第13話 戦後処理
楽しんでいただけたら幸いです。
天文二十一(1552)年二月 上総国 椎津城
真里谷・北条水軍をどうにか破った里見水軍は、損傷艦と負傷者を金谷城、館山城に戻し、里見義堯らと合流。
椎津城攻略戦に参加した。
この椎津城は周辺に豊かな穀倉地帯を持ち、江戸湾の海上交通、陸は房総一帯に通じる交通の要所であり、これら物流を警護するための要害であった。
そのため、以前からこの地を抑えれば江戸湾、上総国西部を抑える事が出来たため、度々里見と北条が衝突する緊張地帯でもあった。
里見軍は力攻めをせずに陸海から椎津城を囲み、威嚇射撃を始めていたのに対し、真里谷氏はもう対抗できる手段を失っていた。
兵力こそ里見軍とほぼ同数で椎津城があるものの、野戦で多くの重臣と兵を失っており、時折飛んでくる鉄の塊と轟音を止める方法は無かった。更には上総笹子城と小櫃川で起きた合戦の結果が撤退できた将兵によって流布されていたのもあって、兵の士気はどうにもならないところまで落ちていた。
そして肝心の北条からの援軍は陸海共に壊滅。更なる救援も期待できない。生き残っていた間宮景頼は徹底抗戦を叫んでいたが、もはや勝機は無かった。
名誉のために里見軍に突撃して戦死するか、家を残すために恥辱を受けても降伏するか。
喧々諤々と話し合いが続く中、里見氏から使者が来た。義堯から要請を受けた保田妙本寺の日我上人であった。
椎津城主の信政と面会した日我は「降伏すれば一族の身柄を保証し、将兵は全員丁重に扱う」とする義堯からの言葉と書状を伝えた。
これには信政も驚愕し、思わず日我に事実なのか訊ね返した。
この時代の降伏というのは場合にもよるが、降伏した側は賊、つまり犯罪者と見なされる。その扱いは勝者の自由にされ、不名誉な扱いを受けた後に処刑されることが多かった。そのため恥辱を受けるぐらいなら切腹や単騎突撃して戦死の方がマシと考えられていた。
信政には信じられない言葉だったが、日我の熱心な説得により降伏を決意。椎津城を明け渡すことになった。
椎津城を明け渡す際にも大きな混乱は無く、信政ら真里谷一族は安房国へ移送され、里見方へ帰属。里見家は上総国の大半を領有することになった。残りの上総国北部、庁南城の庁南吉信は北条方へつき、北条の支配下となった。
義堯は椎津城の守将に木曾左馬介を置き、里見軍は安房国へ凱旋した。
◆
天文二十一(1552)年三月 安房国 久留里城
今回の戦で真里谷・北条軍を打ち破り、上総国の大半を領有することになった里見家。
城内や城下町では稀に見る圧勝で終わり、無事に多くの兵たちが恩賞と乱取りで得た金を持って帰ってきたことに喜んでいた。
しかし、喜んでいない者もいた。
「まさか、此処まで金がかかるとは……」
会合で使う一室で、義堯は酷く疲れた声を上げた。見れば参加する全員が、特に義頼は目の下にべっとりと隈を作って疲れ切っていた。
予想以上に、戦費を使ってしまったのだ。
今回の戦で、陸では兵二千、小荷駄に人夫、手明を含めて三百名を動員。
水軍は第一艦隊が艦十一隻、四百名。第二艦隊が艦三十三隻、八百名が動員された。
ここに従来の刀槍、弓と鎧のほか、火縄銃と狭間筒、抱え大筒、平射砲に軽臼砲、焙烙玉が使用された。
敵軍勢を圧倒するために大量の玉薬と砲弾、実包が用意され、兵と馬を養うための豊富な糧秣(兵と馬の食料のこと)。消毒用の木タールやヨーチン、さらし等。
これに加え、参加した兵全員――この時代は戦後に恩賞目的で敵兵が加わり、兵の数が増えることがあった――に出す恩賞。陸は損害が軽微だったため、米や鹿肉などの現物支給が殆どだったが、多くの恩賞を出さなければならなかった。
想定よりもかかった費用を算出し、占領した領地を誰に任せるかで揉め、またこの後に控える論功行賞で頭を悩ませていたのだ。
