第33話 銚子大開発計画
いつも誤字脱字の報告、ありがとうございます。
楽しんでいただければ幸いです。
今回は思いっきり趣味に走っています。
鏑木らの軍勢が敗退、里見に銚子を占領される。
これに千葉介は憤慨し、居並ぶ原らを激しく面罵した。だが内房の安西ら里見方の国人衆が出撃し、幕張から佐倉まで北上してくるという情報を聞くや慌てて今までの主張を翻し、原に早急に千葉に有利な協定を纏めてくるよう命令を下した。そして自らは愛妾を連れて屋敷の奥に籠ってしまった。
原は大きく溜息をつき、最低限の面子――もう残っていないが――を守るべく、里見家と講和を結ぶために動き始めた。
十二月末、今年も終わりが見えた頃に里見家と千葉家との協定がもたれた。それは大きく三つの案でできていた。
一つ、一年間の停戦期間を設けること。
一つ、討ち取った首級、及び人質を返還すること。
一つ、新たな国境の制定、また国境地帯の城砦の破却すること。
他にも細々とした決定があったが、およそ今の状況を確認し反映する、というものだった。
交渉役を務めた土岐為頼と原胤貞の両名も、腹の探り合いはそこそこに決めるものは決めてさっさと仕舞いにした。どちらもこれ以上、余計なことをしてまで交渉を長引かせ、戦を続ける気が無かったのだ。
里見は続けて行われた戦で疲弊しており、また取るもの取ったからさっさと内政に取り組みたい。
千葉も貴重な軍勢が壊滅して千葉介の権威がぐらついている。またあてにしている北条家が動けない以上、どうする事もできなかった。特に北条家はいま現在、越後からきた出稼ぎ労働者、もとい長尾家の軍勢を相手するのに忙しく、しかも雪解けまで相手にしなければならない。万全の援軍を受けるには最短でも来年の夏まで待たなければいけない。その前に形だけでも立て直しておきたいというのが原の考えだった。
合意後、首級と人質の交換が行われ、双方とも最低限の守将と兵だけ残して撤収。下総国に一応の平穏が訪れることになった。
◆
天文二十四(1555)年 一月上旬
年も明け、今回の戦の論功行賞も終わると、新たに獲得した匝瑳郡と銚子は即座に開発が始められた。
この時の里見家は匝瑳郡と銚子の獲得で、外房の沿岸部への投資と需要拡大による好景気に沸いていた。房総半島の交易路がほぼ全て繋がったこと。また昨年の戦で構築した兵站路をそっくりそのまま転用したため、大きな混乱もなく物資の輸送が可能になっている。むしろ慎重な取り扱いを求められ、兵站を圧迫していた弾薬類が最小限で済むようになったため、非常に安定していた。
これらの要因に戦勝による熱狂も相まって、今まで以上に交易が盛んになっていた。また九十九里浜で幾らでも取れる魚に塩、その加工品は良い値で売れる。また麻に木材、竹、瓦などは各地の普請工事による需要増大で作れば作るほど売れていく状況であり、関係者たちは嬉しい悲鳴をあげていた。
そして、それを支える中継港の整備が進んだことで更に活発化していく。
その影響を最も受けたのは、銚子半島の下部にある外川だった。
「さあさあ、暇な奴はどんどん普請に参加してくれ! 銭も飯も、幾らでもあるぞぉ!!」
数少ない地元の人間が「こんなの初めて見た」と驚くほど、外川は人とモノと喧騒で溢れかえっていた。雇われた外川の住民らが煮炊きをしており、また目敏い商人が威勢のいい掛け声で酒やつまみを売るなど、まるで祭りのような雰囲気であった。
今回の普請に動員したのは、戦時中に雇った雑兵と元野盗らであった。
戦の後、毎回問題となるのは陣振れで集まった雑兵をどうするかだ。戦が終われば褒賞を渡して終わりだが、そのまま開放すればまず間違いなく治安が悪化する。些細なことから乱闘騒ぎに強盗と騒ぎ立てるからだ。しかし、ずっと雇用し続けるのも不可能なため、施政者からすれば頭を悩ます問題だった。これに加え、今回は降伏した元野盗達もいる。いくら里見家が許したとしても、彼らは地元に周辺の郷村から歓迎されていないのもあり、孤立しつつあった。
これらの数を合わせるとおよそ千。かなりの戦力である。ここから将来有望そうな者の引き抜きや既に出立した者を差し引けばいくらか減るが、それでも多い。
