第26話 衣笠の戦い
ようやく投稿です。楽しんで頂ければ幸いです。
三浦半島南端に上陸し、三崎城・新井城を占領した里見勢はまず両城を復旧させ、地元の土豪らを恭順し同地の支配に取り掛かろうとしていた。
まずは土豪の説得である。しかし、里見勢が幾ら縁戚であるとはいえ、三浦の土豪らは坂東武者らしく頑固者。土地や官位などでは中々靡かない人種である。
「あの頑固さを爪の先ほどでもいいから、内房の連中も見習ってほしいわ」
会合の面々は口々に言い合いながらも、三浦の土豪らを従えられる案があった。
それは〝槍大膳〟正木時茂の存在である。
「私の父、正木通綱は生前、『己は三浦道寸の遺児である』とよく言っていましてね。実際は三浦氏庶流なのですが、結構な支持がありまして。これを利用します」
〝槍大膳〟の二つ名の通り、時茂は槍に長けており、馬上でも片手で綱を握り、片手で大身槍を操る剛力無双の者。ある北条との戦で殿を務めた際には撤退戦でありながら襲い掛かる武者を返り討ちにし、二十一の兜首を上げて敵勢を震え上がらせた。
しかし、唯の武辺者という訳ではなく。
越前の名将・朝倉宗滴の言葉を纏めたとされる「朝倉宗滴話記」曰く、
「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)・甲斐武田殿(武田信玄)・三好修理大夫殿(三好長慶)・長尾殿(長尾景虎)・安芸毛利(毛利元就)・織田上総介方(織田信長)・関東正木大膳亮方(正木時茂)」
と、錚々たる面々の中に時茂の名が記されるほど国内外で評価の高い将であった。
そして、かの三浦道寸と息子の義意もまた剛力無双の人であったと言われ、特に義意は特製の金砕棒を振り回し、「八十五人力の勇士」の異名を持っていた。
父の通綱も幼少時に牛の角を引き抜いたという逸話を持つ剛力の持ち主で、旧三浦氏の家臣や縁戚を従えていた事から「事実なのでは?」と信じる者も多かった。これは里見氏が勢力を伸ばし、国内の豊かさが噂として各地に広まっていくとますます信じられるようになった。
剛力無双、寛仁大度で眉目秀麗と正に絵物語の英雄の様な存在である時茂は、愛槍を片手に三浦義意が生前使っていた甲冑と同じ造りのものを身に纏い、家臣らを連れて堂々と三崎城に入った。
「義意様じゃ……」
「三浦様が、戻ってこられた……」
老臣たちは立派な軍馬に跨った時茂を見てかつての主君を思い出し、若武者たちは親し気な笑みを浮かべた時茂に一人一人言葉を交わして激賞されたことに大いに感動する。
そして相模三浦氏再興のために諸君らの力を貸してほしいと説得され、歓喜の涙を流した。
彼らとその祖先は今から四十年も前、北条早雲が大軍でもって攻めてきた時も相模三浦氏に付き従い、新井城で四年もの籠城を成功させていた。そして相模三浦氏が滅んだ後も残った城兵と共に城ヶ島に立て籠って抵抗し続けた筋金入りの坂東武者。
彼らにとって主君は相模三浦氏しか居ないのだ。北条氏に従ったのは建長寺、円覚寺の両和尚に何度も説得され、一族と代々の土地が安堵されたから。
そしてここに、三浦義意の再来とも言える人が戻ってきた。
彼らは一斉に恭順を示し、即座に里見勢と合流。三浦半島南端より領国化が始まっていった。
この一連の動きに慌てたのは北条氏である。
折角、安宅と大筒の配備を進め、三浦半島の防備を固めた矢先に上陸を許し、里見に領国化を進められているのだ。しかもかつて自分らが手古摺った三浦衆は速攻で里見方に寝返ってしまった。
