閑話1
活動報告に上げていた小話その1、2を纏めたものです。
短いですが、楽しんでいただけたら幸いです。
1,ある女工の一日
ふと、肌寒さを感じて目が覚めた。
まだ夜明け前のようで、部屋の中は真っ暗である。寒いわけだ。布団がずれて半身が出ていた。まだ寝る時間はある、そう思って布団を被りなおして寝ようとすると、もよおして来た。
小さく溜息をついて、同居人を起こさないようにそっと布団から抜け出し、掛けておいたどてらを羽織って外に出る。
故郷で見た空と変わらない、綺麗な空だった。空は紺色で、海に向かうにつれて白く輝いていた。そして足早に長屋の端まで行き、そこにある惣後架で用を済ませ、終わった後には箱からひと掬い、下の壺へおが屑を入れておく。
部屋に戻ると、灯りがついていた。同居人の妙さんが起きてしまったようだ。
「ごめんなさい、起こしましたか?」
私が草鞋を脱ぎながらそう言うと、妙さんは笑って答えた。
「いいよ、私も肌寒くて起きただけだから」
そう言いながら、火鉢の中を火箸で掻いて、灰の中から炭を取り出していた。火は絶えていないものの、すっかり弱くなっていた。
「お茶淹れるけど、飲む?」
「飲みます」
「じゃあ、土瓶にお水をお願いね」
私は土瓶を受け取って、土間の水瓶から水を汲んで入れた。
妙さんは点火器を取り出してカチン、カチンと打ってもぐさに火をつけ、それを付け木に移して火鉢に投げ入れた。そして小さな炭を追加して、火鉢に五徳を差し込んだ。
「はい、薬缶です」
「ああ、有難うね」
薬缶を受け取った妙さんは五徳の上に置き、お湯が沸くまで暫く待つ。
「慣れた? ここでの生活は?」
「はい。ですけど……」
「不安かい?」
妙さんの言葉に私は小さく頷いた。
「大丈夫だよ、ここの連中は決まりに五月蝿いようでね」
妙さんはそう言うと、くつくつと笑い出した。思い出し笑いのようだ。
「前に私らにちょっかいかけて来た海賊がいたんんだけどね。直ぐにお偉いさんがすっ飛んできてそいつを叱り飛ばした挙句、私らに謝ってったんだ。迷惑をかけたってね」
……本当にそういう人が居るのかと、信じられなかった。
「まあ、そう思うだろうね。私だって最初は信じられなかったからねえ」
妙さんはそう言いながら土瓶に焦がし麦をいれて更に沸かし、煮出してやる。
暫くして、湯飲みにお茶を注いでくれた。
「ほら、お茶だよ」
「有難うございます」
暫く、妙さんと一緒にお茶を飲みながらのんびりとする。
河岸は既に仕事を始めているが、私たちのような女工はまだ動かない。長屋の木戸が開いていないため、用もなく外に出れないのだ。
そして、七つ半(5時)を知らせる時鐘が鳴ると、長屋が一気に騒がしくなる。
私達も湯飲みと火鉢を片して布団を畳み、作業服に着替えて外に出る。
木戸番のお爺さんに挨拶して、工場へと向かう。工場は長屋から歩いて直ぐ側にある。
工場についたらまず、皆が集まっているか確認し、体操を始める。これをすると健康に良いらしいのだ。
それが終ると、ここにある食堂でご飯を食べる。ご飯は持ち回りで作る事になっている。その場合は半刻(1時間)早く起きて皆の分のご飯を作ることになる。
今日は麦飯に糠味噌汁、鰯の丸干しと大根の漬物と、相変わらず贅沢なものだった。
ご飯を終え、片づけを済ませると、六つ半(7時)から仕事が開始される。
以前は麻を織っていたが、今は木綿布作りだけを行っている。
この木綿布作りを大雑把に説明すれば、まず収穫した綿を綿繰機にかけて種やごみを取り除く。
次に打綿機という道具にかけて、綿を薄く広い布状に延ばしていき、これを撚子巻き機で丸く巻き取ってやる。
