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第23話 風魔の忍び

ようやく投稿です。楽しんでいただけたら幸いです。

 

 暗闇の中を、音も無く駆けていた。

 動きやすそうな柿渋で染めた野良着を纏い、男は館山の町を調べていた。

 

 男は、忍びであった。

 

 最近になって北条に雇われ、「館山に侵入し、有用なものを盗み出すこと」との任務を受けていた。

 当初は漠然とした任務に皆が首を傾げていたが、安房国に入国してからはその意味が良く分かった。


 ここ、館山は何もかもが異質すぎた。

 忍びらは妙な感覚を味わいながら、情報収集を進めていった。


 そして、この日の夜、彼らは行動を起こした。

 夜、館山の町の灯台には篝火(かがりび)が焚かれ、龕灯(がんどう)を持った警邏が巡回していたが、何のことは無い。今日は新月。ちっぽけな灯りでは辺りを見渡すことは出来ないし、兵が来ても息を潜めればやり過ごせられる。風魔忍軍が里見方に鞍替えしたと聞いていたが、今のところ動きが無い。大したことは無さそうだ。

 

(楽な仕事よ)


 思わずそんな思考が混じる。

 既に仲間が各所に潜り込んでいるのだ。仲間が町に残していた符丁では、任務は順調で何も問題は起きていない。仲間は造兵廠とかいう生産拠点と武具の保管庫に、男は造船所に侵入することになっていた。聞けば、この造船所には安宅より巨大な軍船の設計図があるという。これを盗み出すのが男の役割であった。 


 男は造船所に辿り着いた。門は堅く閉ざされており、入ることは出来ない。少し視線を上げる。換気用の格子窓があった。

 男は軽く助走をつけて壁を蹴って格子窓に飛びつき、そこから中へ侵入した。

 造船所の中には誰もいなかった。中央には建造中らしい軍船があった。その後ろの隅に、間仕切りで囲われた部屋があった。恐らく、ここだろう。

 男は部屋に入り、棚の中身を片っ端から床にぶちまけ、中身を確認していく。

 暫くして、緻密な船の図面を見つけた。これだ、間違いない。

 男は見つけた設計図を根こそぎ掴み取り、乱暴に畳んで懐に入れ、外に飛び出した。

 よし、これで―――、


「夜分に、なにか御用ですか?」


 振り返ると、暗闇の中に男が居た。酷く見えづらいが、腕を組んで立つ男だ。

 御庭番頭、風魔小太郎である。左腰には脇差を帯びていた。


「折角、此処まで来られたのです。手ぶらで返す訳にもいけません。是非とも、我らの饗応を受けていただきたい。――北条の忍び殿?」


 瞬間、男は手早い動作で手裏剣を二つ打った。

 

「ふむ……」


 小太郎はひょい、と眼前に迫った手裏剣を摘み取った。棒手裏剣だ。五寸釘を加工したものらしい。作りも鉄の質も悪くなく、良品である。

 そう小太郎が鑑定している間にも、男は遠くへ遁走していた。

 小太郎は男を一瞥し、小さく呟いた。

 

「遅いなァ」


 瞬間、小太郎の姿が土煙と共に消えた。

 

(え、風……?)


 後ろから男の身体に疾風が駆け抜けたと思った瞬間、目の前に小太郎が現れた。


「お客人、どうされましたか?」

「クッ……!」


 即座に腰板から山刀(さんとう)を引き抜いて、小太郎に向かって突進した。笑みを浮かべたまま動かない小太郎に、男は山刀を横薙ぎに払う。

 斬った。そう男が思った瞬間、小太郎の姿はフッ、と消え去っていた。

 

「なッ……」

「せっかちなお客人ですね」


 男の後ろに立った小太郎は明るい声で言うと、男の山刀を握ったままの右腕がぽとり、と地面に突き刺さった。

 遅れて、男は悲鳴を上げた。

 小太郎の手には、血塗れた脇差があった。


(いつ斬ったのだ、この男は! まさか、こいつは――!?)


