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第25話 三崎三浦沖海戦

ようやく投稿です。楽しんで頂ければ幸いです。

 天文二十三(1554)年三月下旬 浦賀水道


 夜明け前。天候は曇り。

 空にはふっくらとした月が浮かんでいる筈なのだが、灰色がかった厚い雲で全く見えない。

 時化であった。浦賀水道はこの時期特有の強い南風がゴウゴウと吹き荒れており、海は太平洋からやって来る長いうねり(・・・)が幾つものの波山を作り出し、真っ白に波立っていた。

 

 その中を、正面に迫る波山に突進して砕き、艦首から飛沫を上げながら直進する二隻の艦があった。

 掲げる旗は〝二つ引両〟。甲型海防艦[春風]と[雪風]からなる三浦三崎城攻略へ向かう里見水軍である。

 どの艦もこの強風に対応するために二段縮帆した縦帆のみを展帆していた。ただ、先頭を走る旗艦の春風のみは前檣(フォアマスト)帆桁(ヤード)、その両端と艦尾舷側には雪風を先導するための洋灯(カンテラ)が括り付けられていた。


「今のところ順調です。針路は北西微西を維持、索具も器材も問題ありません」


 傍に控えていた安泰が告げた。僅かでも薄明るくなってきたので、近くならようやく顔が見える様になっていた。


「そうか、ご苦労」


 艦尾舷側の手摺に捕まっていた義頼は短く答えた。

 うねりが艦底をくぐり抜けているために甲板の浮き沈みが激しい。また順風に乗って走る艦は右に傾いている。吹き荒ぶ寒風と波しぶきが身体に叩きつけられていて、何か気の利いたことを言うだけの余裕が無かった。


 ただ、以前の捕鯨船団に参加した時に比べれば今の状況は遥かにマシだった。身体はあの時より成長して力もついてきたし、艦の動きに合わせて身体のバランスを取っているだけで暖かく、さほど寒く感じない。 

 何よりも、この艦自体が図南丸型と比べれば驚くほど安定していた。


 義頼の乗る甲型海防艦は樫や楢(オーク)をふんだんに使い、また船殻の対角線上に筋交いを入れており、非常に頑丈。優美な線を描く艦体は柿渋に松炭を混ぜた渋墨塗で化粧され、(マスト)に柿渋で染めた赤茶の帆を目一杯に膨らませている。図南丸型と比べて大きく重く、喫水が深い。それが頑丈さと安定性を生み出していた。


 搭載している艦砲も多い。戦時改装した図南丸型の倍の、三斤艦砲十二門になっていた。その気になれば艦砲をより強力で重い砲へ換装した上で十六門まで増やすことが可能である。

 現状、今の日本でこの艦の戦闘力に叶うものは無く、最高の艦だと言えた。


 そして、これを操るのは精強な房州海賊である。

 『北條五代記』には房州海賊の所業が記されており、そこには、「ある時は闇夜に小舟一、二隻で渡海し浜辺の在所を襲い、ある時は数隻の舟にて浦里を焼き、物を盗み、男女を生け捕りにして騒がし、夜の明けざるうちに帰海する」と書かれている。

 

 史実でも夜間航行を日常的にやっていて、しかもこの艦の水兵の殆どが捕鯨船団に参加した者ばかりなのだ。船酔いでげぇげぇしながらも太平洋の荒波の中を長期間航海し続け、身体も精神も鍛えられている。この程度の波なぞ太平洋の荒波に比べれば大して問題は無く、長年慣れ親しんだ浦賀水道という海域である。

 であるから、当直の者はみな冷静で落ち着いた表情で甲板の上で作業しており、艦を巧みに操って揺れを最小限に抑えていた。 


「甲板! 左前方に明かり。陸が見えた!」


 檣頭(マストトップ)にしがみ付いていた見張員がどなった。

 義頼がそちらへ目を向けると、確かに黒い影にしか見えない陸があった。そこから小さく赤い明かりが見える。出港前までに徹底的に覚え込んだ海図を頭の中で描き、そして今までの速度や針路を思い出す。 

