序 ~ 時、来たれり ~
月の光が平屋建ての神殿を照らし、闇の中にその荘厳な姿を照らし出している。
本殿から伸びる回廊に囲まれた広場には篝火が焚かれ、戦装束に身を固めた一団が集合していた。
物々しい雰囲気の中、集まった者達は声を掛け合いながら、幾つかに分かれながら列を成し、本殿を正面に見据えながら隊列を整える。
「第一団、総員準備整っております!」
「第二団、団長が不在ですが、後程現地にて合流するとの事です!」
「第三団、総員問題ありません!」
「第四団、隊長は現地にて待機、時を待つとの事です!」
やがて一部の乱れも無い隊列が組み上がり、その場の全ての者の目が本殿へと向けられると、閉ざされた本殿の扉が静かに開かれ、荘厳な衣装に身を包んだ老翁が姿を現した。
本殿から進み出た老翁は歩みを止め、一段高い所から目の前に集う者たちを見渡す。
その目に映る者達の瞳に、一人の例外も無く静かな怒りの炎が灯っているのを見て取り、老翁は一度目を閉じ、静かに息を吐く。
「時は来た」
再び目を開いた老翁が静かに宣言する。
「我らは三年の時を耐え忍んだ。彼の者たちの行いを、三年間見逃し続けてきた。それも偏に女神の慈悲有らばこそである……」
詠み上げるように、謡い上げるように、老翁の口からは言葉が紡がれる。
「だが、女神の慈悲もこの時を以て枯れる事となろう。彼の者たちは、女神の愛し子にして我らの嬰児たる神子に対し奉り、到底看過しえぬ行いを働こうとしている」
老翁の見開かれた目に炎が灯る。
それに呼応するかのように、集いし者たちの間に剣呑な雰囲気が満ち始める。
「時此処に至り、躊躇いの吐息を漏らす者は、最早おるまいな?」
老翁の問いに声は上がらず。
ただ、
―― ガシャン ――
―― ガシャン ――
―― ガシャン ――
と、各々の手にした剣が、槍が、杖が、地面を打つ音が三度、一糸の乱れも無く響き渡る。
「よかろう……」
今一度一同を見渡し、老翁は片手を挙げて高らかに宣言する。
「彼の者達を、それに連なる全ての者を、神敵と認めよう……」
§
「クリスティーヌ・ド・ペリシエール! 貴様との婚約を破棄する!!」
王国貴族の令息令嬢が集い、その親達が祝う学園の卒業パーティーの場にその声が響き渡る。
声をあげたのは、少し癖のある金色の髪をし、王家の証である紫色の瞳を持った、王国の第一王子であるリュシアン・エル・アラール。
国王の祝辞が述べられ、会場には楽隊の奏でる音楽が響き渡り、紳士淑女が語り合う華やかな宴の場で、声高に自らの婚約者の名を呼び、彼女が進み出るのを見ると、一人の少女を伴い自らも場へ進み出る。
伴った女性より一歩前へ進み出た後、先程の宣言は行われた。
その指を突きつけられているのは、白銀に輝く髪と、王子と同じく王家に連なる者の証である紫色の瞳を持った、王国筆頭公爵家令嬢、クリスティーヌ・ド・ペリシエールであった。
国王を始めとする王国貴族のみならず、各国の代表者も居合わせる宴の場にて発せられたこの宣言に、事情を知らぬ者達は何事かと表情を固くするが、そんな場の空気は存ぜぬとばかりにリュシアンは言葉を続ける。
「クリスティーヌ・ド・ペリシエール! 貴様は王国貴族の身でありながら、下らぬ嫉妬に身を任せ、国賓たる聖女サエ・ヒラサカを不当に扱ったばかりか、その身を害しようとした事、既に明白である! 貴様のような者は国母に相応しいとは言い難く、よって私、リュシアン・エル・アラールの名において、この場で貴様との婚約を破棄し、改めてサエ・ヒラサカと婚約を結ぶ事を、ここに宣言する!」
