第7話 捕鯨船団[前編]
ようやく投稿です。楽しんでいただければ幸いです。
天文二十(1551)年七月 安房国 和田港 南東の沖合 第一図南丸
赤く染まった海の中で、巨体が震えていた。
細く突き出た口を持つ槌鯨はその身体から見てちっぽけな銛で全身を穿たれていた。傷口から血をとめどなく流し、苦悶する声をあげるように擦れた音を立てる。もう瀕死の状態だった。先程までの様にのた打ち回ることもせず、銛から伸びる細くしなやかな綱で己よりも複数のちっぽけな存在に繋がれている為に潜ることも叶わず。ただ血の混じった噴気を上げる。
「漕げ、漕げッ! 船を寄せるんだ!」短艇を指揮する艇長ががなり声を上げる。短艇が鯨のそばまで近寄る。「そうだッ! もっとだ、もっと寄せろ!」
艇長の言葉に反応したのか、鯨がピクリと反応し、身動ぎをする。まるで五月蝿い蠅を追い払うように赤く染まった海面をひれでバシバシ叩く。
慌てて短艇は鯨から逃げ、落ち着いた頃を見計らって再び近づく。艇長は今度は神妙な顔で小さく「ゆっくり近づけろ。そっとだぞ、そっとだからな」と言う。水夫達も同様に神妙な顔をして頷いていた。
五郎はその姿に安心する。船から投げ出されたり、怪我をしていないようだ。ほっとして身体から力が抜け、そして短艇での水夫のやり取りに顔も緩みそうになるが、無理やり我慢する。五郎の考える船長というのは常に冷静に、泰然とすること。背筋を伸ばし、情けない顔をしたら船長としてみっともない。そう考えていた。
周りに悟られないよう軽く目を瞑り、小さく深呼吸する。顔に力を入れる。
再び鯨と短艇を見やる。命令どおり、静かに短艇が海面に横たわるような力無く浮いている鯨にぴったりと横付けされていた。
艇長は笹穂槍のような形をした殺し銛を手に持ち、舳先から身を乗り出す。そして、鯨の胸の奥にある心臓に目掛けて勢い良く突き出した。瞬間、鯨はビクン、と巨体を震わせ、ひれでバチャバチャと海面を叩くが既に力は無く。鯨は最後に微かな噴気を上げて、それっきり動かなくなった。
船上にはほっとしたような、緩んだ空気が漂う。五郎は手に持っている用箋挟に挟まれた紙に目を落とし、鯨の種類と日付、捕獲地点、天候などを書き記す。これで3頭目。幸先良いことだ。
書き終えたところで首から提げた拡声器に持ち替え、命じた。
「曳航準備ィー、かかれェー」
短艇の水夫達が鯨へと取り付く。まず噴気孔には赤く染めた布を巻き付けた銛を突き刺しておく。船に繋がる銛を引き抜く。中の肉を冷やすために肉切り包丁で鯨の腹を割き、鼻に穴を開けて綱を通し、また尾びれにもしっかりと綱を巻きつける。尾びれは船首側に、鼻から通した綱は船尾に結び付けてやると丁度鯨が舷側に寄り添うようになる。
「副長、針路は西北西」
「了解です」
副長の安泰が答え、細かい指示を飛ばす。
第一図南丸は総帆を開き、船を傾けながら走り出した。
二刻(1時間)ほど走らせた所で、停船する[第三図南丸]を発見する。やや離れた所に[第二図南丸]もいた。
第三図南丸は丁度、昨日仕留めた鯨の解体作業をしていた。
左舷側に立っていた足場を倒し、そこに数人の水夫が立っていた。下には鯨の巨体が浮いている。1人があの薙刀の様な肉切り包丁を手に持ち、鯨の身体に深く切れ込みをいれる。残りの水夫が滑車を引っ張り、そこから垂れる鉄製の太い鈎爪を深く差し込む。この鈎爪から伸びる綱は幾つものの滑車と檣を経由し、巻上げ機である大型の轆轤に辿り着く。
「おぅし、いいっぞ! 巻け、巻け!」
水夫達が大型の轆轤に取り付き、身体を力ませ「エイサ、エイサ」と掛け声と共に回す。綱がピインと張ると船が更に傾き、檣と滑車が軋み上げる。
そして。
ベリッベリッ、と鯨から引き裂く音が立つ。すかさず足場にいる水夫が引き剥がされる皮と肉の間にあの長柄の包丁を差込み、切り開いていく。鯨はゆっくりと水中で回転を始める。まるで大根の桂剥きのようだ。ベリベリと皮が剥がれていくと同時に辺りに獣臭が広がった。水夫達の掛け声が一層大きくなる。
ぐるりと一周。
