怪物
――――言葉は凶器へと変貌した。
八年前、人類はその生命活動に大きく支障をきたすものを発見した。否、発見したのでは無く、それは図らずして存在を露わにすることになった。
それは一種のエネルギーであり、そのエネルギーが創造されるに至った経緯は誰にもわからない。もともとそこにあったのかもしれないし、突然そこに現れたのかもしれない。
しかし、ただ一つだけ言えること。
それは、このエネルギーによって人間は、自らのアイデンティティを失ってしまったのである。
そのエネルギーの名前とは――――。
『言霊エネルギー』
どんなエネルギーよりも人間が生産し、消費するエネルギーであった。
人の言葉には、言霊が宿っていると言われているが、その言霊が一種のエネルギーとして、物理法則や世界のルールに組み込まれたのだった――――。
日本の東北に位置するいくつかの県。
秋田県、岩手県、新潟県の北部、福島県、宮城県、山形県の六つの地域は、日本の中で言葉を扱うことが許されていた。
言霊エネルギーの出現後は、日本に限らず世界中で次々と電子機器や本など、様々な物体の突然の損壊が報告されていた。
それらに共通していたのが、どれも言葉を取り扱っていたということだった。
電子機器や本が表示した言葉に言霊エネルギーが宿り、それらが熱、電気、運動などの他のエネルギーに不規則に変化することで、物体の損壊を招いていた。
普段、人々が当たり前のように使っていたものが、一瞬にして、危険なものになってしまったのである。
しかし、その現象はある日、この六つの地域でピタッと止むこととなった。それは、とある一人の男のおかけであったわけなのだが、それはまた別の機会に話すとして。
その結果、それらの地域には人口が集中し、遂には、日本の安全地帯――――Japan Safety Area(通称JSA)と呼ばれるようになった。
しかし、それだけで話は終わらなかった。
聖域に見えていたそのJSAに突如として、言霊エネルギーが造り出した怪物――――言化が出現したのだった。
この化け物がここに現れた理由。それは。
――――神様にしかわからない。
JSAの一角である秋田県。
そこの適当な民家に住むかの少年は、今日もリビングの隅で体育座りをしていた。
まるで色が抜け落ちてしまったような白髪と、弱々しく細い体。力のない表情。それら全てが、彼の軟弱さを克明に表していた。
他の場所に比べて、随分と生きやすい場所に住んでいるはずの彼だったが、それでもこの家を窮屈に感じていた。
その理由は――――。
パリンッという音と共に、少年の頭上でビール瓶が砕け散る。その残骸が、彼の真っ白い頭髪の上にこぼれ落ちる。
その瓶は、目の前にいる母親であるはずの人間から投げられたものであった。
そう少年――――久遠寺 令は、親からの暴力に悩まされていた。
「この無能め!!」
それが久遠寺の母親の口癖だった。
至って普通の人間であり、そこまで大きな欠陥もなく生まれ育ってきた久遠寺だったが、それでも一つだけ大きな欠陥があった。
それは彼が――――『Word Wielder』ではない、ということだ。
『Word Wielder』とは、コトバケが生まれるよりも前に現れた、言霊エネルギーを操ることのできる人間の総称である。
言霊エネルギーは言葉に宿る。それは人が発した言葉に対しても、例外ではなかった。
人が言葉を発することでエネルギーが生まれ、それが他の人へ危害を与えるなんてことが、世の中ではざらに起こっていた。
その結果、言葉は簡単に凶器になるようになった。
そうしたいきさつがあり、近年では言葉を扱うことが難しくなり、次第に人間は言葉を使用することを恐れ始めた。
もし、エネルギーが暴発すれば、自分の発した言葉が誰かを傷つけてしまうかもしれないからだ。
しかし、そんな中で『Word Wielder』は自ら発する言葉をうまい具合に他のエネルギーや物質に自らの意思で変換することで、言葉の使用を可能にしていた。
また、その言葉を扱うことで、新たなエネルギーを生み出せるため、そのエネルギーを酷使して社会への貢献だってできる。
この時代において、言葉を操ることのできる『Word Wielder』という存在はとても重宝される人材となったのだ。
さらにコトバケの出現後は、言霊エネルギーを操作できる『Word Wielder』は、それに対抗するための兵力としても使われるようになっていた。
そんな『Word Wielder』には当然、大きな価値がある。
しかし、だからと言ってそれ以外の人間に価値がないと言われれば、それは間違いである。
