第8話 捕鯨船団[後編]
ようやく、ようやく投稿です。楽しんでもらえれば幸いです。
[第一図南丸]、左舷後尾甲板下に設けられた食堂では、五郎と安泰、そして他二隻の船長が集まっていた。
食堂は低い天井に吊るした洋灯によって明るく照らされていた。本来なら油は貴重品であり、暗がりの中での生活を余儀なくされる船では珍しいことだった。
これも捕鯨船の利点のひとつである。
洋灯で燃やしているのは鯨油である。貴重な油を気兼ねなく使えて、全く劣化のしていない採れたばかりの油は臭いもしない。もっとも、航海を始めてからは船底に溜まる汚水と水夫達の体臭を嗅ぎ続けていたため、鼻が鈍くなっているのもあった。
「嵐ですか……」
「確かに、こちらの船員からもその様な報告がありました」
穏やかな空気の中。くつろいだ表情で[第二図南丸]の船長の安西又助、[第三図南丸]の船長の真田七左衛門がそれぞれ答える。
安西又助は安西一族の者で、真田七左衛門は正木時忠の家臣であった。
五郎たち四人は[第一図南丸]船内の食堂で早めの夕食を取っていた。これから時化てしまえば暖かい飯は食べられないので、今のうちに食べておこうという考えだった。
夕食は豪勢なものだった。大盛りの雑穀を混ぜた飯に若布の糠味噌汁、かぶの糠漬け、鹿尾菜の煮物、飲み物に麦茶が出ていた。仕事が重労働であるため、全体的に量が多い。
主菜には大皿にたっぷりと盛った鮫のから揚げである。鯨油を使って揚げたのだが、これが意外にも美味い。小骨も無く身はプリプリとして柔らかい。新鮮だから嫌な臭みも無く、下味に醤油と生姜をきかせた辛めの味付けにしているため、これだけでご飯が進む。
これらの料理を五郎たちは雑談をしながら思い思いに楽しんでいた。
本来なら食事の時も時代特有の細かい作法があるのだが、五郎が面倒だし、妙な見栄を張ってもしょうがないから、と言って普通に食べていた。疲れきっていてそんな余裕も無かった。当然ながら無作法なのだが、他の三人も食事時ぐらいは落ち着きたいし、ここはある意味戦場なのだ。食事の時だけでも気を楽にでき、五郎のお陰で好き勝手食べれるのでむしろ有難いと思っていた。
「という訳でだ。ここで一旦待機。嵐であればやり過ごし、その後、和田港へ帰る。何か異論はあるか?」
糠味噌汁を啜りながら五郎が言う。煮干しの出汁がきいており、中に混ぜた味噌の良い味がした。
これから帰港しても間に合うかどうか微妙で、もし強風が吹くようになったら夜間航行、それも外房沿岸は平時でも危険だ。ならば海錨(海が荒れて航行困難なときに使用する布製の船具。船首が風下に落ちず、横波を受けるのを防ぐ)を流して耐えるしか方法が無かった。
また、台風がどの程度の勢力なのか全く分からないが、どうしても船に負担がかかってしまう。船の損傷も有り得る。里見家では貴重な大型船なのだ。台風が過ぎた後には早く点検したい。
五郎の言葉に皆一様に頷く。ここにいる全員が今晩中には荒れると予想していたからだった。
「いやあ、ありませんね」煮物をつついていた七左衛門が言う。普段はもの悲しげな面長の顔に小さく笑みが浮かんでいた。「下手に動いても、状況は悪化するだけでしょうし」
「真田殿の言うとおりですね。沖にいた方が逆に安全ですから」
安泰はポリポリとかぶの糠漬けを食べ、そのまま飯をかきこむ。朝から働き尽くめで腹が減っていたのだ。
「そうですねェ」から揚げを齧りながら又助も同意する。丸顔の、まだ若い船長だった。「いやしかし、鮫って美味いんですねェ」
「ん? 鮫は食べたことが無いのか?」思わず五郎が訊ねた。
