5
恐ろしいほどパッチリ目が覚めた。
充電器の挿さったスマホをつけると午前一時。入眠から一時間しか経ってない。
原因は強烈な尿意だった。
寝る前に行っておけばよかったと後悔しつつ、ノルちゃんを起こさないよう部屋を出る。たしか階段側の突き当たりがトイレだった。共用のやつ。僕らの部屋にはトイレがなかった。
僕は忍び足で踏み出す。他のお客さんに迷惑をかけてはいけない。そーっと、そーっと、そ――っと。
『やっぱりそうかしら』
声が、階段下から聞こえてきた。恵さんのだ。
『それ以外ありえないだろ?』
こっちは低い男性の声。旦那さんかもしれない。
僕らが来た時にはいなかったが、つい今しがた帰ってきたのだろう。
『でも家出なんて、何か事情があるんじゃないかしら?』
家出、という単語に、僕の胸がドキリと高鳴る。まるで心臓に杭を打たれたようだった。
『ほら、虐待とか。もしそうだったら家に帰すのは酷じゃない? 私たちでなんとか……』
『バカ! それこそ俺らの手にはおえないだろ⁉』
『それはそうだけど』
『明日の朝にでも警察に通報して、そういう可哀想な子供を対処するプロに任せるべきだ』
可哀想な子供。――そうか。やっぱり僕たちは、可哀想な子供なんだ……。
薄々気づいてはいた。この年になれば、周りと自分との差異くらい理解できる。普通から逸脱しているのは明白。自分でいうのはちょっとアレだが、僕の境遇はお世辞にも幸せだとは言い難い。
特に母親。あれは僕の幸福を食い尽くす寄生虫のような人だ。
『可哀想』
分かってはいた。分かってはいたが……。――客観的事実として他人から言葉にされると、こう、胸に重くどす黒い何かがいっぱいになるのを感じる。
と思いつつ、僕はハッとした。――やばい。このままじゃ通報される。もはや、トイレどころでは……。
理解してからは早かった。音を立てないように部屋へ戻り、急いでノルちゃんを起こす。
「ノルちゃん! ノルちゃん!」
小声で精一杯緊迫感を出した。緊急事態を察知してもらいたかったから。
「んにゅ……」
僕の焦りとは裏腹に、彼女はまったく起きようとしない。深い眠りの底でとろけるように顔を弛緩している。
仕方ない。
時刻は深夜一時。小児には夜が深すぎるし、今日は一日大移動だった。疲労困憊だろう。僕もそうだ。
ただ、起きてもらわなければ困る。朝には通報されてしまうのだ。今のうちにここから出ていかなければ。
「ノルちゃん! 起きて!」
僕は肩を大きく揺すった。
「んにゅ……? にぃに?」
ノルちゃんは舌足らずに言った。
「そう! にぃにだよ! 夜遅いけど、もう、出ないと!」
急かすように言うと、ノルちゃんはニンマリとして――。
「ノルの服かわいい?」
「……え?」
意味が分からなかった。
着ている服といっても首から下は布団で覆われているし、そもそもグレーのパジャマだ。内側のモコモコがかわいいといえばかわいいが……。
「ノルが着てる服、かわいい?」
無邪気に問う彼女は、トーストの上でとろけるマーガリンのような笑顔。――ダメだ。完全に寝ぼけている。
確信した僕はさっさと頭を切り替えた。
ノルちゃんを起こすことが目的じゃない。
目的と手段を混合してはならない――と、偉ぶった高校の先生が言っていた。
僕の目的はノルちゃんに幸せになってもらうこと。ディズニーで楽しんでもらうことだ。
そのためには別に、ノルちゃんを起こす必要はない。
ここから脱出さえしてしまえばいい。
僕がおぶっていけば、いい。
散らかった荷物を乱雑にリュックに押し込む。寝ぼけたノルちゃんに可愛らしいダウンを着せ、リュックをお腹に、彼女を背負う。前はリュック、後ろはノルちゃん。前後の装備が整ったところで僕は固まった。
――どこから、出ればいいんだ?
まったく考えていなかった。
この部屋は二階。一階に行くには階段を降りてダイニングを通る必要がある。三枝夫妻がいるであろう、あそこを。
それは無理だ。絶対にバレる。
だったら彼らが寝るのを待つか。――いや、今すぐここを出たい。
旦那さんは朝にでも、と言っていたが、いつ気が変わるかも分からない。通報されてしまえば、僕らの冒険は終わる。僕らはまた、それぞれの鳥籠に返されてしまう。それだけは認められない。
「そうだ」
思いついた僕はカーテンを開ける。
瓦が斜め下に向かって規則正しく配列されていた。
窓の向こうは縁側の上だった。二階フロアからはみ出した縁側には屋根がついている。しかも都合の良いことに、僕らの部屋から乗ることができる。屋根の先なら、飛び降り可能かもしれない。
幸いにも古民家は天井が低い。おそらく三メートルくらい。バスケットゴールと同じ高さだ。
窓をゆっくり開け、窓枠に腰をかける。ビニールからスニーカーを出して、靴紐をきつく結んでから、慎重に屋根の際まで足を進めた。
瓦から下を覗き込んだ瞬間、尾てい骨から背中にかけて虫が這いずったような感触がした。
思っていたより、高かった。――どうしよう……。
足がすくんで動けなかった。背中のノルちゃんがやけに重く感じる。肌に刺さるような冷たい風が、僕の足を凍てつかせてしまったようだった。
でも、やるしかない。
ここで飛び降りなければ、僕は一生後悔することになる。何であのときやらなかったんだろう、って。
それは嫌だ。
飛び降りるのは怖い。
でも、ここから飛び降りられなかった自分はもっと怖い。
何も成せずに終わるのは、もっともっと怖い。
だったら、やるしかないだろ?
後悔するのが怖いなら、行動するしかないだろ?
思い切って、踏み出すしかないだろ?
後のことは、自分で何とかすればいい。
屋根の際で椅子へ座るように腰を下ろした。両足をぶらぶらさせ、ノルちゃんを片手で抑え、もう片方の手で瓦を押し、尻をゆっくりと屋根の外へ滑らせた。
一瞬の浮遊感の後に、膝から下に電撃が走った。
「〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
歯を食いしばって声を抑える。
ビリビリが消えるまで耐えてから、一歩踏み出した。
三枝宅から出て初めの角を曲がったところで、スマホの地図アプリを開く。
仙台駅まで徒歩五時間弱。
僕は大まかな道順を覚え、アプリを落とす。
始発の新幹線には、乗れそうだ。