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哲夫の成長物語

この話には、母親の就労と子供の不登校とを結びつける意図はありません。現代においては、働く母親の方がメジャーなこと。また、専業と兼業の2パターンで書いたところ、後者がより深刻度が低い内容となったため、後者のケースを採用しています。

働き始めてもう3週間になるだろうか?仕事に追われる日々は忙しく過ぎる。自分では大したことをした自覚はないのだが、朝起き上がる時、節々が痛い。本はけっこう重いから、知らずに腰を使っているのだろう。

「そのうち慣れるわよ」

とは、他のスタッフが言っていた言葉だ。

月を跨ぐ頃には結美たちの等身大ポスターは別の人の広告に替わった。いらなくなった結美のポスターを貰い受けるという淡い(そのじつ、かなり真剣な)期待は脆くも崩れ去った。ポスターは全て回収され、どこかに返品されていった。

入れ替わりに届いたのは、結美のスキャンダル写真が載った週刊誌の山だ。

「アイドル牧野結美が、中年の芸能人Mと店で酒を飲んで酔っ払い、手を繋いで歓楽街の闇へと消えていった」

腹立たしいので中は読んでいないが、そんな内容らしい。

「Mは数々の女性と浮名をながした有名人。このところ急に活動の場をひろげた牧野は二十歳になったばかり。大人の飲酒は法律に違反はしていないが、その飲みっぷりからして未成年の頃から飲酒の習慣があったのだろう。うんぬん。」

いや、読んでるじゃん俺。

休憩時間に、あの雑誌が机に置いてあったから、つい読んでしまった。


「哲夫くん、週刊誌の売れ残りはもう下げちゃって。今日届いた新しいのを、空けたスペースに積んでね。」

哲夫は結美のスキャンダルが載った週刊誌を店先の雑誌コーナーに並べるように言われた。

週刊誌は束にすると結構な重さだ。腕と腰の筋肉が痛い。おまけに、あの記事のせいで胸までズキズキ痛む。身体の痛みに息苦しさまで加わって、なんだかフラフラしてきた。

哲夫は本を並べ終えると、一旦腰をおろした。

(今日はもう、帰っていいかな。けど、落ち込んでばかりもいられない。)

実は今日は、悪いニュースばかりではない。特別に良いことが一つある。

はじめて自分の力で稼いだ日。アルバイトの給料日なのだ。自分が帰る頃までには先月分の給料が口座に振り込まれるはずだ。

あとでモール1階のATMに、お金をおろしに行くんだ。


そこに、新人研修を一緒に受けたおばちゃんが店の前を通りかかった。早朝シフトが終わって、買い物をしてきたと言う。右手にバッグ、左手には買い物袋を下げていた。おばちゃんは哲夫を見ると声をかけてきた。

「こんにちは、頑張っているわね。」

哲夫も、おばちゃんをみとめて挨拶する。

「今日は給料日ですね。」

口元は、二人して笑っていた。

「あら、ひょっとしてお給料もらうのはじめてなんじゃない?何に使うの?」

「母親とかに何か買ったほうがいいのかな。おばさんなら、子供からのプレゼントは何が欲しいですか?」

「それは素敵な息子ね。そうね、美味しい物食べて温泉旅行かしら。」

「アクセサリーや服とかはどうかな?」

「もう、何言っているの、今のは冗談よ。子供はそんなこと考えなくていいの。自分が欲しい物を買いなさい。その姿を見せるだけで、充分親孝行だわ。」

おばちゃんはケラケラと笑った。


哲夫が並べた例の雑誌の隣には、牧野結美のグッズのキーホルダーが3つ吊り下げられて販売されていた。

(週刊誌を買って帰って家で読んだら、きっともっと不愉快になる。Mとのツーショット写真はきっと「結美」の宣伝活動のやらせだろう。あるいはMの売名行為だ。芸能人は良きにつけ悪しにつけそうやって名前を売るものだとどこかで聞いたことがある。もし、写真が本物だとしても結美は本気で付き合ってはいないだろう。もし万が一、本当に付き合っていたとしても、きっと二人の関係は長続きなんてしない。Mは軽薄な男だ。ウブな結美には相応しくない。結美にふさわしいのは、もっと堅実で若い男だ…)

結局、哲夫は帰りにスーパーで鰻と雑誌の横にあった『YUMI』のネーム入りキーホルダーを買った。鰻は家へのお土産のつもりだ。

バイトの給料日に結美のグッズを買い足していくのは、哲夫の楽しい習慣になった。


最初は不安を覚えたバイトだったが、仕事は2週間くらいで慣れてきた。2ヶ月経つ頃には、気分だけはすっかりベテランだった。お試し採用期間も、残すところあと一ヶ月。出口が見える。腰の痛みも体の使い方を覚えたり体力がついて、我慢できるようになっていた。こんなことなら、あと1ヶ月を研修の安い時給で働くのが惜しいくらいだ。


今月からシフトがよく一緒になるおばさんがいた。新人研修で一緒になったおばちゃんとは別で、小綺麗でハキハキしている人だ。元気よく挨拶をしてきて、周りのウケもいいみたいなのだが、いつも勢いがはみ出していた。

「この2か月はどうしても家の用事で仕事に出られなかったの。家庭を預かる主婦業って本当に予定がままならない。」

おばさんは自分の休みの言い訳を、何故か新人の俺に対してする。

正直言って、おばさんの「家の用事」なんて若い者には興味ないんだけど。それに、休みたければ休めばいいじゃないか。バイトなんだし、上司が認めているんだし。

哲夫の心の内の声は、いつも相手にだだ漏れだ。本人は気付いていないけれど。


「すぐに復帰するって言ったのに、上が新しい人を雇っちゃって。そんなことする必要ないって言ったのに。」

おばさんは僕を指して「必要ない」と言っているのだろうか?でも、口を見ると笑っている。悪気はないのだろうけど、なんかいつも話のタイミングが引っかかる。こんなふうに感じるのは周りで僕だけなのだろうか。

「私ここで長いこと働いているの。新人の君は知らないと思うけど、改装の時の引っ越しは大変だったのよ。今の人は楽でいいわよね。」

おばさんはこの店に思い入れが強いのかなと思う。熱心なのはいいことだ。「綺麗なお店で結美の顔を見ながら働いて、お金を稼いでグッズを買う。」

俺ならそれだけで十分満足なんだ。


「みんなちょっとこちらへきて手伝って頂戴。運ぶものがあるの。若い男なんだから力仕事はお願いね。」

おばさんは休憩所で休んでいた全員に声をかけた。

「若くないけど、男が手伝いますよ。」

部屋にいた初老のおじさんが、笑いながら立ち上がる。おじさんは人と話すのが好きで、この店でアルバイトをしていると聞いた。会社を早期退職して、やりたいことをして過ごしているのだそうだ。

別のアルバイトの女の人も立ち上がった。彼女は黙っておばさんについて行く。大人しい人で喋ったことがない。みんなと喋らないのは、自分も同じか。

哲夫はおくれて腰を上げるとゆっくりみんなの後を追った。移動中に雑誌コーナーの横を通りすぎる。牧野結美が表紙を飾る新しい月刊紙が積んであり、思わず見とれてしまった。

おばさんは店の入り口でこちらを向いて待っていた。

のんびり歩いてきた哲夫のことを、すごい形相で睨み付けた。

「みんなが一生懸命な時にやる気のない人がいたら迷惑だわ。お金もらっているんだから、若いからっていつまでも学生気分でいてもらっちゃ困るわ。」

おばさんはそこにいる全員にそう言いながら、店のレイアウト変更のために本棚の位置を動かすようにいう。

「あの子、若い人たちの間で人気みたいね。」

おばさんはどうやら、結美を指して言ったらしい。結美は輝いていて目も惹くもの。

哲夫はおばさんに答えなかった。作業中に話しかけないで欲しい。この棚、結構重くて危ないし。

「君って18歳なの?19歳?」

おばさんは突然、哲夫の顔を覗き込んだ。突然の唐突なその質問に哲夫は面食らった。

(どうして返事しないの?それくらい答えられない質問ではないでしょ?)

おばさんの目はそう言っている。

「なんで、まだ高校生をしているの?病気か怪我でもしたの?」

続けざまに質問攻めにされて、哲夫はギョッとする。面接官も含めて年齢と学校のことを指摘してきたのはこの人が初めてだった。みんな今まで俺のプライベートなことは「そーっと」しておいてくれていたのかもしれない。

世の中、完璧でミスを一度もしたことのない人ばかりじゃない。人には皆、それぞれ事情がある。おばさんが家の用事で仕事を休んだように。



「頼んでおいたチラシがレジ横に並んでいなかったわ。早く倉庫からとってきて頂戴。」

この頃は、もっぱらおばさんとペアで仕事をすることが多くなった。俺はいつも怒られてばかりだ。

「探しにいったけれど、見つけられなかったです。」

一時期は自信満々でいたのに、最近の俺はバイトし始めた頃の自信がなくなっている。

「バイトリーダーにちゃんと教えてもらわなかったの?もうチラシはいいからこっちのを運んで。」

バイトリーダーとは滅多に顔を合わせない。レンタル部門にいる彼は、俺が何か聞きに行くといつもこう答える。

「書店のことなら彼女に聞いて。」彼女とは俺がペアを組んでいるおばさんを指す。おばさんにチラシのことを注意されるのはもう3度目だろう。昔一度見て運んだことがあるけど、以来何度倉庫を探しても見つからない。おばさんは、俺がどこかに置きっぱなしにしただろうと責めるが、どうしよう。ないものはないんだ。

「そういえば高校生は来月はテストシーズンでしょ。理由があればしっかり休んで家で勉強しててもいいのよ、学生さんなんだから。」

おばさんはやたら学校のことを言う。

「高校生なんだから。」「いつ卒業するの。」「まだ卒業しないの。」「親の心子知らず。」

俺にだけわかる嫌味みたいに、それは料理の味を決めるスパイスのように、少しだけど効いてくる。哲夫は、この店でのバイトが最近すっかり嫌になってきた。

「来月の仕事のシフトを出す前に、必ず私に見せてね。私の方が君よりここのことを分かっているから。」

おばさんはリーダーの仕事も任されるようになったのだろうか?確かにレンタルにいるリーダーより、彼女は俺にとってはよほど存在感がある。少なくとも、俺の仕事内容は全て彼女の手の中にある。

「出勤を週2回に減らしてちょうだい。仕事が今は少ないんですって。高校生はテストシーズンだし丁度いいじゃない。」

シフト希望表を見ておばさんは俺に言った。仕事がないなら仕方がない。俺は火木でシフトを提出した。

「来週の火曜日は来なくていいわよ。イベントがなくなったんですって。」

帰りの準備をしてる哲夫におばさんが追ってきて伝えた。わざわざ知らせに来てくれたらしい。来週の出勤は週一になる。

(収入が一気に減ってしまうな)

そんなことを考えながら哲夫は家に帰った。


次の出勤日、休憩室でお昼をとっている時、俺は上の人に呼び出された。新人研修の時にいた女性だ。すごく怒っている。

「無断欠席に気をつけてください。仕事は学校じゃありませんよ、休むなら電話をかけて知らせなさい。」

「火曜日休むように言われました。」

俺は言い返した。

何かの間違いだろう。イベントの中止を伝えに来たおばさんのい言った通りに休んだだけなのだから。俺は怠惰に過ごしてしまった暇な火曜日の生活を思い返した。

「君のシフトは火木で出ていました。休むなんて話、こちらには伝わっていません。次から気をつけて。」

彼女は言い捨てると、足早に部屋を出ていった。

なんで俺が怒られなきゃいけないんだ。俺は腹が立ちすぎて、残りのお昼が喉を通らなかった。


どうして俺のせいになっているのか混乱したまま持ち場に戻ると、先に休憩を終えてたおばさんに目があった。

「俺に、火曜日休むように言いましたよね。」

俺はおばさんに近づいて、お客さんに聞こえないように声を落として言った。たとえ小声であっても、俺は完全に怒っていた。

「口頭で言ったから伝わっていなかったんじゃない。何事もきちんとやらないとね。」

おばさんは悪びれることなく言った。哲夫を睨むそれは、見覚えのある目つきだ。

それは、中学時代に俺のことをいじめていたA子の目つきだった。

一瞬、おばさんとA子が重なって見える。

哲夫は、おばさんに心底呆れて軽蔑する。と同時に、ハラワタが煮え繰り返った。

拳を握りしめ、でも、なんとか一呼吸して自分を落ち着かせた。


引きこもり時代、寝起きに萌香に罵倒された時の俺は、思わず手が出てしまった。でも、俺は結美がきっかけで働き始めたこの店を、暴力で辞めるわけにはいかない。

中学生時代にいじめられた時はA子やB美にしてやられたが、今の俺は当時のように世間の正義をウブに信じてはいなかった。

自分自身に、待つだけでは解決しないんだと言い聞かせる。

そうは言っても、怒って怒鳴り散らしたところでこの人はきっと痛くも痒くもない。ここでキレたら、俺の負けなのだ。

誰が嘘や嫌みを言ったのかとか、きっと周りの人間には関係ない。あのときだって、そうだった。

ここにいる者は、正しいのがどちらかより、俺より長く働いているおばさんの味方だろう。トラブルになったらバイトを切られるのは俺の方なのだ。少なくともおばさんはそう踏んでいる。

この人は俺のことが受け入れられないのだろう。全く理解できないけれど。おばさんは俺が嫌いということをもう隠そうともしないし、俺のことを完全に舐めている。

気分が悪くなった。

生きているものは皆、戦っている。自分より立場の弱いもの、自分が価値がないと信じる者の足を引っ張らないのは人生の損失だと考える人もいる。いや、生命の本質なんて皆そうかもしれない。そうは言っても俺はおばさんが許せない。こっちを見るな気持ち悪い。その視線がうるさい、黙れ。


アドレナリンが一気に身体中を駆け巡った。でもどうしても、今度こそ逃げたくなかった。

俺は働いて稼いでいる社会人だ、もう大人だ。守ってくれる先生や先輩がいなくても、ひとりできっとやっていける。

だが、このままでは俺の立場は圧倒的にマイナスだ。現状は首の皮一枚でつながった状態だ。


哲夫はふと、レジのそばに見覚えのある人物が立っているのに気づいた。

開いた胸、店に溶け込むリラックスした雰囲気。貫禄があり実際の身長よりも大きく見える。

それは哲夫を面接した出向社員だった。あの日以来会うのははじめてだ。


「社員の人が来ているわね。彼は忙しいから話しかけないでね。これはもう返品するやつだから裏に下げてきて。」

おばさんは哲夫の視線を目ざとく追うと、用事を言いつけた。哲夫は指定された本を持ち上げるとおばさんの指示に従うフリをして背を向けた。そして折を見て引き返すと、先ほどの男に丁寧に挨拶をした。


「こんにちは」

面接官は俺のことを覚えているだろうか。

「ええと、君は。ああ、どう?仕事は慣れた?」

男の笑みが哲夫には嬉しい。

「一応、体力には自信があるんで大丈夫です。ところで、チラシをとってくるように言われたんですが、見つけられなくって。」

哲夫はわざとらしく話をつなげて、笑顔を返した。

「チラシってなんの?」

「黄色くてB6サイズの。キャンペーン用のです。」

細々した仕事にまで責任感のある男なのだろう。腰に手を当てたまま考え込み、哲夫の質問に真面目に答えようとしている。

「ええと、あれなら規定人数に達していてもう募集していないよ。残りのチラシは全部引き上げたはずだけど。」

男はもう一度作り笑いした。


チラシが既にないということは、つまりおばさんは嘘を言っていた。あるいは長く働いているからと言って詳しくないのかもしれない。

哲夫はとっさに策を講じて話題を変えた。

「高校を卒業したんです。課題が終わって。」

「ふ〜ん。おめでとう。」

口ではそう言いながら、男は興味なさそうに答える。つまり、卒業したかどうかは大した問題ではないのかもしれない。

とにかく、これはまたとないチャンスだと思った。

「それで昼は都合が悪くなって、レンタルの方の深夜シフトに移りたいんです。今って仕事が減って、人が余っているんですか?」

「そんなことないよ。特に土日なんて無茶苦茶に人が足りていない。君がもっと働いてくれるなら、大歓迎だ。」


男は、腕時計を見た。次の店に回りたいのだろう。

「契約書の新しいのを後で渡してもらうよう言っておくから。きみ、よかったね。研修期間も終わったし深夜シフトになったら、時給だいぶ上がるよ。」

口を少し緩ませると、男の体はもう半分次の店に向かっていた。



最初こそ興奮して張り切っていたが、深夜のシフトは1週間が過ぎた辺りから辛かった。

哲夫は夜間のレンタルビデオ店が混んでいることを知って驚いた。深夜に小さな子がアンパンマンのDVDを手にうろうろしている。その子のママと思われる若い女性がラフな格好で邦ドラをチェックしている。他にも、レンタルコミックによく張り付いている若い女の子は、僕と同じ不登校なのだろうか?

