第6話 試験航海
ようやく投稿です。楽しんでもらえれば幸いです。
天文十九(1550)年十二月 安房国 館山
暁七ツ(午前4時ごろ)。
寒空にはまだ月と星が輝いており、遠くにはうっすらと朝焼けの気配があった。風はやや強く、向きは西南西。灰色の雲が幾つか浮かぶ程度で、湿気は感じられない。
「良い天気になりそうだな」
図南丸型捕鯨船、[第一図南丸]の艦尾甲板。
五郎は舷側の手すりに寄りかかったまま白みだした空を見上げ、眼を細めた。暫く船の揺れを直に感じながらそのままボゥと見上げていたが、さほど面白いわけでもなく。ため息をついてずれた軍帽を直し、そのまま顔を甲板に向ける。艦尾甲板は一段高くなっており、その分周りを見渡せた。
甲板にはまばらに、黒い人影があった。各所の責任者である班長達が「それはこっちに持って来い」「違う、その道具はまだ使わない!」「ほら急げ、出港まで時間が無いぞ」など声を張り上げ、水夫達は慌しく動き回っていた。
「船長、よろしいですか?」
階段下から声をかけられる。安泰だった。木綿製の筒袖の上衣に洋袴、軍帽を被っていた。その姿は水軍の将らしく様になっていた。
「安泰さん、準備はどうです?」姿勢を正し、五郎は報告を受ける。
「はい。人員、艤装、二週間分の食料と水と酒。また試験に必要な物。これらは積み込みが終わっております」
「その割にはドタバタしていますが……」
「えー、実は水夫の持ち込み物の検査で少々……」
申し訳なさそうな声で安泰が言う。
誰もしたことが無い長期航海ということで、倉庫を逼迫しない、火気以外の物ならば水夫達の好きな物を持ち込んで良いとしていた。焼酎や鹿肉の燻製などの食料から将棋や囲碁といった娯楽品が殆どだったが、その持ち込んだ物が思ったよりも多かったため、船のバランスが少しずれてしまったのだ。現在、そのバランスを戻すために一部の荷物を動かしているのだという。
「あー、そこまで考えていなかったなあ……。安泰さん、すまない」
五郎がそう言って頭を下げようとすると、安泰は「いえ、こちらの不手際でした」と言って止める。
「そう頭を下げないでください。私は家臣ですので、敬語も不要です」
船長が下の者に簡単に頭を下げるのはあまり良くありません、と安泰は強く言う。
今回の航海では船長は五郎が、副長は安泰が勤めることになっていた。五郎はまだ船の指揮は全く出来ないため安泰に全て丸投げであったが、この船の顔であり、トップである。五郎の非を直ぐに認める姿勢は陸では美点でもあるが、海では気弱な将として舐められてしまう。
「差し出がましい事ですが、船に乗る、ということは大変なことです。船長の場合、多少乱暴な言動の方が兵も安心して従います。どうかそのように」
「……ああ、わかった。以後気を付けるよ、安泰」
「はい、船長」穏やかな笑みを浮かべて安泰は言う。
安泰の助言に答えながらも五郎は内心、これは思ったよりも大変そうだ、と感じた。それでも自分で選んだ事なので文句は無い。
今回、五郎が船に乗ることになったのも、五郎と義堯の思惑が一致したためだった。
五郎は航海中に出るだろう、図南丸型の不具合の調査であった。船は実際に乗って体験した方が良く分かるし、後の艦船設計に役立つと考えていた(ついでにゆっくりしようとも考えていたが)。
これを聞いた義堯は思案し、許可を出した。箔付けになると考えたのだ。将来、元服すれば水軍を率いる事になり、早めに水軍について知っておいても損は無い。また幼少で、家臣の補佐付きであるとはいえ大名の子が船長として外海で2週間も海上にいたという、この時代の日本では長い航海をしたという事実は残る。
短期間で沿岸部でしか航海できない他の水軍とは違い、里見水軍は長期間の航海を行えるだけの錬度と船の性能が高いのだと、周辺には大きな衝撃を与えることが出来るだろう。
勿論、危険であればすぐさま航海を中止し、最寄の港へ帰還するよう口酸っぱく五郎に言い聞かせていた。