「無いですねェ。最近でこそ地引網やら仕掛け網をやりますが、元々素潜り漁が普通でしたから。それに鮫を食べなくても他がありましたし、たまたま獲れてもすぐに売ってしまいます」
「へぇ、鮫を買う者がいるのか」
「はい。山に住む連中に売れるんですよ。腐りにくいし、値も安いですからね」
この時代の房総半島では素潜り漁がよく行われていた。主に栄螺や鮑といった貝類、若布やカジメ・アラメといった海藻類を中心に獲っていた。
貝類は干して俵物として高値で取引され、またカジメ・アラメは消毒薬の原料で、最近になってそれなりの値で買い取ってくれる。なので、今までと同じように獲っても幾分か余裕のある生活が送れるのでわざわざ船で沖に出て漁をする者は少なく、また鮫を獲る者もいなかった。
「漁と言えば、水軍の水夫達から『漁師と海兵、どっちが本業なのか分からなくなった』という声がありますが……」
口一杯にほおばった麦飯を糠味噌汁で流し込み、一息ついていた安泰が思い出したように言う。
「それは仕方ないだろ。船の維持費だって馬鹿にならんからな」七左衛門が言う。「仕事と訓練が出来て、かつ獲れた魚は日々の食事と給料になるんだ。良い事尽くめじゃないか」
時忠が纏めている勝浦水軍に所属するだけあって、こと七左衛門は金に関しては細かい部分があった。
「いやァ、まず水軍の兵は漁師じゃないですから………、多分」
思わず又助がツッコミを入れるが、否定できなかった。五郎と安泰は笑って誤魔化した。
本来、水軍の船は国人衆ごとに管理され、平時は関銭の徴収に漁業を行い、戦時では漁師や海民を船ごと徴発し、そこに将が乗り込んで戦に参加するようになっている。そのため統制しずらく、また船によって大きさや錬度に違いが出ていた。
里見水軍では水夫を高度な専門職として求めており、またこれらの改善と緊張状態にある北条からの襲来を防ぐため一部は常備軍として再編制されていた。
これは情勢に流されやすい海民を囲い、一定の軍事力の保持と航海技術の流出を防ぐ狙いがあった。
しかし、だ。
これがまた金がかかる。凄くかかる。物凄くかかる。
何せ軍船を用意し、今までは臨時に雇うだけだった人を常時雇うことになるのでその維持費と給料を払わなければならなかった。
そして、里見家は裕福な大名家ではない。むしろ相当な貧乏大名であった。近年では転生者たちの改革で随分と経済が良くなってはいたが、陸の方でも義舜らが中心になって銃兵と砲兵を中心とした常備軍の編成を進めようとしているために資金に余裕が無かった。
そのため水軍では“任務”や“訓練’と称して漁を行い、その日々のおかずや資金を賄っていた。これは水軍でもかなり重要な仕事であった。何せ獲らなければその日のおかずが一品、少なくなるからだ。
ちなみに、“水泳訓練”ならば素潜り漁、“筋力強化訓練”ならば地引網漁、“沿岸哨戒訓練”ならば設置網漁、“遠洋練習航海”ならば捕鯨漁、といった具合である。“遠洋練習航海”は危険度が上がるため、参加できるのは精鋭と言っていい水夫と熟練の船長のみである。
「まあ、本業云々は別に今でなくてもいいだろう。真田殿、二つ三つほどから揚げをとってくれ」
そういって小皿を出した。正面に座っている七左衛門が受け取ると、大盛りにから揚げを乗せる。
それを見た五郎は顔を顰めた。
「おい、盛りすぎだ。食いきれんぞ」
「若はまだ成長期なんですから、しっかり食べませんと」
「そうですよォ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、七左衛門と又助は糠味噌汁を麦飯にかけていた。
