リセット
そいつは、急に俺の前に現れて言った。
「ねぇ、人生を好きなとこからリセットしてみない?」
普通なら「なに言ってんのお前?」と笑い飛ばすところだ。
だが、今の俺にそんな余裕はなかった。
なぜなら俺と、そいつ以外すべての《時間》が止まっていたからだ。
店内の薄暗い照明はそのまま。
カウンターでマスターが傾けたボトルもそのまま。
ドアベルの余韻さえ、途中で凍っている気がした。
おまけに、目の前のそいつは宙に浮いていた。
気を抜けば漏らしそうだった。
だから俺は、精いっぱい平静を装って言った。
「成程。それは、どこからでもやり直せるのか?」
よし。パーフェクト。
今の俺、かなりハードボイルド。
「そうだよ。記憶もそのまま。お得でしょ? どうする?」
即答かよ。
しかもグイグイ来る。
「そう焦るなよ。一つ聞きたい。おまえさん、いったい何者だ?」
クールに、低い声で言ってみる。
大事なのは雰囲気。
「んー、君たちの言葉でいうなら、神さまみたいなものかな」
思わずウイスキーを吹きそうになった。
幼く中性的な顔で、時間を止め、空に浮きながら、神を名乗る。
冗談みたいな話だ。
だが、実際目の前で起きているために、笑えない。
ちょっと怖い。
「なるほどね、理解したよ」
嘘です。
「それで……その神が、なんで俺を選んだ?」
頭が混乱する中、なんとか声を絞り出す。
「なんとなく。たまたま君を見て面白そうだったから」
ふざけんなよ。
そこは運命とか神託とか、もう少しこう、神っぽい理由があるだろ。
「ごめんね。気を悪くしないでよ」
しかも聞こえてるのかよ。
めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん。
「やり直したい思い出か……」
そう言って、俺はこれまでの人生を振り返った。
十五の春。
バラの花束を抱えて告白した初恋の相手、涼子ちゃん。
見事に玉砕したっけ。
「その子とはどうやっても縁はなかったよ。今は看護師さんみたいだね」
重い荷物を持って難儀していた老婆を助けたら、ひったくり犯と間違えられて取り押さえられそうになったこともある。
その日の帰り道、俺は路地裏で静かに泣いた。
「君、無駄に強面だからね。おばあちゃん視点だと妥当かな」
このあいだは、部下の山本が営業ミスの責任を、全部被せられそうになってた。
見てられなくなって、部長に噛みついたんだよな。
結果、山本は会社に残り、俺は無職になった。
「でもその会社、二年後に潰れるよ。結果オーライだね」
いちいち俺の思い出に答えるなよ。
でも涼子ちゃん、看護師なんだ。
いやいや、会社潰れるって……山本どうなんだよ? ん?
「なぁ? お前それ、何見てんだ?」
「これ? これは君の全てが書かれた本だよ」
めっちゃ気になるじゃん。
は! ていうことは——
「全てって……まさか! あれも分かるのか?」
「もちろん。君、『桃山ひなた』っていうんだ。可愛い名前だね」
うわあああああぁぁぁぁ!
「でも君に似合わな過ぎて、正直、出オチみたいになるよね」
「もうやめろおおおぉぉぉぉぉ! 一番のコンプレックスを……」
「そう? 可愛い名前だと思うけどなぁ。ひなちゃん」
「……た、頼む。その呼び方だけは勘弁してくれ」
お、思わぬダメージを食らってしまった。
だが俺はここで閃いた。
「……なるほど。リセットするとこから先のページを消す、ってことか?」
「んーん。リセットするページに僕がこの栞を挟むと、そこからやり直せるんだ」
あ、違ったわ。
「さあ、どうする? リセットする? しない?」
俺の恥ずかしい感じを華麗に無視して、神は選択を迫ってきた。
「……少し考えさせてくれ」
記憶を持ったままやり直せるなら、間違いなく今よりマシな人生になる。
就職も、恋愛も、いろんな失敗を回避できる。
ぶっちゃけ億万長者だって夢じゃない。
悪くないな。
いや、破格だ。
それでも――
「せっかくの提案だが、俺はこのままでいい」
神は少しだけ目を細めた。
三十五歳。
現在無職。
貯金なし。
彼女なし。
……ちなみに、生まれてこのかた一度もできたことがない。
特別な資格も特技もない。
社会的信用もほぼゼロ。
ハードボイルドの皮を被った、ただのコミュ障。
ここまで並べるともはや笑えてくるな。
それでも……これが俺の人生だ。
涼子ちゃんに告白して玉砕した俺も。
見ず知らずの婆さんを助けて泣いた俺も。
山本のために部長へ噛みついてクビになった俺も。
「散々な人生だが、それも俺だ」
もし人生をリセットしたら、俺はきっとどこかで思うはずだ。
——リセットしなかった俺には、どんな未来があったんだろう。
だが、その答えは永遠に分からない。
自分の手で、その未来を消すことになるからだ。
「本当に? 強がってない?」
「どうやらその強がり込みで、俺らしいんだよな、これが」
ハードボイルド。
それだけを信条に、格好をつけ、意地とプライドで生きてきた。
この先どんな結末になろうと、それもまた俺の人生だと思えた。
……ところで、ハードボイルドって何だっけ。
「無駄な時間を取らせちまったな。悪いが他をあたってくれ」
神は少し黙っていた。
やがて、楽しそうに微笑んで言った。
「そっか。じゃあ僕がリセットするよ。えーい」
勢いよく俺の本に栞が挟まれる。
「え? あ、おい、ちょ――」
白い光が視界を塗りつぶした。
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そいつは、急に俺の前に現れて言った。
「ねぇ、人生を好きなとこからリセットしてみない?」
「……は?」
俺は辺りを見渡してみる。
……また全部止まってんじゃん。
「ねぇねぇ、人生を好きなとこからリセットしてみない?」
「待て、待て待て! さっき勝手に栞挟んだよな?」
「うん、そうだよ。戻しちゃった」
「……なんで?」
「面白そうだったから」
あ、こいつ駄目だ。
新しい玩具を見つけた子供の目をしてやがる。
しかも、遊びのスケールが神がかってるわ。
……そういえば神だわ。
「安心してよひなちゃん。栞は何度でも挟めるからさ」
そういうことじゃないし、逆に怖い。
そしてひなちゃんって呼ぶんじゃねぇ。
神は栞をヒラヒラと弄び、無邪気に笑う。
「さあ、今度はどんな答えになるかなぁ?」
俺は震える手でウイスキーをあおった。
唇に触れる氷が心地いい。
やれやれ。
どうやら俺は、神に気に入られてしまったらしい。
長い夜になりそうだ。




