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珠光茶碗、十四ノ幻翳   作者: 渡部宗晋
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壱 ノ 幻翳<南都の星座>

其れには無論、思惑は無い

只、其処に在るだけである

用いられる為に、造られた

永い刻の中

道を求め歩む様々な人の縁に出会い 

それぞれの心の奥底に、響き

心の下地が、醸しだされ

空から生み出される色の様に

幻翳が過去と未来を結ぶ

これからも

きっと


珠光・一休宗純・ 能阿彌


 南宋末《青黄茶碗》は中国南部で焼成された。当時、誰もが垂涎していた美しい発色の青磁からすれば、世辞にも見栄は良くない。青磁と同じ技で作陶された出来損ないの様な陶磁器が、名物《珠光茶碗》として世に知られる転機となったのは、窯から出て二百年以上も経た、今から五百五十年程前の日本。茶乃碗に冠された名を持つ、珠光との偶然による邂逅であった。


 足利家が約二百四十年に渡り、征夷大将軍を相伝した室町時代のほんの一時、日本は明と積極的に交易をした。足利義満が三代将軍を勤めた時期である。義満が幕府安定と権力を誇示する目的で、舎利殿金閣の敷地として、北山第山荘を入手してから三十六年目の永享五年(1433)。華やかな京とは近くて遠い、古都奈良の寺中に稚い珠光はいた。

 珠光の入った寺は南都興福寺の中にある別院称名寺であった。称名寺は、興福寺の専英・琳英兄弟が、彌陀本願ノ法に触れ、天台宗三鈷寺の澄忍上人と共に建立した常行念佛道場であった。元は興北院と称し、称名寺と寺名を改め百年程経ち四宗(浄土宗・法相宗・天台宗・律宗)兼學の教育機関のような施設となっていた。

 珠光の父、村田杢市は息子に學を身に付けさせたいとの願いから、小姓として称名寺に預けた。杢市は死後、検校と云われた。検校とは平安鎌倉時代、寺院や荘園等の事務監督をする役職名であったが、室町時代以降は盲人の役職である盲官最高位の名称となった。盲官は盲人男性により組織され平曲・三弦・箏曲・鍼灸・按摩等に携わる職能集団で位階順に検校・別当・勾当・座頭があった。杢市は琵琶を弾き乍ら[平家物語]等を語る平曲を生業にしていたが、生前は検校まで昇れず暮らしは貧しかった。

 珠光は両親と疎遠で、体裁のよい口減らしをされたと肌で感じていた。物心がついた時には寺の中で、外の世界も知らず何の疑問も将来の目標も無く、住職に促されるまゝ寺小姓から出家の道へと進んだ。村田茂吉という姓も名も惜しくなく、新しく付けられる珠光という法名に、誇りや期待する何ものも無かった。學に俊足な珠光は十八の時、称名寺の法林庵に住し、塔頭を預かるまでになったが、佛教を知識として學んだに過ぎず、佛道が分かった気がして心に隙が出て、流行の茶乃湯に興味を引かれた。


 当時の茶は只の飲み物ではなく、茶発祥の地である中国から輸入した利茶・闘茶を行う貴重な道具として考えられていた。

 利茶は、闘茶の稽古のようなもので、茶を味わい茶種を飲み比べ批評する場であり、雑談が交わされる集まりであった。

 闘茶は、日本で最高とされた山城国深瀬の栂尾茶を本茶と呼び、それ以外で産出された茶を非茶として区別し、本茶と非茶とを飲み比べる賭博であった。四種十服茶とも呼ばれ、種茶三種と客茶一種の計四種を用い、種茶を『一ノ茶・二ノ茶・三ノ茶』と命名し點てゝ、参会者に味と香りを試飲させる。続いて種茶三種からそれぞれ三つの袋、試飲に出さなかった客茶から一つの袋、計十袋を作り順不同に十服の茶を點て参会者に飲ませる。試飲した種茶の、どれと同じか、又は、客茶であるかを答え、正解が最も多い者が勝者となる遊藝であった。

 初代将軍足利尊氏時代の婆娑羅大名佐々木道誉は百服茶の勝負を行った。十服かける十回で百服となる。この様な大がかりな興行は終われば酒を飲み、男女混浴し、時を忘れ夜を徹する享楽的で〈婆娑羅〉の精神を助長する集まりであった。〈婆娑羅〉とは、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む美意識で、身分秩序を無視し権威を軽んじた結果、下剋上の萌芽となった。幕府方針である[建武式目]に於いて〈婆娑羅〉は禁止された。有力守護大名が没し婆娑羅行為が下火になっても、闘茶興行には〈婆娑羅〉の精神が内在していた。興行の会所飾りは、本尊観音の絵を掛け、屏風を広げ、花を立てる等、精神性と藝術性を加味した趣もあった。


 奈良に住まう人は、桓武天皇の遷都以来、多かれ少なかれ複雑な思いが京に対してはあり、憧れと同時に、国中である大和盆地を捨てゝ出ていった者が住まう地への妬みがあった。珠光も奈良への虚ろな誇りを持ちつゝ茶乃湯を通し、京に心惹かれていた。佛道に打ち込めず二十五歳の頃、寺役を怠り勘当同然で寺から追い出され、帰る家も、頼る人も、何かに対する使命感も無く、切望していたはずの、有り余る自由と謂う空虚な刻だけが流れ始めた。

 心を揺さぶられ気を紛らかす賭博としての闘茶興行に、逃げる様に連なりたかったが、賭ける物も茶も茶乃具も無かった。賭博仲間に茶の薀蓄を垂れては銭を貰い喰い繋ぎ、茶乃湯への未練で茶の引屑、粗茶で點前稽古を続け、必要に応じ茶乃具になりそうな物を見立たり、竹など何処にでも在る材料を工夫して茶乃具を造り、頭の中ではどれも立派な品だった。彷徨い乍ら茶を続け、己にしか分からない、人から見れば飯事の様な〈茶數寄〉をし乍ら悶々と只、生きていた。

 此処にいてはふやけてしまう。京への憧憬を抱いた儘くさって行くより、憬れの地で野垂れ死んでも構わないと思った。上京し、寺で覚えた佛に備える供茶を核に、自虐を込め何も無い事を看板に己を試してみる事にした。


 初めての上洛。賑わいは想像以上であった。先ず驚いたのは人混みの中で天秤棒を担いで商売をする人の多さ。中でも茶釜と椀の入った桶を担ぎ、一服一銭で茶を売り歩く売茶の姿だった。庶民が気軽に銭を使って贅沢な茶を飲んでいた。奮発し一服買ってみたが、湯に粉茶が浮いてるだけの味の無い飲み物だった。

 木の札に『南都ちゃ指南』と書き穴を開け紐を通し、三条の間借屋の軒に下げ茶を教え始めた。売茶の様な味気ない茶ではなく、美味しく飲めるように何度點てゝも味が変わらぬ職人的な點て方を教えた。無理をして流行の畳を二枚床に置いた。物珍しさから訪ねて来る人が、湯を沸かす風爐の周りを歩いたり、立ったまゝ茶を喫したりした。寝ころばない・胡座・立膝をしない、貴重な畳の縁や敷居を踏んで建物を傷つけない、小さな部屋が騒然となるのを防ぐ為、畳での立ち居振る舞いだけは、佛に仕える如く厳かにするよう厳しく躾けた。

「畏まれ」と繰り言を云ったが、畏まる姿は神や佛を拝む時や、征夷大将軍に平伏す姿、あまりに偉そうに思われるので、

「正しく座りなさい」といゝ換え喧しく何度も云った。やっと落ち着いてきたと思ったら、口喧しかったせいか、殆ど人が来なくなってしまった。偶に訪れるのは流行の茶乃湯など出来ぬ、自分と同類の貧しい庶民。生活の苦しさを、茶を點て飲んでいる時だけ忘れられると、己の都合の良い時間を見つけては手ぶらでやって来る、弟子どころか茶友ともいえぬ人であった。間借の部屋は外出する時も開けていたので、勝手に湯を沸かし茶を飲んで行く者もいた。

 奈良には茶を振る舞う大茶盛があった。西大寺の中興叡尊が、延応元年(1239)正月、寺の鎮守八幡宮社で国家安泰の祈祷を始めると俄に雪が降り出し、叡尊は凍える参拝者に貴重な湯茶を振る舞い、此の事が伝統となった。真言宗僧が権力と結び付き堕落する事を嘆いた叡尊は、佛教教學の根本である戒律を重視する律宗による再興を目指し、尼への授戒も許した人で、珠光にとって故郷の誇りであった。叡尊を気取ったわけではないが、茶を振る舞う事は勝手気儘に生きている己と、娑婆を繋ぐ唯一、人としての行為に思えた。逃げても追いかけてくる佛道と、愉しむ事も儘ならない數寄の狭間を、振り子の様に揺れ乍ら、珠光は流浪し続けた。