 正体に気付いた男は腕を押さえながら再び遁走しようとする。


「おお、そうでした。忘れ物ですよ」


 再び激痛が走り、男は勢いよく倒れこんだ。見れば、己の両脚の筋に手裏剣が深く突き刺さっていた。

 己が投げたはずの、棒手裏剣だ。


「ぎ、様は、ふう゛ま小太郎……」


 脂汗を浮かせて、男は小太郎を睨み付けた。小太郎は口元を吊り上げて嗤っていた。だが、男が次の動きを見せないことから、失望したような表情になった。


「なんだ、もう動けないのか?」


 つまらん、と小さく溜息をついて、まるで枯れ草を刈るように脇差を振るった。同時に男の頸が素っ飛び、残った胴体から勢いよく血を噴出して辺りに撒き散らす。

 小太郎は懐から懐紙を取り出すと、脇差を拭い、納めた。男の亡骸から餌として置いといた偽の設計図を取る。そして冷徹な声で言った。

 

「一の組頭」

「ここに」


 暗闇の中から、初老の忍びが現れた。


「そちらはどうだ」

「一の組は三人、始末しました」

「ふん、今日だけで六人。我らと里見方に対する報復か」

「恐らくは」


 どうやら北条も落ち着いてきたようで、里見方、特に館山に忍び込む輩が多くなっていた。

 この忍びらは入国してから暫く経ってから行動を移していた。恐らく、かなり広範囲に技術や知識が目的なのだろう。ここは物流と生産の一大拠点として大きく発展している。御庭番となった風魔たちも防諜のため忙しく働いていた。


 だが、以前のように嫌々働いている者はいない。

 風魔にとってここ館山は、いや、安房国自体がまるで浄土のようだった。


 田畑を見れば、真っ直ぐに田植えされた稲はしっかりと育ち、秋には信じられないほどたわわに実った稲穂が揺れ動いていた。

 海を見れば、何とも奇怪な船が風上を走り、銀色にきらめく魚を大量に獲っていた。

 町を見れば、豊富な物品で溢れかえっており、そこいらの町人ですら良い服を纏い、忙しそうに働いていた。


 治安は信じられないほどに良く、二本差しの上等な服を着た武士が街路を巡回しており、困り顔の老人や親とはぐれたらしい泣き叫ぶ子供にもにこやかに笑いかけ、丁寧に対応していた。

 そして町の高札場には武士が週に一度、瓦版と言う紙を貼り付け、それを読み上げていた。時折町人らが茶々を入れて、それを言い返す武士に大きな笑いが起きる。

 武士は全く偉そうに振る舞う事が無いのだ。かといって侮られることも無く、頼られる存在となっていた。

 戦乱の世だというのに、この国では誰もが日々を明るい笑顔で過ごしていた。


 風魔たちもこの恩恵を受けていた。

 与えられた嶺岡山地は人が少なく、静かに暮らせられる場所で昔のままの暮らしでも食べていけれる。銭が欲しければ稼ぐ方法を紹介してくれる。その給与は北条と違って悪くない。また仕事中は衣食住全てが用意される。仕事は交代制のため、大変という訳でも無い。交代する際に貰った給与で里見家が販売する農具や工具、米や麦といった食料から麻や木綿といった布、交易で得られた珍品を持ち帰ったり、中には貰った給与全てを酒に費やす者もいたが、今までよりも楽しい暮らしが出来ていた。


 そして、風魔たちにとっては久しぶりの――いまの現役の者らには初めてかもしれない――友人と呼べるような存在もできていた。友人となった彼らの多くは足軽で身分が低いのもあるだろうが、気さくで互いに酒や飯を奢ったり、手助けするような仲になっていた。


