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夏の虫

作者: 岸本明大

二つの事件


 9月4日(水曜日)の朝、一つ目の事件が起きた。


 トレーディングルームのトレーダー達がモニター画面を見ながらゆっくり仕事を始める。普段はこうして静かな一日が始まるのだが、今朝はいつもと様子が違う。何やら女性スタッフが蜂の巣を突いた様に騒がしく、大事件でもあったのかと思いながらPCのキーボードを打っていると、スタッフの一人が安村に情報を持ってきた。


 眉間に皺を寄せてこちらに向かってくる一人の女性。朝から嫌な話しを聞かされるのではと胸騒ぎを覚えたが、正にその通りとなった。

「安村チーフ! 聞いて下さい。女子トイレの中に人糞があるんですよ。誰かが夜中に忍び込んだに違いありません」

 安村は外資系投資会社で働く優秀な為替のチーフトレーダー。30代の半ばで経験豊富。上司や部下からの信頼も厚い。

 女性スタッフに腕を引っ張られ、女子トイレを見に行った。


 キャアキャア騒いでいる女性達の後ろから現場を覗くと、女子トイレの奥に掃除用具置き場が一室あるが、その扉が開いていて中に人糞が見えた。不快な匂いも漂っている。

「チーフ、これって犬や猫の糞じゃないですよね」

「おそらく人間のモノだろうな。誰かがこの中に隠れていて隣の個室を覗いていたかも知れないね。犯人は大した度胸だな」

「ヤダー! 気持ち悪うい~ 一体誰よ!? そんなことするのは」

 女の子達は首をすくめながらブルブルと震えてしまった。

「社内にそんなことする奴はいないだろう」と言うと、

「それでは外部犯? ならばチーフが警察に通報して事件を調べてもらって下さいよ!」

「待て待て…… あんまり大袈裟に騒ぐなよ。単なるいたずらかも知れないし。警察を呼ぶような話かな~」


 そう言うと、後ろから神崎由美子、通称ユーミンが口を出してきた。

「単なるいたずらですって? 安村チーフは甘いですよ。いつも事なかれ主義なんだから。女性にとっては大事件です。しかも変質者でしょ! 考えただけでもゾッとします。断固として犯人を探して下さい」

 ユーミンは安村の部下で、為替取引グループの事務を行うバックオフィスのスタッフだ。

 安村より年下だが社歴は長く仕事もできる。小柄で華奢だが芯は強く、他の女性スタッフのまとめ役でもあり、お局様的存在だ。気は強いがルックスが良いので安村にとってはアトラクティブな女性だ。

 しかし彼女にとって安村は好みでなさそうだ。食事に誘っても必ず女友達を同伴で連れてくる。手を出しにくい彼女は安村にとって妄想の対象となっている。


 女性スタッフの中ではお局様と恐れられているユーミンで、気の強いじゃじゃ馬娘だが安村にとってはマドンナだ。

 仕事中は眼鏡をかけていて冷たい表情だが、眼鏡をはずせばなかなか可愛い顔をしている。小柄だが以外にグラマーで、安村の男心をそそる。手を出したいのだが気が強いので出しにくい。

 安村が先日仕事でミスした時などは、『チーフのくせにこんな単純なミスするなんて恥ずかしいと思いませんか? もっと集中して仕事してもらわないと…… チーフ失格だわ』などと……

 面と向かって直属上司の安村を叱責するユーミンは何様だ!

 しかし、それにもかかわらず、そのときの安村は女王様にハイヒールのかかとで背中をグリグリ踏まれたようなマゾヒスティックな快感を覚える。


 そんなユーミンに安村は事なかれ主義と評価された。

 不満を感じながらもユーミンから受けた評価を無視できない。何らかの対応策を取らなければ……

「よし分かった。取り敢えず警察に連絡しよう。変質者が会社に侵入したかも知れないからな」

 そう言って、女の子達をオフィスへ戻す。

 間もなく警察が来てトイレ内の捜査を始めたが、その間、女性スタッフは他の階の女子トイレを使うしかない。


 女性スタッフの不満を耳にしながら仕事をしていると、本多マネジャーが怖い顔をして安村のデスクに近寄ってきた。

 本多マネジャーは安村の直属上司。外国投資部のマネジャーという社内でも重要なポジションにある。理論武装も抜かりない切れ者で非常にクレバーな男だ。

「投資の世界では努力しても運悪く失敗することがある。しかし、納得できる合理的な理由を説明すればクライアントは許してくれる。我々の仕事は単に儲けることではない。最善の投資戦略を作りクライアントを納得させることである」

 こんな風に日頃から部下を教育している。


 そんなマネジャーだから、部下の人事管理についても厳格だ。

「安村チーフ、コースケはどうしたんだ? 今朝から見えないが、今日は休みか?」と安村に詰問した。

 相沢浩介、通称コースケは安村の優秀な部下だ。入社三年目だが仕事を任せても安心なので、本多マネジャーは直属上司である安村を差し置いて直接コースケに仕事の指示を出したりしている。組織上のルール違反ではないか! とチーフの安村にとっては不満もある。

「未だコースケから連絡は入っていませんが、昨日は疲れていたみたいなので、午前中は半休にするつもりかも知れませんね。おそらく午後に出社して半休の届出を提出すると思いますが……」

そう言いながら、安村は本多マネジャーの顔を見上げた。

「人事管理が甘いな! 半休なら朝早く連絡させるよう教育するのが、チーフとして当然の務めだと思うがね!」

「申し訳ありません。今後は十分注意して教育します」

そう言って素直に頭を下げた。


 しかし、午後になってもコースケは現れない。

「コースケはどうなってるんだ! 今日中にアイツから聞きたいことがあるんだ!」

「分かりました。今、電話します」

 マネジャーのイライラしている様子を見て安村は直ぐ電話した。しかし、自宅にも携帯にもつながらない。マネジャーはこの様子を見てもどかしそうに声を荒げた。

「困ったヤツだな! コースケは何を考えてるんだ。昨日やっておくようにと指示した仕事について、どうしてもその結果を今日中に聞きたいんだが……」

 そう言って、マネジャーは安村に一枚の紙を見せた。それはコースケからマネジャー宛に提出された為替取引報告書であった。



『為替取引報告書。

 本多マネジャー様。

 昨日ご指示いただきました八百万ドルの為替取引について、

 本日、為替市場の動向を十分観測しながら取引を実施しましたが、購入のタイミングと売却のタイミングについて判断を誤り、許容限度額を上回る損失を計上するに至ってしまいました。

 誠に申し訳ありません。

 今回の不手際を深く反省し、私を信頼して資金運用を任せていただいた本多マネジャー様及び資金を預けていただいた投資家の皆様に深く謝罪申し上げます。

 今後は二度とこのような失態を犯さぬよう十分注意いたします。

 2015年9月3日、 相沢浩介』



 これは、コースケがマネジャーから為替取引を指示されたが、売買のタイミングを誤り大損してしまったという内容だ。

「今朝、僕のデスクにこの報告書が置いてあった。昨日は出張で一日中留守にしたが、僕の留守中に8百万ドルのデイトレードをやっておくようにとコースケに指示したんだ」

「そうだったんですか。僕は何も聞いてませんが」

「先にチーフである君に話そうと思ったんだが、ちょうど君が席にいなかったし、時間がなかったのでコースケにだけ話したんだよ」

「確かにコースケは優秀だから、僕の細かい指示がなくても大きなミスはあり得ませんからね」

「昨日は、日銀の金融政策決定会合があっただろう。発表後の動きを見ながらデイトレードで為替益をねらえと指示したんだよ。ただし絶対に無理はしないように! 損失が1%を超えたら迷わずロスカット(損切り)しろと念を押しておいたんだが…… この報告書だけでは損失を被った経緯も理由も分からん」