 艦隊は館山を出港してから何度も風や海流の影響で針路を転換しているが、大体は北西方向に進んでいるはず。となると、あれは北条が城ヶ島の安房崎に建てた常夜灯だろう。


「信高殿、あの陸地が何か、分かるか?」


 安泰は航海士の佐吉についていた男に訊ねた。

 信高は二十代半ばの、がっしりとした体格の持ち主だ。真里谷信応の嫡子であり、二年前の戦の結果、家督を継いでいた。里見家に下ってからは義頼の補佐役として信応と共に活動していたが、今回この艦に航海士見習いとして乗っていた。


「はい、えー」


 一歩前に出た信高は頭の中で思い出しているようだ。と、そこで春風が波に乗り上げて大きく傾いた。義頼はしっかりと手摺りにつかまり足を踏ん張らせた。安泰や佐吉、そして練達の水兵たちも艦の動きに合わせて楽々とバランスを取っており、全く動じていなかった。

 だが、信高は咄嗟の事で反応できず、つんのめって安泰の胸元に飛び込む事になった。幸いにも、安泰は腰を落としたので、よろめくことなく信高を受け止めた。


「しっかりと甲板を踏むように。で、答えは?」

「はい、城ヶ島です」と、信高が告げた。恥ずかしい思いをした所為か、声が上擦っていた。

「そんな事は分かっている。もっと正確に答えろ」


 安泰の叱責を受けて、信高は身体をそわそわし始め、ややして、自信無さげに告げた。


「城ヶ島の、安房岬にある、常夜灯だと思われます」

「うむ、その通りだ。信高殿、もっと早く正確に答えられるように。航海士が間違いを犯せばこの艦の者らは全員漂流してしまうのだからな。持ち場に戻ってよし」


 厳しい口調で安泰が言う。対して、信高はぐったりとした顔で返事をし、直ぐに佐吉の立つ羅針盤箱近くの定位置へと戻っていった。

 安泰はその姿を見て小さくため息をつくと、義頼の元に歩いてくる。


「大将、城ヶ島の安房岬が見えました」

「そうだな。暫くはこの針路を維持。しかる後に左へ転舵してくれ」

「はっ」


 安泰は首から下げた拡声器を手に持ち、必要な命令を次々に出していった。

 やはり、時間が足りなかったな、と義頼は内心ごちた。


 春風だけでなく、雪風も水軍として初陣となる新人の士官や水兵をそれぞれ乗せている。

 まあ、これでもまだマシな方だ。二隻に配属された者は元は水軍のすの字も知らなかったが、数も少なく、全員が一通りの教練課程を終えている。だが、近海での交易や漁業を営む弁才船にはそれすらも終えていない者が多く配属されており、きっと今も良い訓練日和として熟練の士官らがこの強風下でも負けない怒鳴り声を上げ、何もわからない新人らを追い立てているに違いない。

 

 これも水軍を急速に拡大した結果、人員の供給が追い付かなくなった所為であった。今までは読み書きを覚えさせ、沿岸で改装した関船や小早に乗せて操船や測量、天測といった船乗りに必要な技術を覚えさせ、その後は各地の弁才船に振り分けて練度を上げていた。手間と時間は掛かるが、優秀な兵を生み出すためであり、今まではこれでもやりくりできていた。


 だが、捕鯨に交易の拡大、そして内房の水軍強化をほぼ同時に行った結果、それでは間に合わなくなっていた。そのため仕方なく、水軍への志願者に一定の基礎―中には読み書きすら覚束無い者もいた―を教え込んだら直ぐ船に乗せ、実地で鍛え上げるようになっていた。