 ようやく手に入れた、早雲時代以来の幸せ。

 それを邪魔するというなら、元雇い主といえど容赦はしない。


「侵入した忍びは全て殺せ。老若男女、例外無く、だ」

「ハッ、分かっております」組頭は頷いた。そして、忍びの死体を指差す。「これ、どうしますか?」

「いつも通りに処理しておけ」

「ハッ……」


 いやまて、と小太郎は言った。穏やかな口調だが、その顔にはひどく卑しい笑みが浮かんでいた。


「塩と桶を持ってこい。それと廻船屋に渡りをつけろ。北条様に献上するものがあるとな」



 相模国、小田原。

 夜明け前、北条氏康は居館にて一人朝食を摂っていた。

 玄米飯に山菜のたっぷり入った味噌汁、あとは魚の開きと梅干。この時代では中々に豪勢な内容であった。

 食べ終えた後、氏康は清酒の入った瓶を取り、杯に注ぐ。最近、氏康が気に入ってよく飲む酒であった。


「……うむ、やはり美味い」


 杯の酒を一息に飲み干し、ほう、と満足したような息をもらした。

 仇敵の里見家が販売している酒だが、悔しいことに美味い。こういうスパッと切れるような辛口の酒は北条の領国では生産されていないのだ。


 戦が手打ちになった際、戦国大名は相手に特産品を送ることがある。北条は主に蜜柑を、里見は鯨肉を送るようになっていた。

 この酒も、先の戦が手打ちになった際に送られてきたものだった。

 この時代の酒といえばどぶろく、また清酒と呼ばれるものは味醂のような酒で口当たりの甘い酒が多く、辛口の酒は滅多なことで手に入らなかった。

 これを炙った鯨肉を齧りながら一杯やるとまた美味いのだが、つい深酒になってしまうので氏康は鋼の精神力で自制していた。


 さて、もう一杯、と杯に酒を注いでいると、外に居た取次ぎの男が声をかけた。

 来客だった。名前を聞いて僅かに片眉を上げた。風魔がいなくなったため、再編した忍びを束ねる者だった。


「お、御屋形様……」怯えたような顔で忍び頭が言った。

「なんだ、忍びからの報告か?」

「い、いえ。いや、はい……」

「なんだ、煮え切らない態度をしおって」


 忍び頭は意を決した顔で、盆を氏康の前に差し出した。


「ふ、風魔からの書状です」

「…………なに?」

  

 氏康は乱暴に掴み取り、広げた。書状からは、すえた臭いがした。



 氏康様の朝方の酒の肴に、特別な塩漬け肉(・・・・・・・)をご用意致しました。

 どうかお納め下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。


        里見家御庭番頭 風魔小太郎より

                 北条氏康殿へ



「これは?」書状を読んだ氏康が言った。

「そ、それが、安房国へと向かわせた忍びのことかと……。今朝、全員が、首級となって帰って来ました……」

「――おのれ、風魔がッ! 虚仮にしおって!!」


 忍び頭の言葉を理解するや否や、氏康は盛大に悪態をついた。怒りのあまり、目は赤く染まり、蟀谷(こめかみ)に青筋がはっきりと浮き上がっていた。

 一通りの汚い言葉を吐き散らしたところで息が切れたのか、荒い息を落ち着かせるように深く息を吸いこんだ。


「…………潜り込ませた忍びは、確か、腕が良いと評判だった筈だな」唸るような声で氏康が言った。

「ハッ、今川や武田の城の見取り図などを調べ上げたこともある者共でした……」


 手練の忍びですらやられる風魔の技量。誰もがこれほど差があるとは思いもよらなかった。

 

「……ここは一旦、引くしかあるまい」

「よろしいのですか?」

「損害が多すぎる。これ以上は今後の活動にも支障をきたす」


 内心の怒りをどうにか押し隠しながら氏康は言った。


「里見は後回しだ。最低限の人員を残して上野国と常陸国に向かわせよ」


 そう命令を下し、忍び頭を下がらせた。


 再び一人になるや、氏康は溜め込んだ怒りと疲労を吐き出すかのように溜息をついた。

 今と昔では、何もかも違いすぎた。


 里見家の躍進に、各地の反北条勢力の活発化、越後長尾家の関東乱入。

 特に反北条方である上野国の山内上杉氏、古河の関東足利氏は里見方から支援を受けており、また徹底的な焦土作戦で対抗しており、乱暴狼藉は凄まじいものがあった。

 これらにより、北条軍は通常では考えられないほどの損害が出てくるようになっていた。

 

 だが、北条方の勝利は揺ぎ無かった。


 そもそも、元々の才覚と地力が違うのだ。氏康は無茶はせず、占領した拠点の防備を強化して自身の勢力圏に組み込み、圧倒的な兵力と調略を持って反北条の切り崩しにかかっていた。

 今も粘り強く戦っている山内上杉氏、関東足利氏らも、流石に兵となる百姓に嫌われてはどうしようもなかった。少しずつ勢力を削り取られていった。


 北条は勝ってはいる。

 だが、膨大な負担の所為で氏康ら評定衆はちっとも喜べずにいた。むしろ焦土作戦の所為で民の慰撫やら拠点の再建にかかる費用を見て、誰もが直ぐに撤退したいと考えていた。

 だが、勝っている状況で、しかも弱っている民を放置して撤退などできる筈も無かった。

 