「それは全く知りませんでした。一体いくら損したんでしょうね?」

 安村は急いでバックオフィスのユーミンを呼び、

「昨日の取引記録を調べてくれ、コースケが実行した8百万米ドルの買いと同額の売りだ」


 ユーミンは直ぐに取引記録を調べて報告した。

「8百万ドルの購入が13時12分で、1ドル125円60銭です。8百万ドルの売却は13時40分で、1ドル120円40銭です。5円以上の損ですね」

「何だと! 1ドル5円以上の負け? 計算すると4千160万円もの損失じゃないか…… 1%でロスカットすれば1千万円程度の損ですんだはずだ。3千万円以上の余計な損は会社に対しても、資金を預けてくれているクライアントに対しても言い訳できんぞ!」

 本多マネジャーは安村を睨みながら声を荒げる。

 そんなこと言ったって、マネジャーがチーフである自分を差し置いてコースケに取引を命じたのだから自分に責任はない、と思いながらも、

「確かに言い訳できませんよね。コースケが出社したら理由を問いただしましょう」と安村は冷静に応じた。


 しかし、コースケは午後になっても出社しない。連絡も取れない。終業後に安村は、コースケの様子を見に行くようヒロシに頼んだ。

 野上浩、通称ヒロシは安村の部下でコースケの同期。

「悪いけど、仕事が終わったらコースケのアパートに寄ってくれ。昨日の取引で大損したみたいだから、一人暮らしのアイツは落ち込んでるのかも知れない」

「ハイ、分かりました。じゃあ、早めに行ってアイツに酒でも飲ませますよ」

「そうしてくれると助かるなあ。普段ならオレがアイツを誘い出して飲みに行きたいところだが、今日は仕事が忙しくて残業なんだ。飲み代は出してやるからレシートをもらっといてね」

 とにかくヒロシに任せて明日を待つしかない。明日になればヒロシに説得されてコースケは出社するはずだった。


 ところが、明日が来る前に二つ目の事件が起きた。



 夜遅く帰宅した安村のもとへヒロシから連絡があり、コースケがアパートの自宅で首を吊って自殺していたというのだ。

 この訃報は瞬く間に社内を駆け巡り、翌朝は大騒ぎとなった。



 9月5日(木曜日)、早朝から警察の事情聴取が始まる。


 ヒロシが第一発見者だ。彼が玄関からコースケを呼んでも返事がなかったので、扉を引くと鍵はかかっておらず、中をのぞくとトイレのドアノブに浴衣の帯で首を吊り、足先は床に着いたまま、お尻は浮いた状態でコースケの息絶えている姿が見えたという。

 死亡推定時刻は9月3日の深夜。警察の話によると、天井から首をつってぶら下がるのではなく、ドアノブなどの低い位置から首を吊り、足先を床に着けたまま、体重をかけて頸部を圧迫させ自殺する方法があるそうだ。非定型の首吊り自殺と呼ぶらしい。

 昨日は女子トイレ事件で警察が来たばかりだが、今日はそれどころではない。人が一人亡くなったのだから…… 事は重大だ。


 真っ先に、安村が警察の事情聴取を受けた。

「安村チーフ、あなたは相沢浩介さんの直属の上司ですね。仕事とか、女性関係とか、その他、何か変った様子はありませんでしたか?」

「特に気が付きませんでしたね。いつもと変わらない様子でした。ただ……」

「ただ? 何ですか?」

「本多マネジャーは、一昨日、何か彼に仕事を頼んでいたそうです」

「ほう、その仕事に自殺の原因があると思われるのですか?」

「イヤ、思うのか? と質問されては困ります。そんなこと僕には答えられません。マネジャーに直接聞いて下さい」

 それはマネジャーとコースケの間で起こった仕事の問題なのだから、安村が先に話すべきではないと判断したのだ。


 事情聴取を受けた職場仲間の話を総合すると警察の判断が推測できる。どうやら、現場に人と争った形跡は一切なく、アパートの住人も特に気付いたことは無いとのことで、他殺は考え難いらしい。

 遺書は? 本多マネジャー宛の損失報告書に書かれていた謝罪文以外に遺書らしきものは無い。すると自殺の動機は……為替取引の損失という仕事上のミスを苦にした……ということか?


 立て続けに起こった二つの事件。女子トイレ汚物事件と若手トレーダーの首吊り自殺。

 誰の目にも二つの事件の間には何の関係もないと見えたが、不思議なことに、警察は二つの事件を同時に捜査し始めた。事情聴取を受けた職場仲間は両方の事件について同時に質問を受けたらしい。

 若手トレーダーの死亡事件に比べれば女子トイレの汚物事件など後回しでも良さそうなものだが……

 二つの事件に何か関係があるのだろうか?


 11時30分になった。昼休みは11時30分からの1時間と、12時30分からの1時間の交代制だ。安村は早番でビルの最上階にあるレストラン&カフェテリアへ昼食に行った。日当たりの良いブッフェ式のレストランで快適だ。

 好物を皿に盛り日当たりの良いテーブルに着くと、そこへ同じ早番のユーミンがサンドイッチとスープを持って、同じテーブルの向い側に着席する。

 ユーミンは食事をしながら安村に何か話したいことがあるのだろう。

 彼女の体から漂ってくる女の香りが安村にとっては刺激的だ。


「チーフは誰だと思います? 女子トイレ事件の犯人」

「さあ誰だろうね。全く見当がつかないね。でも警察が調べてるさ」

「何を調べてるんでしょうね? 証拠って見つかるのかしら」

「ビル内の防犯カメラには何も映っていなかったらしいね。証拠品は唯一、犯人の残した便くらいだよな。便のDNAでも調べるのかな?」

「チーフ止めてよ! 食事中なんだから。そういうデリカシーの無い男性って女性にもてないのよね~」

 ユーミンになじられ安村は沈黙した。彼女は年下だが社歴は一年先輩なので、二人だけで話すときは平気でタメ口を使う。

(お前が先に話を切り出したから答えただけじゃないか。生意気な女だ!)と思いながらも、ブラウスの襟元が少しルーズになったユーミンの胸元に視線が行ってしまう。

 彼女はそれに気付いて胸元の襟を片手で閉じながら、

「でも、チーフが警察に連絡してくれたことに女性陣は感謝してますよ。たとえ犯人が見つからなくっても、今後の抑止力になると思います」

「そうか、それは良かった。女子トイレ事件は、正直言ってこれ以上騒ぎを大きくしたくない」

「それどころじゃなくなったものね~ コースケ君の自殺で…… でも、警察の事情聴取では両方の事件について聞かれたわよ」

「お前もそうか。他の皆もそうらしいな。警察は人手が足りないのかな? 全く関係ない二つの事件を一緒に調べるとは……」

「そうかしら? ひょっとして関係あるんじゃないかしら」

「え! どんな関係があると言うんだよ」

「例えば、コースケ君が会社に何か訴えたい不満があったので、会社の神聖な場所である女子トイレを汚してから自殺した…… とかさあ~」

「単なる空想だな~ 第一その訴えたい不満とは何だよ? 何せ自殺までしたんだぞ。それに女子トイレを汚すということは、会社に対する不満というより女性に対する不満か恨みと考えるのが自然だと思うがね」

「確かにコースケ君の場合、会社にも女性にも不満があったとは考え難いのよね~ 周囲の評価も高かったし女性にも人気があったし。私も彼はチャーミングだと思ってましたから」

「そうだろうな。女から見てもカワイイ奴だろう」

 その通りだと、ユーミンはうなずいて見せたが、

「チーフはコースケ君の悩みについて何か気がつかなかったのですか?」

「オレも最近は自分の仕事だけで手いっぱいで……」

「チーフは厄介そうだと思ったことに首を突っ込まないだけでしょ! 何でも事なかれ主義なんだから」

 またも事なかれ主義と評価され不満だが、返す言葉が見つからない。

「私がもっと面倒を見て、悩みに気がついてあげれば良かったわ!」

 ユーミンは大きな眼に涙を浮かべて、さらに言葉を続けた。

「コースケ君が自殺だなんて…… 一体誰のせいかしら。きっと、上司である安村チーフや本多マネジャーの信用も落ちますよ。管理者としての責任でしょう」


 管理者の責任と言われて急に不安になった。というのは、安村は本多マネジャーの推薦を受けて、近々ニューヨークへ栄転する予定になっている。明るい未来が見えているのだが、その前に管理者責任を問われることになると……