 可能な限りひたすら訓練を行い、改善をしていったが、やはり不安はまだ残っていた。

 見張員が叫んだ。


「甲板! 安房岬が! あれを見てください! 」


 義頼らが目を向けると、先程と変わらない安房岬があった。

 いや、違う。目を凝らしてみれば、赤い点が二つになってる? やっとはっきりと見えた。火の玉が上下に揺さぶられているようだ。


「ああ、成程な」義頼は納得した表情で呟いた。

「あれは、こちらの腕木信号に似たものでしょうか?」安泰が訊ねた。

「だろうな。上下にしか動かせないようだが、腕に松明か何かを括りつけて信号を送れるようにしたんだろう」


 つまり、城ヶ島の見張兵に気付かれたのだろう。洋灯(カンテラ)には暗幕を被せて後ろ側にのみ光が行くようにしていたが、光を完全には遮れなかったのだ。

 ああクソ。こちらを船幽霊とか、そういった妖怪だと思ってくれればよかったのに。やっぱりそう上手くはいかないもんだな。


「だがまあ、やる事は変わらんよ」


 義頼は呟いた。つまり、三浦半島と城ヶ島の間にある水路へ突入である。


「では」

「ああ、予定通りに進める。総員戦闘配置。雪風にもその旨を知らせてくれ」


 薄明りの中、バタバタと各員が部署につく。

 足を滑らせないよう、甲板に砂が撒かれる。消火と砲の掃除用に海水がたっぷりと入った鉄桶が用意された。艦内から火縄銃や長柄が甲板に運び込まれ、丸めたハンモックを艦尾舷側にある竹製の網の中へ入れ、胸壁に変える。信号係が手に持った洋灯(カンテラ)を決まった法則で回し、後続艦に伝達する。了承の印として雪風から洋灯(カンテラ)が掲げられた。


「針路を変更します」安泰は首から下げた拡声器でどなった。「取舵(とーりかじ)! 」


 操舵手が舵柄を動かし、掌帆手が覚え込まされた動作で転桁索(ブレース)を引き、帆の向きを変える。ぐーっ、と艦首を左へ曲げていく。


「当て舵!」


 そして、準備が終了したと同時に波と風の音だけになり、先程まで海からの喧しかった音が止んだ。

 転舵した事によって左後方から受けていた風が真横へと変わる。やや行き足が落ちるが、波は穏やかになりつつあった。城ヶ島と三浦半島の間の水路に入りつつあったのだ。

 この水路は蓋する様にある城ヶ島の丘陵と森林が風をよく防いでいてた。また水深が深く、十尋(約二十メートル)近くになる。岩礁と浜辺で五十間(約九十メートル)もない狭い水路だが、こちらの艦が航行する事は可能だ。


 さて、という時に一点鐘。

 張り詰めた空気の中、唐突に起きた鐘の音に思わず気が抜けてしまう。甲板上で小さく忍び笑いが巻き起こった。直ぐに安泰の鋭い一声が起き、また静まり返った。


「測鉛手、準備は良いか!?」義頼がどなった。

「大丈夫でぇす!」

 

 測鉛手は水深を測る水兵である。測深鉛を持って両舷にある投鉛台、つまり舷側から張り出した横静索(シュラウズ)を繋いでいる支索留め板に立っていた。


「測深、始め」


 二人の水兵が錘を投げ入れ、底についた瞬間、一気に引き上げる。そして洋灯(カンテラ)の薄明りで目印の様々な色がついた布やら、革やらから水深を読み取る。十尋。問題無し。

 左舷からは白い波際が見える。城ヶ島の浜辺だ。九尋。八尋。水深が浅くなりつつある。

 

「面舵、少々」安泰が即座に命じた。

「深度、七尋(ななーつ)!」


 一尋は六尺(1.8メートル)だから、今は艦底下から四尋(7.2メートル)の水深となる。このまま更に水深が浅くなれば、北条の領域下で、三崎城前で座礁しかねない。

 六尋。五尋。更に浅くなった。


四尋(よっつー)!」


 視界には白く泡立った砕け波と黒々とした陸が見える。義頼は背中に冷や汗が流れているのが分かった。身体中の筋肉を強張らせ、溢れ出る手汗を洋袴(ズボン)で拭い取った。

 左を見れば、丁度城ヶ島の白い波際の前を通り過ぎる瞬間だった。


「深度、六尋(むっつー)!」


 続けて七尋。八尋。そして九尋。

 水深が好転した事に、義頼は小さく安堵の息を吐いた。これでもし座礁すれば、唯の大馬鹿者の嘲りを受け、無様に死ぬ所だった。頭の中で海図を再び浮かべる。今は水路で最も狭い――未来で言えば城ヶ島大橋あたりになるはず。ここを抜ければ水路からコの字に深く切れ込んだ三崎城下の港がもうすぐ見える。


