最後の食糧がガラス片と共に床に散らばっていた
ジャンルについては迷いましたが、純文学とさせて頂きました。
若干ではありますが、ホラー要素もありますので、苦手な方はお気を付けください。
割れた窓から冷えた風が吹き込み、中途半端に開いたカーテンを揺らす。灯りのない部屋に差し込むのは、僅かに欠けた青白い月の光。
窓際に立ち、外を眺める結衣の頬には、宝石のように美しい涙が滴となって流れていた。
*****
きっとこの世界は、虚像だったのだ。
雨が降っただけで。
風が吹いただけで。
簡単に崩れてしまう、脆く儚い砂の城と大して変わらない。
こんなにも簡単に壊れるなんて、思ってもいなかった。
こんなにもあっさり終わるだなんて、考えもしなかった。
僕達が暮らすこの世界が、まるで砂で造った城みたいに、いともたやすく崩れてしまう。そんな事になるなんて、一体誰が想像出来ただろうか。
*****
のんびりと漂う綿菓子のような白い雲と、鮮やかな空の青。
いつも通りの平穏な日常は、その日あっさりと終わりを迎えた。
突然上がった大きな悲鳴。
それが崩壊の始まりだった。
鳴り響くクラクション。
横倒しになった車。
噴き出る紅い炎と、立ち上る黒い煙。
悲鳴は連鎖し、混乱が広がる。
鮮血が舞い、建物を、道路を、街路樹を、ありとあらゆる物を朱に染める。
逃げ惑う人々、それを追うのは動く屍。
追い詰められ、一人、また一人と、その命を散らす。噛みつかれ、食い千切られた死体がゆっくりと立ち上がり、追う側へと加わっていく。
増え続ける脅威は、まさに絶望。
最初の一人が現れてから僅か一時間足らずで、取り返しのつかない状況へと陥ってしまったのだ。
*****
高いビルがサラサラと崩れていく。
まるで砂で出来ていたかのように、風が吹く度にその存在が削られていく。
ビルだけじゃない。
目に映る範囲にある物全てが、砂となって崩れていくのだ。
車や街路樹、看板や信号機、そして人間までも……。
唖然と立ち尽くす僕を、呼ぶ声が聞こえた。
声のした方へと視線を向ければ、最愛の人。
「結衣」
名前を呼び、手を伸ばす。
小さくて華奢なその手を掴もうとした瞬間、結衣の手が砂となって崩れていく。
「ダメだ!」
僕は叫び、さらに手を伸ばす。
でも届かない。
砂となった結衣の身体が、風に吹かれて空へと舞い上がる。次から次へと恐ろしい程の速度で砂へと変わり、あっという間に僕の前から消えてしまった。
「行くな!」
全てが砂になったその場所で、ただ一人だけ残された僕は叫び声をあげる事しか出来なかった。
夢か……。
心臓の音がやけにうるさい。
まるで全身が脈打っているかのようだった。
暗闇の中で目を覚ました僕は身体を起こし、荒い呼吸を落ち着かせるように、大きく息を吐き出した。
大丈夫。
もう、一人じゃない。
四つに減ったカプセル薬を見て、僕は身体の力を抜いた。
新薬の治験に参加した事が、運命の別れ道となった事は明白な事実。
あの薬がゾンビウィルスの特効薬だったなんて、思いもしなかった。
「もしもの時の為に、これを持って行くと良い」
そんな言葉と共に、バイト代と一緒に渡された五つのカプセル薬。その薬の価値に気付いたのは、こんな世界になってしまった後だった。すでに免疫を得ていた僕の身体は、ゾンビ共に襲われても感染する事はなかった。
だからと言って、何もなかった訳ではない。
あの薬とゾンビウィルスが反応し合い、僕の身体を造り変えてしまったのだ。
上昇した身体能力と、ゾンビ共に襲われない不思議な体質、そして……。
もはや僕は、人間ではない。
こんな世界で生き抜く事は、果たして幸せなのだろうか。独りぼっちになってしまったような、どうしようもない程の恐怖が何度も繰り返し、僕を襲うのだ。
*****
「風邪ひくよ」
声をかけるべきじゃなかったかもしれない。しかし、こんな夜中に一人で外を眺めている結衣を放っておく訳にはいかなかった。
突然声をかけられて驚いたのか、結衣はビクリと肩を震わせた後で、ゆっくりとこちらを振り返った。
「優君……」
安堵したように息を吐き出した結衣の、華奢な肩は震えていた。寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか。濡れる瞳に気付かないフリをして、僕は着ていた上着を、結衣の肩へと羽織らせた。
床の上にはガラスの破片と一緒に食糧が散らばっていた。
確保していた最後の食糧だった。
「何があったの?」
結衣を追い詰めてしまわないように、出来るだけ優しく問いかける。
「怖かった……」
そう言って僕の胸に顔を押し付ける結衣の頭をそっと撫でる。長く美しい黒い髪に、月の光が反射していた。
事実を噛み締めるように、結衣はゆっくりと語った。
結衣と一緒に助けた人達の一人である、山内さん。彼が結衣を襲ったのだそうだ。
