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序章_03

「………っは、っは、……っ! くっ、はぁ、はぁ……!」


 足を動かし息を吸う。

 後ろを見ないでひた走る。

 立ち止まったら終わり、少年はそれを理解しているから。


「――ら、―――――な―い!!」


 立てた狼の耳に、風を切る音に混じって背後から聞こえてくるのは女性の声。

 逃げた自分を捕まえろ、おそらくはそう叫んでいるのだろう。

 チャリチャリ、と首輪に付いた鎖が鳴る。一方は首に繋がっているそれのもう片方は、手に取る者無く宙を舞う。


(――――つかまって、たまるもんか!!)


 少年は心でそう決意いながら強く地を蹴る。

 ダンッ、と反動。より速い速度で景色が流れる。


 彼は服は競売に出される前に着せられた、少々動くのには向いていない、フリルなどが付いた――所謂ゴスロリ衣装のままだったが、腕と脚には、彼の自由を奪う為の手枷と足枷がついていない。

 檻から出され、奴隷としての烙印を押される直前に起きた大地震。それにより起きた混乱に乗じて『《イースリッション》商品受取り部屋』から脱け出し、先程までいた舞台会場までを繋ぐ道をプレート番号“三番”灰色の髪の少年――ジゼル・ライツァウィルトは走っていた。



 “傷が残ると男娼としての価値が下がる”、という落札者の希望によって外された枷。それによって全力で走る事が出来た。

 が、しかし。


「――はぁっ! はぁっ! ―――くぅ、ぺっ」


 商品置き場から脱け出して僅か数十メートル。ジゼルの走る速度が瞬く間に減速する。

 今やその速度は子供の早歩き程度、しかしそれが今の彼にとっては全力の速度。

 ダダダダダッ、と力強く動いていた足は既にトボトボと弱々しいものに変わり、痩せこけていてもまだ良かった顔の色は、真っ青になりつつあった。

 上手く呼吸が出来ず、足が上手く動かない。口の中に痰とも唾とも分からぬものが溜まり、ジゼルはそれを廊下の脇に吐き出した。

 当然だろう。此処に運ばれる前、碌に食事も満足に与えられず、長時間に渡って腕と脚に枷を付けられた肉体。そんな体で全力で走ろうというものなら、すぐに体力は底を尽きる。

 うぷ、と食道から胃液が込み上がる。

 思わず目に涙が溜まり、動かす足が更に遅くなる。

 そして、立ち止まる寸前――。


(―――――いやだ!)


 しかし、ジゼルはそれでも足を前へ。

 ぐっ、と地面を踏み締め、体を前へ。

 “男娼”の意味なんて知らない、誰かの持ち主になる感覚何て知らない。

 けれど、たとえ捕まってしまうと分かっていようと、あんな奴の奴隷にはなりたくない。それが彼の、本能からの叫びだったが故に。


 ジゼルは下を向いて床を這っていた視線を上げる。その先には二つに分かれた丁字路が。

 左に曲がれば先程の客席ホール。

 右に曲がれば何処に繋がっているか不明の道で。

 左に行った所で未来は無い、ならば行くのは当然――――。


「―――――――お嬢様が、“止まれ”と言った筈だが」


 掛けられた声は先程の、婦人帽子をかぶった女性の隣にいた男性のもの。

 同時に、ピタ、とサーベルの刃がジゼルの頬に触れて、止まる。

 ひゅ、とあれだけ乱れていた呼吸が止まり、心臓が一瞬停止した様な感覚に陥る。走って熱くなった体温が冷めてゆき、代わりに背後から当てられる“死”という恐怖で震え始めた。

 その感触は地震の際に感じたものよりはっきりと分かる、分かってしまう。ジゼルが感じているのは――即ち、殺気。それも、濃厚な、達人が産み出すもので。

 それはたとえ彼がジゼルを殺す事などせずとも、僅か十歳の子供にとって、恐怖を与えるには十分過ぎて。


「――――――」


 ガチガチガチ、ガチガチガチガチガチ。

 歯が、上手く噛み合わない。

 真っ白に染まった思考の中、顔は動かせず、体は震えながらも固まって。

 足先から、指先から、感覚が徐々に冷める様に無くなり、凍結していく。

 両者が動かないまま数秒――ジゼルにとっては数十倍に感じたが――少年が着ていたフリルの付いた黒い服のが濡れ始める。股間部分を中心にして染みは広がり、周囲に立ち込めるのは軽いアンモニアの臭い。


「―――――はぁ、臆したか。情けない」

「!!」


 ため息と共に漏れた嘲笑は、ジゼルの真っ白に染まった思考に衝撃を与え、彼を屈辱と恥辱のどん底に叩き付ける。


「――そんなに臆病だと、貴様はこれから先、地獄を見るだけじゃ済みそうにないな」


 すぅ、と刃が頬に当たったまま、滑る様にゆっくりと動き、それに合わせて刃はゆっくりと、そして正確にジゼルの頬の皮一枚だけを切り、つつ、と赤い血が頬に垂れる。

 不思議と、それに痛みは感じなかった。

 感覚という機能など、疾うに役割を失っていた。


 視界すらも真っ白に成りつつあったジゼルを現実に繋ぎ止めたのは――――矢張り、背後からの声。


「ま、覚悟しておけ。“好きにしろ”と言われているんでな」


 くくくっ、という不気味な感情が込もった冷笑。

 それを耳にし、ぞわり、とジゼルは全身が震え上がる。ドレスの下に隠された尻尾が萎縮し丸まり、黒のカチューシャの横に生えた狼の耳は、濃い灰色の毛を毛を逆立てながらピィンと天を指す。

 ――駄目だ。此処にいては絶対駄目だ。

 ジゼルは察した、ここで彼に捕まれば、死ぬより恐ろしい事になる、と。

 ごくり、とジゼルは息を飲み、しかし前を見据える。――丁字路まではあと十メートル有るか無いか、全力で走れば何とか行けるかもしれない。

 それは別に、そこまで行けば助かる確証などない。寧ろ捕えられるのが関の山だ。ただ、もし、『万が一』。そう『万が一』の可能性が有るかもしれない、未だ夢から抜け出せない子供にとって、それは最後の希望なのだから。



 ジゼルの右頬を伝うサーベルが、彼の揉み上げにまで差し掛かろうとした瞬間――。


「お」


 ジゼルの背後から、男が驚いた様な声を出す。その理由は単純――――ジゼルは、駆け出したのだ。

 恐怖から逃げる為に、当てられた“死”という恐怖を脱け出して。


「……………おぉ、おおぉ」


 正に茫然、と言った体で、男は声を口から漏らす。

 ジゼルが自身の当てた殺気から逃げ出すのを見て、一瞬右手に持ったサーベルを落としかけ――しかし確りと握り締める。その力は、先程よりも強く、ぎうぅ、という音が柄から漏れた。


「…………ぃ…………!」


 男は左手を顔にやり、表情を隠すように肌を掴む。

 ぶるぶる、ぶるぶる、と体が震え始めた。

 左手の間から垣間見えるそれ。ジゼルの紡ぐ、タタ、タタ、タ、と弱々しくも懸命な逃走。いや“逃争”と言うべき行動は――――。


「……………く、くくくっ………くくくくっ………いい。いい。お前、すごく、凄くいいぞ……!!」


 ――――しかし彼の嗜虐心を昇らせるだけで。

 ぶるぶる、ぶるぶる、と彼の体は震える、それを表す感情は感喜、歓喜、驚喜、狂喜。

 欣喜雀躍、狂喜乱舞――それを文字通りに再現したい体を抑え、リュシカ王国侯爵、ウリアネール・ツェル・エスナスティンクの護衛、アズスルー・ダン・ガズドゥロノフは、表情を隠している左手から、喜悦の笑みを覗かせた。