些か芝居がかった言い回しで言葉を終えると、リュシナンは得意げな顔で、その後ろに控えていた女性を示す。
見ようによってはリュシアンに庇われるかのように立っていた女性は、彼の言葉に黒い瞳を潤ませる事も無く、戸惑いにその黒髪を揺らす事も無く、ただ冷めた目で場を見下ろしていた。
そして、
「殿下、恐れながら殿下の言われる事に、私は覚えが御座いません。宜しければ何を以て私が国母に、殿下の婚約者として相応しくないのかをご説明頂けますか?」
断罪される側であるクリスティーヌもまた、リュシアンの言葉に怯む様子もみせず、昂然と言葉を返すのであった。
「なにを……」
その言葉と態度は、リュシアンの苛立ちを募らせるに十分であり、突きつけた指を下ろし、その手を握りしめる。
楽隊の音楽は鳴り止み、居並ぶ者達は何事かと息を呑む。
静寂に支配された、宴の場だったそこには、二人の声だけが響き渡る。
「私を侮辱なさるのであれば、その罪とやらの事実を明らかにし、罪の在りかを明確にすべきです。ただ漠然とした言葉だけを並べられ、それを罪だと断じられた所で、私はおろか、この場にいらっしゃる方々を納得させる事は難しいのでは?」
鋭い言葉と視線に射すくめられ、リュシアンは一歩たじろいで見せるが、元々『正義は我にあり』との思いから行動に移した彼であれば、それだけで拳を収めることなど出来よう筈も無かった。
「そこまで言うのなら良かろう。貴様の犯した罪を数えると良い」
そう言うと、側仕えの者に向かって手を伸ばす。
促された者が歩み寄り、恭しく差し出された紙の束を受け取ると、鼻を一つ鳴らし、揚々とそれを読み上げる。
「貴様はサエが話しかけても無視をし続けた! 貴様のその態度が他の者を誘導し、サエが孤独な学園生活を送る原因となったのではないか!」
「殿下、学園とは貴族社会の縮図です。いくら歴代の国王陛下の名において平等を掲げているとはいえ、最低限の仕来たりは守られるべきです。彼女は、『許しが無ければ目下の者は目上の者に話しかけてはならない』と言う最低限の作法すら破っているのです」
リュシアンの言葉に、クリスティーヌは怯む事も無く自らの正当性を主張する。
それを聞いたこの国の貴族たちの中には、尤もだという顔をする者もいる。
「ならば、貴様を含め、誰もサエを一度も茶会に招いていないのはどういう事だ! 貴族であるなら、彼女を茶会に誘うのもまた仕来たりに則った作法ではないのか!」
「先程も申し上げましたように、学園での彼女を見ていれば解ります。彼女、は貴族として当然の作法も身に付けておりません。茶会は淑女の集まりです。作法のなっていない者は招かれない。当然の事ではありませんか。私以外の方々も、そう判断なされたのでは?」
クリスティーヌの言葉を聞き、幾人かの貴族が同意する様に頷く。
彼らのリュシアンの後ろに控える少女を見る目には、侮蔑の感情が透けて見えた。
「くっ……! き、貴様のその態度は本当に彼女の作法の話だけか? それならば貴様が率先してサエに説けば良いだけの話ではないか! 貴様は私がサエの傍に居る事に嫉妬し、それ故にそのような態度をとって居たのではないか?」
「殿下……そもそも婚約者の在る異性に気安く近付く事こそ問題ではありませんか? 私は彼女に常々そう申しておりました。殿下のみならず、学園に通う者達には既に婚約者が在ると。それを無視して殿下を始めとした殿方を侍らせていたのは彼女の方です。私でなくとも反感を覚えるのは当然ではありませんか。それでも殿下は私共に彼女に歩み寄れと仰るのですか?」