そうしている内に準備は完了したらしい。水夫達は各々の配置に付き、指示を待っていた。
「さて」五郎は周りに聞こえるように言う。
「安泰、帆走を開始してくれ。針路は任せる」
「はッ」安泰は短く答え、すぐさま風向きを確認し、号令をかける。
「車地回せ。抜錨、よォい!」
出港を知らせる号笛が甲高く鳴り響き、騒がしく水夫たちが動き出す。錨を巻上げる大型の轆轤に張り付く。錨を巻上げる力を利用し、船の行き足を作り出していく。
「前檣上帆、展帆よォーい!」
号令を受けた水夫達が横静索に飛びつき、檣の最上段まで一気に登り上がる。
帆桁両端から中央へと順に麻布の帆を広げていく。
安泰は続けて号令を出す。舵輪を回し、掌帆員が帆桁から伸びる転桁索を操作し、しっかりと風を捕らえる。
錨が水面から出ると一瞬、行き足が止まったが、第一図南丸は風を受け、滑らかに走り出した。
「総帆開けッ!」
続いて中帆、大横帆、そして主檣の縦帆を張る。目一杯に真新しい帆が膨らみ、速度が増す。
船が順調に走り出したのを確認してから、五郎は後ろに振り向いた。
陸を見れば、街の至る所から炊事の細い煙が幾つも立ち上っていた。既に館山は起きている時間だ。港近くの魚市場からは喧騒が聞こえてくる。湾内は積荷を運ぶ伝馬船や漁に使う小型帆船が動き回り、やや離れた場所にここ1年間でちらほらと見かけるようになった弁才船が数隻、停泊していた。
桟橋には、見送りに来た人々が集まっていた。水夫達の家族だった。そこには源一郎の姿もあった。何か大声で言いながら大きく手を振っていた。
五郎は手を振り返すかどうか、少し迷った。船長としてどうなのか、というのは建前で、単に気恥ずかしかったのだ。
そうしている内に船は沖へと進む。顔が判別出来なくなった所で、恐らく気のせいなのだろうが、源一郎の不安げな表情が見えた。
五郎は目を瞑り、深呼吸する。
「じいー!行ってくるぞー!」
あらん限りの力で叫び、軍帽を手に持って大きく振る。五郎の姿を見てか、多少の余裕が出てきた水夫達も真似して口々に叫びながら軍帽を振る。微かに、こちらの叫びに答える様な声援があった。
桟橋の人々が黒い点になったところで、再び前を向き、軍帽を被る。目線を水夫達の作業に集中させる。
第一図南丸が出航した。
◆
出港した第一図南丸は左手にある丘陵に沿って走ると、外に行くにつれて今まで穏やかだった波が少しずつ荒れ出してくる。
房総半島から西へ飛び出ているようにある洲崎を回る頃には、第一図南丸はこの時期特有の強風、高波に襲われ始めた。
「やはり荒れるねぇ……」手すりにしがみ付きながら五郎が言う。「天気は良いのに、なんだ、この揺れは?」
海面は紺色で、うねりが船に来るたびに右へ左へ傾斜しては水平になり、縦横に大きく揺れる。これを繰り返している。高波に舳先が突っ込み、飛沫が至る所へ降り注ぐ。皆びしょ濡れだった。風が強すぎるため、帆は上帆を畳んでいた。下手すれば檣が折れてしまうからだ。
波が来るたびに、風が吹くたびに船の至る所からギィギィと軋む嫌な音を立てている。
「これでも今日は大人しい方ですよ。酷い日は船が海面から飛びますから」
「うへぇ……」
両足だけで立ち、普段どおりの安泰に対して、嫌そうな顔をした五郎はやや顔色が悪かった。船酔いである。帆船に慣れていないというのもあったが、この海域の荒れ具合に参っていた。
洲崎は航海の難所として有名な場所であった。冬になると周辺海域では低気圧が発達し、この一帯は強風や高波で大いに荒れる。五郎の居た未来でも海図には「激潮流注意」の記号が表示されているほど危険な海域なのだ。そして至る所に岩礁があるため、操作を誤ると潮流に流されて座礁してしまうのだ。
そのため、例えば東北から武蔵国へ商品を運ぶ際には房総半島を回らず、香取海を通って江戸湾へ出ていた。途中で川を伝って江戸湾へ出るため水深の問題から船も大きくなく、運べる量は少なかったが安全で確実に運べるからであった。
