優柔不断な殿下の隣には立たない
アルトリーネ王国の王城の大広間に足を踏み入れた瞬間、空気がいつもと違うことは分かった。天井の高い空間、磨き上げられた床、左右に並ぶ貴族たち、その全てがいつも通り整っているのに、視線だけが一斉にこちらへ向けられていたからだ。呼び出しの理由は聞かされていない。ただ、正式な場であること、立会人が多いこと、それだけで十分だった。
「セラフィーナ・ルイーザ・フォン・ヘルバルト公爵令嬢、前へ」
レオポルト王太子殿下の声はよく通っていた。自信に満ち、迷いのない調子で、これから何を告げるのかを既に決め切っている声だった。足を進めるたび、ドレスの裾が床を擦る音がやけに大きく感じられる。視線は前だけを見ていた。周囲の表情を読む必要はない、この場で必要なのは形式に従うことだけだ。
「本日この場で、婚約についての整理を行う」
整理、という言葉に微かなざわめきが走る。整理とは便利な表現だ、破棄とも断罪とも言わず、すべてを一方的に片付けるための言葉。殿下は一拍置き、隣に立つ令嬢へ視線を向けた。淡い色のドレスを身にまとい、胸元で手を組んでいるエレノア・マルグリット・ド・サン=ブリエ伯爵令嬢。怯えたような表情を作っているが、視線だけはしっかりと私と殿下を捉えている。
「長年続いてきた婚約だが、私は熟考の末、この関係が国と王家にとって最善ではないと判断した」
理由は続いた。冷たい、融通が利かない、感情が見えない、そうした言葉が次々と並べられる。聞き覚えのある評価だった。王太子妃教育の場で、何度も「感情を優先しない判断」を褒められてきた点が、今は欠点として語られているだけだ。
「殿下、それは私の人格に対する評価でしょうか、それとも役割に対する評価でしょうか」
問いは短く、必要最低限に抑えたつもりだった。けれど殿下は眉をひそめ、少しだけ不快そうに息を吐いた。
「そういう言い方だ。君はいつも、理性的でつまらない。貴婦人としての魅力が何も無い。王太子妃となる身ならば、愛嬌の一つも身につけるべきだったな」
私は心の中でため息をついた。別に反論は無かった。今は、この場が早く終わってほしいと思うだけだった。この様な恥をかく場は、さっさと終わってほしい。
今日の結論は既に決まっている。殿下は周囲を見渡し、あらかじめ用意していた台詞を読み上げるように続ける。
「私は、心から寄り添える相手を選ぶ。王太子妃には、愛と柔軟さが必要だ。君には、それがない」
宣告だった。質問を挟む余地も、反論の機会も用意されていない。視線の先で、エレノアが小さく頷く。その仕草が、殿下の判断を正当化する証拠として扱われる構図になっていることが、嫌でも理解できた。
「以上をもって、婚約は解消される」
拍子木の音も、儀式的な合図もない。言葉ひとつで、十数年積み重ねてきた立場が切り離された。胸の奥がざわつく感覚はあったが、崩れるほどではない。ここで感情を見せることは、殿下の言葉を裏付ける行為になる。
「承知しました」
そう答え、一礼する。声が震えていないことを、自分でも少し意外に感じた。周囲がざわめく中、殿下は満足そうに頷いた。
「君なら理解してくれると思っていた。話が早くて助かる」
その言葉が、胸に引っかかった。理解しているのではない、理解させる立場に置かれていないだけだ。殿下の視線は既にこちらから外れ、エレノアへ向けられている。選ばれた側の確認をするような、誇示するような視線だった。
「セラフィーナ様……」
エレノアが一歩踏み出し、何か言いかける。けれど殿下がそれを制した。
「いい、気を遣う必要はない。これで全て終わった。これからは、そなたが私の婚約者である。その事は後日正式な場で周知される」
終わった、という言葉が空間に落ちる。その終わりが、誰にとっての終わりなのかを、殿下だけが誤解しているように見えた。
「では、失礼いたします」
そう告げ、背を向ける。歩き出した瞬間、背中に視線が突き刺さる感覚があった。憐れみ、好奇、安堵、失望、その混ざり合った感情が、音もなく押し寄せてくる。振り返らなかった。振り返る理由がない。
王太子妃としての未来を閉ざされた事より、公爵令嬢としての誇りを傷つけられた事が不本意だった。
しかし、婚約破棄の理由は理解できるものであり、自分には合わない立場だったと分かった。
◇
控えの回廊へ出たところで、足を止める。壁際に手を添え、呼吸を整える。胸が苦しいわけではない。ただ、長く保っていた均衡が崩れた直後の、妙な空白があった。
「これで、役割は終わったのね」