「人生、学校に行かなくてもなんとかなるよ。」

そんなことを彼女に教えてあげたくなる。俺は自信を取り戻した。

それに、もう後ろめたいこともなかった。俺の正義感は緩まない。

社員に言った時にはまだだったが、俺はついに通信制の高校を本当に卒業した。


俺はバイトリーダーの下で直接働くことになった。今までも名目は彼の下で働いていたのだが、毎回顔を合わせて指示をもらうのはやはり勝手が違う。仕事もやりやすくなった。

リーダーはいい加減なところがあるが、いい味出してると思う。彼は俺をあてにもしてくれる。仕事を俺に押し付けて裏で休んでいることもあったが、そうされることは頼られているようで心地よかった。

彼にはもう一つ、尊敬できるいい点があった。彼はアイドルについて俺より詳しかったのだ。リーダーは結美が所属するグループの別メンバーのファンだという。ファンになったのは俺よりずっと遅いのだが、活動内容にかなりあかるい。彼と話していると、それが業務なのか彼の趣味の話なのか、時々境目がわからなくなる。

店員という職業柄、知っておくことも必要らしい。芸能人の動向はバイトの役に立つみたいだ。

俺にアイドルの最新情報を教えてくれる時、彼はよく口を開けて笑う。他のバイトやお客には見せない仕草だ。怒った顔はあまり見ないが、最近の彼には時々影が差す。顔をねじ曲げ額に汗を浮かべて、体調が悪そうだ。

リーダーは疲れているのかもしれない。

深夜シフトには一つだけ問題があった。仕事が終わって帰ってからもすぐには寝つけず、生活が昼夜逆転して、朝起きられなくなるのだ。リーダーはそんな生活にもう慣れていると言う。

「俺はドラキュラなんだ」と。

でも、深夜以外にも夕方のシフトや日中のシフトに入っている。彼はいつも長時間店にいる。

「若くないから、近頃は、しんどい」

と、よくボヤく。

「シフトの時間帯が日によって変わるのは体に良くない。」

リーダーは、呟いた。

深夜に決まって働くなら、休みの日も夜起きて日中は休んだ方がいいのだそうだ。シフトが日によって変わるのは、体内時計が狂って身体に良くないと。

でも、彼はリーダーだから体調に合わせて好きに休みは取れない。彼はいい加減に仕事をしているように見えても、リーダーとしての店に対する責任感はとても強かった。

この前、客のいない時にリーダーは俺の時給をこっそり聞いてきた。

「へぇー。」

俺が正直に答えるとリーダーはそう言って、彼の時給も教えてくれた。

肩書と責任の割に時給が俺と大して変わらないのには驚いた。彼が言った金額は本当だろうか?それとも俺に気を使って嘘の金額を言ったのだろうか?


「俺をキャラクターに例えるとなんですかね?教えてくださいよ。」

ちょうど、新しく発売された分厚いキャラクター図鑑を彼と一緒に新刊コーナーに並べていた時だった。

俺は軽口を叩くふうな口調で、そのじつ結構真面目にリーダーに尋ねた。相変わらず俺の中では、妹の萌花に言われた「お兄ちゃんのキャラ」と言う言葉がまだどこかで燻り続けているのだ。

自分が周りからどう見られているのかが、どうしても気になってしまう。

俺が、男だから?

いや、みんなきっとそんなもんだろう?


あれから、萌花と大喧嘩して部屋に引きこもっていた時から、俺は成長を遂げただろうか?牧野結美のポスターがきっかけで働くようになって、俺は俺なりに頑張ってきたつもりだ。

キャラクター図鑑に並ぶデフォルメされたキャラ達はどれも可愛いしカッコいい。だが、自分にぴったり合うものとなるとピンとくるものにはお目にかかれていない。

そうだ、フリースクールの先輩に言わせれば俺のキャラは、

「女神アストレアに捨てられても一人正義を見守り続けるナイト。いや、物言わぬ道具の天秤」だったっけ。

そんな孤高でカッコいいイメージのキャラクターを世の中の作品に探し続けている。

「う〜ん。ノコノコかな?」

リーダーは少し考えてから、答えた。

「えっ?ちょっとそれってひどくないですか?亀ですよね、雑魚キャラの。」

俺は亀なのか?ノロマで最初に踏みつけられる雑魚なやつじゃん。

リーダーは、俺のことをかってくれてると思ってたんだが。もうちょっと、なんと言うか、イケメンとまでは言わないが、強くてカッコいいキャラをリーダーの口から期待していたのだが。

「不満か?これでもお前のこと、褒めてんだぜ。ノコノコ、あいつ踏むと安全な殻に引っ込むだろう?それで、投げると武器にもなるし。踊る姿が可愛いし。」

哲夫の脳裏に、腕をくるくる左右に振って踊るノコノコの映像が浮かぶ。

ああ、聞くんじゃなかった。聞いた俺がバカだった。チェ…。

「そんなにショックか?悪かったよ。それなら、俺のキャラは、なんだと思う?」

リーダーは逆に聞いてきた。

「じゃあ、ドンキーコングで!」

「お、ずいぶんとクラシックだな。」

リーダーは笑いながら背を向ける。後ろ姿は背中から腕にかけての筋肉がついていて、ゴリラみたい。かっこいい身体だった。俺も、あんたのこと褒めてんだぜ、リーダー。

「新しいCDとDVDが、来週同時発売されるの知っているよな。」

リーダーに言われた言葉に、哲夫は慌てて仕事モードの素に戻る。勤務中にふざけすぎたみたいだ。

「なんのDVDですか?」

「お前ちゃんと雑誌読んでチェックしていないだろ。牧野のいるグループのだよ。」

哲夫は知らなかった。これは趣味の話だろうか、それとも仕事の話なのだろうか?

「初回限定版には今年のツアーの前売り整理券がついているからな。整理券が2枚ないとツアーに申し込めないんだよ。お客さまの中には熱心なファンもいるけど、買い占めがおこらないように。CDとDVDの販売はそれぞれ一人につき平等に2枚までと決まっている。レジでちゃんと気をつけて見ていてね。」

リーダーのそれは、大人買いを防止するための業務連絡だった。

「俺も一枚買うんつもりだ。今年のツアー観戦しないから、整理券はお前にやるよ。」

リーダーは口を開けて、いつものように笑っていた。


牧野たちの初回限定版の売れ行きはそこそこだったが、発売初日が過ぎてもまだ平積みされていた。哲夫はリーダーに断ってからCDを一枚買った。思わぬ臨時出費だ。手帳を開き、今日の支出額を記入する。哲夫の日々の出費の中では、なかなか大きな買い物だ。

その手帳の間にはリーダーがくれたのと、自分で買ったCDに付いていた整理券の2枚が挟まれた。

哲夫の心を新たな決意が巡り始めていた。整理券は、ほどなくしてライブチケットに取って代わられた。哲夫にとっての、初ライブである。


ライブ当日は、冷たい雨が降る日だった。見上げれば、底冷えのする寒空だ。

駅の階段に立つ哲夫は、ひさしからチケット片手に通りを見下ろす。

会場に向かう人々の列がすでに出来つつあった。かつてない一体感があたりを包み込み、つられて、気持ちを持っていかれそうになる。だが、今の彼の心持ちは、そんな高揚感とは全く異なったものだった。

なんと言うか、とてもフクザクな気持ちだ。

そこかしこに貼られたライブのポスターには、「お知らせ」が手書きで書き足されていた。蛍光色のレインパーカーを着た誘導係は、イヤホン片手に何か大声で叫ぶ。

「牧野結美は体調不良により、今日のライブをお休みさせていただきます。ライブは残りのメンバーで予定通り開催されます」


「哲夫くん。それは、残念だったね。楽しみにしていたコンサートだったのに、君の推しの結美が来ないだなんて。さぞ、がっかりしたろうね。」

哲夫の心に寄り添って、そんな同情めいたこと言う人があるかもしれない。リーダーなら言いそうなセリフだ。

でも、そうじゃない。俺は、気落ちなんかしていない。むしろ、今日彼女に会えないとわかってホッとした。安心したんだ、半分くらいにはね。

ポスター前に立つ哲夫は、結美不在の知らせを見て、ひとり胸を撫で下ろした。


結美の体調が良くないらしいと、つぶやきを目にしていたし、今日のライブを結美がドタキャンするという予言みたいな話は、ネットに何度か流れていた。

彼女が本当にライブに出ないのは、いよいよ確定らしい。

ああ、牧野のファンは、この列の集団の中にどれくらいいるのだろう。俺を除いても少なくない数だろう。その一人一人が彼女に寄せた思いの日々の重なった先が、このポスターに殴り書かれた文字に行き着くんだ。

リアルは、ドラマチックとは遠いところにある。そう、ポスターに書かれたこの「結美キャンセルのお知らせ」みたいなのが、本当のリアルだ。


実は、今日で牧野結美の推しを引退するつもりでいた。チケットを購入した後で、決めたことだ。

購入してしまったチケットを転売しようかと思っていたくらいだ。けれど、手続きに不慣れだし、けっきょく踏ん切りがつかなかった。

それで思い返して、今日のこのライブには行くことにした。本物の彼女を目にしてファンをやめられるかも、と思ったし。

リアルって、憧れの気持ちと遠く離れたところにあると思う。

アイドルだって中身は生身の人間で、そのキラキラした笑顔の裏側にはたくさんの汚いところが隠されてるんだろう。

もちろん、舞台で輝く結美を見たらますます惹かれてたかもしれない。推しを辞める考えが、却って揺らぐ可能性もあった。

いずれにしても、ライブで結美を見て彼女に絶望する日は先送りになった。

彼女は今日いない。

だから、俺は安心したんだ。今日は心穏やかに、初ライブ体験を楽しめそうな気がする。


会場に向かう途中で、学生服を着た女子の集団の前を通り過ぎた。高校生だろうか?みんな妙にハイテンションで、大声で笑いながらキラキラにデコったスマををあちらこちらに向けて写真を撮っている。哲夫は思わず彼女たちに目をやる。ふと、思いついた。

「俺だって、ちょっと前までは高校生だった。通信だけど。あの子たちと友達でもおかしくはないはずだった。年齢だってきっと彼女たちとさして違わないだろうし。」

アイドルファンは男だけじゃなくて女も多いと聞いていたけれど、本当みたいだ。

でも、女の子たちはニヤニヤして、一向に会場への列へと加わる様子がない。

「そうか、結美推しなのかも。彼女はドタキャンして来ないし。あの子たちは、結美に憧れてるの子なのかもしれない。」

哲夫は踵を返して引き返すと彼女たちに近づき、声をかけようとした。

だが、哲夫は睨みつけられただけだった。

「はぁっ?」

彼女たちと結美の不在を嘆くと言う試みは、脆くも崩れ去った。

哲夫に返ってきたのは、蔑みと無視だけだった。

あんまりな仕打ちへのショックとそれに続く自分の軽率な行いへの後悔。

「最悪だ、全く。結美と、あいつと一緒だ。きっと結美は、ファンになる人間までロクでもないんだ。」


数ヶ月前、哲夫がチケットを買ってすぐのことだ。

結美が例の芸能人Mとお泊まりデートした記事が雑誌を飾った。

哲夫は休憩室に置いてあった雑誌のその記事を見ずに、気づかないフリをした。自分の手帳には、印刷されたばかりのライブチケットが挟まっている。

さらに数日後、今度は別の雑誌に、ある実業家との親密な結美のツーショットが載った。

こいつも胡散臭そうな男だ。だが、一山当てた男は、いわゆる勝ち組だ。金の匂いがぷんぷんする。記事によると、結美は実業家と一緒に豪遊したらしい。

哲夫は、ちょっとだけ心が折れた。

結美のこうした行いの知らせが哲夫の中で無視出来なくなって、気づけば落ち込んでいる。

さらにスクープは続く。次々と結美の素行の悪さを暴露する、記事の数々…。


ライブが近くなる頃には、哲夫のモヤモヤは怒りに変わっていた。

「結美のことをとても尊敬していたのに。彼女は一生懸命自分を表現し続けていて、俺が親のスネをかじっている間にも、彼女は働いていたんだって。でもそのじつ、彼女は引かれたレールの上をただ歩いただけだった。男たちにチヤホヤされて、キラキラした服を着て周りには守ってくれる人がいて。俺みたいな孤独で弱い立場で必死になって働いたファンから一生懸命稼いだなけなしの金を、笑いながら吸い上げていたんだ。」

哲夫の怒りは止まらない。

「牧野結美は、アイドル家業をなんだと思っているんだ。俺たちに、せめて表面だけでも取り繕ろうとする誠意も頭もないのか。俺らファンのこと舐めている。きっと俺たちみたいなファンのことを、金を貢ぐだけの存在と馬鹿にしているんだ。」


何はともあれ、哲夫は今日こうしてチケット片手に会場までやってきた。

力いっぱい防音扉を押し開ける。ライブ会場の中は熱気で溢れていた。

気がつけば俺は、開演を心待ちにして、ウキウキしている。


アナウンスのテンションは高い。

笑顔で手を振りながら次々に舞台に登場するアイドルたち。

全ては、眩しいくらいに明るかった。

雨で濡れた服や冷えた身体の芯が、一気に温められる。

哲夫は彼女たちの作り出すアップビートな音に埋れて、リズムにのった。


牧野結美の不在は、もはや気にならなくなっていた。なんで今まで結美ばかりにこだわっていたのだろう?自分の彼女への執着が、今となっては不思議なくらいだ。

彼女たちは皆アイドルだ。誰もかれもが光って見える。

艶のある髪、汗で光る肌、よく動く儚げな手の仕草。どの子も凄く素敵じゃないか。

ああ、ライブステージは、まるで太陽のように暖かく輝いている。

哲夫は、コンサートを心から楽しんだ。


コンサートが終盤に近づき、バラードが流れ始めた。よく聞いていた曲だ。

バラードを聞いていた哲夫は、心臓が止まるかと思った。

曲に、牧野結美の声が混じっていたからだ。


 君に届くかな、私の声は

 かよわくて、はかなくて、雨の音にもかき消される〜♪

 できることならもう一度、君にあって伝えたい〜♪

 声かれるまで、ほら

 まだ、好きだよと、歌いたい〜♪

 まだ、間に合うと、信じたい〜♪


他のアイドルたちが大きく口を動かしている。けれど、ハーモニーは確かに結美の声が奏でていた。

哲夫は、必死にステージを見回す。

「間違いない。彼女の声だ。」

マイクを持った彼女が、サプライズで舞台裾から登場しないかと目を凝らす。

ステージに彼女の姿はない。

隅々まで目を走らせて、哲夫はようやく思い当たった。

「口パクだ。この曲は、とても大きな役割を結美の美声がになう。だから、生歌の代わりに録音を流しているんだ。」

哲夫は振り返り、今度は周りの聴衆の顔を見回した。

聴衆は皆ステージに見入ったままで、結美の名前を口にするものも自分みたいに首を傾げているものもいない。

「どうして?結美の歌声がそこに聞こえるのに、どうしてみんな気づかない?」

哲夫は、結美のいないステージに目を向ける。

「気付いているのに、みんなして気づかないフリをしている。どうして?今、彼女の不在を取り沙汰したら、ライブに水をさすことになるから?それとも、本当に結美の声に誰も気づかないの?」

結美のハーモニーは誰の耳にも届いているのに、彼女の存在はまるで空気みたいに曖昧じゃないか。


哲夫は目をつむる。結美の声が胸に響く。大勢に囲まれているのに、今ここにいるのは自分と彼女2人きりな気がした。

カーテンコールの拍手が鳴り響き、哲夫は我に帰った。

結美は、ついに現れない。

ステージに探彼女をすうちに、短いアンコール曲も終わった。

今度こそ、本当にフィナーレだ。


観客たちは、名残惜しくも帰りだした。哲夫も他の聴衆について、押されるように会場を出る列に並ぶ。後ろ髪を引かれる思いだった。


哲夫の並んだ列は一向に前に進まない。そうこうしているうちに、誘導係が哲夫にチケットの提示を求めてきた。

言われるままに、入場チケットの半券を差し出すと、誘導係は首を横にふる。

その途端、後ろに並んでいた男にどつかれて、哲夫は列からはじき飛ばされた。

「ニワカが並んでんじゃねえよ。貧乏人はこの列に来んな。」

哲夫をどついた男はオラついて、不機嫌な顔をこちらに向ける。

誘導係はふらつく哲夫にチラリと目をやったが、すぐにどついた方の男のチケットの確認に回った。

男が提示していたのは、哲夫の持っていない握手会のチケットだった。

並んでいた他の人も、哀れな哲夫を無視するか冷淡だ。誘導係によって、男の方はゲートの向こう側へと通された。

「どうやら俺は、並ぶ列を間違えたようだ。」


哲夫はコンサート後の握手会の存在について知ってはいたが、今並んでいた列が握手会のものとは知らなかった。

もとより、握手会のチケットは購入していない。結構な費用が必要だと認識して眼中になかったからだ。

どやされて落ち込むかと思いきや、哲夫は意外とニヤニヤと笑っている。この騒動がささいと感じるくらい、はじめてのライブは楽しいものだった。耳には、まだ結美のハーモニーが残っている。


