4 湧き上がる旋律
――全てを焼き尽くさんとする、勇気に満ちた女神よ。
我が叫びに応え、邪悪なる魂を火の海に飲み込め!
「ダメだ……」
トライブのアドバイスを聞いてから1週間が経過した。だが、ジルは相当の破壊力を持つ豪腕モンスターを相手に、この日も女神の力を解き放てなかった。手応えが、全くない。
「はぁ……」
ファイヤーサイクロンを詠唱し、辛うじて戦闘に勝利したジルの表情に、笑顔はなかった。エイミーが残念そうにジルのもとに近づくと、ジルは首を横に振った。
「ジル、いっぱい力を使っているのに……」
「ここまでやってきたのに……、女神に私の声はまだ届かない。諦めずにやっていこうとは思うけど、ゴールが全然見えない」
「ゴールが……、見えないのは私だって嫌だ」
「エイミーもそう思うよね」
ジルとエイミーは、二人同時にため息をついた。今日も魔術界で燃え続ける女神を呼び寄せようとしているジルの手だけが、熱くなっていた。
「ジル、炎に抱いているイメージってそこまで多くない気がする。ジルの詠唱を聞いててもそう思った」
「本当……?」
「何度も炎の女神を呼び出す魔術を聞いているけど、決まりきった言葉が、自然にジルの口から出てきているような気がする」
ジルは、女神を呼び出すために自らがこれまで放った詠唱を思い出した。
絶大な力、全てを焼き尽くす力、満ち溢れている勇気、情熱の朱……。
火炎系魔術の詠唱の中に入っているものもその中にないとは言えなかったし、炎のイメージと言えば誰もが思いつくキーワードがそれらだった。
「想像力……」
魔術の習得を全て暗記に頼ってきたジルにとって、炎の新しいイメージを生み出し、そしてそれを自らの新しい詠唱にすることは、やはり容易ではなかった。
――お姉ちゃんは、勉強バカです。
「私、勉強バカなのかな……」
呆然と立ち尽くすジルは、かつてアリスから言われた言葉を突然思い出した。無意識のうちに、ジルの目が潤み出す。
「ジル、そんなことないから」
「うん。そう言ってくれると嬉しい」
「ほら、ジルは楽しいから炎の魔術をマスターしてきたじゃん。頑張ってるよ」
「ありがとう……」
流しこそしなかった涙を両手で拭いながら、ジルはエイミーに軽くうなずいた。すると、エイミーはジルに微笑みを見せた。
「それと、今日は魔術以外のことを考えて、気分転換してみない?」
「気分転換?……したいとは思えない」
「したほうがいいよ、ジル。例えば、カフェで知らないお茶の味を楽しんだり、絵を見に行ったりとか」
エイミーは、少し考えながらそう言う。ジルも戸惑いの表情を見せかけたが、すぐに首を縦に振る。
「したほうがいいかもね……。最近ジル、女神を呼び出すのに必死で、ちっとも遊んでいないような気がする」
「でしょ」
その時、ジルの視界にエイミー以外の人物が飛び込んできた。やや早足で近づいてくる、女剣士ソフィアの姿だった。
「ジル!」
「ソフィアさん……」
ソフィアは、ジルの目の前まで駆け寄って止まり、息を整えながらジルの表情を見る。
「いま、話しかけて大丈夫?」
「まぁ、いいですけど……」
ジルの目に映るソフィアの表情は、どこか楽しいことへ誘うような明るさが見えていた。少なくとも、この表情は先日顔を合わせたときにはなかったものだ。
「この前は、ジルの気持ちも分からなくて……、ジルを助けられなくてごめん」
「別に……、謝ってもらわなくていいんです……。突き放したのは私だし、みんなの言ってる言葉に少しだけ支えられたのは確かだし……」
ジルは、首を横に振ってそう応える。しかし、目の前のソフィアの表情は動かない。
「そう思ってくれてよかった。でも、今日はジルに素敵なものを見せようかと思って、ここにやってきたの」
「素敵なもの……、って何ですか?」
「ライヴ。今夜は自治区に、世界的に有名な女性アーティスト、スティーナ・レクセアが素敵な歌声を響かせてくれるの」
