聖女とかいう失礼なやつ
見上げてもどこまでも続く壁しかない城伝いに歩き、塀の側に植っている樹木を駆け上がる。そして私は軽々とした足取りで塀に乗り移り、城の外へと飛び出した。私という高貴な猫は日頃良いものを食べ、運動をしているので縄張りも城の外まで広がっているのだ。下々の生活までしっかりと見回ってやるのも持てる者の義務である。
さて、普遍的な猫というものは、こうして高い樹木に登ってしまうと降りることができなくなってしまうことがあるという。これは街の辻馬車を家業にしている家に住み着いている茶色の縞猫の言っていたことだ。実際に彼がイタチを追って街路樹によじ登ったのを見たことがある。
いつも居丈高に、この城暮らしの私のよりも偉そうに自慢話をする彼が子猫のように情けなく弱々しい声色でにゃあにゃあ、びゃあびゃあと木の上で悲鳴をあげていたのがより印象的だ。
自分はいかに勇敢で、ネズミやイタチを狩る牙と爪の名手であり、実にモテるのだとわざわざ私に当てこすり、モノにするのは今のうちだぞと擦り寄るような甘い声で囁いてくるオスの無様な失敗は胸のすく思いをしたものだ。
城暮らしの私を誘惑しようとは、オスとしての魅力が十分とは言えない彼にしては随分と大胆なことをしたと、いっそ称賛さえ浴びせられる行為である。
もちろん、私は城で良い暮らしをしているのだからネズミを狩るなどという粗野な遊びはしていない。地下を這い回る卑しい存在など眼中にないからだ。必要ならば城を見回る義務として、この卑しい賊を仕留めることがあるが、遊びたい対象ではない。
この私の狩りの本能をくすぐるのは、日向で草の種や虫をつついている鳥の類のみ。雄大な空を掴むあの翼を持つものたちをこの手で地面に叩き伏せ、その自由を奪う瞬間こそ快感そのものなのだ。抜け落ちた羽を集めてお気に入りのお昼寝スポットに集め、寝床にするのも良い。粗雑なベッドはごわごわとして普段の寝床とは天と地の差だが、それがとても癖になる。
城の美食ばかりではなく、たまには粗雑なジャンクフードを食べたくなるように、用意された最高級のふわふわベッドでゆっくりと毛繕いをしながらくつろぐのと、自然光を浴びながら野生的な寝床で船を漕ぐのはまた違った心地よさがあるのだ。もちろん、我がご主人の背に生えた小ぶりな青い翼からはらはらと抜け落ちていく羽根を使った、私専用の羽毛布団も格別である。絹で用意されたさらさらのベッドも良いが、ご主人の香りに包まれて眠る安心感は子猫の頃を思い出す素晴らしいひとときだ。ご主人とともに眠るのも良い。眠る場所の選択肢は多ければ多いほど良いものだ。
背の高い木を見て茶色い同胞を思い起こし、城の塀から遠ざかる。たったかと身軽な足取りで街へと繰り出せば、城とは比べ物にならないほどにあちこちでぎゃあぎゃあと人間が喚いていた。
城のものたちはやはり育ちがいいらしい。城のものたちは食物を他者へと分け与えるのに物々交換などはしない。うやうやしく私の専用の皿に魚や肉のひと切れを盛りつけ、お腹いっぱいに食べるさまを部屋の隅から実に嬉しそうに眺めているのだ。我がご主人の食事も大概豪勢で、彼女とともに魚の切り身を口の中で噛み切り、誰にも邪魔をされず少しずつ咀嚼していく瞬間の幸福感といったら! 食事ひとつ分けるのに、よく分からぬ小さな金貨などを要求する人間と城の人間とは違うのである。
元来、猫も己でとった獲物を下々のものに分け与えることがあるが、与えるからといって相手からもものを取ろうとするような物々交換をすることなどない。はじめに見つけたものが所有権を主張することこそあれど、人間のいう商売のようなやりとりは発生しないのである。生きるのに強く、しなやかに狩りをして一匹で生活をするか、自らを愛玩するあまりになんでもいうことをきく下僕の一人でも捕まえるか、浅ましくも人間や他の猫に媚びて養ってもらうか、私のように気心を知れた同居人を得るかである。
「やあ、スノーボールさま。お昼ご飯は食べたかい?」
私が首につけているお洒落な鈴をリンと鳴らしながら歩いていると、ふと声を張り上げていたオスが視界に私を捉え、そのいかめしい顔を綻ばせる。どこからか魚をたくさん狩ってきて、街中で商売をしている魚屋の主人だ。
「なあうん」
