王子とかいう意気地なしなやつ
肉球をひえひえに冷たくする石の塔から飛び出した私が自由気ままに歩いていると、すれ違う人間たちは大忙しだった。あっちへうろうろこっちへうろうろ。通行の邪魔なのだが、人間たちは私に気がつくとうやうやしく道をあけて退いていく。本当は騒がしいざわざわとした話し声も少し控えてほしいが、贅沢は言うまい。
ところどころ我がご主人の名前が出るので、彼女の噂で持ちきりなのだろう。ふわふわの毛を持つ私よりも劣るとはいえ、ご主人もなかなかの美貌だから次の縁談でも舞い込んできているのかもしれない。たとえ見る目のない王子が婚約破棄とやらをしても、身分のあるご主人は引く手数多の高貴な身分である。まさかあの卑しくて撫でるのがド下手くそな聖女とかいうやつに騙される人間がこうも多くいるはずがないのだから。
私は猫であるが賢いメス猫である。地理や政治などの小難しいことは分からぬが、人間のある程度の事情は賢ければ聞いていて楽しいものである。それはもちろん、他人事の不祥事や揶揄だからこそ。猫は偉いので下々のトラブルを上から眺めながら面白おかしく笑っていても良いのだ。
廊下の真ん中を堂々と歩き、開いている窓から庭の樹木にとび移って顔を洗う。窓枠を熱心に拭いていたメイドが、なにやら蹴り出したときについた私の愛らしい肉球の跡を見て騒いでいるのが聞こえる。しかし、チラとも見てやらずに枝の上で身体をぐっと伸ばす。
あれから夜が明け、昇ってきた太陽の光がさんさんと木々の隙間から私を照らしてあたためる。膝を折って座り、そよそよと顎先を上手に撫でるあたたかい風にゴロゴロと喉を鳴らして目を細めた。そしてだんだんとうとうとしてきて……次に目を開けたとき、お日様は天高く昇りきっていた。数時間ほど気持ちよく朝寝をすることができたようだ。ふわふわの白い毛に太陽のあたたかいエネルギーが溜め込まれている気がする。くあっとあくびをひとつして立ち上がる。尻尾をピンと伸ばして首を傾げた。はて、お昼寝をしにきただけだったか?
「うるさいな、一人にしてくれよ」
「きゃ! あ、ニール。待って! どうして急にそんなに冷たく……」
「いいから一人にしてくれって!」
「待って! 待ってよ!」
下から男女の会話が聞こえて覗き込む。ああそうだ、そうだった。あの意気地なしのオスの様子を見に行こうとしたのだった。
なにやら揉めているらしい彼らの先回りをするように窓から城の中へ戻り、てちてちと小走りで王子の部屋を目指す。あちこちの窓を開けてくれているのは私への配慮であるからして、ご主人の下僕たちはしつけの行き届いたとても良い者たちであると分かる。
王子の部屋のやたらとゴテゴテと豪奢な扉の前で待ち構え、逃げるように走ってきた王子が足元をよく見ずに扉を開けたタイミングでするりと中に入り込む。そうして急いで扉に鍵をかけた王子が私という客に気がついた頃には、扉の外で聖女とかいう、キンキン声でうるさい女の未練がましい声が響いていた。
「スノーボール……おまえ、またか」
「なあぅん」
こうして彼の部屋に入り込むのははじめてではない。
彼は扉を恐々と見つめ、辛抱たまらない! といった様子で私を雑に抱き上げてその腕の中に閉じ込める。恐怖から身を隠すために強いものの背に隠れる子供のようなその仕草に、仕方のないやつだと私は大人しく身を預ける。元来臆病な性質の彼はいつもそうだ。私のこともあまり好きではないようなのに、それよりももっと大きい恐怖に耐え切ることができなくなって身を縮める。
まあ下僕の不安な心を助けるのも私の役目である。ご主人の運命のオスであるからあまり私が大きな顔をするわけにもいかないのだが、頼られてしまっては仕方ない。
ゴロゴロと喉を鳴らして腕の中にしばらくおさまっていてやれば、早鐘を打つように忙しなかった王子の鼓動が落ち着いてくる。あまりにも可哀想な獲物の反応を寄越すようなら私も狩猟本能がくすぐられて困るところだったが、その時間はどうやら短くて済んだようだ。
やがて諦めたのか扉の外が静かになり、止めていたのかと思うほどに深々とため息を吐いている。私を抱く手は少しばかり震えており、その目尻には涙まで浮かんでいるではないか。なんとも情けない有様だが、これでもこの国の王太子である。
