資料その1
資料となります。随時更新する予定。
下のイラストは、戦国時代の房総半島(想像図)となります。
筆者の手書きで色もついていない上に検証も碌にしておりませんので、見づらいと思いますが、大体こんな感じだと思ってください。
ちょうど真ん中辺りにある庁南城から下は山岳地帯となっています。上は平野か湿地帯ですね。
房総半島は谷津とよばれる奥が深く非常になだらかな谷が存在しています。
黒く長い線がありますが、これは川だと思ってください。川は谷津の中央を流れており、周りは湿地となっています。ここは水田に向いた地形となっています。
当時は頻発する地権、水利権の問題から基本的に谷津周辺での耕作が中心。水も人手も資金も足りないため、全く手の入っていない野原も多く残っていた。
房総半島上部、イラストでは香取海一帯は水郷と呼ばれる低湿地地であり、そして水は汽水で稲作には向かない土地だった。
ちなみに、近年になるまで千葉県、特に利根川流域では塩害による被害は多発しており、これは利根川河口堰(1971年に竣工)が出来るまで続いた。
筆者の知り合いの方(代々続く農家)から教えてもらったことになりますが、かつて先祖は香取で塩造りもしていたそうです。また河口堰(現地の人らからは逆水門、潮止などと呼ばれている)が出来るまで水道水はしょっぱかったそうで。また井戸水も塩気があるものが多い。
・戦国期の東総地域
椿海はこの地域の貴重な水源でした。水深は平均2メートル、九十九里と香取海を繋ぐ水上交通としても利用されていました。この周辺にあった城跡や館跡からは、輸入品である中国磁器などが発見されています。恐らくは上方から江戸湾へ、そして香取海を通って来たものと考えられる。
九十九里浜周辺には多数のラグーンが点在していた。椿海、坂田城近くの坂田池や栗山川一帯の湿原など。
現代では多くが埋め立てなどで消滅しているが、戦国期には今よりはるかに大きく、無数に残っているため、納屋集落と呼ばれる、海岸線沿いに集落・耕作地が帯状に作られる独特の形態がとられていた。
江戸時代に入ると江戸の人口増加に対応するため新田開発が活発化。これにより多くのラグーンが縮小・消滅していく事になる。