小噺:夜に見る桜と
初めての戦いが終わった日の夜、久遠寺は一人、学院内の食堂にいた。
目的はご飯を食べに来た――――とかではなく、なんとなくでフラッと立ち寄ったというだけである。
夜ご飯は、ブーケ隊の控え室で、清和と夜桜と一緒に済ませている。
そもそも、今の時刻は夜中の十二時を回っており、夜ご飯を食べるには遅すぎる時間だ。
もうお風呂にも入り終えて、着慣れないパジャマに袖を通している。
こんな夜中に、自分の部屋を抜け出してここまでやってくる。その行動にはこれといった意味はない。この場所に用があったとから、部屋にいることができなくなったからとか、そんな理由はない。
ただ単に、眠れなかった。
今日――――まあ、厳密に言えば昨日のことだが――――の出来事を振り返ってみれば、いろんなことがあった。
戦声機を持つための検査とか、突如として始まった夜桜と訓練。その直後の実戦。
これだけのことをした一日だ。疲れているに決まっている。
だけど、久遠寺は眠ることができなかった。
十時過ぎにベッドに入り、目を瞑っていたが、どうしても落ち着かない感じがして、寝付くことができなかった。
そして気づけば、今日が終わろうとしていた。
そんな彼は、フラフラと学院内をさまよった。
消灯時間はとっくに過ぎているため、誰か見つかったたら怒られてしまうかもしれない。でも、まだここに来たばかりの僕にはわからなかったが通用するだろう。
フラフラと学院内を歩きわった結果、久遠寺は食堂に行き着いた。
昼ご飯を食べた時ここに来たから、久遠寺のフラフラルートにこの食堂は組み込まれていたわけなのだが、彼がこの場に立ち止まった理由はそれの他にあった。
窓から見えた――――桜が綺麗だったからだ。
消灯時間はとっくにすぎて、照らすのは月明かりのみになっていた学院の校庭に、一本の大きな桜の木が、堂々とそびえ立っていた。
ほんのりと明るい校庭に、月明かりを浴びながら、桜吹雪を巻き起こしている。
あまりに幻想的なその風景に、久遠寺は思わず目を奪われた。
そして、久遠寺はその景色をずっと見てみたいと思い、それが一番よく見える窓際の席に一人ぽつんと座った。
昼間は何人かの職員やら生徒がいたこの食堂も、今では久遠寺一人だ。
静寂と孤独感が、その場を支配していた。
でも久遠寺は、悪い気はしなかった。
何分経っただろうか。
久遠寺がしばらくの間、窓の向こうの景色に見とれていると、遠くからひとつの足音が聞こえてきた。
その足音は、コツコツと音を立てこちらに近づいてくる。
久遠寺は自分以外に人がいたことに驚いて、すぐ隠れようとした。
消灯時間が過ぎているのだから、怒られる可能性がある。そう思って取ろうとした行動だったが、先程自分が考えていた言い訳を言えばいいやと思い直し、久遠寺は隠れることをやめた。
そして、足音が真後ろまで来たところで、久遠寺は後ろを向いた。
そこに誰かがいるのはわかったが、薄暗くて誰かは分からない。
「こら、そこの生徒。消灯時間はとっくに過ぎていますよ」
夜だからか、音量を絞った叱責の声が暗闇から聞こえてきた。
聞き覚えのない声だった。というより、意図的に声色を変えているのか、違和感のある声をしていた。
「ごめんなさい。ここに来たばかりで、わかりませんでした」
久遠寺は、用意していた言い訳を放った。
「その言い訳は、あなたに消灯時間を教えた人には通用しませんよ」
聞き覚えのないと思っていた声は、聞き覚えのある声に変わった。
単調な言葉運びと、自然体な敬語。この声はまさに――――。
「夜桜…………」
「こんばんは、久遠寺さん」
夜桜の顔に月明かりが届き、その表情があらわになる。
夜桜は怒った様子もなく、笑顔だった。
「ごめん、こんな時間に部屋の外に出ちゃって」
「いいんですよ、私だってここまで遊びに来ていますから」
久遠寺を咎める様子もなく、逆に悪いことをしているのが楽しいと言わんばかりに、夜桜の声は明るかった。
「すみませんね、少しちょっかいをかけてみたくて」
夜桜はニコニコしながらそう言った。
おそらく、ちょっかいというのは先程の声色を変えて話しかけたことの話だろう。
正直、ドキッとはしたけども声の変え方があからさますぎて、ヒヤヒヤよりも違和感が勝った。
本来なら、もう既に寝ている時間なため、いつも制服姿の夜桜も、見慣れないパジャマ姿になっていた。
「眠れませんか?」
夜桜は久遠寺にそう問いかけながら、彼の隣に座った。
「うん。なんだか、落ち着かなくて」
「そうですか、それは残念です」
「残念なの?」
「はい。残念です。あなたにとって、この学院は落ち着いて生活ができる空間であって欲しいですから」
彼女は、本当に残念そうにそう言った。
夜桜のこの言葉は全て、彼女の本心から出た言葉であるから、嘘偽りもなく綺麗な言葉だった。