「お兄さん、だれ推しなの?」

哲夫に話しかける人がいた。

(握手会のスタッフだろうか?また怒られたら、たまらない)。

哲夫は慌てて立ち上がり、逃げるようにその場を離れる。

ところが声の主は、後を追いかけてきた。

振り返ると、それは会場スタッフではなく知らない若い男だった。


若い男は、まるで自分を知っているみたいに親しげに話しかけてくる。

「今日のライブ、最高だったよね。」

哲夫は混乱した。その顔には、どうにも心当たりがない。

「ライブはじめてだから、人違いですよ。」

とりあえず、バイトで覚えた接客モードで返した。若い男は、自分を誰かと間違えているに違いない。

ところが、人違いを指摘してもなお、男は笑顔を崩さなかった。

彼はそのまま哲夫についてきて、気づけば一緒にファミレスでご飯を食べることになった。

若い男は気さくで、話し上手である。哲夫は、ついて来る彼に悪い気はしなかった。


哲夫は、日替わりハンバーグを注文した。一方、若い男はドリンクバーだけの注文である。

ファイレスについてきたのにお腹が空いていないのか、哲夫は男の行動がちょっと気になった。


「ライブよかったなあ。欲を言えば、もう少しチケットが手に入りやすいと嬉しいんだけど。」

若い男は、タメ口だ。


「CDを2枚買って整理券を手に入れて、それからライブチケット買うでしょ。ライブの後の握手会への参加は、さらに3枚以上の整理券が必要なんだからファンは大変だよ。でも、実は僕いい仕事見つけたんだ。収入増えたから、次のライブの握手会に参加するつもり。」

会ったばかりの哲夫に、友達みたいに話しかける。

こうやってすぐ誰とでも親しくなれるその性格が羨ましい。彼は、いわゆる陽キャってやつだろう。

そういえば、自分はもう随分長いこと「友達」と会話していない。同年代と話すのは、店員として客を相手したときくらいだ。


「やっぱ、彼女たちすげーもんな。今回のライブに向けて販売された限定盤も、ほとんどガチファンが買い占めて即日完売だったって噂だぜ。」

哲夫はつい、バイト先の援護がしたくなり、黙っていられなくなる。

「そんなこと無いよ。買い占め行為は、店では厳禁だった。それに、あの限定盤は結構売れ残って返品されたし。」

「へぇ〜、お兄さん詳しいね。業界の人なの?」

哲夫は、ちょっとだけ照れる。

(そういえば、牧野のCDの販売を手伝っていたんだものな。業界の関係者か、確かに…)

「それじゃ、返品される限定盤の分の整理券もらい放題じゃん。いいなぁ、そんな役得のある仕事についててうらやましい。」

哲夫は、慌てて否定する。

「余った整理券もらうなんてありえないよ。そんなことできない。使わなくなったポスターだって絶対に持って帰ってはいけないんだから。」

喋りながら思った。

(そうか、俺は牧野がファンから集めたお金の一部を、バイトの給料としてもらっている側の人間だったんだ。)


哲夫は饒舌になり、気づけば男とすっかり打ち解けていた。

「それで、お兄さんの推しは誰なの?教えてくださいよ。」

男は言う。

俺は、答えた、

「アッキーだよ。最近、髪切っちゃったんだよね。ロングの方が似合うのに。」

俺はなんでこの時、嘘を言ったのか。どうして(牧野が好き)と正直に答わなかったのか、自分でもわからない。

(アッキー)はバイトリーダーの推しだ。俺は、リーダーのいつもの口調を真似てそのままのセリフを男に言った。


「アッキーいいよね。でも 牧野だけは、僕はちょっと苦手かも。」

哲夫は結美の名を耳にして、びっくりして男に聞き返した。

「なんで?どうして苦手なの?」

「牧野って、なんか暗いんだよね。確かに歌は抜群にうまいんだけど。あいつだけ元の所属事務所が違ってて、歌と関係ないところでなんかバタバタしているし。」

「事務所ってなんのこと?」

「グループ結成前に所属していた芸能事務所だよ。今の事務所への移籍で揉めたらしいぜ。まだその時の騒動が尾をひいて、前の事務所が嫌がらせに怪文書を流しているって噂だ。牧野は今日のライブもドタキャンしたし、今のグループに居づらいんじゃね?」

哲夫は、話に聞き入った。今まで結美が自分と同じように組織に所属していることを考えたことはなかった。


家路についてから哲夫は、帰ったら捨てようと思ってダンボール箱に詰めていた結美のCDやらグッズを取り出し、埃を払って元の場所に並べなおす。そして、彼女の芸能事務所の移籍騒動について自分で調べはじめた。

若い男の言っていたことは本当だった。

結美も自分と同じように孤独だったのだ。人間関係に悩み、妨害行為をやり過ごし、自分の目標のためにいじめに耐える姿は、アイドル活動とは無縁なものとずっと思っていた。

でも、集団の中にいて輝いていても、全員が味方してくれるわけじゃない。

結美も戦っていたのだ。表で笑顔を絶やさずに、内に信念の正義をもって。



<ジョン>

俺は哲夫、大型書店のレンタルビデオ屋でバイトしている。

歳は…、やべ〜、二十歳じゃん。

世間で言う大人だわ。

近頃は、食事は自分の好きなように摂っているし、自分の金で推しのグッズもチケットも買う。わりかし自立していて、気も楽だ。

成人式は、行かなかった。

式に行ったら、俺をいじめていた昔の同級生が謝ってくるかなとも思ったけど、考えている内にどうでも良くなった。俺も、結構忙しいしね。

でも、フリースクールの先輩に会いたいなと時々思う。

むかし「歌のお姉さんにふさわしい男になるんだ」と言う先輩を笑ったことを、俺はちょっと後悔している。

進学先が決まって卒業式でみた先輩は、実に堂々としていて格好よかった。


え、俺のこと?

もちろん、牧野結美のファンを続けているよ。

ファン活動とバイトを続けている。彼女がいるから、ここまでこれた。

さらに、楽しい習慣が最近できたんだ。思い切って行った初ライブで、友達みたいな知り合いができた。

「友達みたい」って、変な言い方だけど、彼のことまだよく知らなくて。

彼は自分のことを「ジョン」って呼ぶけど、もちろん本名では無いだろう。彼は俺のことを「お兄さん」って呼ぶ。

でも、歳は同じかジョンの方が上なんじゃないかな?

強いて言うなら、ジョンの方が華奢で俺の方が少しマッチョだな。


ジョンは初対面から、馴れ馴れしかった。でもこのちょっと距離が近い感じ、いわば図々しさはフリースクール の先輩を思い起こさせた。俺は当時、スクールの後輩のことが苦手で拒否していたんだっけ。

ジョンとなら心が開けそうな気がする。彼と仲良くなることは、心の狭かった当時の自分の罪滅ぼしになる気がする。ジョンは人の懐に入るのが上手いし、もっと自分のこと話したくなるんだよね。


「お兄さん、いい身体しているよね。その胸、大胸筋立派だし。この肩、三角筋かっこいいじゃん。ジムとかで鍛えているの?」

「仕事で重いもの運ぶだけだよ。長く勤めているリーダーなんて、本当にゴリラみたいな体だよ。でも、彼はスポーツしているかも。」

「仕事で筋肉がつくならいいじゃん。俺のところなんて、デスクワークで超ブラック。給料も悪いし精神的にもきついし。」

俺は、ジョンの話に同情しながらも、彼の苦労話が「武勇伝」に聞こえて羨ましくもあった。彼の境遇を聞くにつれ、俺が経験したおばちゃんとのいざこざも、些細な問題だったと思えてくるのだ。


「ああ、今の職場じゃスポーツする時間も気力もありゃしない。代わりにプロテイン飲んでいるんだ。これ超おすすめ。いいものなんだけど、俺は特別に安く手に入るんだ。」

「ふ〜ん。」

俺は彼の話にちょっとだけ興味を持った。

思えば他人が僕を褒めるときはよく、「君は若くて体力がある。」って言われていたのを再認識させられたから。

「お兄さん、提案なんだけど。その(キッツイ)仕事の後、一食食べる代わりにこれを飲むと、筋肉がバッキバキになるはずだよ。ゴリラみたいな体のリーダーもすでに飲んでいるかもね。お兄さん友達だから、特別に安くしてあげるよ。本当は高いものだから、僕が安く売ったのは内緒にしておいてね。頼んだよ。」

「若いうちからいろいろな可能性を探るって大事なことだよ。いつまでも今の嫌な上司のもとで働いたって、芽が出ないと思うんだよね。副業が軌道に乗ったら今の仕事辞めれるし、少なくともいつでも辞めれるって思うだけで精神的に余裕ができるから。」

ジョンは将来のことを考えていて偉い。今のブラックな職場にいるだけで十分頑張っているというのに、この上まだ働こうとしている。


「先月は本業より副業で多く稼いだよ。僕よりマッチョなお兄さんがプロテインを売れば、説得力あってもっと稼げると思うんだよね。来週の勉強会にタダで参加できるけれど、お兄さんもぞいてみない?」

「勉強会とかいいよ。俺、一回学校をドロップアウトしているんだよ。」

「だからこそ、この仕事がいいんだよ。学歴関係ない実力社会だから、稼ぎたいならこの方法が一番いいんじゃないかな。」

副業を事業としてはじめるには、ある程度の資金が必要らしい。

残念だけど、俺の貯金は少ないし、銀行だってバイト勤めに大金を貸してはくれないだろう。


「いい方法があるんだよ。お金が借りられるカードが作れるんだ。想像してごらんよ、お金持ちになった自分を。推しをもっと応援して、VIPなファンになることだって可能だよ。」


そのカードの作成とやらは断った。

でも、ジョンが望むなら、ちょっとくらい彼を手伝ってみようかな。

もし将来、俺たちが本当にお金持ちになったら、結美を豪華なデートに連れ出して喜ぶ顔が見てみたい。

それに、販売でトーク力が上がって、俺は魅力的な陽キャになるかも。

そしたら、デートのときにたくさん冗談を言って、結美を笑かしまくるんだ。


ところで今の俺は、次のライブコンサートに行く気満々でいる。

とりあえず、次のバイト代が入ったら、握手会に参加するためのお金を貯める。

結美は今のグループで歌を続けるようだけど、事務所の噂が本当ならいつまでいるかわからない。

結美、俺は君のことを応援しているよ。だからお願い、アイドルをやめないで。

僕は応援グッズを買って、彼女を応援するんだ。そのために、頑張ってお金を貯めないと。


哲夫は、おにぎりを頬張ってからプロテインをシェイクして口に流し込んだ。

「うっ、不味い。ジョンの奴、あいつ俺に嘘を言ったな!」

哲夫は、ひとりごちた。

なにが、「ストロベリー味はいけてないけど、バニラは美味しくて飲みやすい。」だ!匂いだけ甘ったるい、粉っぽい豆腐みたいな味じゃないか。

くっそう。きっとこれは、臥薪嘗胆がしんしょうたんってやつだ。

現状に甘んじないって心意気が、将来の強い自分を作るんだ。


味気ない食事は2分で終わり、休憩時間の終わりまでにはまだ間があった。

哲夫は、ふと、目の前の机に置かれた本に目をやる。

『片付ければ人生が好転する』

誰の本だろう?哲夫は、本の内容に興味を惹かれる。

その本を取り上げると、パラパラとページをめくって中を読み始めた。


”持ち物を減らしましょう”

 物をまず減らしましょう。掃除をしても部屋は片付きません。

”全ての持ち物を把握して、部屋と頭をすっきりさせましょう”

 使わない物を処分して片付いた部屋にすれば、理想の自分が見えてきます。

”たくさんの人との繋がりよりも、本当の友達を見つけましょう

 あなたの過去ではなく、将来を見つめて前に進みましょう。


哲夫は、ため息をつく。

「まったくだ。」

本の内容は、彼にはタイムリーな話題だった。ちょうど昨日、母と萌香と、家のガラクタのことで喧嘩したばかりである。


はなれの玄関に母と萌香を見かけたとき、彼はちょうど出かけるところだった。

哲夫への差し入れだろうか?2人して段ボールやら紙袋を抱えている。

哲夫は、2人に笑いかけた。

何を持ってきてくれたんだろう?食べ物かな?別に欲しいものとかないけれど、気にかけてくれたのが嬉しい。

ところが、哲夫と目が合った2人は気まずそうにしていた。袋の中身は差し入れではなく、使う予定のない母のガラクタ(不用品)だったのだ。

「そんなもの捨てればいいだろう!俺の部屋は物置じゃない。」

「そんなこと言ったって、あんたの部屋は広いじゃない。」

「押し入れは既にお父さんのものでいっぱいだよ。母さんのものまで押し付けないで。」

「でも部屋には空いたスペースが、まだあるじゃない。」

「空いた空間を作るのに、俺がどれだけ苦労したと思っているの。父さんと一緒に作業してたの見てたよね。」


「もういいよ。母さん、行こう。」

萌香がここではじめて口を開いた。俺は、合点がいった。母をそそのかしたのは、萌香だな。

自分の部屋の邪魔な荷物をどかすため、母が使わないけど捨てれない荷物を自分に押し付けようと画策したんだ。

「ニートに何言っても、無駄だって。」

萌香の強烈な捨て台詞。


「ふざけるな、俺はニートじゃない。フリーターだ!。」


哲夫は部屋に戻ると、ベットの上に倒れ込む。

さっきまでの出かける気は、すっかりうせていた。

気を紛らわそうと、結美が歌うCDの再生ボタンを押して顔を上げる。見覚えのある紙袋が一つ、玄関にあった。さっき萌香が持っていた、家族がどうにも捨てれない不用品の入った袋だ。

「ちくしょう。萌香のヤツ、さりげなく置いていきやがったな。」

袋を開け、哲夫は中身を確認する。

中身は母のガラクタだ。でも、俺はきっと捨てれないだろう。この中では少なくとも、タオルくらいは使えそうだ。


哲夫は、気を紛らわすため歌に集中しようと音量を上げる。

「俺なりに、頑張っているんだけどな。母さんは、俺よりガラクタの方がよっぽど大事らしい。ああ、むなしい。かなしい。」

結美の歌の世界に浸って、彼女のいる世界に入り込みたかった。ところが、母が占領したのは、部屋のスペースだけではなかったようだ。

余計なことが繰り返し頭に浮かんできて、ちっとも曲に集中できない。


 何もいらないの〜 

 ただ、あなたと手を繋ぎ

 私たち 出会った頃の気持ちのままで 微笑みあえたなら♪


 どんなに高価な宝石も どんなに美しい風景さえも

 色あせて 無意味に思えた 君のいない世界 ♪


 だから 今度こそ一緒に わたっていこう〜 

 この広い世界で 歌声をコンパスにして ♪


牧野結美…。

俺は君に直接会ってデートに誘うどころか、君が夢に出てきてもらうための心のスペースさえ、準備できないよ。

ああ、凄いお金持ちになって、この家を出たいな。


哲夫はかぶりを振って、『片付けで人生が好転する』のページをめくった。

もう忘れよう、昨日のことは。

本の最後の章は『人間関係の片付け』で、これが傑作で笑ってしまった。

(”人との関係は多ければいいわけではありません。過去に囚われずに、あなたの将来にとって本当に必要な人か、判断しましょう。本当の友達と呼べる人はせいぜい1、2人です。”)


「おーい、哲夫くん、食事済んだ?」

休憩室に入ってきたリーダーの声に、哲夫は顔をあげた。

ヤベェ、勤務中なのに読み耽っちゃったよ。食事休憩は終わりだ。早く持ち場に戻らなきゃ。

リーダーは、なんかぼんやりしている。

「いや、お客がまったく来ないからオモテは暇なんだ。このご時世だもの、当分の間、夜間は暇かもね。閉店までバックヤードですることが残っているか、確認するわ。」

神妙な面持ちでいつものように笑わないリーダーに、哲夫は心配になった。

「この前リーダーからもらった整理券で、初ライブ行ってきました。最高でした!」

リーダーは、少し笑った気がした。

「牧野結美は今の事務所に移る時、所属事務所の社長に邪魔されて大変だったらしいです。移籍は前の代の社長との取り決めで話がついていたのに、代替わりのイザコザに巻き込まれて。彼女まで嫌がらせされて、結美って笑顔の裏で本当に苦労していたみたいで。」

俺はリーダーに芸能界の裏話をしながら、ちょっと興奮してきた。こう言った話では、いつも俺は聞き役だったから。

「ライブ楽しめて何よりだよ。哲夫くん、君は。」

リーダーは、苦笑いしている。

「いいかい。僕らみたいな、いちファンはね。大人の裏事情なんか気にせずに、純粋に作品を楽しめばいいんだ。」


俺は、話していて思った。

この流れなら、タイミング的にいいんじゃないかな?

