第2話 “会合”[前編]
楽しんでもらえれば幸いです。
天文十八(1549)年六月 上総国 久留里城
転生者、岡本安泰に出会ってから一月後。
五郎は安泰と共に、現在の安房里見家の本拠地である久留里城に来ていた。
この久留里城は元々、上総武田氏によって築城され、その後は子孫である真里谷氏が支配していた。天文四(1535)年ごろ、真里谷氏の内紛に乗じて北進した里見義堯が占領。そして屋根続きに南に500メートルほど下がった場所を城地と定め、新たに居城として再構築された。
特徴として標高145メートルほどの小高い屋根の上に立つ山城であり、この城のある山を上から見てみれば縦に細長い二又の形をしていた。山の周りは谷津(谷戸とも。丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形のこと)になっており、丁度この三方から伸びる山の中心付近に本丸が建っており、普段は上の城、古久留里城と呼ばれる旧城を使用している。ここは城下町に近く、また現在の真勝寺一帯の丘を削平して広大な屋敷を造り出していた。
城内にはため池と井戸水が湧き出ており、複数の曲輪、土塁、掘切、垂直切岸など里見家特有の築城技術が使われており、防備は堅く、長期戦にも耐えれる。そして対北条の最前線であった。
その城内の奥にある部屋。
音が漏れぬように四方を石壁で造られ、入り口には里見家に忠誠を誓った、屈強な侍が守っており、何人たりとも勝手に入ることは出来ない場所である。
そこへ入室した五郎は呆然と立ちすくんでいた。異様な雰囲気だった。
「ふむ、どうした?早く座ると良い」
「は、ははっ!」
やや上擦った声でそう答え、指し示された藁円座に恐る恐る腰を下ろした。
案内された板敷きの広間は中央に一枚板の座卓と円座が置かれ、座卓を囲むように7名。
そして、一番奥の上座にいる人物を見て、驚愕した。
上座には、一人の壮年の男がいた。
歴戦の武将らしく鍛えられた体躯に、時には先頭に立ち、水軍を率いるためか髪は銀色に近く、肌は赤銅色になっていた。表情はどこか面白そうに笑っているものの、放たれる凄まじい重圧と、目からは五郎の内面を見るような鋭い眼光があった。
安房里見家第五代当主、里見刑部少輔義堯。
五郎の父親であった。
「ふむ、どうやら人が変わったというが、本当にそのようだな。なあ義舜」
「は、誠にその通りでございます」
「あ、兄上まで……」
里見義舜。
齢十九歳となる五郎の兄であり、佐貫城主。後に改名し、第六代当主となる里見義弘である。
自身の身内がこの場所にいることに五郎は唖然としたが、すぐさま自分の疑念について尋ねた。
「まさか、此処にいる全員がそうなのですか?」
「いや、ワシと為頼に時茂は違うさ。今思えばワシの教育係が転生者だったらしいが、当時は変人扱いしていたな」
(それは、確かに……)
未来では当たり前の事でも、この時代では非常識な事は多い。それに未来から来ました、とか言われてもそれを証明するものが無ければ信用する人はまずいないだろう。
「その後、教育係は戦で亡くなってすっかり忘れていたがな。父と弥次郎(正木道綱のこと。正木時茂・時忠の父)が義豊めに暗殺され、ワシは金谷城に居たときだ。時忠が急に「未来から来た」と言い出すわ、義舜が生まれて育つと同じことを言う始末。暫くして安西や岡本にも出たと聞いて、祟られているのかと思ったわ」
義堯の言葉に皆が苦笑を浮かべた。頭を掻きながらあの頃は混乱していましたから、と誰かが呟いていた。
「ま、色々と行き詰っていた時だ。気紛れに聞いて実行してみれば、お主らが言う通りに物事が進んでいる。またお主らが始めた改革で国力が上がっているしの。だから信用することにしたのだ。息子の中身が変わったことに思うことはあるが、今は戦国。弱ければ死ぬだけよ」
淡々と言う義堯に、五郎はうすら寒いものを感じた。戦国大名なだけあって息子に対しても計算高く、冷酷な一面があった。
そんな五郎を見てか、カカッ、と義堯が笑うと部屋に充満していた重圧が少し和らいだ気がした。
「まあそこまで怖がる必要はない。役割を果たし、里見家を盛り上げてくれれば他に言うことは無い」
「……は、畏まりました」
その様子を見て、義堯は満足そうに頷く。全くの腑抜けではないようだ、そう判断した。
「うむ。では――」
そう言って、義堯は周囲の面々を見渡す。頷き、では、自己紹介をしましょう、と1人の男が五郎に身体を向ける。岩のように厳つい顔をした、壮年の男であった。
「万喜城主、土岐為頼と申します。時茂殿と共に外房の防衛、及び外交関連を担当しております。私めは転生者では有りませぬが、我が一族共々、よろしくお願い致します」
そう言って、深々と礼をする。五郎は内心意外に思った。外見を裏切るような、声も所作も典雅なものだったからだ。