いつもは、その場のノリで話しているような彼女だけど――――いや、だからなのかもしれないけど、思いを語る言葉は人並み以上だった。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」
久遠寺は夜桜にそれ相応の誠意を持って、そう返した。
夜桜はそんな久遠寺を前に、何も言わずにただ窓の方を眺めた。
「桜、綺麗ですよね」
「うん。思わず、見とれてた」
「実は食堂のここらの席は、学院内でも屈指の花見スポットとして評判の場所なんですよ」
「へぇー、そうだったんだ。どおりで、桜がよく見える」
久遠寺は納得したように笑った。
「あの桜はですね、私の母が守ったんです」
「守った?」
「そうです。本当なら、あの桜はこの学院を立てる時に切り倒されるはずだったんです。けど、私の母がそれを拒んだので、今もあの場所でああやって生えていることができるんです」
夜桜は一瞬、久遠寺の前で親の話をするのはどうだろうと思ったが、逆にそこまで意識してしまうと、久遠寺もあからさまに気を使われているようで、いい気分をしないだろう。そう思った夜桜は、遠慮する素振りを見せなかった。
「久遠寺さんの前でこんなことを言うのは、厚かましいかも知れませんけど、私は結構母親にレールを敷かれるというか、使わなければいけない言葉を縛られることがありまして。何度も腹を立てたものです」
久遠寺の家庭事情を聞いていると、夜桜自身が持つ親とのいざこざなんて、ちっぽけなものではあるし、親と子の絆がこれっぽっちもない久遠寺の家と、夜桜の家では「腹を立てた」なんて言葉の重みは全く違っていた。
「でも、あの桜を見る度に思うんです。私はあの桜を見て、何度も心を癒してきた。だからこそ、いつか親孝行しないとなって」
夜桜はほおずえをついて、桜を見ていた。馳せる思いを、どこかに閉じ込めるように。
「夜桜にとって、あの桜ってそんなに大切な存在なの?」
「ええ。それはもう、とんでもなく。もし、あの桜を斬り倒そうと言い出す輩がいれば、土に返してやるつもりです」
「そ、そんなに…………」
夜桜が突然過激なことを言うから、久遠寺は少し引いてしまった。
そんな久遠寺を見て夜桜は、「冗談ですよ」と言って笑った。
「でも、大切な存在であることは紛れもない事実です」
「久遠寺さん、私はですね、あの桜のようになりたいと思うんですよ」
「桜のように?」
「あ、今、突然ファンシーなこと言い初めてどうしたんだこいつって、思いましたね」
「いや、別に思ってないよ」
何故か、ありもしない疑いをかけられる久遠寺。被害妄想もいいところである。
「でも、思いませんか? 木みたいな生き方ができれば、かっこいいなぁーって」
「う、うーん?」
久遠寺は夜桜の言っていることがよくわからなかった。一体、夜桜は木のどんな生き方について、感銘を受けたのか、どうして、自分もそうありたいと思うのか、それがいま一つよくわからなかった。
「だって、木は自分の力で成長して、ああも立派に育っていくじゃないですか」
その疑問に答えるように、夜桜は言葉を綴った。
「木っていうのは、雨とか日光とかがないと生きていけないものですが、それを得るために根を伸ばしたり、葉を重ならないように成長させたり、そういう工夫の上で生きて、成長する。それってつまり、ほとんど自分の力で成長していっているようなものじゃないですか」
夜桜は得意気にそんな話をし始めて、久遠寺はそれにただ耳を傾けていた。
桜の木は、風で体を動かしているものの、その姿からは静けさしか感じられない。まるで、眠っているかのように、ひっそりとその場に立っていた。
「人は一人では生きていけない。なんて言葉があるように、人は誰かに助けてもらわないと生きていけない。でも、木は種から枯れるその日まで一人で生きていく。私も、そんな生き方をしてみたいものです」
夜桜は、子供がテレビで見たスーパーヒーローに憧れるように淡々と自らが木によせる憧れを口にした。
「宿り木のように、誰かの心に寄生して、その心を吸いとりながら生きていくよりも、私は自分のために、自分の心を信じて生きていきたい。もう、あの戦い――――青森防衛戦のような思いはしたくない」
久遠寺から見た夜桜は、そのとき今までに見たことのないくらい、寂しげな表情をしていた。
「青森…………防衛戦?」
「ああ、すみません。こちらの話です。気にしないでください」
夜桜は詮索されたくないのか、聞きなれない言葉を復唱した久遠寺への返答をなあなあに済ませた。
夜桜にも、踏み込んで欲しくないラインというのあるものなんだろう。久遠寺は、そう思ってその先には何も言わなかった。
高校生ふたりの、真夜中の食堂での花見は、それからもうしばらく続いた。
月明かりが、そんな二人を優しく見守っていた。