三浦半島が抑えられたとなれば完全に江戸湾・浦賀水道の制海権を喪失し、同時に武蔵国・下総国・上総国の影響力も大幅に低下してしまう。
しかし、北条水軍は動かせられない。三浦半島には里見水軍が集結し、相模側には里見義頼が率いる艦隊が睨みを利かしていた。江戸湾内も安西の房州海賊がここぞとばかりに暴れ回っており、手が付けられない状況にあった。
また時期も悪かった。もうすぐ農繁期に入る。北条氏は御蔵出、つまり君主から直接俸禄を貰う制度があり、農繁期でも多くの兵を動員できるが、それでも大規模に集めるには時間が掛かる。その間、里見家による三浦半島の支配が強まり、今後の戦略に大幅な変化が出てしまう。
「陸で里見勢を早急に撃破し、三浦半島を取り戻すしかない」
玉縄城の北条綱成は即座に陣振れを出し、軍勢を集めた。近隣からの救援も受けた軍勢は三千ほどだが、率いる将は富永三郎左衛門、葛西左京介や藤沢播磨守、田中美作守など武勇に優れた者ばかりであった。
対する里見勢も総大将に里見義舜。義舜の弟の里見堯次に安西実元、正木時茂、正木弘季。そして出口茂信ら三浦十人衆。
両軍勢は、衣笠山を見る平野で対陣する。
◆
天文二十三(1554)年三月下旬 三浦半島 衣笠
天候は晴れ。微風。
前日の雨は止んだが、道はぬかるんでいて歩くたびに泥が跳ねて脚にこびり付く。兵が引き摺っている長槍も柄が泥水を吸って重くなっていた。中には足を取られて転ぶ者や、荷車がぬかるみに嵌って動けなくなった。近くにいた兵がすぐさま助けてやり、また後ろから押して再び動けるようにする。
兵の装備は使い古されたものが多い。真新しい具足を身に着けた若者もちらほらと見かけるが、塗りの剥げた具足を纏っている男の方が圧倒的に多かった。
共通しているのは、誰もが胸を張り、高く[地黄八幡]の旗を掲げている事だった。
その軍勢の中程には、見事な体格をした軍馬に跨る集団があった。騎乗する侍達は厳めしく、それぞれが趣向を凝らした当世具足を纏っているのだが、中でも一際目立つ人物がいた。
『地黄八幡』北条綱成。
数えで四十歳になる。彼は大抵の者より頭一つ分は背が高く、厳つい顔には黒々とした口髭を生やしていた。当世具足の上に彼の代名詞である朽葉色の陣羽織を纏っている所為で良く目立っている。
彼の風評を聞けば、民には寛容で、兵を心服させ、敵には勇敢であると誰もが言う。事実、戦では先頭に立って突撃し、その勇猛果敢ぶりから恐れられていた。
今回は総大将であるからと、周りに止められて今は後ろで大人しくしていた。
黙々と行軍を続け、北条勢が衣笠へ辿り着いた時には、既に里見勢が陣形を整えていた。
「うむ、これは何だろうか?」
対陣した綱成は里見勢の陣形を見てそう呟いた。
里見勢はいつもの陣形である「安房殿の七備」と呼ばれるものではなく、まるで通せんぼするように横に広がって並んでいた。鶴翼の陣に似ているが、その分、備の厚さが無くなっている。
里見方は本陣には“五芒星”の旗印を掲げる総大将の里見義舜。中央前列に里見堯次。右翼に正木弘季。左翼に正木時茂。そして三浦衆がつく。これらの軍勢の前には、安房国から持ってきた三斤平射砲十二門を率いる安西実元が着陣していた。軍勢は常備軍千四百と三浦勢百。
「ふむ、珍妙な陣形だが、野戦でこちらを撃破する自信がある、という事か」
面白い。綱成は久々の骨のありそうな軍勢との正面からのぶつかり合いに気分が高揚していた。