そして、なんとなく自分の立場がリーダーと同じに感じて、調子にのった。

「それで、ライブで友達になった男にこれ勧められたんだけれど、リーダーもよかったら飲みませんか?正規価格より、安く買えます!」


「おい、お前!」

リーダーは、突然怒り出した。

「ふざけてんのか?マルチ商法じゃねーか。まさか、他のスタッフに声かけてねーだろうな。」

何怒っているの、リーダー?その怖い顔って、ドッキリなんだろう?

早く種明かしして、笑ってくれよ。びっくりするじゃないか、冗談がすぎる。

こんなに怒ったリーダーを見たのは、はじめてだ。


リーダーはその日、最後まで怒った顔をしていた。

哲夫はふてくされた。自分を叱るリーダーに、腹が立った。

腹立つなあ、まったく。

そうだ、さっきの本にも書いてあった。自分の周りの人間関係を整理するんだ。本当の友達は1人いればいい。俺の友はジョンだけで充分だ。


仕事が終わり、哲夫は明け方に家路についた。そして、いつものようにぐっすりと眠った。

次の日の朝早く、(いや、昼だったかな、夜勤明けだから)哲夫は宅急便屋に起こされた。

「お届け物です。着払いになります。」

送り主はジョンだ。中身は、なんだろう…?

ダンボールは次々と運ばれてくる。哲夫は請求された料金を聞いて、卒倒しそうになった。大金だ。

ねえ、ジョン。これってなにかの間違いか、冗談だよね?


俺は急いでジョンに電話した。でも、何度電話してもいくらメールを送っても、彼からの返事はない。

哲夫は焦りまくった。あのお金は、結美の握手会に参加するために貯めていたものだ。ライブは、来シーズン。握手会はまだだが、ライブのチケットだけはおさえてある。

早く商品を送り返して、お金を返してもらわなきゃ。

ジョンと交わした会話が頭の中をぐるぐると回りだす。


ジョンに仕事に誘われた時に、俺は確かに曖昧な返事をした。

実際、彼の勢いとテンションに圧されて、ちょっとその気になった。その時、はっきりとは断らなかったと思う。でも、あの時彼が話していたのより商品の数もそれに合わせて金額も多すぎる。俺にこれを送りつけたのは、何かの間違いじゃないか?

俺は半泣きになりながら、何度も諦めずに彼に電話をかけまくった。


夜遅く、ようやく電話はジョンにつながった。

「もしもし、元気?えっと、君は…」

ジョンは、俺が誰だかわかっていないようだった。電話の向こうが騒がしい。彼はいつにも増して変なテンションで、酔っているみたいだ。

「ああ、お兄さん。ねえ、これからこっちに来なよ。紹介したい人がいるからさ。」

俺は商品を返したいこと、手伝いはしてもジョンの言うような副業ははじめないと言い張った。最初ご機嫌だった彼は、俺が折れないとわかると、突然キレて怒鳴り声を上げた。

「俺には、絶対に今のブラックな会社を辞める覚悟があるの。お兄さんにも覚悟を決めてもらうために、大金を前払いしてカンフル剤になるような場を用意してやったんじゃないか。何も売り上げたことがないくせに、偉そうに上からもの言うなよ。」

ジョンの罵倒は続いた。

「おい、俺たちの関係はなんだ?本当に友達か?」

哲夫の問いかけに、ジョンは笑って電話を一方的に切った。


俺はこのやりとりの後、2週間仕事を休んだ。その間ずっとベットに潜り込み、何もかも忘れてしまおうと眠り続けた。

2週間目の日曜日、俺はベットから起き上がると、仕事に行く前に風呂に入って髭を剃った。

俺は復活した。今日こそは、仕事に行かないと。

それからリーダーに会って、俺のしたことをちゃんと謝らないと。


<バイトリーダー>

俺の名前は轍。実家暮らしの32歳。仕事はレンタルビデオ兼本屋の販売員。職場へは実家からスクーターで通う。世間の言うところのコドオジってやつだ。職場では「リーダー」って呼ばれている。

職場の人には何となく黙っているけど、昔イギリスにサッカー留学をしていた経験がある。

自分は学校を出てから一度出版社に勤めたけど、そこでの仕事がどうしても合わなかったのと、サッカーを職業として続けることが諦め切れないでいた。

社ではちょうど事業縮小に伴って早期退職者の募集がかけられたので、そのタイミングで思い切って応募して、退職金を使って留学することにした。俺が応募したコースは指導者としての育成者コースで、一年以上に渡る長期留学だった。子供たちにサッカーを教えながら、サッカーの技術と指導方法を学ぶ。練習時間の合間には英語や文化を勉強する。なんと子供たちへの指導料として奨学金まで出る。金額はちょっとだけど。

それは人生で一番刺激的で楽しい一年間だった。

俺と同じチームに所属した日本人の中にはそのまま現地に残ってプロの選手になったやつもいるんだぜ。


親父はサッカーがうまかった。小さい頃から熱心に俺にボールの使い方を指導をした。俺が大きくなっても週末には時々二人でボールを蹴った。

親父はサッカーを続けたかったけど、途中でやめて就職してしまったそうだ。「自分はセンスがあったのに、なんでつづけなかったのだろうか」と時々ぼやいていた。サッカー留学を決断できたのは親父の強い後押しがあったからだ。お袋も俺が行きたいならと反対はしなかった。


父の兄、伯父だけは俺の留学に反対だった。伯父は俺が離職した事を嘆き、飛行機に乗る最後の日まで俺の心配していた。

「轍は本当にいいやつだし、熱心だ。でもたとえ技術があったとしても、君は性格が優しすぎる。どうやって食べていく気だい?スポーツの世界は勤めとは比べ物にならないくらい競争が激しい。しかも日本を離れてだなんて。君のキャリアが心配だ。」

反対に伯父のお奥さんの方はノリノリだった。

「あらいいじゃない、いけるのならどんどん若者は世界に羽ばたくべきよ。徹くんなら大丈夫。まだまだ若いし、何事も経験よ。」

俺は両親と伯父夫婦に空港で見送られて、日本を後にした。


現地のチームには日本人の同期が5人いた。俺がダントツの年長者だが。これじゃ、日本にいるのと変わらないではないか。でもおかげで寂しくはなかった。

練習は緩急の差が大きくて、体力にはかなり自信があったはずの俺にも激しくて厳しいものだった。練習内容は厳しいのに日本にはない開放感がある。

イギリスの夏の日照時間は長い。明るい時間が長くて眠くならないから、考える時間も日本にいる時よりもたっぷりある。

練習も刺激的だったが、それより衝撃だったのは現地で子供達を指導した経験だ。最初に教えたチームは6、7名の小さな地元クラブチームだ。年齢も人種もバラバラ。活発な女の子も一人いた。チームのメンバーの一人、マイクは黒人で歳は中学生か高校生くらいだと思う。背が俺より高くて、手足も細くて長い。最初マイクは俺と同じ指導者側だと思ったが、チームに入ってまだ一年目のチームメンバーだった。サッカーの技術はともかく、足が早くてスタミナがある。黒い肌に白目が映えて、Tシャツ一枚着ているだけなのに派手な印象を与える。それまで外国人をあまり見たことのない俺にとって、マイクは別の星の人間みたいだった。


途中で寮からホームステイに移る機会を得た。日本人の仲間がいる寮は安心で楽しかったが俺はホームステイを選んだ。

ホストファミリーにはマイクと呼ばれる小学生の男の子がいた。名前は同じマイクだが違う人物だ。彼は白人のちょっとポッチャリした体系で眼鏡をかけていた。ステイ先のファミリーは時々彼に勉強やサッカーを教えてくれるよう頼んだ。シッターみたいなもんだ。

彼は勉強は苦手だが日本の文化には興味があるらしい。彼について部屋に入った俺は唖然とした。彼は日本人もびっくりの日本大好きオタクだった。アニメ、マンガ、アイドル。

俺もアニメは日本でそこそこ見てたつもりだったが、彼の方が詳しかった。俺たちは勉強すると言って部屋にこもり、一緒に漫画を読んで俺は漫画の背景である日本の風習を説明する。

マイクは俺にYouTubeで見つけた日本のアイドルを指すと俺に聞いてきた。彼の指すアイドルは、知らない子の方が多かった。

「轍はどの子が好みだい?」

彼の趣味が日本人のそれと同じなのが、おかしかった。


現地で恋人というか曖昧な女友達ができた。一人目は日本人の留学生。

彼女の方から誘われて、一緒にフランス旅行をしたことがある。彼女の知人がフランスでパティシエになるためにレストランで修行しているのだと言う。ガールフレンドとデートするから週末は旅行すると言ったら、あっさりOKがでたのにはかなり驚いた。

「行ってこいよ。」他のチームメイトが囃し立てる。

彼女とイギリスに帰ってから、また会おうと約束したのに毎日の練習が忙しくてそのままになってしまった。彼女から連絡をもらうはずが途絶えてしまった。いや、俺から連絡する予定だったのに忘れていたかもしれない。

彼女とはそれっきり、そのままだ。


マイクにはイザベラという美しい姉がいた。マイクは癖毛だが、彼女は金髪のストレートを後ろでくくり、青い目をしている。彼女はマイクが見るアニメから飛び出したみたいに、いやそれ以上に美しい。

弟思いの優しい姉で、弟と仲良くなった俺には気を許しているみたいだった。彼女に弟の同級生や友達を集めてホームパーティーを開くことになったので、手伝ってくれといわれたことがある。約束の時間に合わせて早く家に帰ると、他のメンバーはまだ到着してなくてイザベラと俺の二人きりだった。

30分ほど2人きりで飾り付けや料理の準備を一緒にした。留学時代の楽しかった思い出の一つだ。


ある朝、部屋で目覚めると腰に激痛が走って立ち上がれなかった。ここ数日腰の痛みが増してきていたのだが、筋肉を鍛えれば治ると思って放って置いたのが悪化したのだ。

何とか這ってファミリーに助けを求め、病院に連れて行ってもらう。医者は腰の痛みは、脊椎分離症だと診断した。腰の骨が折れていたのだ。

病院にいる俺を見舞いに来てくれたイザベラは、涙して俺をハグしてくれた。

「轍、日本に帰らないで。」

最初何を言っているのかわからなかった。俺は治療が終わればここでまだサッカーを続けるつもりでいたからだ。

「鎮痛剤を打って、湿布を貼れば大丈夫。」だと。


同じころ母親から連絡が入った。親父の勤めていた会社の経営が悪化して、経済的に苦しくなったそうだ。つまり、仕送りを期待しないでくれと言う。

親父はまだイギリスに残る様に俺を説得したが、母親と相談して旅費を伯父に用意してもらい。予定より3ヶ月早く帰国することにした。


飛行機の搭乗日、俺は初めて母以外の女の人に花束を買った。

俺は照れて。それで、自分で買った花束を「飛行機に花は持ち込めないから君が受け取って」とイザベラに渡した。

イザベラの母とイザベラとハグをし、マイクと父親と握手をして俺は成田行きの飛行機で帰国した。


帰国後の就職は伯父が言っていたように順調ではなかった。

日中は子供達にサッカーの指導をしつつ空いた時間にアルバイトをする。アルバイト先でもどんどん仕事を任されるようになって、いつの間にかこっちが本職になってしまった。

深夜バイトは空いた時間が使えるし時給もいいから、俺には最適のはずだった。なのに、近頃はしんどくてかなわない。

30歳を過ぎた頃から、12時を過ぎて起きているのが辛くなってきた。腰痛の再発が心配で無理もできないし。

職場に新人くんが入ってきた。

彼を見ていると、小さい方のマイクを思い出す。好きなアイドルの話をする時、目の奥がキラキラするんだぜ。


今日の仕事は終わり。もう深夜2時を回っている。後4時間もすれば、次のシフトのやつが開店の準備を始めるだろう。

俺はスクーターのエンジンをかけながら昨日が給料日だった事を思い出した。10分も走らせると暗い夜道に煌々と光る建物が見えてくる。まぶしくて目がかなわない。ここの奴らはまだまだ働くって事だ。

俺はコンビニに立ち寄ると、ATMでお金を下ろしてからアルコール2本を片手に店を出る。再びスクーターのエンジンをかけると、今度は暗く寝静まる住宅街に向かって走らせた。

5分もすれば、お袋と親父と家族3人が暮らす住み慣れた我が家につく。


家についた俺は、コンビニのATMから下ろした給料が入っている袋から一万円札を何枚か無造作に抜き取ると、残りを封筒ごとダイニングテーブルの上に置いた。和室にいるお袋と親父はすでに寝ている。冷蔵庫を開けるとつまみを探して、さっき買ったアルコール1本を冷蔵庫にしまった。運が良ければ、この一本は明日まで残っているだろう。ダイニングテーブルに座り、つまみを箸で突きながらまずは一本、缶を開けた。そこまでは記憶にある。


スマホのアラーム音で目を覚ました。

しまった今何時だろう?起き上がって考える。

「今日は仕事は、休みじゃないか」。

スマホはアラーム音ではなく、呼び出し音が鳴っていた。誰かが電話をかけてきたのだ。画面を確認すると、伯父からの電話だった。

「轍くんかい。お久しぶり。元気にやっている?」

「伯父さんお久しぶりです。元気ですよ。親父もお袋もまあまあ元気そうです。」

「君、今何やっているんだ?」

「本屋で働いでいます。やる事たくさんあって、結構忙しいですね。」

「そういえば君、むかし出版社で働いていたからね。」

「う〜ん。それはあまり関係ないかな。」

伯父と話すのは久しぶりだ。何の用事だろうか?

「知人の会社がタイでの事業展開をしていてね。少なくとも英語が喋れて、タイで働いてくれる人を探しているんだ。轍くん行ってみない?」

「英語ができるって言っても、ビジネス向きのちゃんとしたものじゃないから、英語力はどうかなぁ。」

「大丈夫だよ。轍くんなら誰とでもどこへ行っても上手くやれるさ。僕が推薦しておくから。」

願ってもない申し出だった。夜中のアルバイトはもう限界だ。

「とりあえず、面接だけでも受けてみなよ。中小だから、給与の方はあんまり保証できないけれどね。」

時計を見た。朝の10時だ。本屋に顔を出してから書籍コーナーに立ち寄って、相手先の仕事に役立ちそうな情報をちょっと下調べしようかな。


仕事よりサッカーを優先させたことに、俺は後悔がない。もしあの時に時間が遡って戻って「仕事を取るかサッカー留学を取るかと」聞かれたら、俺は迷わずもう一度サッカーを選ぶ。何度でも。

ただ、願わくばもう少し早い時期に挑戦したいかな。

あれ、俺って親父と同じ事を言っている?

< / バイトリーダー>



雨上がりの爽やかな日だった。

バイトを休み存分に睡眠をむさぼった哲夫は、ジョンから受けた中傷を心の他所に置いて、あんがい元気に出勤した。

その目はリーダーを探している。唯一気がかりだったのは、休み前に自分の迂闊さからリーダーを怒らせたことだ。

持ち場につき、一通りのルーチンを済ませ、引き継ぎをしてから休憩に入る。その日、リーダーの姿はどこにもなかった。


休憩室で1人ボーッとしている哲夫のもとへ、他のスタッフがあらわれた。

「哲夫くん、お久しぶり。体調はどう?」

「もう大丈夫です。長いこと休んじゃってすいません。」

「熱がなくて、顔色もいいようだし、大丈夫かな?もしも、お客さんに病気をうつしたりしたら大変だから、無理しないで。」

いま急成長中のこのチェーン店は、法令順守を社風をあげるホワイト企業のテイである。

「ところで、リーダーって、今日お休みですか?」

「ああ、彼なら退職したよ。そういえば、哲夫くん、その時休んでいたね。哲夫くん、ところで…」


哲夫は、頭の中が一瞬混乱する。リーダーのいない職場が、彼には想像できなくなっていた。

リーダーの不在が、どうしてこんな簡単に語られるのだろう。

「ところで、夜間外出自粛が、政府から要請されているのは知っているよね。」

スタッフの口から、リーダーについては何も説明されない。

この店で、リーダーはすでに過去の人なのだ。


「それで、うちの店も当分の間、夜間は閉めるのだけれど。哲夫くんはどうする?夜間シフトはなくなるけど、代わりに昼間に出勤できる日はある?」

自粛の話は、聞いたことがある。でも、自分に関係ある話とは思っていなかった。哲夫は我に帰り、返答につまる。

日中には、夜間シフトに移動するきっかけになったおばちゃんがまだ働いているだろう。彼女の不気味な笑顔が、どうにも頭から離れない。

「日中はまだ予定をみないとわからないです。夜間の自粛は、いつまで続きますか?」

「さあね。ここだけの話だよ。じつは今回の要請を抜きにしても、夜間営業は御近所さんに評判が良くなくてね。一部の地域住民は、店の夜間営業に反対なんだよ。」

店の将来は、今いるスタッフにもわからないのだ。


リーダーが気になって仕方がない哲夫を見かねたスタッフが、言った。

「そんなに気になるなら、彼が店に来る機会があったら君に連絡するようにことづけとくよ。」


「シフトについては、日中の予定が決まったら連絡します。」

哲夫は、そう言って退勤した。

その後、哲夫が店に連絡することはなかった。

リーダーから哲夫に電話がかかってくることも。


そのまま哲夫はバイトを辞め、自分の部屋に引きこもった。

彼はわりと気楽に、再び自分から1人の世界へと入り込んで行った。


いろいろな考えが頭に浮かんでは、どうにも収まらない。哲夫は興奮して、変な時間に目を覚ます。

(人間関係をスッキリ片付けて、整理するんだ。)

リーダーが店を辞めたのは、そんなこと考えてた俺のせいだろうか?