 氏康は少しでも気を紛らわすために酒をもう一杯だけ飲み、そして本日の政務に取り掛かった。


 小田原へ昼夜を問わず届いてくる報告は氏康の身体を蝕み、史実以上の疲労とストレスが襲い掛かっていた。



 後日。


「小太郎よ、出来ればやる前に相談のひとつは欲しかったんだけどなァ」


 執務室で茶を淹れながら義頼は言った。人払いしたため、部屋には義頼と小太郎しかいなかった。

 机の上には、民衆からの陳情――夜中に悲鳴が聞こえた、朝起きたら道が血塗れになっていた、新しく雇った者の行方が分からない、等々――があったのだ。

 それを報告に来た小太郎に訊ねた所、「忍びだったので始末しました」と笑顔で言われたのだ。

 思わず義頼は頭を抱えてしまった。


「深夜、それも緊急時でしたので即座に仕留めるのが良いと判断しました」

「だろうな。だが、もし目撃者がいたらどうする?」


 今回はまだ良い。だが、他に目撃者がいた場合、それを知らなければ善良な民が理由も無く殺された、と思われかねないのだ。

 小太郎は「その時によります」と答え、笑みを浮かべて差し出された茶を飲んでいた。


「まあいい」と、義頼は溜息をつきながら言った。机に湯呑を置き、義頼の眼が小太郎の眼を捉える。

「今度からは直ぐに連絡してくれ。そしたら此方からも対処する。風魔の活動に非が無い場合、庇う事も出来ないからな」

 

 小太郎は義頼の大きな瞳を直視したままでいた。

 嘘は言っていない。例え、己の評判が落ちるとしても庇う。その言葉通りの意味である。

 忍びを庇うと言われ、小太郎は昔の事を思い出した。幼少時、早雲様に会った時の事だ。あの時も似たような事を言われたのを思い出し、不思議な気分になった。


(やはり、この方はたらしだ)


 そう考えていた小太郎は、今も義頼の顔を見つめたままだと気付いた。


「はい」と、小太郎は答えた。

「うん、気を付けてくれ」義頼は笑みを浮かべ、再び茶を飲み始めた。

「この件については分かった。どうだ、交流の方は?」


 里見家は以前から歩き巫女や行商人など、独自の情報網がある。

 風魔が合流したいま、何度か交流を行い、お互いに持つ技術や知識を見せあい、研鑽するよう命じていた。


「順調そのものです。しかし、驚きました」小太郎は言った。

「情報網の事か?」

「いえ。それもありましたが、歩き巫女の方です」小太郎は答えた。「巫女らの自分の魅せ方、ちょっとした仕草や目線の使い方が巧いですな。こちらも何人かはコロッとやられていましたよ」

「ハハハ、そうか……」


 義頼は乾いた笑いを零した。現代のエロ知識を教えるためにと、教えに行っていた事を知っているからだ。

 怪訝な表情を浮かべていたが、直ぐに報告を続けた。


「それと上野国ですが、こちらの思惑通りに動いています」

「そうか。まあ、北条にも少し苦労してもらわないとな」


 里見家にとって、関東管領や古河公方は少しでも北条の圧力をかわす為の存在である。その血筋や権威は魅力的だが、今の状況では何の役にも立たない。


 だが、何もしなければ史実通りに北条に取り込まれてしまう。だから一応の支援と、忍びを派遣して反北条方の兵に乱暴狼藉をさせるよう仕向けたのだ。


 乱暴狼藉、つまり乱取りだが、特に撤退する時に根こそぎ食料と金目の物を奪い、家を焼き、田畑を潰し、井戸に毒(糞尿)を投げ込ませていた。

 当然ながら転生者、特に現代人だった者からは「やりすぎではないか?」という声も上がったが、少しでも上がる自国の安全と、遠国の民のどちらを選ぶかとなれば、前者しかなかった。


 元々、関東管領や古河公方は権威はあるものの、百姓にとっては何も関係が無い。ただ強い方に着く、それだけだ。そのため有力な者は勝利を重ねる北条方につき、反北条方には無法者が多く集まっていた。

 ある帰還した忍び曰く、「元が無法者が多かったので、乱取りするように仕向けるにはさほど苦労はしなかった」という。


 ここまで過激な乱取りを行えば、まず百姓には嫌われる。だが、現地調達が普通のこの時代では非常に有効な手段となる。

 調達予定の村が焼けて、衣食住を失って弱りきった民しかいなければ、何処からか物資を持ってこなければならない。そして小荷駄隊を編制するには物資の輸送には大量の人夫と馬を雇う必要があり、またこれらを狙って襲い、物資を手に入れるなどもすれば北条には大きな負担となる。