前檣に血を滴らせ、湯気が立ち昇る長く分厚い皮と脂身が吊るされる。
水面は赤く染まり、少し細くなった赤い鯨だけが残っていた。この赤い鯨にも鈎爪をかけ、次々に肉を切り出し、内臓を取っていく。これらは海水に一旦晒し、ある程度血が抜け、冷めたところで船内の加工室へと運ばれる。最後に骨も鯨油の原料や肥料に使えるため回収される。
作業を眺めていた五郎はそろそろ良いかな、と判断し、命令する。
「旗手。第二、第三図南丸に信号、『第一帰還。鯨捕獲成功』」
すぐさま手旗信号で第三図南丸に伝えられる。直ぐに返信は来た。信号を見た旗手が内容を読み上げる。
「二隻から返信がありました。『無事ノ帰還、及ビ捕獲成功ヲ祝福ス』」
「うん。返答『感謝』」
第一図南丸はゆっくりと周り、第二、第三から少し離れた場所に停船する。これでようやく肩の荷が下りた。これからしばしの休息となる。
五郎は水夫達に聞こえるよう、声を張り上げる。
「諸君!ご苦労様でした」
水夫達は足並みを揃え、笑顔で水軍式の敬礼――手の甲を相手に向けて指をを帽の右前部に当てている。船の操作の際に木タールを染み込ませた麻綱を持つため、手の汚れを相手に見せないためだ。
五郎も笑顔で答礼し、満足そうに頷く。
「副長、作業班と当直の者以外は休憩に入らせるように」
「はい」安泰は静かに頷く。
「――ああ、それとだ」五郎はさも思い出したかのように言う。「全員に酒を一杯、出してやるように。一杯だけだぞ」
これを聞いた水夫達から歓声が起きる。酒は船での数少ない楽しみであった。五郎は非番の者に酒樽を船倉から出すよう命じ、安泰と共に船内に戻るため歩き始めた。
「佐吉殿はいるか?」
「はい」
安泰の呼びかけに直ぐさま壮年の男が答えた。この船の航海士、その1人であった。航海士は航海や操船、船の保守・整備などを統括する役職である。
「佐吉、後は頼んだ。何かあったら呼んでくれ」
「はい」
佐吉は短くしかりと答え、船の指揮を引き継ぐ。そのまま指揮を飛ばす姿は五郎から見ても堂に入っていた。
二人は艦尾甲板から降り、そのまま船室の中に入る。
船室に入って右舷側は海図室になっていた。
中は暗くて狭く、二人だけでも圧迫感があった。唯でさえ狭い船室の大半を占める机があるためだ。洋灯に点火器で明かりをつけ、入り口の帳を引く。そして机の上に棚から取り出した海図を広げた。水軍が地道に測量し、製作した房総半島南部の海図である。
「さて、と……」
五郎は用箋挟の情報を確かめ、海図に小さく鯨の捕獲地点を書き記す。
「思ったよりも順調ですね」
「そうだな。初心者の大当たりとも考えられるが……。これだけ獲れれば帰港してもいいか」
今回初となる捕鯨船団は、第一図南丸、第二図南丸、第三図南丸の三隻から編制されている。まだ航海を初めて十日だが、運が良いことに鯨の群れを立て続けに見つける事に成功し、図南丸三隻で槌鯨を計十頭捕獲していた。捕獲した槌鯨の体重は大きいものだと一頭当たりおよそ二千七百貫(10トン)ほどで、単純計算で図南丸型1隻の積載量近く捕まえた事になる。
試算では槌鯨五頭で図南丸型一隻分の建造費を賄えるため、一度目の航海でもう十分な利益が出ている。ここで帰港しても問題無いと五郎は考えていた。
「それに、水夫達も疲れ始めているからな。まあ、俺もだが……」
「そうですな。――実を言うと、私も結構キツイです」
お互い溜まった疲れを吐き出すようなため息をつく。
水軍では平時の航海中、四時間の勤務を行い、八時間の休憩を挟むという三直制を採用していた。水夫達はこれに則って行動するが、五郎と安泰は役職が船長と副長であるため船の指揮の他にもやることが多かった。そして何かあったら――例えば鯨を発見した、針路の変更、当直の引継ぎの報告など――休んでいようが直ぐに呼び出されてしまう。まともに休む時間など殆ど無かった。
ましてや、今は初夏である。照りつくような日差しとジメジメとした湿気が余計に体力を奪っていた。
そして、二人の頭を悩ます問題があった。
先の試験航海によって大小様々な問題点が出てきたが、その中でも特に問題だったのが水と燃料の消費量であった。
