第30話 下総乱入
ようやく投稿です。短いですが、楽しんで頂ければ幸いです。
天文二十三(1554)年十月中旬
里見義舜が率いる軍勢は東金・士気の両酒井氏を手先に北上。本隊は招集した一個連隊千二百名、陣振れと国人衆と流れの浪人に食い詰めの百姓達の参陣で二千にまで膨れ上がった。
この軍勢に対抗できる国人衆はいなかった。食い詰めの百姓が主体であるが故に、まともな戦にならなかったのだ。
境川(現在の作田川)で待ち構えていた下総の国人衆と対陣した際、持ってきていた三斤平射砲で数発撃ちこめば陣形が大きく崩れ、突撃をかけただけであっさりと蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていった。
「これが『見た・来た・勝った』ですかね」
この惨状を見た実元は拍子抜けした表情でそうぼやいた。周りの将兵も似たような顔だったが、まあ勝利は勝利であると将兵は勝鬨を上げた。そして気合を入れ直し、進軍途中にある浜手城などの要害を突破。上総国北部の坂田城(現在の山武郡横芝光町坂田)に迫っていた。
この坂田城は古くからこの地を治める千葉一族であり重臣、三谷大膳亮胤興の持つ城の一つであった。
標高三十メートルほどだが、南北に伸びる舌状台地に築いたこの城は周りを急峻な崖と池、そして湿地に囲まれた天然の要害である。
後に北条氏の命により、この地方の兵站及び対里見の番城として最新の築城技術が惜しみなく使われ、広大な台地を生かして何本も堀切で断ち切る、地方豪族のものとは思えない大規模な五郭の連郭式平山城となった。
だが、それはまだ先の話である。この時は北条氏の影響力も少なく、三谷一族の内紛騒ぎで改築は殆ど行われておらず、従来の防御思想で設計されたままであった。
城郭は台地の一部のみで長槍で迎撃できるよう壕は浅く、小勢で効率よく防御できるように折れを多用して土塁と木柵で外周をぐるりと囲んでいるだけだ。
「先の敗退で城兵も少なく、広大な台地を生かしきれていない。これは落とせるな」
城攻めの先手を任されたのは、同じ千葉氏に属し、北条氏の家臣でもある大台城主、井田刑部太輔友胤であった。
なぜ同じ千葉氏の家臣である井田氏が里見に味方しているか。それは今から二十年ほど前の出来事が関係していた。
享禄年間(1528年~31年)、飯櫃城の山室氏の客将であった井田氏は三谷一族が小堤城と新村城に別れた内紛が発生すると、これを好機として領地獲得のために介入していた。このときは主家の千葉家当主、千葉勝胤が仲裁した事で内紛も落ち着き、領地も今まで通りになった。だが、井田氏にとってはあと少しのところで逃す結果になってしまった。
しかし、里見から今回の戦で活躍すれば坂田郷を与えるとの約定を貰うと即座に了承し、最低限の守りを残して軍勢を動員。並々ならぬ決意を持って参陣したのである。
「今度こそ坂田郷を手に入れてくれる!」
そう息巻く友胤は降ってわいた機会に内心狂喜していた。何せ里見勢はあの北条を撃退した精鋭揃いと聞く。また今後の事を考えれば、ここで活躍すれば更なる一族の繁栄も見えてくる。
早朝になり、義舜は攻勢を命じた。まずは里見勢による鉄砲と抱え大筒で虎口に集中砲火。待ち構えていた城兵ごと門を粉砕したあと、井田氏の手勢が突撃をかけていた。
三谷大膳亮も懸命に防いだが、多勢に無勢。元々の兵力差もあって士気はどん底にまで落ちこんでおり、頼みの防備は吹き飛ばされていった。井楼櫓は鉄砲と大筒で滅多打ちにされ、要所に設けられた横矢掛かりは集中攻撃を受けて機能しなくなっていた。
