弐 ノ 幻翳<空ノ碗>
孝中・虚堂智愚・南浦紹明(大應国師)
茶乃碗とは、抹茶を入れ湯を注ぎ、攪拌し茶を點て、そして、飲む為の器である。嗜好に合わせ、様々な素材・形・色・大きさ等、作為と無作為の狭間で形造られ、時代による流行り廃りを歴て、掌で何かを語りかけてくる。
唐時代、中国の茶は〈建茶〉と呼ばれた。貴族が嗜む飲物で、禪僧の修行に欠かせない薬としても飲用された。鮮やかな緑色を引き立たせる刑州窯の白磁と、越州窯の青磁が人気で、華北の白・江南の青と賞された。
黄河中下流域の平原である中原周辺は、夏・殷・周王朝が都を置き、異民族から隔てられ文明の中心・中華文化の発祥地であり、当に『中国』『中州』であった。中原を含む華北は人口を抱え、青銅器製作等により木材を消費し続け、気候変動もあり唐末期には森林資源が枯渇した。燃料としての薪が無ければ〈やきもの〉はやけない、この危機を救ったのは石炭であった。石炭は火力が強く燃える時に大量の酸素を必要とし、一時代前の窯に比べ通気口の数が三倍程増えた。華北で有名な定窯の白磁は、やゝ黄色味を帯び始めた。所謂、牙白と呼ばれる色である。白磁は胎土や釉薬から出来るだけ鉄分を除去する、それでも微量に残った鉄分が酸化焔でやかれ、黄色味を呈する酸化第二鉄に変化し牙白となった。
青磁は青色の〈やきもの〉。空の色。中国人の心ノ色である。陶の表面に青色を帯びさせるには、釉薬に微量の鉄分を含ませ還元焔焼成を行う。薪を大量投入し酸素不足の状態でやく、所謂、攻め焚きをする。陶肌は、微量の鉄分が酸素を奪う還元作用により青味を帯びる。薪を求めて温暖湿潤な江南で発展した。白磁と青磁は、陶土も釉も窯の焚き方も、全く別の〈やきもの〉であった。
北宋時代になると香り高い白色の〈団茶〉が発明され、その〈団茶〉を用い〈銘闘〉が行われ科挙官僚・地主・文人ら士大夫や朝廷の中で流行した。〈団茶〉は以前〈餅茶〉と呼ばれ固形で保存された。表面は黒、又は濃紫で、墨の塊のように黒光りし、高級品には皇帝用の証として龍や鳳凰の模様が浮き彫りにされた。新茶の芽を蒸し水に晒し、絞ってあくを抜き、擂って水を加え、揉んで型に入れ固めた緊圧茶であった。飲む時は、その固まりを金槌で砕き粉末にして篩にかける。すると雪のように白くなり、湯を加え攪拌すると薫りと精気が蘇る。たいへん手間の掛かる飲料であった。
〈銘闘〉とは茶の競い合いで、賭事にも用いられた。茶の善し悪しは、
一ッ。 茶が水面に浮く。茶の挽き方が篩いの目より細かい事が問われる。
一ッ。 色比べ。 鮮やかな白色が、勝。
茶と湯の混ざり具合が悪く、内側に沿い丸い斑紋が現れると、負。
〈銘闘〉をする為の茶乃碗は、福建省の建窯でやかれ、建盞と呼ばれ天下に名を馳せた。建窯の近く建鴎北苑には宋朝の帝室御料茶園があり、中国第一の茶と建盞の産地であった。建盞は釉薬や胎土中の鉄分と酸素を酸化作用により化焔焼成させ、黄色や褐色・黒色を帯びさせる。鉄分が多い当に鉄の〈やきもの〉である。胎の厚みが有り、一旦温まると冷めにくゝ黒釉の漆黒等が、白色の〈団茶〉を引き立たせ人気があった。中国では兔の毛の様な紋が顕れる事から〔兔毫盞〕と呼ばれ、日本では紋を稲の穂先、芒に見立て〔禾目天目〕と呼んだ。中国には〔天目碗〕という呼び名は無い。天目と謂う名称は、宋代禪宗の中心地だった〈天目山〉からきている。鎌倉時代から多くの日本人が〈天目山〉に留學し、流行していた喫茶を嗜み、使用した鉄釉の〈やきもの〉を持ち帰り喫茶習慣を広め、建盞全般を〔天目碗〕と呼んだ。
流行の建盞を、好ましく思わない禪林の僧がいた。坐禪を助ける薬として用いていた茶が〈銘闘〉のような競い合いや、娯楽になっている事が許せなかった。寺は嫌でも沢山の什器が必要で、建盞を見る度、深く嘆いていた。宋が北方の元に圧され、南宋の都も浙江省抗州に移った。臨濟宗揚岐派一派が南宋貴族社会に迎え入れられ、修行の場である山中にも世俗が入り込み始めた。僧は心騒ぐ物は寺から排除したかたっが、唐代の器は手に入りにくゝ値が張り貴族達の物だった。
僧の名は虚堂智愚。十六歳で普明寺師蘊に従い出家し、運庵普厳の法を嗣いだ。報恩・顕孝・端厳寺等を歴住。育王山四十一世を経て、浄慈寺四十三世となり、同寺の再住、四十六世となった。浄慈寺は永平道元禪師が入宋し、十三代天童如浄禪師の下、三年間修行し曹洞宗の禪法と法衣を受けた寺で、上海南対岸にある港町の寧波から、杭州湾を遡った西湖南岸にあった。
虚堂は人生や仕事が上手く行かぬ時に陥る原因は心にあると、平易に教えを説いた[虚堂智愚和尚十病論]と云う、心ノ病を示した言葉で民衆に知られていた。
第一ノ病は、自信の及ばざる処にあり(失敗からも成功からも学べていない事)
第二ノ病は、是非得失の処にあり(目先の報酬にとらわれる事)
第三ノ病は、我見偏執の処にあり(自分の偏見によって動けない事)
第四ノ病は、限量かきゅうの処にあり(固定観念に囚われ、こうあるべきと決め込む事)
第五ノ病は、機境不脱の処にあり(心が自由に働かず、視点を変えられない事)
第六ノ病は、小を得て足れりとなす処にあり(小さな満足に甘んじる事)
第七ノ病は、一師一友の処にあり(交際や知識の範囲が狭い事)
第八ノ病は、旁宗別派の処にあり(一つの理論に凝り固まる事)
第九ノ病は、位貌拘束の処にあり(見栄や外見にとらわれる事)
第十ノ病は、自大了一生不得の処にあり(慢心が起これば一生涯何も得るものがない事)
浄慈寺から遙か南に下った台湾の対岸、同安窯という青磁をやく窯に、陶工孝中がいた。日頃、[虚堂智愚和尚十病論]を胸に研鑽していた孝中は、中国第一の南宋官窯郊壇窯で働きたかった、腕も持ち合わせていた。郊壇窯は北宋時代の官窯である汝窯の青磁を再現する為、帝室が開設した官窯であった。杭州烏亀山麓にある大窯・金村等の六ヶ所の窯では〔砧青磁〕を焼造し天下に知られた。郊壇窯周辺には、王湖・安仁口など二十数か所の窯が集中し、龍泉窯という総称で呼ばれていた。周囲の遂昌県・永嘉県等にも窯は広がり、更に福建省南部にも及んでいた。これら諸窯も発祥は北宋時代で越州窯の支窯として開かれた。龍泉窯は初め灰青色の越州窯青磁の系譜を焼成したが、後に青緑に発色する独特の釉色を開発し、次第に越州窯を凌駕した。同安窯は龍泉窯の辺境で、港に近い事もあり雑器や質を求めない大量生産の輸出品をやいていた。
