閑話2
以前、活動報告に書いた閑話をまとめたものです。
短いですが、楽しんでいただければ幸いです。
閑話3 風魔の商い
「商いをしたい?」
「はい。可能であれば、ですが」
義頼が聞き返すと、風魔小太郎は事情を説明し始めた。
風魔たち山の民は土地や家を捨ててこちらへやってきたため、全て最初からやり直しになった。
といっても、風魔たちは盗んだ馬に家財や道具、僅かに薬となる植物の種などを持ってきており、また里見家が全面的に支援と協力をしているため生活に困っている、ということはない。
足柄山の風間谷に居た頃の様に、狩猟と採取を行い、足りなければ忍び働きすれば良いと考えていた。
「ですが、それだけでは生活が成り立ちませんので、商いをしたいのです」
詰まる所、銭が欲しいのだ。
特に風魔達の住む嶺岡山地は捕鯨基地として栄えている和田が近く、商業が盛んな地域である。ここは時忠の治める勝浦の商業圏内に入っていることもあり、銭さえあれば大抵のものが手に入れられる。
となれば、銭が有れば何かと便利なのだ。
また、彼らは里見家の領民となった。よって、税を納めなければならないと考えていた。
この場合だと馬の注文を受けてその売買で得た利益で得た銭を納めれば良いのだが、現在はまともな馬がおらず、ましてや調教が進んでいない馬を売買するなど彼らの矜持が許さなかった。
暫くは税は免除すると言われていたが、これまで相当な支援を受けていた。
「恩には恩を返すべし。せめて税だけでもきっかりと納めよう」
ということで少しでも役に立ち、また税を納めるべく風魔は商いをしたい、という訳である。
「成程なぁ。だが難しいぞ」
確かに税を納めようとする姿勢は好ましいが、商いをするには結構、いやかなり難しい。
「売り出そうと考えているのは、なんだ?」
「今ですと、薬と公娼を考えております」
曰く、自分らで調合したものや、訓練がてら身体を売って小銭を稼ぐと同時に聞き出した情報を売り買いしたいとの事だった。
「……あー、それはちと駄目だな」義頼は言う。「既存の商人に恨まれてしまう」
まず、里見家としては風魔に防諜と馬の育成に専念してもらいたい。なので、別の事に人員は割いて欲しくないのだ。となると、動かせられるのは引退した忍びか老人子供のみ。
何より、商業となると座の問題が有るし、既存の商売と競合してしまう。
まあ、実際には里見家の国力と商業圏を考えるなら、たかが数百名しかいない風魔達が商売してたところで競合する人らの商売を圧迫する事などない。
だが、上の者はともかく、忍びというだけで良く思わない者もいる。これは事実なのだ。いくら需要があり、扱う量が少なくても、既存の利権を持っている面々からすれば知らない者が商売するのは良い気分じゃない。
風魔に対する心証を悪くしかねないものは、義頼も許可するわけにはいかなかった。
「……難しいものですな、商売とは」
「まあ、この国は特に産業が無かったから、思いつくものは手あたり次第やっているからな」
富山の薬売りという手もあった、ああ、駄目だ。あれは時茂さんと時忠さんが手を組んでやっていたな。槍大膳の大事な収入源に手を付けたら流石に不味い。
となると、どうしたもんか。
「しかし、薬が売れないのは困りました。このままだと腐らせてしまいます」
「ん? 腐る?」
カビは生えるが、野草や茸は乾燥させておけば腐らない筈では? と義頼は聞き返した。
「ああいえ、そっちではなく。鹿や猪、熊などです。肉や臓物は良く効くので、間引きついでに干した肉を既に蔵の中で保管しているのですよ」
「あ、それだ」
義頼はパッと思いついた事を口にした。
「小太郎、その薬を売ろう」
「はぁ……?」
困惑する小太郎をよそに、義頼は主だった面々を集めるべく命を下すのだった。
火災から復興しつつある館山で、街に変わった店が出来た。
店の名前は「ももんじ屋」。猟で獲れた猪や鹿、雉、鴨などの肉を売る店である。
店と言っても、移動屋台である。囲いのある大八車に肉や道具などを乗せ、馬に曳かせて週に一度、ここ館山へ行商しに来ていた。
館山よりも鴨川や捕鯨基地として栄える和田の方が近いのだが、内臓は油を搾った後でカラカラに乾いていたし、肉は塩漬けにしているので運送している最中に肉が程良く熟成して旨くなるのだ。彼らからすれば義頼の膝元で商売をするのが普通と考えているのもあった。