土岐氏は鎌倉時代より栄える武家の名門で、宗家は室町時代より侍所として五職家の一角を占めた美濃国の守護大名であった。為頼ら上総土岐氏はその分流にあたり、里見家の重臣である。また娘は義堯の後室であり、五郎からすれば義理の母と祖父に当たる。
その血筋を生かして主に上方の外交を担当しているため、言葉遣いや所作で田舎者と舐められないようにしているためだった。
五郎もよろしくお願いします、と出来るだけ丁寧に返礼する。
為頼は笑みを浮かべて頷き、いえいえこちらこそ、と言って身体を引く。続けて精悍な顔をした美丈夫が挨拶をする。
「小田喜城主、正木時茂と申します。私も転生者ではありませんが、こうして協力させて頂いております。これからよろしくお願いします」
見事な礼をする時茂。“槍大膳”とも呼ばれる勇猛な武将である。そして時忠、若に挨拶を、と言う。
時忠と呼ばれた男は身体つきが細く、滑らかな浅黒い肌が特徴の文官風の優男だった。
「正木時忠といいます。元商社勤めで、今は勝浦城主で主に貿易を担当しております」
「そして俺たちの中だと一番好き勝手に動いている奴でもある」義舜が言う。周囲に笑いが零れた。
「確かに好き勝手やっていますが、ちゃんと利益を出していますよ?」
商人の保護や職人の誘致、交易などは全て時忠が始めたことだという。
兄の時茂と共に戦場で活躍しており、義堯の重臣でもある。
「はは、まあ時忠さんが色々と用意してくださるお陰で、こちらは有難いですよ」
明るい声で五郎に身体を向け、軽く会釈したのは小柄で、温和な顔をした二十代半ばほどの男だった。
「安西実元と申します。現在は義舜様の家臣をしております。元々、私は金属加工の仕事をしていましたので、その記憶を基に道具や機械を作っています」
「ということは、唐箕や大八車を作ったのは……」
「ええ、そうです。今は鉄砲や大砲といった兵器分野の製造をしています」
「御存じの通り、岡本安泰です。元船乗りで、現在は岡本城で水軍の訓練をしております」
最後に、五郎は改めて今世の兄である里見義舜を見やる。
緩和そうな好青年。なにより、眼に力がある人だ。自然に惹きつけられるような魅力があった。
「――男に、それも熱っぽく見つめられてもあまり嬉しくはないな」
義舜の苦笑交じりの声に、五郎は、あっ、と凝視していたことに気付かされる。再び周りから笑いが零れた。五郎は赤面しつつも慌てて居住まいを正す。
「さて、俺が里見義舜だ。佐貫城主をしている。元日本陸軍兵士だ」
「陸軍? と言うと」
「そうだ。未来と言ってもややバラつきがあるらしい。俺はフィリピンで米兵の攻撃を受けて、死んだと思ったら此処に来ていた」
今のところ転生には規則性は無く、義堯の教育係であった人物も発言内容からどうやら幕末ごろの医者ではないかと言う。
「――ふむ、まあ自己紹介はこんなものだろう」一段落ついたところで、義堯が言う。
「そこでだ五郎。お前は未来では何をしていたのだ?」
「は、私は艦船設計、商船や漁船の設計をしておりました」
「ほう。船大工ということか?」義堯は続けて言う。
「だが、ここでも船を造れるのか?未来では鉄の船が基本と聞いたが」
他の転生者たちから未来について聞いていただけに、当然の疑問を口にする。
五郎は確かにその通りですが、と軽く頷いて言う。
「私が勤めていた会社は規模は小さいですが、割と古くからありまして。木造船を設計・建造することもありました。私もヨットのレストア、小型帆船の修復に参加したことがあります」
「ほう!それは良い」
嬉しそうに義堯が言う。義堯だけではなく、この場にいる全員が五郎の存在を有難いと考えていた。現状では内陸部で北条、正確に言えば北条側の国人衆による小競り合いが中心だが、里見家の主体は水軍である。理由は房総半島の地形にあった。
この時代の房総半島は現代とは違い、地形が大きく異なっていた。
常陸国と下総国の間にある霞ヶ浦・北浦・浪逆浦を合わせて「香取海」と呼ばれる汽水の内海があり、その周囲は低地湿地帯になっていた。
そして、上総国・安房国は房総丘陵、安房丘陵からなる丘陵地帯が大半を占めていた。標高自体は高くない(房総の最高峰は愛宕山(標高408メートル))が、崖に近い急斜面になっている。
そのため、房総半島は石高が低い地域でもあった。稲というのは塩害に弱く、少しでも塩が田園に入ると萎れてしまい、枯れていく。下総国は平野だが塩害が多く、上総国・安房国は山がちで農作に適した平野が殆ど無い。更にこの時代は天候頼りの農法であるため、不作の年が多いのだ。
そのため房総半島は古くから交易・漁業が盛んな土地であった。豊富な海洋資源を獲るために波の荒い太平洋でも漁をし、手に入りにくい農作物と交換するために交易を行う。この時代では高い航海術と、東国であっても京の情報、つまり最新の情報が比較的手に入りやすかった。
里見水軍は「小早」と呼ばれる、艪数四~八丁立ての小型船が殆どであったが、三方を海に囲まれた立地から人材は豊富で、最新の戦術と航海術を用いて戦うために「精強」と謳われていた。