「大将!」と、安泰が義頼の肩を叩いて知らせた。


 安泰の指差した先から、小さな閃光があった。陸からだ。ぽつぽつと火花の様に一瞬だけ煌めき、そして消えていく。砲声は聞こえず、着弾した際の水柱もどこかに立つはずなのだが、暗闇と波間に消えて全く見えない。


「砲撃です。感じからして、三崎城に備え付けた大筒のようです」安泰が言った。

「そうだな。だが中らんよ、この距離ではな」


 そう自分に言い聞かせるように義頼は呟いた。攻撃されている、そう思っただけで背筋が震え、胃がキリキリし始めた。

 三崎城とは二百五十間(約454メートル)は離れているし、この薄明りでは早々狙いが定められない。それに艦は東から西へ動いているからまぐれ当たりしか期待できない。それでも指揮官の元、整然と斉射を行われると拙いのだが、断続的に走る閃光を見る限りは狙いも定まっていない各個射撃のようだ。単純に練度不足だろう。

 まあ、それに折角用意した大砲も訓練で使い潰す事も、玉薬を湯水の如く使って砲術訓練するのは幾ら関東の雄たる北条とはいえそう出来るものでは無いから、仕方ない事なのかもしれない。


「安泰」

「はい」


 即座に安泰が応えた。

 義頼はス、と篝火が焚かれ、時折閃光が煌めく三崎城を指差した。


「北条に、砲術とは何たるかを見せつけてやれ」


 義頼の言葉に、安泰はニヤリと笑うと見事な敬礼を行う。


「野郎ども、御大将からの下知だ! 奴らに一発ぶちかましてやれぇ!」


 一気に水兵達の興奮が最高潮となった。砲手が玉薬を紙袋ごと押し込み、鋳鉄の砲弾を込め、適切な仰角を取った状態で楔を噛ませる。滑車装置(テークル)の綱を力の限り引っ張ってゴロゴロと砲を押し出す。砲門が開かれ、六門の砲が右舷から飛び出した。

 

「艦砲、撃ち方始めっ!」

 

 右舷の三斤艦砲が一斉に火を噴き、砲口から零れた真っ赤な炎が目を眩ませた。轟音で耳がやや遠くなったと同時に、流れて来た硝煙の強烈な匂いが鼻をつく。続いて後方からも砲声が響いた。


「良いぞ良いぞォ、撃ち続けろ!」


 砲手らは歓声を上げる間も無く、すぐさま砲手が発射の衝撃で後退した砲の中を濡れた雑巾で拭い、火薬運搬兵(パウダーモンキー)が持ってきた玉薬と弾を積め、綱を引っ張る。

 二度目の斉射。轟音と閃光。そして硝煙の塊。弾道を見ようとして硝煙の塊を掻き分けて出たのだが、直後に艦の近くに水柱が立った事でそちらに気が取られた。

 三崎城の砲撃だ。距離が近くなり、明るくなってきている所為だろう。狙いが定まってきている。


「深度、八尋(やっつー)!」

「操舵手、取舵少々」


 変わらぬ測鉛手の叫びと同時に、義頼は号令を下した。再び三浦半島から離れていく。

 三度目の斉射が行われた。今度はようやく、三崎城へ黒い小さな影が幾つも飛んでいくのが見えた。返礼なのか、数発の黒い影がこちらに迫って来るのが見えた。

 その内の一発が衝突した。不快な音を立てて胸壁を突き破り、甲板にゴロゴロと小さな砲弾が転がって来た。舞った破片が甲板に散乱する。義頼はそれをまじまじと見やった後、ゆっくりと首から下げた拡声器を口に当ててどなった。


「砲撃やめッ!」


 ピタリ、と砲手は作業を止め、義頼へ一斉に注目した。

 よし良いぞ。義頼は満足した。誰もが興奮していてその熱気が伝わって来るが、命令を聞き、行動に移せる冷静さは残っている。


「要員、転桁索(ブレース)につけ! 帆を一杯にはらませろッ!」


 もう砲撃は十分だ。なら、さっさと逃げるべきだ。

 号令を受けると、整然とした動きで甲板に居た掌帆手の一部が転桁索(ブレース)を引き、また一部が横静索(シュラウズ)に飛びついて駆け上り、畳んでいた上帆(トプスル)を張り増した。 