孝中は汝窯の陶工長屋で産まれた。祖父孝文は高麗の官窯扶安から陶磁技術を学ぶ為、中国に派遣され、北宋の女性と結ばれ貧しい乍ら幸福に暮らしていた。孝中が赤子の時、女眞族国家〈金〉により汝窯周辺は占領され両親は戦の中で息絶え、祖父は高麗より帰国の命が下った。祖母は汝窯の陶工頭の長女で、孝文と引き裂かれ孫の孝中を連れ、曾祖父が率いる陶工達と共に、歩き辛く整形された纏足の身で南へと逃げ、苦労の末ようやく縁故の窯に辿り着いた。陶磁技術は北が上で南は劣っていた。北の陶工達は南部の冴えない地方窯で喜んで受け入れられ作陶を始めた。彼らのやいた青磁に刻まれている文様には、北部の窯で開発された〈劃花〉という技法が使われた。〈劃花〉は陶磁器の破片を薄く削り、其れを道具として乾く前の胎土に文様をつける。流れるような文様を刻むには熟練した腕が必要だった。北の陶工の誇りが、南部の青磁に刻まれた。
孝中の曾祖父は、龍泉窯に着くと安堵したのか、過労が元で寝込んでしまった。漢民族は自分達を文化の開けた地を表す華夏と呼び、周辺異民族を東夷・北狄・西戎・南蛮と呼び差別した。庇護者であった曾祖父が息を引き取ると、祖母と高麗の血を引く子は、東夷として周囲から冷たくされ、同安窯の外れにある窯で薪を集める下働きで食い繋いだ。孝中は見よう見真似で、陶工としての技を盗み、腕を磨き成長していった。
或る日、孝中の住む村に骨董売が大きな荷物を抱え遣って来て、小屋を借り品物を並べ、中心に誇らしげに美しい青磁の壷を置いた。村では誰も買えない代物だと一目で判った。骨董売は生き甲斐であるかの様に、小屋の前を通る人毎に自慢げに同じ講釈をした。
〝宣和五年(1223)六月、高麗の首都開京を訪れた除兢が北宋に戻り、皇帝徽宗に[宣和奉使高麗図経]という記録を捧げた。その中に『近年以来、高麗青磁が優れて進歩し、色も実に美しい、青磁の美しいものを高麗人は翡色と呼び、塗金や銀の器より尊んだ、実に精緻な彫りの青磁が作られた、支那の越州古秘色、汝州新窯器に似ている』その高麗青磁がこの壷だ。徽宗皇帝といえば、禪僧圜悟克勤様の[碧巌録]時代だ。〟
村の陶工達は、中国青磁が高麗物に劣るわけはないと憤慨したが、除兢が持ち帰ったという青磁を見て驚きを感じた。中国の材料・技法とは違うようだし、確かに素晴らしい色と形をしていた。孝中も噂を耳にして見に出かけた。
「翡色というのか、この色が」手に持ち眺め、裏返して高台を見た、陶胎に彫られた銘を見て目を疑った『孝文』とある。優しい祖父の名であった。祖父は青磁を高麗に伝える使命を見事に果たし、中国に勝るとも劣らぬ技術を極め此をやいた。間違いない、此は祖父から送られてきた私達家族への便りだ。
祖母に話すと直ぐ見たいと言う。祖母は胸を患っていたが、孝中の肩に掴まり必死に小屋まで急いだ。開けはなたれ、階段状の棚に並べられた品々の中、青磁が薄暗い室内で浮き出て見えていた。祖母は肩で息をし乍ら、深く青い色に魂を吸い込まれたかの様に立ち竦くんだ。暫くして中に入り、壷を手に取り天地を反し、高台を食い入るように見て小さく頷いた。壷を抱きしめ、しゃがみこみ咽ぶように泣いた。孝中も嬉しくて涙が溢れた。しかし、涙が枯れると、置き去りにされた中国で、孝文の跡を継ぎ高麗に陶磁の技を伝える義務感に燃え、必死に研鑽していた事への空しさで虚脱感に襲われた。
亡くなった曾祖父を恨み、気付かぬうち祖母にも冷たく接していた。祖母は祖父と高麗へ行かなかった事を後悔し、坂を転げるように病が悪化した。祖母への態度を慚愧し謝ろうとしたが、泉下の人となってしまい、亡骸を曾祖父の墓に納めた。祖母への罪の意識と、空蝉になった心で何も手に付かなくなり縋る思いで産まれ故郷と同じ北方の浄慈寺へ、心の病を説く虚堂の下へと向かった。 孝中は碌に眠らず夢遊病者の様に二十日間も歩き、寺に着いた。字から伝わるものでは救われないと思い、直に言葉が欲しかった。
虚堂は名のある高僧で常に周りに多くの人がいたが、取次の僧に事情を話すと快く会わせて貰う事が出来た。絶望の中、精気を失った孝中が話し出そうと渇いた口を開くと、虚堂は突然、自らの茶乃碗に対する考えを語り出した。
「心が乱れぬ茶乃碗が欲しい。碗は碗。中に何が入っていようが、いまいが。貴族が飲もうが庶民が飲もうが変わらない。誰にでも手が届き何処にあっても邪魔にならず、あれば有意義な〈空ノ碗〉。我々を包み込む大気の様な、有る事にすら囚われない。掌に修まる〈空ノ碗〉」
淡々と話す虚堂に引き込まれ、幻翳を感じ、まだ見ぬ其の碗を造りたい。自分でしかやけないと思った。陶工としての精気が戻り目が輝き、冷めた心に熱いものが蘇った。
同安窯に戻り試行錯誤を繰り返し、微かに見えていた幻翳の碗を目指したが、どうしても作為的になってしまった。虚堂の言葉を噛み締め、取り憑かれた様に作陶を続けた。心が乱れぬ碗。何かの為に造るのではなく碗に成り切る。技術の向上や、目標の為ではない。無に成り切った自分が、無心に造る〈空ノ碗〉。独楽は止まれば倒れてしまう。やき続ける。それが己に課した行であった。 鉄分を無理して抜かない胎土。轆轤は無造作に仕上げ、薄くもなく重過ぎもしない、雑に扱っても壊れない胎の厚い丈夫なもの。模様は特定の何かを彫るのではなく、思いついた儘。使い慣れた青磁の釉薬をかけ、焼成温度は磁器より低く、陶器より高い。焼成過程で酸素を抜けば限りなく透明度のある青に、酸素が入れば酸化し黄色となる。青と黄の間の斑な緑。中道を進んだ。一昔前の唐時代青黄釉に近い青くない青磁がやけた。自分でもおゝらかに楽しめる様になり、幾つかを持ち虚堂を尋ねた。
「これでいゝ、これでいゝ」笑いながら虚堂は掌で翫んだ。
「又、やいてくれ。煩悩と悟が調和した色じゃ。色即、菩提じゃ。《青黄茶碗》とでも呼ぶかのう」 孝中は寺から少し離れた処に小さな窯を築く事にした。
日本僧が浄慈寺を目指し西湖南岸を歩いていた。周りの森を陽炎の様に優しく揺らす窯の前で蹲るように、
【應無所住而生其心】
[金剛般若波羅蜜経]の一節を何度も唱え乍ら仕事をしている陶工がいた。孝中である。僧は、邪魔をせぬよう近づいた。孝中は蹲ったまゝ声を掛けた。
「道に迷われたか」背の曲がった翁のように見えたが、振り向いた顔は僧と同じ年頃であった。
