第三章
1
礼央にとって初めての海外への飛行機の旅は快適なものだった。もう一度「地球の歩き方」を見直し、機内食を食べ、機内ラジオで流行りのJポップを聴いているうちにそのまま深い眠りについた。そしてちょうど飛行機がニノイ・アキノ国際空港に着陸した時の振動で目が覚めた。飛行機が発着場に到着するまで礼央は窓の外に映る風景を眺めていた。外の景色は明らかに先ほど出発したばかりの日本のそれとは違い、熱のこもった真っ青な空の下に亜熱帯の深い緑が覆い茂り、コンクリートが既に黒ずんだ古い建物が無造作に建っていた。そして外でせっせと働いている空港のフィリピン人スタッフを見て改めて自分は外国まで来たんだと胸がドキドキした。やがて飛行機は発着場に到着した。
飛行機の外に出るとむっとした暑い空気が礼央を出迎えてくれた。旅の疲れで無言で進む乗客の群れに混じって礼央も入国審査場まで歩いて行った。飛行機の席が一番後ろだった彼にとって当たり前だけど入国審査場まで来たのも最後の方でそこには既に長い行列ができていた。待っている間、礼央はこれからホテルまでの交通手段と無事到着した旨を両親に連絡するタイミングを考えていた。その時、初めて彼は母親から口をすっぱくして言われていた空港で携帯電話を借りてくるのを忘れたことに気がついた。それは彼の腹の底を収縮させ、無性に不安にさせた。
ようやく自分の番が回ってきて、無難に入国を済ませ、スーツケースをとった。そして人の流れにのって空港の外までゆっくり歩いて行った。そこには多くの人達が家族や友人の出迎えに来ていた。午後二時を回ったばかりのマニラの太陽が礼央の身体に強く照りつけ、歓迎してくれた。表で待っていたメータータクシーに乗り込み、旅行会社が渡してくれたホテルの予約確認書を運転手に見せ、パッシグ市にあるマラヤンプラザホテルまで連れていってほしいと伝えた。二十代半ばくらいだろうか。ドレッドヘアに軽く口ヒゲと顎ヒゲを蓄えた運転手は礼央の渡した確認書をさっと眺めるとそれをまた彼に戻した。
「オッケー、問題ないよ。ここからだと昼間の混雑もあるから一時間くらいかな」
運転手はギアを二速に入れ勢いよく発進した。運転手側の窓が半分開いているせいか、そこから東南アジア独特のむっとした空気が礼央の顔を覆った。前後左右に溢れ帰る車とバイクの波。いつの時代から建っているのかもわからない古い建物の数々、そして溢れかえる人々。排気ガスをむんむんとたてながら街を走りぬけるジプニー、止まることなく鳴り響く車のクラクションは初めて訪れた礼央を圧倒した。その古い建物の外でバイクにまたがって何もすることなくただそこに座っている若い男性、その横を通り過ぎる鮮やかなピンク色のTシャツを着た若い女性、そして暗い店内でぽつんと座っている老婆。そんな風景を眺めていると、怖いけど何か好奇心を駆り立てる下半身がもぞもぞする不思議な気分になった。
「フィリピンは初めてかい」
突然前のドレッドヘアの運転手が礼央に質問した。彼は空港からタクシーに乗り込んだ外国人には決まってこのことを聞いているのだろうか。
「君は日本人かい。どうしてフィリピンに来ようと思ったんだい。まだ君は若そうだけど嫁探しにでも来たのかな」
(嫁探し?)
ちょうど渋滞にはまりこみ、隣の古いバスの排気ガスの匂いがタクシー内に入ってきた。どこまで続くのか全くわからない延々と続く車の群れ。東京のそれとは比べ物にならない。
「そう、日本人だよ。でも嫁探しに来たわけじゃないよ。自分探しの旅かな」
「そうなんだね。フィリピンにはたくさんの日本人男性が嫁探しに来るんだよ。そして結婚して日本に帰るカップル、そのままフィリピンに居残るカップルといろいろだけどね。僕の従兄の奥さんが今日本に住んでいるんだよ」
「そうなんだ。旦那さんの仕事の都合で」
「彼女は違うよ。日本で働いているんだ。あまり詳しく聞いたことないけど、確かホテルかどっかで働いているらしいよ。今休暇をもらって三ヶ月程帰ってきてるんだよ。来週また日本に戻るんだけどね」
「じゃ、今はご両親の家で暮らしているの」
「僕の従兄の両親の家にね。二人の間に息子が二人いるんだよ」
「えっ、じゃ子供達は母親とずっと一緒に暮らすことができないんじゃないの」
「そうだよ、まぁ日本で働いた方が給料は良いし、従兄はまだ学校行っているから彼女が家族の収入源さ」
彼は音楽でも聴くかいとラジオをつけてくれた。
礼央は今さっき運転手が話してくれたことをもう一度自分の中で考えてみた。日本じゃ父親が単身赴任でどこか別の都市に行くことはあっても母親が単身赴任でしかも海外に行くというのは聞いたことないな。日本でホテル関連の仕事。部屋の清掃係みたいな仕事か。それとも水商売か。やはり国は違えど、人々の考えることは同じでお金があればそれで幸せということか。果たして本当にそれで彼らは幸せなのだろうか。愛する人と離れ離れに暮らすことと引き換えにお金を儲ける。お金はなくなったってまた頑張って働いて戻すことができるけど、人の愛ってそんなに簡単には取り戻せないものじゃないのだろうか。そうは言うが自分も母子家庭に育ったようなものだ。父親は朝の早くから夜遅くまで働き、顔を合わせるのなんて最近じゃ週に二度あればいいほうだ。
いろいろ考えていると疲れてきたのでまた窓の外を見ることにした。相変わらず車、バス、バイク、ジプニーがごちゃまぜになって走っているマニラの道路。ところどころにいろんな広告の看板が出ている。それは服のブランドのものであったり、化粧品であったりとさまざまだ。そしてそんな鮮やかな広告の陰に隠れてしまって注意深く見なかったら見過ごしていたであろう黒いマーカーで書かれただけの宣伝がバス停留所のお粗末な屋根の上に出ているのが目に入った。
「ボラカイへの旅」
七千以上の大小の島々で成り立っているフィリピン。その中の一つの島だろうか。
「ボラカイってどんな場所ですか」
礼央はさっき見た広告が気になり運転手に聞いてみた。
「ボラカイ島かい。俺も行ったことないけど、それはもうかなり素敵な場所らしいよ。何年か前にも外国のビーチランキングでトップテン入りしたくらいだからね。君は今回はマニラだけの滞在予定かい。もし時間あるんだったらボラカイ島へ行ってきたらどうだい」
特にこれといってフィリピン滞在中の予定をたてていなかった礼央にとってそんな素敵な島に行くことは興味のあることだった。白いビーチに寝転がり、太陽をいっぱいに浴びてマリンブルーの光輝く海を眺める。
「そうだね、数日くらい行ってみるのも悪くないね。運転手さんは今夜滞在するホテルの近くにボラカイ島までのツアーを組んでくれそうな旅行会社をご存知ですか」
再び渋滞に巻き込まれ運転手はギアをローに入れた。
「キアポでね小さいけど旅行代理店やっている叔母がいるんだけどそこはどうだろう。ここで出会ったのも何かの縁、タクシー代金は空港からホテルまででいいよ。ここから旅行代理店までは俺から君へのフィリピンへのウェルカムギフトだよ」
彼はニコッと礼央にウィンクをすると進路を変更し、キアポ方面へ向かった。
キアポは人で溢れかえり、店が密集していた。タクシーは小さな路地に入った。そして古い建物の前でタクシーは止まった。目の前にある古い建物の一階には「トラベルエージェント」という小さな看板が入口に立てかけてあった。
「さ、着いたよ。付いてきな」
運転手はさっさと運転席から外に出て行った。礼央も慌てて外に出て彼の後を着いて行く。小さな木製のドアを開けて薄暗い店内へ入っていった。そして礼央もその後に続いた。