このまま開放するには勿体ない。そして里見家は、彼らをそのまま銚子開発の労働者に変えた。現地の住民では人手が足りず、また一から人夫を集めるのも面倒だからだ。また褒賞として彼らに適当な土地や仕事を与えれば銭もかからず、一領具足として雇用すればそのまま現地を守る兵になる。
銚子、それも外川周辺は土地が余ってる。水と塩害の問題から栽培できるのは雑穀類に大根や明日葉といった野菜を中心とした畑作になるだろうが、将来的には醤油や漬物といった加工品を売り出していけば利益にはなる。それに新天地に自分の土地があるとなれば、彼らも無体なことはしない。折角のチャンスを不意にするのは馬鹿のすることだからだ。
里見家からすれば土地の開発は進むし、将来的には税も取れて良いこと尽くめだった。
また、この話を聞きつけた近隣の百姓たちも挙って参加するようになった。多くは貧しい者であり、普請で出る飯目当てにやってきたのだ。
しかし、参加してきたのは若い男ばかりではない。彼らには野良仕事があるため、老人であったり、また子連れの女性が来ることも多い。人足に老人や子供が多いのは施政者からすれば嫌われるものだが、里見家は問題視しなかった。
「彼らも立派な労働者。それに今後も考えれば仕事を与えて飯を食ってもらった方が良い」
雇った人足は男・老人・女子供に分け、男は荷下ろしに天幕の設置。老人らには木や竹の加工などの細々した作業を、女子供には食事の煮炊きに縄結い、子供の世話を任せた。
例え普請作業は出来なくても、任された仕事をすれば飯が食える。この時に里見家の領地になれば今後は良い暮らしができる、飯がたらふく食えるぞと話しておく。これを笑い話にされても、繰り返せば信じていく。これは今後の統治にも役立つからだ。
「ノー・ブラック、イエス・ホワイト」
「実直な仕事には、相応しい報酬を」
「……まあ、確かにその通りだがな」
……実際には、ブラックな仕事は駄目だ! という転生者たちの意向が反映された結果で、統治云々は後付けだったりする。
これら膨大な量の物資と銭束、そして人が、そのまま銚子半島へ流れ込んだ結果が今の外川であった。
先日まで小舟が数艘しかなかった浜辺には弁才船が直接着けており、そこから陸揚げされた大量の物資がうず高く積み上げられている。活気にあふれ、道行く人々の笑顔も多い。また兵に人夫たちも次々と上陸し、まずは各普請への割り当て先の確認に移動、早速とばかりに売っていた酒とつまみを買うなど、せわしなく動き回っている。
「まずは最低限の住居と防備は整えませんと。それから湾港設備を整えて、本格的な普請を始めます」
銚子開発の総責任者を任された安西実元は、高神愛宕山(標高75メートル)にある高神館(現在の銚子市高神東町)を接収して仮の拠点にし、そこで居並ぶ面々に実元はこれからの予定を説明していた。
実にいきいきとした表情だった。東総の一大拠点となる街を造る、という大役に張り切っているのもあるが、自分の裁量で自由にできること。また元々こういった仕事の方が好きで、ここ暫くは戦ばかりで血生臭いことに嫌気が差していたというのも大きかった。
高神館は土豪としては普通の、堀と土塁に囲まれた単郭に建つ小さな屋敷だ。室内には義頼と時忠、そして義頼の家臣である真里谷信応もいた。
真里谷氏は土木工事に秀でた一族で、この房総半島でも随一の築城の専門家でもあった。
上総国にある重要な城郭、例えば交通の要所である造海城や椎津城、里見義舜の居城である佐貫城、正木時忠の勝浦城も、元は彼らが築城したものである。
また関東では珍しい石垣を築く技術も持っているため、今回の工事に召集されたのだ。
全員が頷いたのを見て、実元は持ち込んだ机の上に地図を広げて指で示す。簡単な銚子半島の地形図には、大きく三つの印がつけられていた。
「銚子大改造計画」と名付けられたこの開発は今後の戦略のためでもあり、壮大な実験でもあった。
寒村である外川はそのままでは使えないため、実元が提案した開発計画ではまず地域の拠点となる城を造る。そして外川の区画整理を行い、大型弁才船も停泊できよう防波堤や桟橋など湾港設備の建設。また犬吠埼に灯台を造り、より安全に航行できるようにする。
そしてこの計画の目玉であり肝となるのが、名洗から新生までを繋ぐ「銚子横断運河」であった。