巻き取った綿は撚子と呼ばれ、これを筒に詰めてガラ紡績機――ガラガラ音を立てて糸を紡ぐからこの名前がついたらしい――という大きな道具にかける。
このガラ紡の一番上、上ゴロという所に撚子を置くと、準備はできた。
「大丈夫ー、回してー」
そして外の水車と連動させて、ガラ紡が動き始めた。すると勝手に撚子から糸を紡ぎ始めるのだ。紡がれた糸は錘に巻きとられる。この時、糸が切れてしまうこともあるが、切れた部分を摘まんで当ててあげれば下の筒の動きでまた繋がる。
ここからは私たちの仕事だ。手で巻き取られた糸を数本、もっとも太いものだと八本も合わせ撚りを作り、一本の丈夫な糸にしてやる。
この太い糸は整経機に一本一本かけて通し、巻いて機織りの準備を整えるのだが、この作業にはコツがいるらしく、私ではまだできない。時間があるときに先輩に教えて貰っているが、今はただ糸を作り続ける。
あとは織機にかける。糸を丁寧に張り、パタンパタンと音を立てて織ってようやく布に仕上がる。この布は帆布と呼ばれるもので、船に使われる。
これらの作業を皆で分担しながら進めていき、朝四つ(午前10時)になると、いったん作業を止めて休憩になる。
ここで一服することになっている。麦茶やどくだみ茶、桑茶、柿の葉茶といった様々な種類があり、ここから好みの茶を淹れて飲んで良いことになっていた。
おしゃべりしながら好きな茶を飲んでいる中、私はどうしても気になっていた。
「あの、本当に良いんでしょうか……?」
私がそう言うと、皆は何が、という顔をしていた。
「だって、仕事はそんなにきつくは無いですし、こんな休憩とか……」
「ああ、あなた新しく入った子だったわね。それじゃあ驚くでしょうよ」
「普通はこんな休憩時間とか無いわよねぇ」
ある先輩女工がそう言うと、皆そうだよねえという声を上げた。
仕事は覚えることが多いが、単純作業が殆どだ。それも道具が勝手に仕事してしまうので、仕事が辛いということはない。ましてや、休憩時間があって、飲んだことも無い高いお茶を飲みながら同年代の同性とおしゃべりできるなど、今でも信じられないことだった。
「ああ、そのお茶?そこまで高いものじゃないから気にしなくて良いってよ。ここいらだと農民でも飲むようなお茶だって話だし」
「あと、前はもっと大変だったんだよー」
「そうそう、今はガラ紡で糸にするけどさぁ、前は全部手でやってたからねぇ」
「そうなんですか?」
「そうよぉ。まあ、それでも村にいた頃より楽なんだけどねえ」
漁村や農村にいた頃は皆、毎日が忙しくて休む暇も無かった。
朝は夜明け前に起きて、夜遅くまで仕事して寝るだけの生活だった。そうしなければ生きていけなかった。
「あたしらを攫ったのは里見だけど、昔より良い生活できるのも里見なんだよねぇ」
妙さんがそう言うと、そうだねえ、と全員が同意した。
ここにいる女工はみな、里見の海賊に人攫いにあって売られた者達だった。私も、つい最近になって売られた一人である。
本来なら暴行された後、奴隷になるか売られて遊女になるしかなかった。それが普通だったのだが、ある時から館山開発の話があったのだ。当時から館山では在地の住民では人手が足りず、賤民や人攫いにあった者などを中心に広く人を集めていた。
そして館山なら高く売れるとして連れて来られ、ここの領主様に買われて女工として働くようになった。妙さん達はこの工場が出来てすぐに買われたのだという。
「さて、そろそろ仕事を再開しようか」
妙さんがそう言うと、私は慌てて麦茶を飲み干した。
休憩が終った後は昼九つ(12時)まで仕事をする。そして昼食である。普段は具をたっぷりいれたうどんが出ることが多い。やっぱり贅沢だと思う。
そして九つ半(13時)に作業が再開し、八つ半(15時)には今日の操業が終ることになる。