それでもこの時期に航海するのは、水夫達の訓練と航路開拓のためであった。
これから捕鯨で外海に出れば暴風雨に遭遇することだってある。その時のために今のうちに訓練して起きたかった。それに洲崎なら最悪、座礁しても陸地が近いため人員の損失を抑えられる。
航路開拓も、鯨や勝浦からの貿易品の輸送に必要となる。開拓さえ出来れば物流も活発になり、今まで以上に発展させることが出来る。
(とはいえ、これはちょっとキツイ……)
どんどん大きくなる横揺れに、縦揺れからくる妙な浮遊感も加わって、気持ち悪さと胃のむかつきも酷くなる。
「大丈夫ですか?」安泰が言う。心配そうな表情だった。
「いや、大丈夫だ。これがある」
洋袴に設けられた物入れからそれを取り出す。これを見た安泰も納得した表情であった。
「それより、そろそろ見えるころか?」
「ええ、そうです……、ああ見えました。洲崎台場です」
安泰が指差した先には岩壁と、その上には赤茶けた塔型の構造物が見えた。洲崎台場である。
岩壁とその周囲の岩礁にはうねりを上げた波がぶち当たり、高く飛沫が舞い上がる。周りには白い泡が纏わりついていた。
洲崎は岩礁が多く海流も速い海上交通の難所であったため、今までは誰にも見向きもされない場所だった。しかし、館山湾の開発によりここを開発する計画が持ち上がった。館山湾の出入り口にあり、外房に行くには船は全てこの周辺を通る。そのため監視と難破船の救助、そしていざという時に時間稼ぎに使える砦を欲したのだ。
そこで造られたのが、三階建ての円筒型の塔であった。
マーテロー塔と呼ばれるこの塔は石と煉瓦、混凝土で造られた砲台であり、三階の屋上部に旋回式の砲架に載せられた平射砲が設置されている。屋上部には他にも篝火や信号旗を上げるための旗ポールもあり、監視及び各地を繋ぐ信号塔、また灯台としての機能が付けられていた。二階は居住区で二十名ほどの兵が駐在し、一階部は食糧と弾薬を保管するための倉庫となっている。
里見家が建てたマーテロー塔は史実に近く、大筒からの砲撃にしては過剰なまでの壁の厚さがある。
煉瓦造りはまだまだ未知のもので習熟していないのもあるが、転生者たちの煉瓦造りは脆いというイメージと、もし仮に壁を薄くして倒壊でもしたら、という恐怖が合わさった結果であった。
そのため大筒どころか里見家の平射砲でも大した損害を与えられないだろうこの塔はどっしりと力強く、ハイカラな雰囲気もあって異様な存在感があった。
塔から二つの信号旗が揚がる。見張り兵がすぐさま確認し、報告をする。
「台場から信号!『貴艦ノ安全ナル航海ヲ祈ル』です!」
「返答、『感謝スル』」
五郎は素早く答える。第一図南丸も信号旗を揚げ、返礼を行う。
「……こうやって見るのは初めてだが、そこらの城よりも立派じゃないか?……しかし、辛い」
唐辛子を一口齧りながら五郎は呟いた。先程、物入れから見せたモノで、酔い覚ましである。一番効くのは氷を齧ることだが、貴重品でまず手に入らないため安価で保存の利く唐辛子を持ってきていた。舌を刺すような刺激のお陰か、少しは船酔いが楽になってきた。
「そうですな。あれならば攻撃されてもそうは落ちないでしょう。外房に行くならば此処を無視することは出来ません」
安泰も同意する。
洲崎砲台には平射砲は二門しか配備されていないが、それでも航行中の軍船をある程度は沈められるだろう。近づこうにも岩礁と入り組んだ海流が邪魔をし、万が一上陸されても塔の周りにぐるりと囲む空堀と土塁によって抵抗される。塔の破壊なぞもっての他だ。
目的である監視と時間稼ぎは十分以上に果たせる造りであり、その間に館山の水軍は駆け付けることは可能だ。
勿論、船が洲崎を大きく迂回すればその限りではないが、この時代の水軍の軍船はその殆どが内海用として建造されている。まともな航海術も無いため、まず太平洋の荒波に耐えられない。
