第四章
1
今まで味わったことのない不安と緊張で足の震えが止まらない。礼央の初授業は立っていることすら困難だった。生徒達がまるで尻尾の生えた人間にでも遭遇したかのような視線で礼央をじっと眺めていた。その視線を感じつつもまずは簡単な自己紹介を行い、その後生徒一人一人に自己紹介をさせることにした。恥ずかしいのか、面倒なのか名前を言うだけの素っ気ない自己紹介が続いた。そして下を向いた男の子の番になった時、彼は自己紹介をするどころか上を向こうともせず、ずっと下を向いたままじっとしていた。礼央もどうすればいいのかわからずその場に立ち尽くしてしまった。気まずい空気が教室中に漂った。後ろにいるアイリーンとフィリップは何も言うことなくじっと礼央の次の行動を待っていた。
下を向いた男の子は一向に上を向く気配もない。礼央の鼓動が早くなってきた。頭の中では必死にどうしたらいいのか考えていた。アイリーンとフィリップの心配そうな視線が痛いほど感じた。必死に頭の中で考えているのだけど、緊張と気まずさが最高潮に達していて何も頭に浮かんでこなかった。額からは気持ちの悪い冷や汗がどろっとこめかみを伝ってゆっくりと顔を通過して着ている白いシャツの上に落ちた。その間にも時間は止まることなく動いていた。しんと静まりかえった教室には一秒一秒を刻む古い掛け時計の音だけが大きく響いていた。生徒達の視線が彼に向いていた。下を向いている男の子を除いては。
遂にいたたまれなくなったアイリーンが教室の後ろから助け舟を出してくれた。
「ルカの自己紹介は飛ばしていいから、ジョゼフ、あなたからまた始めなさい」
ルカの後ろに座っているジョゼフに矛先が向いた。突然使命されたジョゼフは少しにたっと笑うと他の生徒と同様に名前を言うだけの短い自己紹介をした。ジョゼフから先の生徒達も名前だけの簡単な自己紹介をして無事ルカを除いては全員の紹介が終わった。
災難が去って礼央はその場にしゃがみ込みたい気分だった。後ろに立っていたアイリーンに目でお礼を言った。
まだ五分程授業時間が残っていたので、教室の片隅に置いてある弦がサビかかったアコースティックギターを手にとり生徒達の前で一曲披露することにした。数日前ビーチで演奏した経験が礼央に自信を与えたのか不思議と緊張することなく「ジャストフレンド」を演奏することができた。その上、演奏している間、生徒達一人一人の顔を見て回る余裕までできた。彼らは驚いたような、感動したような顔で熱心に彼の演奏を聞き入っていた。ふとルカを見た時、彼も顔を上げて演奏を見ていた。くっきりとした大きな瞳をした男の子。だけど目が合うとすぐまた視線を下に向けた。礼央にとってはルカが自分の演奏に興味を持ってくれたとわかっただけで十分だった。三分程の短い曲だったが演奏し終わった後、生徒達からビーチで演奏した時と同じ大きな拍手が起こった。後ろでフィリップがとても満足そうな顔で礼央を見ていた。
二日目からはアイリーンとフィリップの姿は教室になく一人で授業を進めることになった。そして四日目になると少しずつだが教えることにも慣れてきた。生徒達の名前も覚えたし、新しい曲も二曲授業に取り入れてみたりもした。礼央の演奏するギターの伴奏にあわせて曲を歌う生徒達の楽しそうな顔を見た彼は今まで味わったことのない充実感でいっぱいになった。文房具すらも満足に買うことができない生徒達のそんな姿は音楽を通して彼らに元気を与えなければいけなかったはずの礼央を逆に元気づけた。
彼の次の課題はルカに心を開いてもらうことだった。相変わらずルカは礼央がギターを演奏する時以外は下を向いたままだった。そしてもう一つ心にひっかかっていることは帰国日がだんだんと近くなってきていることだった。フィリップのお陰でボラカイ島からマニラまで戻るタクシーと飛行機のチケットはオープンチケットに変更することができた。だけど、さすがに日本への帰国便まではどうにもならない。このまま突然この場から姿を消して、何事もなかったかのように日本に帰国するべきか、それとも日本のすべてを捨ててここに留まるべきか。礼央は頭がおかしくなるくらい真剣に悩んでいた。ここで生徒達に音楽を教えることはそれが自分の居場所であったかのように居心地が良かった。だけど、それと同時に他の大学生達が大変な思いをして日本で必死に就職活動をしている中で自分はこんな楽しい思いをしてもいいのかという罪悪感にも包まれた。
その日授業が終わった礼央は一人プカシェル・ビーチでそのことについて悩んでいた。空に向かってまた答えを求めたがやはり何も答えは返ってこなかった。
その夜、自分の部屋に帰って来た礼央はすぐさま電話の受話器をとった。受話器の向こう側で呼び出し音が何度か鳴る。
「もしもし」
電話の向こうから男の声が聞えた。
「もしもし、礼央だけど」
「おー、礼央!元気か。えっ、どないしたんや。無事日本に戻ってきたんか。非通知やったから誰かわからんかったわ。もしかして空港の公衆電話からかけてんのか。久々にお前の声が聞けて俺も安心したわ。で、フィリピンはどうやったよ、またいろっ、、、」
ほうっておいたらいつまでも喋り続けていた拓の会話を中断するように礼央が割って入った。
「いや、違うんだよ、拓。僕まだ日本に帰国したわけじゃないんだ。実は今フィリピンのボラカイ島ってとこにいて」
突然のことに電話口の向こうで唖然としている拓をよそに礼央は今までの経緯を手短に話をした。
「なるほどな、そういうことやったんやな。俺も突然そんなことお前から聞いたから何て答えてええのかわからへんけど、今お前がしていることを投げ出して日本に帰ってきてそれで満足するんか。後悔せえへんか。お前さっき言ってたやんけ、ここの子供達に音楽教えることはめっちゃ充実してるって。そう言ってる時点でお前の心は決まってるんとちゃうか。後はあれやろ、お前、おかんにびびってんねやろ」
「もちろんそれもあるんだけどね。今僕らの同期達って死ぬ気で就職活動頑張っているじゃない。それってとても苦しくて大変なことだよね。そんな皆が苦しい思いしてるのに僕だけここでこんな楽しい思いしてもいいのかなって。何だかその気後れと何か自分がとんでもなく間違った方向に進んでいるんじゃないかってとても不安なんだ。だけどその反面、初めて自分が夢中になれることが見つかったっていう充実感と喜びもあるんだよね」
「礼央、自分の可能性が社会という壁に遮られるような生き方したらあかんで。その壁を乗り越えん限り可能性は広がらへんねんから。十年先の自分を思い浮かべてみ。今みたいに自分の輝けることを一生懸命やって人々に幸せを与えているのか、それともしたくもない仕事をして自分の命すり切らしてただただ定年を待つだけか。自分の人生をどのように進むかは最終的には自己責任やで。前も俺言ったやろ、死ぬ前に後悔したくないやろって。人生は一度だけやで。人に何言われようが、笑われようが気にすんなや。そうやって他人の人生を笑ろとる奴は何も本質知らんと自分より劣ってると思う人間探して自分はまだましなんやって自分を慰めて人生を正当化しようとしているだけなんやから。お前にはそんなくだらん人生送ってほしくないんや。人は皆それぞれ個性があるんやで。それやのに他人と比べたって意味ないやん」
拓は一気にまくしたてると深呼吸した。彼のはく息が受話器を通じて礼央にもはっきり聞こえてきた。一呼吸おいた彼は少し冷静になった。
「ええか、礼央。もしかしたらお前はまだ暗闇の中にいるんかもしれん。けど出口は近いで。自分を信じて、その光の導く方へ胸を張って歩いて行け。何も心配しやんでええ、俺には分かる。お前は守られてる。まぁ国際電話やし、あんまり長電話も何やしな。俺も来週から数週間程アフリカに行ってこの携帯電話繋がらんようになるけど、Eメールは読めると思うし、もし何かあったらメールでくれてもええしな。今日は電話ありがとうな。お前の元気な声聞けて安心したわ」
「うん、こちらこそ相談にのってもらってありがとう」
礼央はゆっくりと電話の受話器を置いた。
2
翌朝、礼央は早朝の誰もいないビーチまでウォーキングをした。どんよりとした灰色の雲が海の上に覆いかぶさり、いつものマリンブルーの海が若干黒ずんで見えた。ビーチに座って海を眺めていると心の中の汚れが洗浄されていくようだった。そして彼はもう一つ今まで心にひっかかっていることに今日はメスを入れようと決意した。
その日いつものように授業を終えた礼央は勢いよく教室を飛び出していく生徒達を横目にいつも最後まで帰り支度をしているルカの前まで行った。
「ルカ、今日の授業はどうだった。僕の授業は楽しんでもらえているかな」
ルカは突然礼央が話かけてきたことに驚き、彼の肩がビクッと震えた。そして恐る恐る顔を上げ礼央を見た。髪の毛はきちんと整えられた大きな瞳をした男の子。きちんと栄養のあるものを食べているのか顔色はとても健康そうだった。彼の身に付けているものと彼の顔とのギャップが大きい。そしてその大きな瞳で礼央をじっと見つめる。表情は若干怯えている。かなり使い古されたところどころに穴の空いたリュックをぎゅっと自分の胸に抱きしめ、百獣の王ライオンに追い込まれた小動物のような怯えた瞳で礼央を見つめていた。
「ねぇ、ルカ。もしよかったら一緒にギターを弾いてみないか」
そう言って自分の持っているギターをルカに向けた。そのギターをじっと見つめるルカ。しばらく無言でそれを見つめていた。彼がギターを手にとるのを待ち、優しい微笑みを向ける礼央。やがてルカは胸に抱きしめたリュックを床にそっと下ろすと、ゆっくりとそのギターに手を伸ばし、礼央からそれを受け取った。初めてギターを手にしたのだろう。何か大切な宝物でも持つようにルカは大事にそれを持ち膝の上に置き、ギター全体をじっくり眺めた。礼央は教室の奥からもう一本の古いギターを持ってきて、ルカの側に腰掛けた。
「ほらルカ、まずはこうやって弦を押さえずに右手で六弦から一弦まで親指で鳴らしてごらん」
礼央はまずは手本を見せた。
ボロローーン
オープンコードの音が優しく教室中に響き渡った。ルカも小さな親指で言われた通りに六弦から一弦までのオープンコード鳴らした。初めてギターを演奏する人間なら誰しもこの最初のチューニングを合わせた後のオープンコードの音に胸が高鳴る。しかし残念なことに大多数の人間は次に習うCとFとGのコードで指が攣り(もしくはバーコードの習得で)、それに挫折してそれ以降そのギターは押入れの奥に押し込まれ日の目を見なくなってしまう。中学二年生の時、友達の勧めで初めてギターを手にして弾いた時がそうだった。最初の3コードに苦戦した。でもそれがなぜだか楽しかった。その向こうに待っているまだ見ぬ多くのコードとメロディーとの出会い。それを考えるとその3コードを習得する苦しみもまた楽しみに変わっていったのであった。そしてギターが礼央をここまで運んできてくれた。次はそれを子供達に伝えていく番なのかもしれない。
もう一度ゆっくりオープンコードを鳴らしたルカ。それをじっと見つめる礼央。そこに初めてルカの嬉しそうな顔を見た。そして彼の口から少しだけ白い歯がのぞいた。いよいよ礼央は次のステップであるCのコードの押さえ方をルカに教えた。ルカの小さな手だとさすがにこのコードを押さえるのは難しいのか彼は顔をしかめながら、だけど一生懸命そのコードを押さえようと努力していた。今まで使ったことのない指の筋肉が悲鳴をあげているのがわかる。礼央も同じだった。
「ルカ、一度弦から指を外して左手全体をリラックスしてごらん。それからもう一度挑戦してみよう」
礼央はルカの手をとり軽くマッサージしてあげた。はにかんだような恥ずかしいような笑顔を浮かべるルカ。そしてまた再度Cコードに挑戦する。何度か同じことを繰り返していくうちにまだ人差し指、中指そして薬指が別の弦に触れてクリアな音ではなかったがそれらしきコード音が聴こえるようになった。
「すごいじゃん、ルカ。もう少しだ」
小さな手をいっぱいに広げて一生懸命Cコードを押さえようとするルカを見た礼央は改めてここに来て良かったと心の底から思った。今までレールの上を走ることしか許されていなかったので自分がこんな満ち足りた気持ちになれるだなんて思ってもみなかった。ルカ達に音楽を教えることができる喜び。日本を発つ前に購入した「アコースティックマガジン」誌に搭載されている楽譜くらいしか今手持ちにある楽譜はないし、自分の知っている限りの子供向けの曲を自分なりに手書きの五線譜に書いてみたりもした。その作業一つ一つがとても楽しいものだった。また一緒に曲をずっと歌うのではなく皆でいろんな楽器を演奏できるようにフィリップに新しい楽器をいくつか購入できるか聞いてみたがこれは残念ながら予算の都合上実現しなかった。