「肉、いらんかね?」
と、引退した忍び夫婦が許可を得た場所に停まると周りに声を掛け始める。
「鴨をこれだけくれ」
「私は紅葉を籠一つ」
声をかけると、次々に注文が入る。
この時代は表立って肉は食べなかったものの、「薬喰い」と称して猟で得た肉を食べる事があった。特に武士の間では鷹狩りが盛んであり、野鳥や野兎などは食べていた事も大きい。また里見は特に海に関連した仕事をする者が多い。なので身体が冷えやすく、滋養によく効き、身体を温める肉食は好まれていた。
「なあ、これはなんだ?」と、客の一人が指さす。
「ああ、牡丹だよ。これは脂が多いし、強めに塩漬けにしてあるからそのまま鍋に入れて葱と大根と一緒に煮ると味が出て旨いぞ。あと酒飲みには良く効く」
「へえ、そうなのかい? じゃあ追加で少しくれよ」
「あいよ」
そんなやり取りを続けると、持ってきた殆どの肉は売り切れてしまう。
今度はもっと持ってくるか、と二人は話し合いながら夜に向けての準備を始める。
肉は重さを量り、切り分けて売ってしまうのだが、どうしても枝肉や余分な脂身が出てしまう。そこで持ってきていた猪や鹿、鳥の骨を海水で洗い、真水で下茹でを行う。そして骨に残っている血合いを取り除き、小さく砕く。鍋に新しい水を張り、砕いた骨を沸騰するまで煮込む。長葱と生姜、大蒜を加えてじっくりコトコト煮る。半日ほど煮込んだら、出汁だけを取り出し冷ましてやる。
冷ました出汁を枝肉や脂身、近くの棒手売りや農家から頂いた屑野菜と一緒に煮込んでやり、煮立ったら醤油を垂らして出来上がりである。
これがもう美味い! 冷えた身体をよく温めるのだ。
「あー、うんめえなー」
「うー、暖まるー」
夜、街中を巡回している兵らは一休みがてらこの店でガラ汁を飲むのが最近の楽しみであった。
「いやいや、見回りは大変だけど、ここのガラ汁を飲むと頑張ろうって思えるんだよ」
「んだなあ、こういう店が出来てよかったよ」
「そら良かった。こっちも喜んでくれれば嬉しいよ」
兵はグイ、と残った汁を一気に飲み干す。ほう、と満足げなため息をつくと銭と椀を返し、訊ねた。
「なあ、アンタらここで本腰入れて店だしたりしないのか? 週一じゃあ食べれん時もあるし、ちと寂しいんだよ」
「うーん、金も無いし、仕入れの問題があるからなぁ」と、男は思案顔になる。
「頼むよぉ、店が出来たら贔屓すっからよぉ。他の連中もそう言ってんだよ」
ここまで懇願されると思っていなかった男は苦笑し、「まあ、考えておくよ」とだけ答えて巡回に出る兵らを見送った。
そして、頭領に聞いてみるか、と考えるのだった。
後にこの「ももんじ屋」は館山に店を構えることになった。ここでは滋養に良い薬を出すとして有名となり、その後、怪我や歳で引退した忍びが暖簾分けして各地に本格的な店が建てられることになり、ガラ汁発祥の老舗店として現代にまで残る事となる。
閑話4 ある人の記録
天文二十年(注1)五月――日 館山にて記す
私はそのころ相模国小田原に行き、その素晴らしい都市を目にすることができた。
小田原の街は縦横に整備された道が通されており、塵一つ落ちていない。東南には海が見える。また寺院の建立も盛んで、非常に活気に満ち溢れていた。
また、この地を治める北条氏康殿と接見する機会も得られた。彼の人はまさしく傑物であった。表は文の人、裏は武の人で、治世は清く正しく、仕える家臣はみな彼の人に心服している。まことに当代無双の覇王と言える人であった。
(中略)
その後、私は北条殿に礼を言い、廻船屋に頼み込んで安房国の館山に行くことにした。ここは北条殿の仇敵である里見殿が治める地である。この地は数年前より開発が進められ、見た事も無いものに溢れていると、小田原でもよく噂になる場所であった。
これに興味を持ったわけである。
さて、船はまず三浦の三崎港にたどり着き、そこから館山に行く船に乗り換えたのだが、ここでまず驚かされた。里見方の船はあまり大きくないが、水夫が艪を漕ぐ事は殆どなく、赤褐色の帆を膨らませ海面を滑るように走っていく。
船主に私が尋ねると、木綿でできた厚手の布に柿渋で染めたものらしい。木綿と言えば京でも高級品である。それをこんな風に使えるとは、私は驚愕するしかなかった。