もうこれ以上は食べられません、という合図である。
逃げやがった、こいつ等。
「俺よりあっちこっち仕事している連中が、何でそんなにも食べないんだ」
五郎が渋面を作って言うと、乗っかった安泰はわざとらしく咳をしながら弱々しい笑みを浮かべた。
「ゴホゴホ、私達はもう年寄りですので、食があまり進まないのです。ゴホゴホ……」
「いや、お前らまだ二十代だろうが。それに安泰。さっきまで大盛りの飯かきこんでいただろう。それも二杯目」
「はて、そうでしたか……?」
安泰はとぼけた演技をしながら三杯目となる大盛りの飯に糠味噌汁をかけていた。こいつも逃げやがった。他の2人は俯いて小刻みに震えていた。
五郎はため息をついて、取り皿に盛られたから揚げを見る。
食べきれないことは無い。また食べない、という選択肢もある。だが折角の料理がもったいないし、料理人にも失礼だ。残すわけにもいかなかった。
再びため息をついて、五郎は箸を持ちなおした。とりあえず、台風よりも目の前のから揚げの山をどうにかしよう。
齧り付いたから揚げは既に冷めていたが、やはり柔らかくてとても美味かった。
◆
深夜。
五郎たちの予想通り、捕鯨船団は嵐に遭遇していた。
酷い嵐だ。
船だけが茶色く、海も空も、船以外は真っ黒に塗りつぶしたかのように暗い。ゴウゴウと吹き荒ぶ疾風と共に、雨と波が横殴りにやってくる。雨は大粒でひたすら冷たく、波は全て小山のようだった。
船は不規則に揺れ動いていた。風と波、雨音に混じって船の索や綱がギーギーと嫌な音を立てる。
潮流に押され、船首が風下へ落ちようとして片舷側が波くぼに落ちたと思えば、直ぐに反対舷が落ち込む。そして波の狭間から伸びる綱がピィン、と伸びると大きく揺れながら船首は再び風上へ向く。
正面から高波が来る。波が船を飲み込もうとして、海水の奔流が甲板へ雪崩れ込む。一拍置いて、船にぶち当たって砕けた波しぶきが上がり、雨に混じって甲板と水夫たちに降り注いた。水は甲板を洗い流し、水夫たちの着る油布の外套に水が弾けてバチバチと音を立てる。
「くそ、なんつー嵐だ!」
手摺りにしがみつきながら五郎は悪態をついた。腰に縛り付けた命綱があったが、とても安心できなかった。波だけでなく、荒れ狂う疾風に吹き飛ばされそうだった。
五郎の顔は寒気と船酔いですっかり青ざめていた。
しっかりと外套を着込んでいたが、波を被ってしまえば開いた隙間から海水が流れ込む。しょせん自然の猛威への小さな抵抗に過ぎず、雨と波が身体に当たるたびに熱と体力が奪われていく。
それだけでなく、風と雨でまともに目を開けられず、船底を通るうねりで船自体が持ち上がり、落ちることを繰り返しているので縦揺れが酷く、また波を受けて横揺れを繰り返すのだ。足元どころか、視界も安定しない。真っ直ぐ立っているのかも分からない。
直ぐそばにいた水夫が金切り声を上げる。
「波、来ますッ!」
「総員、つかまれーッ!」
また船が急傾斜し、頭上から塊となった海水が落ちてくる。息を止め、ただ波が通り過ぎるのを待つ。
時間にしてほんの一、二秒だろうが、ようやく波が引いた。大きく息を吸い込む。
手近なものに捕まり、腰を屈めていた水夫たちは作業を再開する。かじかんだ手で綱を引っ張り、身体に来る疾風をどうにか堪えながら破損箇所が無いかを確かめていく。
五郎は当直の水夫たちと共に索具や器材の点検をしていた。事前にしっかりと固定したが、嵐による強い緊張を受け続ければどうしても何処かが緩んでしまうのだ。索具が緩んでしまうと、檣が船体の揺れに耐え切れず折れてしまうことがある。