ここに、現代の艦船について知識を持った五郎が出てきた。今以上に北条より優位に立てると考えるのは当然の事だった。
「ですので、私には艦船設計をやらせてください。夢を実現させたいのです」
「ほう? 夢、とな。申してみよ」
「私は、戦艦が造りたいのです」五郎は目を輝かせて言う。
「世界で最大、最強の戦艦が造りたいのです。一隻の艦が時代を変え、戦術を変え、政治をも変えうるような、最高の戦艦を造りたいのです」
そう熱弁する五郎は、興奮のために頬は赤く輝いていた。その姿は大人の、落ち着いた雰囲気からうってかわり、歳相応のそれになっていた。
「ふぅむ、まずその戦艦とやらは何だ?」
五郎に当てられたのか、義堯もどこか楽しげな表情になった。
「ざっくり言いますと、山のように大きい鋼の船体を持ち、大口径の大砲を持った軍船でございます。未来では「大和」という世界最大の軍船がありました。全長百四十間はある鋼の身体に四百貫の砲弾を撃ち出す大口径の主砲を九門、それよりも小さい大砲を幾つも持っていました。
最も分厚いところで十五寸もの厚さがある鋼の装甲は、その主砲の直撃に耐えられ、帆では無くギアード・タービンというものを積んでいました。これは三十六町を一里(約4キロメートル)としますと、半刻で十二里は進めるという素晴らしい戦艦でした」
「ほう、それは凄い。鉄の島が動くようなものなのだな」
鋼の塊、というものに義堯には想像がつかなかったが、それでも凄いものだったというのは伝わってきた。
「それで、その大和とやらはここでも造れるのか?」
「無理ですね。「大和」は当時の最先端技術の塊ですから、真似しようとしても見かけだけになるでしょう」
「まあ、そうだろうな……。しかし鉄製の軍船か。あれば北条との戦も優位に進められるが……」
義堯に対し、五郎は、ですが、と真剣な表情で答えた。
「私に任せていただければ、従来よりも速く使いやすい船を造りましょう。鉄を張った船だって造ることが出来ます。これらの船は戦だけでなく、全てにおいて役立ちましょう」
「ふん。その言葉に嘘は無いな」
義堯の顔から笑みは無く、目を細め、先程よりも凄まじい重圧が放たれる。
五郎はそれに屈することはなく、見据えて、
「ありません」
と、断言した。
暫くの間、沈黙が続き、その重苦しい雰囲気に他の出席者たちは冷や汗を流す。
「――カカッ、そうか、無いか! カッ、カカカカッ!!」
急に部屋の中にあった威圧感が無くなり、義堯は破顔し、高く高く笑い声を響かせた。
ひとしきり笑い終えた後、
「カカッ、よく言うた! 今日は実に良い日だ。これも八幡神のお導きに違いない」
くつくつと笑いながら上機嫌な義堯。
五郎の言う通り、今までよりも速い船があれば交易がし易くなり、鉄張りの軍船が作られれば戦でも外交でも優位に立てる。
それに、こやつ等が進めているアレが実用化されれば敵無しとなる。
(北条には散々煮え湯を飲まされているが、これならば行けるかもしれんな……)
「本当に、今日は良い日だ」ひどく上機嫌な声で、義堯は言う。
「五郎。お前がどうであれ、里見家の一員だ。お前の貢献を期待している」
「……は、わかりました。私にも協力させてください」
深く平伏し、しっかりした声で答える五郎。その姿を見る義堯は再び大きく笑いだした。
本当は、今すぐにでも崩れ落ちそうだった。流石に平成の、平和な時代に長く浸かっていた人間には、殺気混じりの重圧には耐えがたかったのだ。背中は今だ冷や汗が止まらなかった。
しかし、あまり無様な姿は見せられない。
何故、戦国時代に来たのか、もしくは前世の出来事が唯の夢だったのか。それは全く分からない。
ただ、人生をもう一度。夢を追いかけられる。
協力すればそれだけ高性能の艦を作れる、このようなチャンスを初っ端でふいにするような事は出来るはずも無かった。
「ふむ、義舜」
義堯が言う。義舜は頷き、やや芝居がかった口調で言う。
「では、ようこそ戦国時代へ。我々は仲間を歓迎します」
「ハハ、早死しない程度に頑張ります」
五郎は苦笑して答える。そしてどこか穏やかに、場の雰囲気が変わった。
「ところで、現在の目標というのはありますか?」
少し落ち着いたところで、五郎は訊ねた。これに義舜が答える。
「ひとまずは国内の発展が優先だ。俺たちがこっちに来て十年以上経つが、ようやく職人や物の確保が出来てきたぐらいだ。当然だが軍備優先になる」
「というと鉄砲ですか」
「それと大砲だな。まだ試作段階だがな。物やら補給体制が整っていない現状では城での防衛戦でしか使えないだろうが、多少戦力差があっても勝てる。兵器に関しては先生が詳しいな」
「先生?」
「ああ、実元の事だよ。色々と詳しいから先生と呼んでいる」
ちらり、と他の転生者たちを見る。良い笑顔でサムズアップしていた。
安直すぎないか?
