10. 馬鹿マルス
マルス……どうしてるんだろう……。
マルスが「散歩に行く」と言って居なくなってから、もう5日もたつ。
この地の浄化の任務を託された聖女一行は、瘴気と魔物が急拡大しているために、直ぐにペジセルノ大聖堂へ応援を要請した。早馬を走らせて報せたので、今日か明日には他の聖女が来てくれるはず。
その間ティナーシェ達は、逃げ遅れている住民を逃がすために奔走していたが、誰もが皆疲弊し限界を迎えそうになっている。そのため今は、一度瘴気の薄い場所まで退避して応援が来るのを待っているところだ。
場所を移動しちゃったけど、マルス分かるかな……?
いなくなって欲しいと願ったのは自分のくせに、帰ってこないことを心配するなんて矛盾している。
これで本当にティナーシェを諦めてくれたら、万々歳じゃないか。それなのに何でこんなにも、モヤモヤしてしまうんだろう。
マルスがあんな哀しそうな顔をしたせいだ、きっと。
ティナーシェの専属護衛であるはずのマルスがいないことは、もう一人の聖女リーチャや聖騎士達に適当な嘘を言ってはぐらかした。
『魔物と戦っているうちにはぐれてしまった』という嘘が、どこまで通用するだろうか?
実際そういうことは無きにしも非ずで、大型の蛇みたいな魔物なんかだと、人を丸呑みして食べてしまうこともある。マルスの死体が最後まで見つからなければ、殉死扱いになるかもしれない。
「もうすぐ応援の聖女と聖騎士達が到着するそうよ。ティナーシェもしっかり準備しておいてよ」
リーチャが口元をハンカチで押えながら話しかけてきた。瘴気の影響を受けたせいで、今にも倒れそうに青白い顔をしている。「大丈夫?」とふらつくリーチャの背中を支えると、キッと睨まれた。
「大した聖力も持ってないくせに、なんであんただけいつも平気そうな顔してるんだか」
「……」
「もしかしてあなた、悪魔か魔物の類だったりしてね」
「なっ……」
「だってそうじゃない。瘴気のせいでみんな苦しんでいるのに、ティナーシェだけはいつも大丈夫だなんて。強大な聖力を持っているわけでもないのに、あなたが魔のものじゃなかったら説明がつかないわ」
リーチャの言う通り、ティナーシェは瘴気の毒気に晒されても、いつもあまりダメージを受けなかった。聖力が強ければ強いほど瘴気に打ち勝つ力も強くなるが、周知の通りティナーシェには微々たる聖力しか持ち合わせていない。
これには誰もが首を傾げていたが、敢えてこうして言及してくる者はいなかった。
それはきっと、瘴気に晒されても正常でいられるティナーシェを、浄化の任務に就かせるのにちょうど良かったからだろう。
「私は……」
悪魔なんかじゃない。
本当にそう言えるのか。
悪魔のマルスに番だと迫られている現状を考えると、もしかしたら自覚がないだけで、自分は悪魔なのかもしれない。
ふとそんな考えが頭を過り、ティナーシェはぐっと唇を結んだ。
「やめてよね、私が泣かせたなんて言うの。って言ってもまぁ、あんたの護衛騎士は逃げちゃったんだっけ? お気の毒様」
「逃げた……?」
「そうよ。みんな言ってるわ。誰も見ていないところで抵抗の声も聞こえず、魔物にあっさり丸呑みされたとは考えにくいもの。逃げたに決まってるじゃない。あの人、女性みたいに綺麗な顔立ちしていたし、本当に剣を振れるのか疑問だったけど……ふふっ。いざ魔物との戦闘が始まったら、怖くなって逃げたんでしょ」
そうか……。殉死ではなく逃亡扱いになるのね。
聖騎士団からの逃亡は、アルテア教からの追放を意味する。そうなれば、二度とマルスは聖堂へと足を踏み入れることは叶わない。
最も不名誉な扱いを受けることになる。
アルテア教における不名誉など、悪魔のマルスは微塵ほども気にしないだろうが、ティナーシェはなぜだか無性に悔しくなった。
私のせいでマルスが笑い者になってしまう。私があんな短絡的な行動をしなければ……。
「可哀想なティナーシェ。護衛騎士に逃げられちゃうなんてね」
