第四話 手と、手
朝。カーテンの隙間から差し込む夏の日差しに、僕は重たい目蓋を持ち上げる。
横目で壁際の時計を見る。七時十五分。待ち合わせにはまだ遠い時間だ。
「ふぉっ、おぉぉぉ……」
凝った体を伸ばす。ポキポキと骨が鳴り、変な声が漏れる。
僕は布団から這い出て、壁に掛かった日めくりカレンダーをめくる。
八月十八日。今日は、麻璃亜とデート………もとい、海に行く日だ。
僕は軽く身支度を整え、いつもの朝食を終える。食器を片付け、歯を磨く。
全ての準備を終え、時計を見る。時刻は八時半。少し早いが、待ち合わせのバス停に向かうとするか。
外に出る。この時間にはまだ蝉の合唱は聞こえない。生活感のしないこの町に、真夏の太陽光線が静かに降り注ぐ。それでもやはり朝だからか、そんなに暑くない。
坂道を下り、住宅街を抜ける。大通りに出て、信号を渡る。バス停が見える。だけど、そこにはすでに麻璃亜の姿があった。
今日の麻璃亜は白いワンピース姿ではなく、紺のショートパンツにフリルのついた白いキャミソールと、いかにも夏らしい格好をしている。頭の上には、大きめの麦わら帽子が乗っている。大胆に露出した両肩と、すらりと伸びた白い足が太陽の光を受けて余計白く見える。サンダルを履き、足首にはフリルのついた白いリボンが巻いてある。麦わら帽子からのびた綺麗な白い髪が風に揺れる。
麻璃亜はベンチに座って遠くを見ていたが、僕に気づいたのかこっちを向いて手を振ってきた。
僕は急いでバス停に駆け寄る。
「おはよう、麻璃亜。早いね」
「おはよう、聖也くん。あたしも今来たところだよ」
「そっか、ならよかった。そういえば麻璃亜って、どの辺に住んでるの? 昨日もここにいたし」
「あたし? えっと、そこの信号を渡って、坂道を登ったところの住宅街に越して来たの。お買い物とかでよく隣町の方に行ってたから、ここはけっこう使ってるんだ。」
なんと。以外に近所だ。なんだか少し嬉しい。
「そうなんだ。じゃあ、結構近所だね。それじゃ、そろそろ行きますか、海」
僕がそう言うと、麻璃亜は嬉しそうに顔を綻ばせながら頷いた。僕もつられて笑い返してしまった。少し照れながら、僕は麻璃亜を連れて海へ向かった。
数分で、海に着いた。足跡の無い綺麗な砂浜は太陽に反射して白く光っている。静かな深い青に、波の音だけが聞こえる。
「わあぁ! 海! 海だ!」
「麻璃亜?」
海を見て麻璃亜は嬉しそうな声を出す。そういえば、海はこれが初めてだっって言ってたな。――――――僕も両親と初めてここに来たとき、こんな風にはしゃいでたのかな……。
僕がそんなことを考えていると、麻璃亜は目を輝かせて砂浜に走っていった。その様子に苦笑しながら、僕は防波堤に腰を下ろして麻璃亜を見る。
「わぁ……! 海だ……、ほんとに海だ!」
はしゃいでいる麻璃亜を見るのは、なんというか、目の保養だ。うん。いい。すごくいい。
などとにやけていたら、急に麻璃亜が僕のほうを向いて、
「聖也くんもこっち来なよ~!」
と、満面の笑みで手招きする。麻璃亜の白い歯が眩しい。というか、麻璃亜が眩しい。……やっぱり僕には、麻璃亜の頼みを断ることが出来ないわけで。僕は防波堤を降りて、麻璃亜の元へ向かう。
「麻璃亜ってさ、前はどこに住んでたの? 海、今日が初めてなんだよね」
僕がそう言うと、麻璃亜は少し目を細めて口を開く。
「あたしね、一ヶ月前までイギリスにいたんだ。」
「え、イギリス!? って、確か島国だったような……?」
「うん。でもあたしが住んでたのはロンドンの学校の学生寮だったから、ほとんど外に出れなかったの。それに、イギリスに行く前は北海道の真ん中みたいなトコに住んでたんだ。両親は仕事で忙しいから、あんまり外に連れて行ってくれたこと無かったの」
そう話す麻璃亜の顔は、なんだか寂しそうに見えた。気のせいかもしれないけど、僕にはそう思えた。それでも僕は、自分の口を止めることが出来なかった。
「麻璃亜って、イギリスにいたってことは、留学?」