「行く処は決めていますが、迷い乍ら、こゝまで参りました」
「一仕事終えたら、茶を共に如何ですか」そう言って、傍らの木槌で窯の焚口を崩した。大きく景色が揺らめき、孝中は一桶、水をかぶり蜃気楼の様に見える窯の中に入った。時間をかけ二十回程出入りし、大切に持ち出した物を、丸太を二つ割りにした上に載せた。全て茶乃碗であった。表面に細かい罅が入る度、小さな声で碗どうしが囁きあっている様であった。見るでも触るでもなく無造作な動きで三碗を選り出し、後は躊躇無く砕き孔に丁寧に埋めた。
孝中は休みもしないで、経山茶と竹ノ子の水煮を振る舞ってくれた。茶乃碗は今、やけたばかりの碗と同じ手だった。おゝらかで飾り気が無く、陶工の人柄が現れている様だった。僧は茶を喫し、幻影の様なものを感じた。其れは、まるで虚空に浮遊した蜘蛛ノ糸が奏でた音曲の様であった。
孝中も茶を喫し、茶乃碗を両手で包み込むようにし乍ら話し出した。
「《青黄茶碗》と虚堂和尚が名付けて下さいました」
「虚堂和尚。虚堂和尚とは、浄慈寺の虚堂智愚禪師の事でしょうか」
「貴方が歩む道の先は和尚でしたか。
今から和尚に此の《青黄茶碗》を御見せしに行きます。夜道を歩き明け方になってしまいますが、宜しければ一緒にいかゞですか。私は器造しか出来ぬ、孝中と申します」
「申し遅れました。日本から師家を求め参りました南浦紹明です。宜しく御導き下さい」
浄慈寺が近づくと、日の出前の薄明で、ぼんやりと夕照山上に聳える雷峰塔が見えてきた。呉越王が黄妃出産を祝い建てたと伝えられている。〔黄妃塔〕が正式名であるが雷峰にあるので皆、雷峰塔と呼んでいた。宋代の詩人蘇東坡は、美しい西湖を春秋の美女西施に例え、七言絶句を詠んだ。
飮湖上初晴後雨 湖上に飮み、初め晴れるも後に雨ふる
水光瀲艶晴方好 水光 瀲艶として、晴れて方に好し
山色空濛雨亦奇 山色 空濛として、雨も亦た奇なり
欲把西湖比西子 西湖を 把って西子と比せんと欲すれば
淡粧濃抹總相宜 淡粧 濃抹 總て相 宜し
(晴れた日は光り輝く水の面、雨の日は風情を添える霧の山、西湖を絶世の美女の西施にたと うれば、雨の西湖は夜衣のまゝ寝乱れ髪も妖しく婉然と横たわる西施を彷彿させ、晴の西湖 は眉を引いて煌びやかに盛装した西施の、絢爛たる姿を思わせ、人びとを魅了してやまない)
咸淳元年(1265)六月、透き徹るような清々しい夜明、二人は浄慈寺の三門を潜った。南浦は宋に渡り七年目、やっと師家の足下に辿り着いた。敢えて南浦は孝中と三門で別れ、入門を取り仕切る知客に来訪の旨を告げ、庫裡に坐す虚堂に挨拶をしにいった。〈挨〉は近づく事。〈拶〉は引き出す事。身をさらし道を求めた。嘉禎元年(1235)駿河国安部に生を受け、建穂寺浄弁に學び、道号の南浦を授かり、建長元年(1249)十五歳の時、鎌倉建長寺の蘭溪道隆の下で、剃髪受戒し紹明の法号を得た事。南浦は行脚の発心を想い返し、虚堂の懐に飛び込んだ。
〝十代半ばの南浦は、蘭溪の講話をわくわくし乍ら聞いた。漢語を交え、理解しやすい話だった。特に菩提達磨大師が、禪を支那に伝えた講話が好きであった。
「諸子よ、今日の咄は禪の根幹ぞ。よく胸に叩き込み謂わんとする事、得心せよ。じゃが、此処には在家の信者もおるで楽しく咄さんと、涅屋で真っ黒になっとる炊事係の典座様に『建長寺汁の身が減る』と怒られ、飯の量を減らされるで、易しく易しく語る事としよう。
扨、皆も知っとる菩提達磨大師様の咄じゃ。大師様は師の般若多羅尊者に告げて云った。
『我 今既に法を得たり。当に何の国に往きてか佛事を作すべきや。願わくは開示を垂れたまえ』
『汝 法を得たりと雖も、未だ遠く遊ぶべからず。且らく南天に止まりて、吾が滅後 六十七載を待ちて、当に震旦(支那)に往きて大法薬を設け、直に上根を接すべし。慎んで速やかに行くこと勿れ』始めから、ちと難しいかの。では解説しよう。
大師様は尊者に問うた。お陰様で大法を我がものとし、法嗣として印可されました。この上は大いに大法を挙揚致し衆生済度の為、働きたいと思いますが何処へ行ったらよろしいでしょう。己を救う小乗は完成したが、皆を救う大乗を問われた。汝は確かに我が法を嗣いだが、まだ遠くに行ってはならん機縁が熟しておらん。暫く南天竺に留まり時を待て。儂が亡くなり六十七年待ち支那に行き施設をとゝのえ法を挙揚しなさい、急いではならん。大師様は素直に従い尊者の滅後、徳力を練り、邪宗の者達を論破・教導し尊者の帰寂、六十七年経ち動いた。律儀な性格よのう。
南無釈迦牟尼佛の没後、千年。大師様の時代は佛教を手厚く保護普及した阿輸迦王も亡くなり、ヒンドゥー教が流布しはじめていた。大師様の居られた地は、東南諸島や支那南部との海洋貿易が盛んで、南支那海をめぐり様々な人や物が交流していた。尊者は佛教の衰退に危機感を抱き、異国への布教を考えておったのじゃろう。儂の郷、南宋も同じ。悲しい事じゃ、その咄は置くとしよう。 大師様は船で三年、島々を逍遙し広州に辿り着ついた。支那南部は梁が治め、鳩摩羅什による教典翻訳も進み佛教文化が華開いていた。梁の武帝は佛教を厚く信仰しており、大師様を喜んで迎えた。揚子江沿いにある都の建康(南京)で、大師様が武帝と問答したのはこうした時じゃった。武帝は期待を込めて問われた。少しは漢語も得意なところを見せよう。
【帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契】
長く漢語でやっとると、皆の瞼が重くなるで、倭言葉にしよう。
『私は即位以来佛教を深く信じ多くの寺を建て僧侶に沢山供養を施して来たが、一体どんな御利益があるだろうか』当時、佛教に対する態度は、寺に供養をして代わりに御利益を頂く、まるで神頼みのようなものじゃった。大師様は一言『無功徳』何の御利益も有るものか。悟の境地からすれば功徳・御利益を求め修行や礼拝しても、得るものは何も無いと突き放した。意図を解さぬ武帝は、『如何なるか聖諦第一義』矛先を変え問うた。佛教の根本教義は何かという事じゃ。『廓然無聖』カラリとした虚空の様なもので、聖として求めるものも、凡として捨て去るものも無いと謂われた。『私の面前にいるあなたは何者だ』武帝は苛立っていた。大師様は『不識』知らん、と一言。
