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第3話 “会合”[後編]

ようやく投稿です。楽しんでもらえれば幸いです。

 五郎の発言に一瞬、空気が止まった。

 

「捕鯨、ですか……」


 困惑した表情で安泰が呟く。確かに鯨は珍しいが、それで大型船の高額な建造費が(まかな)えるほどの採算の取れるものだろうか? 特に転生者たちはそう考えていた。

 現代では多くの国で捕鯨は禁止されており、また日本の調査捕鯨は赤字であった。その常識を持っているために、なぜ捕鯨を積極的に進めたがるのかが分からなかったのだ。


「カカ、成程、成程なァ」クツクツと笑いながら義堯が言った。「確かに、鯨ならば資金を得られよう」


 為頼や時茂は確かに鯨なら、と頷く。五郎の言いたい意味が分かっていた。少し遅れて、義舜も分かったのか、ようやく納得した顔をした。


「どういうことです?」

「ま、これから五郎が説明するさ」


 未だ困惑顔の安泰に、義舜がそう言うと再び五郎に視線が集まる。

 五郎は少年らしい満面の笑みを浮かべ、説明を始めた。


「我々には(くじら)は必要です。なにせこの時はまだ捕鯨方法が確立しておらず、贈呈品に使うほどの、最高位の魚でしたから」


 戦国時代、鯨というのは貴重で高価な魚であった。

 現代の人たちには分かりづらいだろうが、室町時代末期の料理書には魚の格付けが書かれており、最高位に鯨、二番目が(こい)、その他の魚は鯉以下として挙げられている(ちなみに、現代では人気の(まぐろ)は腐りやすい魚で、当時の人には脂がくどいとして下卑の魚とされていた。江戸時代に入ってその安さから江戸の庶民の間で食べられるようになったが、大トロは捨てられていた)。


 また、この時代は他国の大名や城主に、また家臣が自らの地位を確保するために価値ある物、例えば有名な茶器や漆器、名刀などを献上することで相手との好みを通じて戦を避けたり、同盟の絆を強めるといったことを図っていた。


 その中に、鯨肉用の桶である「鯨桶(くじらおけ)」に入れ、鯨肉が送られることがあった。


 古くから鯨肉は贈呈物としても最高級であり、織田信長(おだのぶなが)も禁裏へ鯨肉を献上したことがあった。また、土佐大名の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に覚えをめでたくする為に、百人以上の人夫を使い、大坂城まで体長九尋(16メートル)の鯨を一頭丸々運び込んだという。これに見事成功し、長宗我部元親は一気に名を上げることとなったという。


 そんな鯨だが、房総半島では初夏から初秋にかけて海流に乗って回遊してくる。ただこの当時は偶然にも沿岸に迷い込んだ鯨を銛で仕留めるか、もしくは打ち上げられた場合でしか捕ることができなかった。


 戦国時代末期から江戸時代になるとかつての水軍が中心となり、鯨組と呼ばれる組織が各地で編成された。鯨が沿岸近くまで来た際に三百人もの漁師が一斉に小舟で近づき、捕鯨用の銛で突いて仕留める「突き捕り式」、延宝五(1677)年には紀伊国太地浦で和田(わだ)頼治(よりもと)によって苧麻(からむし)製の網を用いて鯨を絡め、拘束してから銛で仕留める「網捕り式」が開発された。これにより遊泳速度の速い座頭鯨(ザトウクジラ)など大型の鯨も捕れるようになった。


 ただ、房総半島では網取り式は流行らず、一貫して「突き捕り式」が主流であった。房総半島に回遊してくる鯨は主に「槌鯨(ツチクジラ)」というハクジラ類。この鯨は深海性で深く潜って逃げてしまうため、網取り式には向かないのだ。


 ただこの方法では小舟で沖に出るーーそれも流れの早い黒潮に乗るため遭難の危険性も高く、鯨に近づけば暴れる鯨に船を破壊され、海に投げ出されてしまう。場合によっては一度に多数の死者が出るほど危険な仕事であった。