「私は歴史好きでして。その時に蓄えた知識は現代では殆ど使いませんでしたが、今じゃそれが役立っていますよ」
「俺も実家が千葉の農家だったからな。それに軍での経験が役立っているのだから人生分らないものだな」
「全くですね」
しみじみとそう言っていたが、「とりあえず、話を戻すぞ」という義堯の一言でみな居住まいを正した。
「では、本題に入ろうか。会合を始める」
そう義堯が宣言し、五郎を交えての“会合”が始まる。
まずは、農業分野についてである。
「では私から……」
そう言って時茂は農業分野について話し始めた。
「まずは麻から。志願者を募り、開墾地を増やしたおかげで生産量も増えております。また織り機も大部分の農家へ行き渡るようになりました。専属の職人の育成も進んでおり、増産が可能とのなっております」
「それは良い。どんどん生産してくれ。あればあるだけ売れるのだからな」
「はい、既に次の開墾地の策定も行っております。まだまだ増やします」
その言葉に大きく頷く。
麻織物は里見家の主力商品だ。上総・下総の『総』は古い言葉で麻を意味し、特に上総国はかつて古代朝廷へ麻織物を献上する麻の産地であった。
この頃の麻は大麻か苧麻で、これらを使い分けて麻織物は作られていた。特に望陀郡の望陀布はきめが細かく、古代朝廷では最上級品として扱われた。また上総国は平安時代より紅花の栽培も行われており、緋色に染めた望陀布は天皇の践祚の寝具として使われた代物だった。
しかし、平安時代末期の平将門の乱に代表される戦乱に巻き込まれ、越後国が苧麻の一大生産地となったことで衰退していた。
だが、この時代でも技術は受け継がれ、細々と生産されていた。これに目を付けた里見家は転生者の知識と職人の持つ技術で改良を行い、上総上布として復活させた。
この上総上布は大麻・苧麻を混合したものは綿の様に柔らかく、さらりとしている。苧麻のみで織ったものはピンとしたコシがあり、絹の様な白く美しい光沢があった。どちらも水を吸っても直ぐに乾くため肌触りが良く、夏は涼しく冬は暖かい。
そして他の上布とは違う点に、デザインの多さがある。型紙を使って文様を染め出すため伝統的な文様と、深みのある色合いの縞や絣から色彩豊かに仕上げるなど、様々だ。そのお陰で機能性と美しさから人気となり、特に東北地方などの雪国ではこの上布で織った雪袴が柔らかくて暖かいと評判の商品になっていた。
これに加え、麻は栽培が容易だった。特に大麻はどんな気候条件でも問題無く、一年中栽培できて輪作も可能。むしろ地力を上げると言われている。上布に使うものは品質を上げるため手間をかけているが、基本的に成長が早くて生命力が強く、肥料も農薬も要らず、水も少なく済む。
布以外にも神事に使う大麻や縄に袋、紙、草鞋など生活の必需品で、帆船では帆布、旗や帆を上げ下げするハリヤード、船を繋ぐもやいなどが麻でできている。
つまり麻は、常に需要があるため開墾地で手っ取り早く収益を上げられ、かつ土壌改良にもなり、米や鉄、銅、硫黄などと交換できる、有難い作物であった。
「食糧に関しても今年は目立った災害も無かったため、米、雑穀類、小麦、大麦ともに豊作でしょう。大豆はやや微妙ですが、我々が使う分の味噌、醤油は確保しています。また木綿、清酒、焼酎の生産も順調です」
この時代では大豆味噌や醤油、酒は貴重であったが、特に転生者たち、未来の味に慣れた面々からすれば恋しくてたまらなかったのだ。義堯らも贅沢だと思いつつも、未来の濃い味付けにハマっているため、反対はしていない。
これら農業は、実家が農家だったという義舜と、知識は豊富な実元によって改革が行われていた。作付け面積の割に他国より多く収穫が出来たため、その一部は酒造米として回され、清酒として売り出していた。この時代では酒は濁酒が殆どで、主に畿内で生産される清酒は高級品であった。特に大寺院、河内の「観心寺」と「金剛寺」、越前の「豊原寺」などでは暇な坊主たちが美味い酒を造ろうと酒造をしており、作られた酒は「僧坊酒」とも呼ばれた。これは経済力・労働力・環境・情報など最先端のものが全て揃っていたためである。