「アルテア様に選ばれた人だもの。本当に逃げたのだとしても何か理由があったのよ」
「ふっ……そうだといいけど」
ティナーシェが出来る精一杯の言い返しに、リーチャは鼻で笑って去っていった。
先程応援がもうすぐ到着するとの報せを受けたが、瘴気の広がるスピードの方が想像以上に早かった。一時退避していたこの場所まで魔物が出るようになり、聖騎士達が懸命に戦ってくれている。
そろそろ来てくれないと、本気で不味い。瘴気に含まれる毒気は身体そのものを、悪気は精神を蝕む作用がある。聖騎士たちはもう、身も心もボロボロだ。
怪我を負い魔物に怯えるようになってしまった聖騎士達。こんな状況下でもひとり正常を保っていられるティナーシェは、僅かばかりの聖力をあてて励ました。
「もうすぐ応援が来るはずです。頑張って足を動かして逃げないと」
「もうだめだ……」
「諦めないで! 必ずアルテア様の御加護がありますから」
そう言ったティナーシェの胸ぐらを、前を歩いていた聖騎士が掴んできた。
「だいたいな! お前がそれっぽっちの聖力しか持たないくせに、聖女なんか名乗ってるからこんな事になってるんだろうが!? 聖女なら早くみんなを助けろ! 地獄との亀裂なんて早く塞げよっ!!」
「――――っ」
泣いちゃダメだ。今はそんな場合じゃない。
「文句なら後でいくらでも聞きます。だからとにかく今は、生き延びることだけを考えてください」
強い眼差しで言い返された聖騎士は、ティナーシェの服を掴んでいた手を離した。
「さあ行きましょう!」
もう一度歩き出したその時、横から唐突に魔物が現れた。聖騎士に次々と噛み付きなぎ倒している。
「うわぁぁぁぁ!!」
三ツ目をした大きな狼のような魔物。少し噛んでは標的を変えて聖騎士たちを翻弄する様は、まるで人をいたぶるのを楽しんでいるみたいだ。
――どうする?
これ以上戦える人はいない。
周りに助けを呼んでも、どこも皆同じ状況。自分一人が逃げるのに精一杯だ。
なら私の出来ることはもう、これしかない。
ティナーシェは聖騎士が取り落とした長剣を握り、三ツ目の狼に向き合った。
「は……早くみんな逃げて……」
怖くて足も手も震える。
またあの時みたいな力が出たらいいのに。
そう強く願っても、何も変化は起きない。奇跡は二度起こらないと悟ったティナーシェは覚悟を決め、三ツ目狼に向かって走り出した。
ティナーシェの振り降ろした剣はブゥンと大きく弧を描き、何も無い空間を斬り裂いただけ。ヒラリと身をかわした三ツ目狼が迫ってくる。
大きな牙が服を掠める度に血が滲み出た。
みんな逃げたかな?
周りを見る余裕もなく、無茶苦茶に剣を振り回し続ける。
「なによ……っ!」
身体の感覚が無くなってきたティナーシェは、そろそろ自分の命が尽きることが分かった。
だから最期にひと言、言ってやりたい。
「命を懸けて守ってくれるって言ったじゃない! どっちが馬鹿なのよ! この、馬鹿マルスーーーーっっ!!」
「誰が馬鹿だよ、馬鹿聖女」
三ツ目狼とティナーシェとの間に現れたのは、マルスだった。
大きく開けた魔物の口の中へ、剣を刺し込み抉るように捻っている。
「おいおい、人の女をいたぶっといて楽に死ねると思うなよ」
三ツ目狼は悲鳴を上げようにも、剣が喉まで突き刺さり声を出せないようだった。
鈍い唸り声をさせる度に血が吹き出している。
「ア゛ァ……ッ……ア゛……」
「マッ……マルス、もう止めてったら!」
怖くなってマルスの腕にしがみつくと「仕方ないなぁ」と剣を抜き、そのままひと息に魔物の首を斬り落とした。
「マルス……来てくれたんだ」
「呼ぶのが遅いっつーの」
「遅いって……まさかずっと見てたの?! もうぅっ!馬鹿馬鹿馬鹿ーー!!」
「おい、止めろ。いってぇな」
視線を逸らしたマルスの体をポカポカと叩き――そして抱きついた。
安堵からか、涙が溢れてきて止まらない。
悪魔が再び目の前に現れたというのに。
この状況があまりにもヘンテコで可笑しくて、ティナーシェは泣きながらくすくすと笑ってしまった。