そう言うと、ソフィアはポケットから何枚もライヴチケットを取り出した。
「そ、そんなに持っているんですか……!」
「私、彼女のファンなの。もしよかったら二人もついて行かない?」
クラシックをはじめとして、音楽全般に興味の持っているソフィアは、その興味を示しているアーティストも多様で、こうして何枚もチケットを買っては「オメガピース」兵を誘っているのだった。
だが、目の前にチケットを出されたジルは、一歩足を引いた。
「えっ……、今日はエイミーとお茶を飲みに行こうと……」
ジルはエイミーの表情を軽く見る。すると、エイミーは少し詰まった声で言った。
「でも、せっかくの誘いじゃない。ジルの気分転換にも、きっとなると思う。それに、今日しかないチャンスなんだし」
「分かった。今日は、ついて行きます!」
「決まりね。あと、トライブとアリスも誘ったから、夕方玄関で一緒に集まるわ」
ジルがうなずくと、ソフィアは詠唱頑張って、と言葉を残してゆっくりとその場から姿を消した。
「ジル」
しばらくソフィアの後ろ姿を見ていた二人。そこにエイミーが沈黙を破る。
「どうしたの?」
「ジル、渡されたチケットをじっと見てたけど、レクセア知ってるの?」
「知らない。なんか有名と言ってたけど、私は全く知らないし……アーティストのライヴに行ったこともない」
「だったら、今日初体験じゃん!」
そう言うと、エイミーはかすかにうなずいて、ジルの出方を伺う。
「そうね……。どういうライヴになるんだろう……」
―◇―◇―◇―◇―
「やっぱり、お姉ちゃんはライヴ行かず嫌いだったんですねー」
「アリス、私、行かず嫌いじゃない!」
夕方、集合時間よりやや早く「オメガピース」正面玄関前に向かったジルだったが、そこには既にアリスとトライブが待っていた。またしても情報網なのか、妹だからなのかは分からないが、ジルがこういうライヴに行ったことがないことを知っていたのだった。
「でも、行ったことはないでしょー」
「たしかに……。だって、高いし、音楽なんてそこらじゅうに溢れているから……」
ジルがそう言うと、トライブの顔がゆっくりとジルに向いた。あの日見た傷は既になく、剣を持たない美しい女性の姿だった。
「ジル、ライヴと普段聞く音楽は違うわ」
「そうなんですか……」
「私も、ソフィアからそう教わったからあまり強くは言えないけど、目の前で歌う声が耳に響いてくるのって、本当に素晴らしいことよ。音楽が、生きているっていう感じがする」
「生きている……。でも音楽は……、音楽のはず……」
ジルは、細々とした声で言った。すると、トライブは軽く笑みを浮かべてみせた。
「今日、聞いてみたら分かるわ。生きているっていうことが」
―◇―◇―◇―◇―
「そろそろ始まる」
ホールが暗くなり、ステージに一筋の光が照らされる。そして、突然沸き上がるスモーク。アップテンポ調のメロディ。そして、力強い声がホール全体に響き渡った。
「これ……、どういう曲ですか?」
「彼女のデビュー曲、『レディー・ラブ・オール』よ。ものすごく勇気づけられるラブソングからスタートよ」
横にいるソフィアが、スティーナ・レクセアを何も知らないジルにささやき、再びステージを食い入るように見る。
「ラブソング……、ですか……」
会場に集まったファンたちの視線の先にいる、レクセアの姿をジルは見た。その瞬間、曲のサビが紡がれ始めた。
――あなたへの愛に生き あなたへの愛に全てを懸ける
なにもできない私でも それだけはやり遂げることができる
気持ちの全てをこの声に託し 私は言うの アイラブユーと!
「……っ!」
バンドの放つ爆音をも軽く消し去るように、レクセアの全身から解き放たれる、全てを包み込むような歌声。ジルは、それを聞きながら、思わず息を飲み込んだ。どこからともなく湧いてくる、不思議な力に、ジルは全身が震えていた。
――あなたに伝えたいの! この強く激しい想いを!