「こんにちは。おばちゃん、いる」
誰もいない静かな店内。外で遊んでいる近所の子供達の笑い声が店の中まで聞こえてきた。しばらくして大柄な中年女性がのそのそと店の奥から出てきた。
「やぁ、リカルドかい。久しぶりだね。どうしたんだい」
「こちら僕の日本の友達の、、、そういえばまだ名前聞いてなかったね」
「礼央です」
「そうか、礼央ね。俺はリカルド。ちょっと挨拶が遅くなったけど宜しく」
「彼がねフィリピン滞在中にボラカイ島に行く予定なんだよ。それでね、おばちゃんとこで何とかお得な旅行パッケージを手に入れてもらえるかなって」
「ボラカイね、今は雨季だからどれだけ晴天が見れるかわからないけど、せっかくフィリピンまで来たんだからボラカイに行く価値はあるわね。で、何日くらい滞在するつもりだい」
「三日くらい滞在を予定しています」
「そうかい、じゃとっておきのを探してあげるよ」
彼女は電話の前にどっしり座りこみ、受話器をとった。電話の相手先とタガログ語で話し始めた。何を言っているのかわからなかったけどいろいろ交渉してくれているようには聞こえた。十分は交渉していただろうか、ようやく電話の受話器を下ろすと笑顔でこちらに戻ってきた。
「良いのとってあげたよ。マニラ空港からカリボ空港までの飛行機の往復チケット、カリボ空港からカティクランの港までの往復タクシー、それからボラカイ島で最も素敵なホテルの一つツーシーズンズリゾート三泊朝食付きで三万四百ペソだよ。こんなのめったにないよ。本当はねカティクラン空港の方が近くて良かったんだけど今滑走路工事中なんだってさ。だからちょっと遠くなるけどカリボ空港までね」
相場というものが分からない礼央にとって果たしてそれがどれほど価値のある特別価格なのかさっぱり分からなかったが今まで親切にしてくれたリカルドのおばさんが交渉してくれて手に入れてくれたパッケージだ、これは信じるしかないだろう。礼央はポケットから先ほど成田空港で両替したばかりのフィリピンペソが入った袋から三万四百ペソ取り出した。
「ありがとうございます。それではこれでお願いします」
礼央は「おばさん」にお金を手渡した。
「ありがとう。じゃ、今から飛行機のチケットもろもろ発券してくるから少しここで待っていなさい」
彼女はまた先ほどの電話の所まで戻り、受話器をとった。そして今度はとても短く数分話し、受話器を置くと何も言わずまた奥の方へ行ってしまった。礼央とリカルドは何も告げられることなくその場に立ち尽くすしかなかった。待っている間、リカルドは外にタバコを吸いに出た。礼央にも勧められたがタバコを吸わない彼はそのまま店の中で待っていた。しばらく何もすることなくその場に立っているとやがて彼女が座っていた後ろに置いてあるファックスから何やら書類が送られてきた。それを聞きつけてまた彼女が奥から現れた。送られてきた書類を持ってまたこちらに戻ってきた。
「ほら、これが飛行機のチケットの引き換え書、で、これがカリボ空港からカティクランの港までのタクシーの予約書で最後のこれがホテルの予約確認書」
彼女は一通りの説明を済ませると礼央にそれらの書類を手渡した。
「これで準備整ったね。明日から楽しんでらっしゃい。ボラカイの天気も調べてあげたけど、明日から数日間は晴れらしいよ」
礼央は彼女に再度礼を言うとリカルドと二人店を後にし、またタクシーに乗り込んだ。
車は路地を抜け、キアポを出て一路パッシグ市に向かった。夕方五時を過ぎたがまだ太陽が西に沈む気配はない。礼央は窓の外を眺めながらさっきおばさんの店で見せてもらったボラカイ島のパンフレットに載ってあった真っ白いどこまでも続くビーチとその向こうに広がるマリンブルーの海のことを考えていた。東京湾の黒く染まった海とは全然違う下まで透き通った海。それを見ながら真っ白いビーチに寝そべり、何も考えることなく海と真っ青の空を眺める。そんなこと考えていると礼央は明日が待ちきれなくなった。
タクシーはいよいよパッシグ市に入った。そこには近代的な高層ビルが建ち並んでいた。
「リカルド、マニラにこんなにもたくさん高層ビルが建っているなんて驚いたよ」
「ここ何年かでね、かなり建設されたんだよ。多くの若いフィリピン人は英語が話せるだろ。だから、アメリカとかヨーロッパの会社がこぞってここにコールセンターを建設してるんだよ。だからここらのビルは二十四時間電気が消えることがないんだ。アメリカやヨーロッパとここじゃ時差があるからね。だけどね、一見高層ビルに働きにきて華やかに見えるけど、ここでは多くの若者がノイローゼになっているんだよ。朝晩が逆転した生活をずっと続けているとストレスが溜まるみたいだよ。この辺りに朝の七時頃来てごらん。たくさんの若者がビルから出てきて、そこから酒を飲みに行くのさ」
礼央は彼の話を黙って聞いていた。そして横に広がる高層ビルを見上げた。ちょうどその時、これから夜通しで働くであろう若者数人がビルの中に消えて行くのが見えた。
「ほら、到着したよ。マラヤンプラザホテル。長旅で疲れたでしょ。そうそう、ここからちょっと行った所にシャングリラプラザというモールがあってそこの中にあるシーマっていうギリシャ料理レストランがあるんだけど、もし気が向いたら行ってみるといいよ。とても美味しいっていう噂だから。それと明日の朝また迎えいるだろ。僕でよかったらまた来るよ」
「本当に。ありがとう。それじゃ明日の朝もお願いしていいかな」
「問題ないよ。十時の飛行機だから七時半にここに来るよ。朝は渋滞がひどいから一時間半程みておいた方がいいからね」
「ありがとう、リカルド」
荷物をタクシーのトランクから取り出し、暗いホテルの入り口に入っていった。そして薄暗いチェックインカウンターまで行くとそこには黒い服を着た小柄な若いフィリピン人男性とこちらも細身の髪の長いフィリピン人女性が立っていた。
「こんばんは。今夜一泊で予約しているレオ・サイトウですけど」
「ようこそマラヤンプラザホテルへ、サイトウサン。お待ちしておりました。すぐにチェックインの準備を致しますのでまずはパスポートを見せてもらえますか」
礼央は鞄からパスポートを取り出すと髪の長い女性にそれを渡した。彼女はそれを受け取るとコンピュータで予約の確認を始めた。
カタカタカタカタ。。。。
カタカタカタカタ。。。
何とも遅い対応である。
その時に初めて礼央は自分がかなり長旅で疲れていることに気がついた。ようやく彼女は部屋のキーを取り出し、彼の前に差し出した。
「サイトウサン、こちらがあなたの部屋のキーで部屋は二十六階の三号室、これが明日の朝食券、朝食は午前六時からです。レストランはそちらの裏から出て行って外に出て、すぐ左に入り口がありますのでそこからお入り下さい。それではごゆっくりお休み下さい」
礼央は女性からキーと明日の朝食券を受け取ると荷物を持ってエレベータの方に向かった。
「お客様、お荷物をあなた様のお部屋まで一緒にお持ちいたしましょう」
後ろから小柄な若いフィリピン人ボーイが荷物用のカートを持ってやってきた。そして礼央に有無を言わせる前に荷物をカートに載せ、素早くエレベータのボタンを押した。しばらくして一番奥のエレベータの扉が開いた。日本でよく見る最新の軽いエレベータとは違って重機という名前が良く似合う重くて頑丈そうなエレベータだった。二人が乗ると、まるで倉庫の扉が閉まるように重々しく扉は閉まり、ゆっくりと動き出した。二十六階に到着するとボーイは礼央に先にエレベータから降りるように促した。青白い照明がところどころにしか備わっていない暗い廊下は何か礼央を物悲しい気分にさせた。部屋の前まで来るとボーイが礼央から部屋のキーを取ると、扉を開けた。二重に鍵がかかった部屋の扉。中に入るとボーイはさっと部屋の明かりをつけ、スーツケースを置くと部屋の説明を始めた。やれテレビの電源のつけ方から、冷房のスイッチの入れ方。そして部屋に備わっているコンロの使い方まで。一通りの説明が終わると他に何か質問があれば遠慮なくフロントまで電話をして下さいと笑顔を見せた。