翌日も授業が終わった後、いつも通り最後まで残っていたルカの席まで行き、またギターのレッスンを行った。昨日より笑顔の数が増えた。少しずつだが礼央に打ち解けてきた証拠かもしれない。そして礼央はルカの習得の早さにとても驚いていた。それはギターを始めた頃の自分自身を思い起こさせた。ギターを始めた年齢はルカの方が若かったわけだが。昨日教えたCコードはまだ雑音が混ざるが弾けるようになっていた。二日目のプライベートレッスンは一日目に比べると長くなった。礼央は教えることに集中し、ルカはコードを押さえることに必死になっていた。時間はあっと言う間に過ぎていき、窓の外から少しずつだが夕日が教室に入ってきた。ボラカイ島の静かな夕焼け時。フィリップも他の皆も帰宅したのだろう、校内はとても静かだった。二人のギターの音だけが夕日が入り込む校内中に響いていた。
二人がレッスンを行っているところを音楽室の外から静かに見守る女性がいた。歳は二十代後半だろうか、フィリピン人にしては肌の白い、目鼻立ちがしっかりと整った小顔の女性だった。黒いストレートの髪はポニーテールにしていたので卵型のきれいな顔の輪郭がはっきりとわかった。腰の辺りから膝までの白いエプロンをかけ薄い水色のメイドの制服を着ていた。化粧は全くしていなかったがその表情はとても魅力的だった。じっと教室の中の二人を見つめていた。必死でギターに向かっているルカ、そして楽しそうな笑顔を礼央に見せるルカ。彼女にとってこんな楽しそうな顔をした息子を見るのは初めてだった。
「ママ」
ちょうどその時ルカが教室の外に立っている母親を見つけた。彼女は軽く手を挙げ、息子に向かって微笑んだ。ルカは礼央の手を引っ張って母親のところまで来ると礼央を紹介した。目の前に立っているルカの母親に見つめられた礼央は胸がドキドキした。どう対応していいの分からなく、どぎまぎしている彼をルカはきょとんとした顔で見上げていた。
「初めまして。いつも息子がお世話になっております。母親のマリアと申します」
丁寧な言葉使いでそう言うとマリアは深々とお辞儀をした。
彼女があまりにも美人だったので顔を凝視することができなかった。彼女の首筋を見つめながら礼央は自己紹介をした。自分はまだここで教え始めて数日しか経っていなくて、授業中に常に下を向いているルカのことが気になりこうして昨日から授業の終わった後で二人でギターのレッスンをしている旨を説明した。
「いつもなら家に帰っている時間だったんですけど今日はまだ帰宅していなかったので、もしかしたらまだ学校かなと思い、こうして見にきたんです」
「息子さんを長いこと引き止めてしまい申し訳ございませんでした。夢中になりすぎて知らない間に時間が過ぎていました」
礼央はルカを長く引き止めすぎた自分に罪悪感を覚え、自然と彼の表情を強張らせた。
それを見たマリアは慌てて「いえいえ、とんでもございません。こちらこそルカの面倒を見てもらい私の方こそお礼を言わなければいけません。息子のあんなに嬉しそうな顔は久々に見ました。こちらこそ何とお礼を言っていいものやら」
彼女はルカの頭をなでながら恥ずかしそうに礼央を見た。そしてしばらく迷ったような何か考えているような表情をしていたマリアは決意したように質問した。
「こちらではお一人でお住まいになられているのですか」
「ええ、まだこちらに来て数日しか経っていないんですけどね」
「そうですか、もしご迷惑でなければ今晩うちに夕食にご招待できればと思いまして。ここから歩いて十分程度の距離ですので。いかがでしょうか」
突然の夕食の誘いに礼央はとっさに言葉が出てこなかった。
「あ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、お邪魔させてもらいます」
マリアとルカは嬉しそうに見つめあった。
三人はオレンジ色に染まった空を眺めながら学校を後にした。
ルカとマリアはトタン屋根でできた小さなお粗末な家に住んでいた。暗い部屋の中に入ると奥の炊事場で一人の中年女性が料理をしていた。家の中に暖かい家庭の匂いが包み込む。「ただいま、母さん」
マリアは料理をしている女性のところに行った。料理をする手を止めて礼央の方にやって来た。
「礼央、こちらは私の母のグロリア」
「母さん、こちらはルカの音楽の先生の礼央。放課後この子にギターのレッスンをして下さってたの」
「あら、そうですか。これはこれはようこそいらっしゃいました。私、ルカの祖母のグロリアと申します。いつも孫がお世話になっています」
「初めまして。礼央と申します。今晩は夕食にご招待して頂きありがとうございます」
礼央は軽くお辞儀をした。
歳は自分の母親と同じくらいだろうか。若い頃はマリアに似てさぞかし美人だった面影が残っている。
礼央は家の玄関を入ったすぐ左側にあるリビングルームというよりは小さな物置スペースに置いてあるどこかで拾ってきたような古ぼけた一人掛けのソファに座るように案内された。彼がそこに腰掛けるとギシッという今にも潰れそうな音が鳴った。奥にある炊事場からルカがコップ一杯になみなみ注がれた水を持ってきてくれた。そしてソファのそのすぐ横の地べたにルカは座った。何も言うわけではなくただ無言で礼央の隣に腰掛け、嬉しそうに礼央を見ていた。その様子を隣の台所からとても嬉しそうに眺めていたマリアとグロリア。
炊事場ではグロリアが料理する新鮮な魚が入ったシニガンがぐつぐつと煮込まれていた。家中に酸っぱい何か懐かしい家庭の香りが充満する。太陽はもう西に沈んでしまい、外は薄青い色に包まれ、遠くで波の音が聴こえたような気がした。料理の最後の仕上げをしているグロリアの横でマリアが人数分の小さなボウルに白い炊き立てのご飯を盛った。そして出来立てのシニガンを相当使い込まれた茶色の壷に注ぐと、隣の部屋にいた礼央とルカを呼んだ。
皆が炊事場のすぐ横にある小さなダイニングテーブルに腰掛けた。礼央にとっては初めてフィリピンの家庭で頂く家庭料理だった。皆が席に腰掛けるとマリアが食事前のお祈りをした。
主よ、今日も私達に食事を与えて下さりありがとうございます。
そして、今日は大切なお客様も招待することができました。
皆で食事ができることの喜び。
あなたの祝福をうけ、この料理を頂きます。
あなたの子、イエスの名において
アーメン
「さぁ、召し上がれ」
マリアは礼央の前にあるご飯にシニガンのスープをかけ、その上に具を盛った。それからルカとグロリアのご飯の上にも同じようによそうと最後に自分のお皿に盛った。礼央は少し鼻にツンとくるようなスープを一口啜った。今まで口にしたことのない酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。その様子を嬉しそうに横から見ているルカ。
「母さんはね、少しだけだけど日本語が話せるのよ」
マリアはにこやかに礼央に言った。そしてその横でちょっと照れくさそうな仕草をするグロリア。
「チョット日本語ワカリマス」
流暢とは言えないがグロリアが日本語で礼央にそう答えた。テレビでしか日本語を話す外国人を見たことがなかった彼にとってそれはちょっとした新鮮さと驚きがあった。
「あなたは日本語も上手ですけど料理もとても上手ですね」
「ありがとう、礼央。そういってもらえて嬉しいわ。料理は私にとってとても大切ものなの。もともとはホワイトビーチに立っている小さなホテルでハウスキーピングの仕事をしていたんだけれどオーナーにキッチンで仕事をさせてほしいって頼みこんでね。イエス様の慈悲が届いたんだわ。お陰で今はそのホテルのキッチンで料理を作る仕事をさせてもらっているの」
グロリアはスープに浸かったご飯を一口食べた。
「私の夢はねここでお金の無い人もお腹一杯になるまで食べてもらえることのできる食堂を持つことなの。私とマリアは幸いにも雇ってもらえる仕事があるので贅沢はできないけれど日々の食事を頂くことができるわ。ボラカイに住む人たちの中には十分に食べ物を食べれない人も多いの。でも、そういう食堂を建てる夢も十分な資金のない私達にとっては夢のまた夢の話なんだけどね」
グロリアは少し寂しそうな顔をしてマリアの方を向いた。
「この娘もね、普段はここらでは有名な不動産で財をなしたお宅でメイドとして雇ってもらっているのよ。日本では考えられないことかもしれないけど、フィリピンではお金持ちがメイドを雇うことって当たり前なのよね。でもさせてもらえる仕事があるだけ私達は幸せだわ」
「礼央はここには働きに来たの。日本にだったらもっと良い仕事がたくさんあるだろうに」
礼央は前に拓に話したようにフィリピンには旅行で来たということとボラカイ島に来てここの学校で教えるようになった経緯をグロリアとマリアに話した。二人は彼の話を真剣に聞き入った。
「それじゃ、礼央もうすぐしたら日本に帰っちゃうの」
寂しそうな顔で隣のルカが礼央の方を向いた。彼の寂しそうな顔を見た礼央はどう答えていいのかわからず下を向いた。
「礼央が日本に帰ったら寂しいな。また前みたいに学校に行くのが楽しくなくなっちゃうよ」
ルカも下を向き少しずつシニガンのスープを口に運んだ。その様子を複雑な表情で見つめるマリアとグロリア。
ここには自分を本当に必要としてくれている人がいる。今までこんなに他人に必要とされることなんて一度もなかった。そして礼央はこの土地にだんだんと居心地の良さを感じるようにもなってきた。物質的貧しさは多いけれどここの人たちは陽気でやさしくて一生懸命に生活している。ここは物質主義ばかりに目を囚われていた日本と全く正反対の世界だった。
今自分を必要としてくれている人を見捨てて何事もなかったかのように日本に帰れるのか。その後のルカの人生はどうなる。そして自分に後悔の念は残らないのか。
「自分の人生をどのように進むかは最終的には自己責任やで」
この前電話口で拓が言ったことが頭に過ぎる。礼央は目を閉じた。自分の死ぬ前を思い浮かべてみた。自分が生まれた時に与えられた才能を全うして何の後悔もなく自分の一生のピリオドを打つのか。それともしなければいけないからという理由だけで無理やりそれをやり続けて、やがて肉体的そして精神的疲労困憊のまま人生を終えるのか。
突然、礼央の心の中に大きな渦巻きが起こった。
今まで自分に植え付けられていた価値観という木々がその渦の中に勢いよく飲み込まれていく。ゴーという大きな唸りをあげて。すべてが流されてしまった荒野に取り残された礼央。暗闇が広がる空の遥か向こうに一寸の光が差していた。まるでこの前見た夢のように。
「ルカ、心配しなくていいよ。僕はどこへも行かないよ」
はっきりとした声で自信を持って宣言した。
ルカの顔がぱっと明るくなった。
その夜、帰宅した礼央は迷うことなく電話の受話器をとった。そして自宅の番号をまわした。本来なら明日帰国する予定だった。だけどもうそれはなくなった。礼央はここに留まることに決めた。もう誰にも何も言わせない。
「もしもし、母さん。僕、礼央だけど」
「礼央ちゃん、元気にしてる。いよいよ明日帰国ね。父さんも母さんも楽しみにしてるから。それとね、旅行から帰ってきて疲れていると思うけど明後日にね、スルタン産業の本社で就職説明会があるみたいだから、父さんに言って予約しといてもらったから行きなさい。朝の九時から夕方まであるみたいなんだけどスルタンの隅々まで紹介してもらえるみたいよ。そこに就職するしないに関わらずこれは貴重な体験だからね。それとね、来週の月曜日は大手商社の丸藤商事の就職説明会あるからそれも予約しといたからね。これは午後一時からだから。一人旅で十分充電はできたでしょ。日本に帰ってきたら良い会社に入れるように頑張って就職活動しないとね」
母親の言葉が何となく自分にではない別の誰かに話しているように聞えた。
「母さん、僕、明日日本には帰らないよ」
電話の向こうで沈黙が流れる。
「あなた、何寝ぼけたこと言ってるの。自分が何言っているのかわかってるの」
ふつふつと怒りがこみ上げてきた刺のある声で母親が声を少し荒げた。礼央は拓そしてマリアとグロリアにもしたように今までの経緯を今度は隅々まで詳しく母親に伝えた。礼央の周りで今まで起こったこと、そしてルカやマリアのことまで包み隠さず全て母親に話をした。もちろん、それは母親の怒りのボルテージをマックスまで引き上げたのは言うまでもない。
「礼央!神様が生まれた時に特別な才能を与えてくれて、あなたを守ってくれるなんて。何を馬鹿なこと言ってるの。あなたを救ってくれる神様なんてそんなものは最初から存在しないの。最終的に頼りになるのはお金、経済的なゆとりなのよ。そのために母さんと父さんはあなたが小さな頃からせっせと良い学校に入れるように頑張ってきたんじゃないの。それもすべて一流企業に就職して何不自由なく暮らすことができる幸せな暮らしを手に入れるためでしょ。子供のおとぎ話じゃあるまいし。フィリピンに住むだなんて。それで何、あなたはその子持ちのフィリピン女と一緒になるってこと。冗談も休み休みにしなさい。母さんはね、絶対それは許しませんからね。あなたがそんな馬鹿な子だったなんて思いもしなかったわ。フィリピンの、その何とか言う島で生活なんて、あなたそんなね、原始人みたいな生活するなんてね、恥ずかしいと思わないの。親類に合わせる顔がないわ。息子が就職活動に嫌気をさしてフィリピンの小島に逃亡して、そこの子持ち女と一緒になっただなんて。あなたは今まで育ててきた私達を何だと思ってるの!」