五郎がしかめっ面で前を見ている中、誰かが右肩を叩いた。振り向いてみれば、副長の安泰だった。
「船長ッ! 報こ、――下ま――!」
安泰は大きく口を開けて叫んでいたが、声は風に吹き飛ばされて途切れ途切れに聞こえた。階段の方を指差す。
「分かったッ!」
安泰の身体を叩き、甲板を慎重に歩き出す。船は一定の間隔で上下左右前後へと揺れ動き、不意に大きく傾斜する。苦労して、ようやく船内に戻ってくると幾分か気持ちが楽になった。足を踏ん張り、首に巻いていた手拭いをギュウと絞って雑に顔を拭く。安堵のため息をもらすと、鼻にいつもの船特有の陰気な臭いに加えて、酸っぱい臭いが混じっていた。
(……ああ、そりゃそうだろうな)
臭いの正体が分かって、五郎は内心ごちた。
船内には軋む音に混じって、奥から水夫たちの呻き声が上がっていた。
捕鯨船団に使われている図南丸型は従来の和船と違い、長期航海を主眼としているため居住性が大幅に向上している。今はまだノウハウを貯める最中と考えているため、積荷を減らし、船室を広く取っていた。それでも船長以外に個室はなく、交代で船内のいたる所で釣床を釣るして寝るようになっている。暗くて、ジメジメして、狭いという、まるで牢獄のような船内であったが、従来のように甲板に雑魚寝するよりは遥かにマシだった。
だが、これだけの嵐は熟練の水夫たちでも未経験のようで、かなりの数が船酔いで苦しんでいた。五郎もまた臭いと声を聞いたせいか、またぶり返してきて気分が悪くなってきた。
「船長、お疲れ様です」
「お疲れ様、副長」
互いに軽く敬礼。
「点検は一通り終わりました。その報告です」
「そうか。――ん?」
思わず顔を下に向ける。
船内には変わらず様々な音が混じって響いていた。
ただ、何となくだが、微妙に、軋む音が違ったような……?
「いや、気のせいか?」
耳をすませてみても、特に音は変わらない。
「どうしましたか?」
不思議そうな顔をした安泰が訊ねた。五郎はなんでもない、と軽く手を振り船室の奥を指差す。
「とりあえず、そうだな。食堂は水夫たちが寝てるから、私の個室に行こう」
安泰を椅子に座らせ、船箪笥から麦茶の入った水差しと銅製の金茶碗を二つに私物として持ち込んだ菓子箱を取り出す。
「ほい、麦茶」
「ああ、有難うございます」
「飴ちゃんいるか?」
「頂けるのであれば」
あいよ、と五郎は軽く返事して二つ三つほど紙に包まれた生姜飴を渡す。
安泰は有難そうに麦茶を飲み、生姜飴を口に入れた。
五郎も生姜飴を口に放り込む。ぴりッとした生姜の辛さと、蜂蜜の甘さが口の中にじんわりと広がる。
人心地がついた所で、五郎が話を切り出す。
「それで、船内はどうだった?」
「今のところは些細な問題だけです。船匠班によると、嵐による緊張で船体にひずみが出ているそうですが、既に補強したそうです」
「うん。甲板側も特に問題は無い。とりあえず甲板の索具や器材はまだ大丈夫そうだ」
今のところ、特に問題も無く、遭難者や怪我人は出ていない。だがやはり、嵐に対しての経験が少ないのが痛い。こればっかりは調査と経験の積み重ねが必要となるので、直ぐに対策が取れるものではなかった。
船内に轟音が響いた。二人は慌てて壁にある手摺りに捕まる。左に大きく傾き、やがて右に落ち込む。
「しかし、なんだ。本当にげろげろな嵐だな」
酷い揺れが少し収まったところで、五郎はため息混じりに言う。
船は木っ端のように揺れて落ち着かず、船のいたる所が大波に白く洗われる。