 どくん、と全身に熱くなった血が巡る。

 視界に捕えて放さないのは、よろよろと走るか弱き背中。されど懸命に、必死に生きようともがく、小さな命。

 いい、良いぞ、素晴らしい。

 最高だ。アズスルーは笑う、これから自分がする事に対する楽しみで、哂う。


「………………よくぞ私の殺気から脱け出した、三番ンッッ!」


 興奮により焦点が合わない視界の中、アズスルーはジゼルを見つめる。


 ――あの少年は、生きようとしているのだ。

 懸命に、力を振り絞って、全力で。

 それはつまり、輝いているという事である。つまりは美しい、そういう事である。

 ああ、何て素晴らしい光景だろう。

 ああ、何て勇気のある行動だろう。


 ―――――しかし、お前が逃げられる事など決してないのに。

 お前は夢を、見てはいけないというのに。


 貴様は良い、今までに出会った事が無い最高品質の“臆病者”だと、彼は前を走る弱者に告げる。

 生命が輝き、そして己が最も美しいと思えるその瞬間、アズスルーは最高の快楽を得る為に――――それを完膚無きまで叩き潰す、その、宣告を。


「―――――貴様で“楽しんで”やろう」


 どれ、先ずは何をしよう。

 背中から何十と刻んであげようか。

 純白の手袋を赤に染めてあげようか。

 その無垢な顔を恐怖と絶望で削げ切ってあげようか。

 いやいや、あの素晴らしい足を細切れにしてあげようか。

 いやいや、いやいや。


 しかし、まあ先ずはとりあえず――――。

 アズスルーは、腰にさした二本目のサーベルを、すらりと抜いた。

 地震で落ちた燭台から広がり始めた火を浴びた刀身は、キラリと輝く。


「けいこくは、したぞ?」


 楽しみが抑え切れない歪んだ顔で、彼は足を踏み出した。



 ≪【狂気魔道】を歩みますか――――『Yes/No』?≫


 答えは――――『Yes』。






◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇






「もぅ、何だというのかしらっっ!」


 地震の後、護衛のアズスルーがいない『《イースリッション》商品受取り部屋』で、リュシカ王国の貴族の一人、アズスルーが護衛している彼女、ウリアネール・ツェル・エスナスティンクは声を荒げて文句を垂らす。

 幾つかに分けた金色の縦ロールに、白粉や口紅等の化粧した顔。恐ろしく美人、という訳でも無いが、そこまで可愛く無い、という訳でも無い。一番近い表現は優美な女性、と言った所だろうか。

 そんな侯爵である彼女がご立腹なのは、自らが大枚――と入っても彼女の家全体で見れば雀の涙程なのだが――はたいて競り勝った商品、奴隷番号“三番”が、地震が起きた際に逃げ出した事――――ではなく、その時にウリアネールの着ていたフレアスカートのドレスを汚し、その上《イースリッション》の職員から奪った焼き印を入れる鉄の棒を使い、その一部を焦がした事である。

 貴族にとって服装とは、一種のステータスシンボルだ。どんな服を着、自身を高貴に美しく、又勇ましく見せる事は、己の家に対しての誇りであり矜恃であり、大切な物なのである。しかもそれが女性ならば尚更の事で。

 そしてそれを汚すという事は、自分だけではなく家に対しても泥を塗った事と同義に等しく、故にそれをした者――しかも自身が主である奴隷――に対する彼女の怒りは凄まじいものであった。

 更に言えば癇癪持ちなので、ウリアネールの怒りは一瞬にして頂天に達している。でなければ彼女の連れてきた唯一の護衛である彼を、捕えに出すと言う指示などする筈が無い。

 そういう訳で彼女は婦人帽子を床に叩き付ける程激怒していたのだ、が。


「アズスルー、遅いですわねぇ…………!」


 タンタンタンタン、足で苛立ちを表現し、持った羽扇子を口の前にやりながら、金髪の彼女はぽつりと言う。

 先程彼が部屋を出てから暫く――と言っても未だ一、二分程しか経ってはいない。

 だけども彼ならばすぐにでも回収して戻れる筈なのに、今だ帰って来る気配が無く、どうにも遅い。

 まったく、何時まで遊んでいるのかしら、と頬に手を当てため息混じりに呟いて、じゃあ何して暇を潰そうかしら、と考えている途中、ひょこ、と視界に入って来たのは《イースリッション》で働いている男だ。

 名前は―――――何と言うんだったかしら? と彼女は考えて、すぐにそれを止める。


(――ま、唯の猿一匹。憶えるだけで無駄ですわね)


 でも、まあ、一応は聞いてあげましょうか。

 そんな事をつらつらと思いながら、ウリアネールは彼の方を向く。


「――何でしょうか?」

「え、あ、あのー」


 彼は彼女の機嫌を伺う様にチラチラ見ながら、恐る恐ると口を開く。


「あのですね、さっき出てった旦那、もしかして……やられち」

「有り得ないですわね」

「え、いやでも、先程から向こう、舞台が騒がしいじゃないですか、それに」

「だから、有り得ませんわ」


 一蹴。

 この男は何も分かっていませんわね、と内心ため息をつき、これだから貧相な猿は、ともう一度ため息をつく。勿論、二度目も心内でである。


 彼女の護衛――アズスルー・ダン・ガズドゥロノフが、たかが一端の魔族の子供に負ける?

 残念も何も無いが、そんな事は『万が一』にも有り得はしない。

 多少人間より身体能力が高いだけの者では、彼に指一本触れる事すら叶わないだろう。そしてそれは、例え何人もの敵を相手にしたとしても、結果は同じである。

 彼女は彼の実力を知っている、その確固足る、純然足る理由を知っている。

 さてどうしましょう、と考えて。


「――――丁度いい暇潰しです。説明して差し上げますわ」

「……は、はぁ、どうもありがとうございます」


 へこへこと男は頭を何度も下げる、それを見て彼女はふん、と鼻を鳴らした。


「まずは――そうですわね、『旋風の纏人(エアロ・フォーマー)』。これが彼の特徴ですわ」

「し、“称号付き”…………」


 男の表情に驚きと納得の色が走る。

 まあ、これぐらいの事は流石に知っているか、とは思いながら、ウリアネールは一度息を吸い込んだ。


 “称号付き”。

 《ファンタジア》に住む全生物に共通している『ステータス』。それに表示される『分類/カテゴリ』、『称号』、『魔道』の中の一つ、『称号』を天から授かり、手にしている者達の総称だ。

 『分類/カテゴリ』、『称号』、『魔道』。

 この三つの項目は、決して自分の意思だけでは変えられない。“天からの”贈り物の様な存在である。

 例えばある人が、自身の『称号』を『豪傑の戦士』とでも豪語したとしよう。確かに、それで名前は広がるが、結果としてはただそれだけであり、決して己の『ステータス』の方の『称号』は変動しないのだ。そしてもし、その彼が『称号』を授けられたとしても、それはほぼ『豪傑の戦士』なんて、自分が考えたものにはなる事は、ない。『ステータス』とは、自身が歩んだ人生や、経験、才能、そして“天の上に住む者”で左右される。そういうものとされているのである。

 そして勿論、この――ちゃんとした『ステータス』の方の“称号付き”は、唯の通り名として轟くだけではなく、確かな恩恵をもたらしてくれるのだが、彼――アズスルーにはまだ、 四人組みのパーティー相手に単独で勝利を収めた強さの秘密が存在する。

 それは。


「――――そして彼の『分類/カテゴリ』は“魔道剣士”ですわ」


 ウリアネールはそこそこの起伏がある胸を少し張る様にして、その言葉を口に出した。


 そもそも『分類/カテゴリ』とは、その人物の種族を示す項目では、ない。

 それよりもっと純粋な――――己の中心。そう、その人物の“個”の原点、それにどれ程登りつめたか、どれ程近付いたかを示す物なのだ。

 『分類/カテゴリ』が変わることを、人々は《存在昇格(ランクアップ)》と名称し、またそれの殆んどが素晴らしい物である――――と、ある所は提唱しているのだが、それは何故か。

 理由は《ファンタジア》ではその昔、神達が海を創り、大陸を創り、又生命を創造した、という神話がある事が原因だ。それが本当であるならば、《存在昇格(ランクアップ)》するという事は、自身の創造主――即ち、神に近付くという事である。神に近付く、それは即ち成長する、という事であり、それのどこが悪いというのか。

 そしてその証拠を示す様に、《存在昇格(ランクアップ)》が起きた者は、己の原点に近付けば近付く程強くなり、体はそれに見合う物に変質していく。


 とは言え、《存在昇格(ランクアップ)》をすれば飛躍的に強くなるのは間違い無いのだが、それを自発的に覚醒させるのは並大抵の苦労ではないし、非常に巨大な才能格差もある。

 幾十年も一心に修行したのに、『分類カテゴリ』が《存在昇格(ランクアップ)》せず“人間”のままだったり、逆に一回の死闘で《存在昇格(ランクアップ)》する者もいる。

 その良い例が“魔王”や“勇者”だ。どちらも産まれてから『分類/カテゴリ』が《存在昇格(ランクアップ)》するのではなく、殆ど、と言って良いほど先天的なもので決まる。後天的の“魔王”や“勇者”もいるにはいるが、それも極僅かである。