更に友胤自らが先頭に立ち、槍を振るっているため攻め手は戦意十分。ひたすら猛攻を続ける井田氏を止める事は出来なかった。
そして昼過ぎには三谷大膳亮が最後の武士の意地、とばかりに牙城から僅かな手勢と共に出陣。道連れに幾つかの首を挙げたものの、最後は数十の槍に突かれて壮絶な討ち死を果たし、坂田城は落城することになった。
「これで下総への足がかりを確保できた」
義舜は本陣に伝わってくる情報にひとまず安堵し、即座に制札を出すよう命じた。
「一日、略奪は許可する。ただし、礼銭を払った近隣の集落には手出ししてはならない」
招集した連隊には今まで通り給与は出すが、陣振れで募集した雑兵や途中合流した国人衆の手勢までは面倒を見切れない。
そのため、義舜はあっさりと略奪を許可していた。招集した兵全ての給与を賄う事は不可能だからだ。銭も米も余裕が無く、ここは敵地である。
規律の整った連隊ならある程度は我慢させられるが、略奪上等で食うために参加した百姓や破落戸にとって乱取りが無ければ、何のために参加したのかが分からなくなる。
つまるところ、戦とは強盗殺人であり、それを行う軍勢は野盗の群れなのだ。
いかに万人受けする大義名分を掲げても、煌びやかで整然とした軍勢であっても、本質は野盗の群れである。
古今東西、軍勢は基本的に食料を現地で賄っている。食糧を輸送する事もあるが、あくまで現地で足りない場合のみであり、どうやっても限界がある。
それなら現地で買うなり徴発するなりした方が手間も無く、遥かに安上がりなのだ。
それに里見方の領内でも、冬は越せるとはいえ余裕がある訳じゃない。特に獲得して間もない上総国北部は次に何かあれば餓死者が出てしまう。領民である以上、彼らを食わせなければならない。
食糧生産高は昔と比べて大幅に上がったが、それに比例して人口も増えた。少しでも領内から食い扶持を減らさなければいけなかった。
だから、今回の侵攻である。手を出してきた事への報復、面子のため、領民を飢えさせないため。建前はあった。そしてこの野盗の群れは暫くの間、下総国に居座る気満々である。
しかし、義舜はそこまで鬼では無かった。礼銭を払えば略奪をさせず、また味方になれば多少の食糧の融通と仕事の依頼は行う。仕事は物資の輸送に獲得した城の改築、道の整備などの人夫である。雇われている間は飯は食わせる。
また兵が略奪した品物は銭で買い取る。捕虜に親類がいれば代金を払うことで捕虜を返還した(ただし相場より割増である)。今までに消費した武具に兵糧、そして家財を無くした者、行き場の無い者を兵として補充しようとしていた。
かくして、坂田城は百姓たちの稼ぎ場となった。城内の銭や兵糧、武具に金物全てが根こそぎ剥ぎ取られ、抵抗する者を殺し、家財を持って避難していた百姓に女子供は奴隷として生け捕りにされて格安で売買される。
乱取りで財を成した百姓は喜色を浮かべ、奪った馬にたっぷりの米俵や布、金物を載せて村に帰るか、引き続き軍に参加する者は商人に略奪で得た物を売り払い、酒を飲んで腹いっぱいの飯を食べ、近隣の村や流れの遊女を買って楽しんでいた。
この乱痴気騒ぎに規律を叩きこまれていた陸軍の将兵は顔を顰めつつも(彼らは十分な給与と食事が与えられるので、危険な乱取りに参加する理由が無かった)、交代で休息を取り、次の戦に向けて準備を進めていた。
「しかし、今までの戦といい、今回といい、あまりにも脆すぎますな」
「これならば匝瑳郡どころかすぐに下総国を制圧出来ましょう」
進軍を始めてからは連戦連勝。本陣に伝わってくるのは損害も無く、圧倒的な戦果ばかり。これに浮かれて楽観視をする武将らに義舜は諭すように言った。