この二つは重要なため予想した必要量よりも多く、積めるだけ積み込んでいた。当初の試算では一月は持つと考えられていたが、既に残り少なくなっている。
理由は、食料の保存と病気対策にあった。
船が木造のため湿気が多く、換気も碌に出来ない。そして荷物に紛れ込んだ鼠、油虫、蛆虫が食料に集って大量発生した。また食料と水はその重量からバラスト(船の重石)として船底に保管されていたが、船底に溜まった汚水が真水や食料の入った大樽に染みこみ、汚してしまった。
そのため真水は消毒する方法が無いため直ぐに緑色に変色してしまい、湿気と鼠、虫の所為で食料の傷みも早いのだ。
また船上では真水は貴重なため、服や身体を清潔に保つことが出来ない。何より狭い船内に多くの人員を乗せているため、一人でも熱病に罹れば直ぐに伝染してしまう。事実、船で病気で亡くなる人は戦死者の十倍以上にもなった。
これらの対策として船内を出来るだけ清潔に、かつ船員にはマメに海水で身体を洗うようにして衛生状態を保とうとしている。また鼠捕りの罠と、「船に乗せると幸運を招き、遭難しない」という願担ぎから三毛猫を置いていた(本来は雄の三毛猫なのだが、希少過ぎて見つけることが出来なかった)。
そして、病気でも特に問題だったのが壊血病と脚気である。
壊血病はビタミンC、脚気はビタミンB1の欠乏により引き起こされ、水軍ではその対策として食事を雑穀入りの飯、味噌汁、漬物、これに塩漬け肉や獲れた魚を基本としていた。そのため従来よりも水と燃料を多く使うようになった。品数が多く、雑穀入りの飯自体が白米に比べて炊くのに時間がかかってしまうためだ。
「ですが、今更止める訳にはいきません。兵が納得しません」
「だよなあ。堅パンじゃ米の代わりにはならんし、おやつ扱いだしなァ……」
燃料の節約のため、何度か試しに英国海軍方式の洋食(堅パン・豆と塩漬け肉のスープ)を出したことがあったが、全員が「口に合わない」、「不味い」、「腹が膨れない」と不満を露わにしていた。
それに食事の充実は病気対策で始めたが、五郎達は自立性の高さから中々従わない海賊達を呼び込む一つとして「訓練に参加し、新たな水軍に配属された者はたらふく飯を食わせる」という触れを出していた。
一部の海賊は従わなかったものの、三食食べられ、偶に酒も出て、かつ服も支給されるため多くの水兵を集めることが出来た。捕鯨というキツイ仕事でもさほど不満が出ず、水夫の士気を維持できるのもこのお陰であった。これを止めてしまえば折角出来てきた信頼関係も崩れてしまう。
「ま、無理に食べ慣れていないもん食わしてもしょうがないか」一旦区切り、五郎は歪んだ笑みを浮かべる。「それに、堅パンと一緒に新鮮なタンパク質を摂らせる訳にもいかんしな」
「そう不気味な事を言わないでください……」
カラカラと笑う五郎に対して、青ざめた顔で突っ込む安泰。かつて帆船が全盛期だった時代には薄暗い中で食事していた。食べ物を見ないようにするためだった。また堅パンは机でトントンと叩いて虫を出してからスープに浸したり、浮く油を塗って食べていた。バターは古くて腐っていることも多かったからだ。
その実話を想像し、安泰は気持ち悪くなった。
「まあ、ともかくだ。何か良い方法を考えないと―――」
五郎はそこまで言って、部屋の外に誰かがいるのに気付いた。誰かが遠慮がちに柱を叩く。
「なんだ?」努めて重みのある声で五郎は言う。
「佐吉殿からの伝言です」
佐吉から、ということは上で何かあったのか? ともかく聞かなければならない。
五郎は背筋を伸ばし、顔を引き締める。
「どうぞ」
五郎が言うと、部屋を仕切る帳が引かれた。まだ若い水夫だった。敬礼し、入り口に立ったまま口を開く。
「佐吉殿から伝言です。直ぐに来て欲しいとのことです」
「分かった。直ぐに行く」
急いで甲板に出ると、水夫達が一点を見つめて何か騒いでいた。目線の先には、捕まえた鯨がいる。
五郎も目をやり、そして顔を顰めた。正確には、その周囲の海。
「鮫か……」