「全く火力の無い軍勢を、短時間で一方的に叩いたというのにここまで物資を消費するとは……」
「見通しが甘かったですかね……」
こういったことに詳しい義舜や実元、安泰たちによって、今回の遠征には思いっきって試算された倍の量の金穀と弾薬が用意された。が、これらは全て兵馬の胃袋に消え、弾薬はたった数回の会戦で撃ち切ってしまった。
今回の遠征では里見軍は従来では考えられない程に快進撃を続けていたが、途中で弾薬の補給を受けるために足止めを受けたため、想定より遅くなったのだ。
進軍速度が遅いと真里谷や北条が聞いたら顔を赤くしてふざけるな、ということ間違いなしである。
「ふん、これならばもっと兵の損害を出しても良かったと思ってしまうぞ」
「殿、それはそれで面倒ですから、勘弁してください……」
さすがに、時茂が諫める様な口調で言った。
「分かっている。冗談だ」
義堯はそう答えたが、半ば本気で思っていた。
(もう少し、こちらの損害が大きければ恩賞は減ったのだ。それと砲撃を減らすべきだったな。平射砲の威力は当たれば凄まじいが、砲身と玉薬が高すぎる。技術が発展すればもっと安くなるらしいが、そこまで――)
ここまで考えて、義堯は苦笑する。
一大名が圧勝した戦の内容に不満を持ち、勝ちすぎて味方が減ったほうが良いと思うのが、普通ならばおかしい考えであったからだ。
その考えを仕舞い込み、話を切り出した。
「だが、この戦で問題も粗方出たか」
「ええ、兵に、運用方法に、使用する砲弾や実包の数。運用方法と補給体制は戦訓を基に改定、弾薬も試算し直せばいいでしょうが、兵に関しては――」
砲兵部隊を率いた実元はそこまで言って黙った。言いづらい内容だった。代わりに、時忠が平坦な声で続けた。
「兵が集まらないのも、この国が豊かになったせいでしょう」
ここ数年で、里見の領国は豊かになった。米や麦の収量は増え、豊富な海産物で飢える事は無くなった。それは喜ばしいことだが、問題もあった。
兵が集まらなくなっているのだ。
元々、戦とは武将から見れば己の野心のためにするものだが、百姓からすれば「口減らし」と「小遣い稼ぎ」である。
戦に参加した兵が死ねば「口減らし」で、生き残れば「恩賞」と「乱取り」で暫くは家族を養えた。また、兵として従事している間はたらふく飯が食えるため、零細農家や部屋住みの次男三男坊を中心によく集まるものだった。
しかし、近年では大規模な戦は無く、精々が田舎国人同士の争いと、北条との小競り合い程度である。また開墾の奨励と農業改革や画期的な漁法の開発、交易の拡大で普通に働いていれば食うに困らない環境であった。また統治に必要な法も制定された事で治安も安定している。
わざわざ危険な戦場に行く必要が無くなっているのだ。
「平和ボケしている感じですね。自分の住む場所まで戦場となれば、民衆も目を覚ますと思いますが……」
「そうなる時にはかなり押し込まれているな。我々の人材と技術が全て奪われる」
人材と技術の流出。戦を優位に進めるには、それだけは避けなければならない。
「となると、常備軍、ですか?」
「それしかあるまい。どのみち銃兵や砲兵は外に出せんし、人手が足りん。いざと言う時に動ける軍は欲しい」
「金、またかかりますね……」
義頼の言葉に、全員が沈痛な面持ちになった。
常備軍は即応性があり、兵は常に一定以上の練度、結束力を保持することができたが、凄まじく金がかかる。
史実でも、織田信長が常備軍を維持できたのも、貿易で莫大な利益を上げていた堺を押さえていたためであった。とはいえ、この時代の欧州の覇権国的地位にあったスペイン王国のように、大量の常備軍を抱えれば植民地からもたらせられる莫大な富でも耐えきれず、国家の破産宣言をしなくてはならなくなる。
「……まあ、現状の国力なら常備軍を編成してもある程度は耐えられるでしょうが、どのような形にするので?」
