サイドストーリー:身勝手なリアリストの末路 ~泥濘に沈む見栄と後悔~
「オイ! そこのお前、何ボーッとしてるんだ! 早く車を誘導しねえか!」
耳をつんざくような怒声にビクッと肩を震わせ、俺は慌てて手元の赤い誘導灯を振り回した。雨に濡れたアスファルトにタイヤが擦れる不快な音とともに、大型トラックが泥水を跳ね上げながら目の前を通り過ぎていく。顔に冷たい泥水がもろに掛かったが、それを拭う余裕すらない。
「す、すみません! こちらへどうぞ!」
擦り切れた声で叫びながら、薄っぺらい雨合羽の下で小刻みに震える体を必死に動かす。十二月の深夜、吹きさらしの工事現場。気温はとうに氷点下近くまで下がっており、安物の安全靴の底から這い上がってくる冷気が、足先の感覚を完全に奪い去っていた。
休憩時間のプレハブ小屋に戻ると、俺はパイプ椅子に崩れ落ちるように腰を下ろし、泥だらけの軍手を外した。冷え切った両手に息を吹きかけながら、ポケットからひしゃげたタバコの箱を取り出す。残りは一本しかない。それを震える指でくわえ、百円ライターで火をつける。
紫煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。薄暗いプレハブ小屋の窓ガラスに映る自分の顔を見て、俺は思わず自嘲の笑みを漏らした。
無精髭が伸び放題になり、頬はげっそりとこけ、目の下には黒々とした隈が張り付いている。髪は脂でベタつき、泥と汗の混じった不快な体臭が自分でも分かるほど漂っている。かつて、仕立ての良いブランド物のスーツを着こなし、綺麗にセットした髪と甘い笑顔で夜の街を闊歩していた「高橋健一」の面影は、もはやどこにも残っていなかった。
俺は、どうしてこんな底辺の掃き溜めのような場所で、泥水をすするような生活を送っているのだろうか。
答えは分かっている。すべては四年前のあの日、俺が犯した「たった一つの計算違い」から始まったのだ。
四年前。俺は中堅の広告代理店で営業のチームリーダーを任され、順風満帆な人生を送っていた。容姿には昔から自信があったし、口が回るため営業成績も常にトップクラス。プライベートでは、社長令嬢である妻と結婚し、都内のタワーマンションで何不自由ない生活を送っていた。
もちろん、妻一人で満足するような性分ではなかった。職場の女性や取引先の受付嬢など、声をかければ大抵の女は簡単に落ちた。彼女たちは皆、俺の甘い言葉とスマートな振る舞いに酔いしれ、俺にとって都合の良い「遊び相手」として機能してくれた。
美咲も、その中の一人に過ぎなかった。
前の職場で一緒だった彼女は、大人しくて少し地味だが、どこか寂しげな陰を持っていた。夫が仕事人間で構ってくれないと愚痴をこぼしていた彼女に、少し優しく言葉をかけてやっただけで、彼女はすぐに俺の腕の中に落ちてきた。
都合の良い女だった。呼び出せばいつでも来るし、金もかからない。ただ、彼女が妊娠したと告げてきた時は、さすがに厄介なことになったと舌打ちをした。
だから俺は、青山にあるカフェの前の路上で、彼女の夫である佐藤悠真に現場を押さえられた時、迷わず彼女を切り捨てる選択をした。
『俺は関係ないからな! そもそも俺の子供かどうかも分からないじゃないか! 家庭がある身なんだ、これ以上俺を巻き込むな!』
路上で泣き崩れる美咲を置き去りにして逃げた後、俺はすぐに彼女の連絡先をブロックし、着信拒否の設定をした。数日後、公衆電話から泣きついてきた時も、容赦なく罵倒して電話を切った。
自分の家庭とキャリアを守るためだ。当然の危機管理能力であり、賢い大人の選択だと信じて疑わなかった。あの夫も、大人しそうな冴えないサラリーマンだった。事なかれ主義の弱虫が、どうせ泣き寝入りするだろうと高を括っていたのだ。
しかし、それが俺の決定的な誤りだった。
佐藤悠真は、逆上して殴りかかってくるような単細胞の馬鹿ではなかった。彼は感情を完璧にコントロールし、法の網の目を潜り抜けながら、俺の人生の急所を的確に、そして完膚なきまでに破壊する「冷徹な処刑人」だったのだ。
俺が美咲を完全に切り捨てて安心しきっていた、あの日から一ヶ月後。
俺の勤める会社の社長宛てと、俺の自宅宛てに、同時に分厚い内容証明郵便が届いた。
送り主は、佐藤悠真が依頼した凄腕の弁護士だった。
自宅のリビングで、妻の莉子からその封筒を突きつけられた時の光景は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「健一さん。これ、一体どういうことか説明してもらえるかしら」