銚子横断運河は史実でも考えられ、香取海の河口部で多発していた座礁事故をなくすために慶長一四年(1609年)に名洗から新生、今の名洗町から銚子漁港まで総延長約3㎞、河幅10mの開削工事が試みられた。しかし工事は途中で打ち切られ、この運河の一部は現代でも滑川という名で存在している。
運河予定地は平坦な土地が続いており、既存の河川が無いため全て開削しなけばならない。しかし、掘ること自体はさほど難しくなく、今までも河川改修や堤防工事などで培った技術や資材はある。また土留に使う石材は高神愛宕山から採掘できる。この石材は銚子石と呼ばれ、軟質で加工しやすい。
この石材は城の石塀や防火性の高い木骨造の建屋にも使える。今までの建築経験の蓄積でより洗練されており、銚子の温暖な気候と強風に適した造りになっており、問題なく過ごせられるだろう。
ひとつ難点を上げれば、湾港の外川と運河の名洗が若干離れている事だろうか。
港も名洗に開発すればいいのでは、と思うかもしれないが(実際に会合の席でその案が出た)、名洗には屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖に挟まれた小さな平地しかない。しかも屏風ヶ浦は軟質の地層と打ち付ける波の強さもあって浸食が激しい。有史以来、既に数キロも削られているとされ、鎌倉時代にこの地にあったという佐貫城は遥か沖合に沈み、現代の護岸工事するまで年間1メートルは削られていたという。そのような地では港は作ってもすぐに壊されてしまうため、地盤がしっかりしていて土地が広い外川が選ばれた。
「運河の掘削ですが、近隣の国人衆からの支持は取り付けられました。中島城の海上氏も裏から協力するとの事です」
大量の物資と人員を背景に、時忠は近隣の有力者たちに硬軟両面で調略を仕掛けていた。彼らは荒唐無稽に思える計画を、本気で行おうとしている里見に驚きつつも大半が直ぐに里見方へ下る事を了承した。
「……随分と調略が早いですね。何かやりました?」
義頼がそう疑問を投げかけると、実元も同じ考えなのか首を傾げていた。信応も懐疑的な表情を浮かべている。理屈では確かに利益というものがあるが、そんな簡単に余所者、それも先日まで敵だった存在に靡き、地域が安定化するものだろうか。特に海上氏は外川に領地を持っていた筈だ。
これに時忠は大したことはしていないですよ、と笑いながら答えた。
「事前に東国三社に書状を出しまして。彼らも今の下総国で起きている飢饉に憂いているようです。そこで微力ながら協力を申し出たところ感激してくださり、船幟だけでなく色々と便宜を図って頂けました」
(((うわぁ……。この人、神宮を盾しやがった……)))
東国三社とは香取神宮・鹿島神宮・息栖神社の三社である。
特に有力なのは香取神宮であり、香取海における港と水上交易路の管理を担っている。そうなっているが、いまの戦乱の時代で七十七あった港と航路が在地の国人衆によって殆ど奪われてしまった。残っているのは数えるほどで、弱体化も著しい。
しかし、今もなおその権威は全国に轟いている。
香取神宮は古くから、いや日本の始まりから朝廷と武家から崇敬を受ける「神宮」である。この時代に神宮は伊勢・香取・鹿島の三つのみ。
この神宮に表立って手を出す者はいない。手を出せば、その一族は「畏れ多くも御社を侵した」という大義名分のもと、近隣の国人衆によって袋叩きにされてしまうからだ。
時忠はそれを利用した。
「香取神宮には国人衆はおろか、北条や千葉ですら迂闊に手を出せない。なら、香取神宮所属の商船を拵えてしまいましょう」
必要なのは香取神宮が発行する免状。これは香取海における水上交通のフリーパス権だ。これを掲げた船を襲うのは即ち¨香取神宮の敵¨である。
ただ、これだけでは紙切れに過ぎない。でなければ今まで港と航路を国人衆に奪われたりしないし、力が無ければ無視されるだけだ。
そこで東国三社を口説くために寄進だけでなく、必要な船と水夫、そして船幟を用意した。
船は現地で買い付け、また新造させた和船である。水夫は里見水軍の水兵だけでなく、こちらへ恭順を示した現地の者らも含まれていた。また椿海での水上輸送に従事していた元野盗なども参加している。