クリスティーヌの取り巻きと思われる令嬢の幾人かが同意の声をあげ、幾人かの令息が気まずそうに目を伏せる。
「だ、だが、貴様は事も有ろうに彼女に狼藉を働いたではないか! サエの使う教科書やノートを破り捨て、挙句の果てには彼女を後ろから突き飛ばして怪我を負わせた! 現にサエは今足に怪我をしているのだぞ!」
そう言って後ろに控える少女を示すリュシアンだが、当のサエはと言えば、そんなリュシアンを見て小さく溜息を吐いていた。
「それこそ濡れ衣と言うものです。殿下は御存じないのですか? 私が殿下の婚約者となって以来、私には常に陛下の影がついております。その者達に確認頂ければ分かる事です。或いは我が家に連なる者達の勇み足かもしれませんが、少なくとも私の預かり知る事ではありません」
「なっ……!?」
クリスティーヌの言葉に、リュシアンは焦ったように振り返る。
貴賓席に座する父を仰ぎ見れば、その視線を受けた国王がゆっくりと頷くのが見えた。
「くっ……」
その場に崩れ落ちるかのように膝をつくリュシアン。
後ろに控えていたサエが動くよりも早く、クリスティーヌがその傍らへと歩み寄り膝を下ろす。
尤も、サエ自身は動く気配すら見せていなかったが。
「殿下……」
「クリスティーヌ……すまなかった……」
クリスティーヌの差し出す手を弱々しく取ると、リュシアンはゆっくりと顔を上げる。
その顔には、悔恨の色がありありと浮かんでいるように見えた。
「私は、サエの言葉だけを信じ、罪の無い其方を断罪した。私こそ許されざる罪人であったのだ……」
その言葉に、クリスティーヌは優しい笑顔を浮かべながら首を振る。
「いいえ殿下、罪は償えば良いのです。自らの誤りを認められる事こそ賢王の証。殿下の治世で民を導く事こそなによりの贖罪となりましょう。私は、そんな殿下の傍らに居られる事を、なによりも誇りに思っております」
そう言って、クリスティーヌはリュシアンの手を取ったままゆっくりと立ち上がる。
共に立ち上がり、見詰め合う二人。
「クリスティーヌ。愚かな私を許してくれるのか……」
「殿下、私はいつでも殿下の御傍に居ります。殿下が罪を背負うのなら、私も共に背負いましょう」
クリスティーヌの言葉に、リュシアンの目頭が熱くなる。
「クリスティーヌ。其方こそ国母に相応しい、其方はまさしく、真実の愛の体現者であったのだな」
リュシアンの言葉に、顔を赤らめるクリスティーヌ。
ゆっくりとリュシアンの胸に顔を埋めれば、リュシアンはその背を優しく抱き止め、顔を上げて高らかに宣言する。
「皆の者、騒がせて済まなかった。私の曇っていた目はクリスティーヌの献身により晴らされた。私は彼女を生涯の伴侶とし、その助けと共に、良き治世にてこの罪を贖う事をここに誓う!」
その言を受け、会場からは割れんばかりの拍手の渦が巻き起こる。
唐突な断罪劇から始まった騒動は、聡明なる未来の国母と、将来の賢王を誕生させ、ここに終結したかのように見えた。
事情を知らぬ者達にとっては、だが。
リュシアンが手を掲げる事で、拍手が止み、会場は一時の静寂に包まれる。
抱き合っていた二人は体を離し、リュシアンは体ごと振り返り、クリスティーヌはその傍に控える。
二人に共通しているのは、取り残されたサエを見詰める強い視線だった。
「一つだけ、今ここで成さねばならぬ事がある……」
そう言葉を発したリュシアンが、サエに向かってその指を突きつける。
「サエ・ヒラサカ! 貴様こそ諸悪の根源にして傾国の悪女よ! 私はこれより、曇りなき眼にて貴様を断罪する!」
喜劇はまだ、終わらない。
良いお年を