海は潮の流れが速く、揺れも大きかったが水夫達が巧みに操り、あっという間に館山の地へ到着した。
館山の湾は円弧状になっており、そこには見た事も無いほどの多くの船が行き交いしていた。中には見た事も無いほど巨大な船があった。
船主が坊さん運が良いね、と笑いながら教えてくれたが、その巨大な船は図南丸と呼ばれる船であり、鯨を捕るための船だというのだ! 普段は東にある和田という港におり、そこで何十隻もある同型の船とともに鯨を捕りにいくのだという。
私はただただ圧倒され、呆然とするしかなかった。
その後、船は河岸に着けられ、私は船主に礼を言って上陸した。そこで里見殿の迎えと合流し、この館山の街を見て歩いて行ったが、ここもまた小田原に負けず劣らず見事であった。
小田原に比べて規模は小さいものの、活気は凄まじいばかりだった。
大樽を載せた荷車を引いていく者、威勢のいい掛け声で魚を売る者、組んだ柱を建てる大工など、誰もが忙しそうに働いているが、笑顔であった。
建物は全て瓦葺で、道の端には桜や欅の木が植えられており、白く巨大な城へ続く大通りは非常に広く、なんと二十間(約36m)ものの幅があった。また至る所に水路があり、それが縦横無尽に街中を走っている。小型船ならこのまま街中に入り、船に乗ったまま商売したり、大店に品物を卸すのだという。
私はどうして道が広いのか、また木を植えているのか聞いてみた。
すると、道が広いのは火災に遭った際、延焼を防ぐためと逃げられるようにするためであるという。木を植えているのは景観もあるが、欅を植えるのは夏は葉が茂って日陰になり、冬は葉が落ちて日差しが入るようにするためだという。
成程、よく考えられていると、私はしきりに感心していた。
これだけでも驚くことばかりだが、一番の衝撃は浪人や足軽の扱いであった。
まだまだ開発中で建物の数が少ないというのもあり、雇われた浪人や流れの足軽などの傭兵達は町民の家に下宿し、共同生活を送っているのだ!
中には家の留守を頼んだり、妻や娘をその傭兵に任せることもあるのだという。私には到底信じられなかった(注2)。
(中略)
さて、館山には昼前に到着したのだが、あっという間に日が暮れてしまった。様々なことに驚き、目まぐるしかったせいか、一種の爽快感があった。
私が逗留する事になった場所は館山城に近い屋敷であった。そこで出された食事もまた素晴らしく、昆布で出汁をとった若芽の味噌汁に玄米飯、豆腐に大根の糠漬け、煮しめと心尽くしのあるもので、私は全て平らげてしまった。
今、私は食事のあと、これを書き記しているのだが、紙も墨も用意してくれ、鯨油を燃やす硝子製の壺の明かりで夜も明るくいられる。
ここは、異質だ。いつのまにか伝聞に聞く、明の都に紛れ込んだような感覚に陥る。
私は暫くここに逗留しようと思う。
すべてを見られるかどうかはわからないが、ここで見たものは一生の素晴らしいものになるだろうと、私は思っている。
――東嶺智旺(注3)著 ――訳 『現代語訳版 明叔禄』より一部抜粋。
(注1) 西暦1551年。
(注2)この時代の傭兵と言えば自由無頼の集まりである。平時では好き勝手な行いをし、戦場では略奪に勤しむのが普通であった。というのも、彼らの殆どは土地を追われたり、定職を捨てた者である。戦場では食事は出るが、給料がまともに支払われない事も多く、大名自らが「略奪で自分の稼ぎを賄え」という触れを出すこともあった。
対して、この頃の里見家では必ず給料は支払われており、衣食住もこの時代では満足いくものであった。またマニュアル化された徹底的な訓練を行って兵に規律を教え込んでいたため、不逞を行う者は殆どいなかったという。
(注3)十六世紀の京都・南禅寺の僧。相模国に訪問したのち帰還する予定だったが、安房国に興味を持ち、館山へ向かった。そこでの経験を記した本著は当時の関東の世相を知る手掛かりになっている。
その後、久留里城にて里見義堯と接見し「彼もまた傑物。仁の人であり、戦では勇の人である。民には「万年君様」と讃えられ、慕われている」と評価している。
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