 それでも捕鯨を行うのはこの当時最大の産業であり、「鯨一頭捕れば七浦が潤う」と言われるほど大きい産業だからだ。

 一例として、江戸中期、天明八(1788)年の能登で揚がった六尋三尺(約12メートル程度)の鯨は七百五十一貫文で売却された。この時期の一貫文を今の価値に当てはめる――物価の変動が激しく、米価や労働の賃金でもかなり違うが、ここでは一貫文=二万円で計算する――と、この鯨一頭でおよそ千五百二万円。二百石積みの弁才船(全長14.5メートル前後)一隻が建造できる値段となる。

 ただこれは捕鯨方法が確立され、庶民でも気軽に鯨を買えるようになった時代の話である。戦国期にはこの数倍は高くなる。また背美鯨(セミクジラ)克鯨(コククジラ)長須鯨(ナガスクジラ)など大型ならば更に高額となる。


 それだけの価値が、鯨にはあったのだ。


 鯨は捕獲されたあと、赤肉と皮脂、(ひれ)、軟骨は塩漬けにされ塩蔵品に、内臓も食料に、ひげや歯は釣竿、服、扇子、根付など工芸品に、表皮は(にかわ)にもなり、血は薬に、鯨骨と脂肪は鯨油に、絞り粕は砕いて肥料に、鯨油は灯油、農薬に使用される。全く無駄が出ない。


 更に言えば、鯨は近代工業に必要不可欠であった。

 欧州では石鹸(せっけん)、マーガリンの原料に、日本では鯨油は機関銃などの機械油として使用され、鹸化(けんか)させるとグリセリンが抽出できた。グリセリンは砲の駐座複退機に使用されており、また硫酸・硝酸の混酸を反応させればニトログリセリンとなり、ダイナマイトや無煙火薬などの原料となった。


「しかし、だ。五郎」笑顔を張りつけたまま義堯が言った。

「鯨は捕れれば儲かるが、どうやるのだ? あまり人員は割けられないぞ」


 義堯の言うとおり、捕鯨には金がかかる。伝統的な方法で捕獲するには三百人もの人手が要り、そこから鯨油、鯨肉の塩漬けなどの加工を行えば千人は必要になる。史実でも豊漁と不漁の波が激しく、人員を雇い続けなければいけない維持費の高さから鯨組を解散することも多かった。だからといって少数の小舟では鯨を捕まえるのは難しい。

 これに対し、五郎も笑みを浮かべて答えた。


「ええ、ですので捕鯨方法として近代の捕鯨を真似ます。これなら少人数でも可能です」


 五郎が考えたのは太平洋側の槌鯨を狙った母船式捕鯨、つまりアメリカ式捕鯨を真似たものである。


 まず太平洋側の捕鯨基地には館山湾のほば反対、外房の和田を整備する。未来では千葉県和田町、かつて日本全国に五ヶ所しかない捕鯨基地をもつ町であった。槌鯨がいる魚場は伊豆大島から銚子を結ぶ房総半島沖合で、水深1,000メートルとなる岸から8~40キロメートルの海域。和田から帆船でも風を上手く捉えれば一時間~四時間ほどで到着する距離だ。


 アメリカ式捕鯨は大型船に複数の短艇(ボート)を載せ、鯨を見つけたらこの短艇を降ろし、鯨を追いかけるというもの。使うのは投げ銛。穂先には縄がついており、短艇と繋がっている。銛が刺さると鯨は痛みから暴れ泳ぎだすので短艇を引っ張らせ、疲れさせ、銛を投げて弱らせるを繰り返す。最終的に船員が殺し銛で仕留めて捕獲する。


 仕留めた鯨は母船で解体される事になる。

 鯨は肉、皮、骨、ひげ、歯と簡単に分類する。骨と皮、肉は手ごろな大きさに解体して船内の工場で塩漬けにするか、船上に設置した炉と釜で煮て油を搾り出して組み立てた樽に保存する。鯨で満載になる、もしくは食料や薪が少なくなったら帰還する、というものだった。