 なので、《存在昇格ランクアップ》した彼の実力は素晴らしい人物という事が分かり、それを知ったともなれば驚愕する筈である。


「………………?」


 …………のだが、おかしい。

 目の前の男からは、全く驚きの色が見えず、“だから何?”みたいな表情をしている。

 そして彼の何が悪かったかを思考して、ああ、とすぐに理由が判明した。


「貴方もしかして……知らないのですね? これだから無知は……」

「……あ、はぁ、何か、すいませ……いやごめんなせぇ貴族様」


 やれやれ、という蔑む目線を彼に送り、もう興味が無いとばかりに彼女は視線を外す。しかし男の話は終わっていない様で、手を摺り合わせたままに口を聞いた。


「あ、あのぅ、貴族様…………」

「何か?」

「じ、じゃあさっきのガキの悲鳴は一体なんでしょう……?」

「ああ、あれはですわね――――」


 先程の「いやだ」という悲鳴。おそらくはあの逃げた子供のものだろう、とウリアネールには予測がついていた。

 可哀想に、と苦笑しながら思いつつも、指示したのは私ですが、実行しているのはアズスルーですし、ドレスを汚した報いですわ。と、溜飲が下がるのを感じながら、彼女は男に事実を再び視界に入れた男に教える。


「――――ミスタは、弱い者を“いじめる”のが趣味なんですのよ」







◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇







「――――けいこくは、したぞ?」


 その言葉が耳に入った瞬間ジゼルは即、己の本能の警告に従い前に跳んだ。

 直後、肌を撫でる様な風が吹く。

 身を投げ出す様にして全力を出した彼は、髪がさんっ、と抵抗無く斬られた感触を得た後、そのまま受け身もとれずに腹から地面に強打する。

 どんっ、と鈍い衝撃が腹を中心に広がり、思わず何も溶けていない胃液が込み上げ、それを少し吐いてしまう。が、ジゼルの判断は正しかった。


 うつ伏せになった状態で、後方から禍々と感じるのは、先程の殺気――ではなく、もっとドロドロとした、気持ちが悪くなる様な何か。

 それを確認する為に腕を起こし振り向いて、ジゼルが視界に収めた光景は―――。


「――――ひぃっ?!」


 ジゼルは悲鳴を上げる。

 彼の目の前に広がった光景は、背後の男。己の灰色の髪が舞う中、アズスルーが両手に持ったサーベルの刃が、壁の中に入り込んでいるというもので。

 サーベルが通った跡には、ズタズタに抉られた痕跡だけが残り、原形を著しく破壊している。事実、彼の剣が入り込んだ周りの壁は、キュィィィイイィィン、と、静かに、されど確かな威力で、刀身に纏った斬風でサーベルの周りを綺麗に抉っていた。

 それは乱暴に言えば鎌風のミキサー。

 それは地球で言えば鉄にも勝る掘削機。

 それが二振り、アズスルーの両手に一本ずつ掴まれていた。


 【嵐風魔道】。

 時に春風、時には嵐。

 それは気まぐれ一つで姿を変えて、強き意思にて形を変える。

 時に刃に、時には槌に。

 嵐と共にする彼等は、その嵐の目と成ろう。


 アズスルーが行使したのは【嵐風魔道】の一つ、『斬風の纏エアリエ・アームド』。

 それは己の剣に風を纏わせ、触れる物を切り裂く付加魔術(エンチャント)

 術者のイメージや魔力によって形状は多少代わりはするものの、そう簡単にはアズスルーの様にはならない――――のだがしかし、これではないのだ。

 先程の覚悟など吹き飛ばされ、瞬間的に彼の感情を、形容したがい何かで覆い尽したのは、これではないのだ。


 アズスルーは腰を抜かして後退るジゼルを見、グリンと顔を動かし口を開ける。


「――避けるなよ? もうよけなくていいんだからな?」


 ジゼルが悲鳴を上げた原因。

 それは、彼の目。

 アズスルーは好青年の顔を変え、何でジゼルが自分の剣を避けたかが、まるで理解出来ない様な表情を浮かべてくるその双眸。

 闇より明るく、紫より暗く。

 赤と緑が混じり合い、それに愉悦と快楽を加えた瞳の色は、正に狂気を宿したもので。


 アズスルーはサーベルを壁から抜き、次に天高く振り上げる。廊下の天井に剣の先端から伸びた鎌風が当たるが、そんなものは存在していないと言う様に、滑らかな動きで、指し足る抵抗も無く天井の壁を抉っていた。

 そして手に持ったサーベルを流れる動作で反転、逆手に持ち換える。


「先ずは、あしから」


 本能からの警告。

 ジゼルが耳にその言葉を入れた瞬間、それを一瞬で理解し、反射的に行動を。

 ジゼルの体は意識外でスムーズに動き、彼がこの場で出来うる限りで最小限の動作で、己に向けられた脅威の刃からの回避を果たす。

 後退る体制から、足を自分の腹につくまで曲げて、その勢いを利用して、後転。直後、ジゼルがいた場所に二本の剣が突き刺さり、響く甲高い掘削音。壁だった欠片を刺さった箇所から巻き散らした。


「……………ぁぁあ、あああああ? 何で、何でよけるんだよぉ?!」


 聞こえてきた声は無視。

 ジゼルは直ぐ様丸めた体を起こし、前に向かって飛び出した。


(――――――あと、少しっ!!)


 壁の曲がり角まで後数十センチ。

 そしてジゼルにとって最後の希望の象徴、曲がり角まで壁に手を掛け様として―――――足首を“何か”に掴まれる。

 まさか、という思いと、やっぱり捕まったか、という思いが混ざり合った感情が沸き出て、それでも確認する為にジゼルは掴まれた方の足を見た。

 そして――――。


「………………ひゅぅ」


 息を飲む。

 思考が白に染まり、心から示す感情は恐怖。全身の水が冷や汗に変わる。

 ジゼルの視界には自分の足。それは締め付けられる様な圧迫感を伝えてくる左足首で、ジゼルを捕えて動けなくしているそこには――――――何も、無かった。

 足が縄で巻かれている様な痕以外、何も。


 悪感が、走った。


「…………まぁぁぁぁぁぁっっってぇぇっ、よぉぉぉぉぉぉおおおおおおお」


 地の底から怨霊が嘆く様な、子供がごねる様な、かこつ様な、轟く様な、蠢く様な。

 先程のとは懸け離れた、余りにも不気味過ぎる雰囲気をその身から溢れ出して、剣を両手に持って立つ彼は、先程から一歩も動いていない。

 確かにジゼルとアズスルーの距離はジゼルが走った分だけ離れいていて、尚且つその間には何も無い。であるならば、自分は此所から離れられる筈、筈なのに。


「――――っ」


 ジゼルは掴まれた足を振る。が、足首を掴んでいるその“何か”は強い力でそれを押さえ、苦しい事に少しだけしか動かせない。

 自身を掴んでいるものは、風ではなかった。寧ろ、風だったならばジゼルはここまで取り乱さなかったかもしれない。

 しかし、これは無色の風では決して無い。ある筈が、ない。

 これが風ならば、どうしてこうも、掴まれた足首からは、生き物の様に生温い体温が、伝わってくるのか。

 何故、ぬるり、と粘液の様な滑りの感触を、受けなければならないのか。

 そして、獲物を捕えた蛇が這いずる様に、その感触が上と近付いて来ているのか。

 そうして混乱している間に、ジゼルの掴んでいる何かが、彼の足首を掴んだまま、太股まで届いた時。

 太腿にまで絡みついたそれに、ぐい、と引かれた。


「ほぉぉぉぉらぁぁぁぁぁ、おぉぉいぃでぇぇぇぇぇぇぇええええ――――」


 三日月の笑みを浮かべた彼は、最早先程までの名残など無く。

 剣が頬に当てられた時よりも濃い恐怖と、心から沸き出た生理的嫌悪が、ジゼルの肺に取り込んだ空気を、悲鳴ごと外に出す。


「――――ぃや、だぁああああああああああ!!!」


 ジゼルは叫んだ。

 “助けて”と叫んだ。

 答える者など、いないというのに。


 足から引っ張られる力が強くなり、手を伸ばして曲がり角の壁に手を掛ける。が、それもすぐに限界を迎え。

 ――――ずる、と填めた手袋が滑り、壁から手が離れ、ジゼルは一瞬宙を浮く。


 そして。


「あああああ――――っぐぼ、おえぇっ!!?」


 何かが、ジゼルの足首を掴んでいる“何か”が、彼の体に巻き付き、絡み付くと同時。ズボッ、とその透明な“何か”ジゼルの絶叫を上げた口の中に勢い良く入り込む。

 思わず蒸せ、今すぐにでも嘔吐きたいが、ジゼルの口内を我が物の如く蹂躙している何かが、それをさせてはくれず、生理的嫌悪を掻き立てる感触が、口の中から伝わった。


「―――くぅ、くくっ、くくひひっ、くひひひひひっ! くひひひひひひひいひひひひいひっっっ!!!」


 狂気と狂喜を内包した笑い声が、ジゼルの後ろ、いや彼の――横になって宙に浮かされた状態なので――下から聞こえてくる。

 それに矢張りジゼルの全身が震え上がる――――が、それと同時、恐怖で冷えた思考が嫌という程鮮明に、又正確に、自身の口内にいる“何か”を分析して、己の思考の仮想空間上に写し取った。