声に出して確認する。王太子妃候補としての役割、隣に立つために求められてきた振る舞い、その全てが今日で不要になった。不要になったからといって、私自身の価値が消えるわけではない。そう思おうとした瞬間、殿下の言葉がよみがえる。
選ぶ側。
その認識が、最後まで揺らいでいなかったことが、妙に印象に残っている。殿下は本気で信じているのだ、自分が選び、相手が応じる構図を。だからこそ、こちらが受け入れる姿勢を見せたことを「理解」と呼んだ。
「違うわ」
小さく否定する。理解ではない、拒否権がなかっただけだ。その違いを、殿下は最後まで理解しなかった。
「人前でいきなり人格否定。こちらの体面も何もあったものではない」
私は、思わず本音を口にしていた。
廊下の奥から足音が近づく。侍女の一人が、遠慮がちに声を掛けてきた。
「セラフィーナ様、お部屋へお戻りになりますか」
「ええ、そうして」
短く答える。これ以上、この場に留まる理由はない。大広間で起きた出来事は、今日のうちに社交界全体へ広まるだろう。婚約破棄された公爵令嬢としての視線が向けられるのも、時間の問題だ。
それでも、不思議と恐怖はなかった。殿下の隣に立つ未来が閉ざされ、殿下が隣に立たない未来が現実になった、その事実の方が、胸の奥で静かに形を持ち始めている。
「一人の殿方に、選ばれなかっただけだ」
部屋へ向かう途中、何度もその言葉を繰り返す。殿下が選んだ結果から外れただけだ。それが何を意味するのか、殿下自身が気づくことはないだろう。今日の彼は、勝者の顔をしていた。
その勝利が、何を壊したのかを知らないまま。
◇
婚約破棄から三日後、王城で開かれる小規模な夜会への出席要請が届いた時、断る理由を探すことはしなかった。出席しなければ逃げたと思われ、出席すれば比べられる、それだけの違いしかないのなら、後者を選ぶ方がずっと分かりやすい。
「お顔色がよろしいですね、少しお疲れかと思っておりましたが」
控室でドレスの最終調整をしていた侍女が、鏡越しにそう声を掛けてくる。気遣いの言葉に聞こえるが、視線の端で様子を測っていることは隠しきれていない。
「そう見えるなら問題ないわ、この場で必要なのは、元気そうに見えることだけでしょう」
そう答えると、侍女は一瞬言葉に詰まり、それから小さく頷いた。必要な振る舞いは、もう誰に教わるまでもない。
◇
夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、視線の集まり方が以前とは明らかに違っていた。注目されているのではない、評価されている。そう感じさせる、遠慮のない視線だった。
「セラフィーナ様、ご無沙汰しております」
最初に声を掛けてきたのは、顔見知りの侯爵夫人だった。柔らかな笑みを浮かべながらも、その目は探るように動いている。
「お変わりなくて安心いたしました、急なお話でしたものね」
「お気遣いありがとうございます、立場は変わりましたが、体調を崩すほど気落ちはしておりません」
そう返すと、夫人は一瞬だけ目を丸くし、それから曖昧に笑った。その反応だけで十分だった、こちらが同情を求めていないことは伝わったはずだ。
会話を交わしながら会場を進むうち、入口付近が微かにざわついていることに気づく。誰かが到着した、その空気だった。視線が一斉にそちらへ向かう。王族ではない、それでも自然と注目が集まる存在。
背筋の伸びた男が、数名を従えて入ってくる。落ち着いた所作、周囲を見渡す視線の動き、どれも過剰ではないのに、場の空気が整っていく感覚があった。
「……あの方は」
隣で小さく呟いた声が耳に入る。名前を聞かなくても分かる、隣国からの客人だ。ざわめきの質が、王太子の入場時とはまるで違う。期待や憧れではなく、計測するような緊張が混じっている。
男は会場中央で足を止め、周囲へ簡潔に挨拶を返す。その動きの中で、視線が一瞬こちらに向いた。気のせいではない、確かに目が合った。すぐに逸らされたが、その短い一瞬で、値踏みではない観察をされたと感じる。
「セラフィーナ・フォン・ヘルバルト公爵令嬢で間違いありませんか」
次にその声を聞いた時、距離はもう数歩分しか残っていなかった。低く落ち着いた声で、呼び止めるというより確認する調子。
「ええ、そうですが」
「初めてお目に掛かります、マクシミリアン・カジミール・フォン・ヴァルディアと申します」
名乗りと同時に、丁寧すぎない一礼。過不足のない動作だった。周囲の空気が、さらに張り詰める。ヴァルディア大公国公爵、隣国を治める大公家の跡取り息子だった。
ヴァルディア大公国は、大公国ではあるが、その領土は我がアルトリーネ王国より広く、権力も大きい。後ろ盾となる王国は、さらに巨大だ。