時忠が義舜に問いかける。
「現行の備を改良する」義舜が続けて答えた。
「まず、水軍と区別するために「陸軍」と呼称し、地侍や浪人などを中心に志願兵を募る。兵籍と階級制度も作る。槍兵と銃兵、砲兵、騎兵の専門科を進めて連携、そして前線での指揮官を大幅に増やす」
備とは、ひとつ当たり三百~八百人ほどの、戦国時代から編成される単体での戦闘行動が可能な部隊である。特徴として西洋の密集陣形よりも地形を選ばず、各兵が一列、もしくは二列横隊を組み、備単体で機動や迂回、配置転換など高い機動力を持っていたが、正面への攻撃力が劣っていた。
そこで義舜はスウェーデンのグスタフ二世アドルフ(1594年―1632年)による軍制改革を基に、主力となる歩兵(槍兵・銃兵・擲弾兵)、火力の高い砲兵、偵察と突撃に優れた騎兵を組み合わせることにした。
まず兵科毎に二十五人の組を作り、足軽小頭がこれを率いる。これを複数個合わせ、足軽大頭が指揮する百五十人規模の中隊を編制。この中隊を数個組み合わせることによって士大将が指揮する備(大隊)を形成する。
銃兵は、火縄銃と護身用に打刀を装備。横隊を組み、漸進射撃を行うことにより敵軍に打撃を与え、敵の混乱に乗じて突撃を行う。
ただし、火縄銃は火縄から火の粉が飛ぶ事があり、誘爆しかねないため、ある程度間隔を開ける必要がある。そこで、銃兵ー弓兵―銃兵と、間に弓兵を入れる事で誘爆を防ぎ、また装填中の援護を行うようにする。
擲弾兵は焙烙玉、もしくは抱え大筒を装備。焙烙玉が導火線式なので扱いが難しく、また抱え大筒が力量のある者でしか扱えないため、大柄で力の強い者を選抜。歩兵部隊の精鋭となる。基本的に中隊毎に分散して配置される。
槍兵は二間半(4.5メートル)の長槍で武装した歩兵。軍勢の主力であり、過半数を占める事になる。北条氏は大名の中でも有数の騎馬を所有しており、それに対する防御用と、混乱した敵軍に突撃と白兵戦を行う。また槍兵同士の叩き合いで負けない様、槍の太刀打に木槌を取り付ける。
砲兵は山岳での運搬がしやすいよう、軽量の大砲を使用。現状では六斤軽臼砲か三斤平射砲のみとなる。この砲であれば馬一頭、もしくは数名の兵で牽引が可能。一門当たり最低三人、出来れば七人の砲兵がつき、運用される。
騎兵は二種類用意する。
まず機動力を重視した騎兵。これは火縄銃を装備し、馬の機動力でもって移動し、敵勢に対して遊撃する。これは騎兵というより、「馬に乗った銃兵」といえる。馬も駄馬で良く、乗れれば問題無いので当面はこれが主力となる。
もう一つは襲撃用の騎兵。太刀や持槍、胸甲を厚くした当世具足を纏う。これらは偵察や後方撹乱、そして歩兵と砲兵によって崩れた敵陣に突撃する事になる。
「基本的には突撃と白兵戦を重視することになる。他にも工兵や狙撃兵も育成はするが、まずは三兵戦術を完成させたい」
「ははあ、サーベル突撃の代わりにカタナ突撃ですか」
「しかし、白兵戦なら陸軍式の戦術は使わないのですか?」
疑問に思った実元が声を上げる。
確かにこの時代では横隊隊形を組んだ銃兵による漸新射撃は有効だろうが、陸軍式の方が有用では、と実元は思ったのだ。
「塹壕戦や潜伏戦などは部分的には取り入れるが、完全には無理だ。それを行うだけの武器も、時間も金も無い。教育を含めて一から全て変えなければならない」
「あ、確かに……」
近代の戦術、戦列を組まない散兵を育成するには、高い士気と高度な教育がいる。
また、精兵にするためには愛国心――郷土愛でもいい――が必要だが、房総で兵になるのは土地に縛られない海民が殆どだ。嫌になったら船に乗って移動してしまう。また、この戦乱の時代では識字率も低い。
チートを繰り返して領国を豊かにしたが、まだまだ足りない部分が多かった。
