2 最強の女剣士は雲の上の存在
「お姉ちゃんでも、それは難しいですよ……。決まった詠唱がないなんて」
ジルの話を聞いたアリスは、すぐにそう告げた。部屋で沸かしたホットコーヒーを一気に飲み干したアリスは、いつになく難しい表情を見せている。
「やっぱり、アリスもそう思うんだ」
「魔術を少しだけ学んだ私だって、そう思いますよ……。それに、女神を操る他の魔術師とイメージが被っちゃいけないって、それはもう、芸術的な何かだと思います」
「芸術的というのは間違っていないのかもしれない」
ジルはそこまで言うと、やや首を下に傾ける。その動きを目で追いながら、アリスはさらに続ける。
「炎の女神を呼び出す魔術は、お姉ちゃんみたいな魔術師に合ってないと思うんです」
「合ってない、というのは……」
「お姉ちゃんは……、魔導書を見たらすぐ詠唱を暗記しちゃうじゃないですか。後ろからお姉ちゃんを見てて私はそう思うし、逆に暗記とかじゃなくてイメージ一つでできるか決まっちゃうような魔術は……、合わないような気がするんです」
アリスが時折言葉を詰まらせながらそこまで言い切ると、ジルはかすかに唸り、一度首を横に振った。
「でも、本当にそれだけなのかな……。私が女神を呼び出せない理由」
ジルも遅れてホットコーヒーに口をつける。そして、ジルがカップをソーサーに置くと同時に、アリスは口を開く。
「それだけではない……と思います。でも、書いてあることを覚えたらできるって、それがお姉ちゃんにとって楽しいことなんじゃないかなって。逆に言うと、あの魔術は、ただ闇雲にイメージを重ねて魔術を唱えるしかないから、楽しみよりも辛いって気持ちの方が先に出ていると思うんです」
そう言い切って、アリスがジルを見つめる。ジルはソーサーの取っ手を持ったまましばらく何も言うことができなかった。やがて、アリスがジルを軽く覗き込むようなしぐさを見せると、ジルはゆっくりと話し出した。
「楽しくないっていうのは、悲しいけど当たっている」
「ほらやっぱり!お姉ちゃんの顔見ててそう思った」
アリスの元気そうな声に、ジルは両側から肩を締め付けられているように感じた。身をすぼめ、一度ため息をついてから言った。
「ありがとう。……なんか、最近そういう感じがしてならなかった」
「お姉ちゃん……」
「私は、全ての炎の魔術を覚えるってことを、自分の趣味でやってきた。楽しくなかったら、こんな魔導書一冊覚えるの、苦痛でしかない。だから、もう悩むのはよして、楽しくやっていくしかないのかな」
ジルは、ホットコーヒーをもう一度口に含めた。入れてから時間は経っていたが、ジルの口には、これまでにないほどの熱が伝わってきた。
「さすがお姉ちゃん!……本当のことを言うと、私の言葉じゃ、お姉ちゃんは立ち直らないのかなって思ってたから、ちょっとびっくりしました」
「立ち直る。だって、『オメガピース』でアリスが私のことを一番よく分かっているんだから、なんか勇気もらったような気がする」
「ありがとうございます」
アリスとジルは、そこで同時に笑った。普段アリスの目の前では笑うことのないジルも、気がつけば妹の前で笑顔を見せていた。
「ところで、アリス。もし私が立ち直らなかったら、どうしようと思っていたの?」
しばらく場の雰囲気が和んだところで、ジルはアリスに尋ねた。アリスは笑いを呑むように止めて、少し考えてからジルに言う。
「トライブ・ソードマスターのやる気を分けてあげようかな、って思ったんです」
「ルームメイトの?」
「そういうことです」
ジルの脳内に、ほとんど会ったことのない女剣士トライブの表情が浮かんだ。とても女性とは思えないパワーと、それをもかき消すような熱いハートが、剣士のセクションから受け入れられていることは、ジルはこれまでにもアリスを通じて聞いていた。
「トライブは、私が悪戦苦闘してる話を知ってるの?」
「お姉ちゃんの悩みは知ってるし、頑張ってるのは遠くから見ても分かる、って言ってます」
そう言うと、アリスは茶色の髪に手を当てて、照れるように顔を赤くした。
「アリス。もしかして今日ここに来たのは、トライブが言ったからでしょ」
「そういうこと。でも、ソードマスターが直接ここに来るより、妹の私が話を聞いた方がお姉ちゃんのためになるって言ってたから……」
「そうなんだ……」
そこまで言うと、ジルは数秒ほどアゴに手を当てて、アリスに告げた。
「一度、トライブに会ってみようかな。お互いが休みの日とか。私が悩みを言うと、やる気をもらえそうな気がする……」
「じゃあ、そう伝えておきます。お姉ちゃんとソードマスターが両方休める日になったら、私がお姉ちゃんの部屋に行って呼びますから」
アリスは、何度かうなずいてジルの手を取った。
「分かった。今日は、本当にありがとう」
「いえいえ。お姉ちゃんが元気になって、よかったです」
ジルは、大きく手を振りながらアリスを見送った。その時には、持ってきたマカロンも、入れたはずのホットコーヒーも全てジルの口の中に入って、なくなっていた。
「さて、女神を呼び出すイメージは……」
―◇―◇―◇―◇―
その日から1週間ほどの時間が経過した。ジルが当面の標的としていたソーサルイーターは神出鬼没で、数日おきにトリビュート・ソーサリストの魔力を奪ってはまた姿を消してしまう。ジルの前には姿を現さなかった。