噂に聞く通りに、かなりの鉄砲や大筒を揃えているようだ。だが、やりようはある。それに鉄砲や大筒を持つのは里見だけではない。里見方を真似て量産された大量の火縄銃と大筒。しめて三百丁揃えていた。この時代では破格の所有率である。
こちらは兵も将は歴戦の者ばかり。数も多い。籠城していないならば、儂は儂の野戦のやり方で奴らを食い破って見せよう。
「準備が出来次第、攻撃を始める」
そう告げた綱成の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「チッ、来るのが速過ぎる」
相対する軍勢を見て、義舜は舌打ちした。もう少し、来るのが遅ければ増援の兵六百が合流できたのだ。
魚鱗の陣へ移行した敵勢の旗印を見れば、歴戦の武将である富永三郎左衛門、葛西左京介。また六尺もの体躯と剛力を持つ藤沢播磨守、馬ごと敵将を射抜いた強弓を操る田中美作守と、誰もが武勇に秀でた武将。房州の地頭だった正木与五郎のものまであった。
「やれやれ、流石に戦上手ばかりを揃えてきたな」義舜は溜息をついた。「実元、砲兵の漸進砲撃は可能か?」
「……無理ですね。先日の雨で道がぬかるんでいて車輪が取られます」
義舜は平射砲を撃ちながら前進させ、更に漸進射撃の後に突撃で一気に決着をつける予定だった。この突撃を重視した戦術の利点は戦いが素早く終わり、成功すれば味方の損害が少ないと見込まれた点である。
里見家には籠城戦は難しい。里見家にとって三浦半島はまだ余所者であり、兵数も少なく、単純な国力差で体力が無い。それに、下手に時間を掛けると親北条方の下総の千葉氏や上総国の国人衆が活動を始め、圧力を掛けられてしまう。
「……黄八幡相手に、正面からのぶつかり合い、か」
全く嫌になる。しかし、ここで勝利しなければ、鎌倉までの道が開けないのだ。
「実元、風間殿を呼んできてくれ。あと、義頼に信号を。間に合うかどうかは微妙だが、やるだけやっておかねばならん」
そして、太陽が中天に差し掛かった頃。
北条軍から陣太鼓が鳴らされ、三千の軍勢が戦の咆吼を上げながら前進を始めた。先備は葛西左京介。その正面には鉄砲対策だろう、大量の竹束を抱えた兵が叫びながら懸命に走っていた。
『勝った! 勝った! 勝った!』
「砲軍、撃ち方始めェ!」
実元の号令と共に、最前列に置かれた平射砲による一斉射撃が始まる。瞬く間に硝煙が辺りを包んだ。撃ち出された砲弾は竹束ごと兵を吹き飛ばすか、着弾の衝撃で泥水と小石を弾き飛ばし、兵を殺傷していった。
「撃ち続けろ!」
『勝った! 勝った! 勝った!』
間断なく砲を撃ち続けるが、それでも北条勢は降り注ぐ砲弾など知らぬとばかりに勝鬨を上げて負傷者や屍を超えて前へ進む。
そして距離が詰まると残存する竹束の後ろから北条勢の兵が左右へ分かれるように散開する。鎧を脱ぎ捨て、汗止めの鉢金だけを身に着けた軽装の兵だった。
「印字衆、投げよ!」
彼らは手に持つ紐に括り付けた石や焙烙玉を真っ直ぐ正面に向かって勢い良く放り投げた。
飛来してくる礫に里見勢は砲の陰に隠れたり身を屈めるなどしながら砲撃を続けるが、石が当たって負傷する者、頭に直撃を受けて昏倒する者、至近距離で焙烙玉が炸裂し吹き飛ぶ者が続出し、打ち倒されていく。
「弓衆、放てッ!」
続けて弓衆が雨霰の如く矢を降らす。里見勢はそれをじっと堪え続けた。
綱成は里見の砲撃が大人しくなったのを見て、軍配を正面に突き出した。
「槍衆、突撃せよ!」
『勝った! 勝った! 勝った!』
散開し、正面に槍先を揃えた足軽が一気呵成に突撃を始める!