(オレのニューヨーク行きは大丈夫かしら? 人事評価が下がったらマネジャーが推薦を取り消す可能性もある)

 不安になって黙っていると、ユーミンは「食後のコーヒーを買ってきましょうか?」と言って席を立ったので、「頼む」と言ってコーヒー代を渡した。

 ユーミンがコーヒーを買いに行った僅かの間に、入社してから現在までの苦労を思い出す。

 投資会社なんて一見エリートが集まっているように見えるが実際は陰険な世界だ。ミスして損を出したときはクレイムに耐えるストレス耐性が必要だ。不安で眠れないのは日常茶飯事。クライアントから受けた侮辱に、こらえ切れず泣いてしまったこともある。

 恋愛も結婚もせず、仕事一筋にプロフェッショナルを目指してきて、その苦労が今やっと報われそうなのに……


 コーヒーを二つ買って戻ったユーミンは、ピンクの唇を開いてこう切り出した。

「チーフ、私、思い切って言っちゃいますけど!」

「何だよ? 突然…… 言いにくい話か?」

「私は、女子トイレ事件の犯人、ヒロシ君が怪しいと思うんです」

 ストレートに名前を出され安村は驚愕した。

「何を言い出すんだ! ヒロシはオレの部下だぞ! 軽々しく容疑者にするな!」

「でも、私達女性スタッフから、彼が陰で何と呼ばれてるか知ってますか? ウンチ君って呼ばれてるんですよ」

「何だ? そのひどいニックネームは。オレは聞いたことがないぞ」

「そりゃそうですよ。私達の陰口なんだから…… 何でかっていうと、先月、バックオフィスの一人の女性がトイレに入ろうとした時、ヒロシ君が出てくるのとすれ違ったっていうのよ! きっと女子トイレに潜んでたんでしょうね。それから女性スタッフは彼をウンチ君と呼んでるわ」

「でも、それは……、たまたま、うっかり間違って入って、あわてて出てきたんじゃないかあ? オレだって間違って入ったことはあるさ」

「確かに間違っただけかも知れません。でも彼って、何考えてんだかよく分かんないところがあるでしょ。偏屈で意地っ張りだし…… 何と言うか、ファントムっていう感じなのよね」

 この表現には、さすがの安村もひど過ぎると思い、

「ちょっと待て! まるで化け物みたいな呼び方じゃねえか。オレに対して失礼だと思わないのかよ。ヒロシはオレの部下なんだぞ!」

 ユーミンは、シマッタという顔をして、

「ごめんなさい。失言でした」と素直に謝罪した。


 こんなやり取りの後、何となく気まずく、しばらく沈黙が続いた。

 安村は、ユーミンの顔色を見ながら、女性スタッフの間でつまらない噂が広がる前に事実をはっきりさせ、ヒロシのため、引いては上司である自分のためにも疑いを早く払拭したい。

「分かった。オレがヒロシに直接確認してやる。その代わり、これ以上噂を広めないように。事を荒立てないと約束してくれ。女の子達からセクハラだなどと騒がれると、人事部も介入してくるからな」

「分かりました。とにかく私達女性としては抑止の効果があれば安心できますから。今後はバカな事しないように言ってやって下さい」

「アイツを犯人と決め付けるような言い方は止めろよ! オレは社内にそんなバカな奴はいないと思うよ」

「でも、外部の犯人だったら、防犯カメラに写ってるはずだと思いませんか?警備会社と警察が調べてもモニターに外部犯は見当たらないそうじゃないですか。防犯カメラの死角を熟知してる内部の人間としか思えないけど……」

 ユーミンの推理にも確かに一理ある。


 12時30分になり、昼休み遅番のヒロシがレストラン&カフェテリアに入ってくるのが見えた。

 オフィスに戻るユーミンに、マネジャーへの伝言を頼んだ。

「オレは少し残ってヒロシに今の件を確認するから、ヒロシとの打合せでデスクに戻るのが二十分ほど遅れると本多マネジャーに伝えておいてくれ」

「分かりました」と言ってユーミンは、安村へ軽くウィンクをしてオフィスへ戻って行った。

 食後のコーヒーを手に持ったまま、安村は食事中のヒロシの隣へ腰を下ろした。

 午後の仕事の予定や午前の為替相場の振り返りについてヒロシと五分ほど歓談した後、思い切って切り出した。


「ところで、つまらない話なんだけど。女性陣の噂で……、女子トイレを汚したのはお前かも知れないと推測してるヤツがいるようだ。全くふざけた話だとオレは憤慨している。そんな事する訳ないじゃないか!」と力説しながら、ヒロシの顔色を見た。

 ヒロシは憮然としていた。

「ユーミンさんでしょ、そんなこと言うのは。僕はお局様に嫌われてますから」

「いやまあ……、気にすんな。誰もそんな話し信じないよ。ただ~、女の子の誰かがトイレに入ろうとした時に、お前とすれ違ったことがあるとか……」

 この言葉を聞いて、ヒロシの顔色が変わった。

「ウソでしょ! ひどい! チーフまでそんな話を真に受けるんですか? 僕を陥れようという話に同調する訳ですか?」

「違うよ! オレはそんな話し信じないと言っただろ! これからはオレのグループ内で、お前を一番頼りにしているんだからな」

 しかし、ヒロシは唇を噛んで黙ってしまった。

 ヒロシは、いつも優等生のコースケと比較されてコンプレックスを持っている。彼の意地っ張りな態度は多分その辺に原因があるのだろう。これではお局様から嫌われるのも無理は無い。


 ヒロシにストレートに話してしまったことを安村は後悔した。

(しまったな。ユーミンの企みに乗って余計なことを話してしまった。これではオレとヒロシの信頼関係にヒビが入ってしまう。オレのグループはこれからガタガタだ!)



本多マネジャーの推理


 午後3時頃、本多マネジャーからミーティングをしたいと声をかけられ、応接室へ入った。

 来客のない時間は、応接室もスタッフのミーティングルームとして使われる。フカフカのソファーと日当たりの良い大きな窓が快適な空間を提供してくれるので、普段から好んでこの空間を利用している。

 応接室に入ると、安村は本多マネジャーと向かい合ってソファーに腰を下ろした。

 普段なら仕事の時間が惜しいので、マネジャーは直ぐに話を切り出すはずなのだが、今日はしばらく窓の外の景色を見ている。強い陽射しは俄かに失せ、空の雲行きが怪しく今にも雨が降り出しそうな景色だ。

「夕立になりそうですね」

 安村はマネジャーに話しかけたが返事はなく、何か考えているようだ。

 そこへ突然ドアをノックする音が聞こえ、「失礼します」と言いながらユーミンが応接室へ入ってきた。

 お茶を入れてくれたようだ。本多マネジャーと安村の前に茶碗を置くと、彼女自身もソファーに腰を下ろした。ちょうど安村の隣に座ったので、その華奢な体から彼女の香りが漂ってくる。

「女子トイレの件でお話しされるのでしたら、私も同席して聞かせてもらって良いでしょうか?」

 彼女がわざわざお茶をサービスしてくれた目的は、二人が女子トイレ事件の問題で相談すると思い込み、そこへ同席したかったからなのだ。


 本多マネジャーは少し苦笑いして、

「ユーミンが入れるお茶はいつも美味いなあ」とお世辞を言いながら、

「チーフと二人きりで話をしたいので席をはずしてくれ給え」

 二人だけで話すと言われ、ユーミンは「ハイ」と素直に退室した。


 一口お茶をすすって、本多マネジャーが話を切り出した。

「チーフはどう思う? 女子トイレ事件の犯人は誰だろう? ユーミンや女の子達は君のグループのヒロシを疑っているようだが」

「ヒロシはそんな馬鹿じゃありませんよ。僕は彼を信じています」

 女性スタッフの疑惑をきっぱりと否定した上で、

「それに、正直言って警察まで呼んで騒ぐほどの事じゃないと思ったんですが…… こんな騒ぎになってしまって困ったもんだと思います」

「そうは言っても女性にとっては忌々しき事件だろう。人事部も調査に動き出してしまったから、もはや穏便には済まされないぞ。万一、犯人が社内の人間だった場合は処罰されるからな。君もチーフとしてその点を了解しておくように」

