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心に満ちていたもの  作者: 天猫紅楼
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後編

 それからひと月も経たないうちに、勇太はそれまで働いていたガソリンスタンドのバイトを辞めた。 理由を聞くと、

「花織と会う時間を作りたいから」

 その辺りからだ。 私の知っている勇太が変わっていったのは。



 私は高校を卒業してからすぐに就職も決まり、正社員として働いていた。 まだまだ少ない給料だったが、家族と同居する身なので家に入れる微々たる生活費以外は自由に使えた。

 一方、バイトを辞めた勇太は、何故か次の仕事を見つける素振りもなく、その上、家を出て一人暮らしまで始めた。 彼の貯金は、それでほとんどが飛んでしまった。 生活費に困るようになると、私の財布にも手を出すようになった。

 毎日の食費は、ほとんど私が出すようになっていた。

 そして

「今日も、病院に行かなくちゃ」

と言われるたびに、自分の財布をあけるのがクセになっていた。

 たまに

「今日は大丈夫。 自分で払えるから」

と制止されると、それだけでも嬉しさを感じていた。

 その頃になると、私の心は完全にマヒしてしまっていたのだ。 とにかく病人である彼を助けなくてはという使命感に支配されながら、私自身も彼との殻に閉じこもってしまっていた。

 入金は私の給料だけ。

 銀行の残高は、日に日に右肩下がり。

 それにも危機感など感じず、ひたすら彼との生活を過ごしていた。 自分の家には寝るために帰るだけ。 家族との会話も次第に無くなっていた。

 遠い存在になった家族を残して、四畳半のアパートで待つ彼のもとへと、毎日いそいそと出かけるのだった。



 合鍵で安アパートの部屋の扉を開けると、二階建の二階にある彼の部屋の中は家具と呼ばれるものはほとんど無く、がらんとした六畳の畳部屋には小さなテレビと薄い布団、電器コンロがポツンとあるのみだ。 カーテンの無い窓の外にはベランダがあり、そこも無駄に広いのがまさに殺風景だった。

 下を見ると、大家のおばあさんが畑を耕している。 その傍で、相変わらず人当たりの良い彼が、大家さんと仲良く話していた。

 上から覗いている私に気付くと、二人して手を振った。 それに笑顔で答えて部屋の中に入ると、やがて彼も戻ってきた。 そして来る途中で買ってきたコンビニ弁当を美味しそうに食べる彼を眺め、テレビを流しながらたわいもない話をするのが毎日の過ごし方だった。


 それでも、私も少しずつ彼に稼いでもらいたかった。

 そしてどうにか気分を害しないように説得した結果、なんとか仕事を見つけてきてくれるのだが、人と合わないからとか給料が安いからとか言い訳をしてすぐに辞めてしまうので、すぐに生活費全てを私が負担することになった。



 拒めば何をされるか分からない。

 すでに彼は、私にとって脅威でしかなかった。

 何をされたわけでもなく、出会った頃の優しさは変わらなかったけれど、何かがあの頃とは違っていた。

 私の車もほとんど彼が乗り回し、身動きが取れなくなり、段々と『私』が狭く小さくなっていった。 そのうち私という自我は無くなってしまうかもしれない。 そんな恐怖を感じるようになったころ、彼はパチンコ店で働くと言い出した。


「花織に負担掛けたくないし」

 そんな言葉も、以前なら抱きついて喜ぶところだったが、もはや私の心に届くことはなかった。 住み込みだと聞いても、寂しさを感じることはなかった。



 彼は少ない荷物を私の車に乗せて、半年も住んでいないアパートを出た。

 走り去る車の後ろ姿を見送る大家さんは、彼のことをどれだけ分かっていたんだろうか? きっと大家さんの生活は、何事もなかったように流れていくんだろうな……。

 人付き合いって、思うより軽いのかもしれない……

 私のそんな切ない気持ちなど気付くことなく、彼は新しい生活への期待を膨らませながら私の車のハンドルを握っている。

 私はふと、彼への気持ちが離れていくのを感じた。


 勇太と私は、次第に疎遠になっていった。

 住み込んでいるパチンコ店が遠くにあったのも原因の一つで、初めのうち週一で会っていたのが、店が新台入れ替えなどで忙しいと、会える回数も減っていった。

 やがて月一になり、電話で会話することも少なくなったが、不思議と淋しいとは思わなかった。

 彼は今頃何をしているんだろう。

 ちゃんとご飯は食べられているのだろうか?

 そんな心配事も、ほとんど無くなった。



 そして、雲が溶けるように、私たちは離れていった。



 私には何も残らなかった。





 ――

 あれから五年近く経った。

 私はごく普通の会社員の人と知り合い、名字も変わり、私の胸には、生まれたばかりの娘が抱かれている。


 普通の生活。

 勇太と居たときには考えられなかった、なんの不自由もないけれど、なんの刺激もない生活。


 いつものように出勤する夫を娘と共に見送った後、娘をそっとベッドに寝かせ、いつものように新聞を読んでいると、ひとつの記事に目が奪われた。


『○月○日、○○市○○町のコンビニに強盗が入った。 ○○市在住葛城勇太(二十八)が強盗未遂の疑いで現行犯逮捕――』


 私は、しばらくその記事から目を離せなかった。

『あぁ、勇太のことだ……』

 そう思った途端、頭の中は真っ白になった。

 あの頃を思い出すことも無く、ただそこに、記事があった。

 寂しいとも、嬉しいとも、懐かしいとも、悲しいとも、あらゆる感情が、一片たりとも浮かんでこなかった。



 脇に置いてあるコーヒーが冷める頃、娘の泣く声に我に返った。

 抱き上げた娘は全てを私に預けている。 私を必要としてくれる嬉しさは、何モノにも変えられない。

 それは過去も未来も、形は違えど、永遠に巡るものなのだろう。

 私の心に満ち溢れているモノは、いつも私を支配する。

 あの頃だって、そうだった。



 日が暮れる頃、夫が笑顔で

「ただいま」

と帰って来るだろう。

 それを、娘と二人で出迎え、頑張って覚えたレシピの中から厳選した温かい料理が並んだ食卓を前に、今日何があっただとか、今日の娘の成長を、暴れる娘をあやしながら話すのだ。

 それは、まぎれもなく平和で穏やかな時間。

 今は、毎日が笑顔で埋め尽くされている。

 そう、今は……


 私はいつも不安を抱えている。

 優しい夫、可愛い娘と一緒に居ても。

 それが何の不安なのかと聞かれても、答えられない。 漠然とした不安が、いつも私の心の隅っこに住みついているのだ。


 そして普通の生活に息が詰まりそうになったとき、私はあの頃を思い出す。

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