まだこの程度の嵐ならば大丈夫だとは思うが、こうも揺れると少しばかり海が怖くなっていた。
「そうですね。ですが、良い訓練日和ですよ。何より楽しい」
「楽しい、ねえ……」
お前正気か、と言いそうになるのを堪える。安泰は目を輝かせ、笑みを浮かべながら言っているので、本当にこの状況を楽しんでいるようだった。今、ここにいる船員の中で嵐を「楽しい」なんて言えるのは安泰ぐらいだろう。
「船乗りの技量が確かめられる状況ですからね。楽しい以外ありませんよ?」
「……うん、まあ、そういうことにしよう」
いつか、自分も安泰のように嵐を楽しむ時が来るのだろうか。嫌だなあ。そういう状況には行きたくない。
「ああ、そういえばだ」五郎は話題を変える。「汚水はどれぐらい溜まっている?」
「はい。測深しましたが、いつもと変わらない数値でした」
「変わらない? 本当にか?」
ありえない、そう五郎は言った。
どんな出来の良い船であっても、船底に汚水は溜まる。漏水や結露、波しぶきが船内に入ってくるからだ。ましてや、今は嵐である。波を被り、緊張で船材にひずみが出ているのに、何時もと変わらないというのはおかしい。この状況なら喞筒排水は欠かせないはず、五郎はそう考えていた。
「喞筒で排水は続けているのか?」
「いえ、今は汚水は無いと判断したため、停止させています」
「ふうむ……」何か、嫌な感じがある。「確認してみよう。どうにも気になる」
暫し思案した後、五郎は言った。あまり言いたくない言葉だった。安泰と、作業を行った水夫を信頼していない、そう捉えられるからだ。
「はい」安泰は静かに言った。
二人は船尾にある喞筒へと向かった。
そこには喞筒と、測深するための汚水溜まりがある。
安泰が直ぐに壁に洋灯を設置し、辺りを明るく照らす。
五郎は壁にかけてあった測深に使う測鉛索を掴み取る。測鉛索は目盛りの刻まれた棒に、細い紐を付けただけのものだ。棒は十分に乾いていた。
汚水溜りを測るための開口部から測鉛索をゆっくりと差し込む。直ぐに棒が船底に当たる手応えがあった。引き上げ、手繰り出した棒を見やる。
「……確かにいつもと変わらないな」
思い違いか、と内心感が外れたことにがっくりした。でもやっぱり何かが引っかかる。
汚水溜まりの近くに、何かあったか?
「副長、この下には何があったか?」
五郎は言ってから後悔した。なんて初歩的で馬鹿な質問だろうか。そんなもの、もう既に知っている筈なのに。
「この下、ですか?」なんとも不思議そうな顔で安泰は言う。
「うん、そうだ。この下だ」五郎は言った。既にどうとでもなれ、と開き直っていた。
「はい。下は船倉になっています。まあ重石と食料ですね。たくさん積んでます」
知っている通りだ。
船倉には船のバランスを取るための重石が敷き詰められており、他に食料や水樽といった重い物が置かれている。出港前の食料や甲板で焚いた鯨油など、そこに積むよう言ったのは五郎なのだ。実際に何度も船倉に入っている。
(食料、水樽、炭ね。炭で湿気を吸ってんのかね。水樽は、ああ、また水が臭くてしょっぱくなるな。米や麦も――)
「――あっ」
「船長?」
「副長、船倉に行くぞッ!」
嫌な考えが頭をよぎった。五郎は洋灯を掴み取り、急いで船倉へと飛び降りる。
船倉は船の最下層、中船梁の下の狭いスペースに設けてある。まだ子供の五郎でも頭を少し下げないと梁に頭をぶつけてしまう。上向きのコの字となっている部分には重石が敷き詰められ、そこから斜めに繋ぎ合わせた中棚に預けるよう、ぎっちりと食料や水樽などが置かれている。
洋灯で船倉を照らすと、中は五郎の予想通りのことになっていた。