まだ召し上がっていませんわ、と返事をすると彼はいかめしい顔を少しだけ赤らめて身を屈める。私はその足元をするりと通り抜けて額をぶつけてやり、親愛を示す。下々のものはこうして高貴な私の施しを受けることを喜びだと思っている節があるので、こうして媚びたふりをしてやると商売には巻き込まれずに猫同士や城と同様のやりとりができるのである。
「そうか、まだかい。可愛いねえ……ほれ、いい赤身があんだ。食べていきな」
「ん〜ん〜、みゃあ〜」
彼の手にぶら下げられた分厚い赤身の魚にかぶりつく。城で食べるものと比べても劣らないほどの美味なものである。少しばかり筋が多いが、私の牙に噛み切れぬものはない。はぐはぐとゆっくりと食事をしている間、恐る恐る私の頭に手を伸ばしてくる彼の無骨な手のひらを受け入れてやる。少々雑な撫でかたではあるが、これはこれで味があるというものだ。ついでに喉をゴロゴロと鳴らせば、より嬉しそうに魚屋の主人が微笑んだ。
いかめしい顔が不器用に笑うさまというのはいつ見ても気分がいい。他の街猫たちが言うには、彼は実に気難しいお人柄なのだとか。そんな人間を陥落せしめる自身の魅力に身震いしてしまいそうだ。城でこれ以上ないほどに愛されている私であるなら、人間がどのように接されると喜ぶのかなんてものは手に取るように分かるのである。
そもそも、街猫たちは媚びるふりすらせずに魚をさっと奪っていってしまおうとするから彼に追い払われてしまうのだ。魚を手に入れるのに余計な体力を使うのは愚か者のすることである。
「スノーボールさま、心配してたんだよ。なんでもあんたの主人の、精霊公女さまが幽閉されちまったって聞いたぜ。平民出身の聖女さまが城に召し上げられたと思ったら、精霊公女さまにいじめを受けて精神を病んじまったって噂だあ。ま、あんたが外に出れるんなら、精霊公女さまもそうひどい扱いは受けてないってことなんだろうが……」
返事をしてやろうにも、ものを食べているときに話すのは失礼にあたるだろう。視線をチラと寄越すだけにして、続きを促す。ぼんやりとした魚屋の主人は、なんとも言えない苦い虫でも口に入ったときのような顔をしていた。
「あんた! また猫に構って! お客さん来てるよ!」
「あ、しまった! すまんなスノーボールさま。それじゃあ、おれはこれで」
店の奥から大きな籠いっぱいに魚を持ってきた女が大きな声で怒鳴る。魚屋の主人は弱ったなと言葉を漏らしてからゆっくりと腰を上げて店頭に戻っていった。目をつりあげて三角にした女は私をネズミのように睨め付けてきたが、私の食事を邪魔することはない。私が城の高貴な身分だと分かっているからだ。
「んなん」
魚屋の主人が私に構うのは彼の責任ではあるが、彼の時間をとらせてしまったことについてを軽く詫びてからその場で顔を洗う。我々の言葉は人間には通じにくいとは理解しているが、真似して話してやっているのだから少しくらいは私の意図を汲んでくれても良いだろうに、彼女の顔はますます険しくなるばかりだった。言外に早くどこかへ行けという表情をしている。こうして私は人間の意思を言葉にしなくとも察することができるというのに、人間とはなんとも言語に疎い種であろうか。
魚屋をあとにして私は見回りを続ける。
見回りルートにある花屋の店先で花の香りを楽しんだり、魔物の素材を使った武具の類に毛を逆立たせたり、装飾品の類が並んだ棚を見上げて思わず見惚れてしまったり。街並みの景色をひととおり楽しんでいるうちに、すっかりと寂れた雰囲気の場所まで足を運ぶ。
路地を抜け、塀を歩き、ときに犬の鼻先をするりとからかうように歩き去り、大きな吠え声に耳をぐっと伏せてひげを震わせる。暗い路地に怪しい魔物の姿が入り込んでいれば、私はそれに威嚇をして消し炭にし、後足でそいつのいたあとを蹴って綺麗にしてから再び歩き出す。最近は街に入り込む魔物が増えていて、楽しい散歩だというのに気分は最悪である。もっと見回りを増やしておいたほうが良いだろうか? この前など、喰われそうになっていた錆色の猫の親子を助けてやったばかりである。
そのうち、なにやらあやしい店ばかりが立ち並ぶ場所にやってきた。ここいらにはあまり立ち入らないが、たまにふらっとやってきては様子を見ていくのだ。城まわりの街も私の縄張りであるから、どうしても日々散歩する場所とそうでない場所が存在する。ここはそういったところだった。
