっ!」
ずりずりとそのほっぺたに俺の頬をすり合わせると、楽しそうな声を上げた。
ん?
なんだ?ここがいいのか?ほれほれ。
「ほうれうりうり」
「きゃーい!だぅ!」
調子に乗って来たぁ!
ようしベイベー!
もっと行こうか!
「へージャジャ。うまくなったね」
「あぁ、こりゃ天才かもしれんな」
「あ、あのお義父様、それは言い過ぎじゃないかな、と」
「ん。そうでもない。あの小ささで飛んでる姿は天才的に可愛い」
硬直した。
「へ?」
リビングに向けて顔を上げる。
「そうめんできてるよ」
「お前幾ら何でもデレデレしすぎだろ。もっと父親としての威厳をだな」
「あ、あのお義父様、薫平さんはちゃんとパパらしくされてますよ?」
「ん。薫平の気持ちは良くわかる。次は私」
全員、集合してやがるっ……!
「な、なに見てんだお前ら!見世物じゃないぞっ!」
はっず!
なにこれ超恥ずかしい!
みんなに見られてるの気づかなくて思いっきり調子に乗った!
「早くおいでね」
「まぁ、しょうがねぇかなぁ。可愛い盛りの娘ってなそうなるもんか。俺も女の子は育てた事ないからなぁ」
「ほ、ほら!薫平さんも久しぶりにお家に帰ってきてテンション上がっちゃったんですよきっと!」
「ん。薫平早く。私」
ぐ、ぐぬぬ。
「だぅ?」
ジャジャが不思議そうに俺の顔を見ている。
あれ?パパやめちゃうの?
そう言う顔だ。
「はぁ、ジャジャ。お昼にしようか」
くそう。一番見られちゃいけない親父に見られてたのが痛い。
あれは数年ネタにするぞ絶対。
「だぁ!」
元気よく返事を返して来たジャジャを抱き直し、庭を歩いてリビングに向かう。
「……あぅ」
「あ、ナナも起きた?ハイハイ、ママはこっちだよー」
「起きる前にご飯済ましておけばよかったね」
「父さんに任せろ。はーいナナちゃん。じぃじが離乳食食べさせてあげようねー」
「薫平、私は待っている」
どうやらナナも起きて来たようだな。
さて、リビングが一層騒がしくなる。
その喧騒を聞きながら、しつこいぐらいに両手を差し出すルージュにジャジャを預けた。
嬉しそうに頬ずりをし出して、ジャジャも笑っている。
ナナはアオイに抱き起こされて、寝起きの目をクシクシとこすって欠伸をした。
翔平はキッチンに向かい、そうめんの入っているガラスボウルをテーブルへと移動させている。
親父は冷蔵庫を開けて、小さな瓶型のキャロット味の離乳食を取り出した。
これが、我が家だ。
これが今の風待家の風景である。
「……ここに、母さんがいたらな」
ぼそりと零した。
どうしてだろう。
なんで、そんな事。
今更思っちゃったのだろう。
母さんがキッチンに立って、めんつゆをお椀に注いでいる。
翔平がその横で手伝いをしていて、親父がそれを面白そうに茶化す。
母さんが笑って親父に注意をして、お膳を運んで来たアオイを呼ぶ。
アオイは元気よく返事を返して、母さんに渡されたお椀を一つ一つお膳に乗せていく。
ルージュが泣き出したナナを抱いてあやして、ジャジャがその横でケラケラと笑う。
見かねた母さんが小走りでルージュに近寄って来て、ナナを受け取る。
『どうしたの?泣き虫さんねー。ほぉーら、ばーばとまんま食べようか!』
きっとそう言って、母さんはナナを泣き止ませるのだ。
みんなで食卓を囲んで、ジャジャはアオイが、ナナは母さんが見ている。
きっと、笑いが絶えないのだろう。
そして俺が窓から入って来て、『ただいま』って告げる。
そしたらみんな俺を見て、『おかえり』って言ってくれる。
あぁ、それは、見たかったなぁ。
でもどんなに思い焦がれても、その風景は決して見られない。
あの日の病院、真っ青な顔の母さん。
息をするのも苦痛だったはずだ。
最後に交わした約束。あれは。
「薫平さん?」
アオイに呼ばれて我に帰る。
「どうしました?」
いつのまにかリビングダイニングのテーブルまで来ていたようだ。
「なんでも」
「そうですか?」
アオイが前のめりで俺の顔を見る。
「アオイ」
「はい?」
なんとなくその顔が、母さんとダブってしまったから。
思わず。
「ただいま」
帰って来たよ。この家に。
「へ?お、おかえりなさい」
困惑するアオイはすぐに返事を返して来た。
「……ップ。ふははははっ、いや、ほら、庭から戻って来たからさ」
「あ、あぁ。そ、そうですね」
「何言ってんの兄ちゃん」
「どうした。もう熱中症か?水飲むか?」
アオイだけじゃなくて、翔平と親父も俺を心配しだした。
いかんいかん。
ちょっとどうかしてたぜ。
「なんでもねーよ!おーいルージュ!飯だ飯!こっちこーい!」
「ん。今いく」
ルージュを呼ぶと、テーブルの椅子を引いて腰を落とした。
アオイがナナを抱えて隣に座る。その隣にルージュがジャジャを抱えてやって来た。
翔平は俺の向かい。
間一つ開けて、親父。
一つだけポカンと開いた六人掛けのダイニングテーブル。なんだかそれがちょっと悔しい。
「そうら午後もやる事多いんだ!みんなたらふく食えよぉ!」
「わかったわかった!声のボリューム搾れよ親父!」
「父さん、薬味取って」
「あ、ルゥ姉様お箸使えないんでしたっけ。フォーク取って来ますね?」
「ん。良いよ。お箸練習するから」
ざわざわと騒がしい食卓。
「だぁ!」
「ふぁあああ……」
ベシベシとテーブルと叩いて喜ぶジャジャに、何度目かの欠伸をするナナ。
そんな光景を見ながら、俺は箸を取って呟く。
「いただきます」
昼飯を、頂こう。





