1 魔道書では教えてくれない魔術
――情熱の名のもとに燃え盛る炎よ。
いま、怒りの牙を剥け。
そして、一陣の疾風となり、彼の魂を食らい尽くせ!
少女の声に応えるように、その目の前に激しい炎が燃え上がる。上へ上へと柱のように燃え上がる炎が、左右に激しく振動する。やがてそれは竜巻に近い渦となり、少女の目の前でごうごうとうなりを上げる。
詠唱を続ける少女に、今にも接近しようとする猛獣ヴェイヨン。人間の数倍の体長はある、見た目は虎のような獣が、その力強い足で炎の渦を蹴り上げようとする。
だが、少女は怯えなかった。
「ファイヤーサイクロン!」
少女がラスト・キーを言い放つと、10メートルほどの高さまで燃え上がった炎の渦が、接近するヴェイヨンに向けて勢いよく解き放たれた。ヴェイヨンも、持ち前のスピードで炎の渦をかわそうとするが、左に傾きかけたヴェイヨンの動きを炎は捕え、その身を灼熱に包み込んだ。懸命にそこから出ようとするヴェイヨンだが、ごうごうと吹き上げる疾風に翻弄されて、徐々に炎の中に呑み込まれていく。
強烈な嗚咽とともに、猛獣の体はものの数秒で炎と同化し、やがて熱から灰へと形を変えていった。後には、動くことすら許されぬ、焦がされた魂だけが残った。
「ジル、すごいじゃん!また楽勝で勝った」
炎を収めた少女、ジル・ガーデンスのもとに、エイミー・ウォーキャストが水色の長髪を左右に揺らしながら駆け寄る。エイミーは、水系魔術を得意とする魔術師であり、軍事組織「オメガピース」でジルの古くからの知り合いだ。
ジルはエイミーに向け、笑みを浮かべた。
「まぁね。あのヴェイヨンも大したことないみたい。なかなかの動きをしていたけど、やっぱり私の魔術の前には手も足も出ない」
「ヴェイヨン、かなりの戦闘能力あるのに……。そんなこと言ってたら、いま世界中で次々と魔術師が犠牲になっている、ソーサルイーターも楽勝で勝てるじゃない」
「ソーサルイーター?私、初めて聞くんだけど」
ジルは、エイミーに向けて何度か瞬きをする。
「あれは危険。いま、あちこちでトリビュート・ソーサリストが狙われて、その魔力を全て食べてしまう。そして、食べた魔力で強くなっていくの」
トリビュート・ソーサリストとは、ただ一つの属性の魔術を使いこなす魔術師のことで、ジルやエイミーもその中の一人だ。魔術師のほとんどは複数の属性の魔術を操るため、トリビュート・ソーサリストは魔術師全体で5%に満たない存在になっている。しかし、トリビュート・ソーサリストは使える属性こそ一つだが、その属性に関しては複数の属性を操る魔術師よりも、はるかに強力な魔術を操ることができる。
そんなトリビュート・ソーサリストが、いまソーサルイーターの餌食になっているのだ。それでも、ジルはエイミーの言葉に怯えなかった。
「私は、炎のトリビュート・ソーサリスト。きっと、私の魔術で何とかする」
「すごい。いつも思うんだけど、天才ってジルみたいなことを言うんだって」
「エイミーだって、天才じゃない。あれだけ強い水魔術を使えるんだから」
「ジルほどじゃないよ」
エイミーがそうフォローするが、ジルは首を軽く横に振った。
「そう言ってくれるのはありがたいんだけど……。やっぱり、言われるほど天才じゃない」
「どうしたの?ジル」
急に表情の曇ったジルの目に、エイミーは釘付けになる。
「私は、あの魔術が使いたかった。使えそうな感じはあったけど、今日も無理だった」
炎の魔術師とは思えないほど、冷静な表情を見せるジル。その涼しげな顔が、エイミーの視界に飛び込んでくる。
「あの魔術って、もしかして……、前にジルが言ってた、炎の女神のこと?」
「そう。もう30回ぐらい詠唱しているのに、全然出てこない。あと一つで、炎の魔術を全部使えるようになるのに……!」
「そうなんだ……。あと一つって、ある意味すごいじゃん!」
「でも、ここまでやってきたんだから、あと一つマスターしたい。炎のトリビュート・ソーサリストとして、絶対にマスターしたいの!もしかしたら、それを使わないとソーサルイーターには勝てないかも知れないから」
エイミーの声に、ジルは軽く首を横に振る。トリビュート・ソーサリストとしてのジルの、それがせめてもの気持ちだった。そのオレンジ色の髪が、突然吹き付けた風に舞い上がり、ジルの「失敗」を笑っていた。
「マスターできると思う!ジルだったら、きっと炎の女神を呼び出せると思うよ。だって、ジルはすっごく真面目じゃん」
「エイミー、そう言ってくれるとやる気が出てくる」
「それに、もしジルが帰ってから炎の女神を呼ぶ練習をするんだったら、私が付いてあげるから。火消し以上の支えはする」
「ありがとう」
ジルは、エイミーの目を見つめるようにして、大きくうなずく。その瞬間、ジルはエイミーの顔の表情も一気に緩むのをその目線で感じた。
炎の女神。
それは、魔術界に存在する炎の全てを司る存在であり、魔術師たちから炎の魔術の詠唱を受けると、魔術師の叫んだ言葉に応じてその力を貸すとされている。
言い伝えによると、炎の女神は全身から絶えず炎を解き放っており、女神自身の体温も相当のものらしい。勿論、女神の素の姿は炎に包まれてほとんど確認できないのだが、それ以上に情報が少ないのは、女神を呼び出すための魔術があまりに高度すぎるからだ。
炎の女神を呼び出せる魔術師は、今この世に存在する限り、たった3人だけ。炎の女神が心を許さなければ、女神はこの世界には現れないのである。
ジルは、それほど難しい魔術に手を伸ばそうとしているのだった。
―◇―◇―◇―◇―
――遍く炎の力を携えし、情熱の女神よ。
いま、この地に集え。
そして、激しい怒りで彼の魂を包み込め!