「ただ、もう限界だろうな。派遣した忍びは巻き込まれる前に撤退させろ」


 そう言って、義頼は居住まいを正した。小太郎も湯呑みを置き、背筋を伸ばした。


「小太郎、人を増やす事は可能か?」

「人、ですか」

「そうだ」義頼は言った。「孤児や難民などを峯岡牧に住まわせ、将来の忍びや騎兵として育成して欲しい」

「孤児や難民」それを聞いた小太郎の眉が一瞬、痙攣した。「ちなみに、どれほどの人数ですか?」

「……今回は(・・・)、今の倍だ」義頼は正直に言った。


 これを聞いた小太郎は直ぐに理解できた。


「……ああ、成程。まあ、疑念の通りでしょう」小太郎は静かに言った。「提案を受け入れましょう」

「すまない」


 義頼は頭を下げた。無茶なことを言っているのが分かるからだ。

 

 この提案は元々、父・義堯の発案によるものだった。

 騎兵の育成と情報網の拡大、確かに目的のひとつではあるだろう。実際、三兵戦術を完成させるには騎兵が大量に必要になる。


 だが、最大の目的は、風魔を忍びのままにしておくためだ。

 

 忍びは元々、山地で農作物があまりとれず、目ぼしい産業が無い地域に多く見られる。

 風魔の生活様式もあるが、足柄山も耕作に不向きな場所である。

 となると、食っていくためには他で働かなければならない。彼らに残されるのは人と情報、つまり忍びとしての働きである。

 

 では、里見家が用意した土地はどうか?

 峯岡牧は広大だが、辺鄙な山岳地帯であり、農業のしづらい場所である。

 つまり、米や雑穀、塩といった食料はどこかから購入しなければならない。自給自足が出来ない場所でもあった。

 現在、風魔たち山の民は軍馬の育成をしつつ、獲れた獣肉、馬糞を肥料にするなどで稼いだ銭で食料を購入すると、今の状況では一族全てを賄うにはギリギリである。

 

 だが、山岳部というのは安定して資源が取れる場所だ。

 今までは人が寄り付かない場所であったが、人口の増加と取れる素材の需要の高さ、何より賦役による道路整備により山岳部の開墾が進み始めていた。

 山林の下草は堆肥に、木は木材と薪に、山菜と栗や団栗といった木の実は食料になり、安定した収入が確保できた。

 これに加え、将来的には良質の軍馬も育成され、風魔の生活は豊かになるだろう。

 すると、今の里見家の百姓が生活が豊かになったことで危険な戦場に行く必要が無くなったように、危険な忍び働きを辞めてしまう可能性があった。


 それを防ぐための移民であり、御庭番という役職であった。現在、会合の面々が忍び働きだけでも出世できるような制度の整備を進めているが、まだ時間がかかる。

 その間に風魔が普通に生活出来るようになったから忍びを辞めた、では困るのだ。


「確かに、忍び働きを辞めて土着しようとする者、騎兵になろうとする者もいます。ですが、今の我らの生活も裕福という訳ではありません」

「分かっている。初期費用は此方で出す。それと、硝石丘の製法を開放する」

「よろしいので?」小太郎は驚いたように訊ねた。

「軍馬には玉薬の音に慣らしておきたい。それに、生産地を選ぶと風魔たちにしか頼めない」


 硝石は輸入品が良いのだが、関東からは遠すぎた。だから自国で生産できる硝石丘はいくらあっても足りないという状況だった。

 しかし、秘匿するため生産できる場所は選ばなければならない。となると、材料が手に入り、警備が厳しい場所となると風魔のいる峯岡山地しかなかった。


「となると、受け入れるのは子供、出来れば孤児が良いですな。秘匿の問題、そして大人だと我らの風俗には中々馴染むことが出来ませんゆえ。それと子供らを育てるための住居も建てて頂きたい」