「母さんが何と言おうと僕は日本には帰らないからね。もう決めたんだ」
礼央は語気を強めた。
「礼央!」
幸恵の甲高い声が礼央の耳に突き刺さる。
「僕は母さんの奴隷じゃないんだ。僕にだってやりたいことがあるんだよ」
電話口で礼央は叫んだ。それは彼の心の叫びだった。そして乱暴に受話器を置いた。
部屋の中にまた静寂が訪れた。さっきまでの会話がまるでどこか遠い場所で起ったかのように今この部屋の中には音というものが存在していなかった。母親に自分の電話番号を教えていないのでもちろん電話がかかってくることもない。大きく一度深呼吸した礼央は気分を落ち着かせる為に夜風に当たりに外に出た。夜空いっぱいに広がる星を眺めながら自分は正しいことをしたんだと自分に言い聞かせた。
3
電話を一方的にきられた幸恵の受話器を持つ手は震えていた。今まで母親の言うことに反抗することなく従順だった息子が始めて反抗した。遅い反抗期とはいえそのタイミングの悪さと裏切られたという気持ちで幸恵は行き場のない怒りで煮えくり返っていた。子供に大学を卒業させ、一流企業に就職させることが自分に課された使命だと強く感じていた彼女にとってこの突飛ようもない息子の行動は今まで順調に先頭を走っていたマラソンランナーがゴール間近で転倒するような歯がゆい思いが彼女の心を覆った。その行き場の無くした絶望感と怒りはリビングで暢気に夜のビジネスニュースを観ている夫にぶつけるしかなかった。
「あなた、ちょっとテレビ消してこっちに来て。大問題発生よ」
幸恵のヒステリックな性格とは長い付き合いのヒロは特に驚くこともなく、テレビのスイッチを消すとテーブルにおいてある缶ビールを持つとゆっくりとソファから立ち上がって彼女の座っているダイニングテーブルの所まできた。テレビの音もかき消されてしまうくらいに大きな声で怒鳴っていた幸恵と息子との会話の内容はだいたい把握できていた。今のヒロに課された任務は妻の話を親身に聞いてその怒りを少しでも静めること。ダイニングテーブルのイスにヒロはゆっくりと腰をおろした。
「あなた、大問題発生だと言ってるのになんでそんな亀みたいな動きしかできないの。この一大事に余裕タラタラといったあなたの態度は今に始まったことじゃないけど本当に腹立たしいわ」
それを聴こえなかったかのようにヒロは一口缶ビールを啜った。
「テレビの音も聞えなくなるくらい大きな声で話していたんだから嫌でも内容は察しがつくよ。どこでどうなったかまではわからないけど、礼央がフィリピンの小島まで辿りついて、そこで仕事をもらって、そのままそこで住みたいっていう内容だろ」
もう一口ビールを啜った。二人の温度差の違いに幸恵は余計に苛立ったがそれを押しとどめて冷静にヒロに尋ねた。
「あなたはね事の重大さにまだ気づいてないのよ。あの子が今何を言っているのか分かってるの。日本で就職活動をせずに、苦労して入った大学も中退して、フィリピンの小島に住むっていうのよ。普通の脳を持った人間だったらまずそんなこと考えないわ。どうして日本という何不自由なく暮らせる裕福な国を捨てて、明日食べる物もあるのかないのかわからないような国に住もうなんて思うの。私はそんなこと絶対許さない。フィリピンに行ってあの子を連れ戻してくる」
「幸恵、少し落ち着けよ。お前がここで怒り散らしたって礼央がすぐ帰ってくるわけじゃないんだから。フィリピンまで連れ戻しに行くのは構わないけど、あいつがフィリピンのどこにいるのか知っているのか。フィリピンといったって七千以上の島があるんだぞ」
その言葉を聞いてはっと息を呑む幸恵。先ほどの礼央との会話の内容を必死で思い出す。彼がフィリピンに留まるということであまりに怒り心頭していたからその他の会話の内容があまり思い出せない。
「マニラでタクシーに乗っている時にその島の宣伝の看板が出ていて、ボ何とか言う島だったと思う。リゾートで有名な島らしいわ」
「もしかしたらボラカイ島じゃないのか」
ビールの缶でポンとテーブルを叩いた。
「俺の会社の若い子が最近結婚して確か新婚旅行でそこに行って来たって言ってたな。マリンブルーの海が広がる綺麗なビーチだったって。お土産にドライマンゴーをもらったんだから間違いない。礼央も今そこにいるんじゃないかな。保証はないけどね」
「そうだったわ。確かそんな名前の島だったわ。早速明日旅行会社に行って飛行機のチケットとってくるから」
はっとひらめいたような顔をした幸恵はそのまま席を立ち、自分達の寝室へ旅の準備をしに行こうとした。
「なぁ、幸恵。俺達の礼央の育て方って正しかったのかな」
幸恵の後ろ姿にヒロは話かけた。
「あなた何突然変なこと言ってるの。正しかったに決まっているでしょ。あの子の幸せを考えたらきちんとした一流企業に就職するのが一番なのよ」
「本当にそれであいつ幸せになれるのかな」
「あなた本当におかしなことばっかり言うわね。幸せになれるに決まってるでしょ。給料だって十分もらえるんだし、素敵なマンションだって、車だって買える。子供に十分な教育費もあてられる。それ以上にどんな幸せがあるっていうの」
幸恵はもう一度自分の座っていた席に座り直すとまじまじとヒロを見た。
「きちんとした企業に就職すれば職も安定しているし物質的欲求は満たされると思うよ。だけど最近はその年功序列・終身雇用神話も崩れ始めているっていうのは君もニュース観てるから知っているだろ。俺は思うんだよ。俺達がいた七十年代後半と八十年代初期とは今は環境が違うんだよ。俺達の価値観をそのまま礼央に押し付けてもあいつが混乱するだけじゃないのかな」
「そんなことを言ってもね、今でも大多数の大学生が大手企業に就職して安定した人生を送ろうと必死なのよ。それともあなたは礼央がフィリピンで餓死してもいいっていうの」
子供の話になるといつもより熱くなる幸恵だったが、今日の彼女の会話は更に熱がこもっていた。
「餓死してほしいだなんて一言も言ってないじゃないか。どうして君はいつもそんな極端なんだよ。若い時にしかできないことなんだからちょっとくらい大目に見てやってもいいんじゃないかって俺は言ってるんだよ」
勘弁してくれよという目で幸恵を見た。
「あなた本当に最近おかしいわ。夜も十分眠れていないみたいだし、突然礼央の一人旅も後押しし出すし。あなたと話をしていても埒があかないわ。あなたが何と言おうと私はフィリピンのそのボラカイ島に行ってあの子を連れ戻してきますから」
幸恵はそう言いきると席を立ち、寝室へ入って行った。やり場のない気持ちになったヒロはそこに座ったまま動くことができなかった。夫婦の完璧な意見の食い違いだ。だけど息子の教育は幸恵に一任している。もともと今更自分が入り込める余地なんてなかったんだ。礼央には自分のように毎日遅くまで義務感で働いてもらいたくなかった。ヒロは席を立ち、冷蔵庫からもう一本缶ビールを取り出すとベランダに出て、勢いよくそれを飲んでからタバコに火をつけた。そして今自分が見ている同じ星空の下で夢が見つかった息子のことを思い、彼の成功を祈った。
4
自分は間違ったことをしていない。拓が言うように自分は暗闇から今抜け出そうとしている。そして今のボラカイ島には彼を必要としてくれている人たちがいる。翌朝、母親への罪悪感とボラカイ島での希望が入り混じった複雑な思いと共に礼央は目覚めた。冷たいシャワーで気分をすっきりさせ、いつも通り九時に学校に着いた。 今日の授業は午後からなので特に九時に学校に来なければいけないわけではなかったのだが、真面目な礼央は午前中から午後からの授業の準備と今後授業に取り入れていこうと考えている楽曲の編曲そして自身のギターの練習に費やした。
朝の誰もいない音楽室は彼をリラックスさせてくれた。遠くで他の授業を行っている先生の声が聞える。あそこにルカはいるんだろうか。そんなこと考えながら自分の机の前に座った。
しばらくして教室のドアを軽くノックする音と共に静かにドアが開いた。そこにはフィリップが立っていた。
「ちょっと今お時間ありますかな、礼央先生」
フィリップはいつものようにゆっくりと教室の中に入ってきて礼央の側までやってきた。
「おはようございます、もちろんです。さぁ、どうぞ座って下さい」
礼央は自分の座っている席をフィリップに譲った。フィリップはありがとうと言うとゆっくりとその椅子に腰掛けた。礼央も生徒用の椅子を一つ持ってきてフィリップの前に座った。
「どうですか、ここの生活には慣れてきましたか」
「ありがとうございます。はい、お陰様で生活にも学校にも慣れてきまして、最近では居心地の良さを感じるようにもなってきました」
「そうですか、それはよかった」
フィリップはそう言ってとても嬉しそうに微笑んだ。
二人の間にしばしの沈黙が流れた後、フィリップはズボンのポケットから綺麗に折りたたまれた紙切れを取り出し、それをゆっくり広げて礼央に見せた。
「サマープレイズナイト イン ホワイトビーチ」
素人がマイクロソフトのワードで作成したのであろう。オレンジ色で大きく一番上にそう書かれ、その下にまた素人がデジカメで撮影したざらざらしたホワイトビーチの写真が付け加えられてあった。
それをじっと見入る礼央。
「実はですね、本校の催し事ではないのですが、私達の教会の毎年恒例の催し事でね。特に何か特別な事をするわけじゃないんですよ。教会の仲間やその家族、友人が集まって親交を深めるのが目的でしてね。皆がそれぞれ食べ物や飲み物を持ち寄って、ホワイトビーチで夏の夕暮れのひと時を過ごすんですよ。子供達はゲームなんかもしてね。もしよかったら礼央先生も明日どうかなと思いまして。もしかしたら素敵な女性に出会えるかもしれませんよ」
そう言ってフィリップはいたずらっ子のようにニヤッとした。この人にもこんな愉快な一面もあったんだと礼央はフィリップにちょっとだけ親近感が沸いた。
「楽しそうなイベントですね。はい、明日必ずホワイトビーチに伺います」
フィリップはにっこりと頷いた
「それでは明日ビーチでお会いするのを楽しみにしてますよ。授業の準備の邪魔をして失礼しました」
礼央の肩を優しくたたき、いつものように礼儀正しい歩き方で教室を後にした。
彼はフィリップが残していった催し事のチラシを机に置くと、また授業の準備に取り掛かった。
「ねぇ、礼央、今日もギター教えてくれる」
授業の後、ルカは左手にギターを握り締め、大きな目を輝かせながらやってきた。礼央も実はこの彼との放課後のレッスンがとても楽しく、心の安らぐ時間でもあった。また今日も二人の放課後のレッスンが始まった。レッスンを始めてしばらく経つと昨日より早い時間にマリアが教室にやってきた。教室の片隅のイスに腰掛けると二人の様子を嬉しそうに眺めていた。レッスンは一時間強続いたがその間マリアは席を立つことなくずっとそこにいた。
終了後、ルカは昨日と同様マリアの所へ駆け寄って行った。その後について礼央もマリアの方へ向かった。昨日と同じメイドの制服を着たマリアは彼女に抱きつく息子の頭を撫で、その後ろに立っている礼央に優しく微笑みかけた。彼も同じく微笑み返したが二人とも何も言葉が出てこなく見つめ合ったままの時間にして数秒だったがそれは二人にとってとても長い時間のように思えた。しかしこの痒くなるような二人の間に流れる空気は礼央を居ても立ってもいられない気持ちにさせた。彼はまともにマリアの顔を見ることもできなかった。
子持ちのフィリピン女
昨晩母親が言った一言が礼央の脳裏を横切る。だけど今の彼にはそんなことはどうでもよかった。今まで女性と出会ってこんな気持ちになることはなかった。彼の前の世界が一気に明るくなり、希望の光が心を照らし、生きている喜びを肌で感じていた。そして礼央はマリアを抱きしめたい感情にかられた。それは性的欲求ではなく、愛おしい人を自分の側に抱き寄せ、自分の肌で彼女を感じたいという純粋な気持ちからくるものだった。それがたとえ子持ちのフィリピン女であっても。
夜空に向かって昨夜礼央は一つの決心をした。自分が信じる道を進んで行く。それが両親そして日本の社会からみて愚かだと言われることでも。そこに彼は希望を見つけた。そしてそれを時間をかけてゆっくりと育てていかなければいけない。それがいつの日か世界中を飲み込む大きな力になる日まで。
5