「油断過ぎるぞ。慢心すればその代償を払うのは己らだ。こんな所で万が一にも、諸君らのような大事な将兵を失いたくない」
「う、申し訳ありませぬ」
居合わせた将は気まずさと嬉しさの入り混じった表情を浮かべ、自身の浅慮を恥じた。
「よろしい」義舜は微笑を浮かべた。「実元、近隣の様子はどうだ?」
「はい。坂田城の落城を受けて北の小堤城、西の長倉城が降伏。また飯櫃城の山室氏の調略に成功しました。所領の安堵を条件にこちらの軍勢に加わるとの事です」
山室氏は飯櫃城(現在の山武郡芝山町飯櫃)に拠点を置く千葉氏の一族である。元は小さな土豪であったが徐々に勢力を拡大し、現在の所領は一万貫文(二万石)を超える、北総でも有数の大名だ。
「ただ、牛尾城や多古城がきな臭いですね。牛尾能登守が中心となって飯櫃に攻め込もうと軍勢を集めているようです」
「成程な。攻め込まれそうだからこっちをあてにしているという訳か」
「そんな所でしょう。山室と牛尾は互いの仲が良くないですからね」
水利権、慢性的な飢餓、敵対する惣村からの襲撃。争う理由は幾らでも出てくるのがこの時代だ。それは同族や一門であっても例外では無かった。
特に千葉氏は平安時代から続く日本屈指の古族である。それだけに歴史も長く、下総国は千葉氏族が多く――というより、有力な土豪・国人はほぼ千葉氏族だ――存在していた。そして牛尾氏は自領に比べて広大で豊かな山室氏の所領を狙っており、山室氏もやらせまいと毎年のように争っていた。
「補給はどうだ?」
「略奪によって糧秣と兵は補充出来ましたし、足りない分は水軍が出張ってくれてるお陰で問題ありません。ただ、浜辺に積み荷を降ろしていちいち運ぶのが面倒だから、侵攻速度を抑えてくれと」
あまりにも明け透けな言に義瞬らは苦笑した。
「義頼だな、それを言ったのは」義舜が言った。「だが難しいな。暫くは坂田城に留まるが、早急に牛尾城と多古城を落とす必要がある」
「ですが、侵攻速度が速いのも事実です。兵站が途絶えるような事があれば戦えません」
必要な物資は館山から勝浦へ運ばれ、勝浦から九十九里浜のどこかに荷揚げされる。そこから現地で雇った人夫と風魔たちが馬借となって運び、前線へと供給されていた。
これだけ聞けば簡単だが、これが物凄くめんどくさい。
今回の場合、まず船で館山から勝浦へ運ばなければならない。この時、日本有数の難所である洲崎と野島岬を通らなければならない。また五百石以上の大型弁才船ならともかく、中小の商船だと波が荒れれば航行は難しい。そして難所で有名な二か所は波が荒れている日が多い。また船は途中で水と食料の補給を受けるために各地の港へ立ち寄る必要があった。
もちろん陸路もあるが、山を幾つも超えていかなければならず、遠すぎる。これでも海路の方が大量に早く運べるのだ。
そして、勝浦に辿り着き、九十九里浜へ持っていくのもまた面倒。黒潮の流れは速く、気を抜けばすぐに沖へと流されてしまう。湾口設備が無いから直接浜に着けるか、搭載している短艇を使って荷下ろししなければならない。しかも、陸に上げた物資を保管する倉庫が無いため、自力で管理するしかない。
ようやく積み荷を降ろし終えたと思えば、今度は前線まで運ばなければならない。現地の人夫を雇い、出稼ぎにきた風魔たちが馬借となって川、もししくは水源の近くを通るように運ぶ。これは川沿いの方が道が整備されている事、また人馬の飲料水が必要だからだ。
人が背負って運ぶとしたら三十~四十キロ前後。馬に載せるなら百~二百キロほど。運搬車であれば100キロは運ぶことができる。最も、運搬車は整備された道でないと使うのは難しいため、基本的には人か馬が背負って運ぶことになる。