「気付けなくてごめん」
「ううん、優君は悪くないよ」
助けた人達は当初、結衣を含めて六人がいた。
それが気付けば、一人、また一人と減っていき、今では僕を除けば、結衣と山内さんの二人だけとなってしまっていた。
どうせ死ぬなら。
山内さんの性格上、そんな理由で襲ったのではないかと予想出来てしまう。
「でも結衣が無事で良かった」
「うん」
特効薬を飲んで、僕と同じ体質になってしまった結衣。その上昇した身体能力を相手に、並の人間がどうこうできるはずがないのだ。
*****
結衣と出会ったのは、三ヶ月程前。
この世界がおかしくなってしまった後の事だ。
偶然だった。
食糧を確保しに向かった先で、たまたまゾンビ共に襲われている人達を見つけ、それを助けた。結衣はその中の一人だった。
初めは何とも思っていなかった。
でも何度か接している内に、僕は結衣に対して特別な感情を抱くようになっていた。気が付けば、僕の心の大部分を占領されてしまっていたように思う。
そして同時に、僕の存在が結衣の心の隙間を埋めていた。後でその事を聞いた時、僕は本当に嬉しかった。
だから、だと思う。
結衣がゾンビに噛まれてしまった時、自然と身体が動いた。必死になってゾンビを追い払い、五つしかない薬の一つを躊躇なく結衣に飲ませた。まるでそうする事が、当然だとでも言うかのように。
結衣が変わってしまう。
そういった恐怖はあったけれど、ゾンビなんかにしてしまうよりは百倍マシだと思ったのだ。
*****
「勿体ないから、食べちゃおうか」
床に散らばっていた食料の一つを拾い上げ、ガラスが付いていない事を確認した僕は、そのままそれを口へと運んだ。
美味い。
久しぶりの食糧に身体中が歓喜している事が良く分かる。
舌鼓を打っていると、結衣の顔がすぐ近くにあった。そしてそのまま僕の口元をペロリと嘗める。
「血が付いてる」
「ありがとう」
「うん」
「結衣も食べなよ」
恥ずかしさを誤魔化すように、手に持っていた食料を差し出すと、悪戯っぽく結衣が笑った。
「食べさせて」
そう言って真っ直ぐにこちらを見つめてくる結衣の瞳は、今もまだ僅かに濡れている。わざとお道化て気持ちを切り替えようとしているのかもしれない。
「いいよ。口開けて。はい、あーん」
まるでデート中の恋人同士のように、僕らは床に散らばってしまった食料を拾っては、食べさせ合ったのだった。
幸せだった。
こんな世界であっても、結衣と一緒ならそれだけで良い。
そう思ったんだ。
朱く染まった結衣の頬を、割れた窓から差し込んだ月明かりが照らし出す。照れたような表情の結衣は、まるでこの世の者とは思えない程に超越した美しさを醸し出していた。
「あ、あぁ、なんで……」
突然聞こえて来た声に僕らは慌てて振り返る。
そこにいたのは高校生くらいの女の子だった。
「そんなところで何してるの?」
出来るだけ優しく問いかけて、ニコリと微笑んで見せた。
「いやぁ、来ないで」
腰が抜けてしまったのか、這うようにしてその場から逃げようとする彼女の前へと回り込む。
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
ガタガタと震えながら「嫌だ嫌だ」と繰り返す彼女の肩を掴んで起き上がらせ、そのまま抱き上げて結衣のいる場所へと運んでいく。
「運が良かったね」
僕の言葉に結衣が頷く。
「うん、でもどうやって保管するの? 見られちゃったから誤魔化せないよ」
不安そうな表情の結衣に、笑って答える。
「適当に縛ってどこかの部屋に閉じ込めておけば大丈夫だよ。今度は演技しなくて良いから、きっと楽だよ」
「そっか。そうだよね」
安心したのだろうか。
ホッとした表情で結衣が笑った。頬を染めている朱い血が、妙に艶めかしい。
保存食として生かしておいた山内を、結衣がバラバラに千切ってしまった事には焦ったが、結果的には良かったと思う。ガラス片にまみれて多くを無駄にしてしまったけれど、こうして新しい食糧が手に入ったのだから。
それにあのまま演技を続けるのも正直限界だったようにも思う。いくら食溜めが出来ると言っても、空腹を感じ始めていたのは事実だ。そんな状況で目の前に食糧があったら、どうしても我慢出来なくなってしまう。
僕達は見つめ合い、小さく笑った。
そして僕の腕の中でガタガタと震えている女の子へと、二人揃って視線を移す。
「ひっ!」
可愛らしい悲鳴を上げた女の子の表情は絶望に彩られ、とても美味しそうに見えた。
こんな世界でも僕らはきっと幸せに過ごしていける。
目の前で恍惚の表情を浮かべている結衣。
その朱く染まった頬へと僕は口付けた。
「急にどうしたの?」
「嫌だった?」
「ううん、嬉しい」
そう言って優しく笑った。
そんな結衣の存在が、心の隙間を埋めてくれる。
僕はもう、一人じゃない。