五郎は一度、まじまじと洲崎砲台を眺めてから船内に向かって歩き始めた。この海域を抜けなければ試験、船の運動性能の確認は出来ない。水夫達も難所を通り抜けることに精一杯だからだ。
「船室に戻っている。何かあったら呼んでくれ」
「はい」
艦尾甲板から降り、そのまま船室の中に入る。ほんの十歩も歩かないうちに、一番奥の船長室へ着く。船長室とは名ばかりで、入り口を帆布製の帳で仕切ってあるだけの小さな部屋だ。中は吊り式の寝台に机と椅子が一脚ずつ置いてある。
五郎は机を見て航海日誌をつけなければ、と考えたが、やめた。幾らかマシになった船酔いをわざわざ悪化させたくなかった。
そのまま寝台に横になると、急に落ち着いてきて眠くなってきた。
五郎はそのまま眠気に逆らわず、目を閉じた。
暫くして、部屋の外から声をかけられた。全く聞き覚えの無い声だった。
「船長、よろしいですか」
気付き、慌てて起き上がる。どうも寝ていたようだった。
「なんだ」寝惚け声にならないよう、出来るだけ平静に言う。
「副長からの伝言です」続けて言う。「風、波が安定してきたので、試験を行いたいとのことです」
「分かった。直ぐに行く」
言われてみれば、先程と違って揺れは少なくなっていた。五郎は簡単に身支度を整え、背筋を伸ばして歩く。端から見れば背伸びしているように見えるかもしれないが、笑われはしないだろう。
そう考えながら船室の外へ出れば、穏やかな海があった。風も落ち着いており、帆は全て張られていた。
ゆっくりと甲板を歩き、艦尾甲板へ上がると安泰がすぐさまやってくる。
互いに敬礼をする。
「風、波ともに安定してきました。まずは船の運動性能の確認をしたいと思います」安泰が言う。
「そうです……、いや、そうだな」
五郎も同意する。というより、今のところそれ以外にやることはなく、他の一番重要な部分は時間が経たないと分からないからだ。
今まで水軍は近海で練習航海を行っていたが、どうしても限界がある。
特に長期航海を行うには食料がどれだけ必要なのか、船の保守に使う資材はどれだけ必要なのか、航海で水夫がどれだけ疲労するか。これがまだ分かっていない。
実際に経験して、来年の捕鯨業開始までには知っておきたい事柄であった。
今回の試験航海では洲崎を大きく迂回し、そのまま南下。房総半島最南端にある野島崎を通り、陸から20キロメートル沖合の漁場を調査及び各種試験を行い、勝浦に向かう。勝浦に行くだけなら風が良ければ帆船でも三、四日もあれば到着するが、調査のため沖合いをひたすら行ったり来たりすることになる。
言葉にすればたったこれだけの事だが、この時代に陸も見えない外海へ出るのは並大抵の事ではない。
「ひとまず、下手回しと上手回しを行ってくれ」
例えば、風上に目的地がある場合、汽走船ならばそのまま真っ直ぐに進められるが、帆船は違う。風を常に受けなければいけないため、ジクザクに進まなければならない。
この帆の向きを変え、帆船が方向転換するには「下手回し」と「上手回し」の二つの方法がある。
「下手回し」は船首を一旦風下に落とし、風に逆らわず大きく旋回しながら帆の向きを変える方法。時間が掛かり、広い海面が必要になるが失敗しづらく、操帆も少人数で済む。
「上手回し」は風に向かって船首を向け、急速に旋回する方法。短時間で狭い海面で済むが、多くの人員と熟練の技、そして高性能な船が必要になる。
船首が風上に向いたときに迅速に帆の向きを変えなければ裏帆(帆の前面で風を受けること)を打ち、船が止まってそのまま流されてしまう。また、斜め前方から風を受け、十分な推進力を受けていなかった船がいきなり正面から逆向きの推進力を受けてしまうため、船にかかる負担も大きくなる。
この時に索が切れる、帆が破れるだけでなく、檣が折れてしまうことがあるのだ。
「了解です。船長」