「了解しました。その時は直ぐ対処できるよう心の準備をしておきます」

 そうは言ったものの、心中穏やかではない。


 安村の返答に納得して、本多マネジャーは話題を変えた。

「ところでコースケの自殺には本当に参ったよなあ~ まだ若いのに、死ぬほどの事だろうか? デイトレードに一回失敗した位で……」

「全く同感です」

「コースケの担当していた仕事は誰にやらせる?」

「コースケの担当していたファンドとマーケットは僕とヒロシでカバーしますので、その点は心配しないで下さい」

 マネジャーは首を縦にふって納得したが、

「ところで、8百万ドルの売買のタイミングについて、コースケからアドバイスを求められなかったかね? 大きな取引だから君の指導を求めるはずだよな」

 どうやらマネジャーは、安村が8百万ドルのデイトレードについてコースケに何らかの指示を与えたと疑っているようだ。

「何の相談も受けなかったですね。マネジャーから直接任された仕事なので、自分一人でできる能力を示したかったのだと、僕は思いますけど」

 チーフである自分を差し置いて、コースケに直接仕事を任せたマネジャーを安村は暗に非難した。

「ウーン……」とマネジャーは黙ってしまった。少し言い過ぎたか?


 窓の外では雨が降り出した。しばらく雨音を聞いていた本多マネジャーは冷静を取り戻し、

「ところで話は変わるが、一昨日の日銀の金融政策決定会合では、金融緩和が発表されると予想していただろう」

「そうですね。予想通りになりました」

「そうだよな。発表直後の大方の見通しでは、円安ドル高に向かうと思われたよね。ところが一瞬大きく反対方向に振れた。何故あんなトリッキーな動きになったか君は理由を知ってるかい?」

「ええ調べました。その理由はヘッジファンドのストップロス狩り(注)でした」



 (注)ストップロス狩りとは、投資家のストップロス注文(価格が一定の水準を下回った場合に自動的にロスカット(損切りの売却)する目的で出す指値注文)をねらって、ヘッジファンドや投機筋が市場で巨額の売りを仕掛け、それらの指値注文を巻き込み売却額を膨らませ、相場を下落させた後に買戻し、差益を稼ぐ手法だ。



「ストップロス狩りだったのか……」

「僕が調べた情報では、『円売りドル買い』でドルの保有ポジションを膨らませた欧米の投資家が、日銀発表後のドル急落を心配して、1ドルが122円以下に下落した場合は自動的に損切りするストップロス注文を出していたようです」

「要するに、欧米の投資家がストップロス注文を、1ドル122円の水準で大量に出していた訳か……」

「その情報を上手く入手したアジア系のヘッジファンドが、一気にドル売りを仕掛け、ストップロス注文を巻き込んでドル安を加速させたんです」

「そのドル売り圧力は確か30分ぐらい続いたよなあ…… そのヘッジファンドは大幅に安くなったドルを30分後に買い戻して相当儲けただろうな」

「ヘッジファンドは大儲けで、その分、欧米の投資家は大損ですよ」

「安村チーフほどのエリート・トレーダーなら、そんな相場の裏のトリックぐらい直ぐ見破れただろう!」

「動きがあまりに急だったので、気付くまでに30分以上かかっちゃいました」

「そうか…… 気付くまでに時間がかかった訳だ…… それでコースケのデイトレードは失敗したのか……、それなら何故もっと早くロスカットをさせなかったのかね?」

「それは………」と言いかけ、安村は咄嗟に息を呑んだ。


(アブナイ! これは誘導尋問だ! ここで理由を回答すれば『コースケからアドバイスを求められていた』ことを自ら認めることになる)

「それは………無理ですよ! 僕はコースケから相談を受けてませんから、ロスカットの指示なんて出来るはずないですよ!」

 慌てて答えて声が上ずった。本多マネジャーに試されているようだ。

「確かにそうだよなあ~ でも…… 本当にそうかい? 判断に困ったときは必ず安村チーフに相談するようにと、コースケには念を押しておいたのだが…… アイツ気が変になったのかなあ……」

 この一言で安村は硬直した。(嘘をついていると疑われている!)

「そうですね。彼は必ず僕に相談してくるはずですよね。でも僕はコースケから何の相談も受けてませんよ! ウソじゃありません!」


 そう反論したものの、自分の発言には矛盾が生じている。

 マネジャーは安村の返答に納得できない様子で首をかしげながら、

「僕はね~、コースケが残した報告書は1ページだけじゃなくって…… 本当は2ページあったんじゃないかと思うんだ」


 ここから本多マネジャーの推理が展開する。

「几帳面な彼の事だからさ、1ページ目にデイトレードの結果と損失に対する謝罪文。2ページ目には具体的な取引の経緯と失敗を犯した理由を書いたはずだ! と思うんだ」

 鋭い推理だ。マネジャーはさらに続けて、

「普段から、失敗した時は言い訳が大事だと言ってるだろう。合理的な理由を説明できれば失敗が許される場合もある。君もチーフとして部下にそう教育してるんじゃないのか?」

(その通りだ!)マネジャーに報告書を出すからには当然、失敗してゴメンナサイだけで済むはずはなく、具体的な経緯と失敗した理由も書くはずだ。

「実際に…… 報告書の左上にはページを綴じたはずのホッチギスの穴の痕があったよ。2ページ目は何処へ行っちゃったんだろうね?」

 ページが勝手に何処かへ行くはずはない。誰かが外して隠したと言いたい訳だ。

「まさか僕が隠したとでも仰りたいんですか? マネジャーに疑われるなんて心外だなあ! 僕は報告書に触ってもいませんよ!」


 そう言って安村は身を乗り出したが、マネジャーは落着いた態度で、

「そうは言ってないよ~ 今のところ何の証拠も無いからねえ~」

 本多マネジャーはクレバーだ。証拠が無ければ追及しない。


「唯一の証拠はコースケのパソコンかなあ~ 警察が彼のパソコンのデータを調べたいと言うので、データを提供できるようコンプライアンス部に稟議を回した。コースケのパスワードはシステム部に解除してもらうからチーフも了解してくれ給え」

「パソコンのデータが何の証拠になるのですか?」

「パソコン内のファイルには、彼が書いた報告書の二ページ目が絶対残っているはずだ! それを読めばデイトレードに関与した人物の名前も書かれているはずだよね」

 マネジャーはそう説明して安村に意見を求めたが、『僕も同感です』とは言えない。何故なら、その関与した人物はコースケの直属上司である安村以外に考えられないじゃないか。


 マネジャーは腰を上げ窓際に立った。窓の外の雷雨を眺めている。

「若いコースケに8百万ドルのデイトレードは負担が大き過ぎたかなあ~ コースケはチーフにも『荷が重い』と泣き言を言っていたのかね?」

「ハイ、そう言ってましたね」

 そう答えた瞬間、マネジャーは突然振り向いて安村を見据えた。


(シマッタ! 今度は誘導尋問に引っ掛かった!)

『ハイそう言ってました』と答えたことで、コースケから相談を受けていたと自ら認めたことになる。

 蛇に睨まれた蛙のようにジッとしていると、

「まあいいさ。どうせコースケのパソコンに残っている報告書ファイルの二ページ目を読めば、デイトレードの真相も自殺の動機も解るだろうから……」


 本多マネジャーは再びソファーに腰をおろし、話題を変えた。

「JR中央線の国分寺駅前にある『紀伊国屋』って居酒屋に行ったことはあるかね?」

「時々行きまけど……」

「そうか、時々ね……」

「ええ、あの店は魚が旨いですから」

「最近は行ったことあるのかな?」

 何故そんなことを聞くのだろう? マネジャーの真意を測りかねたが、

「いいえ、最近は行ってないですけど……」と軽く答えた。

「……そうかい、じゃあ、君には関係ない話だけど…… 女子トイレのゴミ箱に、『紀伊国屋』のレシートが捨てられていたそうだ。日付は9月3日で人数は2人。それが例の人糞で汚れていたらしい。おそらく犯人がレシートをうっかり人糞の上に落として、汚いからゴミ箱にポイしたんだろうね」

「そのレシートに何の意味があると仰るんですか?」

「つまり、女子トイレ事件の犯人は『紀伊国屋』に行って誰かと2人で飲んでいたと推理できるのだよ。警察もそう考えているそうだ」

 ひょっとして警察はすでに女子トイレ事件の容疑者を特定しているのか?