 たちまち風を受けて速力が上がる。また三崎城から幾つものの火花が見えたが、全てばらばらで遠弾。艦を掠る事も無かった。

 二隻の艦はあちこちに出っ張っている岩礁を避けながら、悠々と水路から脱出した。


「下手回し用意!」


 危険が過ぎ去り、十分な距離と広さを得た所でゆっくりと回頭する。そして城ヶ島の灘ヶ崎に艦首を向け、再び水路へ突入できるようになる。


「二点鐘です」


 舵柄前にある砂時計を眺めていた佐吉が言った。

 言われてみて、思わず空を見上げた。既に日の出の時刻を過ぎており、大分明るくなっていた。


「安泰、砲を固定。一時停船(ヒープツー)してくれ」

「はっ」


 お互いにホッと笑みを浮かべて敬礼。

 次の瞬間、安泰は悪鬼の様な表情になり、もう勝った気でいるのか、ぺちゃくちゃと喋り出して騒々しい水兵達を怒鳴りつけ、追い立てていった。

 慌てた水兵達が力の限り砲を引っ張り上げて綱を固定し、転桁索(ブレース)が曳かれて帆から風を抜き、上帆(トプスル)を裏帆にする。再び強風と荒波に揺さぶられながら、春風はその場に停止した。


「佐吉、被害報告を」

「はい、本艦の損傷は軽微。怪我人も僅かです。雪風からはまだ被害報告が届いておりません」

「怪我人の容体は?」

「火傷と足を滑らせて転倒した者が数名ほど。念の為、消毒させてさらしを巻かせております」

「そうか」

 

 重傷者が居ないことに義頼は安堵した。だが転倒の理由が水兵の不注意か、砂の撒き方が悪かったのか、それは確かめなければならない。もし砂の撒き方が悪かったとしたら、戦闘の際に砲手がしっかりとした足場が得られない事になるからだ。足が滑って砲撃できなかった、というのは避けなければいけない。


「佐吉、また甲板に砂を撒いてくれ。信高、雪風に信号を送ってくれ。[被害報告送レ]」

「はい!」


 信高は大声で返事したので、義頼は思わず肩をびくつかせる所だった。周りも何事かと信高を見やるも、本人は気にした様子はなく――その余裕が無かったのかもしれない――、解読表を片手に覚束無い手つきで必要な旗を掲げさせた。雪風からは即座に信号が返ってきた。


「雪風から信号が来ました。えー」信高は信号旗と解読表を交互に見比べながら、ゆっくりと解読していった。

「[――雪風――被弾、怪我人――無シ]です!」

「うん、よろしい。良く見えたな」と、義頼は朗らかに言った。「掲げた信号旗を仕舞ってくれ」

「はい!」

「安泰、戦闘配置解除。当直の者以外は六点鐘まで休憩を取らせてくれ。軽い食事は許可するが、余り気を抜かぬようにな」


 そして、見張兵が三崎城と水路を監視し、船匠が破損した胸壁に板を打ちつけて補修している間、義頼は安泰と共に先程の砲弾について話していた。


「鉄ですね。大きさからして、こちらの百匁筒並みでしょうか」


 歪な球形である砲弾の重さを確かめながら、義頼は答えた。


「思ったより大きくないな。これなら殴り合いしても勝てる」


 恐らくだが、北条は手堅く数を揃える為に既存の鉄砲の発展形である大筒を量産したのだろう。どうしても口径は小さくなるが、鉄なら青銅よりも安く、耐久性もある。また衝撃に耐えられる砲車の開発をせずともあり合わせの台車で扱えるから、短時間で大量に配備すれば問題無いと判断したのだろう。


「でだ。安泰、喰いつくと思うか?」

「喰いつく筈です。かの城代は武辺者でありますゆえ」

 

 先の砲撃は撒き餌だ。北条を引っ張り出し、艦隊決戦を行うための餌。

 砲撃していたのはほんの僅かな時間だった。その間、砲撃したのは三度。二隻合わせて三斤の鉄の塊が三十六個だ。主郭に向けて撃ったとはいえ、三崎城の被害は大した事は無いだろう。

 

 だが、今までと違い、籠城しても長距離から城内を直接攻撃されたのだ。その衝撃はどれ程になるだろうか。それに、港に繋がれている軍船の存在。これが籠城という意思を鈍らせる。