 それは先端に行くにつれて細くなり、おそらくは腹の部分には大小様々の凸凹が。舌を押された感触は、硬くもあれば軟らかくもある、まるで筋肉の様な物。体に巻き付いているものも大きさ――いや、太さは様々なもので、全てが粘液の様な液体を纏っていた。

 そして、全てが人肌の様に生温い。

 ―――――そう、それはまるで体温の様に。

 ジゼルは深く考えず、己の本能に従った。



「―――んがぅ!!!」


 ブチブチブチィ、口の中から千切れる音が。

 それと共に噴き出した紫に近い赤い血が、びしゃ、と顔に掛る。

 苦しむ様に、悶える様に、それは口内をのたうって、しかしそれでもジゼルは顎に力をより強く。先程とは別の感情で天指す耳も、丸まっていた尻尾の毛も逆立てて。

 そうそれは、まるで狼の様に。

 ブツンッ、と犬歯辺りに何かを噛み切る感触。


「………………ぃぃィイイィィィィィィィたぁぁアぁああぁ良い良いいぃぃ、ゾォォェェッッッ!!!!」


 直後、アズスルーはその場に浮かぶ。

 否、浮かんだのではなく、透明な何かに持ち上げられたのだ。

 そして奇声を発しながら、ギギギシッ、と何かがしなる様な音を立てて、次の瞬間。

 彼は弾かれる様に、発射。

 己の体を弾と見立て、銀の鎧で包まれたそれは突進する。そして目の先に捕えていたジゼルに直撃、そのまま壁に叩き付けた。


 ――ドゴンッ、と大きな音を立て、壁を少し凹ませる程の威力を持ったアズスルーという名の弾は、ジゼルの華奢な体を行動不能にするには十分足るもの。

 ミシメキメキ――ボキィッッ!!

 生々しく、凄まじい音が、ジゼルの胸から発される。

 胸に激痛、込み上がる血。

 彼の肋骨は、容易く限界を迎えたのだ。


「――――かっっハッ!!」


 ジゼルは口に入った異物を吐き出すと共に、血反吐を吐いて、それが幾らかアズスルーのマントに掛り、染み込んでいく。

 腰に力など入らず、そのまま、ずるり、とジゼルは崩れ落ちる。体には未だ見えない縄で縛られたままで、止まぬ激痛の中、動かせるのは両指くらいのものである。

 それでもなんとか生き延び様と、己の体を動かそうとし、しかしそれに反する様に、頭の中の冷酷な部分が囁いてくる。

 動け。――――無理だ。

 動け! ――――無理だ。

 動けよ! ――――無理だ。

 動けって、言ってるだろ!! ――――だから、無理なんだって。


 ――――――ぱきん。


「……ごぷっ………………ぁ」


 それは、己の心が折れる音。

 体が動かないと確信した瞬間、脆く細い何かが折れた音を、ジゼルは激痛が止まぬ思考の中、はっきりと聞こえた。

 ――――もう、ジゼルの体は動かない。

 全身に絶望に浸った血が、巡り始める。


 アズスルーは、と、と、とよろつきながらも二、三歩自らの足で下がり、獲物を見据え、顔にも掛った血を舌で舐め取り、再び斬撃を纏う剣を翳す。

 そしてジゼルの顔を瞳に写し、彼は念願の玩具を手に入れた様な笑みで、破顔した。


「やぁぁぁっぱり、どうたいからにシましょうかぁぁぁァァァアアア? ――――いぃ、そのひょうじょおぉ、すごぉくぃいいぃイイイイィィぃぃ!!!」


 ――――――終わった。

 そう思いながら、ジゼルは目の前に迫る現実を受け入れた。

 痛みで歪む視界に、近付いて来る狂気の塊を収め、ふぅ、と息を吐いて、全身の力を抜く。

 自分はもう、諦めたのだ。

 死から逃げる事を、死から避ける事を。“生きる”という事を。

 諦観と虚脱の微睡みに浸り、彼は思う。自分の人生とは、一体何の意味が有ったのだろうか、と。


 思い出すのは数年前――自分を置いて去っていった父、付いていった母、自分だけが森の中に取り残されて、それでも親が戻って来ると信じて暮らしたあの日々を。

 自身の“生”にしがみつき、必死に獣から逃げ、食べられる物を探し、安全な寝床など無く、木の上で震えながら朝を待つ日々を。

 そして彼等が戻って来ないと悟ったあの時に、ジゼルは自身に誓った事を。

 あの日、自分は何を誓った?

 それは――――。


(―――――もう、いいや)


 もう、思い出す事も億劫だ。

 死ぬ間際にそんな事を思い出して、どうしろというのだろうか。

 血に濡れた視界を閉じる。

 感覚も壊れたのか、激痛が走っている筈なのに、今はもう痛みすら感じない。

 ジゼルは内心ため息をついた。

 ――ああ、これでやっと死ねる。そういう意味を含んだ息を。



 されど、ジゼルは気付く。

 何故、血とは別の液体が、頬を伝うのだろう。

 何故、自分の目から、涙が溢れて止まらないのだろう。

 ああ、そうか。と、ジゼルは理解し、そして内心で苦笑する。


(―――――死にたく、ないなぁ)


 ジゼルは純粋に、本当に純粋に、そう思った。

 直後。


「――――おぁぉおぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 やっと、と言うべきか、漸く、と言うべきか。

 奇跡は彼に、訪れた。







「――――おぁぉおぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 銀色の檻が転がり回る。

 ぐるんぐるんと、恐ろしい速さで回転する巨大な鳥籠は、その中に入れた者に対してある種の地獄をもたらしていた。


 咆哮の様な叫び声をあげる中、ハルアキは今の状況を的確に分析する。

 自身が入っている檻に直撃したのは、左半身が粉砕されたとでも形容出来そうな、大人の男性だ。彼の左腕は二の腕から先が無く、銀色の光を放つ鎧も皹だらけ。そして、檻にぶつかった際にだろうか、それともその前にだろうか、ハルアキが正体に気付いた時には、既に彼は絶命していた。

 砲弾の様に飛んで来たその男はハルアキの入っている檻の側面に激突。その際に、半ば頭部と右腕とを突っ込む様に檻の柵に填っており、籠に張り付く様な形で一緒に転がり、また轢かれている。鳥籠が一回転するごとに、グチュ、という潰れた音を立て、吹き出る鮮血が檻の中にまで舞うという状況は、はっきり言ってグロい以外の何でも無い。


 そして向かう先は、舞台裏。

 黒と赤の塊がいる、魔の空間へ。


「――――くぅらえええええ!!!」


 ハルアキは吠えた。

 目標は赤マントの銀騎士。

 かなりの速度が付いた鳥籠は、舞台裏を繋ぐ階段を降りる直前に、柵に引っ掛かっていた男により跳ね、飛んだ。

 その際に彼の填っていた頭が外れ、右腕がもげる。引っ掛かっていた部分が外れたという事はつまり、男が檻に繋がっているという事ではなくなるので、男の骸も曲線を画き、ハルアキの入った檻と同じくアズスルーに襲い掛る。


 が、しかし。


「―――ぅおぉっ!?」


 ハルアキの檻と男性はアズスルーの手前、何もない空間に、何かに阻まれる様に止まってしまう。

 それは受け止められた、言うよりは、透明な何かに激突した、と言った方が正しく、故にその衝撃により、苦痛の声と共にハルアキは慣性に抗う事無く、柵に叩き付けられる。


 揺れる視界の中、ハルアキはアズスルーのことを捉えており――――そして、ハルアキは驚愕する。

 それはハルアキの突進を妨げた透明だったモノ。しかしそれはジゼルに噛み千切られた際のの血が掛り、今その姿を、ハルアキの目に写していた。

 混濁した気分と思考の中、ハルアキはその正体を口にする。


「―――――――しょ、触手ッ?!」


 そう、それは触手。

 蛸の足の様な、烏賊の足の様な形状をしたそれは、飛び散った血の後ををよく見てみると、アズスルーのマントの下から沸き出ていた。彼の肩から付いた紅いマントは、風で靡いていたのではない。そこから蠢く不可視の触手によって盛り上がっていたのだ。


「………………ぉ、ぉお、おまえも、うる、うううるるうるさいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

「っぉお!!?」


 ヒュボッッ!! と風を起こし、血で濡れた大小様々な触手がハルアキに向かう。


 この時、ハルアキにとって幸運だったのは、自分を閉じ込めている檻の中にいた事だ。

 バチバチバチッ、と鋭い破裂音が響き、鳥籠の柵より大きい触手は弾かれる。そして柵によって、殆どの触手は逸れたりしたのだが、全てが防ぐ事は叶う筈もなく。

 ――――バチィィンッ!