路地には、ただでさえ毛がほとんどなくつるつるとした肌をした種だというのに、外付けの衣服さえも薄くほとんどが肌を露出するような寒々しい女たちがたくさんうずくまっている。私はそんな彼女たちの中でも知る限り、乱暴でないものを選んで近寄り、可愛がられてやるのだ。たまに私で暖をとるものもいる。気性の良い女なら私に危害を加えることがない。しかし、一時的に抱きしめられるのは良いが、抱き上げられるのだけはなるべく避けている。一度気性の良さを信じてみた者に危うく金貨の代わりにされそうになったのだ。
確かに私は高貴な猫だ。私を隠して城に言えば少しばかりの金に化ける可能性もあるが、多くの場合私を隠した女が酷い目に遭わされるだけだろう。そういった点については、ここいらの女たちはしっかりと理解している。
私が彼女たちに構うのは気まぐれな慈悲であることを分かったうえでのやりとりだった。とくにおやつをねだることもない。私は分別のつく賢い猫であるから、おやつをねだっても良い人間と、そうしてはいけない哀れな人間がいることくらいは分かる。
しかし、煌びやかでツンとした雰囲気の城の人間よりも、彼女たちのほうが子猫のように私を歓迎するので気分が良い。誰であろうと、喜ばれて嬉しくないものはいないだろう。
「ちょっと! 個数制限ってどういうことよ!」
そうして下町の住民とじゃれていると、なんだか妙に聞き覚えのある声が聞こえて耳がそちらへ向く。このキンキン声は、つい先日我がご主人に濡れ衣を着せた胡乱なメスのものである。
はて、どこから聞こえるのやらと首をまわしてみれば、先ほどまで私を可愛がっていた女が立ち上がり、そそくさとその場を離れ始める。
「またね、ねこちゃん」
「んなう」
私を心配そうに見下ろした彼女は、しかし急いでその場を歩いて去っていってしまった。他の女たちもそうだ。店の中から聞こえてきた癇癪に巻き込まれたくないと考えたのか、絶命した鳥の羽根が散っていくようにあちこちへ去っていく。
これはいよいよなにかあると思った私はそのまま店先で、癇癪を起こしている気に入らない女が出てくるのを待つことにした。
「もう、嫌になっちゃう!」
人間というものは足音が大きく元からあまり品がない生き物ではあるが、よりいっそうどたどたと品のない足音をたてて女は現れた。路地にあるにしては丈夫で高価そうな漆喰の扉を乱暴に開き、三角になったきついつり目の視線を方々に巡らせる。
そうして私に目をつけると、ますますきつく目をつりあげて私が乗っかっている木箱を思い切り蹴飛ばしてきた。この女の気性の荒さを思えば予測できる事態である。私がひょいと弧を書くように跳躍をしてその揺れに対抗すると、彼女はますます苛立ったような声を漏らし、私に向かって火の魔法を放つ。これもジャンプひとつでかわしてみせると、どうやら完全に私へと八つ当たりのターゲットを定めたようだった。
私は、ははあ……さてはいつもこうして八つ当たりをしているから他の女たちが逃げたのだなと気がつき、面白くなってきてしまった。
この女はどうやら私が城の猫であると気がついていないらしい。リン、リン、と跳躍のたびに鳴る鈴は高価なもので、路地の旅を経ても汚れひとつない純白の毛皮を持った私の姿は街の誰もが知るところにあるのだが、いかんせんこの女は私に関心が薄いのか、縄張りの狭い庶民の猫と見分けがつかないようだ。
顔が平たくて縦に無闇にヒョロ長い人間の区別をつけられない猫も存在するわけであるし、それに関しては私も咎めるつもりはあるまい。
「なおーん」
ひらり、ひらりと彼女の魔法を避けていると、建物に水魔法が当たってびしゃびしゃになる。最初以降火魔法は使っていなかったのが幸いしたが、場所を考えずに魔法を乱用するのは聖女とやらとしては果たしてどうなのかと甚だ疑問だ。私はなにもせずに相手をしてやっているというのに。
とうとう痺れを切らしたか、私を追って手足をバタバタしながらこちらに寄ってきて掴もうとしてくるが、それもどうにか避けて私は彼女の背後にまわる。先ほどから運動をするたび、彼女の服の隙間からはらはらと落ちてきている青いものが気になったのだ。そうして地面に向かって広がっている広い布の隙間から見えた大きな鳥の翼に狙いをつけ、布の中に跳躍して突撃する。