沈黙が二人の間にしばらく流れた後、ゆっくりお休み下さいと言い残すとそのボーイは少し不機嫌そうな顔をして部屋を出て行った。
なぜさっきまで笑顔だったボーイが急に不機嫌な顔になったのか疑問が残ったが疲れきっていた礼央にとって今はそれはどうでも良いことだった。
彼は靴を脱ぐと綺麗にメイキングされているベットに横になった。しんと静まりかえった部屋。天井を眺めながら今日一日を振り返ってみた。朝起きた時は日本にいたのに、今はフィリピンにいる。何だか不思議な感じだった。日本の両親のことを考えた時、礼央は成田空港で携帯電話を借りるのを忘れたこと、そしてフィリピンに到着して未だに母親に連絡していないことを思い出した。彼はベッドの横に置いてある電話の受話器を取ると壁にかけてある時計を見た。午後八時を指していた。日本との時差は一時間だから日本は今午後九時だ。昼に到着してから今まで自宅に連絡しなかったことを母親はきっと怒っているに違いない。正直に話そう。今まで電話できずに申し訳なく思っていることと、成田空港で携帯電話を借りるのを忘れたこと。そう心に決めると大きく深呼吸し、恐る恐る自宅の番号を押した。胸がドキドキした。しばらくして電話の向こうで呼び出し音が鳴りだし、一回半鳴ったところで母親が電話に出た。
「もしもし、礼央ちゃん」
「あっ、母さん。うん、僕だよ、今まで、、、」
「どうして到着したすぐに連絡しなかったの。こっちはとても心配していたのよ。今日一日中気が気じゃなかったわ」
「母さん、ごめんよ。実はね、成田空港で携帯電話を借りるのを忘れたんだ。それでね、マニラの空港に無事到着して、ちょっと寄り道して、今やっとホテルに着いて、チェックインしたとこなんだ。心配かけてごめんね」
「そうだったの。あれほど口をすっぱくする程言ったのに何で忘れるの。でも良かったわ、無事ホテルまで着いて。父さんは連絡がないのは無事だという証拠だよって言うけどね。実際にあなたの声を聞かないと不安なものなのよ。でも声が聞けて良かったわ。長旅で疲れたでしょ。今夜はゆっくり休みなさい。それじゃ、また明日連絡するのよ」
「うん、わかったよ、母さん」
礼央は母親に明日ボラカイ島に行くことを言うべきか、言うべきでないか心の中で葛藤していた。マニラに無事着いて安心している彼女にまた明日飛行機で別の島に行くなんて行ったら、きっと今夜寝れなくなるに決まっている。彼は今朝別れ際に見せた母親の今にも泣き出しそうな顔を思い出した。これ以上心配をかけるのは良心が痛くなるので、明日ボラカイ島に行くことは彼女には黙っていることにした。礼央はおやすみと告げると電話の受話器を下ろした。そのままベットに横になると、身体中に今日一日の疲れがどっと押し寄せてきた。そして何も考えることができないうちにそのまま深い眠りについた。
2
翌朝、礼央ははっと目を覚ますと時計は午前六時五分前を指していた。昨夜は母親と電話した後、疲れ過ぎてシャワーを浴びるのも、歯磨きをするのも、着替えるのもそして電気を消すのさえも忘れて眠りについてしまった。でもお陰でとても良く眠ることができたので目覚めはすっきりしている。礼央はベットから起き上がるとスーツケースから着替えを取り出し、それからシャワーを浴びた。熱いシャワーを身体いっぱいに浴びると何だか自分の身体にこびりついた不安が剥がれていくような気がした。シャワーからあがり、この旅の為に購入した真新しいこげ茶色のカーゴショーツと白いポロシャツに着替え、これもまた買ったばかりの黒いビルケンシュトックのサンダルをスーツケースから取り出した。一通りの仕度を済ませると、昨夜と同じ重いエレベータに乗って朝食を食べに一階まで降りて行った。
昨夜フロントのお姉さんに言われた通りにホテルの裏から外に出て、その左にある建物の中に入った。
入口を入った所で朝食券を渡し、二階にあるバイキング形式のテーブル席まで案内された。席に着くとウェイトレスがコーヒーは如何ですかとやってきた。礼央は目の前にある白いコーヒーカップを彼女に手渡した。そしてウェイトレスはあちらにあるバイキングから朝食はご自由にどうぞと先ほど上ってきた階段の側にある長いテーブルを指して礼央に教えてくれた。その上にはいろんな食べ物が載っていた。朝六時半だというのにテーブルは満席だった。礼央は席を立つとその長いテーブルまで行き、大きな平たい皿を取り、どんな食べ物があるのかまずは見て回った。カリッと揚げられたフライドチキン、にんにくの香りがぷんぷんしてくるガーリックライス、魚の煮物、赤いソースがかかったソーセージ、そしてフライドポテトと朝から胃が重くなりそうなものがずらっと並んでいた。見ているだけでお腹がいっぱいになった礼央だったが、せっかくだったので少しずつすべてのメニューを皿の上に盛った。自分の席まで戻るとちょうどウェイトレスがコーヒーを持ってきてくれた。一品一品味わうようにゆっくりと口に運んでいく。予想していた通りどれも朝食にしては重いものばかりだが、味付けはとても美味しかった。昨夜夕食をとっていなかったせいか、あっという間に皿は空になった、彼のお腹は満足感でいっぱいになった。ふーっと一呼吸ついてからコーヒーを啜る。どろっとした濃いコーヒーが胃の中にゆっくりと吸い込まれていく。コーヒーが底をつきかけた時にさっきのウェイトレスがもう一杯どうですかとやってきた。いつもならコーヒー二杯くらいどうってことない礼央だったが、ここのコーヒーは濃すぎた。もう一杯飲む気分にはなれずウェイトレスには断った。
朝食を終えて部屋に戻ると七時を過ぎていたので、ベットの上に散らかっている自分の服と昨日履いていたスニーカーをスーツケースに詰め直した。そして再度忘れ物がないか部屋を見渡し部屋を後にした。
チェックアウトを済ませた後、外に出た。七時二十五分にリカルドが昨日と同じタクシーを運転してホテルまでやってきた。
「おはよう、礼央。昨夜は良く眠れたかい」
「おはよう、リカルド。うん、お陰様で昨夜は熟睡できたよ。今朝はすっきり目覚めることができたよ」
「そうか、それは良かった」
ホテルのボーイが礼央のスーツケースをタクシーのトランクに詰め込んでくれた。そしてまたお越し下さいと優しい笑顔を礼央に送ると軽く会釈しタクシーのドアを閉めた。リカルドはエンジンをつけると車を出発させた。朝のマニラは昨日の昼に増して車の量が多かった。歩道ではこれから仕事に行く人達がぞろぞろ歩いていた。
「それにしてもすごい車の量だね」
「そうだろ、マニラは年々渋滞がひどくなってきてね。ナンバープレートで規制をしているんだけど。日本と違って公共交通網も発達してないから、全くお手上げだよ」