 柵をとそれに防がれて張り付く触手を掻い潜って来た細い一本が、ハルアキの腕の皮膚を強打する。

 それはまるで細い鞭。

 ひゅう、と開いた口から肺の空気が抜けて、ジンジンと皮膚が裂ける痛みと共にやって来た衝撃はハルアキの思考を数瞬白く染める。

 太ければ、人の首等捻切る事が可能な強靭な筋肉で出来た鞭打。恐らくは全力が込められたそれは、ハルアキの左腕の皮を、当たった分だけ持っていく。

 しかし。


(―――――――っ!!!)


 心の中で己に喝。

 ハルアキは先程からの闘志を失ってはいない。寧ろ、今の攻撃を偶然にでも防ぎきった事により、反撃に対する気力が漲っている。

 先にすべき事はやった、準備も万端。残す要素はそれを放つタイミング。

 痛みで細めた目で、触手と柵の間隙から見える狂気の騎士を視界に入れる。どう見ても正気ではない彼の状態と、危な過ぎる雰囲気を放つこの魔術。ハルアキは彼の触手の魔術は知らないが、この感覚は知っている、この凶悪極まりない雰囲気を、身を持って知っているのだ。


 恐らくは、今ハルアキが反撃をしても、奴はそれを躱すか、逸らすか。兎に角ダメージは見込めない。

 それに今打てば、最悪あの子供が巻き込まれて死ぬ事になる。そんな事をハルアキは当然認めない。

 ならば一体どうやればいいのか――――答えは簡単、隙を作ればいいのである。

 が、それをやるには至難の業だ。

 しかし、そんな事、ハルアキは分かっている。理解はしている。けれど、己はそれをやらなければならないのだ――――そう、自身に決めたのだから。

 ハルアキは彼を束縛する為に念ずる。


「『神蜘蛛の――――」


 瞬間、しかしそれを遮る様に放たれたのは、狂気の悲鳴。


「――――、――――――ぁぁぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

「っう、わぁあああああああっ!!?」


 檻に張り付いている触手が絡み付き、尋常ではない力で振り回される。

 床へ、壁へ、床へ、床へ、天井へ。

 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン、ガツン。

 檻は所々柆げ、更には触手自体の圧力で歪み始めている。

 このままじゃ、不味い。

 しかし、そう分かっていても抜けられない。

 ――――仕掛けを発動させる?

 否だ、というよりできないからだ。

 ならばどうする、どうする、どうする。

 そして非情な事に、ハルアキが混乱の境地の中、止まぬ暴力の嵐に更に追撃が加わった。


「『斬風の纏エアリエ・アームド』ォォォォェォォェェエエエエエッッッ!!」


 『斬風の纏エアリエ・アームド』。

 斬撃の風を纏わせるそれは、既に彼の剣には掛っている。

 では何に彼は掛けたのか。

 それは――――。


「おえぇっ……はぁっ! ―――ぁつっ?!」


 びちゃびちゃ、と。

 急変動、急加速、急停止の威力に、ハルアキの胃が屈し、口からその衝動を吐き出した直後、首の後ろ辺りに、ちく、と熱の反応。


 ――――ギュィィイイイィィイイイッッッ!!

 振り向くと、飛び散っているのは、紅い点。

 触手の周りに纏っている斬風が、ハルアキのいる鳥籠とぶつかり合い、文字通り、火花を散らしているのだ。

 凄まじい音を立てながら、しかし徐々に、又確実に柵を削っている触手は、ハルアキの命を秒読みしているかの様で。

 不味いとは思っても、触手に塞がれてる状態では何も出来ず、かといって直ぐ様打開作を講じれる程落ち着ける筈も無い。

 そんな混乱する思考の中――――。

 ガシャン、という金属音が、真横から聞こえた。


 そして。


「くぅぅしっ、ざしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 ――ブズズッ、と。

 感悦の叫びと共に、二本の斬撃の風を纏った剣が、自身の触手と檻の柵を、貫いた。



「ぁ」


 まさか、という意味が、込められた呟き。

 壁に寄り掛ってい座っているジゼルは、その光景を明瞭とした意識の中、確りと捕えていた。



 彼の薄れた意識が回復したのは、つい先程の事。

 痛くありません様に、と思い視界を閉じて、今か今かと凶刃が振るわれるのを覚悟していた最中だった。

 突如、一滴の水が垂れたと感じた瞬間、体の痛みが引いたのだ。

 すぅ、と水が流れ落ちる感覚と共に、胸に感じていた痛みは大分無くなって。腕くらいならば動かせる様になった体は、それでも節々が痛んでおり、余り動く事は出来そうにはなかった。が、しかし、ジゼルはそれでも今自身の周りに何が起こっているかを確認しようと目を開けて、飛込んできたのは一人の少年。ジゼルよりも年上の彼は、先程まで自分を縛っていた何か――――“触手”と呼んだモノに襲われていた所からだった。


 一瞬で檻にまで届いた触手の鞭が彼の顔に回した腕に当たり、鋭い音を立てて皮膚が喰らわれる。

 痛いのだろう、彼の表情は歪み、歯は食い縛って堪えている。

 だが、そこでジゼルは何故、という疑問に襲われる。


(―――――何であの人は……)


 ジゼルが見たもの、それは彼の目。

 その瞳は恐怖になど覆われてなく、その内に込められた闘志が遠くから見ているジゼルにも感じ取れたのだ。

 確かに、今の彼は何もする事が出来ていない。

 しかし、だかしかしだ。

 何故、あの人は、狂気を発する彼に怯えないのか。

 何故、あの人は、その心だけでも立ち向かえる事が出来ているのか。

 何故、あの人は――――それでも諦めないで、闘えるのか。


 檻が縦横無尽に叩き付けられている状況は、戦闘に疎いジゼルから見ても絶望的である。だというのに、檻の中に閉じ込められたまま、今のジゼルより更に絶望的の彼は未だ、諦めた表情をしていない。


 何故。そう思った直後である。


「くぅぅしっ、ざしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 ――ブズズッ、と。

 感悦の叫びと共に、二本の斬撃の風を纏った剣が、触手と檻の柵を、貫いたのは。


 まさか、ジゼルは思った。

 しかし、嘘だという気持ちの方が、自身の心をより多く占めていて――――。


「―――――オォおおおらぁああァッ!!」


 それに応えるかの様に、黒髪の少年が咆哮をあげた。

 彼が両手に掴んでいたのは、銀の腕。

 その小手の位置に装着された小さな盾で、ハルアキはアズスルーの剣を防いでいたのだ。

 狂気に触れたアズスルーも予想外だったのか、目を見開いて驚愕している。

 そしてその一瞬の硬直の間。

 この時、誰もが予想にしなかった事態が起こる。


 ハルアキが防御に使った盾、それは蛇竜〈蛇竜蜥蜴ゲルアトゥル〉に弾き飛ばされた戦士が持っていた『炎弾の小盾』。

 衝撃反射用として造られたその小盾は、中心に填め込んだ『魔石』が衝撃に反応する様に造られており、『纏火の剣』とは違う、名前の通りの『炎弾』を打ち出す仕組みと為っていた。

 故に、アズスルーの剣に纏わせた『斬風の纏エアリエ・アームド』が、ハルアキの持つそれに当たり、削り続けるという事は、衝撃を与え続けたという事であり――。


 ハルアキが持つ『炎弾の小盾』の『魔石』が連続して輝き、己の魔力を炎弾に変えて、吐き出す。超至近距離で発射されたそれは、アズスルーに直撃――――する寸前に、目の前の檻の柵と、それに絡み付いていた触手に着弾。弾けて火の粉を巻き散らす。


「っっっあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 痛みによるものか、それとも怒りによるものか、アズスルーはハルアキの入った籠を投げ飛ばし、触手の殆どを追撃に向かわせる。

 金属が歪む音が響き、紛れたのは苦痛の悲鳴。

 アズスルーは彼を殺ったと確信したのか、漸く、といった体でジゼルの方に振り向いた。


「――――――――ひぃっ!!」


 ジゼルは、泣きそうな悲鳴をあげる。いや、既に泣いているのかもしれない。

 されど、今のジゼルには関係無いのだ。

 ずる、と。べちゃり、と。

 触手を伴い、一歩、又一歩。


(逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ――――!!!)