「手配する」義頼は答えた。「すまないが、よろしく頼む」

「はい。こちらも引き受けた以上、きっちりとやらせて頂きます」


 それは頼もしい、と義頼は言った。そして、小太郎の姿を見やった。


「ところで、小太郎の獲物はそれだけなのか?」

「ええ、まあ、そうですが」


 小太郎の服装はいわゆる、忍び装束である。

 この時代の忍びは野良着が普通であった。これが一番目立たず、動きやすいからだ。

 風魔たちも野良着であったが、山岳部に対応するために皮製の物であり、房総半島では目立つ服装なのだ。

 そこで忍びらの意見を取り入れ、陸軍の軍装を流用したのがこの忍び装束であった。通常の軍服と同じく柿渋で染められ、上衣の袖や洋袴の裾は動かしやすいよう窄まっている。そこに腕全体を覆う長手甲と巻き脚絆(ゲートル)、牛皮を貼った地下足袋を履いている。

 服の各所には手裏剣などの暗器を忍ばせられるようになっていたが、小太郎は左腰に差した塗りの剥げた一尺二寸の脇差しかなかった。


 この脇差は由緒ある品でも特注品という訳でもなく、昔、戦場で拾ってからずっと使い続けているものだ。そのため刀身がすっかり磨り上がっている。

 普通ならば、手に入れた鉄で各自で好みの武具を作るなり、手に入れた武具を調整したりする。自分の命を預ける武具なのだから当然の事である。

 しかし、小太郎は適当だ。今は脇差を帯びてはいるが、いつも手ぶらで戦場に行っては適当に拾った武具で戦うことが多かった。それに石を拾って投げつけるなり、竹や木の枝でもあれば十分だと考えていたので、武具にさほど好みが無かったのだ。

 

「そういう理由か」呆れた表情で義頼は言った。

「なるべく良い物を持っていて欲しいんだが。そうだな、それなら問題もあるまい」


 一人納得すると義頼は立ち上がり、棚から桐の刀箱を取り出してきた。


「御庭番という新設の役職だが、見栄えは良い方が何かと便利だ。なので、これを用意した」


 箱から出てきたのは、太刀と脇差であった。柄は藍染の鹿皮が巻かれ、鞘は黒漆仕立て。

 小太郎は恐る恐る刀を手に取り、静かに抜き放った。太刀の刃渡り二尺、重ね三分。そりは浅く、直刃で刀身はぼんやりと薄く青みがかっている。

 片手でも扱え、錆びにくい。刺突に適しており、切れ味より頑丈さを優先したためどんなに殴りつけても折れにくく、曲がりにくい。武具としての実用性だけを考えられた刀であった。


 小太郎は軽く振ってみる。ずしりとした重みはあるが、よく手に馴染む。重心の配分が良いのだろう。今まで自分が使ったことのあるどの刀よりも使いやすそうだ。


「……良い刀ですな。名匠のものですか?」

「いや、量産品。数打になるか。水軍用にと生産されたものだ。まだ全員に行き渡るほどでは無いけどね」

「なんと」


 数打、と聞いて小太郎は驚いた。

 しかし数打物とは言っても、そこいらの粗悪品とは全く違う。

 

 この時代の武具は原料や匠の技量、そして使う道具が個人任せであるため品質のばらつきが大きい。

 そのため、実元の主導で「規格・品質の均一化」を進めていた。

 といっても、近代のような寸分違わず同じ物を作れるだけの技術はまだ無い。だが、ある程度は同じにすることは可能だ。

 角炉が稼働し始めたことにより、従来のたたら吹きよりも同じ品質の鉄を大量に生産することが可能になった。刀の場合、出来上がった鉄を水車動力の大槌(ハンマー)を使って鍛え、設けた規格と耐久検査に合格しなければ刻印を押して出荷することは出来ないため、一定の品質を保つことに成功していた。


「本来なら名刀でも用意すべきなんだうが、良いのが全く無くてな」

「いえ、己には十分な刀です。有難うございます」

「そうか、なら良かった」刀箱の包みを戻し、義頼は言った。

「では、小太郎の働きに対し、これを与えるとする」

「はッ、有難うございまする」


 恭しく小太郎は刀箱を受け取り、心持ち嬉しそうな表情で館山にある屋敷に持ち帰った。

 暫くの間、風魔の頭領は機嫌が良かったという。



 そして、事態は動く。


 天文二十三(1554)年三月。


 この日、三浦に潜入中だった忍びから緊急報告があった。


『三浦城、浦賀城の三浦水軍に動きあり』


 それは史実よりも二年以上早い、三崎三浦沖海戦の始まりであった。


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