いつもの穏やかなマリンブルーの海とホワイトビーチは礼央を優しく迎え入れてくれた。イベントは午後四時からだったが彼は午後三時にはホワイトビーチに到着した。指定された場所にやってくるとビーチの上に腰かけた。食べ物持ち寄りだと聞いていたので礼央も今朝は早起きして白米に塩とのりだけのシンプルだったが一生懸命作ったおにぎりを持参した。
彼はいつものようにじっとマリンブルーに輝く海を見つめていた。海を眺めていると自然とマリアの顔が頭に浮かんだ。どれほど今彼女が隣に居てくれれば素晴らしいことだろうか。彼女の身体をぎゅっと自分の近くに抱き寄せ、二人で海を眺める光景を想像した。それは礼央の心をきゅっと締め付け、獲れたての冷たくて甘いスイカを口にした何ともすがすがしい新鮮さが心の中を渦巻いた。あの目鼻立ちの整った小顔を自分の胸に迎え入れたかった。そのふくよかな身体を自分の近くに引き寄せ、彼女の吐く息を間近で感じたかった。爽やかな風が吹き抜けるホワイトビーチの静かな午後。
その時、突然後ろから誰かにポンと肩をたたかれた。はっと我に返る礼央。後ろを振り向くとそこにはフィリップと若い健康そうな男性が立っていた。フィリップは白黒のアロハシャツにクリーム色のスラックスに初めて会った時と同じ黒色の夏用革靴を履いていた。この人にとって服装とは正装をさすのだろう。
「こんにちは、礼央先生。パーティーに来て下さってありがとうございます」
フィリップはいつも通りの礼儀正しい口調で彼にそう言った。
彼は横にいる男性の肩に手を置いた。
「こちらは私達の教会のノエル牧師です」
「ノエル牧師、こちらは前々から話をしていた礼央先生です」
紹介が終わるとノエルは礼央に手を差し出し、礼央もそれに答えた。ノエルの握手はとても力強く、そこからノエルの誠実さと優しさが伝わってきた。
「初めまして、礼央」
ノエルはにこっと微笑んだ。
この人とは何だか深い付き合いができそうだな。礼央はふとそう心の中で感じた。
しばらくして三人のところに人が一人、また一人と集まり出した。
「あら、グロリア。今回も腕を振るったわね。すごいじゃないの」
礼央の後ろでそう感嘆の声が聞えた。ぞろぞろと声の聞こえる方に人が集まってきた。彼も後ろを振り返ると女性達に囲まれて両手いっぱいに料理を載せたお皿を持つグロリアがいた。その時礼央の心にぱっと明かりがついて彼の視界が広がった。グロリアが来ているということはマリアもきっとここに来ているはずだ。この場にグロリアがいる事実は礼央を天にも登る気持ちにさせた。
「こんにちは、グロリア。お孫さんのルカ君の学校で音楽を教えている礼央です」
必死に声を張り上げた。
グロリアは彼の方を向くと少し驚いたような顔をしたが、持っていた皿を側の女性に渡すと彼に寄ってきた。
「よく来てくれたわ」
彼女は嬉しそうに彼を抱きしめた。
「マリアとルカもすぐに来ると思うわ。マンゴーを持ってくるの忘れて、今買いに行ってもらっているのよ。さっ、ここに突っ立っていてもなんだからあなたのこと皆に紹介するわ」
グロリアはそう言って礼央の手をとった。
今日、マリアが来ることなんて予想だにしていなかった。これは予想外の人から思ってもみなかった素敵なプレゼントをもらうような気分だった。グロリアが彼のことをパーティーに来ている人達に紹介している最中も辺りをきょろきょろ見回しマリアを探した。
しばらくして向こうからマンゴーが入った袋を持ったマリアがやってきた。
しかしその光景は礼央の心が高まるどころか逆に厚い雨雲に覆われた。そこにはノエル牧師と楽しそうに談笑しながら歩いてくるマリアの姿があった。しかもその間にいるルカの手を二人が手にとって、まるで幸せな家族のあるべき姿であるように。あんなに楽しそうに笑うマリアを礼央は見たことがなかった。(といってもまだマリアと知り合って一週間しか経っていなかったので当然といえば当然なのだが。しかし彼女に熱い想いを秘める彼にとってそれは天国から地獄に落とされたようだった)
マリアとノエル牧師の間にいたルカが礼央の姿を見つけると二人の手を取り払い、大急ぎで礼央の所まで走ってきた。
ルカは礼央のところまで来ると笑顔で彼の胸に飛び込んだ。笑顔でルカを迎え入れる礼央だったが心中は気が気ではなかった。
「礼央もパーティーに来るなんて想像もしていなかった」
嬉しそうに礼央を見上げた。
「僕も今日ここでルカに会えるなんて思ってもみなかったよ。昨日フィリップ校長先生に誘ってもらったんだよ」
優しくルカの頭を撫でた。そしてまたマリアとノエル牧師の方に目をやった。二人はまだ何やら話をしているようだった。それは彼の心を更に締め付けた。息をするのも困難なくらいに。
礼央の心を読んだのかルカが手をとるとママの所へ行こうと彼の手を引っ張って行った。マリアとノエル牧師のところまで行った礼央は何とも気まずい気持ちになったが、二人は笑顔で迎えてくれた。
「礼央、こちら私達の教会のノエル牧師よ」
「マリア、さっきフィリップ校長に紹介してもらったんで自己紹介は済んだよ」
ノエルは礼央にパチンとウィンクをしてにこっと微笑んだ。
「それじゃ、僕はそろそろパーティーの準備もあるから向こうに行くよ。マンゴーも君のお母さんとこに渡しておくよ」
ノエルはマリアからマンゴーの入った袋を受け取り礼央にまた後でと言うと皆のいる方に歩いて行った。
ノエルが行ってしまうと礼央とマリアの間でまた何とも気まずい空気が走った。お互いに何となく見つめあう二人。その様子を不思議そうにじっと見つめるルカ。彼も小さいながらに二人の間に流れる空気に何かを感じていた。だけどそれが何であるのか幼いルカにはまだわからなかった。
「今日はパーティーに来てくれてとても嬉しいわ」
「ママ、僕もおばあちゃんの所で手伝ってくるね。礼央、また後でね」
ルカはグロリアのところまで走っていった。
しばらくお互いに目も合わせられずそれぞれに違う所を見る二人だった。
「礼央、ちょっとだけ一緒にビーチを歩きませんか」
思い立ったかのように緊張した口調でマリアが尋ねた。
予想外の彼女の誘いに戸惑い、上手いこと言葉が出てこない礼央はうんとうなずくのか精一杯だった。そして二人はぎこちなくきめ細かい砂の絨毯の上を歩いた。二人とも何を話せばいいのかわからなかったのでしばらく無言で歩いた。彼はマリアとノエルとの関係を聞きたくて仕方なかったが今の彼にはそれを聞く勇気がなかった。その他にも彼女には聞きたいことはたくさんあるのに言葉が見つからなかった。
そんな自分に腹が立った。
「私達、あなたがここに来てくれて本当に感謝しているんです。こうやって面と向かって言える機会がなかったんですがルカがあなたからギターを教えてもらって以来本当に毎日学校に行くのが楽しくて仕方ないみたいで。私も母も今まであんなに楽しそうにしているルカを見たことがなかったので、あなたには何とお礼を言っていいのか」
礼央は歯がゆい気持ちだった。感謝してもらうのはとても嬉しいことだったが二人はまるで違う路線を走る電車のようだった。
二人はまた無言で歩き続けた。礼央はだんだんと自信を失いつつあった。今までこんなにも一人の女性を強く想うことなんてなかった。今彼女を逃してしまうということは彼の人生そのものを逃してしまうことと同じくらいの重みがあった。だから余計に今の状況に神経質になるし、マリアの一言一言が重い錘のように礼央にのしかかってきた。それは心の中だけでなくだんだんと彼の表情にまで表れてきた。
その苦しそうな表情を見たマリアは礼央のことを心配して「大丈夫ですか。ちょっと陰で休みましょう」そう言うと彼の背中に手をやりビーチからちょっと離れた人影のない木陰まで導いた。
そこにどしっと腰をかける二人。
「大丈夫、何でもないよ。ちょっと休めばすっきりすると思う」
マリアに対する熱い想いを内に秘めるのが苦しくて仕方なかった。 今にも爆発しそうなその気持ちが大波のように礼央に襲いかかってきた。マリアへの想いが彼の喉まで出かかった。だけどその時もう一人の礼央がそれを押し止どめた。感情に流されて行動に移してはいけない。今、ここで告白してもし駄目ならどうする。そのまま日本へ帰国するか。それでお前は良いだろう。だけどルカはどうなる。今マリアが言ったじゃないか彼らが今まで見たことないくらいルカは幸せだって。
(それじゃ僕は一体どうしたらいいんだ)
慌てずゆっくりいけばいいさ。時間なら十分ある。まずは彼女のことをもっとよく知ることが先だろう。君は彼女の何を知っているんだい。
「マリアはここボラカイで生まれ育ったの」
「ええ、そうよ。ここで生まれてここで育った。生まれて二十六年間ボラカイを出たことがないの。隣のカリボまでボートでもすぐなのにそこにも行ったことない」
恥ずかしそうに微笑むマリア。
「僕もそうだよ。今回フィリピンに来るまでずっと東京で育った」
海から吹く風がマリアの柔らかい長い髪をふわっと押し上げた。 礼央の方をじっと見つめるマリア。
「君はメイドの仕事をどれくらいしているの」
「ルカが生まれて二年程経って今の旦那様の所に雇ってもらうことになったの。ここボラカイで幅広く不動産を手がけている人でね。メイドの仕事は楽しいかと言われるとそうは思わないわ。私もできれば他の仕事ができたらと思う。だけど学校も出ていない私に仕事を選ぶ権利なんてないし、生きていくため、ルカを育てる為にはどんな仕事でもしないとね。今の旦那様にはちょうどルカと同じ歳の息子さんがいらっしゃるのよ。私が一生働いても買い与えられないくらいのものを旦那様が息子さんに買い与えられて、すぐにそれに飽きては次のものを買ってもらうのよ。そのお古でいいからルカに持って帰ってあげれたらどんなに喜ぶだろうといつも思うんだけど、メイドの私がそんなこと聞くこともできないし。この前ね、旦那様が息子さんに子供用のギターを買ってきてあげたのよ。その時私あーもし私もルカにギターを買ってあげることができたらあの子どんなに喜ぶだろうなってそんなこと考えてたら悲しくなってきて」
そう言ってマリアはそっと瞳に光るものを手で拭いた。
「ごめんなさいね。突然こんな話をして。あなたとなら何でも話せるような気がして。今日の私はどうかしてるわ。楽しいパーティーのはずなのにね」
マリアは下を向き、自分の長い髪の毛を後ろに上げると少し赤くなった瞳で微笑みかけた。
「私、あなたとルカのギターのレッスンを見るのがとても好きよ。あなたのギターの演奏を聞いているとなんだかほっとするの」
礼央を見つめるマリアの瞳はとても魅力的だった。そして彼はこれほどまで彼女と一緒になれればどれだけ幸せだろうかと思ったことはなかった。
「ありがとう、マリア。僕もね、今自分が流されてきたこの場所に驚きを隠せないんだ。まさか自分が大好きなギターを教える仕事に就けるなんて思ってもみなかった。少なくとも僕のいる日本ではそれは考えられなかったことなんだ。それに君に出会うこともできたし」
礼央とマリアの間に少しの沈黙が流れた。しばらくしてマリアが優しく微笑みながら「私もよ」と静かな声でつぶやいた。
だけどそれは波の音に消されて礼央の耳には届かなかった。
パーティーが行われている場所に二人が戻った時には既にたくさんの人達が来ていて、大人達は食べ物をつまみ、飲み物を飲みながら談笑していた。そして子供達は海辺で走りまわっていた。ルカを除いては。
ルカはグロリアと一緒に来た人たちに食べ物をよそっていた。小さな身体で大きなお皿を持って必死に頑張るルカは実際よりも大きく見えた。
マリアは食べ物をよそう側に移動しグロリアを手伝った。礼央も手伝うと尋ねてみたがあなたはお客様だからということで却下され、その代わりにグロリアの料理したチキン・グリルとシシグと白いご飯を盛ったお皿を渡された。それを受け取るとマリア達とフィリップくらいしか知り合いのいない彼は行き場を失いお皿を持ってその辺をうろうろするしかなかった。
ちょうどその時他のグループと談笑しているノエル牧師の姿を見つけた。彼も礼央の方を向くと即座にこちらに歩いて来た。まるで最初から礼央がそこに来ることを悟っていたように。
しかし礼央は先ほどの光景を目にして以来ノエルに対して少しだけ敵対意識が芽生えていた。
「礼央、フィリップ校長が君のことをとても買っていてね。君がここに来て以来しょっちゅう君の話題が出てたんだよ。だから僕も今日君にようやく出会えてうれしいよ」
礼央の心の内など知る由もないノエルがとても友好的に、まるで休戦を申し出るように礼央に笑顔で話かけてきた。
彼もそれにどう答えていいのかわからずただただ笑顔でそれに答えた。
「僕達の島に君のような才能のある若者に来てもらえて本当にうれしいよ。さっきマリアも君のギターの演奏がどれほど彼女をリラックスさせてくれるか話していたところだったんだよ」
礼央の額が少しヒクッと上に動いた。
ノエルはそれを感じ取ったのか感じ取らなかったのかはわからなかったがそのまま話を続けた
「礼央はワーシップミュージックって聞いたことあるかな」
(ワーシップミュージック?)