 京に出てから、昔の僧侶仲間に唐物の〈目利き〉を教わり始めた。描かれた図と説明だけだが、奈良では噂にも聞かなかった事を知って物欲に拍車が掛かり、渇望が消えず常に煩悩がはち切れそうだった。貨幣経済が定着し物価が高騰していた京では、庶民相手に茶を一年教えても、茶を掬う象牙の茶匙一本買えない有様で、鬱憤を晴らしに市中に出ては、買えもしない物を見て回る事が日課となり、或る日、其れと出会った。

 昔は虹の出た日、虹の根本に市がたったらしいが、京では日常的に市がたつ。顔馴染みになっていた古道具の露店に足が向いた。飾り立てゝはいるが決して立派ではない売物は、何処に傷があるのか、うんざりする程覚えてしまった物ばかり、それらの後ろへ隠すように荒縄で縛られた陶磁器の束が岩に立てかけられていた。何気なく見ていると、行商人が珍しく声を掛けてきた。

「其れは、海賊共が分捕った和冦流れじゃなくて、幕府公認の勘合流れだぞ」とても勘合品には見えない。こんなものしか買えないと懐を見抜いているのだろう。

「どうせ船乗りが使っていた雑器でしょう。まあ、見させてもらいます」縄を解くと、力も入れていないのに一番下の器が三っに割れた。

「こら、壊すな」行商人が含み笑いで怒鳴った。

 青でも黄でもない、斑のある緑。青磁の出来損ない。何れにしてもはっきりしない色。下手物の輸入雑器、似た皿は幾つか見た事がある。〈なり〉と〈ころ〉が悪くなければ茶乃碗として使ってみるか。一碗もとめてみようと選びだすと、それぞれ柄や色・形が異なり、どれも趣があり、全て茶乃碗として造られた様であった。遠い昔か、遙かな未来に遊ぶような幻翳に引き込まれ、時が経つのも忘れ見入っていると、行商人が大声を出した。

「いゝ加減にしろ。店先を塞がれたら商のじゃまだ。銭が無い人間など、五月蠅い蠅と一緒だ。

 然う言えば、お前。茶を教えていると云っていたな」

「南都の茶を、京に伝えています。細々ですが」

「そうか。其の器、茶乃碗になるのか。

 若い頃、手に入れ、縄も解かず放って置いたが、ずっと気になっていた物だ。売るかどうか迷って何気なく持ってきてしまった。前の持ち主が妙な事を云っていた。

『あの時の〈空ノ碗〉です、これに茶を満たし、又、〈禪ノ心〉を飲み回しましょう』

 何を云いたかったのか皆目解らん。其の器、お前に呉れて遣る。欠けらごと纏めて持って行け。茶を生業にしている者の手に渡れば、あの無縁佛の供養にもなるだろうし、俺の心もやっと静まる。今日は丁度、施餓鬼会だ」

 突然の申し出で、有り難かったが、ただというわけにも行かないので、無けなしの永楽銭を渡し、欠けらも藁にくるみ籠に入れ、担いで三条の陋宅に戻った。

 全部で十二碗あった。割れていたのは一番下だけ、綺麗に清め、十一碗に少しずつ茶を點て、施餓鬼棚に見立て重ねた畳の上に置き、盂蘭盆経を読経した。青でも黄でもない碗を《青黄茶碗》と名付けた。割れた《青黄茶碗》は他の碗を守っていたのだろうか。欠片も愛おしく思え、丁寧に孔を掘って埋めた。《青黄茶碗》は茶乃碗として使い勝手がよく多少の事では壊れなかった。常に用い、気がつけば此の碗しか使わなくなっていた。

 当時、茶乃湯で用いられていた茶乃碗は建盞と謂った。小さな高台から朝顔状に開き、天目臺に載せると据わりが良く如何にも高級品に見えた。天目臺に載せず畳に直に置くと、不安定で茶が零れそうであった。これに対し《青黄茶碗》は、天目臺に乗せると据わりは悪いし貧相に見えるが、畳に直に置くと伸び伸び見えた。建盞とは明らかに異なる茶乃碗であった。

 《青黄茶碗》を天目臺に載せず用いた為、今まで見立てゝ使っていた茶乃具との調和が気になり、全て小振りな物に替えた。仰々しく両手で行っていた茶を點てる點前も、殆ど片手で行え、軽やかに流れるような點前となり、客を待たせ水遣で行っていた勝手仕事の一部も、見せてもおかしくないと思い、客の前で湯を沸かし茶を點てる法を試行した。

 利茶や闘茶、佛事に於ける供茶を真似、見立の雑器を態とらしく大袈裟に扱っていた借り物の茶乃湯から、《青黄茶碗》を中心に茶乃具と點前が調和し、全く新しい茶乃湯が動き出した。


 奈良では佛教を知識として學んだ。しかし、佛道とは何たるかは、霧の向こうであった。

『佛道は行である。知識を捨てろ、無一物になれ』市中を髑髏を付けた杖を持ち徘徊する奇僧が、大徳寺の塔頭如意庵に居ると聞いた。会ってみたい。もう一つの佛教が其処にあるのか。一物も持たぬ己は救われるのか。

 小さな木板を木槌で叩き来庵を訃げた。蝉が一斉に鳴くのを止め、鼓動の高鳴りと、胸を締め付ける暑さが残った。はたして、こんな他派の修行僧崩れに会ってくれるか。会ってくれたら、今までの境涯を並べ修行の成果を聞いて欲しかった。只々、理解してもらいたかった。何を。何故。

 冷や汗が止まらなくなった。此処に居てはいけない、資格がない。今の力量では、奥深い悟の境地である〈玄〉への入口〈関〉に立ち、玄妙な道に入る〈関門〉も透過出来ない。面会すら果たせないのではないか。取次ぎが出てくる前に帰ろうと、玄関の上がり框に腰掛け深々と下げていた額を上げた時、懐に入れていた《青黄茶碗》が音を立て框に一筆、汗の輪を描いた。

 何時から其処にいたのか、仁王立した壮年の僧が、

「其の碗で一服、所望」枯れた声を発し奥に消えた。狼狽えた心の儘、役僧に先導され、見事な臺子の前に案内された。日本に伝来した始めての臺子は、記憶が確かならば、

 〝南浦紹明(大應国師)が宋から持ち帰り大徳寺と天龍寺に伝えた。長方形の板二枚を四本の柱で支え直方体とした真塗りの棚物。上の板は天板、下を地板と呼び地板のほうが厚い。柱は手前左側を勝手柱・右を客柱・奥左側は角柱・右は向柱と呼ぶ。地板の左に釜を掛けた風爐を置き、右に同一素材、同一意匠で揃えた皆具(水指・杓立・建水・蓋置)を置き合わせる。〟

 京に出て来て教わった口伝その儘。息をするのも忘れる程、美しく厳かだった。茶釜から湯気が立ち昇り、えもいわれぬ焚香の薫りが室内を満たし、今此処に自分が来る事を予期していたかの様に、茶を點てる準備が整っていた。何処を見回しても常日頃、目にする事の出来ない物が極さりげなく、非日常性を感じさせない自然さで、全てのものが或べく様に其処にあった。

 《青黄茶碗》を清める為、水遣に下がると其処も宝ノ山だった。丁寧に濯ぎ始めると、心が静まってきた。何時ものように天目臺に《青黄茶碗》を載せず、そのまゝ持ち出した。

 いつの間にか僧は、開け放たれた緑眩しい庭に向かい坐していた。本番だった、何時も〈いつか〉の為に稽古していた。その〈いつか〉がこの時だと全身全霊で感じ、暑さも忘れ一心に茶を點てた。茶を點て立ち上がり、僧の前に座り直し、静かに差出し一礼した。

 僧は両手で《珠光茶碗》を取り上げ、頭を垂れ碗を押し戴いた。碗の正面を除けるよう回し、両方の親指を口造に、高台に残る両手の四指すべて掛け、包み込むように、顔を覆い被すように、ゆっくり背筋を伸ばし噛みしめる様に永い刻をかけ飲み下した。珠光は、僧と僧の師・祖佛が共に茶を喫している様に感じた。

 僧は飲口を親指で拭い正面を戻すと、臺子の前まで来て、立ったまゝ暫く《青黄茶碗》を眺めてから手渡した。珠光は両手で手を包み込むように《青黄茶碗》ごと何かを受け取った。

 茶乃具を清め直し元通り臺子に納め、後始末をしている間、僧は何も掛けていない素床を、深山でも眺めるかの様に見つめ立っていた。《青黄茶碗》は軽く拭いそのまゝ懐に収めた。為すべき事を果たし、訪れた目的も全て遂げた思いで、深く一礼し立ち上がった。