テーブルの上に叩きつけられたのは、あのカフェで美咲と手を重ね合っている写真。ホテルに出入りする決定的な瞬間の写真。そして、美咲の妊娠の事実と、俺との間に交わされたメッセージのプリントアウトだった。
「り、莉子、違うんだ! これは誤解で……その女が勝手に俺に言い寄ってきて、断りきれずに一度だけ……」
俺は必死に言い訳を並べ立てた。美咲がストーカーのように付きまとってきたのだと、自分は被害者なのだと。
しかし、莉子の目は氷のように冷たかった。彼女の隣には、彼女の父親が手配した冷酷そうな初老の弁護士が座っていた。
「見苦しい嘘はやめて。探偵の調査報告書はすべて読ませてもらったわ。この佐藤美咲という女性だけじゃないわよね? 今の会社の部下、受付の女の子、全部で三人の女性と同時進行で不倫関係にあった。違って?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。佐藤悠真は、ただ美咲との不倫を告発しただけではなかった。俺の素行を徹底的に調査させ、俺が周囲に隠していたすべての余罪を洗い出し、一番ダメージの大きいタイミングで妻に暴露したのだ。
「私、あなたみたいな不潔で計算高い男、虫酸が走るほど嫌いなの。離婚届にはすでに私のサインがしてあるわ。今すぐ書いて」
「ま、待ってくれ! 莉子、愛してるんだ! お前と別れたら、俺は……!」
「愛? 自分の保身のために妊娠した女を道端に捨てて逃げるような男に、愛なんて言葉を口にする資格があると思ってるの?」
莉子の言葉は、俺の薄っぺらいプライドを粉々に打ち砕いた。彼女は一切の情を挟むことなく、莫大な額の慰謝料と、財産分与の放棄を突きつけてきた。彼女の実家は有力者であり、逆らえば俺の社会的な生命を完全に絶たれることは明白だった。俺は震える手で、離婚届と公正証書にサインをするしかなかった。
地獄はそれだけでは終わらなかった。
翌日、出社した俺を待っていたのは、人事部長とコンプライアンス委員会の役員たちだった。
「高橋君。君の奥様側の弁護士から、そして佐藤氏の弁護士から、立て続けに君の不貞行為と社内でのセクハラまがいの交際についての通報があった。我が社の看板を泥で塗るような真似をしてくれて、どう責任を取るつもりだ」
社内での不倫がすべて公になり、俺の立場は完全に崩壊した。これまで俺に愛想よくしていた女性社員たちは一斉に手のひらを返し、「高橋さんからしつこく誘われて怖かった」と証言し始めた。
懲戒解雇という最悪の事態は免れたものの、事実上の自主退職を迫られた。エリートコースから転落し、誰も俺を庇おうとはしなかった。荷物をまとめて会社を出る時、背中に突き刺さるような冷ややかな視線と嘲笑の声が、今でも耳にこびりついている。
退職金はすべて、妻への慰謝料と佐藤悠真への慰謝料の支払いで消え去った。それどころか、足りない分を消費者金融から借り入れる羽目になり、俺には多額の借金だけが残された。
再就職先を探そうにも、年齢的な壁と、前の会社を不祥事で辞めたという噂が業界内に広まっており、まともな企業はどこも俺を雇ってはくれなかった。
家を失い、家族を失い、仕事を失い、プライドを失った。
結局、日雇いの肉体労働や、深夜の警備員のバイトを掛け持ちして、安アパートの家賃と借金の返済に追われるだけの日々へと転落していった。
「……クソッ、クソがッ!」
プレハブ小屋の中で、俺は吸い殻を灰皿に力強く押し付けた。
なぜ俺がこんな目に遭わなければならないんだ。不倫なんて、世の中の男の半分はやってることじゃないか。たまたま運が悪かっただけだ。あの美咲という女が、馬鹿みたいに妊娠なんてするから。あの佐藤悠真という男が、執念深く俺を追い詰めたから。
自分の身勝手さを棚に上げ、他人のせいにして憎悪を燃やすことでしか、今の俺は精神を保つことができなかった。
「おい高橋! 休憩終わりだ! 早く持ち場に戻れ!」
現場監督の怒鳴り声に、俺は重い腰を上げ、再び冷たい雨の中へと出て行った。泥水をすすり、他人に頭を下げて小銭を稼ぐ。これが、身勝手なリアリストが辿り着いた、絶対的な敗北の姿だった。
それから数日後。
珍しくよく晴れた日曜日の昼下がり。俺は徹夜の警備バイトを終え、疲労困憊の体を引きずりながら、安アパートへの帰り道を歩いていた。
薄汚れた作業着に、泥のついた安全靴。すれ違う家族連れやカップルたちが、まるで汚物でも避けるかのように俺から距離を取っていくのが分かる。かつての俺なら、そんな連中を鼻で笑い飛ばしていただろうに、今の俺には俯いて足早に通り過ぎることしかできなかった。
帰り道にある広大な総合公園の横を通りかかった時だった。