 籠城すれば確かに時間を稼げるが、安宅や関船といった軍船は全て捨てなければならない。たった二隻の艦に敵わないと周りに知らせ、大金をかけて対里見に建造した軍船が全く使われずに壊されることになる。

 

 その決断を彼らができるか。義頼はできないと考えていた。

 この時代の武将は何よりも名誉を尊ぶ。そして、城代を任されている横井神助は三人張十三束の強弓を扱う猛将。後北条家二十将衆にも数えられ、三浦水軍を束ねる役割も任されている。氏康の代になると黄備えを任され、第一次国府台合戦において小弓公方・足利義明を射抜いたという。

 それ程の男が、たった二隻の艦に攻撃され、近海で悠然と佇んでいる艦を見れば弱気を見せる事も出来ないのだ。

 

 こっちにしてみれば、艦隊決戦を行えればまず勝てる。唯の安宅の装甲ではこちらの艦砲を防ぎきれないし、百匁筒程度の砲弾ではこちらの艦を貫通できない。死ぬ気は無いが、仮に何か不都合があって春風や雪風が撃破されても相手も大損害は免れない。現在、館山湾で待機している乙型四隻からなる艦隊の攻勢を防げない。


 もし喰いつかなくても、それはそれで構わない。再突入して港に繋がれたままの安宅や関船を燃やすなり、回収するなりしてしまえばいい。そして里見水軍の全力出撃で強襲すれば制海権を失った三崎城に防ぐ手立てはない。

 どちらにせよ、目的である「三崎城の制圧」は達成できる。こちらは待っているだけでいい。

 

 待機している間、空はすっかり明るくなり、波風もやや弱くなり始めていた。その間、義頼と安泰は艦尾甲板の上に床几を置き、そこでさざ豆入りの赤飯の握り飯を頬張り、温かい麦茶を飲んで英気を養う。当直の者も交代して朝食を摂っていた。


「水路より敵艦隊! 大型四隻に、中型四隻! 三浦水軍だッ!」


 喰いついた! 

 義頼は残っていた麦茶を一息に飲み干すと、即座に命令を下した。

 

「安泰、総員戦闘配置。やるぞ」


 さあ、艦隊決戦だ。それを前にして気分が高揚しているのは分かっているのだが、妙に頭だけがすっきりしていた。


「はい。総員戦闘配置、急げ!」


 水兵達が整然とした動きで転桁索(ブレース)を引っ張り、帆が張り直す。右舷一杯開き(クロースホールド)。艦は風上に切り上がり、再び動き始めた。


 三浦水軍に接近する。見れば、安宅四隻を前面に出し、その後ろに関船を配置していた。

 三浦水軍が押し出した安宅は今までの和船では考えられないほどに重武装であった。船体とほぼ同じ長さの二重の矢倉は見るからに分厚い板材で出来ており、五十の櫓が整然と動いていた。そして大筒を五門装備しており、矢倉の上には鎧武者がひしめき合っている。動きはやはり鈍いが小回りが良く効き、巨体であるから安定性も高い。和船の中でも、強力な軍船である事は間違いなかった。


「下手回し用意!」安泰が怒鳴った。「砲手ども、砲撃準備! 敵艦隊が照準に入るまで撃つなよ!」


 二隻は灘ヶ崎を舐める様に大きく回頭し、水路から直進してくる三浦水軍に横っ腹を見せた。

 丁字になると同時に、一番砲が発射された。傍についていた砲術長が砲列を歩いて次々に号令を出していった。雪風も同様に砲撃を行った。義頼の眼でも、前面にいた安宅から木片が舞い上がったのが分かった。総矢倉に当たったようだ。

 

 しかし、撃沈は一隻も無い。百五十間は距離が離れていたし、時化の影響で艦の動揺が大きい所為だろう。全弾命中にはならなかった。また喫水線下には命中しなかったようで、水夫を幾らか殺傷した程度で巨船である安宅を沈めるには足らなかった。 