「ですが、やるにしても馬の品種改良と生産を大々的に行わなければ、大型の軍馬は揃わないですね」
「うん? ああ、大々的に生産はするが、別に今の馬の大きさでも構わない」
「そうなのですか? 乗った馬は三尺六寸(約110センチ)ほどでしたけど」
「初心者をいきなりデカい馬に乗せたら危ないからな。軍馬ならそれよりは大きいが、馬は大きければそれだけ餌をドカ食いする」
北条の軍馬を盗んできたり、東北の大名、南部氏と交渉して手に入れたという南部駒は立派な馬格をしていたが、安房駒は体格が小さめだ。
房総半島が平野部が少なくて騎馬武者自体があまり多くないのもあるが、戦乱で軍馬の生産が途絶えた影響が大きい。また駄馬や農耕馬は小さい方が好まれたという理由もあった。
馬は餌をよく食べる。体格の大きい軍馬なら一日で三貫匁(12キロ)の飼料を食べ、水もよく飲む。なので、駄馬として使うなら小さい方が経済的であり、またこの時代の平均身長が現代よりも低いので大きければそれだけ扱いにくくなる。
「重要なのは激しい運用に耐えられるほど頑健であることだ。馬格が大きく足が速くても運用に耐え切れなければ意味が無い」
「確かにそうですね」
義舜がスウェーデン式の軍制を模倣しようと考えたのも、スウェーデン騎兵の存在が理由のひとつにある。
スウェーデンはその国土から良質の軍馬はおらず、一般の騎兵に使用された馬は体高で110~130センチだったと言われる。その代わり、スウェーデンの馬は非常に頑健であった。当時の記録にも、90キロもの距離を馬で疾駆し、一昼夜に渡り餌を与えなくとも馬の状態は良好であったなど、激しい運用にも耐えることが出来たという。
そのため小柄でありながら頑強で、長距離を動き回り、そして全速力で突進してくるスウェーデン騎兵は諸外国から恐れられるようになった。
安房駒も、身体は小さいが頑強で性格は温厚だ。スウェーデン騎兵にも出来たなら、日本の武士だってやれば完全では無くても、そのレベルまでにはたどり着けるだろうというのが義舜らの考えだった。
「話を戻そう。騎兵を編制するために既に峯岡牧に置く繁殖馬と資金は確保している。だが軍馬の育成ができる者がいない」
義堯によって途絶えていた馬の育成牧場は再興されており、軍馬の育成にも力を入れていた。
この峯岡牧は現代の嶺岡山地一帯が牧場という広大なものだが、いかんせん一度途絶えた影響が大きく、育成も手探り状態なのが現状であった。
「馬と言えば、血統配合と育成? あとは蹄鉄や餌ですか」
「餌は、まあ燕麦と大豆があるのでどうにかなりますが……。他は流石に専門家を連れて来ないと分かりませんよ」
「まあ、おいおいやっていくしかなかろう」
その後も、陸軍で優先的に行うべきことを話し合い、そして水軍の話へと移った。
「水軍は、壊滅か」
「申し訳ありません」
義頼は深く身を屈め、平伏する。第二艦隊が壊滅した理由は、油断し、敵水軍を甘く見ていたことだ。総大将に責任が有ると義頼は考えていた。
もし、第二艦隊が居なくても、当初の戦術通りに接近していたのが自分らだったらぞっとしない。
義堯はその姿に内心溜息をつき、義頼に頭を上げるよう言うが、一向に頭を上げようとしない。
「……既に詳しい報告は聞いている。あの状況では誰がやっても損害は受けただろう。話が進まん、早く頭を上げろ」
「はっ……」
僅かに怒気を滲ませると、義頼はようやく頭を上げた。その表情は陰りがあったが、合流した頃に比べれば、幾分かマシになったように思えた。
勝ったとはいえ、初陣でいきなり酷い戦いだったからな。暫くは気にかけておこう、と義堯は考え、そして話が再開される。
「さて北条だが、陸もそうだったが水軍の動きが早いな」
陸は以前から守将を置いており、さほど不思議では無かった。だが、北条の主だった水軍は開戦前と後も拠点から動いたなど知らせが無かった。そのため、水軍は少ないと判断したのだ。