鯨の周りには、血の匂いにつれられたのか鮫が集り始めていた。遠くから見ても分かるほどの群れだ。そこだけ飛沫が舞い、海面が泡立っていた。勢いよく走り出した鮫は鯨に齧り付き、身体を捻らせてその肉塊を引き千切っていく。
「佐吉、緊急事態はあれか?」
「はい、船長。ごらんの通り、鯨に鮫が集っていまして……」
「こうも数がいるとな……」
「ええ、はい……」
見た感じ、鯨の皮と脂身だけは回収できたようだ。
折角の鯨をこれ以上とられまいと、水夫達が銛や肉切り包丁で撃退しようとしているようだが、数が多い上に興奮している鮫たちにはあまり効果は無いようだ。
さて、どうやって鮫を退治するべきか。
数頭ならともかく、群れで動く鮫の中に短艇を降ろし、追い回すのは危険すぎた。怪我人、下手すれば死人が出る。こんな事で貴重な水夫を失いたくない。確か、鮫の撃退法は電気ショックと超音波だったか。
……駄目だ、全く思いつかない。
最悪、鯨を切り離すしかないか、と五郎が思案していると、安泰が何気なく言う。
「鮫も獲りますか?」思わず訝しげに見る五郎をよそに、安泰は続ける。
「いくらか資金の回収にはなりますが」
鮫の白身を切り分けて干物にしても良いし、鮫皮は革製品の素材になる。また鮫のひれを湯がいで、皮をとって天日干しにすればふかひれになった。
悪くないと思いますが、と言う安泰に対して、五郎は内心、だからどうやって獲るんだよ、と思いつつ、代わりにやや困ったような表情を浮かべた。
「んー、確かにそうだが……」五郎はあまり乗り気では無いことを滲ませて言う。「出来るのか?」
絶賛、腹を空かせた鮫たちは血走った目で脂の乗ったレアな鯨肉を楽しんでいる最中である。
五郎としてはあまりお近づきになりたくない。下手に手を出して怪我人を出したくは無かった。
「投げ銛を使って一頭ずつ引き上げていきます。時間はかかりますが、確実で安全です。水夫達の中には何人か鮫の加工が出来そうな者のあてがありますので、全く駄目ということにはならないかと」
(………ああ、それがあったか)
思わずそう口に出そうとして、慌てて口を紡ぐんだ。そんな事を思い付かなかった恥ずかしさと、自分の無知さを周りに見せたくなかったのだ。
「――なるほど、そうだな。では早くやろうか。鯨がなくなっちまう」
「はい」
さっさと話を進めるべく、やや早口で五郎が言うと、安泰は直ぐさま仕事にかかった。幸いにも、安泰は五郎の様子に気付かなかった。彼は何か考えているのも、鮫の価値と今後の商売についてだと思っていた。
五郎は周りの人間が見ていないのをさっと確認する。気持ちを落ち着かせようと小さく深呼吸をひとつ。
安泰が号令をかける。水夫達が慌しく動き、準備に取り掛かる姿を五郎は動かず、ずっと眺めていた。
◆
日が西に傾いたところで、ようやく鮫の駆除と鯨の解体が終わった。
第二、第三図南丸にも手伝ってもらい、一頭ずつ鮫を確実に仕留めていく。そして第一だけでに十頭は捕って、ようやく鯨の解体作業が再開できた。その時には鯨の身体は黒々とした血が抜けて綺麗な赤色になり、あれだけ鮫に集られたというのにその大きさにあまり変化は見られなかった。
捕った鮫は仕留めて直ぐに部位ごとに切り分けられ、白身は今日の食事のほか塩漬けにされ、ひれは湯がいで甲板で天日干しさせている。
「やー、やっと終わったか……」
既に水夫達は疲労困憊、五郎も声が枯れて、ずっと立ちっぱなしでフラフラだった。若干、熱中症なのかもしれない。早く部屋に戻って休みたい、そう考えていたが、報告と引継ぎが終わるまで見栄を張っていなければならなかった。
そして待ち望んでいた時鐘が鳴る。八点鐘。交代の時間だ。
船室からぞろぞろと出てきた水夫達が次々と交代していく。五郎の下にも当直だった各担当から報告を受ける。
といっても、この海域から全く動いていないため、特に問題は無かった。
船医――翁と呼んでいた――からは、怪我人の報告であった。引き上げる際に鮫に噛みつかれ、水夫が数人怪我をしたのだ。
「既にヨーチンで傷口を洗い、治療も終わっております。幸い傷は浅いので、特に問題は無いでしょう」