船幟は上総国で生産された布に縁起が良い絵柄を派手な色彩で入れた豪奢なもので、いわゆる大漁旗と呼ばれるものだった。これを近隣から買い取った船や新造船に取り付け、領国から新生まで運び込まれた新鮮な魚や塩、米に雑穀を里見家の水兵による操船のもと、香取海の交易路を使って一気にばら撒いた。
東国三社からしても、里見に逆らう気はない。彼らはかつて鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮すら焼いた(1526年の鶴岡八幡宮の戦い)からだ。邪魔する寺社を焼くのに躊躇はないと信じていたからだ。
とはいえ、いま最も欲しい食糧が安価で大量に手に入ることには喜んだ。しかも東国三社の名で輸送してくれるのだ。領土ではなく、信仰が収入源である彼らにとって非常に益がある。
また里見家が使った港は新しく造ったという外川と新生。彼らの領域を侵したわけではなく、しかも税収の幾らかは支払うと言うのだ! また丁寧な書状と使者を出し、伺いを立ててから動いたのも「野蛮なだけじゃない」と高い評価だった。
なにより、彼らを驚かせ、喜ばせたのが一つの約束だった。
「今後、地域が安定化すれば御船祭を再興させましょう」
御船祭は応神天皇の御代より十二年に一度、午年に天皇から遣わされる勅使を迎えて行われる香取海で最大の祭典だった。
しかし、戦国時代に突入してからは中絶されてしまい、再興するのは明治時代に入ってからとなる。
執り行う鹿島神宮だけでなく、香取神宮、息栖神社にとっても大事な祭典であり、これを再興させるのは長年の悲願であった。
そして彼らはやってきた里見の船団と積み荷の多さに驚きつつ、高々と立派な船幟を掲げる姿を見て、伝え聞く祭典に想いを馳せた。
「きっと、祭典とはこの様な勇壮な姿で、素晴らしいものなのだろう」
彼らは実際にやって見せた。伝え聞く限り、彼らは本気で何もない田舎である外川を開発しようとしている。
彼らは運河とやらも造り上げ、御船祭を再興させてくれるのではないか?
そう考えた東国三社は、里見家が怖いのもあって協力する事を選んだ。
その効果は、覿面だった。
利益と軍事力だけでなく、東国三社という権威と保証を見せつけられれば一地方の国人衆に反抗できるはずがない。また「神宮のために働いている」というのは、東総の人々にとって非常にありがたい言い訳になった。
かくして里見家は匝瑳郡に銚子の実効支配と新しい販路を、三社は一筆書くだけで寄進と崇敬、東総は資本投資による発展と。三方に良し、という協定がここに結ばれたのだ。
「商売とは信用第一。いつの時代でも、遠方から来た馴染みのない金持ちだけで動いても上手くいきません。現地の有力者を抱き込み、利害関係者にしてどちらも得となる協力体制を作る、これが大事です」
「……なるほど」
「……たいへん、勉強になります」
確かにその通りなのだが、まさか口と銭束と過去のやらかしで神宮という最高位の権威を口説き落とすなど、誰も全く思っておらず、ドン引きした口調になるのも仕方がなかった。
「そういう訳なので、できるだけ早く設備を整えて欲しいのですが、どうでしょう?」
「ああ、うん。そうですねぇ。人夫が集まり、あくまで予定通りに進んだと想定してですが」半眼の相のまま、実元は答えた。「最低限の設備だけなら、一年もあれば形にできます。それから状況を見つつ拡張していく、という風になりますね」
とはいえ、余程のことが無い限りズレは生じないだろうと実元は考えていた。
人員は豊富。銭もある。物資も、領国内で制定されていた法に則り、資材は全て定められた規格によって製作されるため、短期間での建造が可能となっている。
そして、余程のこと――、例えば千葉方からの妨害や国人衆らによる一揆の可能性は低くなっている。東国三社が抑えに回っているからだ。むしろこの件で香取海からの物資と人員の過剰な流入による暴走を警戒した方が良い。これも、うまくやれば工期の短縮に繋がる。
あとは工事自体がうまく進まないことだ。現地の調査をしたところ、運河予定地の地質が軟弱で崩れやすいことが分かっている。こちらは切り出した銚子石で擁壁を行い、特に軟弱な個所は粗朶と杭を打ち込み、また混凝土を使用することで固めていくしかない。