「餞別だ」僧は、脇床に巻かれたまゝ置かれていた掛軸を倶利の軸盆ごと、槍で刺すように突き出した。珠光は受け止め、頭を下げ押し戴いた。

「坊。旅に飽きたら何度でも其の碗と一緒に休みに来い、儂は居らぬがな」 

 僧は、庭の沓脱石に揃えてある、この庫裡にはそぐわない、履き潰された草鞋を片方履き、もう一つをぶら下げ苔生した庭に降り、顔が映るほど綺麗に磨かれた庭石を草鞋で一打ちした。逆光に輝いた塵が金銀の砂子のように、庭石と僧を包み隠した。

 今まで得た、理解したと思っていた知識としての佛教の欠片も無かった、佛像も経も無かった。師と、禪と繋がった。茶に、己の中にも禪がある。〈茶禪一味〉を悟った。玄関を背に深く一息吐くと、蝉の声が聞こえた。耳に届いていないだけだった。佛道と數寄。振り子の揺を止めたのは、如意庵塔主、一休宗純であった。


 塒に帰っても心地良い疲労感と昂揚感に満たされていた。戴いた掛軸を開くと圜悟克勤の墨筆であった。一休との出会いは何であったのか、頭で理解するのは至難だった。木の札を軒から外し、部屋に籠り自問し続けた。

 数日後、禪宗について初歩的な質問をしたくて、托鉢を終えた雲水に声を掛けた。雲水は簡潔に答えてくれた。

「知っているだけでわかってはいない。と思う」と前置きした。

 〝禪宗は、師から法嗣へと〈佛ノ法〉を師資相承して行くものです。師は弟子が確かに〈佛ノ法〉を得たなら、その証明として印可を与えます。師弟の重要な遣り取りは、室内の秘密と謂い、師の部屋から持ち出され公開される事はありません。〈佛ノ法〉は悟と謂ってもよいかも知れません。それは言葉で傳えられるものではなく、無理に理解しようとしても拒絶されます。悟とは、生きとし生けるもの全てが本来持っている本性である佛性に気付く事を謂うそうです。悟は一度でなく、何度か得られるそうですが、自分は長い間、参禪しておりますが一度も悟を得ておりません。もう無理かもしれません。

 古来、悟を得る多くの技法が考案されました。木にぶら下がるとか、親指を立てるとか色々あったそうですが、今は坐禪・公案・読経・作務の修行を、既に悟られた師の下で行じます。

 悟とは蝋燭の火を、消えている蝋燭に移すようなもの。師から弟子へと傳燈され、燃える材料は既に、弟子の中にあるそうです。傳えるものは言葉によるものではなく、師と弟子の関係により生じます。それ故、弟子は正しい師を選ぶ事が肝心とされます。師が悟得ているだけではなく、自分の個性に適しているか積極的に選ぶ必要があります。自分も分からないのに師を選ぶなんて、とても出来ない事です。そもそも本当に悟った人が、自分が生きている此の世、此の時にいるのでしょうか。確かに過去にはいたと信じたいのですが。


 應燈徹と謂う語句があります、臨濟宗大徳寺法系を指すもので、南浦紹明様(大應国師)・宗峯妙超様(大燈国師)・徹翁義亨様(正眼禪師)御三人の師弟を表します。

 開祖の宗峯様は初め高峰顕日様に、その後、紹明様に参禪しました。紹明様が京から建長寺に移ると、宗峯様も鎌倉入りし、徳治二年(1307)印可を得ました。東山に戻り修行を続け、同郷の赤松則村の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立しました。この小堂が大徳寺の起源です。花園上皇は宗峯様に帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発しました。時の主上{後醍醐天皇}は大徳寺を五山の更に上位とする綸旨を発し、世俗化しつゝあった五山十刹から離脱させ、坐禪修行に専心する道をとらせました。五山十刹の寺院を〈叢林〉と称するのに対し、同じ臨濟宗の大徳寺・妙心寺は在野的立場にあり〈林下〉と称します。只、今は此処も世俗化してしまっています。


 【拈華微笑】禪の法脈を南無釈迦牟尼佛から摩訶迦葉尊者が、受け継いだ時の説話があります。

    爾時如來。坐此寶座。受此蓮華。無説無言。但拈蓮華。入大會中。八萬四千人天時大衆。

    皆止默然。於時長老摩訶迦葉。見佛拈華示衆佛事。即今廓然。破顏微笑。佛即告言是也。

      我有正法眼藏涅槃妙心。實相無相微妙法門。不立文字。教外別傳。 

      總持任持。凡夫成佛。第一義諦。今方付屬摩訶迦葉。

 (天竺霊鷲山上で釈迦牟尼佛が黙って一輪の花を拈じた、皆はその意味を理解する事が出来ず、迦葉尊者だけが、理解し破顔微笑した。釈迦牟尼佛は迦葉尊者に禪の法門を傳えた) 

 これが禪の始まりです。【拈華微笑】は偽経だとも云われていますが、師資相承の心をよく表していると思います。言葉で説明出来ないものを釈迦牟尼佛は皆に傳えようとしました、言葉で表現出来れば言葉を用います。傳えたかったのは、常に言葉を越えたものだったと思います。迦葉尊者、只一人しか目覚められなかった。御一人だけが悟を継承出来たのです。

 釈迦牟尼佛は高貴な産まれで、何不自由ない生活を送っておりましたが、世の無常を感じ出家されます。そして六年程の苦行をし、その生活も捨てゝ両極端を離れた中正の道、即ち、中道のあり方を見出し、真理に目覚められたのでした。此の世ではじめて悟を開かれた御方です。


   一切衆生 悉有佛性 如来常住 無有変易

   これ、われらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸佛一切祖師の頂寧、

   眼晴なり。参學しきたる事、すでに二千百九十年、正嫡わづかに五十代、西天二十八代、

   代々住持しきたり、東地二十三世、世々住持しきたる。十万の佛祖、ともに住持せり。

 (ありとあらゆる物には悉く佛性が有り、如来の本質は常に何処かに存在し、有るとか無いとか、変化する事など無い)言葉で表せばこの様な事ですが、自分には理解出来ません。兎に角、悟を開かれ、その悟を皆に傳えようとされました。 

 迦葉尊者は佛教第二祖、釈迦十大弟子の御一人です。釈迦牟尼佛の寂滅後、経・論・律の三蔵を纏めた初回結集の座長を務め、頭陀第一と云われ、衣食住に囚われず清貧の修行を行じた御方です。八歳で婆羅門に入門し全てを得て、更に出家求道したいと考えていました。二十歳の頃に家系が途絶える事を恐れた両親は結婚をすゝめたのですが、尊者は断りました。断りきれなくなった尊者は、黄金で美しい女人像を造らせ『これと同じならば、その人と結婚しよう』と条件を出しました。両親は八人の婆羅門に女人を探すよう頼み、婆羅門達がマッダ国のサーガラ川岸で像を載せた台車を置き休んでいると、跋陀羅迦毘羅耶(妙賢)の乳母が、像を妙賢と見間違えた事から縁談が纏まりました。十六歳の妙賢も出家を考えていました。御二人は結婚を断るよう使者に手紙を遣わしましたが、互いの使者が道で出会い、後の事を考え破り捨てました。尊者は浮浪者に身を窶し妙賢の家に行き、意志を確認した上で結婚しました。二人は床も離れて寝たので子もありませんでした。尊者は両親が亡くなった或る日、畑仕事を見ていると土中から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃しました。妙賢も胡麻を乾燥していると中に虫がおり、そのまゝ油を絞ると殺生してしまう、二人は無常を感じ出家を決意しました。周囲が引き止める中、剃髪し粗衣を纒、鉢を持って二人で家を出ましたが、このまゝでは私情に流されると考え、分かれ道で尊者は右へ、妙賢は左へと歩まれました。尊者は出家し修行をしていましたが、王舎城と那茶陀村の間にあるニグローダ樹下に坐していた釈迦牟尼佛と出会い弟子となり、迦葉と名を改め竹林精舎に到りました。釈迦牟尼佛に入門した時、既に佛の身体に備わる特徴の三十二相中、七相を具えており、八日目に修行者の到達し得る最高位の阿羅漢となりました。


 貴方が戴いたと云う墨跡の筆者、圜悟克勤様は宋代の臨濟宗楊岐派の禪僧です。四川嵩寧に産まれ幼くして出家し、各地の高僧の下で修行した後、五祖法演様の弟子となり法を嗣いだそうです。成都の昭覚寺に住し、のち夾山の碧巌に移り門人の為、雪竇重顕様の頌古百則を提唱、それを編集し垂示・著語及び評唱を加えた十巻が[碧巌録]です。自分たち臨濟僧の重要な書物です。諡号は生前に北宋徽宗皇帝から佛果禪師。南宋高宗皇帝から圜悟禪師、真覚禪師を贈られました。弟子に大慧宗杲禪師、虎丘紹隆禪師がおります。自分は、そのような偉い方の墨跡を拝見した事も御座いません。本物かどうか一度拝見したいものです。因みに、諱・法諱は禪門では入信の名です。字・道号は修行の成果に対して師家から法の弟子に授けられる名です。