安泰はそれだけ答え、すぐさま全員集まるよう号令をかけた。総勢15人。その目線は安泰に向かっており、やはりというか、五郎は自分が場違いな所に立っていると感じた。
「これより、上手回しを行う。総員、配置に着けッ!」
安泰が号令をかける。水夫達がそれぞれの部署へ配置に付き、風と潮の流れを見計らって号令を出す。
「下手舵!」
舵輪を回し、船首を風上へと向ける。
「前檣、帆桁を回せ!回せ!」
最も重要な操作である。失敗すれば停止し、帆をばたつかせながら船が流されてしまう。
しかし、その心配もなく、熟練の水夫達によって転桁索や帆脚綱を素早く、そして滑らかに操作される。檣や索から軋む音が上がる。そのまま迅速に帆の開きが変えられ、グーッと船首が回り始めた。
「下手舵一杯!」
舵輪を目一杯回し、再び転桁索や帆脚綱を操作して開きを変えると、第一図南丸は走り始めた。上手回し成功である。
「凄いね、これは」
一連の動作を見た五郎がそう呟く。ここまで見事に船を動かせるとは思わなかったのだ。
「いえ、水夫達もよく動いてくれましたし、船が良いですからここまで動かせられるのです」
嬉しそうな顔で安泰が言う。第一図南丸が竣工してから何度か船を動かしているが、改装した関船と違ってバランスが良く、素直で動かしやすい。安泰からすれば、第一図南丸は理想に近い船であった。
対する五郎も安泰の言葉に気を良くしていた。自分が作ったものを褒められるのは技師者冥利に尽きた。
「次に、下手回しを行います」安泰の言葉に、五郎も頷く。
「下手回し、用意!」
先程とは違い、ゆっくりと舵輪を回し、転桁索や帆脚綱を操作して開きを調節する。 船首が風下に落ち、風に逆らわず船は大きく旋回を始めた。
「悪くないな。思ったよりも小回りが利く」後ろに残る航跡を見ながら五郎は頷く。
「非直の者は休息に入らせてくれ。後は速度を測るだけだ」
「了解です。――当番の者はそのまま平時の勤務につけ!あと測程儀を用意しろ!」
「ハッ!」
水夫が持ってきたのは、砂時計と糸巻き。砂時計は小さく、外装に真鍮、砂に誤差の少ない砂鉄を使用した30秒計である。糸巻きには小さな扇形の板と、紐には赤く着色された結び目が幾つもあった。ログライン(ハンドログとも)と呼ばれる測程儀である。
測程儀の使い方はいたって簡単で、航海中の船から扇形の板を海中に投げ入れると船の前進にともない板は後方に流れていく。このとき、砂時計の砂が落ちきるまでにどこまで板が流れたか。繰り出した紐にはあらかじめ一定間隔ごとに(七間五尺余(14.4メートル)ごとに結び目があり、この結び目の数で船の速力が分かるという仕組みになっている。
「始め!」
砂時計係が声を上げるのと同時に、小さな扇形の板を投げ入れる。板が流れて行き、両手で掲げた糸巻きから紐がどんどん滑り出ていく。
「止め!」
瞬時に紐を掴み、動きを止めた。水夫は紐を手に持つと、そのままぐいぐいと手繰り寄せていく。
「いくつだ?」
「丁度八つです」
つまり、現在の速力は八節ということになる。
この言葉に五郎は安堵した表情で頷く。図南丸型の場合、最も速力が出やすいのは船の斜め後ろから風を受けるときである。強めの風で八節ならば、この時期の欧州の帆船となんら遜色ない。
「問題なさそうだな。あとは定期的に試験するだけか」
そのまま船内に戻ろうとした五郎に対し、安泰は待ったをかけた。
「――あー、その、言い忘れていた事がありまして。朝比奈殿より、『若様にきっちりと水軍の訓練をお願いします』と申し付けられていますので、これから短い期間ですが、殿も訓練していただくこととなります」
「…………お前もか、安泰よ」絶望した顔で五郎が言う。
「教官と呼んでください」
ぴしゃりと言う安泰に対して、逃げ場のない五郎は「了解です。教官」と言い返すしかなかった。