「そうなりますと、一に湾港、二に城、三に運河ですか?」
「当面は高神館を手入れして使えばいいですからね。運河も、完成するまでは外川から新生まで馬借による運輸で凌げると思います」
「……人手が足りなくなりそうですね。念のため、風魔に増員できないか聞いておきましょうか」
「すみません、お願いできますか? 賃金には色を付けますので」
「しかし、こうなると城の普請も変更する必要がありますぞ」
信応の言葉に、全員が顔を向けた。
「その心は?」義頼が言った。
「城の格が足りませぬ。見栄と言っても良いですな。神宮という権威に協力を受ける以上は、ここを東総の顔にしなければなりませぬ」
つまり、貧弱な城では侮られ、笑われてしまうということだ。
計画では高神愛宕山の山頂に屋敷を建て、その周りを堀と土塁でぐるりと囲むだけの予定だった。
とはいえ、火縄銃に少数だが平射砲も配備するため、一地方の城の防備としては十分。他に候補にあった新生は国境に近く、停戦期間中に城を建てるのは流石にまずい。また里見家にとっては、いざとなったら封鎖できる運河よりも、後の東北への中継港となる外川と湾港設備の方が大事だった。
「それに近隣の国人衆、また東国三社から視察が来る可能性もあります。そう考えるとはったりが効く城が欲しいですな」
「あー、そう言われると母屋が小さいか。歓待できるような建屋も無い」
「そうなりますと、庭園や茶室もいりますかね?」
「あった方が良いですな。まあ高神愛宕山からの眺望は良いですから、櫓で茶を飲みながら周りの風景を楽しんでもらうのもアリですな」
「それ、良いですね。それをやりましょう」
「しかし、あまり立派だとそれはそれで問題がありませんか?」
「規模を小さくすれば良いでしょう。接待という理由もありますし、小さければそこまで言われません」
「えーと、ちょっと待ってくださいね」
頭の中で考えが纏まったのか、実元は口を開いた。
「つまり、見栄えが良くて小さく纏まっており、かつ高位の人らを持て成せる城、という事ですか?」
「そーなりますね」
「無茶苦茶でしょうが……」
実元はぶつぶつ言いつつも、さまざまな意見をぶつけ合う。
その結果、できあがった案は以下の通りとなる。
・総石垣
・上下二段の曲輪をもつ方形
・象徴となる天守閣、または二重櫓
・歓待できる施設の設置
・鉄砲・大砲による射撃戦に適した造り
特に石垣は今後の主流となる近世城郭の要素でもあるため、今のうちに技術の蓄積をしておきたいという考えもあった。ただ、銚子石では軟いうえに信応でも高さは一間少々(約2メートル)と高く積めない。そのため石垣は犬吠埼や外川周辺の岩礁で取れる安山岩を使い、足りない高さは切岸で補うことになった。
「無理に石垣にせず、最初から切石を積んで混凝土で固めていく方が良くないですか?」
「それも考えたのですが、混凝土は運河と湾港に優先的に使いたいんですよね。それに、生産量は相変わらずですし」
「そうですぞ殿。折角の機会なのに、儂の活躍の場を取らないで欲しいですなぁ」
おどけたように言う信応に皆が笑った。
「上物は石塀で囲み、隅櫓を建てる形ですか?」
「ここは潮風が強いので、砲は建屋の中に入れておきたいですね。それなら天候関係なく使うことができるので」
「んー、それなら倉庫の資材を転用しましょうか。加工済みの木材はありますし、木骨造なら短期間で建設できます」
「ふむ、櫓と倉庫を連結させれば防備も硬くなりますな。それに、見栄えも良い」
「いっその事、屋敷も繋げてしまいますか。これなら城域が小さくても空間を幅広く使えます」
「そうしましょう。あとは地下の備蓄庫に井戸を造れば籠城も可能です」
「……資材が足りませぬな。館山からも持ってきた方が良いですな」
「あとは予算も追加で。歓待するに必要な内装を揃える必要がありますし」
「ですね」
その後、会合の席で出された当初とは全く違う、明後日の方向に暴走したかのような案に流石の義堯も唖然としたが、神宮を引き合いに出されれば仕方がないと説得され、許可を出す。
そして里見家初となる総石垣の城、外川城が建造された。
「ふぅむ、これは良いな」
完成したばかりの外川城に、噂を聞いていた土岐頼芸はいの一番に見に来て接待を受けていた。
