遺書 怨嗟 愛情劣情
自己と他者とは単に相対する存在意義しか持ち得ない
私は自分が好きだ。しかし他者は嫌いだ。私は性分類上男だが女性を好きになるかと問われたら「ならないし、なりたくない」と断言する(また男も無論そうだ)
人間とは極力関わりたくないし、関係を深めたくない
人間とは何れ裏切るし、死ぬのだ
そんな人畜生を愛して何になるのだ
だからこそ、私は裏切らない、死なない自己が大好きだ
心の底から私は自分が好きなのだ。
私の脳から肉体
生殖器を除く内部機能から外部機能全てが大好きだ。
生殖器は他者と関わることにしか使えない劣悪な悪魔である。
生殖本能は人間を狂わせる
生殖本能は脳から麻薬を出し、仮染めの「幸福」へと導く悪魔だ。
その悪魔を顕現した異物こそが生殖器だ。
ゆえに、私は私を鏡で見た時、下半身にある一点の悪魔が気に食わない。
自己愛の中にある他者愛的裏切りがそこにはある
私は人間が嫌いだし、関わりたくないのだ。
しかし人間と関わらずどう生きていくのか
私は自然を見ると死にたくなるのだ。
それは精神的苦痛からでは全くない。
人間社会から解放された自然に帰りたいという純粋な気持ちからだ。
大河や山奥、樹海、湖畔、海。そんな大自然を見ていると自然が羨ましく思う。
束縛された人間社会から一線を引き、悠々自適に流れる水。人間の建築物にも無理矢理生えてくる木。自然の力を感じるとかそんなペテン的な話をしているわけではなく。単に人間の一定常識にとらわれない自然が羨ましく感じるのだ。
だから私は自然に帰るためにも他者を嫌い、自己を愛し続ける。
自己愛から幸福は生まれない。しかし他者愛からは生まれてしまう。
その幸福に囚われたら自然に帰ることはできない。
私は私の
体
思考
言葉
存在
全てが大好きだ。
それは恋なんていう劣情を取り繕った愚劣な感情ではない。
愛情である。
ナルシシズムとはまた違う。
私以外の全てを私は嫌いだ。故に消去法で私は私を好きになった。
私以外の人間は、人間の形をした悪魔だ。敵だ。
「私」とは私を唯一よく知る親友であり、愛人であり、故郷なのだ。
私は私以外の人間を排除している。
世の中に存在する他者とは自己に相対する物質にすぎない。他者がいるから自己がある。つまり、他者なくして自己はない。
という意味では他者には感謝しているのだ。自己を認識できる条件として存在してくれることに。
私は私が好きで仕方がない。
私は私だけを愛する