時忠が集めた職人たちの中には杜氏もおり、酒造を始めたのだ。この清酒は「安房諸白」と名付けて販売されている。上方にも負けない高い品質から人気が高く、利益をあげていた。また製造の際に出る酒粕も再蒸留して粕取り焼酎に、また余剰の大麦・小麦で麦焼酎も生産していた。度数の高い焼酎は、裕福な国人衆や大名を中心に喜ばれていた。
「実元殿の開発した農具、また肥料も各地に回るようになりましたので、これからは収量は安定すると思われます。それと鹿の肥育ですが、ようやく採算が取れるまでになりました。鹿革も効率よく取れ、また肉も兵たちに食べさせているので栄養状態は改善されています。他の部位も漢方薬としても良く売れます」
当時、鹿革は明からの輸入に頼っており、主に武具に使用されていた。武具は消耗品で大量の革が必要となるため、結構な金額がかかっていたのだ。
鹿の肥育と言っても、空き地に囲いを作り、放し飼いするだけのものだ。必要な餌はそこいらに生えている熊笹や烏麦(燕麦)で済み、世話自体にさほど手間が掛からない。
鹿は革だけでなく肉も美味い。また角は工芸品に、内臓や筋は漢方薬にもなり、余すところなく使えた。
「ふむ、よろしい」義堯は満足そうに頷く。「漁業はどうだ?」
漁業について、実元が返答する。
「素潜り漁と地曳網漁も順調です。銭になるからと活気があります。また干物、魚醤、流下式塩田による塩の生産も品質が安定しつつあります」
「そうか、特に海藻と鰯は重要だからな……。欠かさないようにしてくれ」
「は、分かっております」
房総半島では網漁も行われているが、古くから素潜り漁が中心であった。鮑や栄螺といった貝類、カジメ・アラメといった海藻などを対象にして行われている。
貝類は干して俵物にする。また、網漁では刺網漁と地引網が行われていた。刺網漁は網目の大きさで狙った魚の種類と大きさが選ぶことができ、効率が良い。地引網は外房で行われており、鰯の漁獲量を大幅に上げていた。鰯は塩漬けして保存食にも、干鰯という木綿栽培に重要な肥料にもなった。
俵物も干鰯も大変高く売れるのだが、里見家で特に力を入れているのはカジメ・アラメなどの海藻類の採取であった。カジメ・アラメは食用でもあるが、一部の地域でしか食べられない。昆布と違い出汁も出にくく、大きいと固いためだった。そのため価値は低かった。
だが、里見家にとって、カジメ・アラメは大変有用な水産物なのだ。これも義舜と、「先生」の渾名を持つ実元の発案により分かったことだった。
カジメ・アラメからは殺菌剤として有用なヨード(ヨウ素)が得られるのだ。
製法として灰化法というのがある。戦前の日本で広く行われていた方法だ。この方法だと水分が多く、純度は80%ほどだが、アルコールに溶かせば消毒液である沃度丁幾ができあがる。
現代の日本ではあまり見かけなくなったが、かつてはヨーチンと呼ばれ親しまれた傷薬である。すなわち、皮膚や創傷による感染症を減らすことが出来るのだ。
「貴様らの言う通り、このようちんを使用したところ戦場での死者が減っている。実に素晴らしい薬だ……」
戦場に長いこといる面々、特に義堯や為頼、時茂はその有用性を実感していた。
この時代は些細な傷から化膿し、破傷風などの感染症で死ぬことが多い。破傷風はよく知られており、そのため矢じりに糞尿をつけることが多々あった。戦場では傷口を洗い流す水は不足しており、また小便で洗い流す、傷口に馬糞を擦り付けると治るといったことが信じられていた。
強い殺菌効果を持つヨーチンは人材の損失を抑えることが出来る、魔法の薬であった。
「統括しますと、食料の生産は順調そのものです。収入と備蓄は増え、人口も増えつつあります。麻織物と余剰分の食料は時忠が交易に使います」
「そうか。時忠、余剰分を売り払ってどれくらいの利益になる?」
義堯の質問に対し、時忠は少し思案顔をして計算し始める。
「……今のところ十分な量の硝石、硫黄、鉄、銅などの資源は揃えることが出来ます。常陸より北部では冷害が発生し、不作だという情報もあるので食料は高値で売れるでしょう」
「……あまり吹っ掛けるなよ」呆れた顔で義舜が言う。
「そこら辺は任せてください。恩を着せる程度にしておきますよ」
ふふふ、と笑っている姿から、コウモリの羽と尻尾を生やした悪魔が見えそうだなと、五郎は思った。