彼の言う通り、車は一向に動く気配がない。このままずっと動かずに飛行機の時間に間に合わなかったらどうしようという不安が礼央を襲った。いたるところで車のクラクションの音が聞こえる。その車の渋滞の横をするっとすり抜けるバイク達。しばらくしてちょっとずつだが車は動き出した。礼央はそのゆっくりと動く外の景色を眺めていた。カラフルな古い建物が並び、舗装されていない歩道の上を砂煙上げてゆっくりすすむ古いバイク、そして開けっ放しになった建物の中で何やら作業する中年男性、正装には見えないだぼだぼの服を着て会社に向かう人。日本では毎朝背広を着た人達を見慣れた礼央にとってマニラでのその景色はとても新鮮だった。
「後十分くらいで空港に着くからね。予定通り九時には到着するよ」
いつ終わるのか予想もつかなかった渋滞に巻き込まれたにも関わらず、時間通りにきちんと空港まで送り届けてくれるリカルドのそのプロフェッショナリズムに礼央は感動し、そしてそれは尊敬の念に達するものだった。
「あんな渋滞に巻き込まれても時間通りに空港まで送り届けてくれるなんて、君はすごいね」
「ありがとう。お客様を時間通りにきちんと告げられた場所までお連れするのが僕の仕事だからね。僕はこの仕事が大好きなんだよ。いろんな人と出会えて、彼らの人生を聞くことができて、そこからいろんなことが学べる。タクシーの運転手になって毎日が楽しいよ。幸いにも僕は方向感覚にも長けてたから、本当にタクシーの運転手になるのが天職だったのかなって思うよ。お客様が僕のタクシーに乗ってくれた場所から希望される場所まで案内する、お客様の次の目的地にお届けすることをお手伝いできる仕事。光栄だよね。だから僕のタクシーに乗ってくれたお客様には最大限のサービスをするように心がけているんだ。そのことで彼らの人生がちょっとでも幸せになってもらえて、目的地までお届けした後の彼らの人生がまた順調に進むようにね」
やがてタクシーは時間通りに空港に到着した。
「リカルド、昨日と今日は本当にありがとう。君がいなかったら一体どうなっていたのか想像するのも怖いよ。これから先の旅も何だかいいことが起こるような気がするよ」
「どういたしまして、礼央。そう言ってもらって僕もうれしいよ。これからの旅も順調にいくように僕もお祈りしてるよ。昨日君を僕のタクシーに乗せることができてよかったよ。それじゃ、気をつけて。将来またマニラで会えるといいね」
リカルドはタクシーのトランクから礼央のスーツケースを取り出し、二人は固い握手を交わすと、またタクシーに乗り込み、礼央に笑顔を送ると二回短いクラクションを鳴らしてから車を発進させた。 彼のタクシーが見えなくなるまで礼央は見送った。
フィリピン航空のチェックインカウンターで、カリボ空港行きのチェックインもスムーズに終わり、近代的で綺麗なターミナルまで来た時にはまだ搭乗時間まで三十分程あった。雲一つない良い天気。空港に窓が多いせいか、太陽の光がターミナルまで入ってきてとても明るい。礼央は待合用の長いすに腰掛けると目を閉じ、空港内に差し込む太陽の光を感じた。
やがて搭乗時間になったので彼は席を立ち、飛行機に乗り込んだ。離陸前の安全確認の案内がモニターで流れ、前でフライトアテンダントの女性達が実演してみせる。それが終わると彼女達が乗客がきちんとシートベルトを装着しているか確認して回る。礼央はその様子を横目に成田空港の本屋で買った「アコースティックギターマガジン」に目を通す。機長の機内アナウンスが終わると礼央達を乗せた飛行機は離陸し、マニラの上空を数回旋廻した。雲一つない素晴らしい天気だったのでマニラの様子が良く見えた。雑誌を読む手を止め、今頃リカルドはどの辺りでどんなお客さんを乗せているんだろうかと考えながらその景色を自分の目にしっかりと焼き付けた。
そして飛行機は一路カリボ空港へ向かった。
3
マニラ空港からカリボ空港までは一時間という短いフライトだったのであっと言う間に飛行機はカリボ上空まで辿り着いた。そこから眺める地上は田園風景が広がり、それを見ているだけで身体中がリラックスできるようなのんびりとした空気が流れていた。風もなかったお陰で飛行機はスムーズに着陸した。マニラと違い小さなこのカリボ空港はすぐに飛行機は止まり、ドアが開いた。礼央はトラップを降りて地上に立つとまずは身体いっぱいに南国の空気を吸い込んだ。身体の中にも南国が広がっていった。
空港の中に入り、スーツケースが流れてくるベルトコンベヤーのところまで行き、自分のスーツケースが流れてくるのを待った。無事自分のスーツケースを受け取ると外に出た。お迎えのタクシー、トライシクル、バスで駐車場は溢れかえっていた。そこら中でネームプレートを挙げたドライバーらしき人達が立っている。一番端の見えにくい場所に小柄な男性が手書きで「レオ・サイトウ」と書かれた紙を持っているのを見つけた。礼央はその男性のところまで歩いて行き、自分が「レオ・サイトウ」であることを伝えた。その男性はにっこりと微笑み、手配してもらっていたタクシーまで礼央を案内してくれた。
駐車場の片隅に型遅れの白いトヨタのカローラがとまっていた 。その前に黒いパンツに白いシャツを着たドライバーがタバコを吸って待っていた。小柄な男は礼央をそこまで案内すると良い旅をと言い残し、また向こうの方へ戻って行った。ドライバーは吸いかけのタバコをポイと地面に捨てると彼のスーツケースを車のトランクに積み込んだ。そして後部座席に乗るように指で合図を送った。彼はカローラのエンジンをつけるとクーラーの温度を一番下まで下げ、サウナのように蒸し暑くなった車内を冷やしてくれた。
タクシーはそのまま空港を出て、トライシクル、原付、車、バスそして歩行者でごったがえしていたカリボ市内を抜けて行った。市内を抜けるとそこは四方八方に田園風景が広がるのんびりとした田舎道になっていた。遠くの方に青々とした山々が広がる。そんな空気がみずみずしい風景を眺めていると心の中まで洗浄されていくような気さえした。カーステレオからはフィリピン人アーティストがアコースティックギター一本でレコーディングした最近流行のポップ音楽のカバーが流れていた。心地良い音楽を聴きながら青空広がる風景を眺めていると一時間半という時間があっと言う間に過ぎてしまい、タクシーはカティクランのボートの発着場に到着した。
タクシーから降りると今夜から宿泊予定のツーシーズンズリゾートのスタッフの男性二人が礼央を迎えに来てくれていた。そのうちの大きな良く鍛えられた男性が彼のスーツケースをひょいと軽そうに肩に持ち上げるとそのままボートの方まで歩いて行った。そしてもう一人の小柄な男性が礼央をボートまでエスコートしてくれる。 小さなホテル所有のボートに乗り込むとボートで待っていたドライバーがエンジンをつけ、素早くカティクランの港を離れた。そしてボートは青い海を大胆に駆け抜け、目の前に見える小さな島に向かって走って行った。礼央をエスコートしてくれた男性がエンジンの音に負けないくらいの大きな声で前方に見えるのがボラカイ島で約二十分くらいで到着するよと教えてくれた。礼央は男性の話を聞きながら前方に見えるボラカイ島をじっと眺めていた。
フィリピンに到着して二日目でマニラからボラカイ島に向かっている自分。今まで母親の言う通りに進んできた礼央にとって自分で物事を決めて自分の道を進むのは初めてだった。そして新たに道を切り開いている自分自身の行動に内心驚いていた。母親の指示なしに果たしてこれから自分がどこに行こうとしているのか。果たしてこの先に待っているのは明るい光なのだろうか、それとも暗闇なのだろうか。それはまるで初めて補助輪なしで自転車に乗った時のような気分だった。母親に支えられ恐る恐る自転車を漕ぎ出す。補助輪がついていた時の転倒することのない安心感から突然一人で慣れない二輪自転車に乗り、いつ転倒するのかわからない恐怖でいっぱいになった自分。
