たまたましい
2018年10月4日に編集しました。
毎日に仕事に追われるボクがいる。毎日同じ事を何度も何度も繰り返し、それに逃れるかのようにして他の別の事に没頭し、妻に対しては疎かになってしまう。
ボクは常々考えてしまうのだ。本当にボクは生きている価値などあるのだろうか、と。
何世紀にも渡り、何億何千と言う人類が何度も何度も世代を交代し、こう語っている間でも世界中のどこかで、何人か何十人かは知る由もないのだが―何人かは生まれては死んでいる。ボクはそのうちのたった一人にしか過ぎない。
人は神によって作られたと言うが、現在まで原罪を背負って生きているとも言われているが、遠い先祖の事なぞボクは顔を知る訳もない。遺伝子は刻まれてゆくとも言われているが、なんだって記憶と遺伝は別の賜物にしたのか、ボクにはその事が人の欠陥であるとも感じられる。
ボクは自分が何の為に生まれて、何のために生き続けているのか分からない。
死ぬ為に―無に向かって生き続けてるのであれば、いっそのこと初めから生まれなければ良かったのではないか、とつくづくそう思う。
何らかの理由や原因があるにしても、無になるために生まれるのは生きるのは無駄な行為そのものではないだろうか。最後の一人まで生き残った人間が次の神となる、生き残った人間が勝者となり、願望が叶えてもらえる―そんな考えも少なからずある。だがハッキリ言って意味のない事だ。
例えボクがいなくても世界は回り続ける。それは憶測でも予測でもなければ、推測でもない。確証―いや、真実である。
まるでそれは永久機関であるのように、ボクと言う思念体とも言うべきか…とにかく、たった一つの個体がいないところで、何も変わらずぐるぐると回り続けるのだ。
生きる上で死とは逃れられない運命。老衰、事故、病気―どんな理由であれ、例え善人であろうと悪人であろうとも死ぬと言う事実は免れない。また、仮死から蘇ったとしても死から蘇った人物はいない。例え三日後に復活したとして、その存在がいたとしてもそれは物語上の出来事だ。事実であるかどうかも確かめようがないので、ボクは妄想の物語として、それを認識している。
たまたま生まれてきたボクと言う存在。だからといって、両親も、その両親も、そのまた両親も偶然の産物にしか過ぎないのかもしれない。
もし何らかの理由があって、生まれてきたにせよ、その理由の記憶がない時点では意味がないのだ。所詮、理由も後付けで決めているに過ぎない。
「この世界は空想世界だ」などと唱える学者がいる。ボクが今生きている世界と言うのは、実際は脳が見せているシミュレーションであり、実際にいくつかのバグもあるようだ。しかし、そんな事はどうだって良い。理由がどうであれ、生きている事は無駄なのだから。
死ぬと生きている経験値が全て無となる。つまり、無駄だ。どんなに成績が優秀となったにしても、どんなに仕事で成功を収めたとしても―どんな経験を積んだとしても、一切の意味がなくなる。
どんなに生きたいと願い続けてる人だって、どんなに死にたいと願い続ける人だって、いずれは死んでしまう。死ぬ為に生まれてくるのなら、いっそのこと生まれなければ良かったのである。
意識が生まれたからこそ人々は恐怖心及び喜怒哀楽と言う感情を抱くのであり、意識が最初から無ければ恐怖心も何もかも無かったハズだ。
いわゆる輪廻のように何度生物に生まれ変わるにしても、人間にまた生まれ変わるにせよ、ボクはそれらを拒否するかと思う。
人は生まれながら中身を重視する。しかし、実際の中身は骸―骨格である。思考などは変えられてもその容姿だけは変えられない。中身と言うのは所詮、ハートつまり己の考え事にしか過ぎない。
考え事をするから故に様々な問題が起きる。悩み、考え、そして笑ったり泣いたりもする。人々は常に感情に左右されて生きている。感情論に左右されるな―と諭す人もいるが、結局どの人も感情に左右され、発達した脳に左右されているだけなのだ。その時の雰囲気に弱く、誰よりも自分優先にして生きなければ不幸となるだけだ。―実際、幸不幸かどうかも、感情論に基づくものかもしれないが。
人には考える力がある。それは必ずしも幸せへの道則でも過程でもない。単に判断する基準にしか過ぎない。どう判断するかは個人の自由であるが、正しいと言う結果は一切ない。
生き方は自分で決められるように唱える人物もいるが、それは自身が裕福であるから故に、心に余裕があってこそ可能な出来事であって、生き方に平等などない。ただ、他人に意見を左右されるかどうかでまた変わってくるものだと思う。
また、人は殺しても、殺されても、殺された側も殺した側も、結果はどうあれ変わらず死ぬ。死ぬと言う事実と結果には変わらない。世にいるサイコパス達が、殺人を犯して解放させると言う理由も分からなくはない。かといって国があるからこそ一般人は守られている訳で、国が殺人を許したとしたら、金目当てで紛争が起きても誰も文句は言えなくなる訳だ。
人は普通の出来事を『当たり前』と考えるようになり、何もしなくなる。集団行動は生物が生きる上で欠かせない行為だ。故に国のリーダーがそれを決める。人はそれぞれ大差ないものだから、『勉強』と言う科目でトップを目指し、差をつけようとする。頭の基準でそれを決める事しか出来ない。
必ずしも頭が良い事=要領が良いと言う訳ではない。記憶力が正しいか否かを確かめる為の一種の技術―及び主張なのであって、コンピューターで例えるならば、頭の容量が32GBあるか、1TBあるか否かの差であるようなものである。残念ながらボクは前者ではあったのだが、その人の容量は子どもの頃に発揮するか成人になってから発揮するかで大きく変わってしまうものだ。人々は気づいてこそはいないが、大体は成人してから脳の記憶力が成長する事もあり、後者の方が多く、本人は気づかないまま生涯を過ごす場合も多いが、脳の個人差による違いがあることを知らない事も殆どだ。
人は誰しも憧れる能力がある。その能力は嫉妬もしくは尊敬の思考となり、自分の内に無いもの強請りをするようになる。他の動物にはない能力だ。有効活用法を知らない人間が殆どで、生き方によって憧れを封印してしまう者も多いのも事実だ。
後悔するのもしないのも、結局は生きているからこそ芽生える感情なのであり、初めから無であれば、そんな事を考える必要はなかっただろう。
ピピピと目覚まし時計が鳴った。
「もうこんな時間か…」と、ボクはアラームを止める。
隣で寝ている妻の頬にキスをして起き上がり、ボクは急いで着替えて家から出た。