いや、そんなはずない。彼が俺を叱ったあのタイミングで辞めたのは、たまたまだ。


かかってくるはずのないリーダーからの電話のベルを目覚まし代わりにあてにして、哲夫は再び眠りにつく。

(「もしもし、哲夫くん。今どうしてる?」

「リーダー、俺っす。お久しぶりです。実は、結美のライブにもう一度行きたくてチケット買っちゃいました。開催は、まだ随分と先なんですけどね。」)

夢に出てきたリーダーと、哲夫は会話する。彼に伝えたいことが、まだまだたくさんあったのに。


次に夢に出てきたのは、ジョンだった。

別れ際に、電話口でがなりちらしたジョン。多分、あれは彼の本心だろう。

俺が思うほどにジョンは、俺のこと慕っていなかった。と言うか、通りすがりの他人よりも、俺はジョンに大切に思われていなかった。

忘れようと思っても、彼に言われた言葉の一つ一つが、哲夫の心を繰り返し繰り返し引っかき回す。

ジョンに言われたことは忘れた、もう気にならないなんて、嘘なのだ。

ジョンになんとか言い返したい哲夫だが、その言葉はもう届かない。

次に会ったら、やりかえす!俺もジョンみたくブラックな企業で働いて、あいつよりも悪条件でいい結果を出してやる。


皮肉なことに、哲夫が行動しようと考えれば考えるほど、彼はベットから動けなくなり、部屋から出られなくなっていった。

深夜のバイトを辞めてからも夜型生活は続き、日中は光の中で眠り、夜になると目が冴える。

哲夫の不規則な生活を、気に留める人は周りにいない。

そのくせ、彼には後ろめたさが付きまとっている。非常に大馬鹿なのは、家族も近所の人も誰も気にしてなんかいないのに、以前のバイトの出勤時間に電気を消して、暗い部屋で時間が過ぎるのを待って過ごしたりもする。

そのうち、外に出るのさえ怖くなった。

予定された唯一の外出イベントは、手帳に挟まれたチケットの結美のライブだ。

(このチケットは、俺がある意味ライブの関係者だった最後の時のものだな。)


結美が誤解や嘘で傷つけられるのを見たくないから、ゴシップ記事を追うこともネットのニュースをフォローすることも少なくなった。

社会から隔離された生活の中で、哲夫の精神はゆっくりと病んでいく。


一方で、哲夫は自分で作り上げた孤独の中で、彼なりの真実にたどりつく。

アイドル(偶像)としての神格化には、外から加えられるイメージは少ない方がいいくらいだ。

哲夫は、最新の結美をメディアに追う代わりに、再生を繰り返した動画のなかに自分だけの結美を見つける。

動画の中の結美がマイクを握りサビを歌いあげる刹那に、彼女の本当の姿に出会う。

(結美、俺は本当の君を知っている。ちゃんと見つめているからね。)


やっと会えたね ここで♪

待っていた あなたが迎えに来る時を♪

あなたへと続くフロー 

それは私からのメッセージ♪

私が記した道しるべ 

あなたは もう見つけられたかな♪

 

知っている あなたは 

ちゃんとそれを見つけ出す♪

AIの中に埋もれていても 

あなたは私の音を聞き分ける♪

やまない 心の羽ばたきは

まだ間に合うと 信じているから♪ 


いま返したい 

それは あなたからの返報性♪

私たちは きっととても似ている♪

いつまでも 待っているから♪

諦めずに追いかけてきて♪


この歌には彼女のソロがある。だから、いちばんのお気に入り。

でも、俺の心が結美のフローに届くことはない。心が、いくら彼女を求めても。

「人々は金のために生きているのではない」とは、大金持ちと若者にだけ許された台詞だ。

人はフローのために生きている。

金は流れ続ける性質がフローに似る。それが理由で、フローを持たない、何がフローかをわからない連中は、その代替としての金に群がるしかないんだ。

だから、俺は彼女にお金を使う。CDを買い、チケットを買い、応援グッズを揃える。俺の稼いだ金がフローの代わりになって彼女のフローに合流する。僕らは新しい時代の流れを作る。それぞれの方法で。


問題はだ、今の俺には握手会に行くその金がない。

グッズを買うことさえでき無い。

それで、代わりにYouTubeを見て、再生回数を稼いでいる。CDを持っているのにYouTubeでわざわざ聞くのは、動画の再生回数が彼女たちの人気にバロメーターになって、彼女が所属するグループに広告収入が入ると聞いているからだ。

俺はせめてもの彼女への想いの証として、歌を聞いた回数を「正」の字の画線法で手帳にカウントしている。正の字が2回ならば、その日のノルマ達成。

毎日聞くぞと心に誓ったはずなのに俺は時々さぼってしまう。


俺が本当に欲しいものは、真実の愛だ。

でも、そんなものがどこにある。

子供の頃に持っていた純真な愛は、年をかさねると即物的になる。金銭的なものの価値が上がるにつれ、愛は型にはまり借り物になってゆく。


曲の途中なのに、いけない、目が回ってきた。

俺は少し横になった。こうしている時間がもったいない。俺はいつものように音楽を聞き、まどろんだ。ワクワクするような夢を期待して。


『結美の歌うライブが割れんばかりの拍手で終わる。そのあと俺は、握手会の列に並ぶ。

俺は彼女の手を握って、伝えたいことが山ほどあるのに、声にならない。それで、俺は彼女の手を取って2人で握手会場を抜け出す。俺が彼女を見て、彼女は俺をみる。俺を心配そうに気遣う君。だが、時間がきた。二人は離れなければならない。

俺は手放すことを学んだ。さようなら、やはり君は僕にこそふさわしい最高の女性だった。


列を次の人に譲り、振り返る。と、後ろの列に並んでいたやつに、彼女は同じことをした。突然怒りが湧き上がる。だがしかし、感情を抑えなければいけない。俺は学んだのだ。手放すことを、そして許すことを。』


結美と2人で会場の抜け出す夢を3回連続で見た後、屈強な男達に追いかけられたところで、哲夫は目が覚めた。


結美に会いたい。

彼女の手を握り、お日様の匂いのするその髪に自分の頬を近づけたい。その手を握って君の温度を自分の掌で確かめたい。

君の体温は俺よりも暖かいだろうか。いや、きっと君の手は冷んやりとしている。その澄ました表情のように。

でも、君の笑顔は俺の心を焦すほど暖かい。だから、一歩前に出てもっと近づいたなら、君はきっと温かい。もう一歩顔が触れ合うほどに近ければ、君の深部の熱を感じることができるはずだ。俺はその時を迎えることに耐えられるだろうか。


ふと今日のノルマ分の曲をまだ聴き終わっていないことを思い出して、哲夫は動画をクリックする。

曲の再生が始まる。


牧野たちの曲は、哲夫の整わない呼吸や体調などお構いなしに、一方的に流れ出した。

リズムと歌詞は、土砂降りの雨のように叩きつけ、全身を貫いてから伏流水みたいに哲夫の心の深くまで浸みわたる。音のリズムは透明な液体となってその純度を上げ、再び彼の意識下に湧き上がる。

それは濃縮された毒の上澄みなのか、それとも全てを浄化する湧き水なのか。


実体から離れてシンボル化した牧野は、いくらでも哲夫の自由になっていった。

哲夫は夢の中で、何度でも結美を握手会場から連れ出した。

目が覚めて哲夫は現実に立ち戻り、ひどく落ち込む。そして、手帳を開き、牧野結美を想った詩を書き綴った。


君が望むのなら いくらだって歌おう

せがまれるまま 息絶えるまで 

僕は歌い続ける

僕は女たちに 愛の歌しか歌わない

目と目があったなら 

ただ許してとしか言えない


本当に愛さなければいけないのは

女たちの方なのに

許しを請わなければならないのは

女たちをほうなのに


その狂気にも似たロマンチックに 

憧れているのは女たち

蔑みながら 貶めながら 

落ちてゆくのは女たち


君が欲しいなら いくらだってあげよう

狂おうしいほどの この思い

それは 君が望んだもの 

君が情熱と呼ぶ狂気

僕のでよければ いくらだってあげるよ


望みが叶うなら 

僕がなりたいものが一つある

それは たかく飛びすぎた君が 

羽を休めるのにちょうど良いヤドリギ

少しの間 休んでおいで

眠りについた君の手を取り 

僕は 耳元に愛を囁く

その枝は 乾いた音を 

風に揺られるまま 休むことなく響かせる

だけど 時々思うんだ

ねえ 次は君が歌う番だと思わないかい



哲夫はそのまま手帳のページをめくると、挟んであったライブのチケットを取り出した。

印字された日付を眺め、ホログラムフィルムを撫でる。

このチケットが結美と俺とをつなぐ唯一の接点なんだ。

笑えるよな。

気づけば、ライブ開催日は来月末に迫っている。


自分がずっと家にいる間に、ずいぶんと日数が経ってしまった。

でも、明日こそは、明日こそはと思って行動できなかった自分に、サヨナラするんだ。結美を見届けるために、ライブにだけは行かないと。

哲夫はふと気になり、久しぶりにグループの公式HPをチェックした。


「公演につきましては、握手会を含め今のところ開催を予定していますが、流行の拡大とともに情勢は不安定な状況下にあります。各位におかれましては、引き続きこちらのHPにて予定をあらかじめご確認いただきますよう、よろしくお願いいたします。」


なんだか引っかかる文面だ。

そういえば、前の職場も自粛要請があって夜間の仕事が無くなったんだっけ。あれから、ライブやイベントの開催中止のお知らせやそれにまつわるニュースが世間を賑わせているけど。

まさか…、結美のライブは無事開催されるんだろうな…。


哲夫は会場までのアクセスやライブに関する情報をサーチし始めた。

そのまま何時間もインターネットの世界にどっぷりとハマり、ライブの評判やファンが作ったブログを見て回った。

やめておけばいいのに哲夫は、ネットに広がる深淵を覗き込み、自らその穴へと真っ逆さまに堕ちていく。


公演活動の中止に関するニュースの下には、コメントが続いていた。ほとんどが否定的で、怒りの声が寄せられている。

「こんな状況下なのに、観客集めてイベントだなんて、ふざけている。」

「なんで安全より遊びを優先させるのかしら。市民が一生懸命自粛しているのに、我慢できない人たちのせいで全てが台無しよ。」


結美たちグループへの名指しの批判も見つけた。

「ライブ会場に、なぜこの場所を選んだ。会場の最寄り駅は小さくて、改札が一つしかないんだぞ。思いっきり、密じゃねえか。」

「こういったイベントは、昔はもっと牧歌的だったんだけど。開催するなら、もっと場所やタイミングを考えてもらわないとね。」

「これ子羊の群れを生贄にした、金儲けイベントでしょ。そもそも、住宅街でやらないでよ。」


哲夫は検索エンジンに戻って、結美たちグループへの悪評を見つける。こういったネットサーフィンは、していいことはない。

「オタクの集団?まじ勘弁。あいつらなんかキモい。」

「なんでだろう、オタクって見ただけでわかるよね。キモオタ、マジうけるww」

「わかる!結美のファンってダサいしw」


(オタクって見ただけでわかるよね)…俺は、オタクじゃない。

俺は、キモオタではない。こいつらは俺たちファンのことを、何もわかっていない。彼らの言うキモオタの範疇に、たとえ該当しているとしても、奴らはキモオタの中身をわかっちゃいない。

いや、ちょっと待てよ、俺らオタクがダサいと結美の評価もこいつらの中で下がるってことか。

俺のせいで、結美が心ない連中にディスられる。それだけは、避けなければ。


次いで見つけた、握手会の常連が書いているとおぼしき「握手会の心得と必勝法」のページには、こうあった。


「爽やかなイケメンオーラを出す。」

「高級カメラでツーショットを撮って、待ち受けにする。」

「高級腕時計を、洒落たカフスの袖口からチラリと見せる。ロレックスとか有名どころで、セレブが着けてるやつね。」


どれも、ちょっと俺には真似できそうにない。

これをクリアするには、いったい幾らかかるんだ?

哲夫には握手会チケット取得すら、未だ未経験な世界である。


他にも、ファンが書き込む個人ブログを、いくつも見つけた。


「握手会のチケットを30枚貯めた。」

「甘いな、俺は100枚だ。」

「限定のフォトカードが、ライブ会場で発売されるらしい。」

「イベントグッズを大人買いして、ファングッズコンプリートしてみる。」


哲夫はライブの公式ページに再び戻って、発売予定のグッズのアイコンをクリックする。

公式グッズの種類の数の多さと値段に、ため息が出てきた。

チキショウ、見るんじゃなかった。ひょっとして、俺は、ファンの末席にすらカウントされない存在なのか?…


気落ちして、そのまま公式ページのお知らせをクリックする哲夫。

トップページのお知らせが更新されている。


「昨今の状況を鑑みて、ライブ開催を半年延期いたします。チケットをお持ちの方は、自動的に次の公演に振り替えさせていただきます。なお、お問い合わせは…」



ライブ延期の知らせに落ち込むより先に、ハッと思い浮かぶものがあった。

哲夫はそのまま、前の書店のバイトに応募した時の履歴書のコピーを開くと、エントリーシートを書き始めた。

あの時、書店で結美のポスターを見つけたときと同じだ。考えるより早く身体が動く。


学歴を書き足し、志望動機を考え、職歴を埋める。

だが、職歴ブランクのところで手が止まる。

哲夫の頭の中の面接官が、畳み掛けてきた。

(「どうしてうちに応募してきたの?」

「前の仕事を辞めた理由はなに?」

「本屋を辞めてからこれまで空白期間に、君はどこで何をしていたの?」)

哲夫は当たり障りのない返答を考えるうち、疲れて再び動けなくなった。

そのままベットに倒れ込むと、深い眠りに落ちていった。


哲夫は、ライブ会場に向かっていた。

辺りは薄暗く、周りを見渡すと自分と同じ会場に向かう人が灰色の列をなしている。

そう、色みがない、灰色だ。

人々はおとなしく、列は乱されることなく誘導に従いゆっくりと歩く。

誰もかれもが押し黙り、互いに目を合わせない。

いったいこの列は、どこまで続いているんだ?


ライブに向う夢は何度も見た気がする。でも、今回はいつもと様子が違う。

ここの人々は結美やグループのメンバーに会いにきたはずだ。なのに、遊園地みたいなワクワク感がどこにもない。


会ったことのない面々だった。自分の前に立つ中年にも、横に立つ学生風の青年にも見覚えはない。

後ろに立つ大男は、本当に人間だろうか?

誰も感情を面に表していない。

この人たちは苦しんでいるのか、悲しんでいるのか?それとも、喜びをひた隠しにしているのだろうか?