 この方法の利点は、波の荒い太平洋に長期間出るため船はある程度の大型化が必要だが、一隻当たり三十人程の少人数で済むことにあった。

 これは従来の鯨組よりも人数が少なくて済み、また捕獲が容易、連続で捕鯨するため一度の出港で大量の儲けを出すことができた。


「……といっても、船と道具が無ければ画に描いた餅ですが」

「ふうむ、五郎」義堯が言う。

「このような提案をするならば、交易船と捕鯨船、その設計案はあるのだろう?」


 五郎は紙と筆、あと墨はありませんか、と訊ねた。義舜が手早く部屋に置いてあった道具を渡す。

 五郎は一言礼をいってから受け取り、手早く要目を書いていく。


「全体設計図はありませんが、考えている要目はこちらです」


 紙に簡単に書かれていた要目は、以下の通りである。


 [弁才船(二百石積み)]


 ・主要目

 全長:八間(14.5メートル) 船幅:十五尺二寸(4.3メートル) 深さ:四尺三寸(1.3メートル) 積載量:二百石


 ・備考

 木骨木皮、水密甲板、西洋式小型舵、構造は和船と同じ棚板造り。

 艤装は麻製。一檣横帆、艦尾に着脱式の小型縦帆(スパンカー)を装備。


 [捕鯨船(仮称・図南丸(となんまる))]


 ・主要目

 全長:十二間(21.8メートル) 船幅:十九尺五寸(5.9メートル) 深さ:六尺五寸(2.0メートル) 

 

 ・備考

 木骨木皮、水密甲板、西洋式小型舵、船体強度を上げるために肋材を併用した和洋折衷船。

 艤装は麻製。前檣(フォアマスト)に横帆、主檣(メインマスト)は縦帆とする。


「……ふむ、分かってはいたが水軍の関船より大きいな」


 現在、里見水軍の旗艦である関船は全長九間(16メートル)ほど。図南丸型はそれよりも二周りは大きくなる。

 義堯はとん、と捕鯨船の項目に指を差す。


「この、捕鯨船について説明しろ」

「では、簡単に……」


 捕鯨船は和洋折衷船、合いの子船とも呼ばれる、幕末から近代にかけて使用された帆船である。

 外観は西洋帆船にそっくりである。初期の和洋折衷船は艤装を弁才船に使用された大型の一枚横帆ではなく、西洋式の艤装に変換されていただけだが、後期になると竜骨に当たる(かわら)が延長され、船首に斜檣(バウスプリット)、西洋の小型舵を持つ船も出るようになった。

 

 五郎の考える捕鯨船は、この後期型の和洋折衷船である。

 通常の和船よりも長く厚みのある(かわら)を持ち、棚板造(たないたつくり)と併用して肋材を使用している。西洋帆船と比べて肋材は少ないが、従来の和船よりも強固な船体を持っている。


 艤装は丈夫で数を揃えやすい麻製。前檣(フォアマスト)に横帆、主檣(メインマスト)は縦帆としたブリッグスクーナーとなる。特徴として横帆、縦帆両方を備えるために速力を出しやすく、少人数でも操船がしやすい。またこの艤装は横帆・縦帆の扱いの習熟も兼ねている。


「捕鯨するには沖に出る必要がありますので、最低でも四分儀(よんぶんぎ)羅針盤(らしんばん)、時計、海図(かいず)といった道具類からそれを扱える水夫が必要となります」

「それでも十分な利益が出ます! 軍船として使用すれば大いに活躍できますし、四分儀、羅針盤は交易でも入手できます。海図は測量して製作すればいけます!」


 五郎の話に聞き入っていた安泰は、興奮気味に言った。

 これを実行すれば有事には大型艦として、平時は捕鯨で膨大なまでの利益が出る。今までの交易とは比にならない程に。


(確かに、鯨を加工して輸出するなり、大名に渡して同盟関係の強化も良い。が、堺の商人たちへ話を持って行けば食い付くだろう。こちらを喰い付くさんばかりにな。東国の販路、諸国の大名へ献上すれば覚えが良くなり、あわよくば御用商人になれるかもしれないという魅力があるからな。その部分を突けば湾港開発の投資を募ることも出来る)


 時忠も鯨のもつ重要度が分かった。ただその価値より、上手くやればもれなく付いてくる経済効果が凄まじいことに気付いたのだ。

 外房で栄えている港といえば、時忠の治める勝浦だろう。常陸との貿易で産み出される富は大きく、最新の情報や技術も勝浦に集まっているのだ。


 しかし、言い換えれば勝浦しか栄えていないのだ。そのため勝浦に一極集中しており、周辺地域では格差が生まれ、人が足りなくなっている。また戦や災害が起きれば経済に大打撃を受けるのだ。