「それなのですが、北条水軍の生き残りに尋問したところ、玉縄の者だそうです」
「玉縄の? あそこは船は少ないと聞いていたが……」
「はい。どうも近在の漁師や品川商人から船を買い上げて改装したとのこと。人は玉縄以外に三浦の者を引っ張ったようです」
「水夫も船も、よそから引っ張ってきたのか。何とまあ、よくやるものだ」
安泰の言葉に、義舜は呆れた口調で答えた。
北条水軍は、清水康英を筆頭とし、笠原氏、山本氏ら伊豆衆からなる伊豆水軍と、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍、後に熊野から招かれた梶原景宗を船大将とする「傭兵」水軍からなっていた。
確かに、育成に時間のかかる水夫さえいれば、船があれば早く戦力化も出来るが、遠くに水夫を連れていくには一時金や何やらで色々と金がかかり、また水軍自体に人的な余裕が無ければ出来ない。新しく水軍を編成したほうが時間はかかるが結果的に問題も無く、安くすむため、北条の考えは凄まじく贅沢に思えた。
「それと真里谷・北条水軍が行った火攻めですが、使われたのは鯨油、安房国で生産されたものです」
「一応聞くが、間違いないのか?」
「はい。あれだけ大量の鯨油を用意できるのは我々だけですし、それに、油樽に安房国で生産されたことを示す焼印が有りました」
捕鯨が始まり、鯨肉や鯨油が安定的に生産されるようになってからは時忠の主導で輸出も行われていた。商人の統制はうまく行っているが、その先、購入した他国の商人による転売となると何処に売られたかまでは把握していなかった。
流石に他国の商人に売買を規制するわけにもいかない。対処するには近隣国の噂や売買を調べ、物流を監視するしか手が無かった。
「しかし、内房の軍船が消えたのが痛い。造海城一帯は穴が空くぞ」
この言葉に全員が顔を顰めた。
造海城主の正木時治は今回の戦で、多くの軍船と人員を失った。再び元通りに水軍を整備するのに莫大な資金と、十年単位の時間がかかることだろう。
造海城は近くには上総湊と貴重な平野部があり、米の産地でもあった。
これを守るためには早急に艦隊を再編成する必要があるが、どこからか人と船を持ってこなければならない。
主な里見水軍は内房の水軍を取りまとめる安西氏、外房の水軍を取りまとめる勝浦正木氏となる。
安西氏は数こそ多いものの、それは周辺の土豪らも数えてである。安西氏自身が自由に動かせる水軍は勝山城周辺で手一杯。土豪らは一人一船といった感じで纏まりがなく、そもそも言うことは聞くかどうか分からない。
勝浦正木氏、つまりは時忠の水軍は多くの船を持っていた。その大半は交易用の商船で編成されており、内房と外房を繋ぐだけでなく、常陸との貿易の要でもあった。
他には岡本城、館山城、房総半島南端にある白浜城、捕鯨船団の基地となる和田港にも水軍は存在するが、これらは数が少なく、他に回すほど余裕はない。
「義頼、軍船の建造状況は?」
「現在、甲型海防艦が一隻、乙型が二隻、千鳥型四隻を建造中です。甲、乙型共に早くとも来年の一月に進水予定です」
「新型艦は間に合うかどうか、微妙だな……。現状を考えれば年末の北条の侵攻は無いだろうが、来年以降の反乱は起きるかもしれぬ」
全員がこれから起きるだろう内乱を考え、苦い顔になった。
史実ではまず、天文二十一(1552)年暮れ、つまり年末に北条氏康が襲来。久留里の下流にあたる小櫃を占領し、翌二十二(1553)年四月には玉縄城の水軍を率いた北条綱成が保田妙本寺(鋸南町吉浜)に侵攻。
さらに六月二十六日には侵攻してきた北条氏康によって正木時治ら内房正木氏が反乱を起こし、七月には保田妙本寺と金谷城が攻撃を受け炎上。後に「房州の逆乱」と呼ばれ、数年に及ぶ争乱となった。特に、内房正木氏配下の吉原玄蕃助ら二十二人衆は在地勢力で地理に詳しく、各地で攪乱や戦闘を行っていた。