 後退るも既に壁。

 ガタガタと震える手足で床を這う。

 しかし、そんな隙だらけのジゼルにアズスルーは剣を振る事なく、もう一度別の方へ視線をやる。

 直後、キィン、という金属音。

 その正体は小振りの短刀。投擲され、弾かれた銀色のそれは、回転しながらジゼルの真横に突き刺さる。

 誰が投げたのか。

 ジゼルも恐る恐るとアズスルーと同じ方にに視線を向けて――――そして、信じられないものを見た。


 その先には、先程まで檻にいた彼の姿。

 後ろの方には、開閉部分が切られた鳥籠、手枷を繋いでいた鎖は――恐らく先程の突きの際に上手く当てたのだろう――丁度中間辺りで千切れていた。

 そして彼を見れば、所々から血が出ているが、意識を保ち、ちゃんと地に足を着けて踏んでいる。


「なん……で………………」


 側に落ちた骸が持っていたのだろう、二本目の短刀をアズスルーに向けて構え、確りと意志を放ち、その瞳で敵を見つめている。


 先程とは違う意味でジゼルはまさか、と、そう思った。

 何故、彼は逃げないのか。

 何故、何故、何故。


「――――そこの、こっちに来い!!」


 彼はジゼルに向けて呼び掛ける。

 何故かどくん、と鼓動が高まり、息が熱く。

 それに疑問を数瞬抱くが、すぐに棄てる。

 ガクガクと、脚が震えながらもジゼルは立つ。弱々しくも、懸命に動こうとする姿は、まるで産まれたばかりの鹿の様で、事実彼は、生きようとしているのだ。

 一度諦めた“生”を、再びその手に取り戻して。


「にぃがぁぁすかぁぁあよぅぅおおっっっ!!」


 だが、敵は無情。

 それをさせまいと、ジゼルに血で濡れた、触手が向かう。

 太い触手を何本も束になったそれは、先程までとは違い、正に暴力の象徴の様で、当たれば確実にジゼルの華奢な体など押し潰される事は明白。そしてそれは恐らく、短刀を持ったハルアキが介入しても結果は同じだ。