やがてボートはボラカイ島の船場に到着し、先ほどと同じように大柄な男性が礼央のスーツケースを持ち上げるとボートから降りていった。そして小柄な男性がボートの外までエスコートしてくれた。ボートを降りたすぐ前に今度はホテルのバンが向かえに来てくれていた。
車一台しか通れない細い整備されていない道を抜け、メイン通りに出て行った。そこは先ほどのカリボ市内と同様にトライシクル、原付、車そして歩行者が行き交っていてとても賑やかだった。唯一違ったのは歩行者に西洋人が多いということだった。道路の両端にはホテルや店などがずっと建ち並んでいた。そんな賑やかな光景は先ほどの礼央の不安を少しだけ取り除いてくれた。
メイン通りの端の方にツーシーズンリゾートはあった。まだできて数年というだけあって周りの他のホテルに比べると入口もとても綺麗で清潔感があった。車から降りホテルの門をくぐり中に入っていった。クリーム色を基調としたホテルのエントランスに屋根はなく、青空から中庭に明るい光が差し込んでいた。右横には客室の窓に面して大きな青いプールが広がっていた。外の喧騒とは裏腹にここはとても静かで平和な空気で礼央を包み込んでくれた。そのまま奥に進んでいくとホテルが所有するオープンレストランがあり、その向こうにはホワイトビーチと呼ばれる真っ白なキメ細かいビーチが広がっていた。その先にある太陽に照らされた波のない静かなマリンブルーの海が彼を静かに迎え入れてくれた。旅行雑誌からそのまま出てきたような青い景色がそこには広がっていた。時間は午後四時を過ぎていたがまだ太陽が空の上にあったのでチェックインを済ませた礼央は部屋で水着と白い無地のTシャツに着替えるとビーチサンダルを履き、ビーチに出て行った。レストランを通り抜け、ビーチに出るとホテルのスタッフの男性がやってきて礼央にビーチチェアとホテルのロゴが入った大きなバスタオルを持ってきてくれた。バスタオルをビーチチェアに敷くとTシャツを脱いでまずはそこに寝そべることにした。目を閉じて静かな波の音に耳を傾ける。太陽の日差しが彼を照りつけたがそれがなぜだかとても心地良く感じた。自分の意思でここまで来て、今こうしてビーチに横になっている。礼央は今まで感じたことのない開放感を覚えた。まるで今まで狭い鳥カゴに閉じ込められていた鳥が大空に羽ばたくように。
再び目を開けて周りを見渡した。カウンターでバスタオルをたたんでいるホテルのスタッフと目が合った。彼は優しく礼央に微笑んでくれた。礼央も微笑み返すとビーチチェアから起き上がりマリンブルーに輝く海に入って行った。
海の底に広がった真っ白い砂がはっきりと見える透き通った海はほどよく焼けた礼央の身体を冷やしてくれ、乾ききった身体に十分な水分を与えてくれた。彼はその波のない透き通った海に自分の目線が海水と一直線になるよう口の辺りまで顔を浸すとそのままゆっくりと沖の方に向かって泳いだ。太陽の光が海に反射して眩しい。さっきまで薄いマリンブルーの色だった海がだんだんと濃い青になってきたのがよくわかった。礼央は大きく息を吸い込むとそのまま海の中にもぐった。そこには地上では考えられない幻想的な世界が広がっていた。明るい太陽の光が差し込み音というものが存在しない海の中にいると礼央はとても平和で温かい気持ちになった。息が持つのならいつまでもこの場所に居たかったなと海中に差し込む光を見ながら心の中で呟いた。
しばらくして彼はまたビーチにあがり、ホテルの前にある自分のビーチチェアに横になった。身体に着いた海水が太陽の光でじわじわと蒸発していくのがわかる。また目を閉じて、静かに押し寄せる波に耳を集中させた。彼が今居る世界は日本のそれとは全く正反対の場所にあった。彼を束縛し上から押し潰すものはここには存在していない。どこまでも続く青い空と海は礼央に大きな希望と無限の可能性を与えてくれるように感じた。そんな心地良い空間に居るとゆったりとした眠気がやってきて、現実と夢の間にいるような軽い眠りについた。
しばらくして礼央はギターの音色と子供達の話声で目を覚ました。太陽はだんだんと西に傾き、さっきまでマリンブルーだった海の色が今度は沈み行く太陽に反射し鮮やかなオレンジ色になっていた。寝ている間に礼央の左横にある大きな木の下でティーンネージャーになるかならないかくらいのギターを持った男の子の回りに十人程の子供達が座っていた。ギターを持った男の子が何やら演奏している。その様子をちらちらと何度か眺める礼央。ギターを弾いている男の子と何度か目が合う。曲を演奏し終わった彼は礼央の方を向くとこっちに来なよと手招きをする。礼央も自然とうなずき、子供達の方に歩いて行った。
「こんにちは。僕はジョエル。君もギター弾くのかい」
礼央は軽く頷いた。
「僕は礼央。昨日日本からフィリピンに来て、今日このボラカイ島に来たばかりなんだ。僕もあまり上手くないけど、ギターを弾くよ」
「そうなんだ。じゃ、何か一曲僕たちに弾いてよ」
突然のジョエルのリクエストに周りの子供達もはやし立てた。
拓の前でしかギターを演奏したことがない彼にとって子供と言えどもこれだけの人数の前で演奏することは恥ずかしくて耐えられないことだった。彼の鼓動がいつもの何倍にも増して早くなる。
(どうして僕はギターが弾けるなんて言ってしまったんだ。弾けるなんて言ったら弾いてくれと返ってくることくらい最初から分かっていたことだろ。ここでやっぱり弾けないと言って、この場を去ることだってできるじゃないか。ここに三日いるだけなんだ。きっとこれから先この子供達と会うことなんてないさ。逃げてしまえば楽じゃないか)
ふと顔を上げた時に大きな瞳をした小さな男の子と目が合う。彼の瞳は礼央がこれから演奏してくれるんじゃないかという期待感で興奮しているのが目に見えてわかった。それを見てしまった礼央にとってここから今逃げることが罪であるような気がした。
(旅の恥はかきすてと言うじゃないか。ここで上手く弾けなかったからといって誰も文句を言うはずないさ。とにかく一曲簡単な曲を演奏すればこの子達も満足するはずだ)
礼央はジョエルからギターを受け取った。子供達が更にはやし立てた。
側にあった大きな石に座り、さっとチューニングをした。「簡単に弾けるギターメロディー集」という初心者向けの教本で習った「ジャストフレンド」を弾くことにした。ゆったりとしたその甘いジャズのメロディーは瞬く間にその場にいた子供達を魅了した。曲が終わると礼央が予想もしなかった程の大きな拍手喝采が子供達から起こった。そして彼らのその幸せそうな顔はまた彼の心を温かくしてくれた。しばらく子供達の拍手が続いた。それがだんだんとまばらになっていき、そろそろ家に帰る時間なのか、礼央にありがとうというと一人また一人と子供がその場所から去っていった。最後に残ったジョエルがあんな素晴らしい演奏を聴いたのは生まれて初めてだよと興奮気味に伝えると自分のギターを大事そうにかかえその場を後にした。礼央は大きく息を吐くとまた自分のビーチチェアの所まで戻って行った。試練を乗り越えた後の静けさのようなものをひしひしと感じ、それは礼央をとてもすがすがしい気持ちにさせてくれた。
そんな彼のところに中年のフィリピン人男性がやってきた。半そでの白い清潔なシャツに灰色の薄手の生地で作られた夏用のスラックスを履き、黒い革靴を履いているその男性はアロハシャツに半パン、ビーチサンダルという井出達でサングラスやら麦わら帽子を観光客相手にビーチで売っている人達とは違い、明らかに何か難そうな仕事をしている人のようなイメージを与えた。