「犯人はもう分かっている…… とでも仰るのですか?」

「さあ、それはどうかな? ところがそこで急に大きな疑惑が浮上した」

「疑惑? どんな疑惑ですか?」

 本多マネジャーは体を前へ乗り出し、小声で話し始めた。

「コースケは自殺する前に大分飲んでいたらしい。それも『紀伊国屋』で!」

「えッ? どうして『紀伊国屋』だと分かるんですか?」

 安村には合点がいかない。(分かる筈がないじゃないか! 警察が手分けして居酒屋の聞き込み捜査をやったとでも言うのか?)


 マネジャーは得意げに種明かしを披露した。

「実は! 自殺の直前に、ユーミンにスカイプのチャットでコースケから連絡があったそうだよ」

「スカイプ?」

「スカイプはタダでテレビ電話ができる…… 君もやっているだろう」

「いや僕はスカイプを使ってません」

「それは意外だね。便利だから大いに利用すべきだと思うがね」

「スカイプで一体何が分かったと言うんですか?」

 安村は早く聞きたいと詰め寄った。

「ユーミンはコースケと時々スカイプでテレビ電話をするそうだよ。コースケが自殺した夜に、ユーミンはコースケ宛にテレビ電話をくれるようにとメッセージを送信したそうだ。ところが、コースケからは、『紀伊国屋で飲んで今帰ってきた。まだ来客中だから後でスカイプするよ』と、返信メッセージが入ったらしい。つまり自殺する直前に誰かと一緒にいたということになる」

 黙って聞いていたが、ここからマネジャーの推理は大きく飛躍する。


「そこでだ! チーフ…… コースケは誰かと『紀伊国屋』で飲んだ後に自宅でその人物と話をしていた…… 女子トイレ事件の犯人も『紀伊国屋』で飲んでいた。同じ店で飲んでいたというのは偶然にしては妙だと思わないかい? これはひょっとして同一人物かも知れないなと僕は思うんだ! まあ、これはあくまで推測に過ぎないけどね」

 同一人物だとする推理はあまりに飛躍し過ぎだと思ったが、安村は恐る恐る訊ねた。

「……で、コースケの家にいた来客とは誰だったんですか?」

「それは…… まだユーミンに詳しく訊いてなかったよ。彼女を今ここに呼んで詳細を確認してみるとするか……」


 マネジャーは内線電話でユーミンを応接室に呼び出し質問した。

「コースケが自殺する直前に、スカイプで彼のメッセージを受けたとき、来客中との返信があったと言ってたよね。その来客の名前は誰と書かれていたのか教えてくれ給え」

 コースケの死について触れたせいか、ユーミンは涙ぐみながら、

「来客中とあっただけで、名前は書かれていませんでした。本当に残念というか悔しいわ」

「実は…… コースケの家にいた来客と女子トイレ事件の犯人は、同じ日に同じ居酒屋の『紀伊国屋』に行ってるんだ。単なる偶然かも知れないが偶然にしては妙だと思うんだ。ひょっとすると同一人物という可能性もあるよね」

 それを聞いてユーミンは泣き止み、大きな眼を見開いて、

「コースケ君とよく飲みに行く相手はヒロシ君じゃないかしら? 同期だし…… 怪しいですよ。ねえチーフ!」

 安村はユーミンから不意に同意を求められ困惑した。

 それに比べ本多マネジャーは毅然としてユーミンをたしなめた。


「軽々しく名前を出すな! ヒロシがそんな馬鹿なことをするとは思えないけどなあ」

 かわいそうに、ユーミンは叱られて下を向いて黙ってしまった。

「ごめん、ごめん。ちょっと言い過ぎたよ。許してくれ給え」

 本多マネジャーは慌てて謝罪し、

「よ―し! 誤解はすぐ解消しておかないと変な噂が広まって取り返しがつかなくなる。ヒロシを今ここに呼んで、直接本人に疑いを晴らしてもらおう!」

 マネジャーは内線電話でヒロシも応接室へ呼び出した。


 間もなくヒロシが入室し、空いている下座のソファーへ腰を下ろした。

 ヒロシは、どうせ自分にとって楽しい話ではないと感じているので最初から不機嫌だ。それを見てマネジャーは安村に嫌な役割を転嫁した。

「安村チーフ、今の件を説明してあげなさい。そして、ヒロシは説明を聞いたら、よく考えてから答えてくれ給え」

 クレバーなマネジャーは上手く逃げる。

 安村は今まで3人が話し合った内容を説明し、ヒロシに質問した。

「質問は1つだけだ。9月3日に国分寺駅前の『紀伊国屋』で飲んだか否か?」

「『紀伊国屋』になんか行ってませんよ。その日は大学の同窓会だったので、新宿でオールしてました。一晩中友達と一緒でしたよ」

 この回答を聞いて本多マネジャーは安心したらしく、

「そうか。これでヒロシのアリバイ成立だな」

 ユーミンはバツが悪そうに下を向いたままだが、ヒロシに対する容疑は晴れた。


 そうすると『紀伊国屋』で飲んでコースケの家まで行った来客は謎のままだし、その来客と女子トイレ事件の犯人が同一人物かも知れないというマネジャーの推理は何の根拠もないタダの空想でしかない。

 しかし、コースケのデイトレードの損失に安村が関与したという疑惑だけは、確信に変わっている。


 本多マネジャーは、安村の顔を正面から見ながら、

「コースケと一緒に『紀伊国屋』で飲んで彼の家まで行った来客はヒロシではない。……とすると誰だったのだろうね?」

「さあ? 誰でしょうねえ~」

 本多マネジャーは、しばらく安村の顔を無言で眺めていたが、

「フフフ、実はね~ 僕は知ってるんだ。僕も紀伊国屋の隅っこで飲んでいたんだよ」

「ええーっ! じゃあ、コースケと飲んでいた相手を見たんですか?」

「安村チーフ、君だったよね」

 安村は絶句して、ソファーの上で硬直してしまった。


「なあ~んちゃって…… 冗談だよ。僕が仕事帰りに一人で飲みに行くなんてはずが無いでしょ」

(シマッタ! またしても、本多チーフの誘導尋問に引っ掛かった。いや低レベルのカマ掛けに引っ掛かった。即座に『僕じゃない、人違いでしょう』と否定すればよかったのに……)と悔やんだ。

 安村は動揺の色を隠しきれない。顔色は青ざめ、額から汗が滲み出ている。これではコースケと飲んでいたのは自分だと白状したようなものだ。


 安村の表情の変化をハッキリと確認したマネジャーは、さらに推理を続けようという様子だが、安村はこれ以上つき合いたくない。

 この場を何とか終わらせたい安村は、わざと時計を何度も見た。

「アレッ! こんなに時間が経っちゃったか…… そろそろ仕事に戻らないとマズイね。あとは警察の捜査に任せるしかないな」

 そう言いながら本多マネジャーはソファーから腰を上げた。

「明日は警察が安村チーフに色々聞きたいそうなので、積極的に協力してくれ給え。いずれにせよ、女子トイレ事件は所詮いたずらに過ぎないし…… コースケの死は非常に残念だが、自殺ということで警察も他殺とは考えてないし……」


 そう言いながらマネジャーは退室しようとしたが、

「でも…… コースケの首に残っていた索条痕―つまり帯の跡については不自然な点がある! と警察が言ってたけどね」

 最後に気になる一言を残し、本多マネジャーはオフィスへ戻った。

(首の索条痕に不自然な点? 他殺の可能性を疑っているということか?)