 ところで、一休様は寺では評判は良くありません。一休様は応永元年(1394)主上{後小松天皇}の落胤として産まれたそうです。幼名は千菊丸。洛西の民家で母と五年間過ごし、安国寺で出家し周建と名乗ります。十七歳で西金寺謙翁宗為様に師事し宗純と名を改め、四年後、師が亡くなると自殺未遂をします。翌年、堅田禪興庵の華叟宗曇様に師事し、京に出て何故か香包や雛人形の彩衣作りの内職をします。二十四歳の時に瞽女、盲目の歌方が語る[平家物語]を聞いて無常を感じ、


   有漏路より無漏路に帰る一休み   雨ふらば降れ 風ふかば吹け

(人生は煩悩溢れる此の世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大した事はない)と詠んだそうです。二年後の夏、琵琶湖岸の船上で坐禪中、烏の声を暗闇に聞き、


   烏は見えなくてもそこにいる   佛もまた見えなくとも心の中にある

 この様な句で大悟を現したのに、堺に庵を結んでいた三十四歳の時、佛門のくせに岐翁紹偵を産ませました。三十八歳で実父である主上の崩御直前、初めて親子の対面をしたそうです。

 永享七年(1436)十一月二十二日、大燈国師百年忌法要に突然襤褸布を纏い列席しました。その後、京の草庵に乞食のように住んでいたそうですが、主上の落胤と知った、大徳寺重役が朝廷と繋がりを持ちたくて無理矢理、如意庵に迎えたそうです。

 寺の仕事もせず、ふらふらしているのに、高貴な産まれだと云うだけでちやほやされ出世出来た一休め、羨ましくて仕方ない。辛い修行だけの大徳寺なんか、焼けて無くなればいゝのに。〟


 雲水は次第に九州訛りになり、寺の愚痴に移り物騒な話になった。丁寧に礼を述べ、銭を喜捨し早々に別れた。詳しいが心が無い。しかし、概略は知り得た。知識とは常にこういうものだ。

 珠光が会った日の一休は、如意庵塔主に請われ入った当日で、一週間後、華叟十三回忌を営み、そのまゝ退庵し、塩小路辺りの草屋で遁世生活をしているらしい。一休が発した『餞別・旅』とは、一休自身に対してだろうか、私に対してだろうか我他彼此、主観と客観の無い境地だと思った。

 珠光は二回り以上、親子程年が離れた心の師に傾倒していった。



 三条の借り屋に床ノ間はない。〔圜悟ノ墨跡〕を掛け拝みたい。倶利の軸盆を売り大工を呼んだ。家主に無断で畳一枚分の床ノ間を外に張り出し、六畳を二つに囲い直し、畳を敷いた四畳半を造り、残り一畳半で板敷の水遣を設けた。物入も無論、他に部屋は無い。着替えや生活道具は大きな布に包み天井からぶら下げ、夜は足を曲げ水遣で寝た。

臺子が欲しかったが、売ってもいないし銭もない。大工に板を削ってもらい、自分で竹を切って柱を作り組み立て、竹臺子と名付けた。一休との一会を想い返し《青黄茶碗》を用い點前を繰り返した。天目臺での作法や茶乃具の格による扱いを省略し、簡潔な點前を模索した。茶乃具や點前は主役ではないが、無ければ茶乃湯は始まらない。賭事や享楽の為の闘茶・利茶でなく、佛への供茶とも異なる。生き佛、尊敬する貴人。大切な方との茶乃湯。そう、人と人。客に主が献ずる茶法を目指した。

 《青黄茶碗》は客と主の邪魔をしない、それどころか二つの心の間にあって、その境を取り払う。其処には客と主の心の触れ合いしか存在しない、そんな茶乃湯を客を招き検証して行った。多くても客三人。いつしか珠光の茶法を〈奈良流〉と京雀が噂するようになった。


 文が届いた。〈目利き〉を教えてくれている僧が何時もと違い余所余所しく、重々しく持参した。京では知らぬ人はない、将軍の同朋である能阿彌からだった。同朋は将軍の傍らで、雑務や藝能について顧問役を務める僧形の者の事で、この職にある者は名に、南無阿彌陀佛の陀佛と、衆生の間という意味のに阿彌が付けられていた。能阿彌は先の六代将軍義教から仕え、足利家伝来の書画管理を主な仕事として、絵画・書の鑑定は無論。表装・座敷飾りの指導。連歌・立花・香などに精通した文化人であった。文には、

『噂を聞いた、新しい平城の茶を貴庵を訪ね、馳走になりたい』最後に、

『南都の星座へ』とあった。口癖の「正しく座れ」を何処かで聞き皮肉ったのか、返書を認めた『御出、お待ちして居ります詳細は坊へ 南星』

 試してみたかった。一頭地を抜く知識人に自分の茶はどう見えるのだろうか。


 訪ねてきた能阿彌は、一休より三歳年上。一休とは対極の容姿・性格だった。太っていて頭が大きく福耳。性急なのか挨拶も碌にせず。小さな座敷に入るなり隅から隅を見回し、早口で喋り乍ら床ノ間の前に胡座をかいた。島右京という十一、二の小姓が後から追い掛けるように入って来て、能阿彌が脱いで、顧みる気もない履き物や羽織を、まめまめしく片付けた。

 點前を始めると食い入るように見つめ、その間と茶を飲み込む時だけ言葉が無かった。茶乃碗が口から離れると、堰を切ったように質問の嵐であった。《青黄茶碗》の事。點前。工夫した茶乃具。何年も苦労して築き上げたものを半時程で見事に丸裸にされ、己の底の浅さを見せつけられた気がした。右京は贅沢な白い紙に、惜しげもなく話を書き付けていった。床ノ間に掛けた〔圜悟ノ墨跡〕の事には一言も触れなかった。

 《青黄茶碗》を再度拝見したいと所望されたので、十一碗全て持ち出した。値踏でもするかの様に長々と見た後、四碗を選り出し右京だけに聞こえるよう、ぶつぶつ言い乍ら再び眺めだした。

 気が付けば、十一碗が見事に四っに分類されていた。

    一類は、見込みに文字の書かれた物。

    一類は、高台から一気に外に向かって広がる、平たい茶乃碗。

    一類は、丸い椀なりの茶乃碗。

    一類は、少し小振りで、平と椀の中間の物。 

 その〈目利き〉の鋭さに驚き、

「どうぞ、お気に召した《青黄茶碗》を御持ち帰り下さい」と言ってしまったが、直ぐに後悔した。惜しい訳ではなかったが此ノ男にだけは、渡したくないと思い反した。しかし、後の祭りだった。「そうか」能阿彌は間髪を入れず答えた。きっと、この言葉を待っていたのだろう。突然、子供が玩具に飽きたかの様に《青黄茶碗》に何の興味もなさそうに抛り出したまゝ座敷を出た。右京が錦の布に、選りだした四碗を素早く丁寧に重ねてくるみ、首の前に猫ノ鈴の様にぶら下げた。始めからそのつもりであったかのようだった。

「邪魔をした。何か望みは」能阿彌は外から珠光を振り返り、近所中に聞こえる大声を出した。

「立花を習いたいのですが」と言うと、

「束修を持って、公方御所に来なさい」帰りの挨拶など無く、頭も下げず歩き出した。もう師匠気取り《青黄茶碗》だけでなく入門料も取るのかと呆れたが、そんなものかと諦めた。

 能阿彌は理解した、読みにくいだけの字が並ぶ墨跡と同じだ。纏めつゝある座敷飾りの秘伝[君台観左右帳記]美の殿堂に載せる物とは全く別の物だ、決して踏み込ませない。調和を乱す物への苛立と虞があった。憎らしい眼前の四碗のうち一つを無造作に掴み、湖に張り出して建てた屋敷の窓から外に抛り投げた。内面中央部の見込に『福』の字が踊るように書かれたものだった。《青黄茶碗》は拒む様に一度跳ね、深い緑が映った濃厚な水面に沈んでいった。