功徳とは、どの様なものであろうか。太陽は古より光と熱を放って、大地に光や熱を送っておるが、人をはじめ万物を育てゝやろうなど意識しておらん。感謝されようなど全く考えておらん。有難いと思われようが、暑い暑いと云われようが、太陽は本然の自性の儘に輝いておる。恩恵を施しているという意識も、功を誇る事も、是も非も無い。佛ノ慈悲、禪者ノ心は、この様なものではないだろうか。
咄を戻そう。武帝は大師様の答を喜ばなかった。大師様は縁がなかったと思い魏に向かった。魏は日ノ本の卑弥呼時代の王朝。三国時代、魏志倭人伝の魏じゃ。後に武帝は後悔して、人を遣わし大師様を呼び戻そうとしたが後の祭りじゃった。十月十九日夜、小舟に乗り潜かに揚子江を渡り北方の魏に赴き、十一月二十三日洛陽に到着した、魏の孝明帝の正光元年であった。そして、東方にある嵩山少林寺で坐禪三昧の日々を送られ、真の求道者の現れるのを只管ら待たれた。禪とは〈言乃葉〉の教えではない。心と心の触れ合い。貴い南無釈迦牟尼佛の御心を受け継ぐ事じゃ。
【不立文字 教外別傳 直指人心 見性成佛】
其の心は文字や言語・経典によって傳えられるものでなく 師弟の心から心に直接傳えられる。ずばりと心を掴む事により、自己が本来は佛であると気づく事。此の四句に教義を纏めたのじゃ。
南浦。喉が渇いたの、皆にも茶を。鼾をかゝれると、儂も負けずに大声を出さねばならぬで、疲れるでな」
「扨、大師様は傳うるに足る者を待ち、二祖となる慧可と出会った。
『時に神光なる者あり。曠達の士なり。久しく伊洛に居す。群書を博覧して、善く玄理を談ず。毎に嘆じて云く、孔老の教は礼術の風規、荘易の書は未だ妙理を尽さずと。其の年十二月九日夜、天大いに雪を雨らす。神光堅く立ちて動かず、明に到る。積雪 膝を過ぐ。
磨 憫みて問うて云く、汝久しく雪中に立つ、当に何事をか求むべき。
光 悲涙して云く、惟願わくは和尚、慈悲甘露の法門を開き、広く群品を度したまえ。
磨云く、諸佛無上の妙道は、昿劫に精勤し、行じ難きを能く行じ、忍び難きを能く忍ぶ、
豈に小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀わんと欲するは、徒に労し勤苦するのみと。
光 磨の誨励を聞き、潜かに利刀を取り自ら左の臂を断ちて磨の前に置く。
磨 是れ法器なることを知り、名を易えて慧可と云う』
また難しいのう。神光とは慧可の出家前の名。『曠達』は心が広く豊かで片寄らない識見広大な人物の事。『伊洛』は都である洛陽の近くを流れておる伊水と洛水二つの川。都に居をかまえておったと云う事じゃ。『博く群書を覧て、よく玄理を談ず』神光は四書五経諸々の書を読み、道理に通じておったが、孔子老子の教えは俗世の倫理道徳、世渡りの術に過ぎない、解き方は浅く『未だ妙理を尽くさず』と嘆じた。〈人生如何に生くべきか〉という問題の解決を求め、人生を貫く根本の法を体得し、その上に立ち大安心を得て生きたいと願っていた。天竺から大師様が、少林寺に来られたと噂を聞き、この方なら求める処を与えて下さるであろうと思い訪れたが、何時行っても大師様は、たゞ面壁坐禪しておられ振り向いてもくれない。十二月九日の夜、今度こそ入門が許されるまで絶対に山を降りぬと決め少林寺を訪れた。大雪で夕方から風が出てきても、大師様は依然、壁に向かって坐していた。神光も庭先に佇立して動かぬ。夜は深々と更け、卍巴と雪は降り、到頭夜は白々明けてしまった。一晩中降った雪が、立ち尽くした神光の膝を過ぎておる。大師様も徹夜で坐禪をしておられ、明け方ようやく振り向き『憫れみて問うて云く、汝久しく雪中に立つ。当に何事をか求むべき』何を求め立っておるのか。声を掛けて下さった嬉しさの感涙をぬぐい『惟願わくは和尚、慈悲甘露の法門を開き、広く群品を度したまえ』と訴えた。神光の偽らざる願いであろうが、求道の志、切実さが現れておらぬ。気取りすら見える。『群品を』衆生を、ではなく自分を救って下さい、でなければ本当の願いとはいえない。詰まっているなら、他人事のように云っている暇はない。未だ切実に成り切っておらぬと鋭く察知し、大師様は云われた『諸佛無上の妙道は、昿劫に精勤し、行じ難きを行じ、忍び難きをよく忍ん』。『諸佛無上の妙道』とは禪道佛法の事で『昿劫』とは無限に長い時間を意味する。無限と云わんでも、二、三十年挫けず精励しなければ、無上の妙道は得られない。
修行僧は道友の前で、棒を食らわされたり、室外に突き飛ばされたり、顔から火が出るほど恥をかゝされたりして耐え、今日ある。手荒がよいではないが、そうでもしないと強情我慢は直らず、娑婆での臭みはとれない。我を殺し無尽の煩悩を断ぜんが為には、こゝの処が必要なのじゃ。
大師様は小賢しい知慧才覚や一時の軽率な好奇心や感激で動かされ修行を始めても、到底長続きはしない、骨折り損になってしまうのが落ち。『真乗を冀う』事など思いもよらない。『真乗』は唯だ一乗の法のみあって二も無く、三も無い絶対無上の法。お主のような輩が『真乗』を得ようとしても駄目じゃ。おやめなされ。そう云って壁に向かい坐ってしまった。非情な扱いが、禪門名物。求道の切実な心が無い者に修行させてもどうにもならぬ。一度限りの人生、悔いのないよう生きたいもの。棺桶に片足入れてから、あゝ我、誤てりと後悔し、もう一度やり直したいと思っても人生だけはやり直しがきかん。一日一日を必死に、どう生きるかゞ本当に生きがいある生き方といえる。この問題を解決しようという決意。これが求道心じゃ。〈人生如何に生くべきか〉という〈大疑団〉を抱き『釈迦も人なり、達磨も人なり、我も人なり、彼らに出来た事が、儂に出来んはずない』退転しがちな心に鞭打ち、大勇猛心を奮い起こすのでなければ、修行は成就しないのじゃ。 大師様の非情な戒め激励にあい、神光は遂にたまらなくなり、利刀を取り、自ら左の臂を断ち、大師様の前に置き、不惜身命財で修行に励み、このとおり命も惜しみません。と決意を表した。