「ご丁寧にありがとうございます」
形式通りに応じる。名を聞いた瞬間、会場のざわめきが一段低くなった。隣国の公爵、その肩書が持つ重みを、誰もが理解している。
「突然お声掛けして失礼かと思いましたが、貴女と一言お話ししておきたいと考えました」
「理由を伺っても?」
「ええ、構いません。先日の件について、少しだけ」
先日の件、その言葉に周囲の耳が一斉に立つ。だが彼は気に留めない。声を潜めることも、話題を逸らすこともしない。
「公の場で行われた判断として、あまりに急な印象を受けまして、本人がどう受け止めているのか、気になったのです」
率直すぎる言葉だった。探りでも慰めでもない。ただの疑問。その事実が、胸の奥をわずかに揺らす。
「受け止めたかどうかを問われれば、受け止めました、としか答えられません」
「それは納得した、という意味ですか?」
即座に返される。否定ではない、確認だ。言葉を重ねる必要がない。
「納得というより、理解しております」
そう答えると、彼はほんの僅かに口角を上げた。笑みではない、評価のような反応。
「そういう受け止め方の出来る方と聞いております。余計な気遣いでした」
「どなたから?」
「数名から、ですが、いずれも同じことを言っていました、感情に寄り添えない人ではなく、感情に流されない人だと」
その言葉に、周囲の空気が揺れるのを感じる。誰かが息を呑む気配、誰かが視線を逸らす気配。評価が、ここで更新された。
「それは、褒め言葉として受け取るべきでしょうか」
「貴女がどう受け取るかを、こちらが決めることではありません」
はっきりとした線引きだった。相手を下にも上にも置かない、同じ高さでの会話。その感覚に、思わず呼吸が深くなる。
「ただ一つだけ、個人的な感想を述べるなら」
「はい」
「あなたのような素晴らしい淑女が不要とされた理由が、こちらには一つも見当たりませんでした」
短い言葉だったが、胸に残る重さが違った。慰めではない、否定でもない。評価としての言葉。
その瞬間、視線の先にレオポルト殿下の姿が映る。少し離れた位置で、こちらを見ている。隣にはエレノアがいる。二人とも、こちらの会話を気にしていることがはっきりと分かる表情だった。
「殿下、ご紹介を」
誰かの声が掛かり、殿下がこちらへ歩み寄ってくる。動きに、僅かな硬さがあった。
「マクシミリアン公爵、こちらは……」
王太子殿下が、話しかける。
「存じております、セラフィーナ公爵令嬢ですね、既にお話はさせていただきました」
マクシミリアン公爵に先に言葉を取られ、殿下は一瞬だけ言葉を失う。その隙を、誰も見逃さない。
「そうか……随分と、話が弾んでいるようだな」
「ええ、有意義なお話でした」
答えたのはマクシミリアン公爵だった。簡潔で、余計な含みのない言い方。それが余計に、殿下の表情を強張らせる。
「私の元婚約者と、随分気軽に話すものだ」
「殿下の元婚約者であることと、会話を交わす価値があるかどうかは、別の話ではありませんか」
マクシミリアン公爵の淡々とした指摘。攻撃ではないが、殿下の言葉を正面から切り分ける。
殿下は一瞬、言い返そうとして言葉を探し、それから笑みを作った。
「なるほど、隣国ではそういう考え方なのだな」
「ええ、こちらでは珍しいでしょうか」
問い返され、殿下は返答に詰まる。珍しいかどうかを決める基準を、殿下は持っていない。
そのやり取りを、周囲は固唾を呑んで見守っている。比較という言葉は誰も口にしない。それでも、天秤は目に見える形で揺れていた。
◇
会話が一区切りついた後、少し距離を取った場所で、エレノアが声を掛けてくる。
「……楽しそうですね」
「そう見えたのなら、そうなのでしょう」
短く答える。彼女の視線が、どこに向いているのかは分かっていた。
「選ばれたのは、わたくしのはずなのに」
「選ばれなかった女に、そんなに興味がおありなのですか?」
それ以上は言わない。彼女の問題であって、こちらが解決する話ではない。
会場の反対側で、マクシミリアン公爵が誰かと談笑している。その姿が、不思議と遠く感じなかった。同じ場に立たされただけ、それだけのこと。それなのに、何かが確かに変わり始めている。
「比較される立場に、置かれたのね」
小さく呟く。誰が、ではない。殿下が、だ。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥に、これまでとは違う感情が芽生え始めていた。
◇
夜会から数日後、王城内の応接間で行われる茶会への招待状が届いた。形式は小規模、名目は親睦、けれど実際には「誰が誰の隣に座るか」を見極める場であることを、招待客全員が理解している種類の集まりだ。