「北条ずれが、砲兵を舐めるなァ! 砲軍、撃てェ!」
実元が吠えると同時に、一斉に砲声が響いた。そして近づいていた敵勢が箒で掃くように薙ぎ倒されていった。
生き残った砲手が装填中だった砲弾の上に大量の鉛玉が入った箱を詰め込んでおいたのだ。発射されれば鉛玉が散弾の如く四方八方へ飛び出す凶悪な代物であった。
「歩兵隊、前へ!」
敵勢から悲鳴が上がり突進が止まった瞬間、すかさず中央の堯次、右翼の弘季、左翼の時茂らが率いる軍勢が静かに前進を始める。
北条方とは対照的に、里見方の兵は誰も私語をせず、喊声すら上げなかった。ただ聞こえるのは鼓手がリズミカルに叩く行進曲と兵が地を踏みならす音、服と装具の擦れる音、銃、槍、そして刀が擦れ合う音のみであった。
硝煙の向こうから散発的にやって来る投石や矢を受けて倒れる者も出るが、良く訓練された歩兵は列を乱さずにそれを忠実に実行していた。
雄たけびを上げる北条勢と静粛に歩く里見勢。その相対距離があと百歩(約70m)ほどになった。
「銃兵及び弓兵、構え」
ドン、と大太鼓が一つ打ち鳴らされると同時に、まるで機械の様な正確な動きで鉄砲の銃口と弓が正面に向けられる。その恐ろしい威嚇を前にしても、北条兵は雄叫びを上げて前へ前へと走る。
「漸進射撃、始めェ!」
耳をつんざく一斉射撃。圧倒的な破壊力によって敵勢の正面が砕ける。号令と共に正確な動きでその場で装填を始めた銃兵の前に、後列の銃兵・弓兵が前に出る。再び一斉射撃。
また敵兵が倒れた、いや、撃たれたのではない。弾幕を避けるために自分から前へ倒れ込んだのだ。想定よりも損害が出ていない。それに加え、敵勢が散開しているため現状の横列隊形では圧倒できるだけの射撃密度が無いのだ。
「平射砲、仰角上げ! 前衛の援護を行う!」
実元はそれに舌打ちするも、残存する平射砲で可能な限りの速さで援護砲撃を行う。
里見勢の猛打を受け、北条の先備はほぼ消滅していた。だが、それでもなお北条勢の誰もが腹の奥底から叫び、石を投げ、矢を放ち、火縄銃や大筒を撃ち、八幡の旗を掲げて狂ったように突撃してくる。
「くそったれが! なぜ止まらんのだ!?」
「長槍兵、前へ出て構えろ!」
そして遂に、両軍がぶつかり合う。長槍兵同士の壮絶な叩き合いが始まり、乱戦模様となりつつあった。二ノ備の藤沢播磨守、田中美作守がそのまま左右の正木時茂・弘季の備にぶつかり、中央の道をこじ開ける。
「さあ、者共! 食い破れェ!!」
『勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った!』
中央へ吶喊してきたのは、全く無傷の軍勢。狂笑を浮かべ、眼を爛々と輝かせて槍を掲げる『地黄八幡』北条綱成が率いる本陣備だった。
中央の里見勢は即座に守りを固めて衝突をどうにか堪えるも、その強大な圧を受けて削り取られていく。
「報告! 里見伊賀守(堯次)様、苦戦! 『地黄八幡』の手勢に圧されております!」
「報告! 山本左馬丞様、負傷! 指揮は風木丹波守様が引き継がれました!」
(拙い……、このままでは崩される)
状況は最悪。正面の備を指揮する堯次も訓練と座学で能力を伸ばし、良い前線指揮官と言えるが、歴戦の勇者である綱成の攻勢を防げるほどの経験値も能力は無かった。
「大膳亮(時茂)殿と弾正左衛門(弘季)殿の状況は?」
「均衡状態です」
時茂も弘季も一流の武将であるが、相手も歴戦の将。数の優位を生かして巧みに動きを封じており、とても中央の救援に行く余裕が無かった。