「ワーシップミュージックっていうのは教会にいる皆で歌を歌って神様を賛美しようっていう音楽なんだけど、まぁ現代版賛美歌みたいなものかな。ロックンロールで使われるようなエレキギターやドラム、キーボードを使って演奏するから本来クリスチャンじゃない多くの人が持っている教会の重々しい雰囲気は全くないんだけどね」
礼央はそれが一体どんな音楽なのか想像もできなかった。
「僕の妻のアンジェラが今教会のワーシップリーダーをしていて、毎週日曜日に教会で歌う曲の選曲からアレンジなんかをやっているんだけど、一人じゃなかなか大変でね。もし良かったら礼央にもワーシップバンドに参加してもらえたらなと思って」
突然のことだったのでノエルが言ったことを理解するのに少し時間がかかった。
「僕なんかがそんな大役務まるかな」
不安そうに彼はノエルに尋ねた。
「心配はいらないよ。フィリップが言ってたよ。君には特別な才能があるって。生まれつき音楽の才能に長けたフィリピン人が言っているんだから間違いないよ」
「ありがとう、ノエル牧師。そう言ってもらえるとちょっと自信が出てきました。僕がどれだけできるかわからないけど、迷惑にならないようにお手伝いさせてもらうよ」
礼央は照れくさそうに微笑んだ。
「こちらこそ引き受けてくれてありがとう。それじゃ早速来週の日曜日からステージに立ってもらえるかな。明日、もし時間あったら朝から教会に来て下さいよ。今日来れなかったアンジェラにも紹介したいし。今日もね、本当は来る予定だったんだけど娘が朝から熱を出してしまってね」
「娘さん、大丈夫ですか」
「いや、たいしたことないんだよ。ちょっと熱があるだけなんだけど、パーティーに来て他の子達にうつしても駄目だしね」
「ノエル牧師は結婚されているんですね」
「今年で十年目。ボラカイに移住してきて十年。あっと言う間だったな」
ノエルは目の前に見えるマリンブルーの海のずっと向こうの方をじっと見つめた。もしかしたら彼にしか見えない何かを彼は見ていたのかもしれない。
「アンジェラとは幼馴染というか同じ屋根の下で育った血の繋がっていない兄妹みたいなものなんだ。彼女は孤児でね。僕が八歳の時にうちに来たんだ。僕の父親はマニラで僕と同じ牧師だったんだよ。アンジェラとは昼も夜も一緒の仲良し兄妹だったんだけど、十代半ばになるとね今まで二人が感じたことがないそれ以上の感情が出てきたんだ。もちろん両親にはそんなこと言えるわけなかったし、長い間二人の秘密だったんだよ。実は両親もうすうすは気づいていたみたいだったんだけどね。僕が二十歳になった時に勇気を振り絞って両親に告白した。勘当されると思ったけど両親は逆にすごく喜んでくれてね。血の繋がっていない二人が同じ屋根の下で暮らしてそうなるのは自然なことだよってね。それで父親の教会で結婚式をあげて、僕は父親の教会で未熟ながらも牧師活動を始めたんだ」
そこまで言うとノエルはふーっと息を吐くと空を見上げた。
「それからすぐだったな。父親がウガンダに三ヶ月の予定で伝道活動に行ったんだ。そこでね内戦に巻き込まれて銃弾を受けて左足を切断しなければいけなかったんだ。そこでフィリピンまで帰ってきたらよかったのにね。アフリカの子供達に希望を与えなければいけないって、そのままそこに居座って今度はウガンダのある村で子供達に英語を教えている時にゲリラに襲われて村人皆殺し。そこで父親も一緒に」
ノエルの方をじっと見つめる礼央。
「その直後に現場に足を運んだジャーナリストの記事を後で読んだんだけどそれはもう本当に残酷でね。言わずとしれた村は血の海。ゲリラはそこの子供達の首をノコギリか何かで切断してそれらをまるで見せしめのように村にある小さな教会の前に並べて去って行ったんだ。『この世に正義なんて存在しない』っていう文字を残して。父親がアフリカの希望を託して英語を教えたその子供達のだよ。イエス・キリストの慈悲もあったもんじゃない。その時ばかりは僕は神を憎んだよ。なぜ、あなたは父親にそして僕達にこんな仕打ちをしたんですかって。父親は常にあなたの教えを忠実に伝えてきたのに」
ノエルは少し語気を強めた。
「母親はそのショックで寝込んでしまってね、そのまますぐ父親の後を追うように天に召された。僕とアンジェラも何とかショックから立ち直って父親の教会を立ち直らせようとしたよ。だけどそれは神様が僕達に与えてくれた使命じゃなかったんだね。信者の人が一人また一人と去っていってね。最終的には教会から誰もいなくなったんだ。僕達は毎日祈ったよ。神様のお告げだったのかもしれないね、それから間もなくここボラカイ島にやってきて今の教会を始めたんだ。まだ右も左もわからない状態で手探りだった僕達の教会に一番最初に足を運んでくれたのがグロリアとマリアなんだ。マリアはまだ十代半ばだったかな。二人はこの土地に慣れない僕達を本当によく面倒をみてくれた。グロリアは自分の仕事とマリアを育てないといけなかったのにいつも僕達のことを気にかけてくれてね。だから僕達にとってはグロリアはボラカイ島の母さんでマリアは小さな妹みたいなものなんだ。二人は僕達にとってかけがえのない存在。家族みたいなものなんだ」
ノエルは足を三角にして体育座りをすると肘をひざにつき、礼央の方を見た。
礼央なんかが想像もできないくらい悲しい過去を背負ったノエル牧師。それでも諦めることなく常に前を向いて必死に生きている。 その横に座っている自分がとても小さなもののように感じた。
「父親がね、僕に常に教えてくれたことがあるんだ。『希望は捨ててはいけないよ。それは神様が皆に平等に与えてくれた贈り物なんだ』って」
ノエルは目を輝かせた。その瞳にぐっと引き込まれる礼央。
「長々と話をしちゃったね。君は何か人の心を優しく開くことができるみたいだね。話を聞いてくれてありがとう。そろそろ向こうでグロリア達を手伝ってくるよ」
ノエルはひょいと立ち上がってその場に座っている礼央を置いて歩き出した。そして二、三歩歩いた所でふと思い出したかのように礼央の方を振り返った。
「そうそう、礼央。僕とマリアのことなら何も心配しなくていいよ。彼女は僕にとっては可愛い妹みたいなものだからね」
いたずらっぽく笑うとさっきと同じように礼央にパチンとウィンクし、また向こうへ歩き出した。
自分の自慰行為を除かれたような穴の中に飛び込んでしまいたい恥ずかしさが礼央の身体中を駆け巡った。頬が赤くほてっていくのがわかる。
さすが、神に仕える者。やはりバレてた。
改めて自分の愚かさ、そして今まで社会と両親の言われるがままに何の疑問も持たず従ってきた自分に腹がたった。
彼らは明日どうなるのかわからない生活をずっとしてきた。それでもいつも希望があり、それが彼らの生きるエネルギーとなり、いずれはそれが大きな力となるのかもしれない。
礼央が立っていた荒野が激しく揺れ出した。そしてそれは大きな音をたてて崩れ出した。彼は遥か向こうに見える光に向かって走った。
彼は今ようやく束縛と言う長い滑走路から飛び立とうとしていた。果てしない大空に向かって。これからは自分の力で舵をきらなければならない。これから先の人生、そしてマリアのこと。いよいよ過去の自分と決別する時が来たのかもしれない。弱虫の礼央、NOと言えない礼央、そして母親の操り人形だった礼央。大空に飛び立った彼には力が漲っていた。今まで眠っていたスリーピング・ジャイアントが目を覚ましたかのような大きな力が。
ズボンの尻についた砂を振り払った彼は何だか新しい自分になったような気がした。そしてその新しい一歩を力強く踏み出した。
ちょうど皆の所に戻った時、ルカが左手にギターを握りしめて礼央を待っていた。
「礼央、これから皆で歌うんだ」
ルカは興奮を隠せない表情で握っていたギターを礼央に手渡した。横にいたノエルが「これが楽譜。君のワーシップデビューだ」
(もう自分に嘘はつかない。これが僕のしたかったことじゃないか。こうやって多くの機会を与えてもらっている。もう怯えない)
礼央はギターと楽譜を受け取るとさっと楽譜を一読した。
「アメージング・グレース」
シンプルなコード進行だったので流れは覚えた。ギターストラップを肩にかけ、素早くギターのチューニングをした。前には皆が待っている。彼らの興奮が礼央にも痛い程伝わる。大きく深呼吸をするとゆっくりと右腕をギターのボディのところまで持っていき、コードを奏でた。
アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
皆の声と礼央のギターが大きなハーモニーとなり、希望という光が降り注いだ。そして今それがはっきり何であるか分かった。
まるで自分が夢の中にいる様だった。何かに身体を持ち上げてもらったようなふわふわした気持ち、赤ん坊が母親の胸に抱かれるような安心感が礼央を包む。
ボラカイ島の海、緑そして人々にアメージング・グレースが響き渡る。
「その光の導く方へ胸を張って歩いて行け」
この前、拓が電話口で礼央に伝えてくれたことが自分と一体化した。確実に光の導く方へ歩いている。そして今その暗闇を抜け出した。長かったトンネル。もうあそこには戻らない。
歌い終わった後、礼央はとても満たされた気持ちになった。ルカが彼に飛びついた。その後人々が周りに集まってきた。その一番後ろにマリアが立っていた。ゆっくりと礼央の所までくると強く抱擁した。そこに礼央は彼女の愛を感じた。
ホワイトビーチの向こうに太陽が沈みかけてきた。辺り一面が昼間のブルーからオレンジに変わっていく。海の向こうに見える大きな夕日。それを眺める礼央とマリア。寄り添う二人。彼は彼女の腰に手を回しぎゅっと抱き寄せた。そっと礼央の肩に自分の頭を載せるマリア。今二人の間に言葉は必要なかった。こうしていることでお互いすべてを分かりあえているような気がした。少し向こうの方でパーティーを楽しんでいる人たちの声がまるで遠い外国から聞えてくるようにおぼろげに二人の耳に届いた。
「私、今まで味わったことのない幸せでいっぱいよ。ルカを育てることに精一杯でこんな気持ちが自分の中にあることを忘れていたわ」
マリアはそう言って礼央の頬を優しくさわった。
「僕も同じだよ。こんな幸せがあるなんて思ってもみなかった。何だか夢の中にいるみたいだよ。今まで口にするのも恥ずかしかったことが今なら言える気がする。君と初めて出会って以来君のことが頭から離れないんだ。こんな気持ちになったのは初めてだよ。今それが何か自信を持って言える。マリア、僕は君のことを愛しているよ」
勇気を振り絞ってそこまで言うと震える自分の身体を抑えゆっくりとマリアにキスをした。彼の唇は震えていた。それを優しく受け入れるマリアの唇。彼女の柔らかい唇が礼央に優しく被さった。マリアの口から甘い香りが礼央に伝わる。生まれて今まで彼女がいなかった彼にとって当たり前だがこれが初キスだった。
しばらくの間二人は唇が重なり合ったまま、まるで一つの美しい彫刻のようにオレンジ色に染まったビーチの上で夕日に照らされていた。
唇を離すとマリアは恥ずかしそうにはにかんだ。
礼央はマリアにいろいろ聞きたかった。どのような子供時代を過ごしてきたのか、そしてルカの父親は誰なのか。それを知ることは彼にとって恐ろしいことだった。だけどこれから彼女と一緒に生きていく(であろう)彼にとってそれは知っておかなければいけないことだった。
マリアはボラカイ島のホワイトビーチ沿いにある観光者向けのナイトバーでウェイトレスをしていた頃にミュージシャンだったルカの父親と出会った。彼は金曜日と土曜日になると決まってそこに演奏に来ていた。ボラカイの夜の世界で彼はチャーリーと呼ばれていた。もちろんそれはエレキギターの元祖チャーリー・クリスチャンからとったもので、彼は自分は悪魔に魂を売ってその見返りにギターのテクニックをもらったと豪語していた。彼のギターは確かに並外れていた。彼の演奏をみた女性達の多くが演奏中に脳天にまで電流が走るようなオーガズムを迎え、彼の魅力にとりつかれた。その場で失神してしまう女性もいた。彼女達の大半は休暇に来ていた開放感たっぷりの西洋人女性だった。そして決まってその夜、彼の餌食になるのだった。