「出席なさいますか」
侍女が控えめに尋ねてくる。声色は平静を装っているが、返答次第で空気が変わることを分かっている。
「ええ、欠席する理由が見当たらないわ」
短く答えると、侍女は一瞬だけ安堵の息を吐いた。逃げない、それだけで評価が更新される場なのだと、改めて思い知らされる。
◇
応接間へ入ると、すでに数名が揃っていた。視線がこちらへ向けられるが、以前のような探る目ではない。位置を測るような、値踏みとも違う種類の集中だった。
「セラフィーナ様、本日はお招きいただき光栄です」
先に声を掛けてきたのは、年配の伯爵夫人だった。夜会の時よりも態度が柔らかい。
「こちらこそ、ご一緒できて嬉しく存じます」
形式通りに返す。席へ案内される途中、自然と中央寄りの位置へ誘導されていることに気づく。偶然ではない、配置は意図的だ。
「お隣、よろしいでしょうか」
落ち着いた声が、すぐ近くで響いた。視線を向けると、マクシミリアン公爵が立っている。迷いのない所作で、既に席に着く前提の距離感だった。
「ええ、どうぞ」
答えると、周囲の空気が一段引き締まる。誰も何も言わないが、配置が確定した瞬間だった。
「こちらのお茶は香りが穏やかで、好みでした」
「そうですね、主張しすぎない配合ですから、会話の邪魔をしません」
他愛のないやり取りから始まる。けれど、その「他愛なさ」が、以前とは意味を変えていることを感じていた。隣に座るだけで、評価が動く。
「夜会の後、色々と噂を耳にしました。最近、マクシミリアン公爵と懇意になさっているようで」
「良いものか、悪いものか、どちらでしょう」
「判断が分かれるところですが、一つ言えるのは、見る目が変わったという点です」
公爵の視線が、応接間全体を一度だけ見渡す。その動きに合わせて、数名が無意識に姿勢を正す。
「何の見る目でしょうか」
マクシミリアン公爵が会話に割って入った。
「殿下の、です」
その言葉に、数人が息を詰める気配が伝わってくる。
「変わったのではありません、露わになっただけです」
そう答えると、公爵は小さく頷いた。
「殿下と比べられるとは、光栄の極み」
公爵は、笑った。
比較、その言葉が、否定も肯定もされずに場に落ちる。誰も止めない。止める理由がないからだ。
◇
少し遅れて、レオポルト殿下が入室してくる。隣にはエレノアがいる。二人の姿を認めた瞬間、空気の流れが変わる。先ほどまでこちらへ向けられていた視線が、測るように殿下へ移る。
「遅れてすまない」
「いえ、ちょうど始まったところですわ」
誰かがそう返す。声色は丁寧だが、迎え入れる熱は感じられない。殿下は一瞬だけ周囲を見回し、こちらに気づく。
「……その席は」
「当然、一番奥です」
答えたのは公爵だった。事実だけを述べる調子で、含みはない。殿下はそれ以上言葉を続けられず、用意された席へ向かう。一番奥に、王太子殿下とエレノア、その横に公爵と私の席が用意されている。
「最近、随分と親しそうだな」
茶が配られた後、殿下がこちらへ向けて声を掛けてくる。冗談めかした口調を作っているが、視線が硬い。
「私が公爵と懇意にしていて何か問題でも?」
「どのような話をしているのだ?」
「楽しい話ばかりですわ」
話す理由が無いとばかりに曖昧に、ごまかす。殿下の眉が僅かに動く。
「それは、私の隣にいた頃には、あまり聞かれなかった言葉だな」
「楽しいと思えば、自然に出るものですわ」
返した瞬間、周囲が一斉にこちらを見る。言葉は穏やかでも、意味は鋭い。
「どういう意味だ」
「殿下とは、殿下がお決めになっていた事を殿下の婚約者の立場で話していただけです」
殿下という言葉を何回も使い、答えた。
殿下の口が開き、閉じる。反論を探しているが、形にならない。
「殿下」
公爵が静かに声を挟む。呼び止めるでも、遮るでもない、場を整えるための声だ。
「こちらでは、意見を求め方を、立場だけで決めることは少ないのです」
「それは、王国のやり方を否定するのか」
「いいえ、違います。王国とは、やり方が違うと言っているだけです。我々が高貴な殿下のやり方に及ぶわけもございません」
否定も擁護もない。その態度が、殿下をさらに追い詰める。王子という立場が、ここでは盾にならない。
◇
茶会が進むにつれ、自然と会話の中心がこちらへ寄ってくる。質問が投げられ、意見が求められ、それに答える。その流れが、誰の指示もなく出来上がっていく。
「新しい婚約について、どう思われますか」
私に問いが投げられる。誰の判断かを明言しないのが、この場の作法だ。