その彼から見ても、外川城は見事なものだった。城郭としてはやや小ぶりだが、ほぼ全てが石で造られており、天守・多聞櫓・屋敷が混然と一体化した姿は圧倒的だった。
高神愛宕山の頂上部を掘削し、銚子の岩礁で段々に築かれた石垣は荒々しく、その上に建つ多聞櫓は黒瓦葺き石造と重厚的で目前に迫ってくるようだ。
また館山城の予備材で造られた望楼型天守からの眺望は素晴らしく、最上階の茶室で全方位を見渡しながら茶を飲むのは格別だった。
「だが、惜しいな。外と中身が釣り合っておらん」
この時、外川城は外観ができたばかりで、これから内装を仕上げるという時なのだからそれも当然である。
「うむ、そうだ。ここはひとつ、儂が手を貸してやろう」
名案であると言って近習に馴染みの職人衆を集める様に伝え、事後承諾で屋敷の内装工事に取り掛かった。集められた職人たちは「いつもの御殿様だ」と笑いながら仕事に取り掛かった。
また銚子には石工の他に漆も取れ、琥珀の日本三大産地の一つでもあった。それを聞いた頼芸は在地の職人たちも集め、琥珀と漆をふんだんに使った装飾も施していった。
予算の都合と過剰な装飾はまずいということで、予定よりも縮小されたのは頼芸にとって不満だったが、それでも木目を文様のように浮き立たせ、随所に職人たちがこだわりぬき、技と粋に遊び心を集めた内装は美しく素晴らしいものとなった。
特に会談の場となる座敷は壁には頼芸の花鳥図が描かれた七宝焼が飾られ、眼下に海を借景にした緑の庭園が一望できるようになっていた。
初めてくる来訪者たちは、まず城の重厚さに驚き、城内の随所に散りばめられた細工を楽しみ、そして座敷からの雄大な絶景に誰もが感嘆の声をあげるほどだった。
これにより、頼芸の芸術家としての名声はますます高まった。
そして外川の商人や漁民などが俄かに裕福になっていくと、憧れと我らの誇りである外川城や御殿の形式を真似る事が流行。材料も豊富、土蔵並みの耐火性もありながら工期は短いと実用性が高い。
また防災の一環でこれらの様式の家屋を建てれば補助金を出すという当時としては珍しい制度が後押しし、台地の斜面を削平し、石垣を築いて石畳を敷いた。この上に木骨造の屋敷や蔵を建てて琥珀細工に土岐派の書画や七宝焼きを飾った。これらは成功者の証であり、「鰯御殿」や「船御殿」と呼ばれるようになった。
これら屋敷を建てたのは、かつて野盗や雑兵と呼ばれた者達だった。彼らはこの地で石の加工や石垣の積み方、木骨造などを学び、一人前の職人へと変わっていた。その他にも漁師や農家、また廻船の船乗りとして働き、銚子に定住していった。
戦国時代が終わるころに、外川は最盛期を迎えることになる。
常陸と房総を繋ぐ中継港として機能するようになり、また地元の鰯や醤油の生産で大いに繫栄することになる。これらの南北だけでなく、運河を通って内陸へと運ばれていった。その盛況ぶりは凄まじく、毎日が祭りの様で「外川千軒大繁昌」と語り継がれるほどだった。
しかし近代に入り、産業革命によって鉄道網が発達した結果、外川を支えていた船運は規模を縮小していき、また石材や漁獲量も少なくなった事から外川は衰退していくことになる。
主産業の船運と漁業が衰退してからは小さな町として続くことになるが、実元の将来の陸運の発達を見越した町割りと、住民たちが何代にも渡って造り上げた石垣や石畳を壊すのに金が掛かること。また外川が房総半島の端にあることから発展が遅れ、時おり思い出したころに再開発の話が持ち上がったが、これらは全て住民たちによる反対でとん挫しており、古くは戦国末期に整備された遺構が多く残ることになる。
そして現代。近くに駅が作られ電灯がつき、自動車は走り回るようになっても街そのものはほとんど変わらず、歴史的な価値と和風の石造家屋という珍しい様式と内装の美しさから国内だけなく海外にも様々な形で紹介された。
観光地として再び活気に溢れるようになった外川には、町民たちが建立した扇子を振り上げる安西実元の銅像が立つようになり、「石の街」外川を見に来た多くの観光客たちを出迎えることになる。
誤字・脱字、また感想等がありましたら連絡をお願いします。
外川城のモデルは飛騨高山城の本丸。個人的に好きな城です。