「なあ、スノーボール。シアンは怒ってるかい? 少しでも僕から離れてくれるといいんだけど……」
尋ねてくる彼の頬を舐める。
返事はノーだ。彼女は王子の所業を自分のためだと信じて疑っていない。だから自分のために動いてくれている、と思い込んでいる王子に怒るはずがないのだ。離れることもないだろう。それだけ我がご主人は彼にぞっこんってやつだからだ。それもこれも、こいつが自分自身で蒔いた種なのだから責任を取るくらいのことはしてもらわねばならないのだけれど。
「僕、僕、結局あの子を不幸にする道しか選べない……せっかく転生して、不幸で絶望したまま鳥になっちゃうシアンを助けられると思ったのに……いざ彼女から執着を向けられたら怖くなるなんて……でも、でも怖いだろ! あんな、あんなに愛されたら……怖いだっ、いたっ!?」
ぎゅうっと締められて悲鳴が漏れる。
下僕の分際で私を潰そうとはいい度胸だ。腕を引っ掻いて彼の拘束から抜け出すと、私は急いで毛繕いをはじめた。無遠慮に抱きすくめられてしまったからボサボサだ。私の美しい毛並みを台無しにしておいていまだメソメソする王子に目を向ける。本当に、この情けないオスのどこがいいのか……ご主人のその気持ちだけは、私にも押しはかることができなかった。
この男は、将来我がご主人が不幸な気持ちになって鳥になってしまうから、幸せにしてあげたいのだと豪語しながらそれはもう熱烈なアプローチをかけた。情熱的に口説いて、君を守るだとか一生を捧げるだとか、推しは推せるときに全力で推せとかなんとか言いながら、当時ツンツンしていたご主人の心を完全に掴むまでずうっとしつこく愛を囁いていた。次第に彼の愛に己の愛を返すようになった我がご主人は、口説かれすぎてすっかり彼の愛を疑うことをやめてしまった。魔物と遭遇して死にかけたところを、まるで救国の英雄がごとく威風で助けにきた彼を見たのが決定的な出来事だったはずである。
彼女の愛を欲して、彼女の愛を肥大化させたのは彼自身なのだ。だのにいざ四六時中使い魔で見張られたり、預かり知らぬところでメイドと会話した言葉の意味をご主人が尋ねたり、部屋の家具の位置を把握していたり、困っていることを勝手に解決してみせたりしたところで、彼は怖気付いてしまったのだという。愛を求めた癖に、返される執着にあろうことか恐怖してしまったのだ。
そうして、我がご主人を裏切り、聖女とかいうやつを利用して遠ざけようとしているのだ。まことにオスとして情けなく卑怯なやつなのである。
「この国はもちろん腐ってるよ……大勢の幸福のためにさ、不幸な気持ちになると幸福を呼び込む青い鳥になってしまう祝福……いや、呪いを受けてる悪役公女を、わざと鳥にするために婚約破棄騒ぎを起こすシーンがあるんだよ。あんなの前代未聞だったし。王子にも主人公の聖女にも、これは儀式的なものでシアンも意味は知ってるからとかなんとか大臣に嘘つかれててさ……ゲームをやってたときに怒ったのも本当だし、一人で自分が鳥になる運命を知って、抗って、みんな死んでしまえって思っちゃったシアンがかわいそうで、どうにか助けたかったのも本当なんだ」
いつもこうだ。王子は私を銅像かぬいぐるみかなにかだと思っているのか、はたまた懺悔室にでもいる気持ちにでもなっているのか、突然こんな風によく分からないことをひとりで話しはじめる。
キャッチボールのできない会話なんて壁に話しかけるのと同じものだろうに、彼は私をもう一度抱き上げたあと、前足の肉球を左右順番にマッサージしながら低い声でとつとつと自分の考えだとかを言葉にして整理しだすのだ。
はなはだ迷惑なので、代わりに話を聞いてやれそうなネズミだとか、ハトだとかを差し入れに来ても彼は悲鳴をあげてひっくり返るだけで私を構うことをやめはしない。私が聞き上手で愛らしすぎる猫だったばかりに、面倒な役をしなければならないのだ。しかし持てるものこそ与えなければならぬ。
私はときおり彼の手を舐めたり前足をぐーぱーしたりしながら、密かに尻尾をパタパタと揺らして彼の膝を打ち、不満を表すのみに留めた。
引っ掻いて威嚇しないだけ、私はなんて心優しく寛大で、素晴らしく仕事のできる愛らしい猫だろうか!