 いや、効果はあったようだ。命中した安宅が一隻、航路から逸れて座礁したのが見えた。漕ぎ手がやられた事で上手く進めなくなったらしい。残りは安宅三隻に関船四隻。


「そら、測鉛手、ぼさっとするな! 水深を測れ。操舵手、下手舵一杯」


 安泰が号令をかけると、歓声を上げていた水兵が己の仕事を思い出し、慌てて取り掛かった。索を引き、帆の向きが変わった事で幾らかばたついたが直ぐに風を受けて膨らみ、航跡が曲線を描く様に残っていた。

 同時に、三崎城と安宅からの砲撃が降り注いだ。周りに小さな水柱が立ち上る。突如、下からゴンゴン、と鈍い音が数回上がった。


「なんだ?」


 聞き覚えの無い音に義頼は訊ねると、信高が確認してきますと艦内へ入っていった。信高は直ぐに戻ってきた。


「船匠長によれば、玉が数発、艦に当たったようです。穴は空いておりません。ひずみが出来た程度とのことです」

「そうか」義頼は堅苦しい態度で答えた。同時に、艦が設計通りの防御力を見せた事に内心ホッとした。「安泰、左舷一杯開きにしてくれ」

「はい」

 

 一杯開きになり、春風が傾斜する。外界に出ると更に強まり、春風は夜明け前よりマシになったとはいえ、時化の影響で前後左右に揺さぶられていた。


「速度は六節を記録しています」佐吉が言った。

「緩めてくれ。三浦水軍を追従させるようにな」

「了解。上帆を畳帆。縦帆も二段絞帆します」


 水兵がスルスルと駆けあがっていくのを横目に見ながら、義頼は後方の三浦水軍の様子を確かめた。こちらを追従しようと懸命に大櫓を規則正しく動かしていた。櫓の回転も速い。一気に速力を上げて接近する腹なのだろう。

 安宅で相手の攻撃を受け止めつつ砲撃し、快速の関船で強引に接舷。そして斬り込むというのは間違っていない。


「だが、それは内海での話だ。これでは唯の餌だぞ、北条よ」


 義頼はニヤリと笑うと同時に、三浦水軍に異変が起きた。灘ヶ崎より前に出ると同時に、船の行き足が目に見えて落ちたのだ。

 

「やりました! 三浦水軍は停止。櫓が波に取られて動けなくなっています!」

「操舵手、転舵! 三浦水軍に接近するぞ!」


 即座に義頼は号令を出した。狙いが上手くいったことに笑みを零していた。

 そもそも和船は喫水が浅く、近海での使用を前提とした船。その中でも軍船、特に関船や安宅といった大型船は全周に張り出す矢倉と乗り込んだ兵の影響で重心が高い。しかも鉄の塊である大筒と砲弾を大量に載せている。

 そこに、今まで城ヶ島で防がれていた波風が三浦水軍に一気に襲い掛かったのだ。櫓が波に取られ、大きく揺さぶられるのは当然の結果だった。


 回頭を終え、春風と雪風の二隻が三浦水軍に向かって突進している間も、安宅や関船は自由に動けず波に流されていた。よくよく見れば、関船が一隻転覆して海に飲まれていた。

 

 放っておいても自滅しそうだが、それでは戦果にはならない。

 春風と雪風は別々に動き、片舷斉射で一隻ずつ仕留めていくことになった。

 英国では帆船時代、片舷斉射をするのに理想的な距離は<ピストルの射程>と言われていた。つまり、十間(十八メートル)ほど。そこまで近づき、斉射すれば安宅と言えど撃沈は免れない。

 春風が手近な安宅に近づくいても、敵は攻撃すらしてこなかった。風上に居るので声は全く聞こえなかったが、誰もが狂乱し、慌てふためいているのが何となく分かった。


「左舷、砲撃用意! たっぷりと挨拶してやれ!」


 安宅と春風がすれ違ったのと同時に斉射。すぐさま硝煙が風で千切り飛ばされると、根元に大穴を空けた総矢倉は大きくぐらつき、悲鳴と叫び声と共に上部が騒々しく音を立てながら海へ崩れ落ちた。