「本陣を動かす! 前衛を援護するぞ!」
義舜の決断は早かった。危険だと止める重臣らを黙らせ、自ら最前線へ躍り出たのだ。
そして愛馬を前に走らせるや太刀を振るい、一息に二人、三人と敵兵を切り伏せていく。
「皆の者、奮戦せよ! 我らは負けぬ、我らの勝利は、もう目の前だ! 北条を押し返すのだァ!!」
危険な前線に身を晒し、太刀を振るう義舜の姿に北条勢に気圧されていた里見勢は再び士気を取り戻した。そして義舜旗下の振武隊で構成される本陣備による漸進射撃と擲弾兵の抱え大筒による濃密な弾幕を浴びせる事で、綱成の突進をようやく止める事ができた。
「おお、流石は里見よ。これだけ叩かれても崩れぬとは……」
綱成は感嘆したように呟いた。普通ならば突撃を受けた時点で崩れている筈。それを受け止め、均衡状態に持っていったことに驚きを示したのだ。
「ですが、こちらが優勢です」
「うむ、攻めを緩めるな」
戦況は一進一退。
だが、均衡が崩れるのも時間の問題だった。勢いはまだ魚鱗で突撃した北条勢にあった。今は膠着状態に陥っているが、時間が経てば経つほど兵数の多い北条が有利となる。
それに、乱射し続けている鉄砲と大砲はそろそろ休ませないと熱が溜まり続けて使い物にならなくなる。そうなれば火力で戦力差を補っている里見勢の敗北は必須だった。
(まだだ、まだ粘れる。もう少しで来る……!)
そして、会戦が始まってやっと一刻。
北条勢の右翼側面より、銃声が響いた。
「な、なんだッ! 何が起きた!?」
「ま、正木様が撃たれたぞ!」
再び銃声。馬上の武者が次々と撃たれ、落馬していく。
「居たぞ! あそこだ!!」
「あんな遠くからか!?」
彼らが見たのは鋼輪式施条銃を構える、里見の銃兵であった。乗馬銃兵と呼ばれる者共で、馬の機動力で迂回し、下馬して側面をついたのは僅か三十名余りしかいない。また装填に時間が掛かる為に射撃頻度は少ないが、その長射程でもって馬上にいる武者を狙い撃ちしていた。
「目立つ奴から撃て。そうすれば敵勢は混乱する」
「了解」
突然、指揮官が撃たれた事で残りの足軽らも動揺し、それが軍勢全体へと伝播する。この動揺、この混乱で攻勢が緩んだ所を、戦巧者の時茂は見逃さなかった。
「敵勢は混乱している! この機を逃がすな、吶喊せよ!」
同時に温存していた騎馬武者を自ら率いて敵勢に突撃。槍大膳の名の通りに馬上から片手で大身槍を操り、奮戦する事で更に混乱を大きくしていく。
「いかん、このままでは右翼が崩れる」
すぐに綱成は自身の手勢の一部を右翼に向かわせ、混乱を収めようとした。
だが、そこへ最後の伏兵が現れつつあった。
戦前に命令を受け、衣笠山の山中を突きっきり、綱成のいる本陣近くへ現れたのは全員が真新しい具足を身に纏い、中央にて乗馬旗手が掲げるのは帆布に墨で風と書かれた大旗。
風魔小太郎以下、騎兵三百からなる騎兵部隊だった。
「頭領、敵勢側面に出ました。まだ気づかれておりません」
「よろしい」小太郎は大きく頷いた。手を振り上げる。
「総員、接敵前進用意。小隊縦列」
ここにいる者は風魔から乗馬訓練を受けた馬足軽や一騎合衆と呼ばれる軽輩の者で編成されていた。機動力を至上とする彼らはその能力の高さを示す様に素早い動きで隊形が整えた。
小太郎は当然の様に正面先頭に立ち、抜刀した太刀を掲げた。
「総員抜刀。これより、我らは敵本陣に突撃する」