 安村は応接室に一人残り窓から外の景色を眺めた。時折稲妻を伴い眼下のビルの陸屋根に雨が叩きつけている。

(どうしよう…… 本多マネジャーには悟られてしまった。確かにオレはコースケの死に関わっている…… アイツの報告書ファイルを開かれるとウソが全部バレてしまうなあ……)

 雨は激しさを増し、ビルの汚れをきれいに洗い流している。

(もっと降れ! もっと降れ! ついでにオレの汚れた過去もきれいに洗い流してくれ!) 雨空に向かって安村は呟いた。



トレーダー日記


 安村には決まった日課がある。パソコンに日記を打ち込むことだ。ファイル名は『トレーダー日記』と名付けた。

 文字通り相場動向や為替取引を記録するために始めた日記だが、日常の諸々の出来事も同時に書き込んでいたので、今では人に言えない秘密も記録する『私日記』となっている。

 会社から帰宅した安村は、パソコンを立ち上げ日記ファイルを開く。

 最近は忙しかったので一昨日の9月3日から日記をつけていない。

 安村は一昨日から今日までの日記を一気に書き始めた。


【9月3日(火曜日)― 今日はデイトレードで大きな為替損失を被った。損失額は4千160万円。入社以来最大の失敗だ。


 コースケから急にデイトレードのアドバイスを求められたのが原因だ。

『株式と債券グループのお陰でファンド全体の成績は黒字だが、為替グループだけ赤字で恥ずかしいから、少しでもプラスになるよう8百万米ドルでデイトレードをしろ』と、マネジャーがコースケに命じたらしい。

『日銀発表後の相場を見ながら為替益をねらえ。ただし絶対に無理するな。1%以上損しそうになったら迷わずロスカットしろ』と指示されたようだ。

 社内規定のロスカットルールは3%だが、コースケの経験に不安があるのでマネジャーは損切りのボーダーを1%に縮めたのだろう。

 しかし、直属の上司であるオレを差し置いて、コースケにそんな大事な指示をするとは…… オレは本多マネジャーのやり方に不満だ。

「安村チーフ! アドバイスをお願いします! 8百万ドルのデイトレードなんて僕一人で動かせる金額を超えてると思いませんか?」

 コースケの言う通りだ。しかし急に頼まれても…… 準備が出来ていないので正確な判断ができるか不安だったが、コースケ一人では確かに荷が重いのでアドバイスを与えることにした。


 トレーディングルームのモニター画面を見ながら取引銀行に片っ端から電話し、相場見通しや投資家のポジションなど出来る限り情報を収集した。

 12時30分頃、日銀金融政策決定会合の発表があった。市場の予想通り金融緩和が発表された。これで円安ドル高が進むと判断し、コースケには先ず8百万ドルのドル買いを1ドル125円60銭で実行させた。

 その後にドルが上昇する過程で、数回に分けてドルを売り上がる戦略だったが、目論見が大きく外れた。

 上昇するかに見えた米ドルは反転して急落し、3分で1円以上の下落となった。

 慌てて…… 銀行とのホットラインで電話をかけ様子を聞いた。

『金融緩和の発表を予想していた投資家が多かったため、この材料はすでに相場に織り込み済みで、ドル上昇の思惑が期待はずれに終わった短期の投機筋はドルの保有ポジションを早々に手仕舞いしている』とのことだった。

 一時的にドル売り圧力が高まっているが、ドルのポジションはさほど積み上がっていないので、間もなくドル安は底を打って反騰すると銀行は分析した。この分析は正しいと思った。もう少し様子を見よう。間もなくドルは反発するだろう。


 そう思ったのが命取りとなった。米ドルの下落は納まらず五分間でさらに1円近く下げた。本多マネジャーから指示されているロスカットのボーダーラインを大幅に超えている。

 直ちにドル売りを決めてポジションを手仕舞いしなければ、と思ったが、ここで損切りしては…… オレの判断ミスを認めたことになる。

 チーフトレーダーとして、コースケの前で恥をかくことに我慢できなかった。直ぐに相場は反転するさ…… と信じながら、意地を張ってロスカットをせず様子見を続けた。

「ロスカットルールのボーダーを超えてますよ! 早く損切りしないとマズイですよ!」

 コースケは為替の相場画面を見ながらパニック状態だが、

「大丈夫だ! 心配すんな。間もなく反転するから黙って画面を見てろ!」

 オレはコースケの訴えを無視して、様子見を続けさせた。

 しかし、わずか5分後に、さらに1円下落した。

 ヤバい! すでに3%以上も損をしている。画面を見ながら全身に力が入り、震える手で再び銀行とのホットラインをつないだ。

「どうなってんだ?!」と怒鳴ったが、

「欧米の投資家からストップロスのリーブオーダーが予想外に多く入っていたようですね。ストップロスを狙って大量のドル売りが仕掛けられているようです。仕掛けているのはアジア系のヘッジファンドですね。そろそろ底をついて反転するとは思いますけど……」

 ドル急落の原因はヘッジファンドのストップロス狩りだ。情報収集が甘かったと反省したが後の祭りだ。


 コースケは為替の相場画面を見ながら青ざめている。ドル安の底が見えなくなり、オレの頭の中も大パニックになっていた。

 もしも、米ドルが今日中に反発しなかったらどうなる? 損失額がこれ以上大きくなると、株式や債券グループのお陰で黒字になったファンド全体の成績が、為替グループのマイナスで赤字に転落してしまうかも知れない。そうなったら責任問題どころか減俸や降格の処罰も有り得る。

 恐怖を感じてオレは戦意を失った。

(目をつぶって損切りするしかない)と覚悟を決め、1ドル121円を割り込んだ時、コースケに8百万ドルの売りを指示した。この時点で大きな損失額が確定してしまった。

 無意識のうちに食いしばった歯が唇を噛んでいたため、口元からは血が流れていた。こんな恥ずかしい失敗は生まれて初めてだ。


 コースケは無言で、銀行から届いた為替取引の確認メールをチェックし、損失額の計算をしている。

 悔しいことに、銀行が言った通り間もなくドルは反発し、2時間後には何事も無かったように日銀発表前の水準に戻っていた。

 結局オレは…… プロとして最も恥ずかしい狼狽売りをしてしまった。

「コースケ……、すまなかった。情報収集が足りず、オレの判断ミスだったな」

 恥を忍んでコースケに詫びた。部下に謝るのは屈辱だ。

 コースケは泣きそうな顔でオレを見ながら、

「4千160万円の為替差損になってしまいました……」


 金額を聞いて怖くなった。1%のロスカットの指示を守っていれば、1千万円程度の損失で済んだものを、まさか4千160万円とは……

「今日のデイトレードの経緯については、これから報告書を書きます。明日の朝マネジャーが読めるように、マネジャーのデスクの上に置いて帰りますから」

 コースケは黙々とパソコンで報告書を作成し、マネジャーの机上に裏返しに置いて退社した。

 どのような報告書を書いたのか気になったので、机上の報告書を手にとって目を通した。

 1ページ目には、ロスカットの指示に従わず損失を拡大してしまったことへの反省と謝罪。2ページ目には、取引の具体的な経緯が時系列で詳細に書かれており、オレの名前と指示内容も明記されている。

 これでは…… 損失の責任はチーフのオレにあると訴えているようなものだ。マズイじゃないか!