 だが、五郎の言ったとおりに館山、和田を整備すればどうなるか?リスク分散にもなり、一極集中は解消される。特に館山は少し整備すれば上方貿易にも使える。情報も入りやすい。和田は館山と勝浦の中間地点にあり、今まで以上に内房・外房の連絡がしやすくなる。


 上方-館山-和田-勝浦-常陸国と、鯨肉の輸送をするために航路開拓、この間の港を整備すればそれだけ人と金がいる。つまり雇用が生まれ、民衆は小銭を得る。これで買い物し、売れる物を作るために雇用が生まれる。そして経済が動く。

 例え捕鯨が上手くいかなくとも、一度航路を開拓すれば貿易はしやすくなる。損はしても後々を考えれば有効だ。

 恐らく、五郎はそこまで考えていないだろう。ただ獲って売って金を稼ぐ。間違いではないが、このままでは商人にしゃぶりつくされるだろう。


 だからこそ、面白い。


(大量に出回ればそれだけ値崩れは起こすだろうが、そこら辺は調節すればいいな。ついでに弁才船や綿布、俵物を高く売りつけられれば……)


 現在、里見の交易を一手に担っているのは、時忠である。鯨の販売も時忠がやることになるだろう。

 つまり、後世にも残っているような海千山千で貪欲な堺の商人と遣り合うのだ。かつて、時忠と呼ばれる前は商社勤めであり、莫大な資金を動かし、海千山千の人と遣り合うときの緊張感、困難な仕事を成功させたときの達成感は何物にも代え難いものであった。

 この時代の商人も、前世と変わらないほど貪欲だ。いやそれ以上かもしれない。戦国時代らしく弱肉強食。容赦なく身代を食い潰すような連中である。それと、あの手この手と遣り合える。


(これは暫くの間、楽しむことが出来ますねぇ……)


 時忠は忘れかけていた、心が躍るような、興奮を覚えていた。

 そう思案している間にも、五郎たちの話し合いは続いていた。


「あと、望遠鏡もあれば言うことなしですが……」

「ふうむ、道具類に関しては、実元、どうにか出来んか?」義堯が言う。

「は、出来なくは無いですが、流石に望遠鏡は現物がないと少々……」


 四分儀や羅針盤は原理は分かっており、製造難易度もそこまで高くはない。だが、望遠鏡は違う。


硝子(ガラス)を磨いて透鏡(レンズ)にする、これが厄介です。職人の育成を含めれば時間がかかります」


 かつて日本でも弥生・奈良時代には原始的な硝子製造(とんぼ玉のようなもの)を行っていたが、朝廷の力が衰えていき実用品でもなかったため、そこで途絶えてしまったと言われている。

 しかし、義堯の命令で時忠が原料を集め、実元が硝子製造を復活させていた。というのも、この時代において硝子は輸入でしか手に入れることしか出来ず、ごく限られた者だけの珍品という扱いであった。


 この時代は渡来品を持っていることは「豊富な資金力」と「貿易」を掌握している証であり、その大名の社会的地位(ステータス)を表していた。これは外交でも優位に立つことができる。


 里見家で製造する硝子はソーダ石灰ガラスであり、材料も珪砂・胡粉・草木灰である。珪砂は輸入品だが他は手に入りやすく、融点は千度ほど。硝子製造をするのに技術的にはそこまで難しくは無い。

 だが、流石に硝子を磨いて鏡にする。これはまだまだ技術的にも未熟であり、職人が育っていなかった。

 

「確か、今年の八月に南蛮船がやってくるはずです。そこから入手できれば生産も早いですが……」


 1549年8月は、イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが来航したときである。このときザビエルは布教の許可を得るために献上品として置時計、鏡、眼鏡、書籍、絵画などを持ち込んでいたという。