そして、また新しい朝を迎えた。
「そうだ……。そう言えば、トライブに悩みを打ち明ける日、明日だっけ……」
ジルはベッドからゆっくりと起き上がり、その日のカレンダーに目を通す。翌日は「オメガピース」の任務も特になく、トライブに会うこと以外に予定はなかった。ただ、早朝5時とか6時とかにアリスが迎えに来てくれる可能性もあるので、早めに寝ないといけないことだけは確かだ。
「さぁ……、今日も1日頑張ろう!」
ジルは、洗面台の前に立ち、オレンジ色に照らされる髪を櫛で梳かし始めた。しかし、その瞬間に、絶対に聞くはずもない声が、ジルの耳を突き抜けたのだ。
「ピンポーン!」
あの時と同じ、地声による呼び鈴の音が、洗面台の前でもはっきりと分かる。この状態の髪で外に出たくはなかったが、アリスのこれ以上の「暴走」が宿舎全体に響きかねないので、ジルは力づくで部屋のドアを開いた。
「はろーっ!」
「アリス……。朝からうるさい」
とても第一線に立って戦う兵士とは思えない姿で、アリスはドアの前に立っていた。俗に言われるアロハシャツだ。
「はろぉ?」
「ハローじゃないから。それに……、トライブのもとに案内するという話、たしか明日だったでしょ」
「いやいや、今日ですよー?」
ジルは、アリスの表情をのぞき込むように尋ねると、アリスはその下に回り込んでじっとジルを見つめた。
「本当に?」
「今日になりましたー!ソードマスターも忙しいので」
「そうなんだ……」
そう言いながら、ジルはボサボサのままの髪を右手で軽く掻き上げる。
「ところで、アリス。『オメガピース』に全然似合わない、そのアロハシャツはどうして着てるの?」
「炎バリバリのお姉ちゃんが、メチャクチャ熱い鬼ソードマスターと同じ場所にいるんだから、気分的に常夏になりたいだけです」
「アリスったら……。私、まだスタイリング中だから、ちょっと時間かかりそう。その間に、普通の格好に着替えてきて」
「はぁい……」
そう言うと、アリスは少し下にうつむいたまま、部屋の方に戻っていった。だが、アリスの一言で、ジルのトライブに対する「恐怖心」が生まれたのは言うまでもなかった。
「鬼、ソードマスターかぁ……」
「ソードマスターは、兵士棟の裏庭にいるみたいです」
「裏庭……?部屋じゃないのね」
アリスに案内されるままに、ジルは兵士棟から外に出る。心地よい風が、普段と何も変わらない日常をジルに見せている。
だが、その風を切り裂くかのような力強い声は、はっきりとジルの耳に響いた。
「はあっ!」
その声は、決して何かの物音ではなく、生きる者が発する魂のような叫びだった。そしてそれは、この混沌とした空間に力強さを与えるものだった。
「これ、もしかしてトライブの……」
「そうです。悪く言うと、とにかくうるさいんです。戦闘中は」
「うるさい、って……この力の入り具合、私の詠唱をはるかに超えている……」
面食らうジルに向かって、アリスは軽く笑った。
「四六時中ソードマスターと一緒にいたら、慣れますよ。だって、それがソードマスターの強さだし!」
「強さ……、ねぇ。なんか緊張してきた」
「じゃあ、行きますよ。お姉ちゃん」
そう言うと、アリスはさらに足を進める。まるで宝の山でも見せたがっているかのように、アリスの足は徐々に早足になる。ジルは、アリスに追いつくのがやっとだった。
そして、ついに視界が開け、二人は裏庭へと足を踏み入れた。
「えっ……、これが女剣士……」
ジルは、その場に立ち竦んだ。裏庭では二人の女剣士が本気とも言える表情で剣を交えていた。そして、一度はその姿を見ているはずのトライブは、見るからにボロボロだった。その満身創痍の姿に、「剣の女王」の輝きは見られなかった。
「アリス……。今日、トライブも休み……じゃなかった?」
「本当は休みの日にしたかったんですけど……、なんかソードマスターが、今日みたいなときに私を見て欲しいって言ったから、今日にしたんです」
「今日みたいな日って……、ソードマスターが敗北したようにしか見えない」
ジルの目の前では、二人の女剣士が激しいバトルを繰り広げている。トライブが力強い一撃を見せるも、相手の女剣士が懸命にそれをガードする。まさに両者限界スレスレのバトルと言ってもよい空間だった。
数秒の沈黙を破って、アリスが一言こぼした。
「お姉ちゃんの言う通り、あと少しのところで強敵に負けました」
「『オメガピース』最強の剣士、ソードマスターなのに……」
ジルは、じっとバトルを見つめながら、小さな声で返す。その途端に、アリスが覗き込んでいるのが、ジルの目に入った。
「ソードマスターは、みんなが思ってる以上にやられてます。でも、ソードマスターの強さは、そこじゃないんです。今日は、それを見て欲しいって」
「言ってることは分かるけど……、いったいソードマスターの何を見ればいいんだろう」
「それは、きっと分かると思います」
その時、二人の女剣士のバトルがひと段落し、二人ともジルとアリスに近づいてきた。
「ジルじゃない。やっぱり、来てくれたのね」
「ソードマスター……」
背の高い金髪の、今は敗北を喫しボロボロの体の「女王」が近づくにつれ、ジルの周囲の熱が一気に高まっていくのを感じた。