みなで工場内の道具の片付けと掃除を行い、夕七つ(16時)まで自由時間になる。
この時間になると工場の外から雑貨屋や菓子屋らがやってきて私達を相手に商売を始める。ここではなんと、僅かなりでも給金がでるのだ。貯まったお金で思い思いに好きな物を買っていく。
ここで一番人気があるのは髪洗い粉と香油であった。特に椿油から作ったものが一番質が良いそうだ。ただ、物凄く高いので、眺めるだけである。
私も普段使い用に良いと進められた髪洗い粉と新聞を買い、その日は火鉢の横で新聞を読むことにした。
毎週出る新聞には、いつも童話や古い物語が書かれていた。
今日のは「貧乏神と福の神」という話だった。貧乏を笑い飛ばし、自分を励ます話である。ようやく新聞も読めるようになってきたし、内容も面白かった。
そして夕七つ(16時)から「読み書き算盤」といった基礎から漢字、作文、古典、裁縫、修身(道徳)を学ぶ。
ここの領主様の方針で、「誰でも学問を修めていた方が良い」とのこと。
勉強は楽しい。知らないことを学んでいくこと、出来なかったことが出来るようになること、これが凄く楽しいのだ。
楽しい時間はあっという間に終わり、六つ半(19時)から夕食と入浴。
そして五つ半(21時)に就寝になる。
それまで、私は行灯の明かりを頼りに何度も新聞を読んでいた。
「目、悪くするよ」銭湯から戻ってきた妙さんが言った。
「もう少し、読んでいたいんです」
私がそういうと、程ほどにね、と妙さんは苦笑した。
暫くして、妙さんがぽつりと言った。
「今は、楽しいかい?」
「はい」
「これからも、やっていけるかい?」
「はい」
「故郷に、帰りたいかい?」
「……それは」
分からない。連れて来られた当初は、直ぐに帰りたかった。知らない土地で、何をするのかが分からずに不安だった。
だけど、周りの皆は優しく、仕事も、勉強も楽しい。今ではここにずっと居たいと思っている自分がいる。
「まあ、ゆっくりと折り合いをつけなさい。まだ時間は一杯あるから」
優しい笑みを浮かべた妙さんがそう言うと、時鐘が鳴った。夜五つを知らせる鐘だった。
「さて、もう寝る時間だね。ほら、布団引いて寝よう。明日も頑張らないと」
「あ、はいっ」
新聞や机を端に片し、火鉢の炭に灰を被せる。そして布団を敷いて、直ぐに潜り込んだ。
「じゃあ、おやすみ」
妙さんが行灯の明かりを消すと、真っ暗になった。
布団の中で、考える。
分かっている。もう故郷には帰れないだろう。それにこのご時勢だから、村は残っているのか、残っていたとしても受け入れてくれるか分からない。
でも、今はこうやって生活出来ている。いつか、この場所も戦禍に遭うかもしれない。そしたら皆と離れ離れになるかもしれない。それは嫌だった。
だから、今のような生活がずっと続けば良いな、と思いながら、私は目を瞑った。
そして直ぐに眠くなり、今日一日が終った。
2,護国寺
里見水軍最大の湾港である館山には、ここの開発が始まったときに建てられた寺がある。
その名は護国寺。戦死した兵の慰霊のために建立した寺である。
戦死、といえば普通は合戦の時に亡くなったことのみを指すが、水軍では違う。
水軍では業務中、訓練や沿岸警備、漁業、船の点検や整備中であっても亡くなれば戦死扱いになる。
理由は、水軍の損耗率の高さであった。
一度海をいけば、波に揺られ、吹き荒ぶ風の中を走るのが船である。そして暫くは船酔いに悩まされ、遠洋航海に出れば劣悪で狭い船内で生活する破目になる。
この環境に必ずしも船に慣れる者だけではなく、全く駄目な人間がいる。