「そうか」五郎は安心したように呟く。「翁もご苦労様でした。では、休息に入ってください」
「ハッ、失礼いたしまする」
互いに水軍式の敬礼。入れ違いになるようにして、安泰がやってきた。後ろには操舵手の伝七がいた。顔つきからしてあまり良い報告ではなさそうだ。
「どうした?」
「風が回り初めて、強くなってきました」安泰は空を険しい表情で睨む。「時化るかもしれません」
ふむ、と五郎はぐるりと辺りの空を見渡す。茜色に染まっているが、雲は少ない。確かに風は強くなっているが、外海ではよくある風にも思える。さほど気にする必要も無いと思った。
「……私には分からんな。伝七はどう思う?」
伝七はこの船に乗る前から操舵手として廻船に乗っていた生粋の船乗りであり、海上での経験も豊富にある。その知識と経験が未知の捕鯨船団でも役立つとされ、参加することになったのだ。
「はい、船長。確実に、とは言えませんが、可能性はあります」伝七は小柄で、表情は常に眠たげである。表情は変わらず、半目のまま五郎にはっきりとした声で答える。
「この時期の海は急激に変わります。しかし、かつて経験した嵐の前はこの様な天気でした」
この言葉を聞いて五郎は考え込む。信頼できるベテランの二人が時化ると予想しているのだ。まず、間違いないないだろう。
「……この時期だと台風――野分か」
「少々まずいですな」
捕鯨船団の船は通常の和船よりも強固ではあるが、洋式帆船に比べれば耐久性に劣る。嵐に耐えられるか不安な点があった。
「なんでこう、嫌なことは重なるのか……」
いい加減休ませてくれ、と五郎は苛立たしげに愚痴を零しながら、軍帽を取り、バリバリと頭を掻く。
……しまった、やってしまった!
船長は常に泰然と、冷静に。そう心に決めていたのに。
ちらり、と安泰と伝七に目を向ける。
ほんの僅かに、同情と何か不思議そうな表情が入り混じっていた。
これは、ちょっと恥ずかしい。
「ゴホン」
五郎は何事も無かったかのように軍帽を被りなおし、近くを通りがかった信号係に命令する。
「信号係、第二、第三図南丸に信号を送ってくれ。至急、こちらに短艇を寄越すようにだ」
こうなったら開き直るか。
五郎は安泰と伝七に振り向き、恥ずかしさを誤魔化すようにわざとらしい真面目な態度で、しかし顔を歪めて言った。
「副長、これから打ち合わせをする。もう暫く付き合ってくれ。伝七殿、君は休息に入ってくれ。これからゆっくり休めるか、どうかは分からないけどね」
二人は苦笑を浮かべつつも見事な敬礼で応えた。
誤字・脱字が有りましたら報告をお願いします。
用語解説
・帆船での食事
はっきり言って酷い。
七回も焼いてガチガチに固めた堅パン、乾燥した豆、塩が効きすぎる塩漬け肉、チーズ、バター、オートミールが基本。飲み物はビールやラム酒。
新鮮なものは港へいるときか、出港したてでしか食べられません。
なお、一度出港したら一年は海の上が基本な英国海軍。
高温多湿の中を袋詰めにして保存しておけば、当然のように腐ったり、虫が湧いたりします。でもこれしかないから食べる。
・新鮮なタンパク質
コクゾウムシ。要するに芋虫。
・堅パンは袋から出すときは新鮮な魚を袋の上に置いたり(すると虫が魚にたかる)、食べる直前にトントンと叩く(すると虫が出ていく)などしなければならなかった。じゃないと堅パンと一緒に食べることがあったんです。まあ、机で軽く叩いたら堅パンがボロボロと崩れてしまい、粉しか残らなかった、という話も。
・当時の言葉で「船のチーズには足が生える」というのがある。物理的に、チーズから足が生えるんです。ネズミがチーズを食べてしまうので。
・ちなみに積み込んだ食料が枯渇すると、虫やネズミは貴重な食料となりました。
・時鐘
30分ごとに鳴らされる鐘。
例えば、0:30なら鐘を1回(一点鐘)、1:00なら鐘を2回(二点鐘)、……、と八点鐘まで続きます。
八点鐘は、4時、8時、12時、16時、20時、0時と、4時間刻みに鳴らされます。作中ですと、夕方なので16時となります。