〈身体髪膚受之父母、不敢毀傷孝之始也〉(身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるはこれ孝の始なり)徒らに我が身を毀傷すべきではないが敢えて臂を断った〈慧可断臂〉じゃ。表面を見ないで、心を看てほしい。何かを得ようとするなら、大切な何かを切り捨てる覚悟が必要じゃ、同時にもう一つの意思が含まれる。禪修行は〈大信根〉が必要じゃ〈大信根〉とは、自らの師家に対する絶対の信。断臂は神光が大師様へ寄せる絶対の信を表明した形じゃ。〈大信根・大疑団・大憤志〉とは、師への絶対の信を持ち続け、南無釈迦牟尼佛が抱いた〈老・病・死〉を宿命として〈生〉に対する、大いなる疑いを持ち、勇猛に精進奮起して行く心。大切な鼎の三つ足じゃ。
大師様は神光の不惜身命財の決意、自分に対する信頼の表示を看て、鍛えれば法を傳えるに足る人物。法器であるわい。と、入門を許し慧可という法諱を授け、傳法の偈を与えた。
【吾本来茲土 伝法救迷情 一華開五葉 結果自然成】
我れこの国に来ってより、法を傳え迷情を救う。一華開くとは、心の華を開く、佛性に目覚める事じゃ。清浄無垢な心に立ちかえる事。五葉とは五弁の智慧花びらに当てられる。心華が開けば、やがて自然に佛果菩提の実を結ぶ。
大円鏡智 (清浄な心、大きな円鏡は全てをそのまゝ映しとる智慧)
平等性智 (周りにある全てをわけ隔てなく平等に佛心を現す智慧)
妙観察智 (優れた観察力をあらわす事の出来る智慧)
成所作智 (佛の智慧のよりあらわれる行い。所作)
法界体性智 (一切の存在、世界の全て佛ノ心の顕現であるとする智)
大師様と慧可の咄をもう一つ。
【請う和尚、心を安んぜよ 心をもち来たれ、汝がために安んぜん
心を覓むるも不可得 我れ汝がために心を安んじおわる】
(私は心が落ち着きません、どうか心を落ち着かせて下さい。
その落ち着かぬ心をひとつ儂にみせてくれ、そうすれば落ち着かせよう。
それはどこを探しても見つける事ができません。儂はいま、お前の心を落ち着かせ終わった) ハイ。今日はこれまで。南浦、もらった大根の葉も、粗末にしてはならぬぞ」〟
南浦は虚堂に、蘭溪の弟子であった事。學んだ事。自らの求める処を直心で語った。南浦は師の蘭溪を篤く信頼し、十年余り修行に励んだ。その師が〈大疑団・大憤志・大信根〉を持ち実参実究しに旅立てと促した。蘭溪が宋から持参した二十二本の柏槇の若木が続く前栽列樹を抜け、三解脱門(空・無相・無作)を世俗へと潜り抜け日本を出帆した。
虚堂は蘭溪を知っていた、共に佛道の危機を憂いた仲であった。蘭溪は無準師範に學んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぎ、達磨大師が禪を傳えに天竺から支那へ渡った様に、日本へと渡る時、虚堂は港で船を見送った。
南浦は日本での蘭溪の活躍を詳しく話した。円覚寺・泉涌寺の来迎院・寿福寺などに寓居し宋風の臨濟宗を広め、五代執権北条時頼の帰依を受け建長五年、建長寺が創建されると招かれ開山となった事などである。虚堂は異国で佛道を見事に華開かせた蘭溪を心より祝福した。
虚堂は個人の強い意志が、世を大きく動かす事を知っていた。蘭溪が日本で何を始め、南浦に何をさせに支那に旅立たせたか理解し、南浦と蘭溪の熱い心を感じ、自らも二人の心と繋がった。
南浦が浄慈寺で修行を始めて二ヶ月後、虚堂は径山興聖萬寿寺、勅住四十世と成る事が決まった。三年前から、鎌倉浄智寺の無象静照が虚堂の下で参禪していたが、この機に帰国を決め、虚堂は法語[日本照禪者]を書き与えた。南浦は虚堂と共に寺を移り、孝中も径山の中腹に窯を築いた。
虚堂の産まれ故郷に近い萬寿寺は、東支那海に面する銭塘江が流入する杭州湾があり、交易で栄えていた。沿海には舟山列島など二千程の島が散らばり、中国で最も島嶼が多い所である。内陸は丘陵地帯で天台山・四明山・天目山等が連なっていた。径山は径が天目山に通ずる処からそう呼ばれた。萬寿寺は海抜八百米とも一千米ともいわれる高山の奥深い所にあり、五山第一位の格式を備えた大寺院であった。唐代天宝年間(742~756)径山法欽国一国師が庵を結び、代宗の命で大暦四年(769)開創された。紹講七年(1137)大慧宗杲が管掌し、後に無準師範が住持した。永平道元・円爾弁円・無学祖元等、日本からの入宋僧の大半はこの寺を訪れた。
虚堂は萬寿寺住持となる為、菩提達磨大師の遠忌日に晋山式を執り行った。三門に到着すると、香を焚き、佛法への見識を朗々と述べ門を潜った。太鼓が山々に響き渡る中、従者も連れず正面を見据え参道を進み、本尊に対し新任の挨拶を行い、佛法の守り神である土地堂で寺の繁栄と国土の末永い豊穣、全ての子孫長久を祈った。これから住まう事になる自身の方丈である拠室に入り、寺に伝わる数々の視篆印鑑を確認する儀式を行った。
本堂に集った役僧達は虚堂を待つ間、空坐の須弥壇上に対し、教えを受ける礼として空坐問訊を始めた。鼓一会で首座・書記・知蔵・知浴・知殿・知客の六頭首が上殿し、西序に入り空坐の前で横に並び一斉に問訊し末位より退いて西序の位に屹立した。鼓二会で都寺・監寺・副寺・維那・典座・直歳の六知事が上殿、東序に就き末位より空坐前で問訊し上位より引き東序の位に屹立した。 再び大地を揺るがす太鼓が轟く中、虚堂が本堂に上殿した。開山以来伝わる伝衣を著ける伝衣搭著の式を行い、虚堂は須弥壇上に登坐した。一瞬、全てが凍り付く様な静寂が全山を覆った。額より上に、長い香を捧げて拈香法語を唱え始めた。恰も森羅万象を震わす波動の様な音声であった。十四人の僧が同時に茶を點てはじめた。茶乃碗は《青黄茶碗》。
祖佛に一碗ずつ。南無釈迦牟尼佛 摩訶迦葉 菩提達磨大師 普覚大師慧可
六祖慧能大師 南嶽懐譲 馬祖道一 百丈懐海
黄檗希運 臨濟義玄 圜悟克勤 密庵咸傑
全ての歴代住持。(径山法欽・無準師範・大慧宗杲・・・・・)
全ての師。 (師蘊・運庵普巌・・・・・・・・・・・・)
十四碗の《青黄茶碗》で一気に茶が献じられ祖佛・歴代住持・虚堂の師に対し報恩香語を唱え香を焚き、続いて信徒の先祖を供養し、皆の隆昌発展を願い焼香した。当に、達磨大師その人が、須弥壇に登坐したかの様であった。
白槌師が槌砧を打ち問訊して大問答の開始を宣言した。虚堂は問答の契機となる垂語を述べ大衆を誘い、問答が半日に渡り行われた。虚堂は疲れも見せず拈香を唱え、結語として古人の踏み行われた跡を偲び、問答の結びの〈達磨忌拈香語〉を唱えた。
『般若多羅の懺に應じて、嫩桂 差うことし、流支 三蔵の疑を破って、詞鋒峻烈なり、