「副長!」
「はッ」五郎の意を汲んだ安泰はすぐさま階段近くに待機していた伝令に命じた。
「伝達、総員緊急配備!船匠班は船倉へ出頭!」
『伝達ッ!総員緊急配備!船匠班は船倉へ出頭せよッ!』
階段近くに待機していた伝令は直ぐさま拡声器を口にあて、上へ叫ぶ。各所に配置された伝令が命令を受け取り、大声を上げる。まるで木霊のように繰り返されていくのが聞こえた。
「副長。君は甲板に上がって指揮を執ってくれ」
「はッ、甲板の滑車を準備させます」
「頼む」
安泰が甲板に上がり、ややして慌てた様子で水夫たち数名、船倉へ降りてきた。船室で蹲っている水夫よりかは元気そうだ。しかし、順に並ぶのを見れば軍帽を被っておらず、服装が整っていない者がいることに気付く。
五郎はジロリ、と規則に沿っていない若い水夫を睨みつける。明らかに機嫌が悪い船長にじっと睨みつけられる理由が分からなかった水夫は困惑した表情を浮かべ、もじもじしていた。そして周りの服装と自分の服装を見比べ、ようやく気付いたようだ。一気に真っ青な顔に変わった。
「ふん、まあ後で良い」と、五郎が言った。緊急事態のたびにこうではどうしようもないが、今はやることがある。
「はっ、何か御用でしょうか?」水夫たちを代表して、船匠長が言った。
「食料を捨てるぞ」
「はあ?」
「食料を捨てると言ったんだッ! 急げ、甲板から綱が来る。さっさとやれッ!!」
「は、ははッ!」
五郎は苛立たしげに呆気にとられた水夫たちを怒鳴りつけると、すぐさま行動を始める。大きく揺れる足元を確かめながら慎重に、外板近くに並べられた米俵に近づく。そして一様に驚きの表情を浮かべた。
米俵は、異様に膨れ上がっていた。米が水を吸っているのだ。だから汚水が少なかった。米だけでなく、乾燥若布や雑穀を入れていた袋も膨れていた。これも捨てなければならない。
ガタン、と音を立てて甲板へと繋がる開口部が開き、冷たい外気が入ってくる。
同時に、船が揺れるたびに甲板へと繋がる開口部から滝のように海水が流れ込んできた。海水と一緒にぶらぶらと振り子のように揺れながら鉤付きの綱が垂れてきた。
「誰か、いやそこの軍帽を忘れた水夫。そうお前だ。喞筒係につけ。稼動させろ。他の者は袋を運ぶんだ」
1袋ずつ、揺れで落ちないよう支えながらゆっくりと上へと引っ張り上げられていく。
ある程度、食料を捨てたことでがらんとした船倉内を丁寧に確かめていく。
「漏水してますッ!?」
悲鳴のような声が響く。誰もが青ざめた顔になった。
原因は膨れた袋に圧迫されたためだろう。中棚にいたる所に幾つもの小さな亀裂が入っており、そこから水が吹き上がっていた。
五郎は近寄り、その亀裂をじっくりと見やる。あまり深くは無い。まだ簡単な補修で済む。が、もし、気付くのが遅かったらと思うと、背筋に嫌な汗が流れる。
……いや、今はそんな事を考えている暇は無いな。
「誰か、槙皮と松脂、あと板材を持ってきてくれ。怪我しないようゆっくりな」
「は、はいッ!」
「ほら皆、仕事だ。直ぐに亀裂の補修に入ってくれ。なに、大したものではないから直ぐ終わる」
努めて朗らかな声で周りに聞こえるよう言うと、水夫たちも幾分か落ち着いたようだった。実際に亀裂に近づき、大したことは無いと確信したのだろう。先程までの萎縮した雰囲気はなくなり、直ぐに船匠として作業を開始した。
「船長、持ってきました」
「うん、ご苦労」
軽く礼を言ってから受け取り、五郎もすぐさま補修を行う。といっても、ただ槙皮を亀裂に槌で押し込んで松脂を塗れば殆どは大丈夫で、亀裂が大きいものもその上から板を打ち付ければ漏水はしなくなった。