小太郎の静かな声に、兵らは任された大役と目の前に広がる光景に、顔を紅潮させ、興奮をあらわにしていた。
小太郎も同じだった。掲げていた太刀を肩に担ぐように構える。
「往くぞ! 騎兵部隊、速歩接敵前進、始めぇ!!」
少しずつ騎兵が動き出し、一つの風になる、大地を叩く無数の蹄から出される地響きに、混乱していた北条勢はようやくその存在に気付いた。
「うッ、右翼より敵襲ゥー!」
「なんだとッ!?」
綱成が目を向けると、三百ほどの軍勢が土煙を上げてこちらに向かってくるのが見えた。そして中央ではためく旗に驚く。
「なんと、風魔かッ!?」
「鉄砲衆、迎撃しろ!」
慌てた側仕えの一人が射撃を命じる。だが、距離が離れている上に指揮官は軒並み撃たれていて混乱しており、兵も突発な事で動揺して疎ら撃ちにしかならなかった。
「押し通るぞッ! 総員、襲歩に移れぇー!!」
隊形を楔に変えた騎兵がひとつの風となる。慌てて槍足軽が槍衾を構えようと鉄砲衆をかき分けて前へ出ようとするが、もう遅い。
「突撃ィーッ!!」
『ウゥラァァアアァァっっ!!』
小太郎の気迫に応え、白煙を切り裂いた風はこれまでとは比べ物にならない鬨の声と共に綱成を討たんと本陣へ殴り込んだ。
「しまった! 本陣がッ!?」
本陣に騎馬武者が突入されたことに北条勢には大きな衝撃を与え、動きを止めてしまった。
「風間出羽守様の手勢、敵本陣に突入! 成功しました!」
「こちらも突撃だァ! 押し返せぇ!!」
義舜は即座に突撃の号令を下した。腹の底から絶叫する里見勢は燃え上がり、全軍が突撃喇叭と共に今までの鬱憤を晴らそうと反撃に移る。その圧力を受けて、北条勢は崩れかかった。
「狼狽えるなァ!!」
戦場へ響く大音声。斬りかかってきた騎兵を返り討ちにした綱成は、それだけで将兵の動揺を抑え込んだ。
「敵は小数ぞ。密集して槍を構えよ! 全軍、戦闘隊形のままゆっくりと後退!」
流石は歴戦の将兵だ。惚れ惚れするような動きで乱れた隊伍を直し、素早く命令通りに密集して槍衾を作る。そして突進してくる騎兵へ槍を突き出しながらゆっくりと後退を始めた。
――仕切り直しよ。この程度ではまだ負けん。
だが綱成の決意も虚しく、更なる凶報が届く。
「伝令! 鎌倉沖にて相模水軍が里見の海賊共と衝突! 御味方、総崩れでございます!!」
やられた。その報告を受けて槍を持ったまま綱成は眼を瞑り、天を仰いだ。顔には苦悶の表情を浮かべていた。
「負け、か」
一言だけ呟くと、綱成は即座に玉縄城まで撤退の命令を出した。
その際、綱成らを逃がすために藤沢播磨守の部隊が殿となって時間を稼ぐ。追撃しようとした里見方も死兵となった将兵が次々と襲い掛かって来たために足を止められ、少なくない損害を出す事となった。
里見勢は負傷した山本由那城主の山本左馬丞もこの怪我が原因で後に死去。また陸軍の中核を担う振武隊も黄八幡を相手に粘り続けたことで多数の死傷者を出していた。
北条勢の先備を務めた葛西左京介は最後の最後まで戦っていたが、突入してきた茂木与茂九郎と組討ちとなり、討ち死。この茂木与茂九郎は家督を継いだばかりの、僅か十六歳の紅顔の少年武将であった。
また殿となった藤沢播磨守は綱成らの撤退まで時間を稼ぐことに成功するも、削り取られたところで風魔の騎兵突撃を受けて討ち死にする。
両軍ともほぼ同数の死傷者を出した結果、綱成らは玉縄城で籠城するしかなくなり、勝利した里見氏はこれで三浦半島中部以南を領有する事となった。
そして――。