「私はどうこう言う立場ではありませんが、判断そのものより、判断後の責任の取り方が重要だと思います」
「責任、ですか」
「選んだ結果をどう扱うかで、その人の本質は見えます」
言い終えた瞬間、視線が殿下へ集まる。意図していなくても、矢印は明確だ。
「……随分と、厳しいな。婚約破棄のやり方が不服だったのか?」
殿下が苦笑する。冗談にしようとした声だった。
「厳しさではありません、確認です。同じ事を繰り返さぬように」
公爵が補足する。その一言で、場の評価が固まる。
「確認とは」
「随分と急なお話しでしたので、その方が、隣に立つ資格を持っているかどうか、確認の上で婚約をお決めになっているのかと」
誰も否定しない。否定できないからだ。殿下は黙り込み、エレノアが不安そうに視線を彷徨わせる。殿下がはっきりしなければ、彼女は何も言えない。
◇
茶会の終わりが近づいた頃、伯爵夫人が小さく溜息をつく。
「こうして見ると、同じ場に立つというだけで、違いは隠せないものですね」
彼女は、殿下とエレノアの態度が気にいらないようだ。
「立ち振る舞いというのは、隠せるものではありません」
答えたのは公爵だった。その視線は、殿下ではなく、こちらに向けられている。
「必要なのは、内にある気持ち。立場に決められた態度ではありませんから」
その言葉が胸に残る。かつては、気持ちを考える余地もなかった。ただ隣にいることが前提だった。
今は違う。誰の隣に立つのか、それを自分自身で決めたい。
茶会が終わり、席を立つ人々の視線が、最後にもう一度こちらへ集まる。哀れみではない、期待でもない。ただ、認識が更新された目だ。
「今日の場は、有意義でした」
公爵がそう告げる。
「そうですね、私も気持ちがはっきりしました」
返すと、彼は小さく頷いた。
殿下の背中が、少しだけ遠く見えた。距離が離れたのではない、同じ場所に立てなくなっただけだ。
その事実を、殿下自身がまだ理解していないことだけが、はっきりと分かっていた。
◇
同じ王城に足を運び、同じ空気を吸っているにもかかわらず、立っている場所が変わるだけで、見える景色はこれほどまでに違ってしまうのだと、ここ数日で何度も思い知らされていた。夜会、茶会、形式的な集まり、そのすべてで、誰が注目され、誰が素通りされているのかは、説明されるまでもなく明らかだった。
「セラフィーナ様、少しだけお時間をいただけますか」
控えの回廊で呼び止めてきたのは、エレノアだった。以前なら、こうして単独で声を掛けてくることはなかったはずだ。選ばれた直後の彼女は、常に誰かに囲まれている立場だった。
「何かご用でしょうか」
足を止め、振り返る。それだけの動作なのに、彼女の肩がわずかに強張った。
「最近……周囲の視線が、変わったと思いませんか」
「変わったかどうかを、私が判断する必要はありません」
答えは淡々としていた。感情を含める余地がない問いだからだ。エレノアは一瞬言葉を失い、それから唇を噛みしめる。
「わたくしは、殿下に選ばれました」
「ええ、そう伺っています」
「それなのに……」
続く言葉は、声にならなかった。どうして祝福されないのか、どうして羨望されないのか、どうして自分が中心にならないのか、そのすべてが表情に滲んでいる。
「選ばれたという事実と、評価されるという結果は、同じではありません」
静かに告げると、彼女の目が揺れる。
「そんなはずはありません、殿下が選んだのですから」
「殿下が選んだことに、どれほどの価値を置くかは、周囲が決めます。王太子の婚約者は、殿下にだけ気に入られればいいというものではないのです」
言い切る。慰める言葉ではない。だが、偽りでもない。
「わたくしは……勝ったはずなのに」
「勝ち負けで考えている限り、苦しさは消えないでしょう。縛られ、常に周囲に評価される立場になった事を自覚なさるといい」
「そのような事は言われるまでもない……」
それ以上、踏み込む必要はなかった。彼女の問題であって、こちらが背負う話ではない。
◇
その夜、小広間で行われた集まりは、名目以上に重たい空気を孕んでいた。誰もが互いの立ち位置を確認し、更新し合うために集められた場だ。レオポルト殿下とエレノアも姿を見せていたが、以前のように視線を引き寄せることはなかった。
「最近、君は随分と目立っているな」
殿下が声を掛けてくる。軽く冗談めかした口調を選んでいるが、視線に余裕はない。
「そう見えるのでしたら、それは公爵のお力。私など問題ではありません」
「わざとやっているのか」
「何を、でしょうか」
「公爵との……距離の取り方だ」
殿下自身、何に苛立っているのかを整理できていない。だから言葉が曖昧になる。