 しかし、彼ノ方が望むであろう。彼ノ方の風流に付き合わすには、丁度良い。彼ノ方は三年前、征夷大将軍となり、祖父義満の政策を復興しようと必死に試みたが、補佐する人もなく、寵愛する近臣や侍女の甘言を容れては政に混乱を招いた。京大地震・近畿颱風、数年に渡る自然災害が続き疾病・飢饉が発生し、洛中には打ち捨てられた屍も多く、御所まで死臭が漂った。何一つ思い通りに成らず、挫折の中、政への関心を失い花ノ御所を改築したり邸宅等の土木事業や猿楽・酒宴に溺れている彼ノ方を能阿彌は責められなかった。赤子の頃から実子の様に可愛がった。六歳の時、剛毅辣腕であった父の義教が祝宴中殺され、将軍を嗣いだ兄の義勝は二年後病死。八歳で足利家を嗣いだ。心に傷を負い、担うべき義務に対し正面から向き合う事を避け、己の弱さの悩みは異常に趣味の世界である〈數寄ノ道〉に向かわせた。彼ノ方とは、享徳二年(1453)六月十三日、十七歳で改名した八代将軍足利義政である。



 四条の瞎驢庵に引っ越した還暦の一休を、珠光は訪ねた。庵には誰の姿もなく、待たせてもらう事にした。其処はまさに草庵で、雨漏でいたる処染みだらけ、今にも朽ち果てそうであった。只、塵一つ無く、柱は磨かれ黒光りしていた。煌びやかな聖堂より逆に犯しがたい聖域の様に感じられ、煩悩の在る身には近寄る事さえ憚われる気がした。念佛道場で修行した珠光には一休の心が痛い程伝わった。四苦(生老病死)を見詰め、人生の生き方を真剣に問う。空也・源信・法然・親鸞・一遍の浄土欣求は人里離れた山家、草葺の庵で念佛・読経生活を送り、和歌・随筆・日記を綴り、閑寂と風雅の美学を得て信仰と文学に一切を投入する。[大般涅槃経]に念佛信仰者に感銘を与えた語【願わくは心の師となりて、心を師とせざれ】がある。珠光にとっても理想であった。しかし、一時代前である。一休だけが今も実践し奇僧、狂雲の僧と陰口されていた。

 裏の竹林から軽い足取りで一休が現れた。水が勢いよく音を立て湧き出している所で、担いでいた籠を下ろし、山盛りの竹ノ子を一本ずつ流水に浸け終わると、いきなり着物を脱ぎバサッと埃を払い着直し、丁寧に足を洗い、柄杓で両手を清め口を漱ぎ、ゆっくり庵に入ってきた。

 珠光は綺麗に包んできた《青黄茶碗》を、

「お納めを」と差し出すと。

「坊が使って生きる。儂もあの時、其れに触れ、幻翳を感じ如意庵を出る決心をした」中身も確かめず《青黄茶碗》と分かっているのか、押し返された。禪門に入りたい旨を告げると、

「その儘でよい、行じ続けろ行者。悟は一度ではない。それより、此を」用意をしておいてくれたのであろうか、竹筆で書いた『休心』の号を賜わった。一休は竹林に目を落とし半眼となった。一休に出会い《青黄茶碗》を両手で受け取った刻の感覚。想い返すと《青黄茶碗》に初めて触れた刻に感じた幻翳と同じだった気がする。あれは真、悟だったのだろうか。悟と思ったあの衝撃を認めてくれたのか。掛軸は印可の証だったのか。今の今まで、証の証が欲しくてたまらなかった。その為に此処に来た事に気づかされた、自分の拙さを恥じ乍ら、師に号を戴いた感謝の言葉も見つからなく、心の臓が高なり、脰から熱く紅い、重いものを感じた。

 庵の中は板敷で、室内中央に囲爐裏が切られ、鎖で釜が釣られていた。釜を下ろし灰の中の種火を掘り起こして炭を継ぎ、包みを解いて《青黄茶碗》を出し茶を點て乍ら、珠光はやっと平常心に戻る事が出来た。倶利の軸盆を売り、其の金で借り間を座敷に改修した事を謝った。

「坊には役にたったか。あれも、大徳寺で灰となるより本望であろう」と呟いた。

 その年、不審火で大徳寺の一部が焼失した。噂では九州訛りの雲水の付け火であった。



 珠光は公方御所にある廣間で、能阿彌に立花を学び始めた。半年程過ぎた頃、能阿彌は唐突に何時になく改まった態度で、南都の茶を教授して欲しいと所望した。少し戸惑ったが断る理由はなく、能阿彌の屋敷に出向くようになった。

 屋敷にある書院座敷の広い床ノ間には、三幅対の唐絵が掛かり前には三具足(香爐・燭台・花瓶)が置かれていた。違い棚には唐物の建盞・盃・壷が飾られ、付書院には文具が並んでいた。全てが綺羅星の様な品々で、緊張感を持って配置されていた。茶乃具は隣室の茶點場に備え付けてある観音開の茶湯棚に揃っており、義政が臺子を三つ所持していたので借り求め、座敷に据えて點前を教授した。臺子の大きさは区々で一間と大きなものもあり、統一する為、一休に茶を點てた臺子の寸法に誂え直し茶法を定めた。

四十歳を過ぎた頃から、其ノ道で一流の人や、京・堺・奈良の有力者達が同席するようになり、逆に教えを授かった。三条西実隆に学んだ磐城の志野三郎右衛門(宗信)に香を、連歌は牡丹花肖柏に習った。伝統的連歌の他、和漢連句という新しい連歌も知った。上ノ句を和歌で詠めば下ノ句を漢詩で受け、さらに和歌・漢詩と二句三句と繰り返す、和と漢が融合する連句に珠光は引かれた。



義政は秋、月待ノ宵に[源氏物語]を能阿彌に詠ませ乍ら呟いた、

「昔から、ありきたりの遊興はもう種が尽きた、冬の山に鷹狩りに出かけるのも疲れるものだし、何かほかに変わった面白い遊びは無いものか」能阿彌は聞こえぬ振りをして[帚木ノ巻、雨夜ノ品さだめ]を語り続けた。いよいよ義政が手に負えなくなり、珠光を用いようと思った。

 数日後、能阿彌は義政が改築した花ノ御所に珠光を伴った。

「又、つまらぬ唐物の講義か。余は元服した一廉の将軍ぞ、見たいものは己の眼で見る」

「いえ、今日は御慰みに、珍しき物と、者を。あれを是へ」義政の前に漆塗りの箱が三っ式臺の上に載せて運び出され、能阿彌は一つずつ殊更、慇懃に箱を開け《青黄茶碗》を取り出した。珠光が以前、能阿彌に渡した四碗ノ内の三碗であった。

「此は南宋の唐物で、《青黄茶碗》と申します」

「南宋は、日本ではどの様な時代であったかの」

「御台所日野富子様と同族である、藤原家日野氏の血筋で有られた親鸞聖人が亡くなられた鎌倉時代初期の物で御座います。先程より此処に控え居る者の、御前への献上品です」

 能阿彌は、珠光を義政に紹介する為に言葉を用意していた。

「此の者は〈奈良流〉の茶乃湯に通じ、孔子ノ道を実践しておる、珠光と申します」

「茶乃湯に於ける、孔子ノ道とはどの様な事だ」思った通り義政は興味を示した。

「孔子は『心の欲する所に従って矩を踰えず』と語っております。創られた法に制約されず、常に新しい法を創る。心の赴くまゝ作為、無作為の別無く、行った事が全て、理に適う状態です」

「一藝に通ずれば、世阿彌の様に何を演じても幽玄なる趣が顕れると謂う事か」

「いえ。道と、藝とは異なります。藝は藝の内にあり、道は道の内にはなく、その道を行く己の内にあり、道と己とは不二、一つという事です。

 少々珠光の茶を検証してみました。珠光の茶、其の道たる所以は、これを『四』となします。

   曰く和。 曰く敬。 曰く清。 曰く寂」

「なにやら、いつもの講義が始まりそうじゃ、そちはもうよい。

 珠光とやら。そなたの茶とはどのようなものだ」目を合わさぬよう伏し目にしていたが、質問に答えようと義政を見た。痩せて色白、武家の棟梁にはとても見えない。目は探求心に燃え輝いていたが、斜に構え、捕らえどころのない若者であった。虚空に釘を打つ積もりで思う処を宣べた。