両手を前に突き出し、ジルの叫び声が「オメガピース」本部の中庭の魔術練習スペースに鳴り響く。いくつもの建物に反射し、詠唱がジルの耳にもエコーする。
(女神……っ!)
ジルは、数秒間歯を食いしばって、彼女の目の前を注視した。しかし、その手でかすかに感じたはずの炎の感触は力なく消えていってしまう。
「出てこない……」
どれほどの精神力を魔術界に送ったか分からないほど、ジルの手はしびれていた。気が付くと、ジルは肩で呼吸していた。力を緩めた時に見えた光景は、詠唱を始める前と何一つ変わらない世界だった。
(力だけはかなり使ったはずなのに……)
肩で呼吸するジルのもとに、エイミーが駆けつける。
「声はいっぱい出てたし、気持ちもこもっていたのに……」
「そんな簡単に出せるんだったら、私だってここまで苦労しない」
そう言って、ジルはふうとため息をついた。冷たい風が、ジルの髪をふたたびあざ笑う。ジルは、近づいてきたエイミーに顔を向ける。
「やっぱり力じゃない……。想いが足りない。女神に対する想いが」
「ジルさ、それは考えすぎ。ていうか、魔導書には、どう書いてあるの?」
「ちょっと待って」
エイミーの一言に誘われるように、ジルはポーチを開けて、中から何年も使い続けてきた魔導書を取り出した。魔道書は、一つの属性の全ての魔術の詠唱やその効果が記されており、魔術を学ぶ全ての者にとって必需品とされるものだ。何百回、何千回も目を通してきたジルの魔導書は、ページの端が軒並みボロボロになっていた。
「最後のページに、こんな感じで書かれている」
「えっ……」
ジルが最後のページまで指を進めた瞬間、エイミーの言葉が一気に凍りついた。炎の女神を呼び出すための高度な魔術であるにもかかわらず、その紹介がわずか半ページで終わっている。ジルが先程の戦闘で解き放ったファイヤーサイクロンが、紹介と詠唱だけで軽く次のページまで進んでいたのとは、あまりにも対照的だった。
やがて、エイミーは細々とした声で言った。
「ジル、これじゃ……全然説明になっていないじゃない」
「そう。何も書かれていないでしょ。条件ぐらいしか」
「条件と言えるような条件でもないような気がするけど……。てか、これ難しすぎる」
エイミーは、魔導書をパタンと閉じて、ジルに返す。それを受け取った時と比べて、その手はかすかに震えていた。
「意味は、分かると思う。それぞれの使い手にカギとなる言葉があって、絶対に被ってはいけない。でも、炎の女神を呼び出せる人を、私が一人も知らなくて、何をイメージしているか分からないから……、難しいの」
「たしかに……」
淡々と言葉を紡ぐジルに、エイミーは重くうなずいた。
炎の女神を呼び出すための魔術に、決まった詠唱はない。それが他の火炎系の魔術と大きく違う点だった。他の属性の最高位魔術ですら、ジルが聞いたところでは、特定の詠唱が存在しないものはなかった。
しかし、問題はそこではない。決まった詠唱が存在しないとはいえ、炎の女神を呼び出すための詠唱は必要だった。そしてその詠唱に、いくつかの条件が存在するのだった。
一つ目は、己のイメージする炎の女神の姿を、言葉で称えること。
二つ目は、火炎系の他の魔術と重ならない詠唱であること。
そして三つ目は、炎の女神を操る他の魔術師と、思い浮かべるイメージが重ならないこと。
炎の女神を呼び出そうとする、そこそこ腕を持った魔術師たちが壁に跳ね返されるのは、ほとんどが二つ目、三つ目の理由によるものが大きかった。
女神を呼び出すために必要なのは、その使い手ごとの「キー」。ほぼその一つだった。その「キー」によって、炎の女神はどの魔術師のもとに出向けばいいのかが決まる。だからこそ他とイメージや言葉が重なってはいけなかったのである。
―◇―◇―◇―◇―
「思い浮かべるイメージが重ならないこと……」
ジルは部屋に戻り、魔導書の最後のページを広げ、もう一度女神を呼び出すための条件を細い声で読み上げた。毎日一人ぼっちで過ごす「オメガピース」の宿舎の一室は、ジルが魔術を学ぶのにもってこいの静かな空間だった。
「どうすればいいんだろう……」
既に30回以上、「炎の女神」という言葉を詠唱で解き放っては、その難易度の高さを前に跳ね返されている。魔道書に書いてある、他の全ての火炎系魔術をほぼ一発でクリアしてきたトリビュート・ソーサリストのジルが、ここまで苦しむのは初めてのことだった。
わずか16歳にして、全ての炎の魔術を使いこなすまであと一歩のところまで上り詰めた少女の顔は、日を追うごとにもどかしさがにじみ出ていた。
――トントン!