従れより六宗 影を欽め、正脉流通す。一花五葉、満地に香を吹く、海竪山椒 咸く 聖澤に霑ふ。月の良、春の小 莢五敷す、此の兜婁をたいて、少しく攀慕を伸ぶ。
且道へ、大師 還って来る や也無や。香を挿んで云く、不審 不審』
再び、白槌師が槌砧を打ち、虚堂は須弥壇より下坐され、山々は常の静寂に戻った。
南浦は虚堂の下で参禪を続け三十一の時、坐禪中大悟し、悟の詩として投機の偈を虚堂に呈した。
忽然として心と境と共に忘ずる時は、大地山河機に透脱す。
法王の法身は全体現ずるに、時人は相対すれども相知らず。
(坐禪中、忽然として心境不二の境地に至り、大地山河と一つになり心が透脱してしまった。 この時自己本来の面目はその全身を私の前に現わし私は悟った。
世間の人はこの〈自己本来の面目〉に常に相対しているが、その事を自覚していない)
偈を見た虚堂は大変喜び、『這の漢参禪大徹せり』と悟を認め南浦に印可を授けた。
虚堂は、南浦と孝中を拠室に呼び、長方形の板二枚を四本柱で支えた黒い棚の前に置かれている椅子に座した。地板には風爐釜が、天板には佛に供える什器の様な物と《青黄茶碗》そして、蓋のない青磁の小壷が載っていた。
「今日は変わったものを二人に飲まそうと思い来て貰った。これは茶を點てる茶乃具を、一纏めにしたもので臺子と名付けた。二人とも椅子に座りなさい」
虚堂は椅子に座ったまゝ小壷から団茶とは異なる緑の粉末を、金属製の薬匙で《青黄茶碗》に掬い入れた。柄杓を使い釜から滾らせた湯を注ぎ、細い竹を束ねた簓でゆっくり攪拌すると茶の豊かな薫りが室内を満たした。
「うまく點ったかのう、気を抜くとダマが出来るでな。冷めぬうち一緒に飲み回しておくれ、残ったら儂も味見しよう」《青黄茶碗》を差し出した。茶乃碗に映える鮮やかな緑色の茶であった。
南浦が飲み、孝中も、虚堂も飲み同じ幻翳を味わい暫し無言になった。そして顔を見合わせ大きな声で笑い出した、三人の唇が緑色に染まっていた。
「この様な濃い茶。戴いた事がありません、噛み砕くような飲み物で御座いますね」
南浦が感想を述べると、孝中も唇を拭き乍ら、
「頭が冴えました。私のやいた茶乃碗に、とても映りの良い茶で御座いますね」
「この濃い茶は、団茶よりも若々しく、旨味も薫りも勝っているように感じました」
「南浦、勝ち負けは無い〈銘闘〉はせぬ茶。これを飲み夜禪をすると眠くならん。修行の薬じゃ。ところで孝中。この小壷は高麗でやかれた青磁。以前聞いていた、お前の祖父孝文様の青磁と同じ手だと思うが、どうじゃな」
「先程より気になっておりました。翡色と云い〈劃花〉の削りと云い、祖父の手による物かと思います。どちらで手に入れられたのですか」
「杭州湾に入港した船の頭が、この山奥まで詣でた折りに納めた物。六年前、高麗富山浦{釜山港}近くの窯で手に入れた物らしい。陶工は孝文様の年齢に近く年老いておったそうじゃ」
「そうで御座いましたか。其の窯で祖父は青磁をやき続けておるのでしょう」
「そうかもしれぬ。孝中、先祖の地である高麗を一度見てみたらどうじゃな。
南浦。お前の支那での荒研ぎも済んだ。蘭溪の下に戻り、仕上げてもらったらどうじゃ。先程話した船頭の船が、六日後に高麗経由で日本に向け出帆する。二人には無断であったが、乗船の事、頼んでおいた。如何に」
「虚堂様」南浦と孝中二人同時に、諾とも、礼とも、別れともとれる声を発し拠室を出た。
虚堂は南浦との別れに臨み一偈[児孫日多ノ記]を与えた。
門庭を敲カツして細に揣磨し 路頭尽くるところ再び経過す。
明明に説与す虚堂叟 東海の児孫日にうたた多からん。
(お前は諸方の門をこつこつと叩いて、精細に禪の奥義を究明した。行き着くべき所に行き着 いたお前は再び日本に帰る事になった。私はお前の為に私の禪の全てを明らかに授け終った。 日本に帰ったら、お前の力によって日ごとに禪宗が栄える事であろう)
南浦と共に修行をしていた四十三人の僧も詩文[一帆風]を寄せた。
二人を乗せた船は出帆した。南浦は帰国を待つ人達の為、書籍や臺子・建盞・煌びやかな荷を積み込み、晋山式の時に用いた十四碗ノ内、十二碗の《青黄茶碗》の束も大切に積んだ。
孝中は着替えの他、十四碗ノ内、二碗の《青黄茶碗》だけを船に持ち込んだ。虚堂からは青磁の小壷を、南浦からは沢山の餞別を贈られたが全て辞退した。高麗で知る人は孝文だけ、その祖父も消息は不明で土産等必要なかった。しかし、けっして希望のない船出ではなく、無一物で新天地に赴く事で無尽蔵の可能性に心躍らせていた。
虚堂は、十四碗ノ《青黄茶碗》を二人に託した時、禪ノ心がそれぞれの国に根付く様にと祈った。二人は多くを語らず、その心を受け取り己の非力を憾んだ。
船は高麗の港で帆を降ろした。孝中には見知らぬ異国であったが、尊敬する祖父の故郷であり、熱いものが込み上げてきた。順風で船頭は一刻も早く碇を上げたいと荷下ろしを急き立てた。
孝中は船上の南浦に手を振り、南浦も船を見上げ手を振った。いつもと変わらず二人は大きな声で挨拶を交わした。
「それでは、又」恐らく永遠の別れを告げた。
高麗政権には二つの派閥があった。文班(文人系官僚)と、武班(軍人系官僚)。国王が南に向かい座して行う会議の場で、文班は東側、武班は西側に席が設けられ、両班と総称された。初めは文班の下に武班が置かれていたが、武班は不満を持ち反乱を起こし政権を奪取、新王を擁立し文班を大量に殺害した庚寅ノ乱が起こった。武班の崔忠献は政権を掌握し、自前の軍である三別抄を後ろ盾に、国王を凌ぐ権力を握った。しかし、民に重税をかけた事で反乱がしばしば起こり、国力は疲弊し蒙古の侵攻で高麗は大元の属国となった。
孝中は船頭から、孝文の窯場を詳しく聞いて訪ねたが、崩れた窯に雑草が生い茂っているだけであった。土地の者が記憶していたのは、官窯で働いていた老いた陶工が官を辞し、孤独に作陶していたが、亡くなったのか旅立ったのか、何時のまにか姿が消えたそうであった。言葉も解らぬ見知らぬ地で、孝文の消息を尋ねる事の難しさを痛切に感じた。
孝中は一人高麗の土で茶陶を始めた。技を知られ高麗の官窯で働く事を請われたが、官窯からは距離を置き、時折、訪ねてくる人に陶磁技術や、中国禪林の様子等を話して聞かせた。高麗には茶を飲む習慣はなかったが《青黄茶碗》で虚堂が點てた茶の真似事をして楽しんだ。