 退社したコースケを急いで追いかけ、報告書の書き直しを頼むつもりで、一緒に飲みに行こうと誘った。

 コースケの住むアパートはJR中央線の国立にある。オレが住んでいる国分寺の隣駅なので近くて便利だ。国分寺駅で降りて『紀伊国屋』へ連れて行き、そこでオレは恥を忍んで頼み込んだ。

「コースケ! 頼む! 明日、本多マネジャーに報告するときは、今日のデイトレードにオレは関わらなかったことにしてくれ」

「チーフ、どうしたんですか? 本多マネジャーに嘘の経緯報告をするんですか?」

「そういうことになるな。お前の独断で取引したことにして欲しい。頼む!」

 コースケは嘘をつく理由が分からず当惑しているようなので説明した。

「オレはこの会社で十年も働いている。実は本多マネジャーから、今度の異動でニューヨークに行けるよう推薦してやると言われてるんだ。このチャンスを逃したくないんだよ」

 コースケは理由が納得できたようだ。

「なるほど。要するにチーフは、今日の失敗がもとで、ニューヨーク行きの推薦を取り消されたくない訳ですね」

 その通りですと頭を下げた。

「分かりました。今回の責任は僕一人にあります。安村チーフには何の相談もしませんでした。ちゃんとチーフの指示を仰げばこんな大損はしなかったでしょう…… ということでいいですかね」

 そうしてくれ、頼む! 恥も外聞も無く頭を深く下げた。

「チーフ安心してください。マネジャーも僕に対しては馬鹿ヤローの一言で終わりでしょうから、どうってことありませんよ。お安い御用です」

 そう言ってコースケは笑顔で笑った。いい奴だなあ~。ユーミンに寵愛されるのも無理は無い。

「明日は早く出勤して、報告書の2ページ目を急いで書き直しますよ」

 そう言ってコースケは勢いよくジョッキを飲み干した。


 それから2人でかなり飲んだが、今度はコースケに誘われて彼のアパートで飲み直すことした。

 帰宅したコースケは、自宅のパソコンに届いているメールのチェックを手早く済ませ、涼しそうな木綿の浴衣に着替えたが、同じ浴衣をオレにも貸してくれた。

「夏の暑い日は、やっぱり浴衣がくつろぐねえ……」

「チーフはニューヨークへ行くんですね。いいなあ~」

「お前もいずれ外国の良いポジションへ出向できるさ。英語力は抜群だからな」

オレはコースケを持ちあげた。

「ところでチーフ、ニューヨークに行く前にユーミンさんと結婚しちゃって下さいよ」

 急にユーミンのことを言われてドキッとした。

「ユーミンがオレのこと何か言ってんのか? 気になるね~」

「ユーミンさんは何も言ってないですけど…… チーフがユーミンさんのこと好きなんじゃないかなあ~と思って……」

「何でそう思うんだ?」

「それくらい普段の態度で分かりますよ。彼女には特別甘いし…… よく食事に誘ったりしてるじゃないですか~」

 簡単に見透かされている。オレはそんなに単純なのかと自嘲した。

「ユーミンさんもチーフのこと嫌いじゃないと思いますよ。特別好きだとまでは言いませんけど」

「何だよその言い草は、ハハハ……」

 コースケの可笑しな言い回しに、迂闊にも笑ってしまった。

「ユーミンさんも若くないし、いつまでも会社でお局様扱いされたくないでしょう。きっと寿退社を望んでますよ。チーフがニューヨークへ一緒についてきてくれ! なんてプロポーズしたら絶対OKだと思うなあ~」

 嬉しいこと言うじゃないかと思ったが、次の言葉で酔いを醒まされた。


「実は僕、お局様にしつこく言い寄られて困ってるんです」

「え! 一体どういうこと?」

「映画の切符が二枚あるから、とか、ディズニーリゾートのチケットが二枚あるからと、しょっちゅうデートに誘われるんですよ」

「へえ~、それは初耳だ」

「ユーミンさんは僕を可愛がってくれるんで逆らえないんですけど……正直言って、年上のお局様には興味ないですよ! あんまりベタベタされて迷惑なんですよね~」

 ユーミンがコースケをヒイキしているのは前から知っているが、コースケにこれほど嫌がられているとは、彼女は気付いていないだろう。


「納涼会で酔っ払った時なんか…… トイレに行こうとしたら後ろからついてきて、いきなり僕にキスしてきたんです。偶然ヒロシに目撃されちゃいましたよ。勘弁して欲しいですよねえ~」

(何だと!)この話を聞いてオレは激しく嫉妬したが、顔には出さず会話を続けた。

「なるほど、お局様のユーミンが、最近ヒロシに対して特に冷たい理由がこれで分かったよ」


 コースケは気持ちよく飲み続けているが、オレは酔いが醒めてしまい、急にまた為替損失の責任問題を思い出してしまった。

「くどいようだが、明日の朝、マネジャーに為替の件を報告するときはよろしく頼むね。オレは一切関係ないということで……」

「もちろんです。心配しないで下さい」と言ってくれたが、続けて

「でも、本多マネジャーが信じるかな~。追求が厳しいかも…… マネジャーって誘導尋問が上手いですもんね」

 そう言った後、コースケはトイレに行った。

 消えかかっていた不安が急に蘇った。確かにコースケの言う通りだ! オレがデイトレードに一切関与していないとマネジャーが信じるだろうか? 万一コースケがマネジャーに白状させられた時はどうしよう……

 

 思い悩んでいるとコースケがトイレから戻り、再びユーミンの話を持ち出した。

「チーフ! 酔った勢いで言っちゃいますけどお~ ユーミンさんを柔道で自分のものにしちゃってくださいよお~ チーフは柔道の達人でしたよね……」

「馬鹿なこと言い始めて…… 柔道と何の関係があるんだよ?」

「僕はサッカー部だったんで柔道は分かりませんが、チーフが柔道の寝技でユーミンさんにマイッタをさせる……なんて良いじゃないですかあ~」

「変な妄想やめてくれよ。お前かなり酔ってるな。ハハハ……」

 猥雑な話にオレは不覚にも、また笑ってしまった。

「お前はサッカーをやってたのか。サッカーは女にもてるんだよな~。そう言えばユーミンもJリーグのチームのサポーターだったっけ?」

「違いますよ! お局様はサッカーには興味がないけど野球は好きで、楽天ファンだと聞いてますけど」

「本当か? オレはそんな事あいつから聞いたことがないぞ!」

 ユーミンをオレより知っているコースケに憎悪を感じた。

 少し白けて、コースケは黙って飲んでいたが、今度はありふれた話題を持ち出した。

「ところでチーフ、柔道と剣道と空手、武道の中でどれが一番強いんですか?」

「そうだね~、お前は柔道が弱いと思ってるだろ…… 確かに今の柔道はスポーツ化されてるけどね~ でも、オリジナルの柔術はマーシャルアーツだぜ。危険技の殺傷力はスゴイぞ」


「危険技っていうと、例えばどんな?」

「危険技とは、要するに関節技や絞め技だね。プロレスでも腕ひしぎ十字固めなんて見たことあるだろう」

「ハイハイ、あの関節技って痛そうですよね~。すると、プロレスの絞め技はスリーパーホールドですよね」

「スリーパーホールドは柔道では裸絞めという技だ。でもあの技は怖くない。本当に怖いのは襟を使った絞め技だね」

「柔道の試合では、絞め技で『落ちた』なんて聞きますけど、チーフは失神したことってありますか?」

「あるよ。でも直ぐ手を離せば蘇生するさ」

「ヘエー、どんな風に技をかけるのか僕にも教えて下さいよ」

「いいよ、じゃあ試しに、オレの後ろに来て適当にオレの首絞めてみろ」

 そう言って床に正座すると、コースケは面白そうに背後からオレの首に腕を廻し、プロレスのように絞めたが全く効果が無い。


「ダメダメ、さっき言ったように襟を使って絞めるんだ。こういう風に」

 オレはそう言いながら、座ったままコースケの背後に移動し、

「先ず、自分の右手を相手の右肩上から顎の下へねじ込んで…… 相手の左襟の奥を掴む……」

 コースケは浴衣の左襟を掴まれ、「なるほど」と言いながらも、本能的にオレの右腕を両手で押さえようとした。

「そういう風に相手が右腕に気を取られ脇が空いたら…… 今度は相手の脇下から入れた左手で相手の右襟を掴む…… そして! 思いっきり引っ張る!」

 これで『送り襟締め』が完成した。本当の試合では相手が抵抗するので、これほど完全に技がかかることはない。

 コースケは苦しくなって、両手でオレの引き手をトントンと叩き『マイッタ』をしようとしたが、オレは両足をコースケの両腕に巻きつけて自由を奪った。

 そして更に、絡めた足をテコの軸にして仰け反るように思いっ切り絞め上げると、コースケは声を出す事も出来ず数秒で『落ちた』。


 直ぐに手を離して蘇生してやらなければ命に関わる…… 

 だが、オレは手を緩めなかった。(このまま死んでくれ!!)

