8. 浄化の任務再び①
「あ゛ーー、空気が美味いな」
マルスは空気をいっぱいに吸うと、心地良さそうに吐き出した。
ティナーシェとマルスがいるのは、瘴気に襲われている町のすぐ手前。今度は大聖堂から馬車で2日程の距離にある南東部で瘴気が発生したとの事で、こうしてやって来ている。もちろん他の聖女や聖騎士達も一緒だ。
調度良い宿は見つからなかったので、今夜は野営をすることになった。
野営の準備を各自が進めている中、マルスがティナーシェの天幕に荷物を運んできてくれた。
「どこがいい空気なの?」
時折風に乗って漂ってくる瘴気の毒気と悪気に、みんなが顔をしかめる中、マルスだけは生き生きとしている。ティナーシェは他の人に聞かれないよう、小さな声でコソっと聞き返した。
「俺にとっては故郷の空気。最高だね」
そうか、瘴気は地獄の空気が漏れ出ているものだっけ。
「なら王都辺りは居心地が悪いの?もしかしてマルスの身体には毒だったり?」
王都には天国との裂け目から、その空気が漏れ出ているとされている。なら悪魔のマルスにとっては苦痛なんじゃないかと期待を込めて聞くと、ピンッとおでこを弾かれた。
「魂胆みえみえ。確かに王都の空気は肌に合わないが、それでどうこうなる程じゃない。残念だったな」
「そうなの……」
死んで魂にならなければ、地獄や天国には行けないとされている。なら仮に、マルスとティナーシェとが真の番になったとしたら、マルスは地上で暮らすことになるのだろうか?
地上の空気にいずれ毒されるとしたら、ティナーシェを諦めてくれるんじゃないかと思ったのだが、あてが外れてしまった。
「あのね、マルス。ひとつ聞きたいのだけど」
「んぁ?」
「私を番ではなくす方法ってないの?」
前からずっと考えていた。
ティナーシェがマルスの番でなくなる方法がないのか。本来なら悪魔同士で番になるなら、他の悪魔に、ティナーシェの立場を変えられないのか。
淡い期待を持つティナーシェに、マルスは眉根を寄せた。
「お前ってほんと、ば――」
「馬鹿って言わないで!!」
『か』の発音をしようとしたマルス口を、ティナーシェはむぎゅっと両手で押えた。
「やっぱり、そうよね……」
答えを聞かなくたって分かってる。
マルスはティナーシェが番であることを嫌がっているのだから、そんな方法があったらとっくに実行しているハズだ。
「変えたかったら死ぬしかないんだ、私が」
「そういうこと。契約前に番が死んだら、新たな番が生まれる。これまで俺の番だったやつは悪魔だったけれど死んだか、もしくはずっと人の世で転生を繰り返していたか……まあ、後者だろうな。地上に生まれる命と、悪魔や天使の魂とが混ざることはまず無いだろうし。とにかくだ、お前を殺せば新たな人間の番が現れる可能性が高いだろう」
ティナーシェの表情を伺うように、マルスはニヤリとしてこちらを見た。
私が諦めて真の番になるとでも思ったら大間違いよ!
睨み返したティナーシェに、マルスはさらに笑みを深くした。
「俺、すげぇ短気だから。そこのとこ宜しく」
「宜しくって、それって……」
「これ中に入れとくから」
マルスはティナーシェの荷物を抱えて、天幕の中へと入っていってしまった。
さっきのって「長く待ってはやらない」って意味よね。
喉元にナイフでも突き付けられたかのような恐怖に、ティナーシェはブルっと身体を震わせた。
「ちょっとティナーシェ!あんたここでボーッと突っ立てないで、早く荷解きをして来なさいよ。明日の準備に取り掛からなきゃ間に合わないでしょ」
いきなり怒鳴るように話しかけてきたのは、今回一緒に浄化の任に就いたもう一人の聖女リーチャ。
明日の準備というのは、聖騎士とその武器に聖力を付与する祝福のこと。旅の途中でも何度か行ってきたが、明日が本番ということで、今晩は特に念入りに行わなければならない。
「す、すみません。すぐ行きます」
「もっとも……あんたから祝福を受けたいなんて聖騎士は、居ないだろうけど。でも来たからにはちゃんと仕事してよね。給金泥棒なんて恥ずかしい。献金してくれた方に申し訳ないって思わない?」
「はい……そうですよね。精一杯頑張ります」
ぎゅっとローブの裾を掴んで俯くティナーシェに、リーチャは目を細めた。
「貴族ってだけで優遇されるのは間違っている。だからアルテア様はあなたに罰を与えたのよ。いい気味だわ」
口の端を持ち上げて笑うリーチャ。その顔は天幕からひょこっと顔を出したマルスによって、すぐに崩れた。
「ならエメリアはどうなんの?あいつも侯爵令嬢だろ?」
「マッ、マルス様!? いらっしゃったのですね。気付きませんでした。じゃあティナーシェ、早く来るようにね!」
パタパタと去って行くリーチャを見ながら、マルスが「なるほどねぇ」と近くの木箱に座った。
「聖力が弱いってだけで、なんでお前だけこんな扱いなのかと思ったら、そういう事か」
この世界に生きる大半の人は、平民か或いはそれ以下の人か。貴族という特別な地位を与えられた人はほんのひと握り。
貴族令嬢として贅沢な暮らしをしていると言うだけでも羨ましいのに、そこに更に聖女となれば、人々の尊敬の対象にもなれる上、アルテア教内でも絶大な影響力を持てる。
貴族の聖女は羨望の対象であると同時に、嫉妬の対象でもあった。
伯爵家の娘にして強大な聖力を持つと思われたティナーシェ。新たな権力者が現れるのではないかという予想は外れ、伯爵家は大恥をかいた。
それを権力を持たずして生まれてきた者達が、見逃すわけがない。ここぞとばかりにティナーシェを叩き、嘲笑した。いわば、身分に対する不満の捌け口にされている、というわけだ。
「前世の私、何か悪いことでもしたのかしら? マルス知ってる?」
本当にこれがアルテア様のご意思だったなら、何故ティナーシェだけなのか。エメリアの方が家格は上だ。
ティナーシェは生まれてからずっと近くの聖堂に通って祈りを捧げ、女神アルテアに尽くしてきたつもりだし、教えに背いたことも無い。
それなら前世で大きな間違いを犯したとでも考えた方が、まだ納得がいく。
力なく尋ねるティナーシェに、マルスはこれまで見せたことのないような切なげな顔をした。
――なんで、そんな顔するの?
整ったマルスの顔が歪んだことに驚いたティナーシェは、思わず息を飲んだ。
ただそれもほんの一瞬のことで、すぐにいつものお調子者の顔になった。
「前世の罪は死んで魂となった後、その報いを全て受けることになっている。その為の悪魔だからな。いわゆるお仕置きってやつよ。だからティナが前世でどんなに極悪非道なことをしていようと、今世とは関係ない」
「そっか……」
悪魔のマルスが言うのだからそうなのだろう。死後の世界のことなど、ティナーシェには分からない。
「いい解決策、教えてやろうか?」
「なあに?」
「俺に噛み付くこと」
「もうっ! またそれ?!」
マルスが真剣な顔をするから、ちょっとだけ期待しちゃったじゃない!
「本当だって。俺を信じろよ」
「悪魔の言うことなんて信じられませんし、聞きませんー! もう私、祝福をしに行くからっ!!」
ドスドスと足音を立てながら去って行くティナーシェに、マルスはボソリと呟いた。
「あーぁ、本当なんだけどなぁ」
マルスもまた、悩みを抱えるひとりでもあった。