「婚約破棄は、殿下が決めたものです」
その一言で、殿下の表情が固まる。
「婚約を解消した以上、以前と同じ距離で接する理由はありません」
「当てつけか」
「事実の確認です」
殿下は笑みを作ろうとしたが、口元がうまく動かない。
「公爵が、君を過剰に評価しているだけだ」
「評価しているのではなく、気持ちの問題です」
「気持ちだと?」
「殿下が手放した判断は妥当です。胸を張っておられればよい」
殿下の視線が揺れる。嫉妬する側に立つ想定を、一度もしてこなかった目だ。
◇
会話の流れに、マクシミリアン公爵が自然に加わる。その瞬間、場の重心が移動するのが分かる。
「先日の件について」
「また、その話ですか」
「話は終わっていない」
殿下の声が荒れる。
「殿下にとってはそうなのでしょうが、もう決着はついている。婚約は解消されました。それだけです」
公爵の声は低く、整っている。
「殿下が何を基準に切り捨てたのか、既にお話しになったのでは」
「基準など……」
「御自分で選んだのなら、どう言われようと受け入れる必要があります」
その言葉に、殿下は言葉を失う。否定できないからだ。
◇
少し離れた位置で、エレノアが俯いている。視線が集まらない理由を、もう理解してしまった顔だった。
「どうして、誰も祝ってくれないの」
かすれた声が漏れる。
「祝う理由が、殿下の選択以外に示されていないからです」
答えたのは公爵だった。声量は抑えられているが、内容は明確だ。
「私は、殿下に選ばれた身、それで充分であろう!皆は無礼である。お前達は公爵家の出だからといって殿下と私に不敬がすぎる!私を下に見ているのであろう!」
エレノアが声を荒げた。
「この場に、ふさわしくない言葉使いは、どちらでありましょうか?あなたには足りないものがあるのでしょう」
公爵の返答に、彼女の肩が落ちる。
「では、何が必要なのです」
「あなた次第です。ただ、あなたにも同情はする。王太子殿下は、あなたを婚約者に迎えながら、まだセラフィーナ嬢を気にしておられるようだ。殿下が、そのような優柔不断な態度では、胸を張って婚約者を名乗れない」
彼女はそれ以上、言葉を続けられなかった。選ばれた後の自分を、考えたことがなかったのだと、誰の目にも分かる。
◇
集まりの終盤、殿下の周囲には誰もいなかった。敵意も、擁護もない。ただ距離だけが残る。
「なぜだ……」
殿下が呟く。
「ただしい相手を選んだはずなのに……」
その声に応じる者はいない。誰も責めていないからだ。新しい婚約を否定する材料はない。だが、歓迎する気持ちにもならない。ただ、受け入れて社交辞令をこなすだけ。
急な婚約破棄と新たな婚約に、誰もが困惑しているのだ。
こちらはただ、その光景を見ていた。関与する必要がない。助け舟を出す義理もない。
急な裏切りと選択を皆がどう思うのか、目の前で見届けただけだ。
◇
王城の応接間に呼ばれた理由は、招待状の文面だけで察しがついた。形式ばった挨拶、短い面会、隣国の使節団が同席する可能性、そのどれもが、偶然を装うための整えに過ぎない。
扉の前で足を止め、深く息を吸う。心拍は乱れていない。ここに至るまでの数日で、場が何を求めているのかを理解するには十分だった。
「お入りください」
内側から掛けられた声に応じ、扉を開く。室内には、すでに数名が揃っていた。王国側の立会人が二人、そして向かいの席に、マクシミリアン・カジミール・フォン・ヴァルディア公爵がいる。視線が合うと、彼は立ち上がり、過不足のない一礼をした。
「お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ」
短く応じ、示された席に腰を下ろす。距離は近すぎず、遠すぎない。話を交わすために必要な位置だった。
立会人が簡単な前置きを述べ、形式的な確認を終えると、部屋の空気が切り替わる。ここから先は、言葉の重さが変わる。
「本日は、貴女個人の意思を伺いたく、この場を設けました」
マクシミリアンが切り出す。声は落ち着いており、急かす響きはない。
「意思、ですか」
「ええ、これまでの経緯を踏まえた上で、貴女がどこに立ちたいのか」
どこに立ちたいのか。その問いは、選択肢を限定しない。誘導でも、要求でもない。
「その前に、一つ確認させてください」
「どうぞ」
「この場は、誰かの代わりを探すためのものではありませんね」
言葉を選ぶ必要はない。ここで曖昧にすれば、同じ構図を繰り返すだけだ。
「ええ、代替ではありません。私としては、あなたを選びたい」
即答だった。
「比較の結果でもありません。あなたの役割に対する責任感、そして何より私と話が合うのが良い」