「……まあ次にいこう。実元、頼む」
そんな様子に苦笑いを浮かべながら、実元は現状について話し始める。
「まずは水車ですね。少々手間取りましたが、大型水車の数が揃い問題も無く稼働し始めた為、各地で作業効率が上がっているようです。また紡績機の改良は順調に進んでいます。来月にはガラ紡(紡績機)が完成するでしょう」
「となると、綿布の品質が上がりますね」
「ええ。そこから問題点を洗い出して、順次導入していく予定です」
綿布は麻に比べれば少ないが、里見家の重要な作物になる。特に火縄や、帆布や服に使われる。また種からは綿実油が、絞り粕は鹿のエサとなるため、非常に採算性が高い植物だった。
「次に兵器関連ですが、鍛冶師には火縄銃の、鐘師には平射砲と臼砲の量産に取り掛からせています」
鐘師、つまり梵鐘を鋳造する職人であるが、この鋳造技術を応用して大砲は生産されている。鐘師は元々、気泡や巣を嫌い(耐久性と音の響きが悪くなるため)、大型の鐘を鋳造できる高度な技術を持っているのだ。そこで実元が大砲を設計し、古い梵鐘を鋳溶かしては試作を繰り返し、ようやく青銅製の滑空砲の製造も可能になっていた。
「確か、試作品は出来ているんだよな。どのくらいの性能だ?」
「性能で言えば、この時代の標準的な火器でしょう。どれも滑空砲で球形弾を使います。臼砲に関しては少人数で運べるように軽量化した軽臼砲になります」
「しかし、大量生産するんですよね。いくら灰吹き法である程度の金銀を蓄えているとはいえ、あまり派手に金物の輸入を行うと値段が釣り上がるのですが……」
「仕方ないだろう。鉱山が無いんだから」
はあ、と深く溜息をつく面々。
大名たちは国力の増強のために鉱山や農業、治水事業の開発に熱心だった。鉱山は重要な資金源となり、石高が高ければ大量の軍勢を養え、戦を長く行えた。
当然だが里見家が治める安房国も積極的な開発を行っていたが、効果がイマイチだった。
というか千葉県一帯は鉱山が無いのだ。日本中で取れる石英すら無いため、通称「石無し県」と呼ばれる場所であり、自給できるのは凝灰岩、砂鉄のみである。混凝土に必要な石灰岩も、僅かにしか採れない。
かつて第二次世界大戦中に房総の蛇紋岩からクロムを抽出していたが、誰もその技術を知らない。
そして金属類というのは需要が高いため、値段も高い。
そのため購入した荒銅を灰吹き法で精製し、そこから金銀を抽出することで資金を賄っていた。それでも負担は大きかった。
「せめて上総国を抑えれば五十万石も夢ではないのだが、現状ではな……」
「今の状態で喧嘩売っても勝つのは難しいですね……」
里見家と北条家には、国力と将兵に数倍以上の差があった。
兵の動員数や補充能力が段違いであり、また質も高い。現状の鉄砲や大砲などの軍備が整っていない状態では徹底的なゲリラ戦でしか対抗できていない。
「まあ話を戻そう。硝石の生産はどうなっている?」
「一応、硝煙丘により出来上がってはいます。ですが、煙が多く品質が安定していません」
「改良が必要だな。出来たものは焙烙玉に使うか」
「では、そのように指示を出しておきます」
その後も話を続け、幾つかの道具、兵器の開発が決定された。
その中には五郎が推した付けペンがあった。
製図の際には筆ではどうしても真っ直ぐな線が描けない為、どうしても欲しかったのだ。
こちらは実元が工房で試作することとなった。
そして話は軍事に移る。
「前線では、相変わらず北条方の国人衆をけしかけた散発的な小競り合いだ。こっちの消耗を狙っているんだろう」
「暫くは大規模な戦いは無いでしょう。北条も三年前の河越夜戦で勝ったとはいえ、大損害を受けて以来、武蔵国にご執心のようですし」
天文十五(1546)年に起きた「河越夜戦」はこの世界では少し違った結果となった。
両上杉・足利連合軍に佐竹・里見両家が僅かだが傭兵として部隊を参加させていたのだ。
里見家は義舜が鍛えたゲリラ戦部隊を参加させており、陣地前の数か所にトラップを仕掛けていたのだ。
夜、北条軍は連合軍に突撃したものの、身軽であったために草を輪に結んだものから釘を仕込んだ片足が入る小さな落とし穴、草原には竹を尖らしたスパイクなどにより、多数の死傷者を出す損害を受けた。
