婚約破棄とかいうやつ
我がご主人はヤバ女である。名はシアン。
人間の生まれなど私にはとんと見当もつかないけれど、とても良い暮らしをさせてもらっているので、貴族なのだろう。
「あら、スノーボールちゃん。夜会には飽きちゃったかしら」
ご主人は、雪のように美しく長い毛皮を持ち、これ以上ないほどに愛くるしい猫である私をスノーボールなどと名付ける感性のおかしなメスだ。しかし私の次に愛くるしい顔をしている。背中に青い小鳥の羽根をつけているあたりが最高にそそられるいいメスである。私にはよく分からないが、貴族がほとんどを占める夜会において畜生と揶揄される猫を参加させているほど、気がおかしいのは確かである。猫ほど優美で素晴らしい生き物はいないというのに、それを畜生などと言う人間は実に愚かだが、その点ご主人は素晴らしい。
人間の基準で言えば彼女はヤバ女なのだろうが、私の次くらいに愛くるしい最高のご主人である。
会場の隅に用意された超高級ふわふわクッションの上でくつろぎながらあくびをひとつ。私のために用意された最高級の魚をちゃぐちゃぐと噛み締めてたしなみ、お上品にミルクをひと飲み。口元の毛についたミルクを手でくしくしと舐めとってついでに顔を洗う。
「シアン、またスノーボールを夜会に連れてきているのか」
「シアン様、さすがにどうかと思いますわぁ〜」
私に構ってくれているご主人が顔をあげる。
声をかけてきたのはご主人……シアンの婚約者とかいう男、ニールなんとかと、私を毛嫌いしてるいけ好かない女、ミリ……なんとかだ。ニールなんとかを視界に収め、ご主人の横顔に見える瞳がうっとりと輝く。本当に気に入らない男である。王子だかなんだか知らないが、彼はご主人の特別な人だ。
「あら、ニール様にミリアちゃん。ごきげんよう、スノーボールちゃんは特別に許可をもらっていますのよ。よければお二人もお撫でになってあげて?」
「嫌よ! 私猫アレルギーなんだから! その猫を連れてきているのも嫌がらせかしら? ねえ、言ったしょうニール様ぁ……」
「ああ……そうだね」
それにしても本当に気に食わない女だ。私にあえて近づくこともあるのだから、猫に近づけばよろしくないアレルギィとやらも嘘であろうに。
なによりも許せぬのがミリアがニール王子にくっついてメスの顔をしていることである。強いオスに惹かれるのはメスのサガとはいえ、そのオスはご主人の運命の人だ。ニールはいい造形の顔をしているし、血統もすごいのだがいかんせんメスを二匹も食わせて愛し続けられるほどの甲斐性がない。魚を取ることさえできないのに自身の餓えだけじゃなくメスの餓えも満たさなくてはならない。その点、ご主人には私もいるのだから定員はいっぱいである。本当に気に食わない。
撫でてこようとしたら爪で引っ掻いてやろうか。私はそれが許される。シアンご主人様の猫だからだ。
そうしてクッションに爪を刺して待ち構えていたのだけど、一向に彼はしゃがむ気配を見せなかった。そもそも私を見てこない。失礼じゃないか?
「シアン・ブルーウイング。この僕、ニールゲレス・レヴノグリアは貴殿との婚約を破棄させてもらう。理由は自身の胸に聞いてみろ」
「この胸にはニール様のお好きな膨らみしかございませんけれど」
「……ニール様?」
不思議そうに尋ねる我がド天然ご主人様に、ミリアが不満げな声をあげる。それに慌てたのか、ニールはわざとらしく咳払いをして目を逸らしている。これだから情けないオスは良くないのである。いいのは血統だけだ。
「シアン。君にひどくいじめられているとミリアが言っているんだ。国の守護をする聖女に選ばれた彼女を虐げるのは国家反逆と同義である。たとえ精霊公女の君であろうとそれを許すわけにはいかない。この分だと反省もしていなさそうだ……この国に幸福をもたらし続けると言われている君を糾弾するのは心苦しい判断だった。けれど、僕は君のような悪女を愛することはできない!」
楽しい楽しい夜会での、突然の婚約破棄。
オスのほうから我がご主人にアタックしてきて、幸せにすると約束までしていたのにこれだ。人間というのは分からない。オスのプライドとかないのか?
ミルクをひと舐めして尻尾をぱたり。
は? この私の最高に愛くるしいご主人より、いつまでも子猫ぶってる大人のメスのほうがいいとか言った? 私の気のせいじゃなくて? 噛みついてやろうかな。
「いいの、スノーボールちゃん」
小さく呟いて、ご主人が私を見つめる。
「婚約破棄を、受けますわ」
俯いて猫にしか表情を見せない彼女。
まわりの夜会の参加者にはどう見えているだろうか。
泣いているように見えるのだろうか。しおしおと弱々しいメスに見えているのだろうか。悪として糾弾される卑怯な女に見えているのだろうか。
ご主人を幸福をもたらす籠の鳥だと思っているのに、その籠の扉を開ければひとたび籠を取り囲んでいる猫に攫われてしまうというのに。
「わたくしはいじめなどしておりません。決して。ニール様」
「なにを言っても無駄だよ。僕はミリアの味方だ」
「そうですか。わたくしはどうすれば?」
「離れの塔から出ることを禁ずる。いいね?」
「……はい」
我がご主人はヤバ女である。
猫にしか見せないその俯いた顔は、恍惚の笑みを浮かべていた。
ご主人は私を抱き上げ、衛兵達に連れられて静かに夜会から退出する。
そして寒い石でできた塔の中で私を抱きしめて言うのだ。
「ああ……分かっておりますわニール様! わたくしの冤罪をとくために、あえて、あの女のそばにいて、証拠をお集めになる判断をされたのですね! わたくし分かっていますわ! スノーボールちゃん、わたくしったらとても愛されているのね!」
盲目の愛は時に気をおかしくさせてしまう。
あの男は幼い頃、彼女がアクヤクコウジョ? アクヤクレイジョウ? とやらにならないために一生愛する! とか、僕が愛で満たしてあげるとかなんとか言って我がご主人を狂わせてしまった。
どうやら我がご主人の返す盲目の愛に怖気付いてしまったみたいで、最近は距離を取って他のメスにうつつを抜かしていたみたいだが、彼女にはそんなの関係ない。
「あは、うふふふ、あは……わたくしの、わたくしだけの王子様! 青い鳥は貴方様だけに幸福を授けますわ! シアンはとても幸せです!」
私を抱きしめる腕に力がこもる。痛いくらいの抱擁は彼女なりの愛だ。彼に向けられる盲目の気のおかしい愛の中のほんの少しを、私が受けられるのならそれでいい。
さて、しばらくご主人はおかしくなって踊り狂い始めるから、そそくさと抜け出してあのニールとかいう情けないオスの様子でも見に行こうかな。