彼は、席に似合わぬ顔で、いたずらっぽく笑った。
合う、という言葉が胸に残る。私もそう感じた。家の決めた事ではなく、私が、この方と合っているのだ。
「先日の場で、貴女はこう言いましたね、納得と理解は別だと」
「覚えていらしたのですね」
「ええ、あの一言で、多くの疑問が整理されました」
視線が逸れない。評価する目ではなく、確認する目だ。
「こちらが求めているのは、お互いに感情を満たせる人です。判断に耐え、選択に責任を持てる隣人です。今度は、理解ではなく納得いただけましたか?」
その言葉に、立会人たちが息を詰める気配が伝わる。重い条件だ。軽々しく応じるものではない。
「それは、王国に残る選択肢を否定することになります」
「ええ、承知しています」
「反発も、摩擦も生じます」
「避けられないでしょう」
短い応酬の中で、場の温度が定まっていく。誰も遮らない。
「それでも、貴女に伺いたい」
マクシミリアンは、そこで一拍置いた。
「隣に立つ者として、私を選ぶ意志はありますか?」
求婚という言葉は使われなかった。だが、意味は十分すぎるほど明確だった。条件の提示も、期限の設定もない。判断を委ねる問いだけが、そこにある。
少し考える。考えるふりではない。これまで与えられてきた立場、失った立場、そして今、示されている場所を並べて比べる。
「一つ、条件があります」
口を開くと、立会人が身じろぎする。マクシミリアンは表情を変えない。
「聞きましょう」
「選ばれた結果として、扱われることを望みません。お互いの気持ちで決めた事にしたい」
その言葉に、彼の目がわずかに細くなる。
「あなただけが決めたのではなく。私が気に入ったのです」
私は、はっきり言った。
「当然です」
間髪入れずに返される。
「こちらが求めているのは、気持ちを共有できる相手です。飾りは不要です」
胸の奥で、何かが静かに定まる感覚があった。高揚ではない。
「では、その問いに答えます」
立会人の視線が集まる。
「公爵を選びます」
言葉は短い。それで十分だった。
◇
応接間を出ると、廊下の先で思いがけない人物と視線がぶつかる。レオポルト殿下だった。立会人の動きから、この場が何であったのかを察したのだろう。
「……もう、決めたのか」
声に、焦りが滲む。
「何を、でしょうか」
「分かっているはずだ」
「分かっているのは、殿下が決めたのは過去のことだという点です」
殿下の顔が歪む。
「こちらへ来い、話がある」
「その必要はありません」
「まだ、取り戻せる」
「何を、ですか」
問い返すと、殿下は言葉を失う。取り戻す対象を、はっきりと定義できない。
「お前を選ぶはずだった」
「いいえ、殿下は別の方を選んだのです。今更変えられません」
それ以上は言わない。殿下の背後に、マクシミリアン公爵の姿が見える。同じ場に立っただけで、構図が完成してしまう距離だった。
「殿下」
彼が一歩前に出る。
「本日の件は、すでに当事者間で確認が済んでいます」
「……そうか」
殿下は、笑おうとして失敗する。
「随分と、早いな」
「必要な確認が揃っただけです」
淡々とした返答。殿下の視線が揺れ、こちらに戻る。
「捨てた覚えはない」
「手放したのは、殿下です」
その一言で、殿下の肩が落ちる。選び直す権利が、もう残っていないことを悟った顔だった。
◇
廊下を進む。足取りは重くない。後悔もない。選び直されたのではない、自分で立つ場所を選んだだけだ。
背後で、殿下の気配が遠ざかる。同じ城にいても、同じ場所には立てない。その差が、はっきりと形を持った。
これで終わりではない。だが、始まりでもない。
ただ、位置が確定した。それだけのことだ。
次に問われるのは、選んだ結果をどう担うか、その一点だけだと、はっきり理解していた。
◇
王城の大広間は、以前と同じ造りのはずだった。天井の高さも、壁に掛けられた装飾も、並ぶ貴族たちの顔ぶれも変わっていない。それでも一歩足を踏み入れた瞬間、かつてとは別の場所に来たような錯覚を覚えた。
視線の集まり方が違う。
集まらない、という意味ではない。向けられてはいる。ただ、その多くがこちらではなく、少し離れた場所に立つ二人へと向けられている。
「セラフィーナ・ルイーザ・フォン・ヘルバルト公爵令嬢」
名前が呼ばれる。以前と同じ呼称だが、含まれる意味はまったく異なっていた。立場を示すための名ではない。確認のための名だ。
「マクシミリアン・カジミール・フォン・ヴァルディア公爵と共に、前へ」
指示に従い、歩を進める。隣を歩く彼の歩幅は、自然に合っている。合わせたわけではない。それが当然の距離だった。