ジルの部屋のドアをノックする音で、ジルは魔導書からようやく目を反らした。
「誰ですか?」
ゆっくりと立ち上がった途端、今度はドアの向こうから大きな声が響いた。
「ピンポーン!ピンポンピンポンピンポーン!」
決して、呼び鈴ではない。地声だ。ゆっくりとドアへと向かうジルは、その時点で外にいるのが誰なのかが分かってしまった。
「どうせアリスでしょ」
ドアをゆっくりと開くと、そこに妹のアリス・ガーデンスが小さな箱を抱えて立っていた。
「お姉ちゃんに分かっちゃいましたねー。そりゃ、呼び鈴のものまねしてたから」
「分かるって。……あのね、アリス。同じ苗字だから、アリスの噂は私にも入ってくる。もう何度も言ってるけど、人に迷惑だけはかけないで」
「ごめんなさーい」
アリスは、何かあればドジと天然ボケを発揮する。ジルとは全く性格が異なるこの少女が、自分の一つ下の妹だとは、ジルははっきり言って思いたくなかった。
「あのね。私はいま、アリスに付き合っているほど暇じゃないの。私に話があるなら、手短に言って」
「あの……、お姉ちゃんに1日だけでも付いていきたいなって……」
アリスは、「オメガピース」では銃のセクションの初級兵、つまり最も下のランクである。そのため日々の任務では一人で行動することができず、アリスをパートナーに選んだ凄腕の女剣士、トライブ・ランスロットと一緒に行動するのが決まりとなっていた。
「私と一緒につくより、アリスの隣にはもっとすごい実力者がいるじゃない」
「たしかにいますけど……。でも、お姉ちゃんが炎の女神を呼び出す瞬間を、この目で見たいなって」
一瞬うつむいたように見えたアリスの表情は、ものの数秒で輝きを取り戻していた。少女マンガに出てくるようなキラキラとした目を、アリスは見せていた。
「そう言ってくれるとありがたいんだけど、私が炎の女神をいつ解き放てるかは、まだ分からない。明日できるかも知れないし、1年後かも知れない……って、アリス、どうしてその話を知ってるの?」
「じょーほーもー!」
アリスは、勝ち誇ったかのように言う。
「情報網……?」
「はい、情報網ですよ。今や『アルティメット・フレイム』って言われてるお姉ちゃんの噂なんて、『オメガピース』じゅうに伝わっちゃいます」
「その中心にいるのがアリスね……」
「そんなこと言わないでよー、お姉ちゃん!私だって、この話は人から聞いただけなんですから」
「まぁ、そこは気にしないでおくか……。それじゃ」
そう言って、ジルはドアの取っ手に向けて手を伸ばし、アリスを追い返そうとした。だが、アリスの足は既にジルの部屋に一歩踏み入れていたので、ジルの手はその手前で止まった。
「お姉ちゃん、これ受け取ってください。なんか、お姉ちゃんがそこまで苦しんでいるのに、私じゃなにもできないから……」
「え……?これ、なに……?」
ジルは、アリスの差し出した小さな箱に目をやった。まるでお菓子の入った箱のように、カラフルな彩りをしていた。
「お姉ちゃんの大好物のマカロンです。私が部屋で作ったんですが……、もしよかったら食べて下さい」
「マカロン……。いいの?」
こういう甘いものであればアリスが真っ先に食べてしまうことは、ジルが誰よりも分かっている。「オメガピース」でもアリスが食べることしか目が向いていないことは、ジルも風の噂で耳にしていた。そんなアリスが、ジルのために手作りのマカロンをプレゼントするのは、初めてのことだった。
「アリス……!ありがとう」
ジルはそっと右手を伸ばし、アリスの右手を優しく握りしめた。普段は炎の魔術を解き放つその右手は、炎が出ていなくても温かかった。
「もう心配で仕方がなかったんです……。本当です」
「そう。そこまでアリスが心配しているんだったら……、アリスに今の私の状況を説明しても大丈夫?」
ジルが念を押すと、アリスは一言、大丈夫とだけ言った。