鎌倉、太平寺。
その小さいながらも見事な造りの庭にて、満月を眺める一人の尼がいた。
ありていに言って、美人である。瓜実の顔に形の良い眉。黒曜石の様な輝きを持つ瞳。墨染めの袈裟を纏ているが、貴種たる血筋に相応しい雅さがあった。
名を青岳尼。
鎌倉尼五山の筆頭である太平寺の住職であり、小弓公方・足利義明の長女である。
「青岳尼様、夜は冷えますゆえ、中へ……」
幼少時より仕える侍女がそう告げるが、青岳尼は小さく首を振った。
「いえ、もうしばらく月を見させてください」
月を見て思い出すのは、房州に居た頃の事。
父が戦に敗れて亡くなった際、自分たちを保護したのは里見家だった。送られた先は小さな寺で、そこでの生活は決して楽では無かったが、楽しい日々だった。
毎日、誰かしらが寺に土産を持って訪ねてきて、よく遊んでくれた。
馬の乗り方を教えてくれ、皆で野原に行っては野草を摘むのが楽しかった。交易で手に入れたという砂糖を使った菓子をよく馳走してくれた。聞いたことがない物語を話したり、自作の絡繰を持ってきては飽きない様にと人形芝居を行ったりして楽しませてくれた。
そして――、
ガサリ、と垣根から物音が立った。
「何者か!」
青岳尼を庇うように立った侍女の誰何の声に応えず、カチャカチャと装具を鳴らし、暗闇から現れたのは一人の武者。
「――まさか」
「お久しうございまする、姫様」
忘れる筈も無い。成長してすっかり逞しくなっているが、その懐かしい声音と面影が残る姿。
青岳尼の初恋の相手である、里見義舜であった。
「お会いしとうございました、姫様」
「太郎様……」
「覚えていますか? あの時の、約束を」
「……はい」
それは、幼少時の約束。
青岳尼がまだ足利青子と名乗ってた頃、妹の旭と共に代々足利家の娘が入る鎌倉の寺へ送られる事になった間際。
「必ず、迎えに行きます。その時まで、待っていてくれませぬか?」
「はい」
ただの、子供同士が交わした口約束だった。その筈だった。
房州での思い出を胸に、ずっと寺の中で過ごし、生涯を全て御仏の為に捧げる人生のはずなのだ。
「太郎様」震える声で、青岳尼は言った。
「はい」
「太郎様、私は、もう年増ですよ? 尼ですから、髪も生えていません。女としての魅力はもう無くなっております。それでも、それでも、貴方様は私が良いのですか?」
「貴方でなければ、駄目なのです」
義舜は青岳尼の顔を見たまま片膝をつき、白魚の様な手を優しく手に取った。
「どうか、私の妻になってください」
「――はい」
沸き起こった恋慕の情に突き動かされるように青岳尼は義舜に抱き着いた。義舜はその細い躰をしっかりと抱きとめて、熱い抱擁を交わす。
「太郎様、待たせすぎですよ……」
「申し訳ありません」
「十五年は長すぎました……」
「はい」
「絶対に、もう離さないでください……」
「はい、誓います」
そして、二人の距離が徐々に縮まっていき――、
「……あー、お取込み中、大変申し訳ないのですが」
ここに、二人の世界に割って入る勇者が現れた。
「兄上、頼みますから、そんなおっかない顔しないでください……」
鬼の形相の兄から逃げるように義頼は青岳尼に身体を向けると、深々と頭を下げた。
「初めまして、そこの愚弟の里見義頼と申します」
「そなたが……」
その噂は聞いていた。館山を治め、水軍を率いて度々北条方の水軍を撃破していった武将であると。それがまだこんなにも若いと、青岳尼は思わなかったのだ。