ざわめきが起こる。だが、そこに混じる感情は好奇だけではない。すでに理解している者たちの視線だ。
少し遅れて、レオポルト殿下の姿が目に入る。王太子としての装いは整っている。背筋も伸び、顔色も悪くない。それでも、どこか輪郭がぼやけて見えた。隣に立つ者がいないからではない。立つ理由が、もう誰の目にも見えなくなっているからだ。
「本日の場は、確認のために設けられた」
宣言が続く。言葉は簡潔で、余分な説明はない。すでに噂は行き渡っている。
「両国の合意のもと、そなたらの今後の関係性について整理を行う」
整理、という言葉が使われる。その言葉が、誰のための整理なのかは明白だった。
殿下の視線が、こちらに向く。一瞬だけ、かつて見慣れた表情が浮かぶ。自分は選ぶ側だという確信。その残骸のようなもの。
「……ずいぶんと、堂々としているな」
殿下が声を掛けてくる。周囲の制止もない。誰も止める理由がない。
「そう見えるのでしたら、場に求められている振る舞いなのでしょう」
短く答える。言葉を選ぶ必要はない。
「あの男に選ばれたつもりか」
「お互いに選んだのです」
その違いを、殿下は理解できないまま、眉をひそめる。
「君は、俺の婚約者だった」
「過去の事です」
「俺が……」
言葉が続かない。主語が定まらない。選んだのか、捨てたのか、失ったのか、そのどれなのかを、自分で決められなくなっている。
「殿下」
マクシミリアンが一歩前に出る。声は低く、しかし場に通る。
「本日の確認は、個人の感情についてではありません。もう決まった事です」
「分かっている」
殿下は苛立ったように返す。
「だが、納得できない」
「何が、でしょうか」
「どうして、こうなった」
その問いに、周囲が息を詰める。誰もが答えを知っている問いだ。
「殿下が選んだからです」
そう告げると、殿下の顔が歪む。
「選んだ結果が、こうなったのだと、理解できないのであれば」
マクシミリアン公爵の声は淡々としている。
「殿下は、最初から間違った選択をなされたのでしょう。その時点で資格がない」
資格、その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りつく。否定の声は上がらない。誰も否定できない。
「資格だと?」
「ええ、隣に立つ資格です。彼女の隣に立つならば、愛と柔軟さが必要です」
殿下の視線が揺れる。周囲を見回すが、助け舟は出ない。誰も、殿下を「選ぶ側」として扱っていない。
「俺は王太子だ」
「存じています」
「ならば……」
「王太子であることと、誰かの隣に立つ資格は、同義ではありません。お互いの選択です。あなたは、エレノア嬢を大切にするべきでしょう」
その一言で、殿下の顔から血の気が引く。肩書きが盾にならない場だと、ようやく理解した表情だった。
◇
場が一段落し、形式的な挨拶が進む中、視線は自然とこちらへ集まる。祝福の言葉が交わされるが、そこに浮ついた熱はない。確認された結果としての扱いだ。
「お似合いですね」
「そうですね」
「これで、腑に落ちました」
囁かれる声の一つ一つが、殿下の背中に突き刺さる。誰も彼を責めていない。ただ、誰も彼を基準にしていない。
エレノアの姿も見える。彼女は殿下の少し後ろに立ち、所在なげに手を握っている。かつての自信は影を潜め、視線は床を彷徨っていた。
「殿下……殿下は自信を持って私を選んで下さったのではないのですか?」
小さく呼ぶ声が聞こえる。
「今は、話す場ではない」
殿下の声は硬い。彼女を見る余裕すらない。
選ばれたはずの相手に向ける視線が、もう存在しない。それだけで、十分すぎる答えだった。
◇
式が終わり、人々が散り始める。殿下は最後まで動かなかった。いや、動けなかったのだろう。空いた席が、どこにあるのか分からなくなっている。
こちらは、マクシミリアン公爵と並んで出口へ向かう。背後から視線を感じるが、振り返らない。振り返る理由がない。
「後悔はありませんか」
歩きながら、彼が問い掛けてくる。
「お互いに選んだ以上、後悔するわけがないですわ」
「それでいい」
短く答えが返る。その距離感が、心地よかった。
城の扉を出る直前、殿下の声が聞こえた気がした。名前を呼ぼうとして、途中で止まったような声。だが、振り返らない。
呼ばれる席は、もうそこにはない。
ただ、私のいる場所は、もう決まっている。
ただそれだけのことが、今日、誰の目にもはっきりと見える形になった。
それで十分だった。
完。
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