 眼鏡が入手できれば、短期間で国内での生産も可能ですと実元は言う。


「……難しいな。彼らが東国の田舎大名に目を向けるとは思えない。かといって布教を許可するのも無理だ。寺社勢力から突き上げを食らうぞ」

「そもそも、布教に関してはワシが反対するから無理だ」


 確かに、と義舜が言った。

 義堯は保田妙本寺の僧、日我を崇敬しており、また政治・宗教顧問として知遇していた。義堯にはまず宗教も考え方も違う異人を受け入れられない。それに、話を聞く限りかなり面倒だ。下手に布教を許可して、一向宗のようになって一揆でも起こされそうだ。

 現状、宗教関連で安定しているのに、わざわざ波を立たせる必要もない。そう考えていた。

 

「となると、高額でも買い取るか、一から開発となりますが……」時茂が言う。

「私は買取のほうで。時計や眼鏡などの現物があれば、生産はできるかもしれません」


 実元の言葉に転生者たちは頷く。高くとも生産さえ出来れば元は取れる。また望遠鏡などは捕鯨に必要であり、生み出される富を無視することは出来なかった。最悪、他国に売って資金を回収することも考えていた。


「ですが、資金はどうするので? 現状でもあまり余裕は無いですよ」

「いえ、用意できます」


 時忠が言う。確信を持った口調であった。。


「実元さん、硝子の製造はどのくらい進んでいますか?」


 やや戸惑うも、訊ねられたことに実元は素早く答える。


「まあ、まだ細工の凝ったものは作れませんが、簡単な板硝子や茶碗程度なら可能です」

「生産量を増やすことは出来ますか?」

「ある程度は大丈夫です」

「ふむ、硝子を売りに出すのか?」いくらか意外そうな表情を浮かべて義堯が言う。

「はい、その通りでございます」時忠が言う。

「現状では東北との交易が中心で、上方とはあまり関わりがありません。ここで館山の整備を喧伝し、硝子細工や金銀、干鰯、木綿布といったものを見せつけて一気に堺の商人を巻き込んでしまうのも良いかと」


 このとき里見家には噂を聞きつけて東西南北から様々な商人が訪れていたが、意図的に上方との交易は抑えていた。内房の湾港整備が進んでいないのもあったが、上方との貿易を増やせばそれだけ中継港である北条も栄えることになるからだ。また必要な資源の類は東北交易で十分に賄えることからそこまで必要ではなかった。


「しかし、時忠殿。それでは国内に面倒な輩を呼び込みかねませんぞ」


 険しい表情で為頼が言う。面倒な輩、つまり忍びである。有益で富を産み出す代物があれば、製法などを探るのは当然と言えた。現状、忍の対策が警邏を増やすだけであり、数が増えれば対応するのが難しくなるのだ。


「流石に何時までもこのまま、というわけには行きません。商人の動きは抑えられませんし、事実、風魔以外の忍びも来ているようです」

「……ならば、こちらから積極的に売り出すべき、と言うことか?」

「その通りでございます」


 たとえ大名であっても、商人達の動きを抑えることは出来ない。そんなことをしたらその国に寄り付かなくなる。そうなれば物流は滞り、干上がる。最悪、国は滅んでしまうのだ。

 ならば、こちらから積極的に売り出し、最初に価格や流通量などの主導権を取った方が良い。そこから市場でのシェアを握ってしまえばそこに利権や権益ができる。

 その後、真似したとしてもこちらの方が一日の長で技術は上。そう簡単には覆すことは出来ないだろう。


「そこで、安泰殿にお聞きしたいのですが」時忠が言う。

「直接、勝浦や館山から北条領に寄らず上方へ行く航路はありますか?」

「……現状では無理でしょう。測量器具と船がありませんので、沖乗りをすれば確実に迷子になります」


 安泰は素早く答えた。

 この時代は「地乗り」という、陸地が見える海岸沿いに船を走らしていた。測量器具が無かったため、「沖乗り」という陸地が見えない海原での航海が発達したのも江戸時代に入って暫くしてからである。


「現状、ということは、その測量器具と船があれば可能なのか?」


 これに義堯も身を乗り出した。もしそうなれば、物流が大きく変わるからだ。

 航路上には水軍が出っ張っており、至る所に海上関所があった。ここで通行料を徴収していた。払わなければ通ることも出来ず、各地で売買もできない。水軍を持つ大名達にとって重要な資金源であった。