その後、第一図南丸は鯨がいるであろう海域で行ったり来たりしながら訓練を行うことになった。五郎も見習いとして泣く泣く参加することになった。船長が見習いとして訓練をする、という奇妙な光景に水夫達は妙な顔をしていたが、直ぐに自分達と同じく「鬼」やら「人殺し」とまで呼ばれた安泰の猛訓練(しかもほぼ付っきりで)に内心同情しつつ、自分達も怒鳴られないよう訓練に勤しむ事になった。
お陰で五郎は同じ訓練を受けた者同士で水夫達と仲良くはなれたが、この時はそこまで余裕がなかった。
他にあったのは或る日の訓練中、正確には航海を始めて10日目のときに噴気を上げる鯨の群れを見つけたからだ。誰もが始めてみる姿に興奮して、追いかけて捕まえましょう、と言い始めたのだ。
第一図南丸には数は少ないが、銛や肉斬り包丁など必要な道具があった。もし群れを見つけたら捕まえよう、そう冗談交じりで載せておいたものだ。それを本当に使うときが来るとは思わなかった。
五郎と安泰は互いに見やり、笑みを浮かべる。
「追いかけるぞ!総員、配置に着け!」
号令を受けた水夫達が騒がしく動き回る。群れを全力で追いかけるために檣に上って全ての帆を張り、開きを変える。
距離が縮まったところで再び号令がかかる。
「短艇、降ろせ!」
両舷側に吊るしていた三隻の短艇に水夫達が乗り込み、そのままゆっくりと海面に降ろされる。
短艇は速度が出やすいよう軽く細長い造りになっている。水夫達が勇ましい掛け声と共に艪を漕ぎ始めると、たちまち速度が出て鯨を追いかけ始める。
近づいたところで銛を担いだ艇長が船首の膝受けに足を入れ、身体を安定させる。銛はルイス・テンプルと呼ばれる形式の、独特の形をした片刃の穂先を持っていた。この銛にはちょっとした仕掛けがあり、肉に食いこみ、鯨に引っ張られると穂先が回転して簡単には抜け落ちない様になっている。また銛には麻製の綱が括りつけられており、短艇後部の綱柱を通して綱桶に繋がっている。そのため銛が抜けるか、綱が切れない限り鯨は逃げられなくなるのだ。
艇長がゆっくりと銛を構え、狙いを定める。そして、ほぼ三人同時に、群れの右側に居た一頭の鯨へと銛を投げ入れた。
結果は―――、
「下がれ! 下がれ!」
水面を睨み付けていた艇長が号令を出すや、一気に短艇が後進する。すると同時に一頭の鯨が暴れ出し、走りだすと短艇から綱がピイン、と張られていた。
「命中、命中です!」
この様子は図南丸からも見えた。周りから歓声が沸いた。どうやら三人とも命中させたようで、短艇は鯨に引っ張られて海面を走り始めていた。短艇に乗る水夫達は泡立つ海に放り出されないよう、必死にしがみつく。船首からは滝の様に海水が流れ込み、絶え間なく軋む音を上げている。
艇が何かの拍子に転覆したり、壊れたりしないよう祈りながら水夫達は海水を必死に掻き出していく。そして長い時間、鯨に引きずり回されていると、鯨も疲れてきたのか、ようやく速度も緩んできた。
「たぐれ! たぐれ!」
艇長が号令を出すと、水夫達は漕いで艇を鯨に近づける。艇長が綱のついた銛を鯨に投げ入れる。命中。鯨は再び大きく悶え、水飛沫を上げ、海を赤く染めていく。まだまだ元気なようだ。
再び力強く綱を引っ張り、小舟を振り回す。艇長ががなり声をあげ、水夫達は再び転覆の恐怖を味わうこととなった。そんな中、艇長は三本目の銛を担ぐ。今度は綱が無い銛だ。鯨を弱らせるために投げ込まれ、これも命中する。その後も四本、五本と次々と投げ込まれる。
鯨は銛が命中するたびに綱を引き千切らんばかりに大きく暴れるが、時間が経つにつれて消耗し、その力強さが無くなっていた。
「弱ってきたぞ。弱ってきたぞ! そぉら、漕げ、漕ぐんだ!」
艇長の号令と共に艇と繋がった鯨に向かって漕ぎ始める。鯨は既に抗う元気も無いのか、力無く海面を漂っていた。
短艇は疲れ果てた小さな鯨に近づくと、艇長は殺し銛を構えた。笹穂の刃を持つ銛はむしろ槍と呼ぶべき鋭さがあり、片手に身体を乗り出し、心臓目掛けて突き刺した。