新人が航海に出て、まず経験するのは水夫達にプライバシーは無く、自由も無いこと。喉が渇いても水は希少だから少しだけしか支給されない。しかも生温くて緑色に腐った水だ。他は酒。食事はたっぷり出るが、荒天が続けば冷たい料理、もしくは塩っ辛い乾物をそのまま齧って凌ぐだけ。
不思議なもので、酒をどんなにカブ飲みしても喉の渇きを癒せないのだ。
船酔いと、日々の疲れから食事も取れなくなり、ただ冷たくて、美味い水が飲みたいとだけ思い始める。その欲求から起きる苛立ち、そして人間関係の悪化が起きる。
その状況下で頼りない足場で高い所に立ち、落下する。器具の操作を誤って振り落とされる。高波に攫われる。無理をして船に乗り続け、船酔いで吐瀉物を喉に詰まらせて死んだ、という者もいる。また、ついさっきまで元気だった奴があっさりと死ぬ光景を目にして、辞める者も多い。
特に死亡率が高いのは、展帆・縮帆の操作のときである。
現在の里見家では和船だけでなく、帆船が多く用いられている。これらには横帆、縦帆が使用されている。和船の場合、艪走に変更できるよう帆柱を倒すことが出来るようになっていたが、帆船はそのままだ。
そのため帆を広げる、畳むには檣を支える横静索から上に登らなければならない。
このとき、安全綱といったものは無い。海戦時や荒天時など、素早く作業をこなさなければならないのに、一々安全綱をつけていたら作業が進まないからだ。
水夫達は裸足で、檣の一番高い所だと16間(29m)近くまで登る。それは目も眩む様な高さで、足場綱と呼ばれる細い綱の上に立って帆を広げる、畳むの作業を行うのだ。しかも船は常に上下左右に大きく揺れる。
その状況下、かじかんだ手で帆を端から順序良く広げていく、また湿って重い帆布を畳まなければならないのだ。また急いで操作をしなければ最悪、沈没することも有り得るために水夫達は綱の上を飛び回るように動く。そして操作を誤る、足を踏み外して落下してしまう。
落下したとき、甲板に落ちれば頭を割って即死。海に落ちれば全身を強く打って気絶し、波に飲まれてしまう。まあ、とてつもない強運の持ち主であれば助かるかもしれない。
だから水軍では常在戦場。戦がなくても戦死扱いとなるのだ。
また合戦時でも死傷率は高い。鎧はおろか、服すら着ないことも多いからだ。
船内は酷く蒸し暑い。また服を着ていると船から落ちた際に泳ぎにくいという問題もあった。
だから伝統的に水軍では褌一丁の者が多く、掠り傷から化膿して破傷風になる、大筒による攻撃で木片が突き刺さる、また弓で射掛けられる、鉄砲による銃撃、移乗攻撃の際に反撃を受けるなどして、多くの死傷者を出していた。
そういった彼らが普段から安心出来るようにと建てられたのが護国寺であった。
彼らが死んだ後、例えどんな身分であってもこの寺の坊主によって読経され、遺体、もしくは遺品が墓に埋葬されるようになっている。
水軍に入れば腹いっぱいに飯が食えて、服が貰えて、給金が出る。活躍すれば出世できるし、死んでも墓に入れてくれる。
こういった事情もあり、辞める者も多いが志願者が多いのも水軍ならではであった。特に志願者は立身出世を願う賎民や浪人に多く見受けられた。
この護国寺は水軍だけであったが、後に陸軍も含めるようになり、「軍人は死んだら護国寺に」と後の世まで続いていくことになる。
誤字・脱字がありましたら連絡をお願いします。
昔、帆船に体験航海に乗ったことが有りますが、帆船のマストの上で作業するのめちゃ怖かった。
用語解説
・惣後架……トイレ。雪隠とも。
・点火器……ライター。平賀源内の開発した物と同一の仕組み。
・ガラ紡……明治時代に、臥雲辰致という人によって開発された紡績機。
洋式に比べて均一に木綿糸を作れなかったが、日本の木綿に
適した仕組みになっていた。