間違いであるはずなのに――――。
「いつになったら、『Word Wielder』として覚醒するんだよ!」
久遠寺の母親は、久遠寺が『Word Wielder』でないことに苛立っていた。
「やめとけ、やめとけ。そいつに文句いったとこで意味ねぇよ。それで『Word Wielder』に覚醒するわけでもないしな」
母親を止めているようで、久遠寺のことをバカにしているその男は、久遠寺の父親だった。
平日の昼間からビールを飲んだくれて、ぐうたら過ごしている小太りのこのおっさんは、こう見えてだいぶ裕福な暮らしをできていた。
残念なことに、今の社会はどんなに働いていなくても『Word Wielder』って言うだけで金は入ってくる。それだけ、『Word Wielder』は貴重で価値のある存在なのだ。
(この家は、両親は揃って屑みたいだな)
久遠寺は心の中で、そう吐き捨てた。
「あ? なんだよ、その顔。なんか文句でもあんの? あんたが無能で、文句を言いたいのはこっちだっつーの!」
久遠寺は言葉は心の中に止めておいたつもりだったが、表情にまでは頭が回らず、浮かんでいた不満をもろに母親に見せてしまったようだ。
冷たく光る水色の瞳が、彼の母親のことを睨んでいた。
そのせいで激昂した母親は、近くにあったビール瓶を再び久遠寺に向かって投げようとする。
(あぁ、またか。今度こそ、頭に当たっちゃうかもな)
ただ、もうすでにそれに慣れてきた久遠寺は、冷静にそんなことを考えていた。
冷静にとは言っても、彼の目の前にいる親らしき人間達への憎悪は、留まることを知らない。
憎い。ただひたすらに憎い。こんなやつらに、自分の価値を否定されるのが嫌で嫌でたまらない。
(あぁ、こんなやつら死んでしまえばいいのに)
本気で、そんなことを思っていた。
母親が、ビール瓶を振りかぶり投げようとする。
慣れてきたとはいえ、痛いのは嫌なので、顔を腕で被うように防御の姿勢に入る。
ビクビクしながら、自分の腕にビール瓶が当たるときを待つ。
細く弱々しいこの腕で、どこまで自分を守れるだろうか。
しかし、そのときはいつまで経っても訪れない。
なぜなら――――そのビール瓶が投げられるよりも前に、久遠寺の家が崩壊したからだ。
激しい轟音が、久遠寺の耳にこだまする。
一体、何が起こったのか分からず、視界を妨げる原因となっていた腕をとき、目の前の景色を見る。
そこには、驚くべき光景が広がってた。
大きなメキシコサンショウウオの姿をした怪物が、自分の家を破壊していたのだ。
そいつの姿形は、完璧にメキシコサンショウウオと言ってしまっても語弊がないほど、それに酷似している。普段は四足歩行で動いていて、四肢は短く、尾はある。違う点があるとすれば、それは民家なんて簡単には壊してしまうほどの大きさと、皮膚の色が雪のように真っ白だということ。そして、顔だろう。
こいつには、目も鼻もない。顔には大きな口が、ただひとつあるばかりである。それゆえに、この怪物の放つ異様さと、不気味さは一級品である。
その怪物こそが、コトバケである。
「BUABUABUABUABUABUA!!」
コトバケが、聞いたことのないくらい大きな音で鳴く。
久遠寺は反射的に耳を塞いだ。
目の前を見ると、コトバケが畳二畳分のほどの大きさがある前足で踏み込み、リビングを半壊さていた。
その足元には、久遠寺の両親が無惨にも踏み潰されていた。
からだの半分は押し潰され、血が溢れ出ていた。これではもう、助からないだろう。
そう悟った久遠寺の顔には、笑みが浮かんでいた――――。
「現場の状況は?」
久遠寺の家が、コトバケに破壊される少し前。
一人の女性が、携帯電話で誰かと連絡を取っていた。
女性は、どこかの学校の制服に身を包んでいる。
上品で艶のある茶髪に、暫時視線を奪われてしまいそうなほどの美しい顔立ち。爪先まで整えられた身だしなみ。
彼女を一言で表すなら、可憐な令嬢という言葉がよく似合うだろう。
そんな彼女は今、一刻を争う事態に陥っていた。
『住宅街に一匹のコトバケが侵入した。このままでは、住民に被害が及んでしまう。至急、その場へ向かってくれ』
「了解しました」
ピッ。
そこまで会話したところで、電話を切る。
「急がないと、大変なことになりそうですね…………」
そう呟くと、女性は人の脚力では到底出し得ないほどの、高スピードで走り始める。女性の茶色い髪が、激しくたなびいた。
彼女の名前は、夜桜 緑。
コトバケと戦う使命を課せられた、兵士――――司言者である。
目的地は、あの怪物のいる住宅街。間に合うことを、祈るばかりである――――。