「まずは、こちらを」義頼は恭しく書状を差し出した。
「東慶寺は旭山尼様より、文を預かっております」
旭山尼は青岳尼の妹になる。義頼が面会を求め、房総へお越しになられませぬかと誘った。
旭山尼は小さく首を振り「御寺を私の代で途絶えさせるわけにはいきません」と答えた。代わりに書状を預かった。内容は知らない。ただ、義頼が寺から辞去する最後に「いつか、また」とだけ呟いていた。
青岳尼は涙を浮かべ、妹からの文を読んでいた。
「申し訳ありませんが、流石にそろそろ限界です。潮目が変わって艦が出せなくなります」
「……姫様」
「――はい、支度を整えるので少々お待ちください」
涙を拭い取り、大事そうに文を入れた青岳尼は侍女を連れ、住み込みの者達に手早く支度を整えるよう告げると、自身は本堂にいって片っ端から布に包み、馬や荷車に積み始めた。
「これも持っていきましょう」と、本尊である木造聖観世音菩薩像をこもに包み始めた時には周りも慌てて止めに入ったのだが、青岳尼はあっけからんとした表情で告げた。
「良いのです。どうせ私が居なくなればここは廃絶になるでしょう。後の交渉にも役立ちます。なら、有効に使いましょう」
見た目とは裏腹の、なんとも強い姿に殆どの者が呆気に取られていた。義舜だけは「さすが姫様」と納得していた。
そういや、姫様はこんな感じだったなァ、と昔を知る面々は遠い目をしていた。
父親である先代の小弓公方・足利義明も剛毅な人であったが、その血を兄弟姉妹の中で最も色濃く受け継いでいる、と言われていたのを思い出したのだ。
「……や、凄いお人ですね」
義頼のつぶやきに、青岳尼は少女の様な満面の笑みで言った。
「当然です。だって私は、あの小弓公方・足利義明の娘ですもの」
かくして、青岳尼は義舜と共に鎌倉の地を離れる事になった。また彼女に付き従って鎌倉の地に居た旧小弓公方の家臣らもこれに従い、共に房州へと渡った。その際、見た事もない巨大な帆船である春風に青岳尼らは驚き、あちこち見て回るなど周りの者をハラハラさせることになった。
そして、義舜と青岳尼を乗せた艦は一旦館山に寄港し、翌日、義舜の居城である佐貫城へ辿り着いた。
「姫様、どうぞお手を……」
先に短艇に飛び移った義舜が手を差し出しても、青岳尼は俯いたまま動こうとはしなかった。
「姫様?」
「太郎様、その、私は貴方様の、つ、妻となりましたので……」と、青岳尼は顔を真っ赤にして告げる。
「その、あ、青子、と呼んでいただけませぬか……?」
「――はい、青子殿、こちらへ」
互いに顔を赤らめ、初々しい様子で手を繋ぎ、ゆっくりと舷側に吊り下げられている短艇へと乗り移っていく。
(うへェ、渋い茶が飲みたいぜ……)
(なんなんですかね、あのバカップルぷりは)
片時も傍から離れず、艦内でもイチャイチャしていた二人に主従は殺意が湧くどころか呆れ果てていた。
短艇が海面へ降ろされ、水兵らが勇ましい掛け声と共に艪を漕いで進み始める。
「太郎様」
「なんだ?」
「ふふ、何でもありません」
「そうか。そうだ、今度、父上に挨拶しなければいけないな」
「まあ、そうですね」
まるで長年連れ添った夫婦の様に他愛無い話をしながら景色を眺め、船が着岸すると義舜は青子を抱きかかえて岸に乗り移った。
そして、二人はゆっくりと佐貫城までの道を共に進んでいった。
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