「パパ! 見て! お城ができたよ!」
公園の砂場の方から、高く澄んだ子供の歓声が聞こえてきた。俺は何気なくそちらへ視線を向け、そして、全身の血が凍りつくような衝撃に襲われ、その場に釘付けになった。
砂場で無邪気に笑っている、四歳くらいの小さな男の子。
その隣で、優しく微笑みながら男の子の頭を撫でている男。
そして、水筒を手にして、愛おしそうに二人を見つめている女。
佐藤悠真と、美咲だった。
俺の足はアスファルトに縫い付けられたように動かなくなった。心臓が早鐘のように鳴り始め、呼吸が浅くなる。
あの日、雨の降る路上でボロ雑巾のように泣き崩れ、すべてを失ったはずの美咲。俺に捨てられ、絶望のどん底に突き落とされたはずの女。
しかし、今の彼女は、かつての派手で軽薄な雰囲気は微塵もなく、落ち着いた柔らかい表情を浮かべる、美しく立派な「母親」の顔をしていた。そして、彼女の隣にいる佐藤悠真もまた、あの日の氷のような冷徹さはなく、父親としての温かい眼差しで子供を見つめている。
そして何より、俺の視線を釘付けにしたのは、砂場で笑うその男の子の顔だった。
距離は離れていたが、俺にははっきりと分かった。
あの目元。あの鼻筋。笑った時の口の形。
それは、かつての俺自身の幼い頃の写真と、不気味なほどに瓜二つだった。
「……あ、あれは……」
無意識のうちに、俺の口から掠れた声が漏れていた。
俺の子供だ。
あの日、俺が「関係ない」と切り捨て、見殺しにしようとした命。
それが、今、俺を地獄に突き落とした男を「パパ」と呼び、俺が捨てた女を「ママ」と呼んで、光の中で眩しいほどの笑顔を見せている。
その事実が、俺の脳を激しく揺さぶった。
俺はすべてを失い、誰からも愛されず、誰にも必要とされず、泥水の中で這いつくばって生きている。
それなのに、俺を破滅させた彼らは、俺が捨てたはずのものを拾い上げ、俺の遺伝子を持つ子供を囲んで、絵に描いたような幸せな家族の形を築き上げているのだ。
激しい嫉妬と、狂気にも似た憎悪、そしてそれらを遥かに上回る、途方もない惨めさが俺の全身を駆け巡った。
「あ、ああ……っ」
俺はフラフラと、吸い寄せられるように公園のフェンスに近づいた。フェンスの金網を泥だらけの手で強く握りしめる。
今すぐあそこに乗り込んで、「それは俺の子供だ」と叫んでやりたい。彼らの幸せな偽りのメッキを、今度こそ俺の手で引き剥がしてやりたい。そんな身勝手な衝動が湧き上がってくる。
だが、俺の足はフェンスから一歩も前に踏み出すことができなかった。
砂場から立ち上がった佐藤悠真が、男の子を軽々と肩車した。男の子は「わーい!」と声を上げて喜び、美咲がその足を優しく支えながら、三人で笑い合っている。
その完璧な光の輪の中に、俺という薄汚れたゴミが入り込む隙など、一ミリも存在しなかった。
もし俺があそこに飛び込んでいけば、悠真は再びあの冷徹な目で俺を見下し、警察を呼んで俺を社会の底辺から完全に排除するだろう。美咲は俺のことを、ただの汚らわしい虫けらとしてしか見ないだろう。子供は、俺の薄汚れた姿を見て怯えて泣き出すに決まっている。
彼らはもう、過去の傷を乗り越え、自分たちの意志で「家族」になっているのだ。
俺という存在は、彼らの物語において、ただの忌まわしい障害物であり、とっくの昔に乗り越えられた過去の残骸でしかなかった。
「……くそっ、クソがぁ……ッ!」
俺はフェンスから手を離し、後退りした。足がもつれ、公園の入り口の泥だらけの水たまりに無様に尻餅をついた。
汚水が作業着に染み込み、冷たさが肌を刺す。周囲を歩いていた人々が、転んだ俺を見て冷ややかな目を向け、ヒソヒソと囁き合いながら遠ざかっていく。
俺は泥水の中に座り込んだまま、両手で顔を覆った。
自業自得だ。因果応報だ。
自分の保身だけを考え、他人を傷つけ、命を切り捨てた男に相応しい、完璧な結末。
俺がかつて彼らに与えた痛みが、何十倍、何百倍にもなって俺自身の人生を破壊し、今もなお、こうして俺の心を抉り続けている。
公園の奥から、男の子の楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてきた。それは、俺に対する何よりの死刑宣告のように響いた。
俺は顔を覆った手の隙間から、泥水に映る自分の惨めな姿を見つめた。
もはや、這い上がる気力すら残っていなかった。
俺は一生、この暗く冷たい泥濘の中で、彼らの眩しい光を遠くから見上げながら、孤独と後悔に焼かれて生きていくしかないのだ。
それが、身勝手なリアリストが自ら選び取った、逃れられない無間地獄だった。