振り向くと、後ろの大男と目が合った。男に睨まれた哲夫は、震え上がる。

慌てて前に向き直り、ロウソクの火を消すように自分のカラーを吹き消した。

背中を静かに丸めて、自身を灰色の列に同化させた。


でも、しばらく歩くうち、哲夫はここの人々に親近感を感じ始めていた。

皆、アイドルを一目見ようとやってきた人だ。ここでの縄張り争いには意味がない。哲夫を含めて互いの見分けがつかないくらい同質で、集団の一員であることに誇らしさを感じている。

俺たちはいわば同士なのだ。結美のフローにつながろうとする、同じ目的を持つ仲間なのだ。

哲夫の心を、大きな一体感が満たす。


ところが、哲夫の目の前を歩く男の頭部が、突然ぐらぐらと動きだした。

男の頭は大きく振れ、赤べこ人形のようにかろうじて体と繋っている。

揺れが大きくなり、いよいよ頭がもげそうなほど傾いた瞬間に、ねじ曲がった首からボゴリと泡が噴き出した。

泡を吐ききった頭は元の形におさまり、男は何事もなかったかのように歩き出す。

泡はゴボゴボと大きな音を立てながら上へ上へと登ってゆき、しばらく時間をおいて、高い位置で弾けた反響音が返ってきた。

哲夫は、恐怖で悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える。泡を見上げることも、周りを見渡すこともできずに、前を向いたままひたすら気づかないフリをした。

やがて、斜め前を歩く人も、さらにその前の人も、そこかしこで同じように首から泡を吐き出しはじめた。目で追わなくても、哲夫の背後でもゴボゴボと泡が生じた音がする。


どうしよう。

このまま歩き続けていて、無事なのだろうか。

でも…。


そのとき、生きた声が頭に響いた。

カラスの鳴き声だった。カラスはカアカアと鳴きながら、背後から飛んできて哲夫に追いついく。その姿を見た哲夫は、あっと声を上げた。

立派に黒光りする雄姿、太い嘴に三本の脚。

その脚の一つには、赤い球をつかんでいる。

このカラス、前に見たことがある。

そうだ、ランドセル についていたサッカーのエンブレム。神話の世界では、神の使いといわれている。

「思い出した。ヤタガラスだ。」

哲夫は周囲への恐怖を追い払って、カラスを見た。

威厳を放ち、しばし翼を休める姿は、少しも人を恐れる様子がない。哲夫をじっと見つめ、瞳に彼の姿を捉えている。


哲夫は視線を、カラスの脚にうつす。三番目の脚が握るのは、赤い球。

小さい頃に祖母が買ってくれたランドセルの模様にあった。当時の自分は、それが何か思いつかなかったが。

「赤い球は、赤い星のアンタレス。夜空に輝く、蠍座の赤い心臓」

視線をカラスから離して、周囲を見廻す。

この場所がどこか、分ったぞ。

俺は、この世界を知っている。


それは、フリースクールの先輩が描いた、ポストカードの絵の中の世界だと感じた。俺のキャラクターが、この絵のどこかにあると、以前先輩は手紙に書いていた。

<哲夫君のキャラクターである天秤座は、街の明かりの中ではその光が見えません。でも、乙女座一等星の「スピカ」と蠍座の赤い心臓「アンタレス」が輝くような夜空であれば、二つの星の間に、天秤座はきっと見つけられます。>

いま俺は、その星の一つ、アンタレスを見つけた。


<人々の正義を測るため、女神アストレアは、天秤を用いました。悪に傾く人々をアストレアが見限り去ったあとに、天秤だけが夜空に残されました。>

俺のキャラクターは、天秤座。人々の行いと、その正義を知るもの。

スピカは、彼女はどこにいる? 

「天秤を見つける為に、あと必要な星は、スピカ。乙女座でいちばん明るい星。」


ニタニタと笑いがこみ上げてくる。

いったい何を恐れていたんだ?

俺は、無力ではない。むしろ、この世界では、無双できる。

哲夫は大きく息を吸うと、さっきまで失っていた自分の色を取り戻した。


スピカ、俺のスピカ。

俺が俺であるために、君の存在が必要だ。


哲夫は人波を押しのけながら、前へ前へと進みはじめた。

「ライバルなんて、いらない。切磋琢磨しなくても、すべては完成している。世界は、俺の手の内にある。」

灰色な人々をなぎ倒し、傍若無人に振る舞うほどに、己のエネルギーが増してゆく。哲夫の拳には力がこもり、解放されたエネルギーは、肉体を強靭にする。

頬には色がさし、色彩を取り戻した身体はさらに彩度を上げた。

彼は、世界で唯一色彩を持つ存在へと変わっていった。


哲夫によって突き飛ばされた人々といえば、張り子人形のように抵抗をみせない。倒れ込んだ人の目はギロリとこちらを睨むが、心があるのかもわからない。

その目を見ると、怒りが心の底から湧いてきて、哲夫はさらに乱暴になる。

「俺は人間だ、俺は人間なんだよ。」

叫び声を上げながら、人とも人形とも見分けがつかぬものに暴力を振るい、力による破壊が、彼の世界の正義になる。

「許さない、俺は、誰ひとりとして赦さない。世界で正義を知るのは、俺だけだ。すべては俺の掌の中にある。戸惑うことなど、あるものか。」

攻撃を受けた人々は、身体からいよいよ泡を撒き散らし、その粒がカーテンのように哲夫を取り囲んだ。


哲夫は好き放題に腕力を振るい、そのまま列の先頭に踊り出た。

「すべてを壊して、この世界を新しく作り変える。今よりもっと、正しい世界に。」


重く閉じられていた大きな扉がギイと開いて、光の世界があらわれる。

結美が歌う、ライブ会場だ。

哲夫は、いちばん明るく輝く星「スピカ」を探す。牧野結美、その人だ。

天井高くに登り集まった泡は、光るエネルギーとなって哲夫に集まり始める。エネルギーの粒は、一つ一つ刃のように鋭利で、そして軽くて美しい羽根になる。


ゼロからはじまる世界を夢想するなら、何者になりたい?

目の前の巨大な防音扉は、開いたり閉じたりして、中からの光をチラチラとのぞかせる。その扉はまるで、ロダンの地獄の門のように恐ろしげで、訪問者を戸惑わせる。扉の向こうは別世界。

哲夫が扉に手をやると、彼を引き留めようと、いくつもの手が伸びてきた。鮮やかな色彩とたくましい筋肉をまとった哲夫は、その手を払い、立ち塞がる門番もなんなく退ける。


哲夫は扉を押し開けて、中に入った。

赤々と燃える光、吹き付ける熱風。

地獄の炎ではない。ライブステージの明々としたライトと観客の熱気だ。

初ライブの感覚が蘇り、哲夫は上気する。

前に観た初ライブとは違い、いまステージの上にはマイクを握る結美がいる。


こっちを見てよ、結美。

俺だよ、哲夫だよ。忘れちゃった?

結美は歌いながらステップを踏んで、会場の隅々にまで笑顔を振りまきながら観客全員に手を振る。その視線が、一瞬哲夫をかすめた。

だが、結美は何事もなかったかのように、視線を戻して歌い続ける。


そうだった、結美。会うのは、初めてだったね。俺のことを、まだ君は知らないんだ。

結美。

君が僕を知らなくても、今まで俺は君を見つめてきた。辛い時も悲しい時も、俺は諦めずにここまでやってきた。

だから、俺の目を見たら、君はきっと気づくはず。俺のこと、理解してくれるはず。

君が歌で送ったメッセージを、俺はちゃんと見つけ出して受け止めたよ。君の手を握って、目を見てそのことを伝えられたら。


でも、君との距離はまだ遠い。

視線すら交わせやしない。

どれくらいのことをしたら、この中にいる俺に君は気づいてくれる?

俺ここでは結構カラフルで目立つけど、これくらいじゃまだ足りない?


人々の身体から発生したエネルギーは、羽の形をして舞っている。

その光の羽が、スーッと哲夫に吸い寄せられてきた。

羽は数とスピードを増して、哲夫の意のままに飛ぶ。その一部は哲夫を取り囲み、束となって彼の翼を作った。

羽根を得た身体が、空気のように軽くなる。

あともう少しで地上を離れられそうになった時、哲夫は一歩を大きく蹴り出した。体は、空中にふわりと浮く。


さあ、次のステージが始まるよ。

結美だけじゃ無い。ここにいる奴ら全員が、俺に注目する。


ライブ会場を、哲夫は縦横無尽に飛び回る。会場は、彼が飛ぶのに狭すぎる。そのスピードと大きさは圧巻だ。

見上げる人々、騒ぎ立てる観客。

哲夫は高みから、会場のすべてを見下ろす。

なんて自由なんだろう。俺は、何者にでも自由になれる。

そして、腕力も底知らずだ。


「皆、聞くがいい。

俺こそが、この世界の支配者。

カッコいいキャラがいいな。驚愕の戦士になろう。

狂乱の暴君や、誰もが恐れる無敵キャラもいい。

悪の帝王として君臨し、刃向かう者を軽く蹴散らす。

いや、『悪』なものか。勝ち残ったやつが、正義なんだ。

新しい秩序を作り上げる。神に、俺はなる。」


哲夫は、極彩色の普段服に光の翼をもつ野暮ったい姿を、大衆にさらす。ダサくて笑っちゃうって?

笑っていればいいさ、今のうちにな。


俺は逃げ惑う人々を追いかける。

追い詰められたら最後、逃げれやしれない。

祈っても無駄だ、助けはこないよ。

俺こそが、問いかけるその神なのだから。


一通り会場を沸かした哲夫は、立ちすくむ結美の目の前で飛行を終える。

彼女は少し後退りしてから、哲夫を見た。

結美の黒髪は艶やかで、唇にはグロスが光っている。柔らかそうな頬は紅葉してるが、口元は引き締まり、彼を睨んでいる。

近くでみると、ステージ衣装は胸がパツパツで彼女にキツそうだ。足元といえば、赤のミニスカートからは白い脚がスラリと伸びていて、目のやり場に困るほど開放的だ。ステージで散々歩き回ったのだろう。白いブーツがすっかり彼女に履き慣らされている。

結美は、ポップな曲をいくつも歌い終えて、ジョウロで水を掛けられたみたいに汗でびっしょりだった。おまけに、哲夫が起こしたこの騒ぎだ。冷えた汗で寒気がし、小刻みに体を震わせている。

哲夫は、まじかで改めて彼女に見惚れる。

「結美。君は、乙女座で一番輝く星、スピカだ。」

君は、どこから見ても輝いている。


結美は、まだ哲夫を睨んでいた。

怒らないで、結美。怒らないで。

哲夫は、急いで笑顔を作ると、抱きしめたい衝動を抑えて手を差し伸べた。

結美は少しためらってから、ピンクのネイルが塗ってある白い手を差し出した。

その長いネイルを傷つけないように、哲夫は慣れた手つきで結美の手をひいてステージから連れ出す。

ガードマンがすっ飛んできた。

みんな邪魔しないでよ、俺が彼女を傷つけるはずないだろう。


2人だけの世界へ行こう。結美の手を取り、彼女を空へといざなう。

見せてあげる、君のまだ知らない景色へ。

俺が望めば、会場ごと何もかも吹き消す事だってできる。

君だけを連れて、この世界の外へと飛び出そう。新しい世界には、君だけがいればいい。


その甘美な声を、耳元で味わいたい。触れるほど近くで聞かせてくれ。

そう言って顔を近づけると、哲夫はそのまま彼女にキスをした。

哲夫は結美の両手を掴み、恥じいる彼女にみいる。

「なんて、美しい人だろう。」

光の羽が瞳に映り込み、小さくキラキラと舞う。さらにその奥に、虹彩が幾重もの輪をえがくのを見つけて、哲夫はふたたび驚く。

それにしても、彼女の瞳の奥深さはどうだろう。全てを手に入れた後でさえ、到達できない深みが自分を魅了してやまない。

いつかジョンが言っていた、「結美が暗い」って、彼女がもつこの奥深さのことかな?ジョンには、彼女の素晴らしがわからないんだ。

光り輝くあどけなさと同時に、彼女の影の方は喋りもせずに雄弁だ。

哲夫は、ふと見てはいけないものも覗いた気がして、目を逸らす。



ようやく あなたが夢に現れた♪

ずいぶんと待たせるのね

もう 嫌いになろうかと思っていたところ♪


本当にまったく

嫌いになったら いいのにね♪

嫌いになれたら いいのにね♪


嘘よ ごめん 本当は今でも大好きです♪

好きになったから あなたが好きな 私に出会えた


あなたに会って 

大好きっていえたら いいのにね♪

好きだったと笑えたら いいのにね♪



不思議だな。幸せの絶頂にいるのに。

頭に浮かぶのは、彼女が歌う悲しげな、バラード。


結美を連れての跳躍は、最初こそ勢いがあった。新しい世界への助走は、地上を離れるのに充分だった。

だが、その勢いは、すぐに失われる。外の世界へ飛び出そうとする哲夫の思いとは裏腹に、2人はゆるゆると下降し、世界の中心へと落下する。


1人の夢には限界がある。かき集めたエネルギーは、無限ではない。夢の力が無双できるのは、自分1人分だけ。結美を連れてこの世界を抜け出すには、エネルギーが足りないのだ。


焦った哲夫が、落ちゆく眼下を見おろすと、先ほどまでの静的な世界は一転、マグマのような赤黒い色が地上をうごめいている。

マグマは、さっきまで哲夫が蹴散らした者たちだった。その顔はもう魂を抜かれたような空虚なものでは無い。どの顔をひどく怒っていて、赤鬼の形相で哲夫を睨む。哲夫たちの落ちて行く先には、赤鬼が次々と集まり、修羅の世界が舌舐めずりをして待っている。

哲夫は降下のさなかにあって、恐怖で体がヒヤリとした。

どうすれば、あいつらから逃れられる? 俺ひとりなら、逃げきれそうか?

つまり、結美を手放すのか?まさか。やっと彼女をこの手に捕まえたのに。


2人の落下は、止まらず。ついに地上に着地した。

「結美を、彼女を守らなきゃ。」

彼女を、諦められるはずがなかった。彼は、残りのすべての羽をかき集めて、2人を囲うシールドを作った。


2人は光るカプセルに閉じこもった。中はまるで、繭のように安全だ。

しばしの、休息。哲夫は、結美の頬に手を添える。

しかし、彼女の目は不安で揺れ、今にも泣きそうな顔をしている。哲夫の鼓動も、早いままだった。

2人を守るのには、このシールドのエネルギーは足りない。

羽の壁は、徐々に力を失い、少しずつ抜け落ちて欠損を広げていく。崩れゆく壁の向こう側では怒れる赤鬼たちが暴れているのが、透けて見える。

哲夫が、再び結美に口づけた途端に、彼らを守る最後の羽が抜け落ちた。結美の手を力いっぱい握り締める哲夫。それから、一瞬笑った。

(これも、一種の返報性ってやつ。

今度は、怒れる者たちの報復、暴力の応報がはじまる。)


屈強なガードマンがシールドを破って繭の中に押し入り、結美は、あっという間に連れ出されて、哲夫の視界から消えた。

他の男が、哲夫の頭に、まずは一発とばかり喰らわせる。口の中を、血の味が広がる。もう一発殴られて、よろけて吐けば、血やヨダレに混じって、白く硬いものが飛び出てきた。哲夫の歯が折れたらしい。

別の男の拳が、みぞおちに入る。次の男は、足を狙う。遠慮なんてものは、ありはしない。

哲夫に報復しようとする者の列が、続々と続く。


ようやく対者が最後の1人になった。哲夫は、おぼろげに目を開く。

目に飛び込んできたのは、履き込まれた白いブーツと、スカートから伸びた脚。舞台衣装に身を包む結美の姿だった。

美しい頬、柔らかそうな唇。その顔はもう怯えていない。ジッと哲夫を見据える目には、先程までの温かさは消えている。

哲夫はなんとか頭をもち上げて彼女に向かい合い、美しく膝を折って哲夫の顔を覗き込むその姿に見惚れた。


いや。この女の人は結美じゃない。結美そっくりだけれど違う人だ。君は誰?