文永四年(1267)南浦は、建長寺の蘭溪に帰朝報告をした。蘭溪は中国で共に修行した虚堂の法を南浦が嗣いだ事を大いに喜んだ。在宋八年に渡る修行の疲れが癒えるのを待ち、祖佛師への供膳を司る役職の典座とした。
南宋から戦乱を逃れた多くの人が日本に亡命し、大元の事情が幕府の耳に入り始めた。帰国して間もない南浦に幕府は目を付け、燻り始めた国境の九州に派遣した。文永五年、大元より使者趙良弼が、国書を渡す使命を帯び来日し、其の応対をしたのが、赴任したばかりの南浦であった。
『蒙古国書 至元三年(1266)八月 上天眷命 大蒙古国皇帝、奉書 日本国王 朕惟自古小国之君、境土相接、尚務講信修睦。況我祖宗、受天明命、奄有区夏、
遐方異域、畏威懷德者、不可悉数。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、
即令罷兵還其 疆域、反其旄倪。高麗君臣感戴來朝、義雖君臣、歓若父子。
計王之君臣 亦已知之。高麗、朕之東蕃也。日本密邇高麗、開国以來、亦時通 中国、
至於朕躬、而無一乗之使以通和好。尚恐王国知之未審、故特遣使持書、告朕志、
冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。
以至用兵、夫孰所好。王其図之。 不宣』
(上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕思うに、小国の君は、国境を接し ていれば、古より修睦に努めたものだ。まして皇帝は天命を受けて中華を治め、夷狄も威 を畏れ徳を敬い、我が国に参上する者は数知れぬ。朕が即位したとき、高麗では無辜の民が 兵乱に疲れて久しかった。朕は国境より兵を引き揚げ、老人子供を帰した。高麗の君臣は感 激して来朝し、形式は君臣であるとはいえ親子のように接してきた。日本の君臣も、これを 知るべきである。高麗は、東の属国である。日本は密かに高麗と通じ、また時には中華とも 通交してきた。朕の代に至るに、使者を一人も送らず、和を通じる事もない。日本国王は、 いまだに中華をよく知らないのではないか。それゆえに朕は使者を派遣して国書を持たせ志 を告げるものである。願わくば使者を往来し、親睦を深めようではないか。聖人は四海、世 界を以て家となす。通交しない事は、一家の理ではあるまい。兵を用いるのは、好むところ ではない。王もよく考えて欲しい。 不宣)
書簡は日本は格下、大元こそ中華だという見下した内容であった。朝廷と八代執権北条時宗は眉間に皺を寄せ、要求を無視した。
文永ノ役が始まった。九百隻余りの軍船に乗った二万五千人の元・高麗連合軍が海峡を越え対馬に襲来した。噂では連合軍は島民の男を尽く殺戮。女・子供は捕え、手の平に穴をあけ綱を通して矢除けの為、船の側面に吊したと云う。九州博多に上陸した連合軍は、当に赤子の手を捻る有様であった。町を焼き逃げ遅れた女や子供達を連行し、日本の出方を見たり、何処にどんな城や村があるのか探り、弓矢の尽きるほどの威力偵察を行い、留まる事なく撤退した。連合軍の容赦ない行為は虚実を含め、根深い怨念を残した。
南浦は文永七年、筑前国早良興徳寺の住持となり、其の地で虚堂の法を嗣いだ事を自ら表明し、嗣法の書と入院の語を曇侍者に付し虚堂に送った。虚堂は南宋の理宗・度宗から尊崇され禪風を発揮していると聞いていた。南浦は便りを受け取った虚堂が『わが道東なり』東海の児孫が日本の人々に法を伝えていると喜ぶ姿を想像した。しかし、便が径山を登り切る前に、虚堂は八十四歳で疾を発し、死期を悟り沐浴端坐の後、示寂した。遷化を聞いた南浦は悲しみの中、大元との外交の最前線である太宰府崇福寺に入寺した。
大元は南宋を攻め滅ぼし後背の安全を確保し、無視し続ける不遜な日本を攻める為、大規模な軍団を準備し使者を日本に派遣した。文永ノ役での、連合軍の対馬や壱岐での領民への仕打ちの詫びもなく、恫喝的な内容だった為、幕府の命により使者は全員、竜ノ口で斬首された。
弘安四年(1281)弘安ノ役が勃発した。日本では文永ノ役を踏まえ、敵前上陸阻止の為、海岸線に石塁を築いた。連合軍は先発の高麗人からなる東路軍と、南宋人中心の江南軍の二軍に分かれ攻撃を始めた。先着の東路軍は単独上陸を試みるも石塁からの雨のような矢に射すくめられ、橋頭堡の確保が出来ず江南軍の来援を待った。連合軍は屯田兵を用い、移民し乍ら侵略する意図であったが、上陸も出来ず九州北部の海で漂い続けた。壱岐で東路軍と江南軍が合流したが、疫病が発生し、夜には日本軍が海上で跳梁跋扈し徐々に連合軍の勢力は弱っていった。
高麗人の下層階級者として孝中は、無理矢理徴兵され軍船に乗せられた。中国に残っていても、南宋人として徴兵されただろうと因と縁の不思議さを感じ、高麗に来た事に後悔はなかった。結婚もせず五十になろうとした時、間引かれそうになっていた高麗人の赤児を引取り、陶工の技を伝え禪も學ばせた。徴兵された時には、真似事乍ら一人で〈やきもの〉がやけるまでに成長した十五になった我が子の姿を見る事も出来た。《青黄茶碗》二碗を渡し、生き様を話して聞かせた。孝中は子の為にも無事に帰還したいと願ったが、無意味としか思えない戦で、生き残る為、人に刃を向ける気にはどうしてもなれなかった。
孝中は船に乗せられて以来、夜になっても浅い眠りしか取れなかった。朦朧とした意識の中で、日本軍の奇習攻撃隊が船に這い上がり襲撃してきた。孝中の前にいる味方の環刀は次々に壊された。環刀は、華奢に見える日本の倭刀に刃が立たなかった。逃げに逃げ、舳先まで追い詰められ、いよいよ倭刀が孝中に迫った。殺気に満ちた刃の向こうにある日本人の顔は、困った時に見せる懐かしい南浦の顔に見えた。
【應無所住而生其心】経を呟き、孝中は海に沈んでいった。
弘安四年の夏から秋、連合軍の船は長く遊弋していた為、颱風に遭遇し、大型船も高麗人が無理やり造らせられた俄造の船も波濤に勝てず、一晩で沈没した。明け方、嘘のように風が治まった穏やかな海岸線は溺死体で歩ける程であった。
皇帝忽必烈は、二度の侵略戦が失敗したにもかゝわらず様子を伺っていた。しかし、東南亜細亜方面の戦略もあり、三度目の日本侵略は実施されなかった。