この内乱は里見家にとって大きな痛手となり、後に北条軍によって久留里城を包囲されるなど、危機的な状況にまで追い込まれることになった。
この世界では江戸湾の北条水軍は壊滅し、また転生者たちの活躍もあって上総国沿岸の守りは固めてある。
広大な領地を治める北条氏であっても、そう簡単には軍船の補充は出来ないはず。また史実通りに進めば、七月に上野国へ長尾景虎が侵攻することとなる。
北条はそちらの対処に追われるため、こちらへ注力する余裕は無いだろう。だが、それは隙を見せてもいい理由にはならない。
「……時忠」渋い顔で義堯が言った。
「はい。金谷城に必要な人員と軍船を派遣します」
「すまない。面倒をかける」
内房正木氏から領地を取り上げるのは無理だ。これで領地没収となれば、他の国人衆も黙ってはいられない。里見氏は強くなったが、その家中の結束は強固とは言えない。
となれば、よそから持ってきて、穴を塞ぐしかない。この場合、時忠の水軍を、正木弘季が城主を務める金谷城の水軍を増強するしかなかった。
金谷城は造海城のすぐ下にある海城だ。城から三浦半島が指呼の間に望むことができ、浦賀城の三浦水軍の動きに即座に対応できる位置にある。
城主を務めるのは正木弘季。正木時茂、時忠の末弟にあたる人物だ。
正木時茂・時忠は四兄弟だった。長兄の弥次郎は「天文の内訌」の際に父の正木通綱と共に死去。その後は次男の時茂が当主になり、三男の時忠、四男の弘季と共に義堯を盛り立てていった。
荒事と内政のどちらも卒なくこなせるので義堯からも気に入られ、先の城主だった時茂が上総東部へ行く際に城を引き継いでいた。現在では三浦半島への航路だけでなく、房州石の産地だ。房州石は石材のほか、粗銅から金銀を抽出する灰吹き法に使う坩堝として使われており、内房の重要拠点である。最低でも、ここだけは守らなければならない。
「……暫くは家中の安定化をしませんと。力関係が大幅に動きますぞ」
「あ奴らもそれを分かっててくれればいいが……」
「無理ですね。正直、何やっても嫌われますから」
時忠の吐き捨てるような言葉に、時茂ですら同意とばかりに頷いていた。
内房正木氏(正木時治ら)と外房正木氏(正木時茂・時忠・弘季ら)は酷く仲が悪い。正木氏は内房の家系が本家に当たるのだが、彼らから見れば外房(分家)の連中だけが里見家重臣となり、戦や交易で多大な功績と利益を上げていた。外房(分家)ごときが活躍するのが気に喰わないのだ。
時茂らも当初は親戚間の融和を考え、何かと婚姻や対話を持ち掛けていたが、頑な態度は崩さず、逆に商売へ注力する時忠を「銭なんて穢わらしいものを見て喜んでいる」「武士が商売とはその身が卑しい証拠」となじる始末。時忠の面子もある以上、融和などできるはずが無かった。
「しかし、今回の戦で内房正木氏は大打撃を受けました。反乱を起こさない可能性も有りますが……」
「いえ、だからこそですよ。余裕がありませんから手早く立て直しを図りに動きます」
内房はその地理上、北条氏の影響を受けやすい地域である。その為、親北条の土豪や領民も多い。
内房正木氏もその一人で、なんと北条氏から家臣として三浦半島に領地を貰っていた。この関係から房総―三浦半島間の海防と交易を担っており、里見・北条両方に良い顔をしながら好条件をせびっていた。
物資だけでなく情報の売買、また里見から待遇が出されれば北条に伝えてそれ以上のものを引き出させ、それを里見に伝える。これを適度に繰り返すことで大きくしてきたのだ。
それが許されていたのも軍事力があったから。しかし、その屋台骨が揺らいだ以上、なりふり構わず早急に立て直さなければ衰退は免れないのだ。
そのことを改めて聞いた義堯は憮然とした表情を浮かべた。