兵に支給される一日の食糧は、一人につき六合の米、十人あたりに塩一合、味噌二合が支給される。すると三千名の兵は単純計算で一日におよそ二十石(三千キログラム)が必要な事になる。ここに馬の飼料である煮た大豆二升、糠二升(計5.8キログラム)、あとは藁や烏麦、少量の塩など。これに大量の水を一日に与える必要があった。
また輸送時の人馬の糧秣を用意しなければならない。運ぶ人数を増やせば物資も多く運べるが、それだけ負担も大きくなる。人夫を雇って運べば人数分の食事が、馬に載せて運べば馬の餌も持っていく必要がある。運ぶ際には護衛の兵をつく。敵の襲撃から物資を守るためであるが、一番の理由は人夫が積み荷を奪っていく事を防ぐためだ。
そして三千名の兵と馬の糧秣を届けようとした場合。二百頭の駄馬に人夫を四百名動員し、食糧だけ運んだとしても一回の輸送では五日程度しか養えない。
実際には武具の代えに玉薬に銃弾砲弾、医薬品の類が必要になる。戦となればバカスカと物資を溶かしていくので持って二日分が良いところである。
対応するには何度も行き来するか、小荷駄を増やすしかない。もしくは、ローマ軍的解決として道と拠点を造りながら進むというのもある。ああ、これでまた金穀が飛ぶ。
ただでさえ軍勢は存在するだけで物資を湯水の如く消費するというのに、これで前線が常に動いて拡大し、敵地、しかも内陸の奥深くへと行って兵站が伸びたらもう地獄である。陸軍が精強だとか、敵勢が不甲斐ないとかどうでも良い。とにかく速度を落とし、兵站路の構築をさせろと水軍は言っているのだ。
特に弾薬の類は略奪でも手に入らない代物だ。下総国には鉄砲足軽が全くいない。後方から供給しなければならない。
もし仮に、これで糧秣まで完全に面倒見ろと言われたらまず水軍はキレる。一発だけなら誤射といって佐貫城へ砲撃するかもしれない。
そのぐらい兵站の維持は面倒であり、また現地調達した方が圧倒的に楽なのである。
「やってもらうしかないだろう。義頼にはこちらから言っておく」
「納得しますかね?」実元が訊ねた。
「……誠意を見せて、どうにか頑張ってくれ、と言ったら大丈夫だと思うか?」
「水軍の艦砲射撃を喰らいたいならどうぞご自由に。私は御免です」
「一人では駄目かもしれんが、二人なら大丈夫かもしれん」
そして二人はどちらともなく笑いだした。
お前も生贄になるんだよ、いや道連れなぞ御免です。付き合いの長い主従は目でそんなやり取りをしていた。
居合わせた武将らも釣られて笑みを浮かべた。
「戦場でも気を張る訳でもなく、かといって油断する事は無い。それでいて場を和ませるために冗談を言い合うのは流石である」と全くの誤解をしていた。
その後、万全の兵站を整え、坂田城の修復を終えた里見勢は井田氏を手先に牛尾城へと侵攻。途中で山室氏の手勢と合流し、攻略へとかかった。
その間、二人の食事は特別なものになっていた。
後世には義頼が「水軍でも特別な食事を用意したので、連戦の疲れを癒してほしい」との書状と共に数々の珍味が運ばれており、「弟にこんなに尽くしてもらって、私は果報者である」と泣いて喜んだ事が伝わっている。
「しょっぺえな、この塩漬け肉と豆のスープ……。焼酎は酸っぱくて気が抜けてるぞ……」
「堅すぎるし、なんか虫が湧いているんですが、この堅パン……。チーズも古くなっていて臭いし……」
誤字・脱字はありましたら連絡をお願いします。
二人が食べているものは第七話の後書き参照していただければ。
もしくは「帆船 食事」と検索すれば色々と分かります。
2018/2/28 文章の加筆修正を行いました。