しかし処女であり、そういうことに全く興味のなかったマリアにとってなぜ彼がそんなに女性にもてるのかわかるはずもなかった。 それ以上に知りたいとも思わなかった。彼とは常に距離を置くようにしていた。チャーリーはそのバーで他の誰よりも人目を引いた彼女の事が気になって仕方なかった。頻繁に彼女に声をかけたが、いつも無視されていた。彼の誘いは日々エスカレートしていき、挙句の果てにそこのオーナーにマリアとの間を取り繕ってくれ、さもないとここで演奏はしないと言う始末だった。彼目当ての客を失いたく無かったオーナーはマリアをほぼ強制的に仕事後に彼とデートするよう命令した。仕事を失いたくなかったマリアに選択肢があるはずもなく、嫌々ながらある晩の仕事が終わった後に二人でそのバーでデートをすることになった。気さくを演じる彼だったがマリアにとっては苦痛でしかなかった。彼は諦めることなくほぼ無理やり彼女に酒を飲ませた。オーナーが目の前で見ていた手前、彼女もそれを断ることができずにしぶしぶそれを飲んだ。チャーリーは多分バーテンダーに言って彼女のスクリュードライバーにはウオッカを多めに入れておかせたのだろう、二杯目を飲み終えた彼女の頭はほんわりと心地良い気分になった。それを見て彼は彼女にビーチまで行こうと誘った。とろんとした目をしたマリアは言われるがままに彼について行った。二人はビーチに座って寄り添い、彼は彼女のうなじに優しくキスをした。彼は拒む彼女の太ももを乱暴にさわると、嫌がる彼女を夜の静まりかえったビーチに押し倒した。恐怖のあまり口も聞けない彼女の服を無理やり剥ぎ取った。そしてブラジャーを乱暴にたくし上げると乳首がピンと張った綺麗な二つの乳房が露になり、それは彼を一層興奮させた。彼女の二つの綺麗な乳房を乱暴にむしゃぼりつき、彼女の純粋で汚れのない身体を念入りに弄り回し、そのまま抵抗する彼女を力で押し付け、恐怖と羞恥心で動くことができなかった彼女の中に無理やり入っていった。犯されている彼女は屈辱とやるせなさで顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。そしてその一夜限りの過ちで彼女はルカを身ごもった。敬虔なクリスチャンのグロリアはその事実にショックを受け、娘にそのバーでの仕事をすぐに止めさせた。マリアが子供を身ごもったという事実が面倒くさくなったチャーリーはすぐにボラカイ島を去り、香港のナイトクラブに職を求めて行ってしまった。それ以来ボラカイでは誰一人としてチャーリーの姿を見た者はいなかった。
そんな彼女にとって一人息子のルカは彼女の生きがいであり、彼をチャーリーのような責任のない人間ではなくきちんと良識を持った男性に育てるというのが彼女の使命になっていた。だけどルカは小さな頃から友達がいなく、常に家に閉じこもり気味だった。小学校に行くようになってからも引っ込み思案な正確と父親のいない劣等感から誰とも馴染もうともせず常に一人きりだった。
マリアはとても正確に真実を礼央に伝えた。もちろんそれは聞いていて気持ちのいいものではなかった。それは彼を腹の下がきゅっと絞まり脳天をピストルで打ち抜かれたような気分にさせた。だが、今の彼にはそれに立ち向かうだけの勇気が備わっていた。事実を事実として受け止め、ありのままのマリアを受け入れる。
まるで水彩画のようなオレンジ色の夕日の半分が海の向こうから顔を出している。そしてそれは止まることなくゆっくりと西の空に沈んでいく。
静かな波の音とともに束の間の静寂が辺りを包む。
その時だった、突然後ろで頭の上に岩でも落ちてきたような重い言葉のパンチが飛んできたのは。
「礼央!」
静寂を無残に切り割く尖った声。
聞き覚えのあるその声は礼央をぞっとさせた。ここに居るべきではない人の声が今彼の後ろから聞えてくる。恐る恐る声の聞こえる方を向いた。
そこには怒りで身体中を覆われた母親、幸恵の姿があった。
息子を見つけた安心感と息子への怒りが混じった幸恵は礼央の所まで大股で歩いてくると彼に大きく平手打ちをした。パチンという突き抜けるような音が辺りに響いた。
「やっと見つけたわ、この親不孝者が」
怒りが治まらない幸恵は息子の頬を何度も何度もひっぱたいた。その度にパチンという音が響き渡る。
そこにいる幸恵はまるで別人のようだった。
突然のことで自分の今おかれている立場を把握しきれていない礼央の脳は一時停止状態で、幸恵にひっぱたかれるままだった。
「お前って子は自分を何様だと思っているの。自分一人で育ったような顔をして。冗談じゃないわ」
そして幸恵は厳しい目つきでマリアを見た。その迫力にマリアはまるで森の中で大熊にでも出くわしたかのように萎縮した表情で縮こまった。
「この女があんたをたらしこめてる子持ちのあばずれね」
礼央は未だかつてこんなにも自分を見失い怒りに満ちた母親を見たことがなかった。幸恵の怒りは治まることなく容赦ない悪態を礼央とマリアに向けた。日本語のわからないマリアは恐怖で顔が硬直しその場に沈み込んでしまった。
騒ぎを聞きつけたグロリアとフィリップが慌ててこちらにやってきた。
グロリアが幸恵の側まで行き、必死に幸恵をなだめようとする。
「私達をほうっておいてちょうだい。これは私達家族の問題なんだから。他人は入ってこないで」
流暢な英語で幸恵はグロリアを一喝した。
だけどそれに臆することないグロリアは彼女の肩をとった。
「あなたはとても今混乱しているわ。さぁ落ち着いてここに座りましょう」
グロリアの優しい言葉で幸恵は少し落ち着きを取り戻るとビーチに座り込みまるで赤ん坊が母親の中から出てきた時のように大声で泣き崩れた。
それをじっと見つめる礼央とマリア。そしてグロリアは優しく幸恵の肩をさすった。幸恵が落ち着くまでグロリアはゆっくりと彼女の肩をさすり、その場にいたフィリップに水を一杯彼女に持ってくるように頼んだ。
水を一気に飲み干した幸恵はまたいくらか落ち着きを取り戻すとグロリアの手を乱暴に振りほどき勢いよく立ちあがり礼央の手をとった。
「礼央、あなたはこんな所にいるべきじゃないの。わかるでしょ。さぁ母さんと一緒に日本に帰りましょう」
日本語だったのでそこにいる人達には彼女が何を言っているのか理解できなかったがグロリアだけは何となくそれがわかったみたいに目を落とすとマリアを自分の方にぎゅっと抱き寄せた。
「母さん、僕は日本へは帰らないよ。電話で言ったじゃないか」
「何を馬鹿なことばかり言ってるの。そんなこと父さんも母さんも許すわけないでしょ。いい、今のあなたの言っていることは逃げなのよ。厳しい就職活動に耐えられなくなったんじゃないの。この苦しみの向こうには明るい未来が待っているのがわからないの」
「違うよ、母さん。これは逃げなんかじゃない。日本で大企業に就職して何が得られるっていうんだよ。父さんみたいな人生を僕にも送れっていうつもりなの」
「父さんの人生の何がいけないっていうの。あなたをここまで立派に育ててくれて私達は何不自由なく生活できる。今まであなたに何かひもじい思いをさせたことある。よく考えなさい。あなたがここに留まってどんな豊かな生活が送れるっていうの。観光客がここにきてここの周りにある素敵なホテルに宿泊して休暇を満喫しているのを横から指を加えて見ることになるのがオチよ。私の言ってることわかる」
「母さん、それは違うよ。僕達日本人は物質的にはとても豊かだと思うよ。じゃなぜ毎年自殺する人が後を絶たないんだよ。心がプレッシャーで病んでいる人が多いんだよ。僕も今までは母さんと父さんの言う通りに良い高校に入る為、良い大学に入る為に一生懸命勉強してきたよ。だけど僕分かったんだ。それじゃ現在を楽しむことができないって。先のことばかりに囚われて現在この場にあるものが見えないんだよ。この綺麗な海や島が見えないんだよ」
礼央は自然とあふれ出す涙を止めることができずに何度も自分の腕でそれを拭った。
マリアはそんな礼央の所に今すぐにいって抱きしめてあげたかった。だけど夢の中で何か怖い物から逃げる時によくあるように足が麻痺して言うことを聞かなかった。礼央と彼の母親の間に自分が今入ることは許されないともう一人のマリアが押し留めていたのかもしれない。
「とにかく、あなたの言い分は帰国した時に聞くわ。母さんも今到着したばかりで今すぐまた帰国するのも大変だし、せっかくだから二、三日ここで滞在させてもらうわ。とにかくあなたが無事だったってことがわかって安心した。今夜は疲れたしもう休むわ。明日私の宿泊しているここのホテルで一緒に朝食をとりましょう」幸恵は後ろに見える五つ星ホテルを指した。
そして彼女は去り際にふとグロリアと目があうと「取り乱して悪かったわね。お水をありがとう」と言い残し自分のホテルの方へ歩いて行った。
彼女の後ろ姿をじっと見つめる礼央、マリアそしてグロリア。ちょうど辺りのホテルが電灯を灯し始めたボラカイの夜。ホテルから賑やかな観光客達の騒ぎ声が聞えてきた。
6
翌朝、礼央は母親とホテルのロビーで会うとホテルの外で朝食をとろうと予め待たせてあったトライシクルに乗った。
黙ってトライシクルに乗る二人。聞えるのはトライシクルのけたたましいエンジンの音。二人はメイン通りを北西に向かった。到着した場所にはお粗末なトタン屋根の小さな家が一件立っていた。家の中からグロリアとマリアが出てきた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
グロリアは二人を家の中に案内した。
家の中は香ばしいガーリックの匂いがした。そしてダイニングテーブルにはふんだんにマンゴー、スイカそしてオレンジが盛られたボウルが中央に置いてあり、その周りには人数分のお皿が並べられていた。
幸恵は驚きと昨夜のグロリアへの罪悪感で居心地の悪さを感じたがそのことなど全く気にした素振りのないグロリアが昨夜と同様優しく幸恵をテーブルの所までエスコートした。
家の奥から眠そうな顔をしたルカが出てきた。礼央を見るなり表情が変わると彼に抱きついた。礼央もルカの頭を優しくなでた。
その様子をじっと見つめる幸恵。
グロリアが炊事場より出来たてのガーリックライスと甘い香りのする赤いソーセージを盛った皿を持ってきた。それを人数分のお皿に盛ると五人は食べ始めた。
しばらく黙って食事を続ける五人。
「昨夜はよく眠れましたか」グロリアは幸恵に尋ねた。
「ええ、お陰様で」表情を変えずに幸恵は答えた。
顔を見合わせる礼央とマリア。
食事中に交わした会話はそれだけだった。食べ終わったお皿をマリアは炊事場の方に持って行った。礼央はマリアを手伝う為に席を立った。ルカは黙って自分のお皿にのった残りのスイカを食べていた。
「母さん、ちょっと僕これから二時間くらいだけマリアとルカと出かけてくるよ。大丈夫どこへ逃げたりもしないよ。終わったらちゃんとここに戻ってくるから。僕達がいない間、グロリアが母さんの世話をしてくれるから」
何を馬鹿なことを言い出すのと大きな目を更に大きく見開けた幸恵が驚いたような怒ったような顔で息子を見た。
そんな母親を見ないふりをして礼央はマリアとルカと出ていった。
三人はノエルの教会に行くのだったが、それを彼は母親には言わなかった。
グロリアと二人取り残された幸恵。彼女はにこにこした顔で幸恵の方を見ている。まるで本当の幸恵の姿を見透かしたように。
「ユキエ、コーヒー ハ イカガデスカ」
ぎこちない日本語でグロリアは尋ねた。
彼女は日本語が分かる。
幸恵は昨夜取り乱して今思い出しても自分を責めきれないような悪態をついた自分への罪悪感に襲われた。娘をああいうふうに言われた母親の気持ち。
まともにグロリアの顔を見ることができなかった幸恵はうんとだけうなずくと下を向いた。
香ばしい匂いと共にグロリアがコーヒーを持って戻ってきた。それを下を向いている幸恵の前に静かに置いた。
「チョットマッテイテクダサイ」
グロリアはそう言い残し奥の部屋に入って行った。コーヒーを一口啜った幸恵は彼女の後ろ姿をじっと見つめた。
しんと静まりかえった部屋に幸恵はぽつんと座っていた。彼女の座っている後ろの窓から眩しい朝日が差し込みコーヒーがキラキラと輝いていた。奥でごそごそと何かを取り出す音が聞こえてきた。
しばらくしてグロリアが古ぼけたこげ茶色をしたポケットサイズの本を持って戻ってきた。ページは黄色く変色していたがきちんと手入れされているのかカバーにはホコリ一つ積もっていなかった。グロリアは幸恵の隣に座るとその本を幸恵の前に置いた。
日本語で「新約聖書」と書かれたその下に「The New Testament」と表紙に書かれていた。
幸恵はその本から視線をグロリアに移した。にこやかな顔で見つめるグロリア。朝日が彼女に降り注ぐ。そしてゆっくりと話し出した。
「これはね私の母の形見なの」
彼女は大事そうにその「新約聖書」を手にとると懐かしそうな目をしてまた話を続けた。
「私の母親のグレースはミンダナオ島のダバオで生まれたの。あれは一九四四年のちょうど今頃の時期ね。ちょうど彼女が二十歳の誕生日を迎えた次の日にね彼女の母親に頼まれて近くまで買い物に出かけた時にね数人の日本軍に捕まって拉致されたの」
幸恵は「日本軍」と聞いた時にどす黒いどろっとした液体が身体の中に入ってくるのを感じた。それは呼吸をするのも困難にした。
グレースは一九四四年の八月、母親に頼まれて近くの商店に米を買いに来ていた。小さな身体だった彼女にとって十キロの米を担いで帰ることは容易なことではなかった。太陽が容赦なくグレースを照りつけた八月の昼下がり、額には汗が噴出し、着ていた服は汗でびっしょりだった。後自宅まで五十メートルくらいの人通りの少ない道で三人の日本兵に出くわした。痩せたのっぽ一人とチビ二人。顔は皆真っ黒に日焼けしていた。彼女を見ると三人はにやっとした顔でお互いを見つめるとグレースの所まで駆け足でやって来ると、のっぽの兵隊がグレースをひょいと持ち上げた。米袋は破れそこら中に白米が散らばった。三人は彼女を近くの小さな納屋まで連れて行き彼女を真っ裸にすると順番にレイプした。たばこ臭い生暖かい彼らの息が彼女の顔にかかった。それは時間にして二十分くらいだったが彼女にとっては永遠のように感じられた。