「突然お邪魔をして申し訳ございません」
丁寧にそういって礼央にお辞儀をすると話を続けた。
「私の名前はフィリップと申します。ここの地元公立学校の校長をしております。いきなり押しかけてこんなことをお話するのは大変気が引けるのですが」
そう言うとスラックスのポケットからハンカチを取り出して額の汗をふいた。
「先ほど貴方のギターの演奏を遠くから拝見させて頂きまして大変感銘を受けました。私どもの学校でも音楽教育に力を入れたいと思っているのですが、このような小さな島では経験のある先生を見つけることは大変難しいことです。今は幼少の頃に数年ピアノを習ったことがあるという国語の女性教師が兼業で音楽も教えているというのが現実です」
そこまで言うと今度はハンカチで口元をぬぐった。その様子をじっと見つめる礼央。
「貴方は観光でボラカイ島に来ておられて、滞在時間も限られていることも重々承知でお願い申し上げたいのですが、もし良ろしければ我が校で音楽を教えて頂けないでしょうか。短期間でも構いません。貴方のような素晴らしい音楽の先生に来て頂けますと生徒達の励みにもなると思います。ここの生徒達は貧しい家庭出身の子供ばかりでして何とかそんな彼らに希望を与えてあげたいというのが私どもの使命だと感じております。そんな彼らに音楽で少しでも幸せになってもらい、彼らの未来に光を見つけさせてやることができたならこんな喜びは他にはございません。もちろん無償で教えてくれとは申しません。多くはございませんがそれ相当の報酬はお支払い申し上げます。いかがでしょうか。もしやって頂けるというのであれば、明日学校まで来て頂けますと幸いでございます」
フィリップはズボンのポケットからしわくちゃになった自分の名刺を取り出し、礼央に手渡した。それから深々とお辞儀をするとその場から立ち去った。
興奮と困惑が混ざったような不思議な気持ちが心の中で渦を巻いていた。だんだんと辺りは薄暗くなってきたのでTシャツを着るとビーチを後にした。まばらに客が入っているホテルのレストランの中を通り過ぎ、自分の部屋に戻った。
さっとシャワーを浴び、Tシャツとカーゴパンツを履くと冷蔵庫からよく冷えたコーラを取り出し、ソファに腰掛けてぐぐっと飲んだ。冷たいコーラが喉を通りすぎ、心地よい刺激を与える。自分の目の前にある丸いテーブルに置いたフィリップの名刺を眺めた。突然ここの公立学校で音楽を教える仕事のオファーをもらった。今までギターを教えるなんてこと考えたこともない。教え方だってわからない。
僕は日本の大企業で働くように今まで育てられ、教えるという能力なんて備わっていないんだ。
不可能という言葉がまるで雪崩のように心の中に流れ込んできた。
(明日、フィリップに会いに学校に行かなければどうなるだろう。もしかしたら明日の夕方にまた僕を探しにここに来るかもしれない。でもだからどうしたというんだ。僕はここに三日いるだけなんだ。三日後にはボラカイ島を経ち、またマニラに戻って旅の続きをするんだ。そして九日後には何事もなかったかのようにまた日本という現実の世界に戻って行くんだ)
礼央は自分に強く言い聞かせた。
(いや、待てよ。なぜ僕は日本を離れて遥かフィリピンまで来たんだ。ここに来れば何かが見つかるかもしれないという期待感があったんじゃなかったのか)
考えれば考える程彼の頭は混乱した。残りのコーラをぐっと飲み干し、ソファから立ち上がると窓の側まで行き、大きく伸びをした。窓の外には照明に照らされている水色のプールが見えた。ここで泳いでいたら大きな波もないし安全だろう。でも、それではこの限られたスペースの中をぐるぐる回っているだけで、決してここから大きく羽ばたいていくことはない。でも逆に今日入った海はどうだろう。大きくて終わりが見えなくて、でも何が起こるかわからないという危険性も隠れている。だけど今日海中で目にした地上にいては一生見ることがなかったであろう幻想的な世界がそこには広がっていた。ちょっと勇気を出して遠くに行くことで今まで思いもつかなかった可能性が生まれることだってある。僕の今までの人生はプールの中でぐるぐる回っていただけなのかもしれないな。明日の朝思い切ってフィリップの所を訪れてみようか。
4
翌朝、礼央は六時に目が覚めるとシャワーを浴び、ビーチまで出て行った。爽やかな朝の風が彼の頬を横切る。早朝のまだ誰も手をつけていない空気を身体いっぱいに吸い込み大きく吐き出した。そしてビーチに座ると目の前に広がる大きなマリンブルーの海を眺めた。ボラカイ島にやって来て日本にいる時には味わったことのない自由を感じていた。一晩たった今でも昨夜の決心は少しも揺るいでいなかった。今日これから起こることに小さな期待感さえあった。これから朝ごはんを食べて、ホテルの前からトライシクルに乗り、フィリップのいる学校まで行く。そこから先はなるようになれだ。
礼央は部屋に戻る前にホテルのレストランで朝食をとることにした。ウェイターに勧められたエッグベネディクトを注文した。コーヒーとフルーツはセルフサービスになっていたので、捥ぎたての新鮮なスイカとマンゴーを取ってきた。朝の綺麗な空気の中で食べる新鮮なフルーツは礼央の身体中にエネルギーを与えてくれた。しばらくしてさっきと同じウェイターがエッグベネディクトを運んできた。まだ温かい半生のポーチドエッグの上にはオランデーズソースではなく、マスタードがかかっていた。しかし、それがとてもよくポーチドエッグと混ざりあい、そこに分厚いベーコンが絡まり礼央の口の中で素敵な風味がハーモニーを奏でた。あっと言う間にそれを平らげてしまった。そしてセルフサービスのコーヒーを持ってくると食後のコーヒーを楽しんだ。レストランの目の前に見える真っ白なビーチとマリンブルーの海を堪能しながらゆっくりと一杯のコーヒーを啜った。
部屋に戻った礼央は昨夜同様にソファに腰掛け、部屋を見渡した。時計はちょうど八時十分前を指していた。
拓や父親、そしてリカルド達の協力もあってここまで来ることができた。今までは母親が用意してくれたレールの上しか歩いたことのない礼央にとってこれはまさしく人生初の自分の意志で行動を起こした大冒険だった。
5
礼央はホテルの前でホテルのスタッフの人にトライシクルを拾ってもらうと、それに乗ってフィリップの名刺に載ってあった住所まで連れていってもらった。学校に到着するとその古い建物の中に入って行った。ちょうど通りかかったここの先生らしき若い女性に校長室を尋ねると、丁寧に彼女は彼をそこまで連れて行ってくれた。礼央は「ありがとう」と言うと彼女はにこっと微笑んでまた来た方向に戻って行った。そして彼は深呼吸すると部屋のドアをノックした。
「どうぞお入り下さい」
中から昨日ビーチで聞いた同じ声がドア越しに聞こえてきた。礼央は震える手で慎重にドアノブに手をかけドアを開けた。日当たりのとても良いフィリップの部屋は薄暗い廊下とは対象的だった。フィリップは礼央の顔を見ると彼が来るかどうかは半信半疑だったのか少し驚いたような顔をしたが、その表情はすぐに変わり、自分の席を立つと礼央の所まで来て笑顔で出迎えてくれた。
「よく来て下さいました。どうぞこちらのソファにおかけ下さい」
礼央を部屋の奥に置いてある皮が所どころ剥げてある茶色いソファに案内した。それから隣の部屋にいる女性に何かを伝えるとまたこちらに戻って来た。