大元は征服した南宋・高麗の国力を削ぐ為に無謀な戦をした。元寇の前線で闘ったのは、南浦の學んだ南宋の人と、孝中のもう一つの故郷である高麗の人であった。敵味方無く、南浦は何処までも続く海岸線を弔って歩いた。南浦は、九州で軍場で外交を行い乍ら、武士ノ心の支えになった。三十年余に渡り禪風挙揚にも勤め、嘉元三年(1305)後宇多上皇の詔を奉り入京し、上皇と問答をした。上皇は南浦に帰依し、京東福寺の塔頭万寿寺住持とした。上皇は東山の故趾に嘉元禪刹を造営、日本に於ける禪の中心とし、南浦を第一祖としようとしたが山門延暦寺の反対に合い開創はならなかった。
南浦は十八哲・七十二員・千有余人もの弟子を育て、その中に宗峯妙超がいた。虚堂の禪の玄旨を極め、帰国した南浦の峻厳な禪風の評判を聞いた宗峯は、鉗鎚を是非とも受けたかった。南浦が後宇多上皇の命により上洛した時、鎌倉から京に上り安井にある韜光庵の門を叩き、僅か一年の間に二百もの公案を透過した。
徳治二年(1307)宗峯が二十六歳の時、南浦は再び鎌倉へ下向して正観寺に居し、出家した九代執権北条貞時(崇演)の招請で建長寺住持となった。宗峯も侍者として随侍して刻苦精励、十日目に南浦から公案を与えられた。[碧巌録第八則]【雲門関字】の公案である。
〝唐代、翠巌令参禪師が夏安居という厳しい修行期間が終わろうという日の説法で、大勢の修行者に向かい問いを発した。
『儂は諸子に、この九十日の修行期間、微に入り細にわたって説法した。佛法は誤って説いたり、あまり老婆親切に説き過ぎると佛罰が当たり、眉や髭が抜け落ちると云われているが、どうじゃ。儂の眉毛は、まだ生えているか』弟子達は、それぞれ自らの境地をもって応えた。雲門文偃禪師は『関』と応えた。雲門が『関』と謂った意味合い、真意は如何なる事かと問うのがこの公案である。翠巌は老婆親切に説き導こうとされたが、雲門はそんな生易しくこゝは通すわけにはいかん。是非善悪、一切の思慮分別を截断し関所を設けた。この雲門の『関』を透過するには雲門の境地に成り切らねば理解出来ない。『関』を説明しようとする者が応えを云えるものではない。〟
宗峯は公案を与えられ『錯を似て錯につく』と応えた。誤りに誤りを重ねたと謂う意味である。南浦は『ぬるい』間違えではないが、まだ生硬だから更に一層参究せよと命じた。
悩み抜き、進退が極まった或る日、宗峯は何気なく机の上に鎖子を投げた、その音を聞いた瞬間、豁然として『関』を透過し興奮して汗が流れた。公案の応えが見えた宗峯は南浦に見解を述べた。
南浦は宗峯の応えを聞き、満面の笑顔で告げた。
「雲門が儂の部屋入ってきた夢を見た。今日、宗峯が公案を透過した。お前は大師の再来じゃ」
辛苦参禪三年にして宗峯は『関』を透過し、悟の境地を得た。その境地を翌日、投機の偈にして南浦に示し悟の認可を求めた。
一回透得雲関了 南北東西活路通 夕処朝遊没賓主 脚頭脚底起清風
(一たび雲門の関門を透過してみると、四方八方どこにも路が通じて自由自在の境地である 事が分かった。立つも座るも、寝るも起きるも朝夕へだつ事なく、客だ、亭主だといった 賓主なく、迷いだ悟だの区別もない。頭のてっぺんから足の先まで、一点の塵穢れなく、 すがすがしい風が吹いてくる)
「宗峯よ、お前は儂の寂後上洛し、隠棲して悟後の仕上げに入れ。
一人托鉢に街に出、乞食行を二十年課す。聖胎長養じゃ」
「南浦様。寂などと口になさらないで下さいませ」
「お前は頭が切れ、先を見すぎる。少しは鈍になれ。
古来より正師を求め【行雲流水】行脚する事は間違いではない。しかし、過ぎるのも如何かの。儂も昔はそうであった、支那まで正師を求め行脚したが、振り返れば己が未熟で先師を深く理解できなかったからじゃ。旅から戻りはじめて理解できた。高峰顕日様は偉大なお方じゃ、留まっておれば大悟できたであろうに」
宗峯は十一で書写山円教寺に入り戒信律師に師事、十六で経律論の三蔵を學んだ。威儀戒行を示す律を學んでも真理は得られぬと考え、上洛し諸老宿に教理教史を學び、義學知解に佛教學の限界を感じ、実践工夫を重んずる禪を學ぶ為、建長寺に参禪した。嘉元二年、二十三で万寿寺の高峰の門に投じ正式に受戒して、妙超と安名された。宗峯は悟を得『これ真正の見解なり。宜しく法憧を建て宗旨を立すべし』と印可されていた。その後、南浦の下で参禪していた。
当時、東の高峰・西の南浦、天下二甘露門と称されていた。高峰は後嵯峨天皇の第二皇子で、康元元年(1256)円爾に従って出家した。兀庵普寧・無学祖元に師事し、下野国那須の雲巌寺開山となり、北条貞時・高時父子の帰依を受け万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺住持を歴任。門下に夢窓疎石などの俊才を輩出し、関東に於ける禪林の主流を成した。
「高峰様が南浦様の処へ送り出してくれたので御座います。私の性が南浦様に向いておるだろうと。批判するつもりはないのですが、高峰門下は幕府との関係が深すぎ、禪を他の佛教學と結びつけ、濁らしておると思います」
「それなら宗峯よ、最早、頼りになる後ろ盾としての師はおらぬと覚悟せよ。虚堂禪師も今はなく、支那にも師はおらぬ。〈禪ノ心〉は消えそうじゃと嘆いても仕方ない。何処にでも教えを授けて下さる方はおる。己の見方一つ。己の心も師そのものじゃ。悟を仕上げ、純禪に生きよ。真実の佛祖の教えを堕落させる事のないように」南浦七十四歳、宗峯の悟を印可した。
爾既に明投暗合、吾れ爾に如かず、吾宗、爾に至って大いに立し去らん。
只是れ二十年長養して人をしてこの証明を知らしめよ
後宇多上皇は伏見上皇に院政を譲った延慶元年(1308)春、南浦に存問する詔を下したが、南浦は十二月二十九日、微疾により七十五で示寂した。翌年、上皇は禪僧に対し初の国師号である、圓通大應国師を南浦に諡し、西京に龍翔寺を建立、南浦の遺骨を寺の後山、普光塔に塔した。弟子により遺骨はさらに分配され天源庵・瑞雲庵に納められた。
二十六歳になった宗峯は、南浦の指示通り上京し、己の心を師に乞食行を始めた。
虚堂と孝中の想い出の詰まった《青黄茶碗》の束は、西へ東へ走り廻った南浦の手で紐解かれる事なく、遺物と共に後宇多上皇遺髪塔のある龍翔寺に、宗峯の手で納められた。