「ふん、なら大人しく小荷駄に従事しておれば良かったのだ。それに遠回しにだが、今回の海戦でこれほどの損害を出したのは安泰が救援を遅らせたからと言い始めている」
全員が嫌そうな顔を浮かべた。
ここにいる面々は既に義頼や安泰から事情は聞いており、また従事した水夫たちからも時治の水軍が作戦を無視して壊滅したのが分かっているからだ。それに、わざわざ時治の水軍を嵌める必要性もないし、嘘をつく理由もない。
しかし、時治からすれば大事な水軍が壊滅したことに変わりがなく、現場の暴走と信じたくなかったのだ。それを認めてしまえば、自身と水軍の無能さを証明してしまうことになる。
また時治側の生き残りが少なく、義頼がまるで軍記物の様に初陣でありながら窮地に立たされた味方を鼓舞し、大した損害もなく、数の差を覆して勝利した。
あまりにも出来すぎている、と考えて信じ込むのも仕方ない事だった。
「ですが、あまり無視はできません。古くからいる勢力だけあって声は大きいですし、身内だけを優遇していると思われかねません」
「分かっている。論功行賞の場で叱責はするが、損害を出しながらも勇戦した時治を誉め称える、だな」
勇戦も何も無いが、そういう事にしないと時治らが暴走しかねないのだ。これが中央集権的な体制なら叱責からの懲罰も出来たが、今の里見家にはそこまでの権力はない。
「まあ、褒賞は銭だけだな」
「納得しますかね?」
「納得させる」義堯は強い口調で言った。「あれだけの損害を出して特に役立っていないのだ。奴自身がそれを分かっているはずだ」
その代わり、多少の融通はする。弱体化したままだと周りにも影響があるからだ。
だが時治ら内房正木氏はその勢力を大きく減少させることになる。彼らがその存在感を出せたのも、水軍の軍事力と金谷と三浦半島を繋ぐ航路を抑えていたからだ。元の勢力を取り戻すには時間がかかる上に時治と競合する周辺の国人衆がさっそく動き始めている。
義堯もこの状況を利用して完全に内房正木氏を従属下させる気でいる以上、もう昔の様にはなれないだろう。
「それと、此処にいる全員は所領周辺の加増、または金銭支給の方が良いか? 新しく手に入れた土地は他に功績を挙げた者に渡したいのだ」
「それが一番でしょう。なまじ遠い地を頂いても、他の仕事が忙しいので管理できません」
その言葉に大きく頷く。
正直、今でも手一杯なのだ。上総国は平野も多く農業が盛んだが、この当時は天候任せな所があり、生産量が安定しない。税を安定して取り立てるには大規模な用水路を整備し、行政の出来る代官がいるが、それが出来る者たちは他の領地を任せていた。上総国に回すだけの人手が足りず、年末に向けて戦の準備もしなければならないため、現状では負担になりかねない。
それに、この場にいる面々はみな利権と格は持っている。わかりやすい旨みは他の者に配れば文字通り、一所懸命に働く。そうなれば治安や商売の面としてもありがたい。
そうなれば必要となるのは銭だ。関東では室町期に輸入されていた「永楽銭」が使用されており、精銭(良質の貨幣)の二倍の価値とされていた。東海の尾張より東国でしか通用しないが、価値は高く、佐竹氏との貿易にも使える。名刀や茶道具などの名物も、腐るものでは無いので使い道も多い。
その後も話し合いを続け、今後の戦略について話し合われた。
後日、久留里城にて今回の戦の論功行賞が行われ、太刀や金銭のほか、上総国は大きな功績のあった者に振り分け、残りは直轄領に。義舜らもその恩賞を受け取った。
そして義頼は初陣でありながら逆境をはね除けて勝利し、正木時治も勇戦した事を誉め称えられた。
そして事前のやり取り通り、金谷城へ時忠が派遣した水軍が配置されることになった。
誤字・脱字が有りましたら、報告をお願いします。
※2016/2/4 誤字・脱字の修正、また一部文章の削除を行いました。