「和漢のさかひをまぎらかす事。この道の一大事と心得ております」

 能阿彌が苦虫を噛み潰ぶしたような顔をし乍ら、口をはさんだ、

「恐れ乍ら。御物・唐物はどれも、完結した美で御座います。まぎらかす必要などありません」

「そちは、祖父の集めた舶載品の山に埋もれておれ、余は与えらるのは鳥肌がたつほど嫌いだ」

 細い声だが強い意志だった。珠光は能阿彌のてまえ言葉を失っていた。義政は話を続けた。

「唐物崇拝でない、此の国の美や独自の何か。何かはまだよく見えぬ。見えぬがやらねばならぬ。今のうちに」《青黄茶碗》を手にとり見始めた。

「しかし、これが唐物なのか。『和漢のさかひ』か。

 その方、余に茶乃湯を指南せよ、機宜は後で知らせる」義政は、すくっと立ち上がり奥に消え、能阿彌も後に続いた。

 珠光は深く下げた頭を戻すと、其処には三碗だけが残されていた。何も語れなかった。しかし《青黄茶碗》が代わりに雄弁に語ってくれた。そして《青黄茶碗》の意味を改めて感じた。作陶された場が何処であろうが、陶工が誰であろうが、唐物でも和物でも関係ない。説明の言葉なども必要ない。只、其処に存在している事の有りがたさであった。気付かせてくれたのは、能阿彌だった。能阿彌は見抜いていた、行動者珠光の解説者として、義政に的確に珠光の目指していた茶乃湯の神髄を伝えた。珠光が一休と初めて出会い交わされた心のふれあい、何がそこにあったのか。表現出来ず悩み続け探し求めていたもの。能阿彌は珠光が行っていた事を鏡の様に、珠光に写して返した。それが〈和敬清寂〉。それを行じ続ける〈茶ノ道〉。言葉にならなかった答であった。


 珠光は正式に義政の茶乃湯師範となるよう伝えられ、町衆への教授は差し控える等、数々の約束事が書かれた一紙と共に、支度金が届いた。

 六条堀川西に、初めて珠光は數寄座敷を指図し建てた。六畳の住まいと四畳半の座敷・勝手水遣。そして昔、一休が席入した光景を、細長い庭に再現した路地。汚れを払い落とす蹲踞を境に、煩悩の世界の有漏路と、悟の世界の無漏路。一休から賜った号『休心』を庵の銘とした。


 義政は一回り年下。教える自分は年上ではあるが、世俗の地位は遙か下。得ている知識や身に付いている素養は圧倒的に義政が上だった。『知らぬ事が多すぎる』と言う事に改めて気付いたが、義政は教授者は教授者であらねば許さなかった。何も飾らず、持てる全てを惜しみなく授ける事を心に誓った。

 形を重んじた義政は、稽古でも公家の礼服である狩衣を着用し、珠光は特別に拝領した僧の正装用大衣である九条袈裟で指南した。無論、外での着用は許されなかった。形は兎も角、貴族の格式張った茶乃湯でなく、心を深く探求する茶乃湯を指導した。簡素な茶乃湯の噂は広がり、大茶盛の様に民衆に受け入れられ『茶乃湯せざるもの人非人と等し』というほど〈奈良流〉は流行した。


 関東では下克上の前触の乱が頻繁に起き、調停を求め幕府に多くの武将が出入りしだした。寛正五年(1464)春、上杉方で江戸城守護の備中守太田道灌が突然、休心庵を訪れた。

「田舎者故、将軍のなさる〈奈良流〉を知っておきたい」との用件であった。道灌は歌ノ道に通じていたが、負けず嫌いで歌合わせを好み、武士の血が旺盛な人であった。

 翌年春には、駿河今川家六代当主の今川義忠が訪れた。義忠は清和源氏の家系で河内の源義家の子義国を祖とする足利一門吉良氏の分家で、茶乃湯の造詣も深く、珠光が始めた茶乃湯への理解を強く示し《青黄茶碗》を所望され二碗さし上げた。

 武将や町の有力者が、先礼も無く唐突に一人暮らしの庵を訪れるようになり、普段着で迂闊に昼寝もしていられなくなった。人に知られる様になると、自分の時間が無くなるものだと苦笑した。居場所を明らかにし乍ら身を隠す為、出来たばかりの町風呂に通い始めた。営業を告げるホラ貝が鳴り響くと、茶釜を上げ火を落とし、座敷を片付け隣家に「消し炭を分けてもらいに行ってきます」と云って留守を頼んだ。

 茶乃湯で使う蒸し焼きにした真っ黒い炭は、火持ちはよいが、なかなか火が熾らない。町風呂に大量にある消し炭は、純黒ではないが火付きが良く、唐突に訪れる不時の客に対応するには欠かせない。二つの炭を巧く組み合わせると、素早く茶の湯合いとなる為、町風呂の炭は必需品となった。蒸し風呂の中で茶の事やら、修業時代の事など、取り留めもなく思い浮かべる刻が好きだったが、そんな場にも雑音が入ってきた。都の彼方此方で東だ西だと陣が出来て諍いが起こり、日が暮れると武士が挙って風呂に押しかけ、敵味方なく湯気の中で談笑し合っていた。珠光の極楽は、徐々に浮世に浸食された。燻っていた火は激しく燃えだし、応仁元年(1467)応仁ノ乱が始まった。義政への指南は戦乱で中断し、物騒な京に居られなくなり、珠光は故郷奈良に數寄座敷〔香楽庵〕を建て移り住んだ。

 珠光の相談相手であった金春禅竹が文明二年(1470)亡くなった。禅竹は一休から學び、佛道と能を結びつけ幽玄な世界を表現していた。珠光にとっては一歩先を走る先達であった。


 乱を避け奈良に避難していた能阿彌から、珠光は突然〈目利き〉の証として、半ば完成していた[君台観左右帳記]を授かった。それは、唐絵の解説と唐物の説明、二つの章からなるものだった。あらためて能阿彌の力量を思い知らされた。

 唐絵の部は、中国の宋元百数十人の名と画題等が注記され、上中下に画家を格付けし、上は宋元宮廷の保護下にある院体画の落ち着いた格調の物であった。

 唐物の部は、南宋龍泉窯の〔砧青磁花入〕や建盞が中心で、建盞の説明では『耀変は建盞のうち最上品で、世間には数が少なく、非常に珍しいもの。地色はいかにも黒く、濃い瑠璃色の星、薄い瑠璃色の星が無数に瞬いている。又、黄色と白色、濃い瑠璃色、薄い瑠璃色等が色々混ざって、錦の様な美しさを出しているものもある』『油滴。曜変につぐ第二の重宝。地色はいかにも黒く、薄紫の白っぽい星がたくさん内外にきらきらと光っている。油滴は曜変より数多くあるようだ』

 [君台観左右帳記]は、宋元の絵画・工藝品中心であった東山御物の鑑賞に重きを置き、文物をあるがまゝ観想的に見つめ、冷徹な眼で蒐集の方向性を明文化したものであった。

 能阿彌は纏め上げた[君台観左右帳記]の世界が、義政の好みと、ずれ始めた事を分かっていた。院体画から水墨画へ。美しく緻密で極彩色の画から、内面的な神秘性を持つ牧渓の〔観音・猿・鶴〕〔漁村夕照〕〔柿・栗〕等、対象の神髄を主観的に捉え禪機を秘め、見る者の想念を無限に広げる。それは、義政が益々政から遠ざかり鬱を散じようとする逃避の世界であり、どうしても許せない領域であった。禪僧の墨跡や珠光の茶乃湯・《青黄茶碗》も同質の類と見切っていたが、能阿彌は感情を越え、それらの存在を認めていた。

 文明三年八月、大和長谷寺で能阿彌は七十五歳で没した。



 義政は能阿彌が没すると、宋の文化が元の侵攻により衰退し、朝鮮に良き文化が芽生えている事を知り、朝鮮の事情に詳しい人物を同朋衆に加えた。田中千阿彌である。義政は祖父義満が行った日明貿易に習い、日朝貿易を企画した。民間で活発になっていた朝鮮との貿易を、幕府が掌握し財源にしようと、李氏朝鮮に牙符制の導入を申し入れた。この時期、対馬の守護大名宗氏等は、幕府有力守護使節、王城大臣使と称し偽使を朝鮮に送っていた。義政の提案は偽使抑制を願う朝鮮の思惑と一致し、査証制度として合意した。査証制度は外交使節の審査認証を行なう制度で、日明貿易で用いた勘合符の代わりに、牙符と呼ばれる通信符が使用された。牙符は象牙を半分に裂いた割符で、円周は四寸五分、片面に『朝鮮通信』反対面に『成化十年(1474)甲午』と発給年次が篆書で刻まれ、朝鮮により十枚製作された。一から十まで通し番号を入れ左符を朝鮮、右符を日本が保管、日本の使節は一つを携行し、朝鮮の保管する片割れと突き合わせ確認した。後に一度改給され新符は日本が左符、朝鮮が右符を保管した。制度は出来たものゝ幕府には、船を仕立てる力は既になく、日朝貿易を幕府統制下に置こうとする目論見は果たせなかった。しかし、幕府から流出した牙符は、大名や豪商の手に渡り日朝貿易は続けられた。


 一休は奈良・大阪と乱を避けていたが、南浦紹明が二百年前に創建し、兵火で荒廃していた、京田辺の薪村にある妙勝寺を二十年程かけ修復し、酬恩庵として再興した。そして、盲目の旅芸人森侍者と住み始めた。七十六歳の時、一休は住吉薬師堂で鼓を打つ、五十も年の差がある森侍者と出会った。一休は詩集[狂雲集]に、