哲夫が何か言おうとした次の瞬間、牧野結美は「パチン」と哲夫の頬を左手ではたいた。

別に、痛くはない。ただ、リアルなその音にびっくりしただけだ。

哲夫は、結美によく似たその女性を見返す。美しい顔は陶器のように白く、動かない。

彼女は、今度は、はたいた哲夫の右頬を包み込むようにやさしく触れた。

その唇が開き、哲夫に囁く。

「この愚かなる、愛すべき生き物。」


結美。今なんて言ったの?聞こえなかった。いや、聴こえていたけど、意味が理解出来なくて。

結美。何で言ったのか、もう一度今のセリフを耳元で聞かせてよ。


頭をひどく打ったせいかもしれない。哲夫の意識は、暗闇へと落ちてゆく。冷たく動かない表情の彼女は、そのままつうと消えた。


灯が一つまた一つ消え、静寂がおとずれる。

緞帳が静かに下りてくる。

「ちょっと待ってくれ、俺のキャラクターが成長するための時間は、あとどれだけ残されているんだ?」

哲夫の叫びは、こだました。

哲夫は、目を開けていられなくなる。

いや、目は開いているのに、何も見えない、聞こえない。


あたりが、しらじら明けた。日の出はどんな時でも、美しい。

哲夫は、自分の部屋で目を覚ました。見慣れた自分の部屋は、静かに朝日を招き入れている。

幕は下りたのではなく、開いたのだ。


ふと、携帯電話の着信を知らせるベルが、チロリンと鳴った。

取り上げて発信元を確認すると、見覚えのある会社名。ファイルを開くと、事務的な文章が書いてある。


「弊社へのご応募、ありがとうございます。つきましては、明日面接を行いますので、10時にお越しください。」


中途採用の書類審査に通ったという連絡だ。哲夫は散々迷った挙句、いくつかの会社の求人に応募済みだったことを思い出す。

「こんなに早く返事が来るとは思わなかった。大急ぎで、明日の面接準備をしないと。」


風呂に入り、頭を洗い、髭を剃る。バイト時代の手順を思い出しながら、鏡の中の自分を見つめる。

「ひどいなこの頭。髪を切りに行かないと。」

哲夫は、埃っぽいカバンの中を漁る。困ったことに、髪を切りにくためのお金が、財布に入っていなかった。

長らく働いていなかったから、銀行の貯金も底をついている。

どこかに現金の入った封筒があったはずと思い、なんとか見つけ出したはいいが、中身はほとんど残っていなかった。

「そうだ。ジョンの段ボールが届いた時に、払って全部使ったんだった。」

あれこれ考えて、あっちこっちひっくり返してお金を探してはみたが、ないものはない。


哲夫は、母親にお金を借りるために、久しぶりにリビングに顔を出す。

あいにく母は外出中で、妹の萌香が留守番をしていた。

「お母さん、出かけていて、いないよ。」

萌花と俺は、わだかまりのある兄妹だ。哲夫は、萌花を無視して部屋に帰ろうと考える。だが、夕刻が迫っている。このままじゃ、店が閉まってしまう。

哲夫は、踵を返してリビングに戻ると萌花に言った。

「萌花、お金を少し貸してくれないか?」

彼女は黙って、兄を見る。

少し考えてから、自分の財布を取り出し、哲夫にお金を渡した。


萌花は、兄に何も言わなかった。

「何に使うつもりなの?」とも

「ちゃんと返してよね。」とも。

以前の萌花なら言いそうな、嫌味の一つも言わなかった。


口を開いたのは、哲夫の方だ。

「ありがとう、ちゃんと返すから。あと、昔のこと…、ごめん。」

今まで一度も、叩いたことを謝ったことがなかった。昔のこととも思ったけど、謝ったら、なんかスッキリした。

「あと、これ。」

哲夫は、持っていた紙袋を萌花に手渡す。


日が傾き、外は薄いオレンジに色づいている。

今日の話を伝えたい母は、まだ帰っていない。

兄が出て行ったあと、萌花は紙袋を開けて中身を確認する。見覚えのある袋だ。

前に自分が、兄の部屋にさりげなく置いてきた、母のガラクタが詰まった紙袋。哲夫に突き返されたのだと、ようやく気付いた。


哲夫は、思う。

「俺たちは、完璧な家族じゃない。萌花は出しゃばりだし、俺も欠陥だらけの人間だ。だから、どうだというんだ。それで、充分じゃないか。」

今やらなきゃいけないことを、とりあえずやる。まずは、それでいいんだ。そして、そうやって毎日が次へと繋がっていくのだとしたら、それが生活するってことなのかもしれない。



俺は哲夫。会社で若手の、会社員。

えっ?就職おめでとう、って?

ああ。うん、まあ。

どうも、ありがとう。

萌花に、お金を返したかって?

返したよ、もちろん。萌花に借りを作るなんて、まっぴらごめんだからな。

俺にだって、プライドがある。俺が譲れない点は、「結美に関するものは、自分の稼いだ金で買う」ってこと。

ずいぶんと小さなプライドだな、って?

いいんだよ。牧野結美と俺との約束なんだから。

まあ、彼女は俺の勝手な約束なんて知らないだろうけれど。


会社の面接は、どうだったって?

絶好調だったよ。

社長は、俺のことを凄く気に入ってくれたみたいで、面接中ずっと笑顔だった。

その隣の、偉い人も

「君みたいな人がいてくれたら、我が社に活力が生まれるますね。」

なんて、しきりに社長に同調していた。

でも、もう1人の面接官は、終始不機嫌でニコリともしない。

俺、この人に嫌われちゃったかな。この人に面接を落とされるかな?なんて心配していた。


何はともあれ、面接合格。祝、就職。

そうしたら、その不機嫌だった面接官が俺の直属の上司でさ。上司は、就業初日に俺に言うわけ。

「君の前の若いやつは、3日で逃げたしたんだ。君は、何日もつのやら。まずは、良くて一ヶ月かな?辞めずに続いてたら、歓迎会してやるよ。」

はっ、?何この人、嫌味なやつ。これってパワハラじゃん?俺は、絶対こんな上司なんかに、負けないぜ。


一つアドバイスしていいかな?

えっ?俺みたいなのの話は興味ないって?

まあ、そう言うなよ。別にそう思っててくれて、構わないからさ。とても、大事なことなんだ。

「お願い事をするときは、慎重に。」

願いは、意外と叶ったりしちゃうもの、だから。

俺、就職する前に思ってたんだ。

(ジョンもびっくりなブラック企業に勤めて、成果だして彼を見返したい。)ってね。

そう、願うと叶うもんだよ。

この会社、超ブラック。めちゃくちゃ、ハード。

でも、これでも、俺は頑張って成果も出してるんだよ。ジョンには会いそうもないから、まだ彼を直接、見返せてないけど。


この会社に勤めて3日目には、もう泣きそうだった。

初日からキツい上に残業、2日目には筋肉痛。3日目には、身体が悲鳴を上げて、疲れが取れていないのに仕事量が減らされないの。

膝も思わず笑っちゃう。

俺は思わず、嫌味な上司にこぼしたよ。

「ここ、本当にブラックっすね。」

「ああ?ブラックってなんだ?うちみたいなのは、3Kって言うんだよ。若いもんは、言葉を知らんのか。」


ちょっと、訂正していい?

嫌味だと思ってた俺の上司、超いい人だった。と、言うか、この会社では唯一話が通じる、とてもまともな人。

面接でニコニコしてた社長は外では笑顔だけど、社内では突然不理屈なことを言って、従業員にキレるんだ。もう意味不明だよ。面接したもう1人の偉い人は、社長に同調して一緒に喚くだけ。

体力の限界以上に、モラハラが本当にきつい。

で、そんな無理難題に戸惑っていると、間に入ってくれるのが、やなヤツと思っていた俺の上司。

「まあまあ。彼はうちに入社したばかりですし。」

なんて言いながら、作業を終えるまで、ノルマをさりげに減らしてくれるの。

実はいい人だった上司。俺のこと見守ってくれて、本当にありがとう。そして、ごめん。

俺、この会社をやめようと思っている。

俺のこと、なんだかんだフォローして、育ててくれようとしているのは、わかっている。でも、もう、本当に限界なんだ。

辞表を出す日も、決めてる。

今月末に、結美のライブがある。その日まで、仕事を続けるつもり。

ライブが終わったら、辞表を出すんだ。もう書き終えて、お守りがわりに鞄に入れて持ち歩いている。

暗い話ばかりじゃないよ。会社がくれるお給料で、握手会のチケットをついに手に入れた。時間の一番短いやつだけどね。これが、会社勤めをした一番の理由だったから、俺的には一応順調。


「おい、昼食時間は15分だからな。10分で終わらせろ。」

俺の上司が、発破をかける。

「はい、すぐ行きます。」

俺は弁当をかき込んで、手早くプロテインの袋を開けてシェイクする。

「なんだ、その病院食みたいなのは?うちは体力勝負なんだ、そんなんじゃ夜までモタねえぞ。」

「大丈夫です、ちゃんと食べてます。これ知り合いのつてで買って、家にまだダンボール2箱残っているんです。」

上司は不思議そうに、プロテインの入ったシェーカーを覗き込む。

「それ、美味いのか?」

「いや〜、味は慣れちゃいました。」

俺も母親と同じで、捨てれないタチみたいだ。高かったんだよ、ジョンのこれ本当に。消費期限までに消費し終えるには、こうやって毎日飲みまくらないと。意外とお腹いっぱいになるから、食費も浮くし。

上司は、俺の背中をポンポンと叩くと、感心したように言う。

「大した肩だな。この筋肉は、その病院食のおかげか?」

「こんだけ会社にこき使われたら、いやでも鍛えられます。でも、現場作業で体使う方が、俺は好きですね。」

「そりゃ、そうだ。社長の顔も見なくて済むしな。」

上司は、ガハハと笑う。

「さて、戻るぞ。」

俺は、プロテインの入ったシェイカーを飲み干して、立ち上がった。

その時、携帯電話の着信があった。送信元を確認すると、なんとジョンからだった。


哲夫は、ジョンに呼び出されてチェーンの居酒屋にいた。

あいつは運がいい。今日の俺は、明日のライブと握手会のことで、気が大きくなっている。

そうは言っても、哲夫は不機嫌な顔をしている。1年以上前の事とはいえ、罵倒されたうえ高額商品を無理やり買わされたことを、まだ、怒っていたから。

ジョンの方は、上機嫌でニコニコしている。まるで、前回の酷いやりとりなんてなかったみたいに。

俺にしたこと、忘れているのかな?そういえば、あの電話口での彼、テンションが変だったし、当時はひどく酔っていたのかもしれない。俺も今のブラック職場にいると、腹が立って八つ当たりしたくなる。今なら、当時のジョンの状況が少し理解できるかも。


「お兄さん、お久しぶりです。僕じつは転職して、忙しくてしばらく連絡できなかったんです。」

ジョンは、シャツの袖をまくりあげ、哲夫に腕時計を見せびらかす。

「おう。俺も仕事を変えたよ。まあ、俺のことはいいや。ジョンは今、何しているの?」

哲夫は、ジョンの着けている腕時計に目が釘付けになった。

(あの時計、知ってる。ファンのHPで「握手会でのアピールの仕方」で話題になっていた。セレブを気取る高級腕時計じゃん。)

「また、物販の営業ですよ。今の仕事は、とても儲かります。」

「ふ〜ん。」

(なんだ、つまらん。)

俺は、ジョンを仕事で見返したいと思っていたのに、ジョンは更に先を行っているんだ。

「お兄さんの筋肉は、相変わらず凄いっすね。あれ、前よりさらに大きくなってない?やっぱり、いいプロテインを摂っているから効果が出てるんですよ。」

素直な哲夫は、ムカつきつつも、買わされたサプリに効果があったのかもと思い始める。それにしても、彼はおだてるのがうまくて、話してて楽しい。哲夫はついつい乗せられて、余計なことまで喋ってしまう。

「明日のライブに、いくんだ。握手会でさりげなく目立つには、もっと工夫も必要かな?」

哲夫は、ジョンの着けている時計が、気になって仕方がなかった。

(あれをつけて握手会に行けば、俺は、結美の印象に残るかも。)


ジョンは、明日のライブに気のないかんじで応えた。

「ライブ?ああ、お兄さんアッキー推しでしたね。」

哲夫は、ジョンの記憶力に驚く。成り行きにでっち上げた一言までも、彼は覚えているのだ。


でも、話しているうちに哲夫は、だんだん気になってきた。ジョンは、結美のライブにまるで関心を示さなかったのだ。

仕事が儲かっていると言うわりには、安居酒屋で飲んでるし、高い服もどこかくたびれている。

おまけに、靴はボロボロだ。変なの?

あれ? こいつ何しに、俺に会いに来たの?


「俺の新しい仕事なんだけど、お兄さんもやってみませんか?目立つには、お金が必要でしょう?登録だけでもいいから、話を聞きに行きません?」

(この話の感じ、前回と一緒じゃん。なんだまた、セールスかよ。ちぇ、つまらん。)

「すぐ戻る。」

哲夫は中座して、トイレに立った。

(もう、こいついいや。早く帰って、明日の準備でもしよう。)

席に戻ると、ジョンが哲夫の鞄を開けていた。給料日で膨らんだ、自分の財布を手にするジョンと、哲夫は目が合った。

ジョンの目が、鳩のように丸く膨らむ。

「お兄さん、帰りたそうだったから、会計済ましとこうと思って。」

ニタニタ笑ってごまかそうとしているが、ジョンのしていることは明らかだ。

(いや、そんな取って付けた笑顔に騙されると思うなよ。)

「ちょっと表に出ろ。」

哲夫は、ドスのきいた声で凄み、会計を済ませると、ジョンを連れて外に出た。


哲夫は、財布を盗もうとしたジョンにぶち切れた。

「これ、どう言うことだよ。説明してみろ。」

哲夫は、ジョンに詰め寄る。ジョンは、のらりくらりかわすばかりで、まるで暖簾に腕押しだ。

(こいつ、どこまで俺をバカにする気だ?)

哲夫は、思わずジョンの襟首を掴んで、彼を楽々と持ち上げる。ジョンは苦しそうに顔を歪め、ようやく降参する素振りを見せる。華奢なジョンは、とても軽かった。いや、哲夫の筋力が以前より増してるのだ。

ジョンを掴む哲夫は、自分自身の力に驚きつつも、どこか冷めていた。

(まったく、変な話だ。俺は今まで、自分は何をしてるんだろうって思っていた。仕事に追われる日々は、ちっとも楽しくなかった。安月給なうえに成果をいくら出しても報われないどころか、怒られてばかりだ、と。だけど、いつの間にか、この生活の中で、俺の筋肉だけはスクスクと育ったらしい。)

哲夫は少し冷静になって、ジョンを下におろす。途端に、彼は逃亡しようと走り出す。

「ジョン、いい加減にしろ。」

哲夫は彼を素早く捕えて、握り拳を見せつける。


誓って言うが、俺は、ジョンを殴る気はなかった。

殴るフリだけして、映画みたいにカッコよく寸止めするつもりだった。拳で脅して、ジョンが反省してくれればとだけ考えてた。

(あいつが悪いんだよ。俺は、暴力を振るう気はなかった。なのに、ジョンが変なタイミングで頭を振ったもんだから、もろ顔面に当たっちゃって。)

顔面を殴られたジョンの鼻から、血がポタポタと滴る。自分の血と哲夫を見て、素っ頓狂な声を上げるジョン。哲夫は人目を気にして、焦った。

「おい、黙れよ。そもそも、全部お前が悪いんだろ。」

ジョンは、なおも喚いている。哲夫は、止まないジョンの声にパニックになった。


「黙れって、言ってんだろ。」

哲夫は、ジョンを黙らせようと、今度こそ思いっきり殴ってしまう。

やっちまった。そんなに力を込めたつもりはなかったけれど、俺はやっぱりあいつのことが憎かったのかな?拳に、力が入りすぎてしまったみたいだ。

ジョンは、文字通りぶっ飛ばされた。よろめいて倒れ込み、道路に伸びてそのまま動かない。

哲夫は、慌てて助け起こし、彼を介抱しようとする。ジョンは、ピクリともせず意識がない。

(しまった、どうしよう。まさか、死んだりしてないよな。)

哲夫は、あたりを見回すが周りに他の人はいない。

哲夫は白目を剥くジョンの手首をとり、脈を確認した。

(よかった、脈はある。大丈夫だ。気絶しているだけだ。)

ふと、彼の腕時計に目をやる。さっきジョンが見せびらかしていた、高級時計だ。

ジョンは小さく唸り声を上げたが、依然として意識がない。

哲夫は、その時計を腕から外すと、自分のズボンのポケットに入れた。ジョンを道路に寝かすと、哲夫はその場を立ち去った。



哲夫は、鏡を覗き込みながら、丹念に自分自身をチェックする。

顔を洗い、髭を剃り、眉を整えた。

テレビの天気予報が、今日1日の快晴を告げる。

ふと、着ているシャツに目を落とし、袖口とんだに小さなシミを見つけた。

(ああもう。ちょうど上から目に付く位置にあるじゃないか)。

哲夫は、ひどく落ち込む。だが、出かける時間だ。


日差しがとても、暖かい。風は、満開の桜をかき散らすほど吹き荒れている。

そういえば、自分の中学の卒業式もこんな日だったな。校長先生と担任が、わざわざ家に証書を届けてくれたんだっけ。

どうして俺は、あの時、今日みたいにちゃんと準備しなかったのだろう。

どうして当時、自分はみんなの期待に応えられるよう頑張らなかったのだろう。

思い出と共に、後悔が溢れ出た。だが、一瞬だ。

哲夫は、湧き上がる記憶をどんどん捨てて、出かける準備をする。

鏡に向き直ると、もう一度、髪のセットを確認した。


そう、卒業だ。

今日、牧野結美が卒業するんだ。

俺が、結美の推しを卒業するんじゃないよ。結美は、今日のライブで、アイドルを卒業するんだって。


彼女がアイドル活動を辞め、女優業に専念すると発表したのは、つい先日のことだ。

今日のライブが、アイドルとしての彼女の最後のコンサートになる。

彼女は、同時に芸能人Mとの婚約を発表をした。

結美、おめでとう。君は、素晴らしい女性だよ。さすがは、俺の推し。

誘惑の多い芸能界にいながら、1人の男と添い遂げる決意をしたのだから。


えっ?ジョンの高級腕時計をつけていくかって?