「今、冷たい飲み物を持って参ります。暑い中ここまで来て下さってさぞ喉もお渇きになられたことでしょう。昨日は貴方の演奏に感動して、お名前をお聞きするのも忘れておりました。もし宜しければ少し貴方のことを教えて頂けると大変嬉しく思います」
突然、自己紹介をしろというフィリップからの申し出に礼央は怖気ついてしまった。彼にはこれといって紹介するものが何もないのだ。今だって音楽大学に行っているわけではないし、音楽を教えたことだってない。そんなこと正直に言ったらきっとこの話はなかったことになるのだろうか。
しばらくして、奥の部屋からフィリップの秘書らしき女性がオレンジジュースを二つ持ってきてくれ、それを礼央とフィリップの前に置いた。フィリップはそれを飲むように勧めた。礼央はそのよく冷えたオレンジジュースを一口飲むと、自分の自己紹介を待っているフィリップの方を見た、そして恐る恐る口を開いた。
「私の名前は斉藤礼央と申します。日本から十日間の予定でフィリピンまで一人旅に来ました。今、東京の私立大学で経営学を勉強しています。大学3回生で日本の良い企業に入る為に就職活動の真っ只中です」
そこまで一気に言うと礼央はフィリップの方を見た。彼はじっと真剣な眼差しで礼央の方を見つめていた。その眼差しは彼に恐怖を与えた。そしてここにいることが非常に居心地の悪いものになり、今すぐにでもここから立ち去りたかった。
やがてフィリップはゆっくりと落ち着いた口調で話し出した。
「ありがとうございます、礼央さん。日本の大学生だったのですね。経営学を勉強なさっているということですけど、ギターをどこかで学ばれたことはあるのですか」
てっきりフィリップは自分に興味がなくなって、今すぐにでも追い出されることを身構えていたのでその質問にちょっと拍子抜けしてしまった。
「いえ、どこかで学んだことは一度もないんです。本屋でギターの教則本などを買ってきて独学で学びました」
フィリップはちょっと驚いた顔をした。
「そうでしたか。てっきりあれだけのギターの演奏をなさる方だったのでさぞかし経験がおありだと思っておりました」そう言って自分の前にあるオレンジジュースを一口飲むと話を続けた。
「独学でなかなかあそこまで演奏できる人はいないですよ。きっと貴方には生まれもっての才能があるのですね。そんな素敵な才能を自分の中にしまっておくのはもったいないですよ。短期間でも問題ございませんので是非本校で音楽を教えて頂けないでしょうか。ここでの経験が貴方の将来に必ず役に立つように私も最大限のサポートをさせて頂きます」
フィリップはじっと礼央の方を見つめた。自分が一体どうしていいのかわからず、フィリップの顔をまともに見ることができなかった。部屋から追い出されるどころか、歓迎されている。もしここで教えることになったとしても二日後にはここを経たなければならない。もし残りの日程もここに滞在したらどうなるだろう。二日後の飛行機をキャンセルしなければいけない。そんなことより果たして自分に教えることなどできるのだろうか。そしてこれは母親が彼に期待していたことではない。
「この仕事をお引き受けして頂くにあたって何か心にひっかかるものがおありのようですね」
フィリップは優しく礼央に微笑みかけた。彼の微笑みを見て礼央は自然と今自分の置かれている状況を包み隠さず話せるような気がした。
「実は昨日貴方よりこのお話を頂いてから、とても困惑しているんです。この仕事をさせて頂きたいという強い希望を持つ自分がいる反面、それは自分の目の前に敷かれたレールに反したことをしているのではないかという後ろめたさを感じる自分がいます。事実、私は二日後にボラカイ島を去る予定ですし、既にカリボ空港からマニラまでの飛行機も予約しています。そして八日後にはフィリピンを発って日本に帰国します。その後は先ほども言いましたように他の多くの日本の大学生がそうしているように良い企業に入る為に必死に就職活動をしなければなりません。それが私の本当の希望ではありませんが、そうしないといけないという雰囲気が日本にはあります、いえそれ以上にそうしないといけないという義務感が私に強く圧し掛かっているんです。だってそうしないと日本では社会から置いてけぼりになりますから。やっぱり夢と現実は違うんです」
今まで身体の中に溜まっていた黒い塊のようなものが一気に吐き出せたような気がした。礼央の話をじっと聞き入っていたフィリップはゆっくりと口を開いた。
「そうでしたか。貴方のおっしゃる事はとても良くわかります。もちろんどちらの人生を歩まれるかは貴方の人生ですから私がとやかく言える筋合いは全くございません。しかし、一つだけ言わせて下さい。ここで貴方にお会いしたのも何かの縁だと思っております」
フィリップはもう一口オレンジジュースを口に含むとゆっくりと飲み込んだ。
「先ほど夢と現実は違うとおっしゃいましたが、それは違うと私は思います。人として生まれてきた以上、常に夢は見続けないといけません。それが私達の生きる力になるのですから。嫌なことを無理やりさせられること程辛いことはありません、それにそれは長続きもしません。だけど逆に夢を追う過程で辛いことや逃げ出したいことがあってもそれは耐えることのできる辛さです。自分が心の底から飽きることなく情熱を注げる物事は自分の中で大切に育てていかなければなりません。なぜならそれが夢になるからです。人は生まれてきた時に必ずその夢を成し遂げることができる能力を与えられます。貴方は稀にみる才能を持っていらっしゃるのにそれを使わないとやはりそれは与えられた使命に反することをしていると思うんです。確かに社会の中のシステムに沿って自分の人生を全うするのもそれはそれで素晴らしいことだと思います。だけど、もしそこで本当に大切なことを見つけることができなかったら後々必ず後悔する日が来ると思います。果たして今貴方が日本に帰って他の生徒たちに混じって就職活動をして、良い企業に入ったとしてもそれは本当に貴方がしたかったこととは違うはずです。昨日ビーチで拝見したギターを演奏していらっしゃる時の真剣な眼差しがそれを物語っています。そしてその場にいた子供達にとても良い刺激を与えていたのが目に見えて分かりました。そこで私は感じとったんです。この方はきっと音楽を教えたら右に出るものがいないんじゃないかと。長いこと教育現場にいますとね、自然と良い教師を見極める目っていうのが備わるんですよ。あなたはきっとここの生徒達に大きな希望を与えることができると私は確信しています」
フィリップの一言一言がまるで電流が流れていくように礼央の体内を駆け巡った。そして胸が熱くなった。今まで心の中にあった迷いのようなものが剥がれ落ち、暗くて見えなかった前方にぱっと光が照らし出された。
礼央はフィリップに自分の両手を差し出した。
「ありがとうございます。自分の中にあった迷いが貴方の話を聞いてとれたような気がします。是非私にこの学校で音楽を教えさせて下さい」
礼央は自分の両手で強くフィリップの右手を握った。そしてフィリップもその上に優しく自分の左手を載せ微笑んだ。
「お引き受けして頂いて本当に嬉しいです」
フィリップは壁に掛かっている時計を見た。時計はちょうど十一時前を指していた。
「ちょうど十一時から音楽の授業が始まります。せっかくですから一度ご覧になって頂くのもよろしいかと思いまして。どうでしょう、少しだけ覗いてみませんか」