 予期せぬ殺意が生まれた。決して計画的ではない。

 魔がさしたとでも言うべきか。頭の中で悪魔が囁く……

『力を緩めるな! もっと強く締め上げろ! そうすればコースケは死んでしまう。

 その後は……

 明日の始業時間前に本多マネジャーの机上にある報告書を改ざんする……オレの名前を消すのだ。

 そうすればニューヨークへ栄転できるはずだ。

 もちろん、ユーミンと結婚してニューヨークへ連れて行く』


 こうして力を抜かず絞め続けた。

 20分ぐらい経っただろうか。力を緩めたがコースケはもう動かない。

 朦朧とした頭で咄嗟に思いついた。

(ドアノブに紐を掛けて首を吊り、半分座ったような状態で自分の体重をかけて首の頚動脈を絞める― そういう自殺の方法があるらしい)

 コースケの浴衣の帯を解いてトイレのドアノブに結びつけ、コースケの体をトイレの前へ運び、首に帯を二重に巻いて首吊り自殺に偽装した。

 浴衣は汗や失禁した尿で濡れていたが、床までは濡れていなかった。


 夜中の午前0時を過ぎた。日付が変わり、9月4日(水曜日)だ。


(これからどうしよう……)

 取り敢えず、証拠が残らないように室内をきれいに片付けた。オレが着た浴衣はカバンに入れて外へ持ち出す。

 電灯は点けたまま部屋の外へ出た。誰にも目撃されぬように用心深く。

 しばらく歩いてタクシーを拾い、都心にある会社へ向かった。

 夜中に会社へ侵入し、明朝までにマネジャーの机上に置かれた報告書の2ページ目を外して処分しなければならない。

 そこには巨額の為替損失を出した経緯が書かれている。それを読まれたらオレが責任を問われるに違いない。


 セキュリティーの厳重な社屋ビルへの侵入は基本的には不可能だ。

 ビル裏側の社員通用口は夜間でも開いているが、24時間勤務の警備員室があり、人の出入を管理する受付窓口が設けられている。

 夜間の警備員は、3人が3時間毎のシフトで一晩勤務する。1人は窓口で出入者の受付、もう1人は防犯カメラや防災システムのモニターを監視、残りの1人はビル内を隈なく巡回し、巡回後は戻って休憩する。


 何とかしてビル内に入らなければならない。

 警備員室の中に3人とも居ることが離れた場所から見ても確認できたので、思い切って行動に出た。

 警備員室の近くから携帯で電話する。すると休憩中の警備員が受話器を取った。

「隣の鈴木商事ビルの警備員ですが、お宅のビルの正面玄関に酔っ払いが倒れていますよ。警察呼んだ方が良いんじゃないですかね?」

 休憩中だった警備員は仕方なく、確認のために外へ出て正面玄関の方へ行った。


 それを見届け、直ぐにもう一度電話した。今度の電話は呼び出し音を鳴らすだけが目的だ。すると室内中央にある電話に出るために、受付窓口に座っていた警備員が席を外した。モニターを監視している警備員は監視中離席できない。


 オレはこの僅かな隙をつき、体を低く屈めて受付窓口の窓枠の下を素早く通り抜けビル内に侵入した。

 そのまま足音をたてずに進み、屋内非常階段を登って上階へ行った。

 防犯カメラの配置はよく知っている。設置箇所は階段から屋上への出入口、駐車場、ゴミ置き場、エントランスホール、エレベーター室内、及び各階廊下の男子トイレ前に設置されている。さすがに女子トイレ付近は写らないようになっている。

 各階のオフィスには入退室管理システムが導入されているので、誰が何時に入室したかは記録が残る。 真夜中に入室したことが記録されてはさすがにマズイので、朝まで隠れて待つことにした。


 隠れ場所としては女子トイレを選んだ。男子トイレの前には防犯カメラがあるからだ。万一、警備員が巡回で来ても見つからないように、トイレの一番奥にある狭い掃除用具置き場の中に隠れた。


 こうして、夜通し防犯カメラの死角に潜んでいたのだが……

 急に激しい腹痛と便意を催し、予定外の汚物事件まで起こしてしまった。

 巡回で女子トイレ内を見に来る警備員に見つかってしまう可能性もあるため、万が一のリスクを恐れて掃除用具置場の狭い空間の中で隠れたまま用を足した。

 つまり女子トイレ事件の犯人は変質者などではない。腹痛を起こしたオレが犯人だ。

 用便後にポケットからティッシュを出したが、その時うっかりポケットに入れていた『紀伊国屋』のレシートを便の上に落としてしまい、迂闊にも汚れたレシートを女子トイレのゴミ箱に捨てるという大きなミスを犯してしまった。


 ようやく午前7時を過ぎた頃、オレは通常の早朝出勤を装い、IDカードでオフィスの扉を解錠して入室した。

 真っ先に本多マネジャーの机上にある報告書のホッチギスを外し、留めてあった2ページ目はシュレッダーにかけて廃棄した。

 机上に残した本多マネジャー宛の報告書は一ページのみ。そして、そこには巨額の為替損失を出したコースケの謝罪が書かれている。

 この謝罪文だけを読めば、全責任はコースケ一人にあると誰もが思うだろう。


 9月4日(水曜日)の午前9時、始業時刻となり、オレはいつもと変わらずトレーディングルームで仕事に取りかかった………】


 ここまで日記をパソコンに打ち込んで、安村は手を止めた。



愚人は夏の虫


 安村は思い出した ―コースケの自殺に安村が係わっている― と本多マネジャーに疑われていることを。

 しかし、今のところ ―コースケの死が自殺ではなく他殺― とまでは推理していない。

 今のうちに、事件の証拠になる物を処分しなければ……

 そう思った安村は、コースケの部屋から持ち出した浴衣を紙袋に入れ、真夜中の街へ出て行った。

 この浴衣は、コースケの自宅で一緒に酒を飲んでいた証拠になる。人気の無い場所で浴衣を燃やしてしまおうと考えた。

 適当な場所を探しながら夏の夜道をさまよった。


 国分寺の南町から東へ向かってフラフラと…… 道はドンドン狭くなり、やがて細くて長い『野川』という小川の流れに突き当たる。暗闇でしかも人気のない野川沿いを歩いて行った。

 天を見上げれば月も星も無く、地に目を落とせば夏草が鬱そうと茂っている。野川の水の流れと虫の声しか音も無く、自分の夏草を踏む足音だけがよく聞こえる。

 夏の夜の夕涼みのように川沿いを歩いて行くと、真暗で人気のない河原がある。

 河原へ下りて行き、茂った雑草の中に狭い空間を見つけた。


 辺りに誰もいないことを確認しながら素手で地面に小さな穴を掘る。その穴の中に丸めた浴衣を捨てライターで火をつけた。

 穴の中の小さな火は、周囲に人が近付いたとしても気付かれないだろう。

 燃え終わったらそのまま土を被せて埋めてしまえばよい。


 河原の地面に小さな火が灯ると、夏の小虫どもが火に寄ってきて、火の周りをクルクル飛んでいるが、中にはジッと火に焼かれて落下するやつがいる。

 愚かだなあ~ 自ら火に入るとは。

 しかし、警察にこんなところを見られたら自分も一巻の終りだな…… 虫をバカにできる身分ではなくなる。

『愚人は夏の虫、飛んで身を焼く』…… 何故かこんな諺を思い出し、自嘲してしまった。


 その時、突然、女の香水の香りがした。ユーミンの匂い?

 慌てて安村は立ち上がり、辺りを見回したが暗くて何も見えない。

 誰もいるはずがない。(気のせいか……)そう思った瞬間、閃光が安村の眼に入った。

 カメラのフラッシュだ! それも一ヶ所からだけではない。二ヶ所からフラッシュを浴びた。


(尾行されていたのか!)と気付くと同時に安村は悟った。

『紀伊国屋』で飲んでコースケの家まで行った来客が安村だと確信した本多マネジャーは、警察に速やかな情報提供をしたのだろう…… クレバーなマネジャーだ!


「そこにいるのは誰?! 警察? 本多マネジャー? ヒロシ? それともユーミン?」


 フラッシュの明るい光を浴びた瞬間、安村の明るい未来は消滅した。


 了

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