まさか、持っていかないよ。

新たな門出に穢れを持ち込んだら、失礼ってものだろう?盗んだものを身につけて、結美の手を握るものか。


昨夜、試しにジョンの時計を腕に通してみた。それから、ネットで改めて時計について調べてみたけど、俺の3ヶ月の給料より高くてびっくり。

時計をつけた自分を、鏡でみてみる。

「やっぱり、かっこいいな。着ている服が貧相に見える。」


でも、時計は家に置いていく。

そういえばジョンのやつ、どうしているかな?

近所で行き倒れがあったか、天気予報に続いてのニュースに聞き耳を立てる。

事件には、なっていないようだ、彼は家に帰ったろう。

そのうち連絡をよこすだろう。哲夫は、ライブチケットを挟んだ手帳を、ポケットに入れた。


哲夫は、ライブ会場にいた。泣いても笑っても、最初で最後の、結美が歌うライブだ。

あまり長いこと彼女を想っていたから、まるで初めてのライブという気がしない。

結美は緊張のせいか、舞台でピッチを外しまくりだった。それでも、コンサートは素晴らしかったよ。やっぱり、君がいてくれなきゃ。

歌の途中で声に詰まって、結美が涙声になる。やがて、歌声が途絶えて、そのまま泣き出した。

俺は、つられて泣いてしまった。俺のことを、笑って咎める者はいない。泣いていたのは、俺だけじゃなかった。

最後の歌が終わる。名残惜しい。


ライブが終わって、次は握手会だ。哲夫は胸を張って、列に並ぶ。仕事でしごかれた胸板が厚くなり、シャツがキツい。袖口の小さなシミも気になる。大事な日なのに。新しいシャツを買って着れば良かった。

結美に、なんて言葉をかけよう。列が順番に近づいてくる。早く自分の番が来て欲しくて、待ちきれない。でも、自分の番が終わるのが嫌で、ずっとこうして待ち続けたい気もする。

前の人の時間が終わり、係の人が手をあげた。

「次の人。」

いよいよこの時がきた。手に汗かいているのに気付いて、歩きながら慌ててハンカチで拭った。


頭の中で考えていた言葉が、出てこない。

「名前は?」

「哲夫です。」

「哲夫くんて言うの?ライブ楽しんでもらえたかな?」

俺は彼女に伝えたいことがありすぎて、口ごもる。

(君がいたから、バイトをして、いじめにも挫けないで。面接して、就職して、稼いで…。君がいたから、今の僕があるんだよ。)


哲夫は結局、ほとんど喋れなかった。牧野の笑顔は、屈託なくひかる。

その笑顔に、今までの彼女への思いを見透かされた気になって、哲夫は動揺する。

「今まで応援してくれて、本当にありがとね。」

結美は哲夫の手をしっかりと握り返すと、もう一度口角を上げて笑った。

天にも登る気分だ。

哲夫は、足元もおぼつかないくらいフラフラして、握手を終えた。


列を次の人に譲り会場を離れると、追いかけてくる野太い声があった。

「おい、君。」

怖い顔をしたガードマンが、哲夫を呼び止める。

夢では、この後、彼らに捕らえられて殴られるんだっけ?夢の中で何度も牧野を、握手会場から連れ出した後のことだ。

あれ?でも俺、今日は何も悪いことしていないよ?

哲夫は抵抗するまもなく拳を一発食らうと、その場に伸びて、気を失った。



「若い子は本当に、何しでかすか分からないから。図体が大きくても、まだまだ子供。」

「そうは言ってもね、いつかは自立しなきゃならないの。」

「それを見守るのが、大人の役目でしょ?人の目のあるところで、人間は成長するものよ。」


明るすぎる蛍光灯のもと、哲夫はゆっくりと意識を取り戻す。天井の虫食い模様は、見慣れたよくあるデザイン柄だ。

側には薄緑のポリエステルのカーテンが揺れて、自分を包むシーツはのり付けして、アイロンが硬くかけられている。

周りの空気や声が、カーテンの隙間から漏れてきた。時折漂う消毒薬の匂い、人工的な化学物質に混ざって花の蜜の匂いが鼻をつく。

花もさっきまでの会話も、隣の患者と見舞客の間で交わされているものらしい。

哲夫は寝慣れないベットから身を起こし、ここが病院だとを理解した。

哲夫が起きたのをみとめた看護師が、ドクターを呼びに行く。


俺は、夢を見ているのだろうか?隣の見舞客や看護婦の中に、哲夫は「牧野結美」が居やしないかと探す。

まだ夢の中にいるみたいな、スッキリしない気分だ。

夢?

俺は、結美の手を握ったはず。あれは現実だよな?まさか、まだ夢の中にいるのか?


哲夫は右手で自分の右頬を触れる。夢で牧野結美にはたかれた頬。

少し思い出してきたぞ。でも、彼女がなんとささやいたのかが思い出せない。耳元ではっきりと聞こえたはずなのに。

今度は、会場で殴られた左側の頬に手を伸ばした。きっと腫れ上がっているはず。痛くないようにと、おそるおそる触る。が、どうゆう訳だか、指は自然な頬の感触にふれた。別に、痛くもなんともない。

ふと、いったいどれほどの時間をこの病院で眠って過ごしたのか、考える。どれくらの間、自分は意識がなかったのだろうか。

その時、看護師とドクターが現れた。


メガネをかけたドクターは、白衣のポケットから取り出したペンライトで哲夫の瞳孔の動きを見ながら問診をする。

「お名前は言えますか?」

「哲夫です。」

「倒れたときのことを、覚えていますか?」

「ライブに行って…。」

(待てよ。俺は本当に結美のライブに行ったんだよな?彼女の手を、この手で握ったんだよな?)

哲夫は、急に不安になる。

「以前にも倒れたことは、ありますか?」

(よかった。否定されなかったってことは、ライブにはちゃんと行ったんだな。)

「いいえ。」

哲夫は、落ち着いて答えられた。


「今日の、MRIのスケジュールはどうなっている?家族の了承を得たらすぐに検査に移れるように、とりあえず、予約を入れておいて。」

看護師に振り返って、ドクターが指示をする。

看護師はドクターの指示に安心した表情を見せた。別室に案内しつつ、パステル色のガウンを手渡す。これに着替えろと言うことらしい。

「お母様には連絡がつきました。すぐにいらっしゃるそうです。」

ナースに付き添われて、検査室に向かうところに母親が到着する。息を切らして焦った様子で、ボーッとしている哲夫を見つける。

ドクターが、対応にでた。

「精密検査をしますので、こちらでお待ちください。」


哲夫は、検査台に横になる。頭が白いトンネルにくぐると、高い振動音がして、脳のスキャンがはじまった。

「自分で歩けるようだし、もういいですか?連れて帰ります。」

別室に移動した母親が、検査待つ間にドクターをせかした。

「意識は戻りましたが、倒れたときに頭を打った可能性があります。念のため、脳の精密検査をします。」

「はあ。」

母親は、納得いかない様子だ。

「最近、ご家庭での様子で変わったことはありませんでしたか?喋りがおかしいとか、意識を失いませんでしたか?」

「どこで何してるかなんて、私にはわかりません。だいたい、あの子は無口で、いつも喋らないんです。」

母親の言葉は、投げやりだ。

自分がコントロールできることなんてないのに、あの子のトラブルは、ぜんぶ私のところに来る。

「急に倒れたりして、暴れて喧嘩でもしたのでしょうか?あの子は昔から、時々乱暴になるから。」

ドクターは、一瞬口を緩ませて言う。

「ホールの入り口で意識を失ったそうです。暴行や喧嘩などのトラブルとは聞いていません。救急車は、会場の警備員が呼びました。」

ドクターは、矢継ぎ早に答える。

息子がはなれで生活するようになって、何年にもなる。別居状態なので、母親とは言っても、息子のことは知らない。

「何回か転職したみたいですが、働いているはずです。」

検査が終わって、検査医が診察室に立ち寄る。スキャン画像が診察室に送られる。


モニターには、銀杏の葉を二つ並べたような脳の画像がいくつも並ぶ。ドクターは画像を凝視していた。

長い沈黙に耐えかねて、母親はイライラし出しす。

(息子は若いんだし、なんともないでしょう?早く家に返して頂戴。)

ドクターは母親に、まるで普通な表情で診断結果を説明する。

「軽い梗塞が認められます。まだ小さいものですので、投薬で様子をみましょう?」

母親は言葉に詰まった。息子の心配をするより先に、ドクターに息子の健康管理を責められたような、自分が負けたような気分になった。


母親は受話器を握り、哲夫の父親である夫に電話をする。

1回、2回、電話は一向に、つながらない。母親は、夫を捕まえるのを諦めると、伝言メッセージを残して受話器をおいた。

ため息が、一つ。わざとらしく、もう一つ。

いつものことだ。夫は「仕事だ」、とさえ言えば、全ての家庭の問題に関わることを免除される。私だって働いているのに。

妻からの電話とわかって、わざと電話に出ないのかしら?父親でしょう?自分の息子の一大事なのよ。

夫はいつだって、何を考えているのか、言わないからわからない。そもそも、ちゃんと考えているのかもわからない。まったく、息子は、そういうところが夫にそっくりだ。

今時の家庭は、そんな「夫は、仕事さえすればいい」じゃやっていけない。萌花には、ちゃんと教えなきゃ。お父さんやお兄ちゃんみたいな男と、結婚するものじゃないって。家庭のこともちゃんとする男を、選びなさいって。


ふと、母親は我に帰って、看護師に尋ねる。

「息子は意識がなかったのに、どうして、うちの電話番号が分かったんですか?」

「彼の持っていた手帳に、家の番号が書いてありました。緊急時の連絡先をちゃんと持ち歩いていて、彼は立派ですね。」

看護師は、母親に説明をする。


病気とは思っていなかった哲夫には、医師の話がショックだった。

「心当たりといえば、毎食プロテインを飲んでました。倒れたりしたのはそのせいですか?」

ドクターは、冷静に答える。

「それは、あんまり関係ないと思う。けど、サプリメントは程々にね。睡眠は、ちゃんととれている?」

「新しい仕事になれなくて、あまり寝れてません。言葉の方は、よく詰まって出てこなかったかも。」

結美に伝えられなかったことがたくさんあるのが、悔やまれる。でも、よく喋れないのは病気のせいじゃない気もする。

「過重労働は、脳だけでなく心疾患にもつながるから、睡眠不足に気をつけて。血栓を溶かす薬を投与して、しばらく様子をみましょう。」

思ってたより、おおごとになってしまった。会社に連絡しないとな。社長に嫌味を言われるかと思うと、連絡するのも気が重い。そもそも、今日は会社に辞表を提出する予定だったのに。あーあ、妙なことになっちゃったな。


母親は、ベットに腰掛ける息子の隣にいて、手持ち無沙汰だった。さっきの、看護師の言葉が頭をかすめ、息子に言った。

「あんた、手帳に家の連絡先を書いて持ち歩いていたんだって?お前がマメな性格で、よかったよ。」

哲夫は、母親のこの言葉を一生、忘れない。

(母さんが、初めて僕のことを褒めてくれた。)

哲夫は、ちょっと感動した。アヒルのおばちゃんが褒めてくれたことはある。でも母さんが、俺の性格を肯定してくれたことは、今までなかったから。


母親の携帯がなった。夫が伝言メッセージを聞いてかけてきたと思い、急いで電話口に出る。

だが、通話する母親の声は急にトーンを落とすと、動揺しだした。

それは、夫からではなく、警察からの電話だった。


「もしもし、哲夫さんのご家族のかたですか?彼の連絡先を教えてください。彼に傷害の被害届が出されています。」

警察を名乗る男の対応は、丁寧で事務的だった。母親は、事態が飲み込めずに混乱する。

傷害事件なはずがない。トラブルなんて、聞いていない。ドクターは、息子が倒れた原因は病気によるものだと言っていた。


警察は、さらに加えた。

「ところで、以前に家庭内暴力で通報されていますよね。その後の彼は、家庭で問題を起こしていませんでしたか?」

中学校を卒業しても引きこもり、萌花に手をあげた時の話だ。

家での過去にあったパニックが蘇り、母親の顔が、みるみる赤くなる。そうだ、思い出した。あの時、萌花に促されて警察を呼んだのは私だった。

家庭の問題を大きくさせて、哲夫を追い詰めた原因が自分にある、という考えが頭をよぎる。

 (何で警察なんか呼んだの?)

 (息子を犯罪者にするつもり?)

 (萌花が犯罪者の妹になってしまう)

自分を非難する、幻の声が母親を再び問詰める。

(母親のくせに、子供より仕事を優先させた。)

(母親のくせに、息子をコントロールできていない。)

(母親のくせに、母親のくせに…。)


彼女とて、言われっぱなしで黙るつもりはない。そんな声を否定する、新たな考えがわいてくる。

違うわ、私のせいじゃない。哲夫、お前が悪いんだよ。

「いい加減にしろ、哲夫。」

母親は、自分への罪悪感を打ち消すかのように怒鳴った。

「ぜんぶ、お前が悪いんだろう。」

声に出すと、だんだん腹が立ってくる。

(お前が悪いんだよ、妹の萌花と仲良くしないから。)

(お前が悪いんだよ、些細なことで学校に行かないから。)

(お前が悪いんだよ、母さんの言うことを聞かないで、姑の膝でニコニコ笑ったりするから。)


「だいたい、お前がそんなに甘ったれなのは、ばあばがあんたを甘やかしたからだ。」

やり場のない怒りが溢れて、母親は突然、当たり散らした。

哲夫はひるんだけれど、母の悪口には慣れていたから聞き流す。

(ばあばのことを、悪く言わないで。よく覚えていないけど、小さい時に可愛がってくれたんでしょう?)

ジョンを殴ったことの後悔は、正直すっかりなくなっていた。


その時、哲夫の耳元でカラスが鳴いた。もちろん、カラスは病院にいない。

(あ、夢の中に出てきた「ヤタガラス」だ。)

鳴き声の主は、ばあばが買ってくれたランドセルのエンブレムだと、哲夫は思った。


俺は、このとき母に「ごめんなさい。」と、謝るべきだったのかな?

「今まで、ありがとう。」と、言うべきところなんだよね。

でも、俺の頭に浮かんだのは、

「母さんは、かわいそうだな。」って、ことだった。


物語で主人公が退治する竜は、心理学者のユングによれば母親を暗示しているという。

そう考えれば、これはきっと正しい物語の終わらせ方だ。

俺はもう、子供じゃないんだ。今度こそ、本当に自由なんだ。


(「まったく、親の心子知らずよ。」)

俺は、冷たいやつだよね。

いつか、もう少し時間がたてば、俺は両親に感謝することができるかな。今は無理でも、いつか俺が時を終える前までには、そんな気持ちになれるかな。


<エピローグ>

哲夫は鏡に向かい、久しぶりの出社準備を入念にした。鞄の中の退職願は、今日は出せる気がしない。

上司は、俺が倒れた原因が長時間労働にあるって思っているらしく、社長に労働環境を改善するよう掛け合ってくれていると聞いた。少なくとも、健康診断を受診させていなかったのは、会社の違反行為だと言うんだ。

やめてくれよ。そんなことしたら、ますます会社を辞め辛くなるじゃないか。

それに、話が大きくなったら、ライブに行ってアイドルと握手した後に倒れたことが会社の皆に知れてしまう。早く職場復帰して、誤魔化さないと。


ジョンは、警察への被害届を取り下げたらしい。彼も後ろ暗いところがあるんだろう。

時計を返しに行こうと思って住所を聞いたけれど、彼の所在は不明とのことだった。


新しいシャツに袖を通して、会社に行くために部屋を出る。

見知らぬ女の人が玄関のドアに立っていた。

綺麗な人。見覚えがないけど、誰だろう。


「朝早くに、たいへん申し訳ありません。弟の所在を知らないかと思いまして。」

スーツに身を包み、丁寧にお辞儀をする。彼女の弟という人は、知らない名前だった。

彼女は、弟の持っていたものと言って、俺にノートを見せる。


合点がいった。彼女の弟は「ジョン」だ。


ジョンのノートは、手書きで細かく書き込みがされている。彼が俺との話をよく覚えていたのは、努力の賜物だったんだ。

俺なんか、ジョンに姉がいたことも、ジョンの推しが誰だったかも思い出せないのに。彼も必死だったんだな。

俺は、姉に向き直る。

「申し訳ないけれど、ジョンのことは知りません。彼には会いたくもありません。」

ジョンのことを非難する言葉が、口をついて出る。

姉は深々と頭を下げると、黙ってうつむいた。

ちょっと待って。ひょっとしてこの人はジョンのために、名簿の住所を一人ひとり訪ね歩いているの?


哲夫は、帰ろうとする姉を呼び止めた。走って彼女に追いつくと、彼女にジョンの腕時計を手渡した。

「この時計は彼のですから、お返しします。」

姉は驚いた表情で戸惑ってから、再び頭を下げた。


哲夫は、思う。

「あの時計、かっこ良かったよな。」

今の会社で、もうちょっとお金を貯めようか。辞表を出すのは、同じような時計を買ってからにしようかな。

<完>


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