その後、彼女はダバオの慰安所の一つに送られた。そこには十人強の慰安婦が収容されていた。フィリピン女性の他に中国人と朝鮮人の女性もいた。一番若かったのはフィリピン人の女の子で十三歳だった。昼間は洗濯などをさせられ、夜になると毎晩数人の日本兵にレイプされた。グレースは毎日神にお祈りをした。
なぜあなたは私達をこのような場所に連れて来なければいけなかったのですか。
毎日お粗末な食事を出されたが精神的ダメージでそれは喉を通らなかった。ちょうど彼女がここにやってきて三日目、グレースの隣の部屋でレイプされていた十三歳の女の子が亡くなった。その後も夜になるとレイプされる日々が続いた。グレースを含め残った女性達は身も心もずたずたに切り裂かれていた。彼女は心の底から神に助けを求めた。だけど祈れぞ祈れぞ彼女達を救うメサイアは現れなかった。それでも彼女は毎晩祈り続けた。
ここに来てちょうど七日目の夜、グレースの部屋にやってきた日本兵はぎらぎらした目をしたどす黒い顔をした大男だった。タバコのヤニと泥で真っ黒になった手でグレースの着ているものを乱暴に剥ぐと両手で彼女の二つの乳房を揉みたぐった。グレースは恐怖のあまり動くことすらできなかった。そして心の中では必死に神に助けを求めていた。度が過ぎた恐怖が襲い彼女は失禁した。そしてそれに興奮した大男は彼女を乱暴に床に倒すと彼女の上に乗った。上から見下ろすその大男は悪魔のような顔をしていた。今にも食べてしまいそうな荒い息が彼女の身体に吹き付けられる。それは吐き気をもよおすほどの臭い息だった。彼女は耐え切れずに目を閉じた。はぁはぁという臭い息がだんだんと彼女の近くに寄ってきた。そしてその汚い手でグレースの前髪を持ち上げた。大男はもう彼女の目の前まで迫っていた。
「神様、どうか私を助けて下さい」
それは心の底からの悲痛の叫びだった。その声は慰安所の外に響く程の大きな声だった。その声に驚いた大男は自分の顔をグレースから少し遠ざけた。
「このアマが、ふざけたことしやがって」
大男はグレースの頬を思いっきりぶった。そしてもう一度ぶとうと右手を挙げたその時、後ろから誰かが大男の腕を静止させた。恐る恐る目を開けるグレース。そこには大男の右手を制する一人の日本兵の姿があった。
その日本兵は大男を彼女から引き離すと彼を床に倒し、持っていた小銃で何度か殴った。
「田中、お前今自分のしていることがわかっているのか」
大男は田中と呼ばれる日本兵に吼えた。大男の鼻からは大量の血が流れ出ていた。
それを聞こえなかったかのように田中はグレースの所までくると彼女に服を着せ、手を掴むと建物の外に走って連れ出した。二人は慰安所の灯りが見えなくなるまで暗闇の中を走った。どれだけ走っただろうか、しばらくして田中は足を止めると彼女の方を向いた。
「マイネーム イズ ケンジ」
たどたどしい英語で彼は言った。
「あなたは神を信じているんですね」彼は少し嬉しそうに彼女に聞いた。
「ここから逃げなさい。これがあなたを守ってくれるはずです」
ケンジは軍服のズボンのポケットからこげ茶色の新約聖書を取り出すとグレースに手渡した。それを受け取るグレース。二人の手が重なった。
彼は彼女の目を見て軽くうなずくとまた大急ぎで向こうまで走って行った。
その後のことはグレースはよく覚えていない。暗闇の中を必死に南へ走ったのは覚えている。次に気がついた時に彼女は自分の家の前にいた。ちょうど空がうっすらと青みのかかってきた夜明け前だった。辺りはしんと静まりかえっていた。
自分の母親の話をし終えたグロリアは泣いていた。その美しい涙がケンジの新約聖書にぽとっと落ちた。
「この聖書が母を守ってくれたんです」
グロリアはその中から四つ折になった紙切れを取り出した。
「聖書の中に一枚の手紙が入っていたんです。だけど日本語で書かれていて母も何て書いてあるのか読めませんでした。この手紙を読めるようになる為に私は独学で日本語を勉強しました。だけど、日本語は難しいですね。それでも読めません。幸恵、どうか私と母の為にこれを呼んで英訳してもらえませんでしょうか」
そう言って頭を下げるとその手紙を幸恵に渡した。それを受け取った幸恵は手紙を開いた。ところどころが黄色ががったその紙には綺麗な字でケンジの家族に宛てた手紙が書かれてあった。
お父さん、お母さん、さっちゃんへ
お元気ですか。日本はちょうど真夏の暑い時期ですね。早いものでフィリピンに来て八ヶ月が経とうとしています。九州の夏も暑いですがこちらはそれ以上に味わったことのない暑い日々が続いています。
フィリピンの北の島々ではだんだんと米軍の進行が強まりつつあると聞いていますが、私のいるミンダナオ島はまだその気配もなく緊張した日々は続いていますが、まだゆったりとした時間が流れているように感じます。ただいつ何時ここでも戦闘が始まるのかわからないのが戦争。いつも手紙を書く時にこれが最後になるのではないかという気持ちになり、書く手にも力がこもります。
そうそう今日従兄の正男兄さんに会いました。レイテ島に移動になったとのことです。あちらは米軍の攻撃も激しくなってきて多数の戦死者が出ているという情報を聞いています。正男兄さんがもしかするともう会えなくなるかもしれないから皆さんに宜しく伝えておいてほしいということです。身近な人が最前線に移動していくのは身の詰まる思いですが明日はわが身です。
今日、軍が製油を作るのに必要な椰子の実採集の為に僕と同い年のフィリピン人男性を雇いました。日本語がほとんど話せないので彼と英語で話をしました。戦争が始まってここ長らく英会話を勉強していなかったので少し錆付いていましたが話をするにつれて油を注いだようにすらすらと話すことができました。久々に英語を話せて胸が踊りました。軍人相手に彼も緊張していたのか、なかなか打ち解けてくれなかったのですが僕がちょっと英語を話したことで緊張がほぐれたみたいでした。彼は日本がフィリピンをアメリカから独立させてくれてとても感謝している。だけどこの戦争が続いている限り本当の自由というのはまだまだ先のことかもしれないけど、フィリピンが独立するまで全力で国の為に働きたいと言っていました。愛国心というものは国は違えど皆同じなんだなとしみじみ思った瞬間でした。
私も日本男児として家族の為そしてお国の為に命を捧げる覚悟であります。そしていつの日かまた昔のように平和な時代がやってきてお父さん、お母さんそしてさっちゃんが安心して暮らせる日が来ることを願ってやみません。
さっちゃん、もうすぐしたら十二歳の誕生日だね。去年は兄ちゃんがちょうど戦争に行く前日だったから一緒にお祝いできたけど今年はできなくてごめんね。兄ちゃんはみんなが安心して暮らせる国になるように頑張って戦っているからあなたもきちんとお父さんとお母さんの言うことを聞きなさい。もしかしたら兄ちゃんもう一生さっちゃんに会えなくなるかもしれないけど兄ちゃんはいつも空からあなたのことを見守っています。そしていつの日か素敵な男性と結婚して幸せになって下さい。あなたが幸せになってくれることが兄としてこれ以上望むことがない喜びです。
そろそろ夜の見回りに行く時間になったので行きます。
くれぐれも皆さんお身体をご自愛下さい。
健二
幸恵の手紙を持つ手は震えていた。
優しく幸恵の肩をなでるグロリア。そして彼女は今度は「新約聖書」から一枚の白黒の写真を取り出すとそれを手渡した。それを見た幸恵の身体に激しい電流が走った。頭の中が急に目もくらむ光に照らされ前が見えなくなり、その光は目眩さえも引き起こした。
幸恵は会社名を言えば銀行で金も借りることができるといわれる一流商社に勤める父、幸太郎と専業主婦だった母、紗智子の間に生まれた一人娘だった。二人とも九州出身だったが幸太郎は東京大学法学部を卒業し東京の商社に勤務するようになった。裕福な家庭で育った紗智子は九州の女学校を卒業後、花嫁修業に洋裁学校そして料理学校に通い、その後幸太郎とお見合いをして結婚し、彼女も東京に出てきた。
夏のお盆の時期になると決まって二人は幸恵を連れて九州に里帰りした。
あれは幸恵が小学生だった頃、母の実家は築五十年以上経つ木造の大きな家だった。仏壇の置いてあった部屋から縁側に出ることができ、その向こうには綺麗に手入れされた日本庭園が広がりその中には大型ジャグジー程のため池があり、色とりどりの金魚が優雅に泳いでいた。開けっ放しの縁側からは夏の夕方、風鈴の音と共に心地良い風が日本庭園から仏壇の間に入ってきた。幸恵はそこに寝転んで本を読むのが好きだった。紗智子は幸恵に目が悪くなるから電灯の下で読みなさいと言ったけれど、彼女はセミの鳴き声を聞きながら心地よい風が吹き込む夏の夕暮れ、そこで本を読むことを止めることができなかった。紗智子の母、つまり幸恵の祖母がいつもそんな彼女の所に冷たい麦茶を持ってきてくれた。お盆が近くなると仏壇には常に線香がともっていた。幸恵はその匂いが好きだった。 今でもその匂いをかぐと夏の夕暮れの母の実家を思い出す。
そんなある日、幸恵がその仏壇を眺めている時に祖母が入ってきた。
「ねぇ、おばあちゃん、このお兄ちゃんだあれ(誰)」
仏壇の前に飾られている白い制服に白い学生帽を身に付けた男性の白黒写真を指して聞いた。
「この人はね、あなたのお母さんのお兄さんだよ。だからユキちゃんの叔父さんだね。日本が昔アメリカと戦争していた頃にね兵隊さんになってフィリピンっていう国に送られてね、そこで鉄砲玉に当たって亡くなったんだよ」
祖母は細い目を更に細くしながらその写真を眺めながら優しく幸恵に言った。幼かった彼女はそれをふーんという顔で聞いていた。
祖母は続けた。
「健二叔父さんはね、それはもう妹思いの優しい人でね。あなたのお母さんの面倒をよく見てくれたんだよ。英語が好きでね、町の図書館にしょっちゅうあなたのお母さん連れて行ってね、そこで英語のお勉強をしていたんだよ。将来は外交官になりたいってね。でもね、戦争が始まると敵の国の言葉を学ぶことなんて許されなかったから今まで読んでいた叔父さんの英語の本を全部捨てないといけなかったんだ。ユキちゃん、戦争はね幸せな家族をずたずたに切り裂く悪いことだよ。誰も幸せになれない。叔父さんが亡くなった時にね、あなたのお母さんにそのことを伝えるのが本当に辛かったんだよ。今のあなたくらいの年頃だったあなたのお母さんはね必死に涙をこらえてたよ。でもその後自分の部屋でね村中聞えるような声でわんわん泣いてたんだ。おばあちゃんそれが本当に辛くてね。仲の良い兄妹を切り裂いた戦争を憎んだよ。息子を返せってね」
祖母のその声が昨日のことのように幸恵の脳裏を横切った。
その写真には若き頃の祖父母、健二叔父さんそして幼き頃の母、紗智子が彼らの家の縁側を背景に写っていた。
幸恵は頭の中が真っ白になり、金縛りにあったように自由に身体を動かすことができなかった。
(健二叔父さん)
もし叔父さんが生きていたら私のことをどう思ってくれてたんだろう。きっと大好きな妹の娘だから可愛がってくれただろうな。叔父さんにも子供がいたかもしれない。そうしたら私にもいとこがいたんだ。グロリアの母親は叔父さんにここフィリピンで出会っている。でもどうして叔父さんは新約聖書を持っていたんだろう。叔父さんはキリスト教徒だった。いろんなことが幸恵の頭の中をぐるぐる回った。
「さっ、コーヒーを作り直してきましたから飲んで下さい」
グロリアのその声に幸恵ははっと我に返った。
「ありがとうございます」出来立てのコーヒーを一口啜った。それは幸恵を落ち着かせてくれた。
幸恵はグロリアに先ほどの手紙の英訳、そして健二は自分の叔父にあたる人だということ、幼い頃に祖母からそのことを聞いたということを説明した。グロリアは幸恵から一度も目を背けることなく彼女の話を一言も逃さまいと真剣に聞いた。
話が終わった後、グロリアは目じりを熱くさせながら強く幸恵の手を握った。そして自分の席を立つと幸恵を強く抱きしめた。
「ありがとう、神様。あなたが幸恵をここまで連れて来て下さったんですね」
グロリアは幸恵を抱きしめながら天井を見て呟いた。
幸恵は礼央を連れ戻す為にここまでやって来たという事実が薄らいだ。その代わりにこの場にいることが健二叔父さんの導きだったのではということが彼女の心の中に小さな光のようにぽっと灯った。そして今まで赤の他人だった、むしろ憎しみさえ持っていたグロリアに対してまるで遠い昔から知っている親類のような気持ちが湧いてきた幸恵だった。
次の瞬間、ひゅうっと精霊が走り去った後のような風が幸恵の心を横切って行った。それは今まで彼女を覆っていた息子を一流企業に就職させること、物質主義へのこだわりという仮面を剥がし取った。そしてその仮面の下でじっと待ち続けていた本来持っていた他人思いの優しいあの頃の幸恵が現れた。
見つめ合う二人、幸恵は優しくグロリアの肩に両手を載せるとグロリアの目の中をじっとのぞきこんだ。
「私あなたに何てお礼を言っていいのかわからないわ。昨日はあなたにあんなにひどく接したのにそんな私を今朝優しく迎えいれてくれ、それにこんな素敵なサプライズまで、、、」
それ以上は嗚咽で言葉が続かなかった。