結局、史実通りに北条軍は勝利したものの、嫌がらせにより北条軍は暫くその場から動けなくなくなった。その隙に佐竹・里見両家の部隊は一当てしたのちに退却。損害は軽微だった。
「まあ両上杉は駄目だろうが、出来るだけ粘ってもらおう。頑張れと応援しかできんがな」
(黒いなぁ、この人たち……)
流石と言うか、何と言うか。
先程の時忠といい、五郎には皆すっかり戦国時代に染まっているように見えた。
「水軍はどうだ?」
「変わりありません。三浦半島を襲撃したり、されたりの繰り返しです。沿岸警戒を密にさせたところ、被害は少なくなっています」
里見家は房総半島一帯に勢力を持ったが、対岸の三浦半島は北条家が領有していた。そのため、お互いに領地や商船を狙って人攫い、略奪、放火など海賊行為を繰り返した。
それを防ぐため、里見家では哨戒船には鏡によるモールス信号、手旗信号で情報伝達を行い、例え北条水軍が襲ってきても素早い迎撃が可能となっていた。
「現在は関船を改造したスクーナーで帆走練習や艦隊運動などの訓練を行っていますが、まだまだ使い物になりません」
「……教官不足か?」
「その通りです。現状、教えられるのが私のみですから。それと、訓練に何人か怪しい奴が紛れ込んでいます」
恐らく忍びです、と安泰の報告に皆が苦虫を潰したような顔をした。
「やっぱり来るのか、風魔忍軍……」
「こっちには忍びでは太刀打ち出来ませんしねえ……」
里見家にも一応、忍びはいる。
ただ忍びと言っても、忍び働きもするというだけで、その殆どが行商人や歩き巫女、遊女らであった。
各地に行商人や歩き巫女を派遣し、塩や魚の干物などのほか、薬や布、中には紙芝居を行う者もいた。彼らはモノを売る傍ら、一般人でも合法的に知ることのできる情報――物価、売れ筋、町の活気、労働者の扱い、噂話など――を繋ぎ合わせて必要な情報を取り出し、その情報を領主へと売っていた。
情報は領民の生の声であり、紙芝居は文字が読めなくても絵と話で楽しめるため、娯楽として最適だった。
また遊女がいるのは街道町や港町など人とモノが集まる場所だ。旅行者や上陸した水夫たちを相手にし、合間を見て相手から情報を聞き出すこともしていた。
この情報を元に里見家は必要な対策を行い、国内の繁栄に繋げていた。
ただ、共通して戦闘力は皆無だった。
お蔭で情報はあっても風魔に米蔵を焼かれる、田畑を潰されるなど散々な攻撃を受けていた。
一時期、河越夜戦後に被害が増えたのはその時の仕返しなのだろう。
「……防諜に関しては、警備を厚くするぐらいしかできん、か」
「安泰、その不審な者は後で名簿にしたためてくれ。当たりの場合は叩き出すしかない」
「は、畏まりました」
「ふむ、これで予定の議題は終わりか」義堯は言った。
「そうさな。五郎、何かあるか?」
「え、私?」と、五郎は驚いた表情で顔を指さした。
「そうだ。今からやりたいことなどあれば言うといい」
そうですね、と暫く沈黙し、考えが纏まったのか話し始めた。
「私は商船と大型漁船の建造を進めたいと思います」
「……意外だな。軍船の建造を優先すると思ったのだが。どちらも気になるが、商船から説明してくれ」
「商船に関しては弁才船でいこうと思います」
五郎の話を聞いて、転生者たちは皆渋い顔をする。
「大丈夫ですか? あまり良い話を聞きませんが……」
「弁才船自体の能力は悪くないですよ。むしろ内海では高性能です」
弁才船、千石船とも言われた江戸時代から明治初期まで活躍した和船である。
折りたたみ式の檣と大きな一枚横帆、またモノコック構造により積載量が多く、材料の木材も少ないため全体重量が軽い。軽いため浅瀬でも自由に動け、艦首は関船と同じ太い一本の材木で出来た水推型であり、凌波性に優れていた。
船底には「航」という船首から船尾まで通った平らな部材があり、これは竜骨の働きを持っていた。船底が平らな為、浜に引き上げても自立することができ、修理、造船の際にドックが不要。和船特有の軽量な船体で速力は平均七節ほどと、同時期の帆船では高速力であり、帆は一枚の大横帆ながら切り上がり性能も悪くなく、少人数での航行が可能。また船内に轆轤という、今で言うウインチが備わっていた。