中の肉をかき回すように止めを刺すと、鯨はビクン、と体を震わし、尾びれで海面を叩きつけるなど苦しげにのた打ち回る。暫くすると、ただ海面で痙攣するように噴気孔が震え、血の混じった噴気を小さく二回、三回と上げて、ぼたぼたと自分の身体に落ちていく。
そして、そのまま動かなくなった。
長い闘いが無事に終わったことに、水夫達は互いに喜び合い、歓声を上げた。
「おっしゃ、持って帰るぞ!」
鼻や尾びれに綱を通し、しっかりと縛ると三隻の短艇は鯨を引き連れて図南丸へと凱旋した。
「捕まえましたな」安泰が嬉しそうに言う。
「全くだ。良い土産が出来た」
図南丸の甲板は興奮しきっていた。水夫達は戻ってきた短艇に大きく手を振り、歓声を上げていた。短艇側も負けじと声を張り上げていた。このまま解体して焼いて肉を食べても良いし、余ったら塩漬けにすれば高く売れる。ちょっとした報奨金も出せるだろう。
「短艇組、怪我は無いか!?」五郎が叫んだ。
「大丈夫でさァ、皆ピンピンしておりやす!」
「よし、そのまま仕事に取り掛かってくれ!」
短艇の仕事はこれで終わりでは無かった。むしろ、これからが本番である。
短艇に乗った水夫たちは包丁を取り出し、鯨の腹を割いていく。鯨は体温が高いため、体の中から腐敗しないように腹部を裂いて内臓を出し、海水で冷やす。そうすると肉の品質が落ちにくい。
そのまま舷側に引っ張っていくが、鯨はやはり小さかった。ハクジラのようだから、恐らく槌鯨だろう。大体十四尺(4.2メートル)程度だろうか。鯨か海豚か迷う大きさであった。
まあ、どっちでも良いかと五郎は考え、鯨を船に横づけするよう命令する。第一図南丸には既に船内に加工製造設備を備えていた。
捕らえた鯨を解体するために両舷側中央に可動式の足場と肉を運ぶための滑車を備えている。特に特徴的なのが、前檣と主檣の間の甲板に船の主の如く鎮座する煉瓦製の竈である。所々を鉄で補強してあり、五右衛門風呂のような、三十斗(540リットル)もの容量を持つ大釜が備え付けられていた。ここで脂肪や骨などは火にかけて鯨油を搾り出してしまう。
船内は大半を加工室と貯蔵庫で占めており、加工室で肉や皮、脂身を切り分けて塩漬け、もしくは竈で鯨油を搾り取り、樽に入れて保管。貯蔵庫に入れられる。
横付けにされた鯨は直ぐに包丁を持った水夫達によって解体が始まった。包丁と言っても、薙刀のような外観をしたものだ。うっかり滑らして落としたら足の指を斬り落とせるだけの切れ味があった。
包丁を入れると海面へ血が滲み出し、赤く染めていく。湯気を立たせながら鯨の背中から本皮を力ずくで剥がし取り、皮脂と赤身の肉が一抱えほどの塊で切り取っていく。脂身は釜で茹でて鯨油を搾り、肉と内臓はよく冷やしてから塩漬けを行う。残った骨は記念としてそのまま船内に保存することになった。
その日は誰もが始めての経験になる、新鮮な赤身肉を焼いて食べるという贅沢を味わった。
そして航海を初めて十四日後。予定の訓練を終えてようやく勝浦に入港し、湾内に投錨したときには船上から大きな歓声が上がった。誰もが久しぶりに見る陸地がこんなにも素晴らしいものだったとはと感じていた。
短艇を下ろし、五郎と安泰が最初に港へ向かうと勝浦城主である時忠が出迎えてくれた。
「試験航海、お疲れ様でした」
時忠の労いの言葉と、水夫達を休ませる宿の手配などを済ませていることに五郎も安泰も感謝していた。
が、続けて満面の笑みで言われた内容に、流石に五郎も安泰も時忠を妖怪か何かと思い始めた。
「ところで、航海の途中で何か手に入れませんでしたか? いえ、勘です勘。何か面白いものを手に入れたと感じまして。鯨を捕った? 塩漬けにして樽に入れてある? 大変結構。譲ってくれませんか? ええ全部です。責任持って高く売らせていただきます。売上金は手数料を僅かに頂きますが、ちゃんと分配しますので安心してください」
誤字・脱字が有りましたら報告をお願いします。
※2015/5/20 文章の一部追加を行いました。