「な……、なんなの、この感触……」
時には強く、時には語りかけるように歌い上げていくレクセア。溢れ出る音楽に、感情と言葉が次々と重ねられていく。独特な世界観が、ステージ上で繰り広げられていく。
襲いかかるゾクゾク感。そして、パワー。神秘的とも言えるその歌声が、ジルの耳から離れられない。そして、その歌声はジルの脳裏に一つ一つ刻まれていた。
「これかもしれない……。炎の女神のイメージ……!」
ジルは、そう気が付くまで、時間はほとんどかからなかった。その瞬間から、曲は何一つ知らなくても、ジルはレクセアのステージがいつまでも続いて欲しいとさえ思った。
声は、曲と場面によって強弱を繰り返す。だが、レクセアのステージに懸ける想いは、最後まで変わらなかった。
「ジル、なんか初めてのライヴなのに、ものすごくはしゃいでた」
ステージが終わると、ソフィアが我に返ったように言った。ジルも、そこでようやく我に返り、ソフィアに目を向けた。
「私、そんなはしゃいでましたか?」
「はしゃいでた。この場所に、何かを見つけたかのように。何かを感じたかのように」
「そうですね……。なんか、こういう神秘的なものを見て、気持ちが解き放たれたような気がするんです」
「神秘的、ねぇ……。私も最初レクセアを聞いたとき、そう感じたかな」
ソフィアが一呼吸置いて返す。その周りでは、未だにステージの興奮が冷めていないようで、人という人が今にもレクセアの曲を歌いそうな余韻が溢れているようだった。
「ソフィアさんは、どういうところが神秘的だと思ったんですか?」
「そうね……。あえて言うと、声の太さ……だと思う。女性にして、あれだけ力強い声を出せる歌手は、そういない。トライブが戦闘中無意識にそういう声出してるけど」
「ソフィア、あれは自然よ」
ソフィアが急にトライブに振ると、トライブはかすかに笑った。それを見て、ジルも突っ込む。
「私も……言われてみたら、トライブさんがそういう声を出しているような気がします」
「やっぱり、そう思うの私だけじゃないのね。ところで、逆に、ジルはどういうところにレクセアの神秘を感じたの?」
「それは……」
ジルは、言葉を言いかけて止めた。頭の中で、聞いたばかりのレクセアの曲が無意識のうちに思い浮かんでくるようだった。少し固まりかけるジルに、ソフィアだけではなく、トライブもアリスもエイミーも、一斉に視線を向ける。
「いいのよ、思った通りに言えば。的外れでもいい」
ソフィアがそう促す。ジルは数秒目を細めて、再び大きく開けた。
「思ったんです。彼女の歌声って、心の底から湧き上がるようで、情熱的で……、強くなったり、弱くなったり……、けれどステージに立つ彼女はいつも本気で……」
「お姉ちゃん……」
ジルは、この時自分の想いをどう言葉にすれば良いか分からなかった。しかし、言いたいことのイメージだけは掴んでいる。想いは、溢れ出ていた。
そして、再び口を閉じ、すぐにその沈黙を破った。
「彼女の歌声は、燃え上がる炎のよう。私は、そうイメージできるんです」
瞬間、ジルはガックリと首を垂れた。その口は、まだ何かを言いたそうにプルプル震えていた。そこに、エイミーがキョトンとした表情で口を挟む。
「ジル、レクセアは魔術師じゃないから!全然フィールドが違うし、私は純粋に一人の歌姫として、声がすばらしいとか、心に伝わるとか、そう思ったけど……」
「やっぱり、私の感性は、ここにいる大多数の人とは違う……」
ジルはエイミーに向かって顔を上げようとしたが、途中で再び垂れてしまった。これまで何度となく魔術の相談に乗ってきたエイミーに、返す言葉がなかった。エイミーも、それ以上言葉をかけることができず、その場に立ち竦む。
その時、アリスが張り詰めた空気を破った。
「お姉ちゃんは、もっと自信を持っていいと思います」
「アリ……、ス……」
涙すら出かけた目を、ジルはゆっくりとアリスに向けた。
「お姉ちゃんは、ずっとずっと炎の魔術を覚え続けてきたんです。でも、炎のイメージができなくて、最近ずっと悩んでいました。そういうときに、レクセアの歌声を聞いて、お姉ちゃんの中でイメージが固まったんじゃないかと思うんです」
「私も、アリスの言う通りだと思う。それが、ジルの思った炎のイメージじゃない」
トライブも、アリスの後についてジルに語りかける。
「イメージ……。たしかに、そうです。けど……、なんか場違いすぎて……」
「それでいいじゃない。ジルにとって最後の魔術は、誰にも想像できないイメージを思い浮かべることなんだから!」
「……っ!」
ジルは両手の拳を一度強く握った。心の底から力が湧いてきたように、ジルには思えた。
「私は、決して間違ってなんかない……。やっぱり、一歩だけ炎の女神に近づけた……!」
何度その名を叫んでも届かない存在。いま、ジルはその握り拳の中に、女神の魂をひとかけらだけ掴んだように思えた。
「歌声、音楽。そのあたりをイメージしながら、まだまだ頑張ってみます」
「ジル。頑張って!」
続々と会場を後にする人々の中で、ジルの心の炎ははっきりと燃えていた。