「船長っ!」伝令から声がかかる。安泰からだった。甲板に来て欲しい、とのことだった。
「直ぐに行くっ!」
五郎は近くにいた水夫に持っていた道具類を引き渡すと、船匠長に顔を向けた。
「船匠長、君はそのまま作業を進めてくれ。まだどこかに亀裂があるかもしれないから、船内の確認だけはしてくれ」
「はッ。船長、お気をつけて」
「有難う。船匠長もな」
そして、お互いに崩した敬礼をした。
◆
「もうすぐ日の出です」安泰が言う。「海も落ち着いてきましたな」
空はどんよりとした黒雲が厚く覆っており、全く日差しの暖かさが感じられないが人の顔がややはっきりと見えるぐらいまで明るくはなっていた。
安泰の言うとおり、紺色の海も大分落ち着いてきていた。嵐の峠は越したのだろう。ただ未だに風は強く、波とうねりで船は大きく揺れていた。
「ああ、だが被害が少なくは無いな……」
遭難した船は無かったが、薄暗い中でははっきりと分からないがどの船もどこかしら損傷していた。特に第三図南丸は艤装の一部が吹き飛んでしまったため、一時停船して修理に入っていた。
「ともかく、まだ時間はかかる。副長、君は休憩に入ると良い」
「はい、ですが」
少しだけ不満そうな表情で安泰が言う。ただ、いつもより顔に力が無い。流石の安泰でも少し疲れたようだった。
「まだ仕事が残っております」
「仕事は佐吉に引き継がせろ。それに、港に帰るまでずっと仕事していられるのか?」
五郎はニヤリと笑う。僅かに諧謔を含ませていた。安泰はくすりと小さく笑った。
「――はい、分かりました。休憩に入ります」
「うん、お疲れ様」
お疲れ様です、と安泰は答えた。
入れ替わりに船匠長がやってきた。
「本船の補修は終わりました。いつでも走りだせます」
「分かった」
チラッ、と五郎は他の船を見やる。第二図南丸ももう直ぐ動き出せそうだ。第三図南丸はまだまだ慌しく見える。
「本船を第三図南丸近くまでつける。船匠班は作業の応援を送って欲しい」
「はっ、了解です」
「疲れているとこ済まないが、頼んだ」五郎は佐吉に振り向き、命令を出す。
「佐吉殿ッ、右舷開きで一杯に回せ! 本船を第三図南丸に横付けしてくれ!」
「はッ!」
佐吉は掌帆員を纏め、転桁索を動かす。船は少しずつ帆に風を集めて膨らみ、ゆっくりと第三図南丸へと向かって走り出した。
「佐吉、私は部屋で仮眠を取っている。何かあったら知らせてくれ」
船匠班が乗り移ったのを見届けたところで五郎はその場を離れ、船長室へと降りた。
部屋に戻ってくると椅子に深く腰掛けた。はあーと深く息を吐くと同時に気が緩み、身体から力が抜けてぐったりとした。
暫く、背もたれに身体を預けていたがやることをやらないとなァ、と思い返す。
身体を起こし、引き出しから矢立と航海日誌を取り出す。
嵐についてはっきりと覚えているうちに色々と書かねばならない。でないと、また嵐に遭遇したときに困るのは自分たちなのだ。それに、まだ仕事はあるし、陸に帰ったら帰ったで本航海の成果を報告し、獲れた物をどうするか決めなくてはならない。また面会に来る国人衆や商人達の相手をしなくてはいけない。面倒な歓待もあるだろう。今じゃないと時間が取れない。
無理やり身体を起こし、机に向き合う。
(とりあえず、だ。陸に帰ったら、ゆっくりのんびりと風呂に入りたいな……)
そう考えながら、五郎は航海日誌をつけ始めた。
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