雨
今私の身体を打ち付けている雨が全部毒だったら。
私はそんな、バカみたいなことを考えながらボーッと灰色の空を眺めていました。絶えることなく透明な滴が落ちて地面と私とその他諸々を濡らしていきます。
この雨は毒ではないけれど、世界のどこかでは酸性雨が降っているということは知っています。酸性雨が木々にとっての毒となり、森林を破壊していることだって。けれど、私はそんな環境問題なんかには興味がありません。この雨が毒だったらなんて考えているけど、酸性雨をつくりあげた人間に憤りを感じているわけではないのです。私はそんな精神など持ち合わせてはいません。地球を大切に、なんてこれっぽっちも思っていないのです。
私が住むこの町は、とても住みやすい田舎です。東京などの都会のように交通網が発達しているなんてことはないけれど、道路が全く整備されていないわけではありません。国道はちゃんと近くに通っているし、高速道路だってあります。利用者数の少なさからバスと電車の本数が年々減っていくことに多少頭を抱えたいかもしれないけれど、それもあまり深刻な問題ではないでしょう。十八を越えたら免許を取りに行って、車を買えばそれで全て済むのですから。
田舎だからか、田んぼが多いです。六月にもなれば雨蛙の大合唱が始まって、迂闊に外で電話が出来ないようになります。同時に紫陽花が青色の綺麗な花をつけます。私はなんとなく紫陽花が好きでした。
私の祖父も田んぼを持っています。毎年米を作っていて、私の家もその恩恵を受けています。スーパーなどで米を買ったことはありませんでした。小学校低学年ぐらいまで、お米は買うものではないと思っていたほどです。きっとこれからも、私の家は祖父からお米をもらうのでしょう。
遊ぶところは少なく、高校生の私には多少物足りないところがあります。しかし、夏はあまり暑くならず、車通りがとても多いわけでもない、閑静な住宅街を望んでクレームをつけるような近隣住民もいないこの町が、私は比較的好きでした。
それ故に、私は恨んでいるのでしょう。
じっと空を見続けます。私の視界に人が映ることはありません。田舎であるが故に、この場所は殆ど人が通らないのです。とても静かで、私のお気に入りの場所でした。だから私は恨んでいるのです。誰もここを通らず、私を見つけてくれない、この現状に。
「…………ぁ」
声は殆ど出ませんでした。掠れた声がやっと出たと思ったら、ごぼりと何かが食道を逆流して口からこぼれました。諦めるしか無さそうです。
身体の感覚はとっくに失ってしまっています。打ち付ける雨の冷たさも、背中に当たる石などの固さも、私を襲い続けている筈の傷口の痛みも、私には何もわかりません。私はまだ生きているのでしょうか。それとも死んでいるのでしょうか。それすらも曖昧です。
私は数時間前、フードを被った謎の男に襲われました。気が付けば男は私にぶつかっていて、私の腹を一回、持っていた包丁で刺したのです。
痛い、と感じる前に恐怖が私を支配したと思います。その隙に私の腹に刺さっていた包丁はずるりと引き抜かれ、そしてまた、私の腹に吸い込まれていきました。
男が私から離れると、私の身体は支えを失って地面に倒れました。すると男は、まだ足りなかったのか、倒れた私を仰向けにして、馬乗りになり、何度も何度も、真っ赤に染まった包丁を私めがけて降り下ろしました。その顔はとても楽しそうで、とても歪んでいました。私はとても痛かった筈なのですが、そんなことよりも私がこうして襲われているという理不尽さに対する不満の方が上で、痛みなど覚えていません。もしかしたら、そのとき既に私は感覚を失っていたのかもしれません。
やがて男は飽きたのか、私の上から降りて何処かへ消えていきました。起き上がることどころか、指一本動かすことが出来ない私には、その後の男の行方を知ることはできません。私はそのまま、放置されてしまったのでした。
あれからどのくらい時間が経ったのでしょう。辺りはすっかり暗くなって、余計に私を探すことが困難になりました。誰かが私を見つけるのが先か、それともカラスが私を見つけて肉を食らいつくしてしまうのが先か、生きているのか死んでいるのか、いつまで意識を保っているか分からない私には知りようのないことです。
だから、せめて私の意識が無くなってしまうそのときまで、私はこの理不尽な世の中を呪うことにしたのです。
今私の身体を打ち付けている雨が全部毒だったら。毒は男を、世界を苦しめ、私の恨みを少しだけでも和らげてくれるでしょうか。
生きたい等と贅沢なことは思いません。だからせめて、私のこの思いで、誰かに呪いをかけて苦しめることが出来ますよう――