なにより、弁才船の魅力はその使い勝手の良さと安さにある。
同じ規模ならば、西洋式帆船二隻分の資金で弁才船が三隻は作れた。
また、和船は使う木材の量が少なくて済む。
里見水軍の主力である小早だと、肋材と水押(船首材)は別だが、一本の木から造られる。
一例として、長さ四十尺(12メートル)の小早を造ろうとしたら、同じ長さで末口(木材の細い方)の太さ一尺二寸(36センチ)の杉一本から建造される。これを板の厚さ一寸二分(3.6センチ)、板は八枚の偶数になる様に製材し、張り合わせる。一隻当たり半月もあれば完成する。
また木材は曲げやすい油気のある生木が好まれたため、木を伐採してから乾燥させる必要が無かった。船大工たちの手慣れた工法を使用するため、直ぐに建造が可能。ちゃんと手入れをすれば長く使用できるのも魅力である。
問題点は、商人たちの利益重視による安全性軽視があった。
より多くの荷物を積むために水密甲板が無く、過積載であったため恐ろしく乾舷が低かった。また湾港整備なんてことはしなかったため、浜に直接着けるように舵は取り外せるようになっていた。
そのため、荒天下では脆いのだ。分りやすく言うと「帆の張った桶」である。
また乾舷が低いから横波を被りやすく、舵が壊れやすいために沈みやすい。
この影響で積み方から積み荷の破棄の仕方が決まっており、また損害補償、損害回復という、今で言う保険まで作られた。損害回復とは破棄した積み荷が可能であれば回収し、競売にかけてその売り上げを荷主に分配していた。
そして明治になり、「西洋のものは全て素晴らしい」という価値観もあり、安全性が軽視されていた弁才船は低く評価される結果となったのだ。
五郎がそこまで話すと、皆一様に納得した顔になる。
「当然ですが水密甲板、西洋式の舵に変更しますので難破も少なくなるはずです」
「安くて使いやすいのは良いですね。交易がしやすくなります」
「従来の和船構造と変わらないので商人に売っても良いですし、また練習帆船も出そうと思います。訓練の終えた水夫たちが増えれば練習帆船がもっと必要になるでしょう」
「練習帆船ですか。水軍としては有り難いですね」
それでですね、と五郎は続ける。
「その儲けた金で新しく造船所を整備します」
「うん? 五郎、既存の湊では無理なのか?」義舜が言う。
「出来なくは無いですが、後々の事を考えると新しく建てたほうが良いと思います」
現在の里見水軍の拠点となる城は内房に造海城、金谷城、勝山城、岡本城があり、外房には勝浦城がある。
内房の四つの城は浅瀬と岩礁が多く、山城ゆえに手狭で有るため造船所にリソースを割く訳にもいかない。
また、現在の里見家は、
佐貫城(里見義舜)―久留里城(里見義堯)―大多喜城(正木時茂)―勝浦城(正木時忠)
と房総半島を横断する防衛線を張り、北条氏の侵攻に備えていた。
そのため、最前線となりやすい勝浦城は除かれる。
「ですので、私は館山湾に桟橋、造船所、防衛用の要塞を含めた一大拠点の整備を提案します」
史実でも、天正八(1580)年に館山城が築城されている。この場所は黒潮の影響によりやや水温が高く、すり鉢状に中心部が深い天然の良港であった。
また、南の白浜や北の岡本、内陸の府中・平久里、外房の長狭など各方面への陸上交通路が集中していて、海上交通と陸上交通をつなぐ大規模な中継地点になる場所だった。東には真倉、南条という穀倉地帯が確保されており、さらに里見氏の氏神でもある安房国総社の安西八幡宮(現在の鶴谷八幡宮)があった。
そこまで湾港整備しなくても使用でき、また交易をするうえで重要拠点になりうる場所が館山湾だった。
「確かに、館山湾を整備すれば安房国最大の拠点となるが、凄まじく銭がかかりるぞ」
「かなりの資金は必要でしょう。ですので、館山に建てた造船所で漁船を建造し、その分を取り戻します」
「取り戻すったって、どうやって?」
そう義舜が疑問を問いかけると、五郎はニヤリと笑う。
「漁船を整備するのは―――」
すぅ、と一息入れ、吐き出す。
「捕鯨をするためですよ」
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2015/3/27 誤字の修正を行いました。