 絶体絶命かに見えた状況は、再びジゼルの予想外の方向に転がっていく。

 それは来た、ハルアキの上を飛び越えて。


「―――――ガァァァァァルルルルルァァァァアアアアアアアッッッ!!!」


 獣の咆哮と同時、肉を裂き、噛み千切る音。

 そのまま廊下の奥へと着地、下に転がる触手を踏みつけ、二度目の突進。


 現れたのは、四肢と三本の尾が黒い、しかし輝く白い爪を持った一匹の魔獣。体が触手の返り血で濡れた獣の目には、獲物と見なしたアズスルーを捕えていた。


「ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッ!!!」


 耳を劈かんばかりの悲鳴が廊下に響く。爪と牙で千切られた傷から紫に近い赤い血を大量に噴き出しながらも、しかしアズスルーも反撃は忘れていない様で。


「『我、汚れ無き手をイノセントシィンズ・持つ者也オブ・マイン』ッッッッ!!」


 ずぶりゅ、という破裂音を伴い、切断された触手から新たな触手が生えてくる。

 そして、ぎりり……、という軋む音。その音は叫ぶアズスルーの真上から聞こえ、またその姿を自身の血で写している。

 それは幾つもの触手を束ね、側面が平面になるまでに固めた一つの塊。振り上げられた触手は、宙を掛ける獣に狙いを定め――――振り下ろす。


 それは正に触手の鉄槌。

 ドゴンッ、と床を揺らす程の衝撃。飛び掛って来ていた獣は、苦痛の悲鳴をあげる事すら許されずに頭蓋を粉砕され、地に堕ちる。

 新たな血の色が廊下というキャンパスに加わるが、しかしそれでも完成はしない。

 塊を振り下ろしたと同時、千切られた太いものとは別に、ジゼルに襲い掛って来たのは細い触手。

 当たるだけで皮膚を剥ぐそれを、今度はジゼルの前に飛込んで来たハルアキが短刀と己の体で防ぎきる。

 両腕共に肘から先の皮が何筋かが捲り上がり、激痛が身を襲う――――が、ハルアキは後ろにいるジゼルをちらと見て、言葉を放つ。


「一緒に逃げ――――」


 瞬間、肌を殴る様な暴風がジゼルの目の前を通り過ぎる。前髪の何本かを持っていったそれは、しかし一瞬にして止んだ。

 視界に二体目、三体目の獣が、触手の本体に襲い掛るのを入れるが、そんな事は今のジゼルの思考の中には認識されない。

 彼の意識が向いているのは、今起きた事。

 今のは風? いや違う。あれは一瞬視界に入った触手が彼を薙ぎ払った威力の名残だ。でなければ、ジゼルを守ってくれた彼が、視界から消える筈がないのだから。


「…………っ!」


 時間にしてコンマ数秒、ジゼルは今の一瞬で何が起きたのか理解し、急ぎ吹き飛んだ彼の方向に目を向ける。

 ――そこには、原形を留めた彼の姿が。

 横に立って伏しているものの、大きく胸を上下させている。

 “生きている”その事実でとりあえずはほっと息を吐く、そして駆け寄ろうと走り出す、が。


「―――――ざぁんねん」


 立ち塞がるは、狂気の騎士。

 口から涎が垂れた痕を拭い、肩で息をする彼の片腕からは、頭部、いや口の部分だけが残った獣の成れの果てがぶら下がっている。

 アズスルーは感嘆の吐息を吐きながら、腕に噛みついた牙を抜き、それが水を跳ねて血溜りの中へ。右腕に握ったサーベルは、一頭の獣を串刺にしている。

 彼は暫しその場に佇み、己の背から生えた触手と魔獣の血で濡れた左腕を、サーベルを掴んで握ったまま、天井を見上げた自分の額に当てる。


「――ぁぁあ…………ん゛んっ、…………ふむ。馴染むのに時間が掛ったが、ああぁあ、狂気の中とやらは、慣れると存外心地良い」


 そう呟き、くくく、とアズスルーは笑う。

 それに合わせて、彼の触手は蠢き、まるで深い喜びを表している様で――――それが堪らなくジゼルにとって不快だった。

 普通に喋り始めたアズスルーの表情は幸か不幸か、正気を取り戻している様にも見えた。が、矢張り彼の瞳は濁った光を放っている。

 ジゼルは警戒を緩めない。

 アズスルーは飛び掛って来た二体の獣の内の一体を仕留めたサーベルを骸から抜いて、ジゼルに向かって血の池の中、足を踏み出し、彼はもう一度、笑う。


「とんだ邪魔が入ってしまった。――続きをやろうか」


 ばしゃん、血が跳ね、もう一歩。

 しかし、ジゼルは動かなかい。

 立って、アズスルーと相対するジゼルは、一歩も其処から離れない。


 対峙している彼は自身より強者であり、恐怖も感じる。それに一秒でも彼の顔を拝みたくはないし捕まれば死ぬより酷い地獄を見るかもしれない。

 けれど、ジゼルはもう、一歩も退く気は無かった。

 ジゼルはもう、逃げる気などこれっぽっちも、無かった。


「…………………今より小さい頃」


 ジゼルは語り始める。

 小さな声で。確かな声で。


「お父さんとお母さんはぼくの前から消えた」

「……仕切り直しだ。先ずは足からだな」


 アズスルーは聞いてないのか、ジゼルを無視して、背中の触手を動かす。

 それを後ろに跳んで回避、血で濡れたそれの軌道は、ジゼルにはよく見えた。

 触手の向こうからの舌打ちと共に空気が蠢く。ジゼルは足元の血溜まりを蹴り、飛沫を上げて起動を推測、横に跳ぶ。

 跳ねた血で顕現された暴力は、その脇を通り過ぎていく。後ろにあった死骸がバラバラになって吹き飛んだ。


「――っ、ちょこまかとっ!」

「戻って来ない、そう分かった時、僕は決めたんだっ!」


 ジゼルは声を張り上げる。

 自分に言い聞かせる様に、自身に宣誓する様に。


 頭を低くし前傾姿勢で全力疾走。

 不思議と息は切れず、胸の痛みも忘れ、ジゼルは今までで一番速く走れる気がした。

 血の水を足で切り、遅れて細かく軽い水跳ね音が。

 手を低くし目的の物を掴む。

 それを引き上げ、ジゼルは咆哮――――否、産声を上げた。


「――――ガキィッ!!」

「“つよくなる”って、そう決めたんだッッッ!!!」


《――特定条件を満たしました。

ジゼル・ライツァウィルトの『分類カテゴリ』が、“魔族”から“従騎士”へと《存在昇格(ランクアップ)》します》


 脳内に響いたのは無機質な声。

 その直後、ジゼルの体が進化を遂げる。

 血で汚れた灰色の髪、耳、尻尾が一新。より濃く、しかし美しい色になり、光に反射し綺麗な光沢を魅せる様に。

 頬の切り傷や、胸に受けた傷が回復し、痩せこけていた肌には窪みが無くなり、健康の色を取り戻す。

 小さな体躯はそのままで、しかし華奢だった骨格は、丈夫でしなやかな物へと変貌した。


 ジゼルはその足を止める事なく、咆哮。


「う、あぁぁああああああああああああああああああ!!」

「――『斬風スラッシュ・エア』ッ!!」


 窓の無い廊下に風が吹く。

 ジゼルの纏う雰囲気の変化に気付き、アズスルーは自身の“獲物は自分の剣で切る”という主義を曲げて、彼を拘束する魔術ではなく、相手を傷付ける為のものを唱える。

 空気が歪ませ現れたのは、薄く、しかし人など容易く切れる風。淡い緑の光を内包させたそれを幾重にも産み出し、それを数メートルの間が開いたジゼルに放つ。

 時間を同時に、又バラバラに射出された斬風は、ひゅお、と細い棒を宙に降った様な、空気を裂く音と共に目標へ接近。ジゼルが相対する風は先ず二つ、横になって並んでいた。


 ――奥に五つ、触手が三本。

 確りとジゼルはそれを見据え、とんと軽い跳躍。身を出来る限り縮め、その開いた隙間を潜り抜ける。さんっ、と呆気なく安全範囲からはみ出たドレスに付いたフリルが切断された。

 次いで、接近していた触手に当たる瞬間、回転。威力を後ろに流し、上手く触手の上になる形になり、触手を蹴って前に出る。乗った触手のすれすれに向かって来る三つ目の斬風をで跳んで回避して。


「甘しッ!」


 嘲笑を含んだアズスルーの声。

 目の前に来ていたのは二本目の触手。

 明らかにジゼルが回転して流した触手より太い触手は、それがアズスルーの本命だという事を示していた。

 果たして、ジゼルに向けられた脅威の拳は――――当たる事無く空を切る。ジゼルは二本目の触手すらも通り越して、上に取んだのだ。


「っ!」


 アズスルーが息を飲む、まさか、という思いを込めて。


 ジゼルが着地した場所、それは廊下の天井だ。

 空中で体制を逆転させた彼は、そのまま、ぎうぅ、と脚を曲げて、力を込め――――そして、それを解き放った。

 ダァンと勇ましい音を連れて、ジゼルは短刀を振り上げる。触手は動いていない、持った剣も防御するには間に合わない。

 が、しかし。


「矢張り、甘いな」


 アズスルーは口の端を吊り上げる。

 ――――戦闘に対する情報の処理、反応、対応、先程とは“まるで”ではなく“正に”別人の動き。《存在昇格(ランクアップ)》、その進化とは如何なるものか、ジゼルはその結果を自身の体で確りと現していた。

 しかし、である。

 《存在昇格(ランクアップ)》しているのは、何もジゼルだけではないのだ。

 アズスルー・ダン・ガズドゥロノフ。

 『旋風の纏人(エアロ・フォーマー)』であり、“魔道剣士”の護衛騎士。

 故に、彼が唯それをくらう筈が有る訳も無く。

 ジゼルを見上げる彼の腕には、小型の風の塊が、不安定な一つの形を持って発生していた。


 『竜巻トルネイヴ』。

 込められた魔力に比例して凶悪性と暴力性を増す魔術は、一種彼の切り札の一つとして存在している。

 “恐らくは死なないだろう”並の魔力を込めたそれは、今か今かとその威力を解放するの舌舐めずりするかの様に、時折形を崩しながら、飛び掛って来る獲物を待ち侘びていた。

 そして今。


「終わりだ!!」


 その魔術は放たれる。

 ジゼルより、少しずれた右側に向かって。


「――っな!!?」


 その原因は、己の上に突き出した腕に当たった短刀。鎧で刺さりはしなかったものの、しかし腕の示す方向を変えるには十分過ぎて。

 結果、放たれた『竜巻トルネイヴ』はジゼルを中心としない軌道を画き、己の魔力を風に変換して解放した。


 巻き起こるのは暴風。

 風によって引き込まれる筈のジゼルは、発動した魔術の距離が遠かった事により、アズスルーから見て左に吹き飛んだ。

 アズスルーから見て左側、それはつまり、彼に向かって短刀が飛んで来た方向で。

 ――振り向けば、殺した筈の子供の奴隷が目に写り、直後に赤い何かが視界を覆う。

 思考が加速し、あの奴隷に何をされたかを理解した瞬間、アズスルーの中で何かの緒が、ぷちん、と音を立てて切れた。


「こ、ここ、こ、のぉ、ゴミがぁああああああああああああ!!!」



 目の先にいるアズスルーが再び狂う様に叫び始めるのを視界に、ハルアキはうるせぇ、とそう思った。


 触手が横腹に当たる寸前、咄嗟に入れた盾を填めた腕を入れ、威力を軽減する為に吹き飛ぶ方向に跳躍したのが幸をきしたのか、ハルアキは気絶する事なく、しかし全身を打った衝撃と、横腹からの激痛に悶えるだけで済んでいた。

 数秒の間悶絶した後に漸くアズスルーとジゼルの間に何が起きてるかを視認したのも束の間。ジゼルが天井に着地した時、ハルアキはアズスルーの腕に魔術が備えられているのを見て、それを防ぐ為に急ぎ一緒に吹き飛んでいた短刀を拾い、投合。運良くそれがアズスルーの突き出した腕に当たり、魔術の軌道がずれる。

 何より最高だったのは、あの魔術で――先程とは雰囲気は違うが――狼の耳と尻尾が生えた子供が、ハルアキ側に飛んで来た事だ。


 これで、気負いする事はなくなった。

 今までハルアキが動けなかったのは、この時までで。

 今までハルアキが動かなかったのは、この時の為に。

 もう、ハルアキは遠慮はしない。

 ハルアキが投げたバンダナは、アズスルーの顔に当たる前に、見えない触手に払われる。しかし、それでいい。それでいいのだ。


 ハルアキは限りなく加速する意識の中で考える。

 目の先にいる男は、駄目である。

 狂気を帯た目、力に支配された体。危険人物であり、力があるとか、彼の趣味がおかしいからとか、彼の顔が気に入らないとか、そういう問題ではないのだ。

 駄目なのは、もっと根本的な所。理由等を抜きで言えば、要はハルアキの願望を叶える為には、彼の存在が邪魔なのだ。

 然るが故に、ハルアキは彼を殺す。

 ハルアキの歩むレールから退ける為に、自分の命を守る為に、そして―――――自身の腕に抱いたこの勇気ある子供を守る為に。

 そこまで考えて、内心でハルアキはいやいやいやいや、と首を振る。


(――そもそも俺が悪いんだろうに、恩着せがましいにも程があるだろう)


 この事態を引き起こした原因は自分であるというのに、何を助ける気でいるんだか。

 とんだマッチポンプだ、ハルアキは最後の理由に、思わず苦笑をしてしまう。


 ――偽善、と言われてもいい。

 独善だ、と罵られてもいい。

 けれど今は、“この子を守る”。その気持ちには、嘘は無いのだ。


 だから。


「――お前は死ねっ!!!!」


《『罠作成(トラップ):【獄門鬼の砲弾】×1』を選択しました。50000p×1に加えコマンド【セレクト】【クイック】【ポイント】【マキシマイズ】によりコストが500倍されます。使用Pは25,000,000pです。