「スチルとか立ち絵で、シアンの暗い心を食ってどんどん大きくなる青い翼が怖くて、悲しくて、どうにか止めたかった。でも物語の進行上そんなことできなかったから仕方なく進めてたのに……シアンが鳥になって取り返しがつかなくなったときに、実は聖女にも青い羽があることが判明して、これ以上ないほど幸せな気持ちになれば鳥にならずに幸福を呼び込んで幸せに生きれることが分かるの、ひどいよね。めちゃめちゃスレも荒れてて、ただの儀式だって思って婚約破棄をした王子は戦犯扱いだし、シアンを幸せにするための二次創作がめちゃくちゃ流行ったりした」
ところどころ訳が分からない単語があるが、とにかくこいつの中では我がご主人が不幸になる未来は確定していたらしい。だのに、王子は婚約破棄を決行したのだ。不幸にすると分かっていながら、彼女の愛を歪ませたのは自分だと理解していながら、恐怖する己の心のか弱さを理由に。なんと身勝手で愚かな人間なのだろうか。幸いなのは、我がご主人は彼の裏切りをちっとも理解しておらず、盲目的に全ては自分のための行いだと心の底から信じ込んでいることだろうか? 結果的に、彼の行いが彼女の心を救っているらしいのは間違いないだろう。結果よければ全てよしと笑えば良いのか、彼の身勝手さに怒りに震えればいいのか微妙なところである。
「バッドエンドじゃスノーボール……飼い猫のお前が鳥になった彼女を食べちゃうんだ。だから最初、君にもひどいことをしようとした。あのとき、僕に勇気が出なくて良かったと思うよ。今こうして君が心の癒しになってくれているんだから」
確かに、初対面の頃こいつにはひどいめに遭わされかけた。それはよくよく覚えている。王子とははじめて会ったというのに、彼は私の名前を平然と呼び、抱き上げて、そして訳の分からないことを喚きながら首を絞め、あろうことかこの城を縄張りにしている私を獲物として狩ろうとしてきたのである。
――「お前が……、シアンを食い殺すんだ……!」
鬼気迫るような顔で、油断していた私を追い詰めた彼はしかし……途中で舌を出してぐったりとしてきた私に怖気付いてその手を緩めた。そして、後からやってきた我がご主人に具合が悪いかもしれないと大嘘をついて私を預けたのだ。あれはいまだに恨んでいるので、こいつの話を黙って聞いてやる私がいかに寛大な猫かどうかが分かるであろう。
「バッドエンドじゃなくても、シアンは一生鳥籠の中で青い鳥として過ごすしかなかった。僕はそれを変えたくて頑張ってたのに、結局シアンが怖くてちょっとでも離れてくれたらと思ってこんなことを……聖女も転生者っぽいし、本当勘弁してほしい……女って怖い……僕はただ、原作王子の『僕達は気づくのが遅すぎた。だから、償っていこう。青い鳥の犠牲をもとに成り立っているこの国も、まだ変われるはずだから』って台詞に感銘を受けて、最初から国を変えられないかっていろいろしてただけなのに……」
こうしていつまでも猫相手にうじうじとしているところがダメダメなのだろうが、こいつはそれに気づく素振りがない。
我がご主人の歪んで肥大化した愛については、完全に彼の自業自得なのでオスとして責任を持ってもらわないといけない。自分のしたことは自分でなんとかするべきである。
「原作改変って、上手くいくことばかりじゃないんだなあ……って実感持ったよ。なんか、原作にいない僕の弟がどんどん原作王子に似て成長してくるのも怖いし……スノーボール、話を聞いてくれてありがとう。ちょっとだけ胃の痛みが治まったよ」
それはなによりである。どうせ我がご主人からは逃れることはできないので今のうちに心を休めておくのが一番だろう。我がご主人が望んだのなら、そのときは私も王子を追う狩猫となるだろうから。
さて、このくらいでいいだろう。これ以上は私のほうが我慢ができん。身動きひとつできずに興味もない話ばかり浴びせられるというのは存外苦痛なものだ。
彼の腕の中からするりと抜け出し、扉の前で可愛らしくひと鳴き。
「もう行くの? 外には……もうあの子もいないみたいだし、開けるね」
扉をそっと開けてくれた王子に礼をひと声かけてから部屋を抜け出し、また私は城の中を見回りしに行くことにした。彼の話を聞くのに随分と時間をかけてしまった。縄張りの見回りは日々の大事な業務である。
さて、次はどこへ行こうか。
好きな性癖発表ドラゴン
「そんな男やめとけ! と言いたくなるキャラクターが自業自得の理由でメンタルが不安定になっているところ」