父親の仕事の都合で高校時代をアメリカのシカゴで過ごした。日本とは全く違うその国は幸恵に大いなる刺激を与えた。その中でも特に彼女の興味を引いたのはコミュニティーの為のボランティア活動だった。彼女達が当時住んでいたアパートの近くにあった教会が催すそれに幸恵は率先して参加した。そこで老若男女関係なしにいろんな友達ができた。ボランティアで人々を幸せにするという共通の目標を持つ人達。誰から教わったわけでもなかったが人の為に尽くすことが好きだった。祖母が常に「はたらく」というのはね「はた(他人)をらく(楽)」にするから「働く」と言うんだよと夏休みに遊びに行く度に幸恵に教えてくれた。それが彼女という人間を形成する根本になっていたのかもしれない。
アメリカ在住中はまるで水の中に返った魚のように元気だった幸恵だったが、その後父親の赴任が終わり日本に帰国し、都内の私立大学に入学した時には状況が一変した。七十年代の日本は高度経済成長期から安定成長期の真っ只中で誰もが行け行けドンドンだった。そんな社会の中でボランティアをしたいという幸恵など鼻で笑われた。
社会は幸恵の夢を打ち砕いた。その代わりに物質主義を追えという新しい夢、いや使命を彼女に植えつけた。社会とは怖いもので時に善人を悪人にさえ変えてしまう力を持っている。
一流企業に入り、そこで働いている高給取りの男性と結婚する為必死に勉強した。その甲斐もありスルタン産業に入社し、ヒロと出会い結婚した。そして社会はそんな幸恵に満足し、見返りに彼女の物質的欲求を満たした。そしてすっかり社会に染まりきってしまった幸恵にとってアメリカ時代に没頭したボランティアなどまるで最初から存在していなかったかのように彼女の中から消えて無くなってしまった。
そんな想いをグロリアは察したのか幸恵を再び強く抱きしめた。
「私はあなたがとても綺麗な心を持った人だってことは一目みただけでわかったわ。だけど今までそれを覆い隠してしまう程の大きな力があなたを支配していたのね。でも心配いらない、今からだって遅くない。夢には賞味期限はないんだから」
「ありがとう、グロリア。本当にありがとう」
静かなボラカイの昼前。遠くから礼央達の楽しそうな声が聞こえてきた。
7
翌朝、幸恵は一人でトライシクルに乗り、グロリアの家までやってきた。マリアは朝から仕事、ルカも学校に行っていたので家にはグロリア一人だけだった。礼央も今日は学校での授業があったので朝から不在だった。彼女は昨日と同じく幸恵を温かく迎え入れてくれ、出来立てのコーヒーを入れてくれた。
昨日の出来事以降、幸恵はもっとグロリアと時間を過ごしたいと思うようになり、グロリアも同じ思いだった。姉妹のいなかった二人は必然と惹かれあった。
礼央も昨日以降、角が取れて丸くなった母親に少し戸惑ったが、それは彼にとってもとても嬉しいことだった。あんなに子供のようにはしゃぐ母親を見たのは彼の心の引出しの一番奥にしまってあったあの日以来だった。しかし彼にとってこれが本来の母の姿であり今までが仮面を被った母だったということは知る由もなかった。
「ねぇ幸恵、日本では毎日どんな料理を作っているの」
「そうね、そんな大層なものは作れないんだけど、結婚してからよく朝食にクロワッサンを下地から作るの。主人がとても気にいってくれて。それ以外だと日本食が主かな。煮物とか焼き魚とかね。昨日頂いたあなたの料理した朝食はとても美味しかったわ。息子があなたの料理の腕前は一流だって言ってたけど本当にその通りだわ」
グロリアは幸恵に褒められてちょっと照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう、幸恵。今まで何度も人生にくじけそうになったことがあったんだけどそんな時いつも料理が私を救ってくれたの。こんな生活だし満足な食材が買えるわけじゃないけど料理をしていると心がとても満たされるの。その自分の作った料理を人に食べてもらってそれで美味しいって言ってもらえたら、これほどの喜びはないわ」
活き活きとした顔でそう話すグロリアの顔は太陽の下に輝くヒマワリのようだった。
「礼央が言ってたわ。あなたの夢はボラカイ島の貧しい人達にお腹いっぱい食べてもらえる食堂を始めることだって」
「ずっと昔からの夢。いつか神様が力を貸して下さって実現する日がくるようにお祈りをしているの。私もここの他の人達と同様それを作るだけの資金なんて一生働いても得られないし、その辺に金の成る木が生えているわけじゃないしね。でもいつの日かそんな食堂を作ることができるんだという希望はいつも持っているわ」
自分の夢を話しているグロリアは普段より一段と力がこもっていた。それは夢を夢だけでは終わらせないという断固とした確信を自分の中に持っている人の言葉だった。
「日本は豊かな国だから明日食べるものに困ることはないと思うけど、ここではその日の食べ物を確保するのでさえ大変な人達がたくさんいるの。そんな彼らに希望を与えることができるようなそんな食堂。そこに集まる人達がそれぞれの仕事を分担する。店内を掃除する人、野菜を洗う人、お皿を洗う人。そしてそこには豊富な食材があって、店内ではいつも笑顔が絶えない。その食堂には常に光が差してるの」
グロリアは実際にその食堂を見るかのように愛おしそうな目で窓の外に見える青い空を見つめた。
幸恵は肌が痛くなるくらい寒かったシカゴの十二月を思い出した。辺りはクリスマス一色で街ではクリスマスのネオンが輝き、ショッピングモールのサンタクロースの周りは子供達でいっぱいになり、親達はクリスマスショッピングに精を出していた。アメリカ人にとってクリスマスというのは日本人の盆と正月を一緒にしたくらいの大きな行事だった。だけどそんな幸せな人達がいる一方で今日食べるものもままならないホームレスの人達もたくさんいるのが現実だった。そして幸恵が参加していた教会でも毎年十二月二十三日にそんな人々をクリスマスランチに招待した。もちろん無料だ。幸恵はシカゴにいる間毎年そこでボランティアをした。彼女は可愛い顔をした東洋人だからとボランティア仲間は出来た食事を運ぶウェイトレスの役を与えた。最初は緊張で何を話していいのかわからずとまどった幸恵だった。だけどそこに来ていたホームレスの人々は皆フレンドリーで彼女に「どこから来たんだい」「英語が上手だね」などと気軽に話かけてくれるうちに彼女も彼らと話をするようになった。今までは道端でホームレスを見ると避けて通っていた幸恵だったが彼らは皆とても良い人達だった。ほとんどの人が必ずしも好きでホームレスになったわけではない人達だった。身体そして精神的に障害を持っていて職にありつけない人、働いていた職場を解雇され、それ以来仕事にありつけない人など必ずしも怠け者ばかりではなかった。そして彼らの喜ぶ顔は何よりも幸恵を幸せにした。その時は人を見かけだけで判断するのはいけないことだと実感したはずだったが、それは日本に帰国した後、果敢なく消え去ったということは言うまでもない。
だけど当時、彼女は心の底からこのボランティア活動を楽しんだ。グロリアと同じで自分が何かをすることで他の人が幸せになることに自分の幸せを感じた。当時の気持ちがふつふつと幸恵の胸の中に溢れ出してきた。
「幸恵、せっかくボラカイ島にいるんだからちょっとこの辺りを散歩しませんか」
二人は席を立ち外に出た。
空には少し雲が出ていたので夏の容赦ない日差しを受けることがなく、幸恵は内心ほっとしていた。舗装されていない道を二人並んで歩く。メイン通りの騒がしさはそこには無く、とても静かだった。 しばらく行くと小さなコンクリートでできた建物があった。
「ここは私達が通っている教会です。昨日海辺でパーティーをしていたのはここの教会の夏の恒例行事なんです」
二人は建物の方に向かって歩く。
「今日は月曜日なんで多分ノエル牧師が来ていると思います。ちょっとのぞいてみましょう」
グロリアはガラス張りの建物の扉を開き、二人は中に入って行った。中はしんと静まりかえり、二人の足音だけが建物中にこだました。グロリアは慣れた足取りでノエル牧師がいる教会事務所の方に向かって歩いた。ドアの前までくるとコンコンと軽くノックをした。
「どうぞ、あいてますよ」
中から柔らかい男の人の声が聞えてきた。
グロリアはドアを開けて中に入った。狭い部屋に彼が仕事をする小さな事務机、その後ろには書物がぎっしり詰まった本棚が置いてあった。机の前には所狭しとコーヒーテーブルの両側に二人掛けの古いソファが置いてあった。
ノエル牧師はグロリアを見ると笑顔になりすぐに席を立つと彼女の方まで歩いて来て抱擁を交わした。
「ノエル牧師、こちらは日本から来た幸恵。礼央のお母さんよ」
昨日のパーティーに怒鳴り込んできた彼女だった。最初、彼は何て話しかければいいのか分からず少し戸惑っていたが、グロリアが大丈夫よと彼にウィンクを送ったのでそれで安心したのか笑顔で幸恵に会釈した。
「ようこそボラカイ島までいらして下さいました。どうぞ、お二人ともこちらへお掛け下さい」
ノエルは二人にソファに座るように案内した。
「外は暑かったでしょう。ちょっと待っていて下さい。今冷たい飲み物持ってきます」
彼はそそくさと部屋を出ていった。
しばらくしてよく冷えた水が入ったピッチャーとグラスを二つ持って部屋に戻ってくると、彼女達の座っている前のソファに腰をかけた。
森の中の川のようなよく冷えた水がグラスに注がれる。
それを一口ゴクリと飲む幸恵。口の中に爽やかな森の香りが広がる。
「幸恵さんはとても良い息子さんをお持ちになって幸せですね」
唐突なことで言葉に詰まる幸恵。
爽やかな川の上に雲がかかった。
「僕は初めて彼に会った時にピンときました。彼は人を惹き付ける何かを持っているって。それは彼のギターを演奏する姿をみて納得しました。彼の奏でる音楽が人々に希望を与えているんです」
彼は一体何を話しているのか幸恵には理解できなかったた。それは音楽に全く触れたことのない人の前に突然おたまじゃくしがたくさん載った楽譜を見せた時のような混乱を招いた。
礼央の奏でる音楽が人に希望を与える?
この人は何か勘違いをしているだけじゃないのだろうか。音楽の「お」の字も知らない両親からそんな子が生まれるわけないじゃないの。
「あなたの今まで知らなかった息子の発見ね」
グロリアは幸恵に微笑みかけ、グラスの水を美味しそうに一口飲んだ。
「もしどうしても信じられないようだったら今週日曜日に教会に一緒に行きましょう。礼央がバンドを率いる予定ですから。そうでしたよね、ノエル牧師」
「ええ、彼には僕が頼んでここの教会のワーシップチームに入ってもらったんです。百聞は一見にしかずですからね。是非いらして下さい」
真剣な眼差しを送る二人が嘘をついているとは思えなかった。
自分の息子はこんなにもこの島の人々に必要とされている。それは彼が進んで自分を売り込んでいったわけではなく、彼の人生がまるで最初からそうあるべきであったかのように。そして彼はここで人々の望んだ結果を出し、ここに身をおくことを強く望んでいる。
ではなぜ私はこんなにも息子に一流企業の内定をもらうように必死になっているんだろう。
彼の幸せを望んで?
それともただの親のエゴ?
ヒロも言っていた。今は私達がいたあの頃とは違うと。一寸先がどうなるかもわからない世界。頼りになるのは自分の直感のみ。そんな不安定な時代に息子は生きている。
そんな時代に私達の価値観を無理やり彼の将来に押し込めることは果たして正しいのだろうか。
そんなこと考えたこともなかった幸恵は自分が一体どうしていいのかわからなくなった。今までこれだと信じきっていた事実が突然崩れおちた。
ふと顔を上げ横を向くとグロリアがにこやかな表情で彼女を見ていた。
教会を後にした二人はまたそののんびりとした田舎道をゆっくり歩いた。先ほどかかっていた雲は跡形もなく消えてなくなり、真っ青な空から太陽が大地に光を放っていた。こんなことなら日傘を持ってこればよかったと内心後悔した幸恵だった。
「幸恵はいつまでボラカイ島にいる予定」
四日間滞在の予定でやってきた幸恵だったがグロリアとの出会いがそうさせたのか、全く帰国のことが頭から離れてしまい、彼女の質問で忘れていた記憶が蘇った。
彼女はしばらくの間、頭の中で自分の旅の日程を思い返した。
「本当はね明日帰国予定だったんだけど、さっきあなたとノエル牧師にも約束したじゃない、日曜日に礼央の演奏を観に教会に行くって。だからちょっと滞在を延ばそうかな」
それは心の底から思ったことだった。彼女はここでもっとグロリアと時間を過ごすことを望んでいた。
グロリアはとてもうれしそうに幸恵に飛びついた。それは五十代の女性二人というよりは十代の若い女の子がうれしさのあまり抱き合うようにとても新鮮な抱擁だった。幸恵は久々にとても満ち足りた気分になった。こんな気持ちになったのは一体何十年ぶりだろう。もしかするとアメリカで暮らしていた時以来かもしれない。
今まで自分では気づいていなかったが知らない間にアリ地獄に嵌り込み、そこで必死にもがく生活を送っていた。しかし、いつの間にかそれが幸恵にとっては当たり前の日常になっていた。グロリアとの出会いは彼女をそこから引っ張り出し、高校時代に初めて味わった社会の目を気にしなくていい、まるで雪が解けた春先の高原で冷たいけど爽やかな澄み切った空気を身体いっぱいに吸い込むような気持ちにさせた。そして大きく開いた彼女の心の中から長い冬眠からようやく抜け出そうとするスリーピング・ジャイアントが目を覚まそうとしていた。