 だが、それを無視することが出来れば今までよりも速く、利益を大きく上げることが出来る。


「北条領に全く寄らないのは無理が有りますが、沖乗りができれば航海日数も短くなります」


 まず、江戸時代初期では地乗りで大坂-江戸間を航海していたが、平均所要日数は三十日ほど。最短で十日。中後期には西洋の航海術が導入されたことにより、沖乗りが発達した。平均所要日数は十二日、最短で六日ほどと半分以下の日数で航海することができた。

 

「しかし、冒険が過ぎます。現状維持でも十分発展しますので良いのでは?」

「例え進んだ技術を持っていても、いつかは真似されます。今後のためにも攻勢を仕掛けるべきです」


「ふうむ……」


 侃々諤々(かんかんがくがく)と意見をたたかわすのを聞きながら義堯は瞑目し、しばし長考する。


(五郎の言う捕鯨をするならば、館山の整備と船の建造に上方との販路拡大は必須、か。金がかかる。だが、大型の軍船は欲しい……)


 賛成・反対は半々といったところ。

 為頼、時茂は冒険が過ぎるとして明確に反対。義舜も時期早々と反対寄り。

 時忠、実元、安泰、そして五郎は賛成している。


 義堯自身、やはり莫大な資金がかかるこの計画には流石に躊躇した。失敗すれば今後に多大な影響を残す。だが、成功すれば巨万の富を得られ、外交でも存在感を持つ。


 だが、交易を担当する時忠は成功すると言っている。これは実績がある分、信憑性がある。時たま駆け引きを長く楽しもうとする悪い癖はあるが、必要以上に損害を出したことはない。


 のるか、そるか。


(このまま堅実にやっていけば力は蓄えられる。が、それも確実ではないな。北条との決着はいつになることか……。産業もいつかは真似されるだろう……)


 義堯には、野心があった。自分の代で、己の手で北条と決着をつけたいと願っていた。そして北条のいなくなった関東を支配し、関東管領として采配を振るい、里見を繁栄させる。それが夢である。


「ク、クカッ、クカカカ、カカカカカカッ」


 その夢を思い出した義堯は高く笑い出す。周りはギョッとした表情を浮かべ、議論を止めることになったが関係なかった。


「――いやはや、楽しいな。久々に楽しい会合だなァ」


 笑いながら義堯が言う。その顔には野心家らしい、獰猛な笑みが浮かんでいた。 


「やってみようじゃないか」


 この言葉に全員が居住まいを正す。義堯に当てられたのか、知らず知らずの内に笑みを零していた。

 

「為頼、上方の有力者と接触しろ。その際に硝子でも贈呈して繋がりを作るのだ」

「ははッ」


「時茂、米を中心に食料を増産しろ。金は幾らかかっても構わん」

「は」 


「実元、職人たちに発破をかけて硝子、金銀、あと消毒薬だ。増産させろ」

「はッ、わかりました!」


「時忠、商人を根こそぎ集めろ。貴賎問わん。増産した代物は全て言い値で売りつけろ」

「はい、お任せください」


「義舜、貴様らは国境の防衛を密にせよ。絶対に突破されるなよ?」

「はッ」


「安泰。水軍を動員して内房の航路を安定化させろ。今以上に北条水軍を押さえつけろ」

「はっ!」


「五郎」

「はッ!」

「貴様には館山の湾港の開発を任せる。言いだしっぺだからな。当地にて交易船、捕鯨船団の整備を行え。資金は全てワシが出す」


 義堯は五郎に近づき、ぐいっと身体を乗り出す。

 とても素敵な笑顔だ。だけど間近では見たくないな、五郎は他人事のように考えていた。

 そう考えないと拙い。精神的に持たなかった。


「―――ただし、失敗は許さんからな」


 至近距離からの重圧と眼光をもって脅される。

 五郎は引き攣った笑みで答える。背中の脂汗が止まらない。


「はッ、お任せください……」


 よろしい、と義堯は宣言する。


「さて、やるなら徹底的にやってみようじゃないか」


 この日より、安房里見家は大きく動くことになる。

誤字・脱字が有りましたら連絡をお願いします。


2015/3/27 表記ゆれ・文章の追加を行いました。

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