フィリップはソファから立ち上がるとドアの方に歩き出した。礼央も慌てて彼の後をついて行った。暗い廊下を歩き、校舎の一番端にある教室まで二人は無言で歩いた。教室が近くなるに従って子供達の笑い声が聞えてきた。開けっ放しになった教室の中には十歳になるかならないかの男女の学生達が楽しそうな笑顔で机の前に座っていた。
「ここが音楽室です」
日本の学校にある音楽室のように防音装置はついてなく、もちろんベートーベンやシューベルトなどの肖像画も貼っていない。他の教室と同様に開けっ放しの部屋には古いアップライトピアノが置いてあり、その前に女性の先生が座っている。先ほど礼央をフィリップの部屋まで案内してくれた感じの良かった女性だ。フィリップと礼央の姿を見るとニコッと微笑み、中へどうぞと二人に合図を送った。
フィリップはゆっくりと教室の中に入って行き、礼央もその後を恐る恐るついていった。子供達の目線が痛いほど礼央に向いているのがひしひしと肌に感じた。それは彼をより一層緊張させた。フィリップは女性教師の前まで行くと授業を邪魔をして悪いねとお詫びをした後、彼女に簡単にこれまでの経緯を話した。礼央に目線を向けながら聞き入る女性教師。説明が終わるとフィリップは礼央を紹介した。
その女性教師は右手を差し出し夏のヒマワリが満開に咲いたような笑顔で自己紹介をした。
「はじめまして。私はアイリーンよ。宜しくね」
礼央も自己紹介をした。そしてフィリップは彼女に今日の授業を後ろから見学させてもらうよと伝えると自分の手を優しく礼央の肩にあて、教室の後ろに移動した。彼女は何事も無かったようにまた授業を再開した。彼女は生徒達に立つように促し、自分はピアノの前に座り、伴奏を始めた。生徒達の合唱が始まった。礼央の聴いたことのある曲だった。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す夏の日
一人ぼっちの夜
幸せは雲の上に
幸せは空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぼっちの夜
窓の外に見える夏の暑い日ざしに照らされた木々を眺めながら礼央は生徒達の歌う曲を聴いていた。四十分の授業のほとんどを歌を歌うことに費やされた。ふと礼央の視線が窓際の後ろから二番目の席に座っている男の子に向いた。他の生徒達の楽しそうな生き生きとした顔とは違い彼は少し寂しそうにうつむいたままだった。授業が終わるまで一度も上を向くことなく。
授業が終わった後、アイリーンはフィリップと礼央の所までやってきて、クラスの引渡しをするにあたって一度どこかで打ち合わせできないかと尋ねた。これから礼央の住居の手配と生活用品の買出しをしないといけなかったので結局打ち合わせは明日の放課後になった。
その日の午後のほとんどをアパートの手続きと今後の生活用品を揃えるのに費やされた。フィリップが手際よく家具付きのアパートの手配そして生活用品一式と一週間分ほどの食料を買い込んでくれた。全部終わったころには午後五時を回っていた。その後フィリップはツーシーズンリゾートまで礼央を送り届けてくれた。
自分の部屋まで戻ると張り詰めていた緊張と疲れでベットに倒れ込んで天井を見上げた。そしてこれから来るべき将来を思い浮かべてみた。今まで日本で培ってきた全てを捨て、この土地でこのまま一生音楽を教えることになるのだろうか。だけど今の彼にはそれは考えられないことだった。母親が許すわけがない。
本当は中学生の頃、ギター・マンドリン部に入部したかった。だけど、都内有数の私立高校に入学する為に両親は礼央が中学一年生の頃から毎日放課後塾に通わした。楽しそうに音楽室でギターとマンドリンを演奏している部員達を尻目に。あれはちょうど中学三年生の九月だった。高校入試のプレッシャーから潰れそうになっていた時、さっきの男の子と同じように上を向くことができなかった。そんな時にたまたま音楽室でギター・マンドリン部が演奏していた曲も「上を向いて歩こう」だった。夏の終わりの残り火のような夕日を受けて演奏していた部員達。彼らの楽しそうな瞳が今も脳裏に焼き付いていた。
翌朝、礼央は七時に目を覚ますと夕方までどうして過ごそうかと考えた。ホテルは今日正午にチェックアウトすることになっていたので夕方の打ち合わせまで今日から住むことになるアパートに移動することにした。朝食をいつものホテルのレストランでとった後、午前中はビーチで過ごした。雨季だと聞いていたがリカルドのおばさんが言っていた通りここ三日は澄み切った晴天が続いていた。二日前と同様にホテルのビーチチェアに寝そべって、前方に広がるマリンブルーの海を眺めた。波のない静かな海。そして青空を自由に飛びまわる一羽の海鳥。
これから礼央が進もうとしている方向は明らかに両親が設定したレールから反れることになる。そして彼らに相談することなく自分でそれを決定した。今までの彼では考えられないことだった。両親の言った通りに今まで生活してきた。それは礼央にとって当たり前になっていた。しかし、今回は目に見えない誰かが彼を強力に後押ししてくれていた。考えれば考える程それは礼央の心を混乱させた。未知の世界に入っていく自分とそれを押しとどめ日本に帰国して普通の生活に戻そうとする自分との心の葛藤。
誰に届くともわからない空に向かって礼央は答えを求めた。だけど聞えてくるのは静かな波の音だけだった。
その日の夕方、約束どおり礼央はフィリップの事務所を訪ねた。すでにアイリーンは書類を応接テーブルの上に広げて、それをじっと眺めていた。フィリップは笑顔で迎えてくれ、昨日と同じようにソファのところまで案内してくれた。彼女が早速礼央に書類の入った封筒を手渡した。そこには簡単な授業の進め方と授業で演奏する歌の楽譜が挟まれてあった。
「これが簡単な授業の進め方だけど、慣れていけば、自分なりのやり方に変えていったらいいと思うわ。生徒達に音楽を教える私達の一番大きな目的は貧しい暮らしをしている彼らに楽しみと生きる希望を与えることだから」
「それと生徒達に歌わす曲の選曲だけどここに入っているものはあくまで私が使っていたものだから、もし何か他の曲があるならどんどん取り入れていってくれていいのよ。その辺は臨機応変にね。ここでの音楽の授業はルールがあってないようなものだから」
アイリーンはフィリップと顔を見あせて微笑んだ。
その夜、礼央はもらった書類に一通り目を通し、自分の過去を思い出していた。自分が覚えている限り今まで心が躍ることなんてなかった。ギターを弾いている時だって楽しかったけど、いつもどこかに罪悪感があった。きっとあの男の子も同じ気持ちなのかもしれない。いや、何不自由なく育ってきた礼央なんかより何百倍も苦しいに違いない。そしてあの男の子以外にも希望の火が消えてしまっている生徒達がたくさんいるはずだ。そんな彼らに希望を与えるお手伝いをさせてもらえる機会なんてそうそう望んでも与えられるものじゃない。今さら後戻りなんてできない。心を決めて前に進んでいくしかない。
礼央は明日に備えて早めにベットに入った。
彼の眠りの谷が一番深いところまできた頃、夢をみた。前も後ろもわからない真っ暗な空間の中に一人で立っていた。そして遥か向こうの方に小さな光がぼんやりと見えた。そこからまるでオペラのテナー歌手のような良く通る大きな声が礼央の心を突き刺した。
「強くそして勇ましくあれ。あなたはここにいる人々を私が彼らの先祖に譲ると伝えた土地に導いていくのだ。私のしもべ、モーゼがあなたに与えた律法を良く守り、これから離れて右にも左にも曲がってはならない。そうすればあなが行くところどこででも成功することができるだろう