『その美しい笑窪の寝顔を見ると、はちぎれんばかり…………楊貴妃かくあらん』と記していた。一休は正しく融通無碍の域に達し、森侍者と生を満喫している。欲望を抑え女を避けている間は、悟った等とはいえない。女と暮らしていても、煩悩の中にあっても心を奪われない、何事にも囚われない自由な境地。その境地まで行く事は決して簡単ではない。一休の坐す禪の境地とは、そのような清々しいものに違いないと珠光は思った。

 酬恩庵には、多くの文化人達が一休の徳を慕って訪れ、珠光も頻繁に出入りし曾我蛇足等と親好を交わした。絵師の蛇足は、一休の頂相を描き上げた。右足を曲げ左腿の上に組む半跏坐。行儀の悪い座り方である。形式ばった禪林規則でなく、親しみやすく人に接する姿そのものであった。剃刀をあてず、ざんばら髪で無精髭を伸ばした面相は、表層的な似顔絵ではなく性格と精神を現し、貴族化した僧侶とは一線を画していた。臨濟から伝わった禪を、自分一人で引き継いでいる。強い意志表明の賛を一休自身が書いた。


 茶乃湯を愛好し、四国や九州に商圏を伸ばしていた堺の会合衆、天王寺屋津田源次郎(宗柏)が弟子となり、珠光は経済的にゆとりが出てきた。宗柏は牡丹花肖柏に古今伝授を学び堺の町衆に流布させ、町人文化の形成に寄与する実力者であった。

 文明六年九月、珠光は弟子の古市播磨澄胤を連れ信楽を訪ねた。信楽焼は素地が荒く細かな石粒が多く含まれ、赤く発色する火色や、炎の勢いにより灰が振りかゝる自然降灰釉の付着や、薪の灰に埋まり黒褐色になる焦げ等、炎が生み出す独特のやき上がりをしていた。珠光は荒ぶる自然が瞬時に凝固したかの様な静けさを持った〈やきもの〉を生み出す窯やきを一度見てみたかった。陶工と炎の激しい鬩ぎ合いは期待通りだった。

 窯場を訪ねた後、山岳信仰の祖である役行者が開山したと謂われている飯道山に登り、修験道の火行柴燈護摩を参拝した。炎は如来の智恵の標示であり、火中に投ずる供物は煩悩に擬えられ、立ち上がる炎は不動明王の姿そのものに見えた。奉修の後、残り火の上を素足で歩いて渡る荒行の火生三昧は、煩悩から涅槃への遍路の姿に重なり、やき浄め悟の姿を得た様な、信楽焼の美しさに共通するものを感じた。


 旅は良い、些細な事でも心が揺り動かされる。十月、一人で吉崎御坊に出かけ、一休の紹介で、本願寺八世蓮如と会う事が出来た。一休は親鸞二百回忌以来、宗派の違いを越え十九も若い蓮如の思想に敬意を払い、教えを學び合って親交を結んでいた。


   分け登るふもとの道は多けれど  同じ高嶺の月をこそ見れ

 (真理の山に向かう道は違うが、同じ月を我らは見ている)他宗を排斥する風潮の中、器の大きな一休を感じられる歌であった。

 浄土真宗は親鸞により開かれた。親鸞の死後、教団は分立し対立した。大谷祖廟を守り血統を継ぐ本願寺派・京の佛光寺派・伊勢高田の専修寺派・越前の三門徒派等である。本願寺派以外は現世の幸福を求め、親鸞以来禁止され異端とされた布教法を用い勢力を広げていたが、本願寺派は沈滞していた。本願寺法主に就いた蓮如は、本願寺派で否定されてきた方法で布教を行った。自治的村落組織である惣を宗教組織である講に組み替えた。講の寄合は信仰や農事等を話し合う村落の道場とし、御堂や門徒の住居で開かれ、道場主は門徒で、末寺に多くの道場を統轄させた。蓮如は庶民にも分かるよう仮名交じりの手紙である御文を、書き与え教えを説いた。念佛は現世幸福の為であるとし、門徒には末寺に志を納めるよう指導し、本願寺派は他の教団を吸収し大勢力となった。本願寺教団台頭に強い脅威を感じた山門延暦寺によって、京の本願寺は焼打された。本願寺の地侍・農民は離散し、文明三年、蓮如は布教の新天地として加賀と越前国境の吉崎を選んだ。門徒を大切にした蓮如に惹き付けられ、吉崎には宿坊が軒を連ね寺内町が出来ていた。

 珠光が訪ねた年、加賀守護富樫氏の内紛に一向一揆は介入し、一派である高田専修派を駆逐した。平和的な教団発展を望んでいた蓮如は、一揆を禁止し守護地頭への服従、年貢公事の貢納を説いたが、組織に武士を加えた門徒達は、命令を聞き入れようとしなくなっていた。一揆という得体の知れない生き物のような物ノ怪が、人事を越え大規模で激しく生身の人を飲み込もうとしていた。

 廿五日講に珠光は参加した。蓮如は六字名号【南無阿弥陀佛】の講義後、結びの言葉を述べた。「講は、門徒が互いに信心を深め合う場。同行同朋の精神を継承する事にある。昨今は村落生活の憩いの場としての性格も加わり、不満のはけ口の場となり一揆に転化している、其の事を嘆く」

 法座が終わり茶が振る舞われた。はじめて見る茶で、泡の立った黒い飲物だった。山に自生している茶を陰干し、煮出して木椀に注ぎ簓のような道具で、ほとんど泡になるまで點てる。バタバタ茶、又は、振り茶と皆は呼んでいた。ふわふわで美味。液体だけではきっと苦いのだろう、泡の力で味がやわらかくなる事を覚えた。

 阿弥陀如来の前では皆、平等と唱える蓮如の言葉を聞き乍ら、茶乃湯の世界では皆、平等であると説いている非力な自分に、強い後ろ盾を得た思いであった。蓮如に一休の近況や、京の様子等を話し、別れ際に土産として持参した《青黄茶碗》を差し上げた。


 文明九年十一月、約十一年に及んだ応仁ノ乱が終わり、翌年五十六歳になった珠光は、戦火の余韻が残る京の〔休心庵〕に戻った。義政から揮毫された『珠光庵主』を下賜され、庵名を〔珠光庵〕と改めた。武将として乱に加わった後、隠遁した松本珠報を内弟子とし共に暮らし始めた。


 一休は世俗の名利と距離を置き、野僧として清貧生活を送り八十一歳になった。戦乱で炎上した大徳寺復興を望まれた後土御門天皇の勅請により四十七世となったが、大徳寺には住まず森侍者のいる酬恩庵から通い寺役を行った。

 荒れ放題になっていた大徳寺の再建をどうしたものか。一休は豪商が集まる堺へ向かった。自由な気風の堺で破戒僧一休の人気は絶大だった『一休和尚に頼まれ、どうして断わる事が出来よう』豪商尾和宗臨・淡路屋寿源は巨費を喜捨した。商人・武士・庶民も我れ先に寄進し莫大な資金が集まり、五年後には法堂を落成させる事が出来た。法堂は導師が上堂し修行者に説法する場で、修行者を大切にした一休が強く求めた施設であった。


 珠光が還暦を迎える一年前、一休が八十七歳で入寂した。死の前年、一休は等身大の坐像を彫らせ自分の髪や髭を抜いて植え付けた。髪のある像を残す事で『禪僧は髪を剃るもの』といった表層に捉われず、内なるものを大切にしろという表明であった。『虚堂七世孫』『大燈五世孫』と自称し、大徳寺純粋禪に共鳴した人達が一休の禪に参じ、それぞれの心に変異をもたらした。

『朦々淡々として六十年、末期の糞をさらして梵天に捧ぐ』との辞世を残し、

「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」弟子達に一通の手紙を残した。数年後、弟子達に師の知恵が必要という重大局面が訪れ、固唾を呑んで開封した彼らが目にしたのは『大丈夫。心配するな、何とかなる』臨終の言葉は「死にとうない」悟得た高僧とは到底思えない言葉で人生を締め括った。


 死の前年、一休自ら建てた墓の慈揚塔が酬恩庵境内にある。珠光は墓前で人知れず茶湯をした。通常は茶乃碗に茶を入れてから、湯を入れ攪拌し點てる。この時は生前受け取ってもらえなかった《青黄茶碗》に湯を入れてから、茶を湯に振るい落とし、茶の薫りを供え別れを告げた。