「きゃあ!?」
布が捲れ上がり、私は翼に爪を引っかけてぶら下がる。
「いやぁ!! いった!! なにするのよぉ!!」
鳥類の翼ほど魅力的なものはこの世にあるまい。飛びあがらんとする鳥類のそれを傷つけ、空を掴むことのできなくなったものを地面に転がす快感。大きな翼を目にして私は思わずそんな些細な狩猟本能を刺激されてしまったのだ。はらはらと抜け落ちて撒き散らされる青い羽は絶命寸前の鳥を仕留めたときの光景と似ている。爪を引っかけたまま布の中に入り込んだ私を、聖女はパニックになりながら体をぶるぶると振るい、そこら辺を走り回る。さすがにそうされては爪だけで体を支えるのは不可能で、私は浮遊感を利用しながら爪を外して飛び降りる。うっかり爪が剥がれてしまうかと思ったところだった。
青い翼は我がご主人にも生えているものだ。普段抑えている欲を余計に刺激されたかたちになった私に非はない。
しかし、我がご主人のささやかな翼に比べて聖女とやらのほうがひとまわりもふたまわりも大きい。狩猟欲が余計に刺激されるというものだ。
抜け落ちた羽根がふわふわと飛んでいくので追いかけていると、聖女とやらは苦々しい顔をしながら地団駄を踏んで私の隣にしゃがみ込んだ。やたらと不満げだが、一応これ以上は危害を加えようとしても無駄だと理解したのだろう。実に理解が遅くてあくびが出てきてしまう。くあっとあくびをひとつしていると、不意に彼女が私の口の中に指を突っ込んできた。
「ふがっ、しゃ!」
なんと無礼な!
毛を逆立てて怒ると、彼女は意地の悪い表情を浮かべて「ざまみなさいよ」と笑った。
「よく見たらその鈴……あんた雪玉ちゃんじゃない。はあ……あんたを殺しちゃったらあいつを食い殺してくれる猫がいなくなるのよね。精々役に立ちなさいよ。好感度アップアイテムってこいつにも効くのかな……ほら、飴。食べる?」
今しがた無礼を働いてきたものからの貢物を私が受け取るわけがないであろうに。つんと無視してやると、彼女はチッと品のない舌を打って私の体をベタベタと触り始めた。危険がなくなったからといって距離を取らなかったのが災いしたようだ。良い運動をして毛繕いをしたばかりの毛並みが雑に掻き回される。私が彼女の顔をじっと見上げれば、肝心の彼女は私のことなど上の空で不満を垂れ流す愚痴の化身のようになっていた。
「もう、どうしてニールは私と一緒にいてくれないのかな。メインルート通りに婚約破棄するのは当然として、ちゃんと私の嘘も信じて守ってくれる王子様になってくれたと思ったのに……逃げ回ってばっかり」
撫でられて毛が乱されるたびに急いでぺろぺろと直しているが、彼女はそんな私に気づきもしないからやめてもくれない。
「シアン……あいつが死んでから、王子は私のために青い鳥の呪いを解いてくれようとするのよ。人間を青い鳥のラッキーアイテムにしてるクソみたいな国を変えるって宣言までするの! ヒロインのために国まで変えようとしてくれる王子様なんて素敵すぎでしょ? 愛情深いニールの想いはヒロインである私に向かってないといけないのよ。こんなに放っておかれてたら不安になっちゃう! おばかニール!」
いっそ噛みついてやろうかと思い始めた頃、彼女は私の背を強く叩いていきなり立ち上がり、そのまま変な飴の袋を持って去っていった。強く背を叩かれて咳き込んだ私は、やはり聖女……ミリアとやらには今後あまり距離を詰められないようにしようと胸に誓う。
私は基本おだやかで寛容な猫だが、危害を加えられかねないとなるとその限りではない。ニール王子は最初の出会った頃以降そんなことをしなかったのでホイホイついていくし、案外奴のことを気に入っているのだが、やはり聖女とかいう胡散臭いメスはダメだ。
「ケッ」
ストレスで毛繕いを長時間に渡って行った私は、その場で毛玉を吐き出す。
見回りを終えたら、夜に石の塔へと戻らなければならない。嫌なことがあったら我がご主人に甘えるに限る。そうして静かに散歩を再開するのだった。
ミリアが言ってる「王子」の台詞は転生者王子が好きだと言っている台詞と同一のものです。
王子はちゃんと「悪役令嬢の死を悔やんで言っている」と理解してますが、彼女は「悪役令嬢みたいに愛する聖女が死なないように国を変える」台詞として記憶しています。