「……そう。四月から向こうに行ってたの。でもね―――――――――、この前、一ヶ月前にね。……お父さんとお母さんが、事故で――――――死んじゃったの」
「ッ――――――」
息が詰まった。
麻璃亜は悲しそうに目を伏せて、それでも無理やり笑顔を作っていて。
「ごめん、麻璃亜……。嫌なこと、言わせちゃって……」
「ううん、あたしはもう大丈夫。それに、今は親戚のおばさんに優しくしてもらってるから、心配しないで」
麻璃亜は、そう言って僕に微笑んだ。でも、やっぱりどこか悲しそうで。
「麻璃亜……」
その時。 麻璃亜のエメラルドの瞳が、涙に揺らいだ。
「麻璃亜……?」
「え………?」
麻璃亜の目から、涙が零れる。ぽろぽろと、やがてそれは一本の筋を作る。
「あ、あれ? なん、でだろ、っく、あたし、ちゃんと、受け止めてたと、思って、たのに……っ。ごめ、んね、聖也くん。大丈夫、だとっ、思ってたんだけどっ……」
大丈夫な、わけない。両親を失って、まだ一ヶ月だぞ? 僕なんか、一年過ぎても、まだ時々悲しくなるのに。
「心配、しないで、っ。すぐ、泣き止む、から、っ」
心配、するさ。だって麻璃亜は、僕の――――――大好きな人だから。大好きな人に、泣いてほしくなんてないから。
「無理しないで、麻璃亜。泣きたいときは、泣けばいいんだよ」
「聖夜、くん………?」
麻璃亜は赤くした目を少し開いて僕を見つめる。
「僕にも、両親がいないから。――――――だから、麻璃亜の気持ちは痛いほど分かる。でも、麻璃亜は我慢なんてしなくていいんだよ。泣きたいときは、泣いていいんだよ。辛いって、寂しいって、言っていいんだよ。――――――――――――僕が、傍にいるから。麻璃亜の気持ちを、受け止めてあげるから」
「聖夜くん……」
「だから、お願いだ。もう、悲しいときに、辛いときに、苦しいときに、寂しいときに――――――、そんな風に、悲し、そうに、笑わないで……」
気がつくと、僕は泣いていた。みっともなくて、恥ずかしくて、でも、止められない。涙はどんどん溢れてくる。
「あはは、聖夜、くんも、泣いてるよ?」
「だ、だって、麻璃亜が、泣き止まないから、っ」
「あははは! ……、聖夜くん、ありがと。なんだか、もう、悲しくない。それに、聖夜くんが泣きたい時は泣けって、傍にいるからって言ってくれて、本当に、嬉しい」
麻璃亜は目尻に涙を溜めながら、それでも、笑顔でそう言った。僕の大好きな、嬉しそうな笑顔で。つられて僕も笑顔になる。
「聖夜くんはやっぱり、優しいね。…………あたしのお父さんに似てる」
「え? なに、麻璃亜?」
僕がそう尋ねると、麻璃亜は慌てて首を振る。
「う、ううん! なんでもないの。 そ、それより、向こうまで歩かない?ちょっと、散歩しようよ」
「え? うん、いいよ。それじゃ行こうか、麻璃亜」
僕は目を擦って、麻璃亜と一緒に歩き出す。 でも、麻璃亜に手を引っ張られて、前につんのめりそうになる。
「な、なに?」
僕が尋ねると、麻璃亜は顔を赤らめて、でもまっすぐ僕を見て言った。
「あの、えっと、………、手、繋いで、歩かない……?」
その一言で、僕の温度は一気に上昇する。顔が赤く染まるのを止められない。
「え、え!? ま、麻璃亜!?」
「やっぱり、嫌……?」
「嫌なわけ、ないよ! で、でも、いいの?僕なんかで」
「いいもなにも、聖夜くんだから言ってるんだよ? ……それに聖夜くんは、あたしの――――――」
「え?」
「う、ううん!? なんでも、ないから!ほ、ほら、早く行こう!?」
「え、うん……?」
何か言いかけてた気がするけど、麻璃亜が手を引っ張るので追求は諦めた。
結局、僕は麻璃亜と手を繋いで白い砂浜を歩いた。その間、ぼくの胸の鼓動が落ち着くことはなかった。
僕が初めて、好きになった女の子。その子は雪のように真っ白で、儚げで。でも今は、僕の横で手を繋いで歩いている。
この幸せな時間が、いつまでも続けばいいと、僕は思う。
けれど。このとき僕は、まだ知らなかった。――――――否、知っていたが、思い出せていなかった。逃れられない運命が、もうすぐそこにあることを。