「あれはもう沈んだ! 次だ、次を狙うぞ! 操舵手、面舵!」興奮で顔を真っ赤にした安泰が咳き込むように言った。

「そぉら、敵はもう案山子だ。撃ち続けろ!」


 また閃光と砲声。それが間断なく続く。これに銃兵の射撃音と砲を載せた台車が動く音、各班長の号令が入り混じって聞こえていた。次に近付いた安宅では、破損した矢倉から櫓を動かそうと足掻いている赤裸の水夫が見えたが、その瞬間には砲声が起き、硝煙で視界が防がれてしまった。再び見れば、水夫は矢倉ごとごっそり消し飛んでいた。


 春風は城ヶ島に近づいていた。佐吉はこの狂騒の中でも淡々と指示を出し、信高も興奮で顔を真っ赤にしながらどうにかやっていた。

 義頼が次の号令を出すべく拡声器を口に当てようとした瞬間、右舷から何か光った。直後、木が引き裂かれる音と砲弾が転がる音、そして負傷した者の悲鳴が妙にはっきりと聞こえた。

 

「取舵一杯! 佐吉、帆を右舷開きにしてくれ!」

「了解」

 

 当たったのは右の舷縁だ。それなら問題はない。帆を繋ぐ索具と支索を吹っ飛ばされ無ければ艦は動かせられる。いたのは関船だ。ある程度回復したらしく、また一発、砲を撃って来た。ゴン、という音がしたから、今度は艦尾舷側に命中したらしい。損傷無し。

 

「右舷、砲撃よぉーい!」


 号令により、砲手たちは先の砲撃を浴びせてきた関船に照準を合わせた。


「撃てぇ!」


 安宅よりも脆弱な関船は、艦首から掃射されてただの残骸へと成り果てた。人が吹き飛んだ関船はそのまま波に流され、後ろにいた僚艦である関船へとぶつかった。引き裂くような衝突音に続けて、砲声が響いた。回り込んだ雪風が砲撃したのだ。

 訳の分からない残骸となった二隻は、そのまま波間に呑まれて転覆。白木の船底を見せて漂うことになった。


「面舵少々」


 春風は、砲から火を噴きながら右に艦首を向けた。これで十分。


「当て舵! 舵中央」


 残りは一隻ずつ。安宅には雪風が向かったから、後は目の前の関船のみ。

 大きく波に揺さぶられている関船はこの絶望的な状況の中でも、一矢を報わんと待ち構えていた。矢倉から大筒を突き出し、その上には弓や火縄銃を持った水夫が構えている。

 降伏は、しないようだ。


「砲撃用意」


 義頼の号令と共に、春風は波を砕きながら直進する。

 艦上が奇妙な静けさと緊張に包まれる中、遂に春風と関船が横並びになった。


「放てェ!」

「撃てェ!」


 互いに号令が発せられた。関船からの小さな炸裂音をかき消すような片舷斉射が、全てを圧した。目が砲火と硝煙で眩んだ中、耳には悲鳴とバチバチ、という音が聞こえた。

 硝煙をかき分けて見れば、甲板や帆には幾つかの矢が突き刺さっており、数名の水夫が血を出して倒れていた。呻き声がする。まだ生きている。


「誰か、直ぐに治療を!」


 そこで、はっと気づく。

 敵船、関船は?

 辺りを見渡せば、矢倉を半ばから失っていた。関船はグラグラと揺れ動きながら崩れていき、そのまま沈んでいった。

 一瞬、静かになった。そして、大歓声が起こった。硝煙で顔を真っ黒にした兵が甲板を踏み鳴らし、互いに肩を叩き合ったりと生き残った事、そして勝利に沸いた。


 ホッと、息を吐く義頼の下へ、安泰がやって来た。


「勝利、おめでとうございます」

「うん、ありがとう、安泰」


 お互いに敬礼しながら、硝煙で真っ黒にした顔に小さく笑みを浮かべた。

 

 この海戦により、三浦水軍は壊滅状態となった。

 城代の横井神助は行方不明、また三崎十人衆も多くの死傷者を出した。

 これにより、守る将兵の居なくなった三崎城は降伏。勢いに乗った里見水軍は支城である新井城も制圧。また乙型四隻を率いる正木時忠により、浦賀城の三浦水軍を撃破。北条は浦賀水道の制海権を完全に喪失してしまった。

 

 両城には里見義舜と正木時茂率いる軍勢が上陸し、ここに三浦半島南端を占領下に置くことになった。


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