【残P:293,701,172→268,701,172】です》


 ハルアキが吠えたと同時、現れたそれは廊下を埋め尽す。


 血に(まみ)れ、戦場と化していた其処に生えてきたのは口径が一メートルはある巨大な大砲。

 それは黒くメタリックな光沢を見せて、誰もが禍々しいと思われる装飾が施されている。

 床から植物のように直接生えている筒の先には、丁度人間の大人サイズの顎の無い髑髏が同じように光を反射しており、砲台の付け根の箇所にも髑髏があるが、それは確実に人間の物ではなかった。二回り、いや三回りも人のものより大きく、額の端と端には円錐形の角が生えていて、まさに鬼のよう。

 そして、瞬く間に展開されたその巨大な髑髏の闇より深い眼球が紅く光ったと思うと同時。


 大地すら震えさせる程の轟音を発てて、一発の弾丸が発射された。


「な―――――」


 アズスルーの意識が逸れたのは一秒にも満たない時間、だから出来た隙は数瞬で。

 ――しかしその刹那の時の間隙を抜けて飛来して来る弾丸に抗う術はなく、彼は理解出来ないまま、向かい来る暴力をその身に受ける事となる。


 ――――――衝撃。






「―――ルーっ! ――――ズスルー!!」


 掠れた意識の中、声が聞こえた。

 目を開けば、眉を吊り上げて己を揺する一人の女性が右目だけに写る。

 指や足等の感覚は薄くだが、思考の片隅に存在しており、口もまだ、声が出ると確信出来る。


「……ゎ……………わた、し…………は……?」

「アズスルー!!」


 女性が彼の声を聞き、所々が赤く染まった視界でも分かる程青ざめていた顔に、生気が戻る。


 しかし、それは彼の求める返事とは違う。

 彼が口に出した声は疑問。

 己の獲物は、何処に消えたのだ。己は、剣を抜いた筈ではなかったのか。

 何かが起きた直前の記憶は、衝撃により吹き飛んでいたのだ。

 彼は、知りたい。

 一体、何が起こって、どうしてこうなっているのか、それだけを知りたいだけだ。

 右目だけの視界に入る、自分を知っていそうな女などどうでもいい。

 後ろで手を宙で遊ばせている男など、どうでもいい。

 ただ何が起きたのかを、知りたいだけで。

 知りたい。知りたい。何が起こったかを、自分は知りたい!


「凄い音がしたから来て見れば、アズスルー!! 貴方はあんな子供にすら負けたというのっ?!」


 目の前にいる彼女は激昂して彼を罵る。

 だが罵られている顔には、そんな事よりも引っ掛かった言葉があった。

 ――――子供?

 そうだ、子供だ。

 己は子供に剣を向けていたのに、一体、何故。

 全身に傷を負っているのに、脳が疼く様な痛みだけがやけに響く。


「ちょっと!! 聞いているのですかアズスルー!!?」

「………ぁあ?」


 思い出そうとすると、肩を揺すられ騒がれる。

 ――耳障りだ。

 だから彼は背中に生えた腕を無意識的に動かそうとして。


 そして、見た。


「…………けれど、まあ生きていれば罰を――――」


 音も無く、いや音を追い越して。

 最後に彼が見たのは、目の前にいた女性を吹き飛ばし、既に鼻先まで近付いたそれ。

 遅くなった時間の中、彼は己の鼻が潰れる感覚と共に、己の歩んだ人生の走馬灯を拝む。


 アズスルーがいる廊下の奥から、二度目の轟音が、遅れて響いた。






《『“人間”スコア:804p』が加算されます。

【残P:243701187→243701991】です》

《『“人間”スコア:5163p』が加算されます。

【残P:243701991→243707154】です》

《『“魔道剣士”スコア:14889452p』が加算されます。

【残P:243707154→258596606】です》


 ポーン。ポーン。ポーン。

 感情の無い声で読み上げられる死亡通知。

 ハルアキは恐らくは彼は倒せたのだろうと思い、そして同時に安堵した事に何とも言い難い感覚になる。

 罪悪感の様な、虚脱感の様な。

 ――当たり前だ。人を自らの手で殺し、しかもそれで得た生に、喜びの感情が芽生えるのだから。既にハルアキは日本人で生きた道徳は、もう、ない。それを再び実感して、ああ、と呟きを洩らす。


(寧ろ、何も思わない方がもっと異常か……)


 そんな余り益体の無い考えをしながら、そういえば、と腕の中に入れた存在に目を向ける。

 蒼色の瞳が、そこにはあった。


「………………」

「………………」


 目が合い、沈黙。

 じ、とハルアキを見つめ、視界に捕えて放さない。どことなくハルアキの服を掴んでいる手が、きゅ、と強くなった様な気がした。

 さてどうしようかと考えて、まああの時と同じ様にすればいいかと自己完結し、よいしょと首に回した腕をそのままに立つ。

 腕の中の存在は意外と軽く、楽に立つ事が出来て、少々驚いたのはご愛敬だ。


「っと、立てる?」

「あ、はい」


 とと、と軽くよろめき、それでも片手は放さない。

 まあしょうがないか、と思いつつ、ハルアキは腕を解いて話を続ける。

 「ぁ」と妙に残念そうな吐息があちらから漏れるのが聞こえたが、そこをハルアキは敢えて聞かなかった事にした。

 お互いの顔が鼻が触れ合いそうな程近かったのだ、常識的に考えて離れるべきだろうし、流石に幾等可愛くても、小さい子に性的に興奮するとか、ハルアキにはそういう趣味はないのであるからして。


 けどまあ、とハルアキはその狼の耳が生えている頭に手を起き、カチューシャを外さない様に撫でる。

 さらさらの髪の感触。


「とりあえず、お疲れ様」

「…………あ、はい」


 顔を少し伏せて、上目使いで此方を見上げる蒼い双眸。それを見てハルアキが、かわいいなぁ、と庇護欲に駈られそうになるのも束の間。


「グルルルルル…………」

「グルルル…………」

「っ!?」


 ハルアキ達の周りに、二匹の獣。

 口から涎を垂らし、ぐるぐると二人を中心に円を画いていた。

 撫でられていたジゼルが思わず息を飲み、すぐに短刀を構える。手は片手は後ろに広げ、言うなればハルアキを守る様に。

 ――来るなら、来い。

 ぴり、とジゼルを中心に殺気が放たれ、場の空気が張り詰めるが、三度、彼にとって話は予想外の方向へと転がった。


「――――大丈夫」


 ハルアキがジゼルの肩を掴み、言う。


「彼等は、味方だ」

「――――――え?」


 どういう事か、それをジゼルが聞こうとし口を開く。

 が、その前に。


「その話、私にも聞かせてくれるわよね」


 舞台側の廊下からの問掛けが、ハルアキ達に向けられる。

 視線を向ければ、二人の少女。

 髪は金髪、目の瞳は瑠璃と緋。

 裸足の脚に、白いドレスと、黒のワンピース。

 髪は水で濡れており、両名共に服を慌てて着たのか、あちらこちらが寄れていたり、肌などが見え隠れしている。

 蝙蝠の羽の骨を無くした様な黒い翼を背中に生やす、身長が小さい――恐らくは妹だと思われる子は腕を胸の前に組み、此方を油断無く見つめ、もう一人――耳が常人よりも多少長い姉の方は、自身のすぐ横に立つ妹に縋り付く様に凭れ掛かっている。

 その姉の姿を見て、ハルアキは何処か心を、かりかり、と掻き毟られた。


「…………君達は?」


 ハルアキは、この二人に見覚えがある。

 それは、つい先程見た顔で。


 ハルアキの問いに、小さい方の少女は抑揚無く答える。


「私はエルティオネ・バーニ・ファムファタル、此方が姉のフィオーナ・バーニ・ファムファタル。もしくは――――」


 彼女は少々皮肉を込めた笑みに乗せて、ハルアキにも分かる自己紹介をした。


「――――“四番”と“五番”。そう言った方が分かりやすいかしらね?」


 にやりと笑ったエルティオネ。そして、その横から覗かせたフィオーナの綺麗な緋色の瞳を見て、先程の正体をハルアキは知る。


 ハルアキは見た。

 たった今、四番と名乗ったこの少女。その彼女に寄り掛っている姉、フィオーナ・バーニ・ファムファタルの表情を。

 諦観の意思など容易く塗り潰し、復讐の焔に駆られた、その瞳を。












 これから『序章』の後半に入ります。

 あと一、二話ぐらいの後、やっとこさ経営という名の閑話が入れそうです。

 冗長だと思われた方ごめんなさい。もうちょっと続きます。


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