 義政は嗣子がいなかった為、後継として弟の義視を指名した。妻の日野富子は期せずして産まれた義尚を将軍に望み、山名宗全が同調し西軍として旗揚。義視の後見人である細川勝元は東軍として対立し、京を中心に各地で軍が起き、大規模で長期に渡る応仁ノ乱が起きてしまった。乱の後、義視は美濃に亡命し、住まいとしていた浄土寺跡地は焼けた儘になっていた。義政は自らの過ちを悔い、乱の火元を鎮める思いで、弟が曾て住まいとしていた地を、東山山荘造営地として選考した。 その山荘について珠光は意見を求められた。持佛堂〔東求堂〕という個人的な建物に、義政の美意識と趣味が存分に発揮される場を考えた。書院の格式張った様式ではなく、僅かな人を招き温かい心の交流や、団欒の出来る數寄座敷の四畳半〔同仁齋〕を組み込み、会所と呼ばれる会合に用いる六畳も組み入れた。会所は会所政治という言葉があるように政治の場であったが、歌を詠み、連歌の楽しみに浸り、立花・絵画・書・香等、同好の士と親密な交流を深める場とした。

 文明十四年造営に着手し、翌年六月には常御所が完成、義政は義尚に政務を譲り山荘に移った。三年後、禪室の西指庵が完成すると、義政は臨川寺三会院で得度し喜山道慶と称し出家した。翌年〔東求堂〕は竣工した。

 義政には相談相手として相国寺五山文学の禪僧達がいた。晩年には横川景三が任用された。景三は後期五山文学を代表する臨濟僧で、義政の外交・文藝顧問で、長享元年(1487)、南禪寺住持となり金襴の僧伽梨衣を受けるが寺には入らなかった。建設中から山荘に頻繁に招かれ、色々意見を求められ〔東求堂〕〔同仁齋〕の名も、景三が挙げた候補から義政が撰した。

   [六祖大師法宝壇経]  【東方人、佛を念じて西方に生まれんことを求む】

   [韓愈]        【聖人、一視同仁】

 観音殿は義政が最も好んだ西芳寺(苔寺)や鹿苑寺舎利殿(金閣)を手本に建てられた。金閣は義満が南北朝統一を成しとげ、幕府が安定し、平和な治世と経済力の象徴であった。義政は太陽を想わせる金閣の金箔を真似、銀箔を観音殿に押そうとしたが財政難で銀の使用はあきらめ、胡粉を塗り月のように輝く白銀の銀閣を目指した。

〔同仁齋〕の床ノ間や違棚に飾られた書院飾は、義政の美意識そのもので精神性の高い掛物や、渡来した花瓶には花も生けられた。義政は花を立てゝ生ける立華を好み六角堂池坊の専慶・専順等、花の名人を召し出した。技能に秀でた立阿彌に花の美しさを引き立て、際立たせる生け方を追求させ藝術にまで高めた。文明十八年、薄紅梅・深紅梅一対と水仙を贈られた義政は、老齢の立阿彌を呼び出し花を立てさせ、見事な出来映えに酒杯を下賜した。

 神佛への供え物や、身嗜みとして実用品であった香も、香木の薫りを楽しむ聞香として、志野宗信や能阿彌の孫相阿彌に命じ香ノ道として極めさせた。

 義政は無名であった狩野正信を招き伺候させ、襖絵〔瀟湘八景図〕を画かせ〔観瀑図〕の賛辞を景三に添えさせた。中国絵画を消化し水墨画に対する義政の好は深く、守護大名大内氏の庇護を受け周防に画室雲谷庵を構えていた雪舟を山荘に招いたが、それは実現しなかった。

 義政は造園にも執心を抱いた。禪の影響で枯山水が誕生していたが、美的・精神的啓発の場として庭園を建物と一体に築く事を求め、限られた中、無限を想像させる禪から學んだ余韻の美を追求した。庭園築造は河原者と呼ばれる下級労働者があたった。知識と熟練した技術を持つ者は、山水河原者と称し、その中に特に優れた者がいた。善阿彌である。善阿彌は長禄二年(1458)蔭涼軒。寛正二年(1461)花ノ御所泉殿。文正元年(1466)山内睡隠軒等を作庭。応仁ノ乱の最中は奈良に移り興福寺大乗院等も手掛け、同じく戦禍を避けていた珠光と親交を深めた。義政は善阿彌を寵用し、東山山荘の庭園作事で存分に手腕をふるわせた。晩年病床に伏した際、使者を遣わし高貴な薬を届けさせたが九十七歳で没した。山荘造園は子。そして、孫に継がれた。


 東山殿会所泉殿(弄清亭)が長享元年に完成し、二年後、観音殿(銀閣)の立柱上棟が行われた。その年の秋、望月ノ宵。義政は珠光に〔東求堂〕で茶を點てる様命じた。観音殿の雑然とした工事現場を隠す為、方丈前に白砂を円錐形に大きく盛り上げ、月待山から昇る満月の光が明るく反射していた。客は横川景三・志野宗信・田中千阿彌・狩野正信・相阿彌ら。義政お気に入りの人達であった。会所では義政が崇拝する夢窓国師の姿を描いた頂相を北に向けて掛け、その前に国師が生前愛用した曲禄が置かれていた。義政は珠光が献上した《青黄茶碗》三碗を持ち出し、一碗で自ら粛々と茶湯をし国師に献じた。皆で隣の〔同仁齋〕に移動し談笑に耽り、砂盛に月が隠れ東の空が明るくなっても、語り尽きなかった。珠光は残り二碗の《青黄茶碗》で何服も茶を點てた。汲んでも尽きない宝の泉にいるように満たされた時であった。

 九日後、義政は病に倒れ翌年一月七日、臨命終時の床で、月光に照らされた円錐の白砂に浮かび上がった幻の銀閣を想い出し乍ら、六十八歳で世を去った。

 平安時代の公家文化や、義満好で盲目的唐物崇拝の武家文化を叩き込まれた義政は、能阿彌の死後、応仁ノ乱で灰燼に帰した文物を、自らの審美眼によって不死鳥の様に蘇らせる芽吹きを見せ、未完の儘、凝縮した一つの時代が終わった。



 珠光は奈良に隠棲の場として〔獨蘆軒〕を建て、浄土教から禪宗に改宗した宗珠を養子として暮らしはじめた。延徳三年(1491)久しぶりに上京し、一休十回忌に列席、銭百文を真珠庵に寄進した。杖を突いても歩く事がまゝならないなった珠光は、帰り道、後ろを歩く宗珠に振り向かず話しかけた。

「儂の戒名は、獨蘆軒南星珠光西堂としておくれ。

 忌日には〔圜悟ノ墨跡〕を掛け〔抛頭巾茶入〕に引屑を入れ茶を點てゝおくれ」

「父上」

「茶乃碗はいわずもがな」《青黄茶碗》。後に、《珠光茶碗》と呼ばれる茶乃碗の事であった。


 東大寺塔頭の四聖坊に、文亀二年(1502)五月、珠光による數寄座敷の集大成である四畳臺目〔八窓庵〕が竣工した。八十歳になり寝込みがちになった珠光は、座敷の完成を見届けたく思い、宗珠に無理を言って席を設させた。宗珠が吟味し活けた藤の甘い薫で、珠光は昔を想った。幼少を過ごした興福寺に良い想い出は少なかったが、南円堂の〔不空羂索観音菩薩〕と〔左近ノ藤〕は好きだった。観音菩薩は鳥獣魚を捕らえる縄である心念不空の羂索で、衆生を洩れなく救済する。当時の珠光にとって、唯一の救いであった。

興福寺は鏡大王が夫、藤原鎌足の病気回復祈願の為、釈迦三尊像等を安置し天智八年(669)山背国に創建した山階寺が起源で、天武元年(672)藤原京に移転され厩坂寺と称した。和銅三年(710)平城遷都で鎌足の嗣子不比等は、東大寺近くに移転させ、寺名も興福寺と改めた。弘仁四年(813)藤原北家興隆の基礎を築いた藤原冬嗣は、父の追善の為、興福寺境内に南円堂を建立し、正面右側に橘。左側に藤を植えた。桓武天皇は紫宸殿前に〔右近ノ橘・左近ノ桜〕を植えられたが、冬嗣は『藤原朝臣』の姓から桜の代わりに藤を植え、毎年見事な花を咲かせた。 幼い頃、珠光は幾重にも房状に垂れて咲いた藤花を見ると、菩薩の羂索に捕らわれる様に、全てを忘れ幸せな気持ちになりたいと、一刻も早く高貴な紫色をした雲の様な花の下へと早足になった。 宗珠に支えられ、藤の香りを聞いていると、羂索に捕らわれる様な感覚が、《青黄茶碗》で茶を喫した時に感ずる幻翳と重なる事に始めて気付いた。

 《青黄茶碗》で宗珠が點てた茶を喫し、全てを包み込む時空の歪みの様な幻翳を感じ乍ら、珠光は此岸での求道を了えた。  

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